鍛錬をする上で、ある程度必要になってくるのがスペースである。幼い頃は御神本家で、

父親と共に全国を流れていた頃は、広大な自然の中で。父親が再婚し、海鳴に落ち着いてか

らは周囲の山々と自宅の道場で……



 自分の人生を振り返ってみるに、鍛錬をするための環境には事の他恵まれていたと思う。

父親は人間としてどうかと思う所が多々あったが、彼に人生の早いうちから戦闘技術及び生

存術の指導を受けることが出来たことが、今の強さを作り出すことに大いに役立っていた。



 その強さを維持する上で、鍛錬というものは欠かせない。シグナム達に拘束される上で心

配だったのが、鍛錬をするためのスペース、及び時間が確保できるかということだった。何

と言っても捕虜なのである。狭い部屋に手足を拘束された上で軟禁されるような事態まで想

定していたが、彼らの主であるはやてはよほど自由な気質を持っていたらしく、身分の曖昧

な自分にシグナムと相部屋ではあるが部屋まで与えて、衣食住を提供してくれた。



 流石に庭に道場までは存在しなかったが、八神家の庭は世間一般の家庭に比べて十分に広

く、実家の高町家と比べても遜色はなかった。簡単な型をする上では、何の問題もない。



 とは言え、今の恭也・テスタロッサはシグナム達にとっては捕虜であり、はやて的には八

神家の居候である。捕虜であっても居候である以上何もしない訳にはいかず、分担して家事

を行っているシグナム達の手伝いをしたり、はやてやヴィータの相手をすることが恭也の主

な仕事であり、鍛錬はその余った自由時間で行っていた。



 しかし、実家にいた頃は毎日行っていた夜間の戦闘訓練は、行えていなかった。はやて達

から離れることは命に関わるというのもあるが、この街にはこの世界で最も会いたくない男

が住んでいる。彼と顔を合わせるくらいなら、腕が少々鈍ることも致し方ないことだった。



 よって、主な鍛錬の場所は部屋での筋力トレーニングか、庭での軽い運動のみとなる。ど

ちらの場合も誰かしら手の空いている者が観客となっており、主な観客は、はやてとシグナ

ムだった。



 自分の知らない戦闘技術ということでヴィータもそれなりに興味は抱いているようだった

が、生来の天邪鬼精神を発揮して、一度も見に来てはいなかった。一人にしておくのも可哀

想だと、そういう時はヴィータにはザフィーラが付き、シャマルは家に居る時は自分の用事

をしていることが多く、今まで二度しか鍛錬を見学に来ていない。



 身体が本調子でない時から徐々に慣らしてゆき、今では自分のイメージとの誤差もなく動

けるにまで回復した。型は主に御神流の物を行っていたが、興が乗った時には、記憶の中に

ある猛者の動きを戯れに真似てみることもあった。



 はやてとシグナムがいつものように観客をしている中、思い起こしたのは『彼女』の姿だ

った。真似てみた型は『彼女』ほど素早くはなく、動く芸術とさえ思えた『彼女』のものと

比べると泣きたくなるくらいに雲泥の差があったが、どうにか、一応、甘い採点をつけると

したら、辛うじて形にはなっていると思う。実戦では、まぁ、使えるレベルだろう。



 こういった体術の腕をもっと磨いていたら、地上本部でクイントと対決した時も、もっと

違った結果になっていた、と思うと悔しさで胸が一杯になる。



 何事も、出来ないよりは出来た方がいいに決まっている。自分の得意な得物が使えない状

況、様々な要因で限定的な戦闘を強いられる状況は、色々な場面で発生する(何しろ、今が

その時だ)今までは一応やる程度であった徒手での鍛錬も、クイントに負かされてからは力

を入れてやるようにしていた。



 欲を言えば、相手が欲しいところではある。



 地上本部にいた頃はクイントに稽古を頼めばよかったが、引き上げてからは格闘技術に関

して彼女ほどの腕を持っている者がおらず、アルフが暇な時には付き合ってもらう、という

程度だった。



 強いて挙げるのならクロノが若干マシな腕前をしていたが、彼は仕事が忙しいということ

を理由にして、あまり付き合ってはくれない。一度、不意を打って叩きのめし、気絶する寸

前まで関節技を極めたことが、腹に据えかねているらしい。心の狭い男だと思う。



 ヴォルケンリッターにおいて、目立った格闘技術を持っているのはザフィーラであるが、

この世界の実情を考えると、人目に付くようなところで人の姿を取ることができないため鍛

錬の相手は出来ない。シグナムも一応体術を修めてはいるようだが、一応の範疇を出ないと

のこと。ヴィータも体術に関してはシグナム同じレベルと聞いている。シャマルに至っては、

機敏に動いている様子が想像できない。



 要するに、一人でどうにかするしかないのだった。



 継続は力なり。どんな分野でも、基本を疎かにする者は大成しない。まだ初めて数日間と

は言え、鍛錬は自分でも嫌になるくらい丁寧にやっている。色々と見えてきた物もある。ナ

メクジのような遅々とした歩みでもレベルは上がっているのだろうが、それを確認できるよ

うな手段がない。



 見本となるべき師匠は、記憶の中にしかいない。彼らは皆徒手格闘に関しては達人の域に

達している者達ばかりであるので、今の自分とは比べることすらおこがましい。手の届かな

い領域にいるような連中であるのだから、それと比べることに意味などないはずだが、どん

な事情があれ、自分のしていることで敵わないと認めることは悔しかった。



「見事なものだな……」



 だが、記憶の中の『彼女』を知らないシグナムが、こちらの苦悩を知るはずもない。思っ

た通りの、今はあまり言って欲しくない賞賛の言葉を口にし、はやてと共に惜しみのない拍

手を贈ってくれるシグナムに、とりあえずの苦笑を返す。



 無論のこと褒められて悪い気はしないが、賞賛の言葉を聞く度に『彼女』の芸術的な演舞

を思い出してしまう。。達人の型はそれだけで一つの完成された芸術作品だ。見た者にしか

その素晴らしさは理解できない。



 恭也の記憶の中には、確かにそれが刻み込まれていたが、意思を伝える手段を持たない恭

也には、シグナム達にそれを伝える手段がないのだ。それらの素晴らしさを伝えられないこ

とをもどかしく思いながら、はやての差し出したタオルを受け取る。



「剣に格闘、ついでに魔法のようなものも使うことができる。お前は地味に多彩だな。もし

や、他にも隠し芸があるのか?」

「剣以外は猿真似ばかりだ。管理局の中にも、これくらいならば出来る人間が大勢いる。格

闘など、暫く前に地上本部でとある女性に叩きのめされたばかりだ」

「管理局でか?」



 よほど意外だったのか、シグナムの目が見開かれる。



「ミッドチルダ式のデバイスが主流の管理局では、体術を修める者は稀だろう。奴らにとっ

て拳で戦う状況というのは、本当にそうせざるを得ない時であろうからな」

「ベルカでは多かったのか、拳で戦う魔導師は」

「いや、決して多くはなかった。少数派と言ってもいいだろう。デバイスであるのなら、そ

れが拳に纏う物を得物とするより、武器を持った方が強いというのは道理だろう?」

「なんで?」



 戦とは縁のない世界で生きてたはやてが、現代人として当然の疑問を口にする。自分の得

意分野に関して主に教えらえることが嬉しいのか、いつも以上にハキハキと、シグナムは答

える。



「使う技術が同じなら、大きいデバイスを使った方が性能向上のためのスペースに多くを割

けるため、優れた結果を期待することが出来るのですよ。私のレヴァンティンをはじめ、多

くのデバイスは変形機工を持っているため、『本来の大きさ』を論議することは無意味なこ

とではありますが、拳で戦うとなればその大きさは必然的に限定されます。ある程度

の大きさを確保できる『武器』の方が、戦場で戦う騎士にも、またデバイスを作る技師にも

好まれたのです」

「そっかー。せやったら恭也さんは何で、故郷でマイナーな拳法? をしっとるん? 恭也

さんも武器を使うんですよね」



 格闘技術が故郷でマイナーだった記憶はないが、はやてにはシグナムと同郷であると言っ

たことを、恭也は思い出していた。理解の齟齬には苦労しそうだと、故郷のことを思い出し

ながら、ゆっくりと、噛み砕いて説明する。



「昔、俺の家に居候してた奴がおりましてね。そいつが正しく拳法を修めていたので、それ

の真似事をしているだけですよ。ちなみに、俺自身は拳法を学んだことはありません」

「真似事で、そんなかっこいい動きができるん?」

「格好いいと言っていただけると嬉しいものですが、俺程度で満足していたら、奴の動きを

見た時には卒倒しますよ、はやて」

「……その人、どんな人だったんです?」



 『彼女』の姿を脳裏に思い浮かべ、その容姿がはやてに良く似ていることに今更ながらに

気づいた。『彼女』とはもう会うこともないだろうが、こんな風に故郷を思い出すこともあ

るのか、と思わず苦笑を浮かべる。



「恭也さん?」



 一人黄昏れていると、はやてが先を促してきた。はやてを無視したような形になったため、

大層不機嫌そうなシグナムに手を振り、自分の記憶を掘り起こす。



「ああ、申し訳ない。奴の話ですね? 俺は物心ついた時から、武術に関わっています。達

人と呼べる者、武術家として尊敬できる者は数多く見てきましたが、同年代以下で真に天才

と呼べる人間を、俺は一人しか知りません」

「それが……その人?」

「ええ。才では俺の遥か先を行っていたことでしょう。心臓に病を患っていましたが、それ

が完治してからは、それまでの遅れを取り戻すかのように鍛錬に打ち込みましてね。俺より

も6つ下の女性なのですが、俺が故郷を立つ前には俺など足元にも及ばぬ程になっていまし

た」



 言ってから、今の身体が16歳であることを思い出した。この状態で6つも年下なら今の

段階でも10歳……はやてと同じ年齢であるが、周囲にヴィータがいるせいなのか、はやて

はそこには疑問を抱かなかった。



 シグナムは恭也の年齢などを正しく理解していたが、戦闘技能者の低年齢化の進んでいる

世界の出身らしく、やはり疑問を持っていないようだった。



 恭也の感性では、年端も行かない子供が戦場に立つなど言語道断なのだが、それがその世

界の流儀であるというのなら、表面上は従わない訳にはいかない。この世界において、自分

は異邦人なのだという負い目がまだあった。フェイトやアルフは違うと言ってくれるのだろ

うが、こればかりはまだ慣れることができない。



「お前ほどの男が、そこまで言うのか……」

「実戦で負けるつもりはないが、ルールを決めた試合では万に一つも勝つ見込みはないだろ

うな。貪欲に技を吸収し、それを驚くほどの短時間で自分の物にする。天才というのは、彼

女のためにあるような言葉だと思ったほどだよ」



 無論、『彼女』は必死に努力していた。武術家としての不遇が、彼女に才能と呼べる物を

与えたのかもしれない。天才という一言で片付けるのは、『彼女』の努力までを否定するよ

うで好きではなかったが、武術という分野で天才を実感したのが『彼女』だけというのは事

実なのだから仕方がない。



 自分にもあれだけの才能があれば、と何度思ったか知れない。おししょー、と無邪気に自

分を呼んでくれた『彼女』は、その師匠がそんなことを考えていたことに気づいていただろ

うか……故郷を捨てた今となっては、確かめる術もない。



「いつか、会いたいものだな。その天才に」

「機会があればな」



 ないとは思うが、とは言わなかった。故郷を捨てた自分に、もう一度、などと考えること

が許されるはずもない。



 その思いが顔に出ていたのだろう、心配そうに自分を覗き込むはやてに愛想笑いを浮かべ、

頭に手を乗せた。子供にしては、はやては感情の動きに聡い。何かを誤魔化したと気づいた

ようだったが、これ以上踏み込んで欲しくないという空気も同時に感じとったのだろう。何

か言いたそうではあったが、今はその時ではないと、恭也の手を黙って受け入れていた。



「……すまない、暗い話になってしまったな。俺はこれからシャワーを借りて、はやてと一

緒にいることにするが、シグナム、お前はどうする?」

「少し出てくる。ヴィータやシャマルも一緒だ。我々がいないと言って、主はやてを危険に

晒すようなことはないようにな。しっかりとお守りするのだぞ、恭也」

「恭也さんはお客さんや。八神家のおかーさんとして、私がお守りするから、シグナム達も

安心してお出かけしてきてなー」

「勿体無いお言葉。恭也も従者として喜んでいると思います、主はやて」



 従者になった覚えは少しもない。言い返そうかとも思ったが、どこかで話を聞いていたら

しく、自分の脇腹を抉ったヴィータの鉄球が、いつの間にかはやての死角に浮いていた。攻

撃態勢にあることは手に見て取れる。



 ムカつくことを言いやがったら粉砕してやる――口の端を挙げて怪しく笑うヴィータの顔

が見えるようだった。治ったばかりでまた怪我をするのは事だ。



「今日はどこに出かけるつもりだ?」

「ザフィーラがトカゲを探すのだそうだ。私には理解できない世界だが、何でも我々の世界

に存在する種とは、大分異なる種を見つけたそうでな」



 ザフィーラとトカゲが結びつかなかった恭也は反射的に疑問の唸りを上げる。



 自分は守護獣で、狼なのだとはザフィーラ本人から何度も説明を受けた。自分の立場、出

自には、彼なりの拘りがあることは見て取れる。



 狼であることを否定していない以上、動物の本能に根ざした狩りをしていて、その獲物が

トカゲであっても不思議はないだろう。恭也だって、動物の生態には詳しくない。狼がトカ

ゲを追うという話は聞いたことがないが、自分の故郷とシグナム達の世界が、同じ生物体系

をしているとも思えない。



 ザフィーラが真にトカゲを追うというのも、考えれば考えるほどアリなのではと思えてく

るが、唸り声が聞こえたのか、シグナムが人を小馬鹿にするかのような視線を浮かべた。



 全くの嘘ではないが、額面通りの意味ではないらしい。トカゲというのが何かの隠語で、

今回はそれと戦いに行くという意味なのだとようやく理解した。



 捕虜である自分にそれを伝える必要はないはずだが、シグナムなりの礼儀のつもりなのだ

ろう。自分をそれなりに遇してくれるのは、何ともありがたい。



 しかし、心の清いはやてはそれを額面通りに受け取ったらしい。目を丸くして車椅子から

身を乗り出し、シグナムに詰め寄った。



「ザフィーラ、トカゲ食べたりするん?」

「奴は我々の中で、最も好き嫌いのない男です。食っているのを見たことがありますが……

ご不快ならばやめさせますが、いかが致しますか?」

「食材に罪はないよ。トカゲいうんも美味しいかもしれんし、今度食べて見ようと思うんよ。

せやからザフィーラに、どのトカゲが美味しいかちゃんと聞いといてな?」

「心得ました。主はやて」



 シグナムは恭也にちら、と目配せをした。後は頼んだというその視線に大きく頷き返すと、

家の中にいたザフィーラを伴って出て行った。ヴィータとシャマルは、それぞれ私用で既に

出ている。別行動をしている……とはやてに印象付けたいのだろうが、出先で合流している

ということはシグナムから聞いていた。

 

 管理局とバッティングすることもあるという。恭也としては、あまり事を荒立ててほしく

はないのだが、シグナム達にも譲れない事情があることは理解している。任務として動いて

いるリンディ達も、手を抜くことはないだろう。



 手を取り合うことが出来れば、と思う。だが、シグナム達がどういう理由で何をしている

のかすら知らされていない恭也には、双方にどういった提案も出来ない。加えて、かなりの

自由を保障されているとは言え、捕虜として敵中にある身ではさらにどうしようもない。



「恭也さん、今日は何か食べたいものある?」



 そんな管理局とシグナム達の事情を知らないはやては、今日も微笑みながら問うてくる。



「近頃冷えてきたからな……鍋などどうだろうか。強いてあげるなら、魚がいいな」

「じゃあ、中身は買い物行って考えましょか。恭也さん、お買い物付き合ってくれる?」

「はやての頼みとあれば、喜んで」



 こんなことをしていてもいいのか。疑問は尽きず、事実、命を盾に取られているとしても、

今の自分は管理局員として失格だろうとは思う。事件の解決に向けて努力をすべきだ。今の

状態で何もできなくても、何か出来るように努力するのがあるべき姿だ。



 今のところ死人は出ていないが、これから出ないとも限らない。その最初の犠牲者はフェ

イトかもしれないし、シグナム達の誰かかもしれない。



 そうなれば、何も出来なかった自分を許すことは出来ないだろう。何かをするべきなのだ、

それは解っている。だが――



 生来のお母さん気質であるのか、たかが買い物にしてはえらく楽しそうなはやてを見やり、

ため息をつく。



 シグナム達だって、馬鹿ではない。はやてを助けるために一番効率のいい方法が管理局の

手を借りることであれば、個人的感情がどうであれ、それを実行するだけの頭の柔らかさは

あるはずだ。



 それが出来ないということは、自分の知らない管理局とは手を取ることの出来ない理由が

あるはずだが、それが恭也には分からない。



 頭の固い人間は、管理局にもいる。一度犯罪を犯したシグナム達を快く思わない人間もい

るだろうが、リンディなら、リスティなら、シグナム達を助けようとしてくれるだろう。



 多くの人間で考えれば、それだけ問題を解決する方法も生まれるはずだ。組織の力は強大

である。故郷の世界において、恭也はそれをいい意味でも悪い意味でも、嫌というほど思い

知っていた。



 今となっては、シグナム達も恭也にとって大切な存在となっていた。彼女らがはやてを守

るために戦っているのなら、協力はしたい。



「恭也さん、はよ行こう? 時間をかけて最高の食材を選んで、今日は美味しいご飯を食べ

るんや」



 だから、出来ることからやっていこう。ゆっくりでもいい。話をして、問題を解決してい

けばいい。



 一人だけで問題を抱え込まれて、勝手に納得して、勝手に消えられるのは……もう、嫌だ。







 



















 ミッドチルダでは、優秀な人間は年齢に関わらず、ほぼ確実に飛び級をさせられ社会に組

み込まれる。諸々の弊害もあるにはあるが、優秀な人材は何時だって、何処でだって必要と

されていおり、それらは優秀な人間の生み出す多大な成果によって黙殺されるのが常だった。



 その分、人生の早い段階で色々な権利を行使できるというメリットもある。年齢や性別に

関係なく出世を望めることから、一部の保守的な次元世界を除いた管理世界のほぼ全てで採

用されていた。



 リンディ・ハラオウンも、そういった教育システムの恩恵を受けたうちの一人だった。幼

い頃に高い魔導師の適正を見せたおかげで、両親の薦めで入学した管理局の士官学校を優秀

な成績で卒業、その後、管理局に入局。



 クライド・ハラオウンとの結婚、息子クロノの出産、クライドの任務中の死亡に、息子の

管理局入り……現在に至るまでに起こった出来事を挙げたらキリがないが、順風満帆と手放

しには言えないまでも、リンディの歩んできた道程はエリート街道と言っても差し支えない

と言えた。



 その分、社会の荒波には嫌になる程揉まれた。下種な上司や同僚など現在でも吐いて捨て

るほどいるし、それらと書類の上で、または直接顔を会わせてやり合うことも日常茶飯事で

ある。



 これを楽しめるような野心家であれば、人生もっと楽しかったのだろうが、リンディは残

念なことにそこまでの精神的バイタリティは持っていなかった。



 愉快でないことほど、自分に最大のダメージを与えるように降りかかってくるもので、日

常的に遭遇しているそれら不愉快な事柄は、今回の案件をアースラが担当することになって

から、湯水の如く沸いて出てきていた。



 不愉快極まりないことではあるが、しょうがないことであるとも言える。



 実害がまだそれほど出ていないこともあり、上層部は今回の案件の危険度を、それ程とは

考えていないのだ。アースラが初陣を飾る羽目になったのは、たまたま近くにいたからであ

り、急を要する案件でない場合は、合議の末に誰が、どのように対応するかを決めるのが慣

例だ。



 それを、自分達が強引にねじ込んで、単独で対応することを決めた。案件の解決とは、即

ち手柄を立てることであり、それが大きな事件である程、功績は大きい。高位のロストロギ

アが関わっているというのなら尚更で、実際、他の部署、他の艦にもこの案件の解決に意欲

を見せていた。



 それを、一つの派閥が、単独でやると勝手に決めてしまったのだ。反発も受けようという

ものである。自分が彼らの立場だったら、無論、程度の差はあっても同じ感情を抱いたこと

だろう。



 強引で、手前勝手なやり方であったのは、自分達でも理解しているが、この案件だけは他

の連中に任せる訳にはいかない。それは派閥の幹部、全員の共通見解だった。



 そういった意気込みで勢い勇んで出てきたものの、現在の状況は芳しくはなかった。



 現時点まで、敵対勢力を撃退するどころか彼らについて何も解っていないのに等しく、ま

た、他の部署から借り受けた恭也・テスタロッサは拉致誘拐され、民間協力者である高町な

のはは、リンカーコアにダメージを負うという、下手を打てば魔導師生命を断たれかねない

状況に見舞われた。



 他にも、管理外世界での大規模魔法の使用に加え、先日は闇の書の使用を許してしまった。

被害が出なかったからいいようなものの、これで第97管理外世界に悪い影響が出ていたら、

更迭くらいは覚悟しておかなければならなかっただろう。



 不幸な偶然が重なった、と言えばそれまでだ。敵が何をしてくるかなど、どんな優秀な局

員だって、完璧に理解できるはずがない。誰にも、何処にも被害を与えることなく事態を収

拾できればそれで十全だが、それが不可能であることは誰もが理解している。



 なのに、周囲は、他人は完璧を求める。特に今回、アースラは出る杭だ。それがどんな要

因であれ失敗を重ねているのだから、叩かれるのも当たり前の話だ。事実、上手く立ち回る

ことが出来ていたら、恭也の拉致誘拐くらいは防ぐことが出来ただろう。落ち度がない訳で

はないのだから、不当だと突っぱねることも出来ない。

 

(ままならないわねぇ……ほんと)



 深々とため息をつき、全ての書類の電子署名を行い、関係各位に送信する。



 時計を確認して、もう一度、今度はゆっくりと深呼吸をした。昼も夜もない激務には慣

れているつもりだったが、34時間睡眠なしでの仕事は流石に身体に堪えたらしい。



(私も年かしらね……)



 魔法に触れてから、もう二十年以上の時間が流れた。それだけ多くの物を得て、それなり

の物を失った。認めたくはないが、そこには多少の若さも含まれていたのだろう。



 クライドと出会った頃の自分だったら、なのはやフェイト達と一緒に心を熱くさせること

が出来たはずだ。彼女らの瞳は真っ直ぐに、世界を捉えている。愛や友情や、そういった世

界で最も美しい物に全てをかけて、彼女達は生きることができる。



 もちろん、それら全てがリンディの中から消えた訳ではない。そういう綺麗な物を全て失

ってしまえば、自分の持つ力に振り回され、惨めな最後を迎えることになる。権力に、ある

いは財力にとり憑かれて我を失い自滅する人間は、法の番人たる時空管理局の中でも枚挙に

暇がない。



 どんな聖人君子にだって、最低の人間になる可能性はある。リンディ・ハラオウンとて、

例外ではない。そのための理想、そのための情熱……挫けそうになったことも一度や二度じ

ゃない。こんな仕事は辞めてやろうと、何度思ったことだろう。



 それでも、リンディは今、ここにいた。多くの部下を抱える、一人の管理局員として。



 志半ばで散った、心の底から愛していた夫に恥ずかしくないように振舞おうと、彼の墓前

で誓ったのだ。勝手に挫けている暇などない。自分にはまだ、やらなければならないことが

ある。



 自分と夫の息子であるクロノは、師匠である猫姉妹に才能がないと断じられながらも、そ

れこそ血の滲むような努力の果てに執務官となり、次元世界のために戦っていた。そんな息

子の前で格好悪い真似は母親として出来ない。リンディ・ハラオウンは、息子と、アースラ

のクルーと、協力してくれる仲間達のために、戦わなければならないのだ。



 両の頬を強めに叩き、気合を入れる。疲れを取るための特性ブレンドのお茶でも入れよう

かと思い、作業机から立ち上がったところで、プライベート用の回線に見覚えのある番号が

表示された。2コールも立たないうちに回線を開く。



 空間ディスプレイに現れたのは、無二の親友の姿だった。



「なぁに、レティ。いいお知らせかしら?」

「可もなく不可もなく、といったところかしら。まずは朗報。グレアム提督が尽力してくれ

たおかげで、アースラが今回の任務から外されることはなさそうよ」

「またあの人に頭があがらなくなるわね……今度お菓子でも持って挨拶にいかないと」

「持って行くお菓子は自分で選んじゃだめよ? 貴女の味覚は特殊なんだから、ちゃんとク

ロノ君にでも選らんでもらうこと。グレアム提督も若くないんだから、貴女の趣味に付き合

わせたら、ショック死してしまうわ」

「ショック死は酷いんじゃない?」

「貴女の気を引こうとした下士官を医務室送りにしたことを、私は忘れもしないわ……」

「あれは、彼が特別に甘い物が苦手だっただけよ」



 幸い、倒れた下士官の命に別状はなかった。クライドがなくなってまもなくのことであっ

たし、それ以降は有象無象が寄り付くことはなくなったから、結果だけを見ればいい事であ

るはずなのだが、まさか自分の趣味が他人に害を与えるとは欠片も思っていなかったことも

あり、それ以来は無理に他人に薦めることもなく、どうしても薦める時は、自分で食べる物

の十分の一くらいの甘さにしている。



「とにかく、あまりグレアム提督にばかり苦労をかけては駄目よ?」

「努力はしてるのだけどね……」



 あまり実を結んではいないのだけれども。グレアム派の中でリンディは最高幹部の一人で

ある。そのリンディ自身に対処できない問題となれば、同じレベルの幹部で徒党を組むか、

そうでなければ派閥の盟主であるグレアム本人に頼らざるを得ない。



 幹部全員でも対処できないような問題などそう起こるものでもないが、それが起こってし

まった時というのは、グレアムに借りを作らざるをえなくなる。リンディを始め、幹部全員

無能ではないつもりであったが、いざという時の立ち回りは、まだまだグレアムに及ばない。



 しかも今回は、グレアム派にとって――それも、ハラオウン一家とグレアムにとって因縁

深い闇の書が関わった案件である。11年前の事件は、管理局上層部では有名な話。ロスト

ロギアを見失った上に戦艦一隻を犠牲にしたなど、出世街道を歩む人間にとっては汚点もい

い所だ。



 クライド・ハラオウンの犠牲が美談となっているため、過度の追求は避けられているが、

彼の行動がなければ現在、グレアムは管理局にはいなかったことだろう。



 闇の書事件は、グレアム派にとっては最大のウィークポイントなのである。他の派閥の介

入を許した上で解決すれば、その派閥に多大な借りを作ることになる。



 野心を持たない管理局員は少ない。アースラ単独でこれらの任務に当たることになったの

は、リンディやグレアムの個人的な思惑もあるが、そういった政治的な判断も絡んでいるの

だった。



 故に、それ程時間をかけることはできない。出来る限り早急に、一応の解決をする必要が

ある。



「稼動し始めた無限書庫も、機能はしているようよ。流石はスクライア一族……ただの物置

だった場所から情報を引き出してくるんだもの。耳の早い情報部が期待してるわよ? 自分

達の仕事が減るんじゃないかって」

「彼らには恩を売ったということになるのかしら。この事件が終わっても、彼らとはいい関

係を築けそうね」

「グレアム派閥からも、司書を派遣することが決まっているわ。提督は正式な稼動を視野に

入れて、件のスクライアの少年を暫定的な無限書庫の責任者にするつもりよ。特共研からも

人員の派遣が決まっているわ」

「今の今まで、無限書庫の司書と言えば、窓際もいいところだったのにねぇ……」

「スクライアの少年がいなかったら、私達だって有用性には気付かなかったわ。他の派閥は

まだ何も解っていない。確度の高い情報を握れるのなら、先行投資を惜しむべきではないわ」

「今はそれが皮算用にならないことを祈るしかないわね……」

「後は、細々としたことが色々と起こっているけど、差し当たって貴女に知らせなければな

らないことはないわ。私達幹部一同、貴女の奮戦を期待しているわ」

「迷惑をかけるわね、レティ。この事件が片付いたら一緒に食事でもどう? 久し振りに二

人で飲んでみたいわ」

「それなら、貴女のところに特共研から派遣されてる彼がいるでしょう? 彼も連れてきて

もらえるかしら。どんな男性なのか非常に興味があるわ」

「レティ……」



 真顔で臆面もなく言う旧友に、思わず苦笑を浮かべる。入局した時からの付き合いで、同

じようなエリートコースを歩んできたレティであるが、シングルマザーという、似なくても

いい所まで似てしまった。



 リンディの場合は死別であるが、レティの場合は性格の不一致による離婚……と、本人は

言っていたが、事実は当然、本人達しか知らない。



 元夫の男性とは当然リンディも面識がある。何しろ、結婚披露宴で友人代表でスピーチを

し、歌まで歌ったのだから。旦那様は客観的に見て優秀な男性ではあったが、エリート局員

であったレティに比べると見劣りするのは否めず、方々に聞いた限りではどうやらそれが離

婚の決定的な要素になったようだった。



 レティと別れてからはその男性とは会っていないが、風の噂には管理局を離れ、民間の企

業に再就職したとのこと。しかもめでたく再婚し、今では二児の父親となっていると聞く。

紆余曲折はあったが、幸せにはなってくれたのだろう。自分がスピーチまでしたカップルが

転落人生を歩むというのは、いかにリンディでも心苦しい。



 さて、離縁した夫は幸せを掴んだ訳だが、当のレティはというものの、気侭なの生活を楽

しんでいるようで、再婚する気はないようだった。彼女の息子のグリフィスも、別にそんな

母親を諌める気はないらしく、『母さんの好きなように生きてくれればいいよ』と、まだ十

歳にもなっていないのに、何かを悟りきったような表情をしていた。父親に似たのだろう。

レティには似ず、実に控えめな少年だった。



 そんないたいけな子供にそこまで言わせるのはどうなのか。友人として、一人の母として

言わずにはいられなかったが、ふらふらしつつも決して男におぼれず、多少爛れてはいるが

あくまで節度のある付き合いをしているのだから、当事者達が納得して付き合っている以上、

踏み込んだ物言いも出来ない。



 その興味の対象が恭也・テスタロッサという。クロノと同じくらいの年齢の少年に向いた

としても……二周り近い年齢差のある、手を出すのは個人的にどうかと思うような少年に向

いたとしても、まぁ、しょうがないことではある。



 しかし、今の恭也はリンディの部下でもある。出世を望んではいないようだが、未来ある

少年の人生の大事な時期を、自分の友人との関係でスキャンダルにしていまうのは、如何に

も心苦しい。



「恭也君でなくてもいいんじゃない? 貴女ならお買い得な男性くらい、他にも見つけられ

るでしょう?」

「一番の注目株が彼よ。出世に興味がないってスタンスが珍しいし、何より見た目がいいと

いう一点だけでも、近づいてみる価値はあるわ。会って良く話してみてそれで駄目だったら

次に行けばいいのだもの。良く知りもしないうちに自分から遠ざかるのは、人生において大

きな損失だわ」

「理解できなくもないけど、その情熱をもっと他のことに向けたらどう? 貴女さえその気

なら、もっと出世できるのではなくて?」

「仕事が出来たら幸せになれるのだったら、いくらでも心血を注ぎましょう。でも、必ずし

もそうではないことは、高い授業料を払って理解したわ。仕事の手を抜くつもりはないけれ

ど、自分の幸せを追い求めることも諦めるつもりはないの」

「若いのねぇ、貴女は」

「貴女よりも少しだけ、違う方向にも情熱を向けているだけよ。貴女も、そろそろ再婚を考

えてみたらいかが? 今度の事件が解決したら、いい節目になるのではなくて?」

「……………………そうね、考えてみるわ」



 クライドだったら、新しい恋を見つけてくれというだろう。クロノも執務官として一人立

ちしている。レティの言うことも尤もだったが、彼女のように考えることは出来そうにない。



 自分で思っている以上に、不器用なのだろう。心に決めるのは、一生に一人だけ。古風に

も程がある。しかし、悪い生き方ではない。



「こちらで何か動きがあったら知らせるわ。恭也君の件は、くれぐれもよろしくね」

「その恭也君は、今敵の手に落ちているのだけど?」

「貴女と貴女の部下が優秀なことは、管理局の中で貴女の次に知っているつもりよ。貴女達

で彼を救出できないのなら、多分、誰にも無理ね。その時は縁がなかったと諦めましょう」

「了解。お店のセッティングは任せるわ。ああ見えてシャイだから、貴女と同じ趣味の人を

連れてきたりはしないでちょうだいね?」

「あの特共研唯一の男性なんでしょう? 女性の扱いには慣れているものとばかり思ってい

たのだけど」

「慣れていないから、あそこに呼ばれたのよ」



 あんな女の園に放り込まれたのだから少しは成長したのかと覚えば、部長であるリスティ

の報告では、配属前と全く変化していないらしい。女性に対して苦手意識がある訳ではない

ようだったが、明らかに得手としている様子ではなかった。



 それが大多数の女性の目には初々しいと映るらしい。リンディの評価もそのようなものだ

ったが、あの容姿で女の扱いを覚えたらと思うと気が気ではない。



 彼の周囲にいる人間は、多かれ少なかれ彼に心を傾けている。それが深い関係に発展する

かは個々人の自由ではあるが、それが一対一ではなく、複数間で発生した場合、そして彼が

そのポテンシャルを全力で発揮した場合、それがどんな教育上宜しくない展開になるかは、

想像に難くない。



「……俄然興味が沸いたわ。必ず救出すること。いいわね、ハラオウン提督」

「善処はするわ。何か分かったらまた知らせてちょうだい」



 悩みの種を増やす結果になったが、グレアム達の働きによりとりあえずではあるが、後方

の心配はしなくても済んだ。こうなれば後は、結果を出すだけである。



 いくらグレアムとて、管理局全てを掌握している訳ではない。他の派閥が介入を強行して

くることも、十分に考えられる。そうなる前に、決着をつけなければならない。



 闇の書の確保か、完全破壊か。あれを持っている四人の魔導師のことも、その背後関係ま

で、自分達は何も解っていないに等しい。どこを見ても、仕事は腐るほどあった。



 しかし、まずは休息だった。睡眠不足で流石に頭の回転が鈍ってきていた。一服してから

再び仕事に取り掛かるつもりだったが、身体は限界を訴えている。仮眠をするくらいは、仕

事の神様も許してくれるだろう。



 茶葉は何処にやったか、と記憶を探りながら私室の戸を開けると、血相を変えたエイミィ

と鉢合わせた。



 嫌な予感がする。仕事に関しての嫌な予感は、外れることはない。



「艦長! 例の連中が現れました!」



 時間はこちらの事情とは関係なく流れ、事件は待ってはくれない。いつになったら休める

のかと、内心のみでため息をつき、リンディは艦長の顔に戻った。





































 体が軽い。



 少々の苦戦は強いられると思っていた巨大生物――はやて達と恭也に説明した『トカゲ』

である――を大した問題もなく撃退して後に、シグナムは自分の成した結果が信じられない、

といった風にレヴァンティンを握ったままの自分の手を見下ろした。



 戦場で最善を尽くせるように、自身の体調管理には気を使っているが、ただそれだけの要

因でここまでの成果が出せるとは思えなかった。



 闇の書の守護騎士プログラムが実体化した姿が、自分達である。通常の人間の魔導師より

も強さを維持する上ではこの上ない性質であるが、目に見えた弱体化をしない代わりに、劇

的な強さの向上も見込めない。



 にも関わらず、想定外の結果が出た。



 それは、自分を強くするような要因が身近に存在したということである。



「やはり、恭也か……」



 巨大生物からの魔力を蒐集を済ませ、一人ごちる。彼を誘拐したその日から、手合わせは

していない。恭也と戦闘に関して、あの日以降にしたことと言えば、彼が一人でやっている

鍛錬を眺めていただけだ。



 ベルカにしろミッドチルダにしろ、強者と言えばそれは魔法使いだった。騎士だろうと王

であろうと、戦場に出る者は皆、魔法を使った。



 それは決して、それ以外の技術が御座なりになるということではないつもりだった。シグ

ナムもプログラムの身ではあるが、技術の向上のための鍛錬を怠ったことはない。



 だが、純粋に剣術を突き詰めた恭也の戦いを見ていると、自分の剣が不純な物に思えてき

たのだった。



 どちらが強いかという議論をすれば、それは間違いなく自分であると言い切れる。魔法を

自在に行使できる自分の方が、恭也よりも多くの場所で優れた結果を出すことが出来るだろ

う。



 だが、直接戦えば……シグナムの手に力が篭った。まだ魔法を学んだばかりの恭也にさえ、

遅れを取った。初めて見る戦闘方法に対応しきることが出来なかったのも敗因の一つであっ

たが、これで恭也が今の、剣術以外の技術も取り入れた戦闘方法を、確かに自分の物とした

暁には……



 ただの人間が、自分の手の届かないところに行ってしまうのでは、という恐怖が、シグナ

ムの中に初めて生まれた。



 それは、人間という生物に対する羨望でもある。



 確かに自分は人間と同じように『生きて』いる。血を流せば、痛みもある。経験はないが、

人を愛するこも出来るだろう。



 だが、何処まで行っても自分達はプログラムなのだ。限りなく人間に近い強さを得ること

が出来ても、根本の所で彼らと違う自分達は、彼らと同じ強さを得ることは出来ない。



 今まではそんなこと、思いもしなかった。



 全ては主を守るために、主の目的を完遂するために……そのための力であり、そのための

守護騎士であった。



 それを変えたのは、はやてだった。あくまで闇の書の『力』として自分達に接してきた今

までの主とは異なり、彼女は自分達を人間として扱った上、家族として遇してくれた。自分

だけでなく、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも、彼女のためだったら存在を抹消され

たとしても、後悔はしないだろう。魔法がない環境で育ったのが大きな要因となっているの

だろうが、それでも、はやての人間性は自分達の感性に大きな影響を与えた。



 そして、恭也である。



 自分達にはない強さを体現する男…・…彼は自分達にない技術と、自分達にはない思い。

そして、自分達が感じたことのない痛みを知っていた。



 あの男は、家族というものを知っている。



 あの男は、戦いというものを知っている。



 あの男は、人の死というものを知っている。



 それは、強いということだ。強い心を持ち、しかしそれに染まることもなく、人に接する

優しさもまた持ち合わせている。



 騎士としての生き方しか、知らなかった自分達。人知れず、孤独に苛まれていたはやて。

そこに恭也が加わったことで、今の八神家は完成した。



 恭也がいなくても、自分達は家族になることは出来たろう。



 だが、本当の意味で家族というものを知っていたのは、恭也だけだった。死なせるのは目

覚めが悪いから、それだけの理由で連れ去った男が、今では自分達にはなくてはならない存

在になっているというのも、皮肉な話だった。



「分からないものだな。何年生きても、人というものは分からん」



 呟きながら目を細め、彼方を見た。



 強力な魔導師の気配。金色の髪をした、黒衣の魔導師。管理局の嘱託魔導師、名をフェイ

ト・テスタロッサと言ったか。恭也からもその名は聞いている。血は繋がっていないそうだ

が、姓からも分かるように彼の妹だった。



 先の戦闘では、一度刃を交えた。魔法以外の技術を突き詰めた恭也とは違い純粋なミッド

チルダの魔導師であったが、速度重視の戦い方には目を見張るものがあった。外見通りの年

齢であるとすると、その強さは脅威的ですらある。





 弾丸のような速度ですっ飛んできたフェイトが、爆音と共に着地する。使い魔の方は引き

つけたと、ザフィーラから念話があった。少し離れた場所ではヴィータが、白い魔導師と接

触したという。



「私の相手はお前か、フェイト・テスタロッサ」

「気安く私の名前を呼ぶな」



 その声音には、隠しようのない怒気が込められていた。デバイスを構える手は、力の込め

過ぎで蒼白になっている。視線で人間が殺せるのなら、今のフェイトの視線は人を殺すこと

だって出来るだろう。



 着飾って微笑んでいれば愛らしいはずの少女が、明確な殺意を持って自分の前に立ちはだ

かっている。その少女は先ごろ身内と認めた恭也の妹だった。本来であれば、仲良くしなけ

ればならない相手。



 本音は言えば、彼女とは戦いたくはない。恭也の妹だ、家族のために戦う自分達について

説明すれば、理解は示してくれるだろう。出来ることなら、仲間に引き込みたいとすら考え

ていた。



「お前を迎え入れる準備が、我々にはある。兄共々、決して悪いようにはしない。考えても

――」

「私がお前達に言うことは一つ」



 バルディッシュを繰り、輝く鎌刃を出現。肩に担ぐようにして構えて、シグナムに相対す

る。交渉に応じるような気配は、欠片も見られなかった。



「恭也を返せ」

「お前が我らの元に来れば、兄には直ぐに会えるぞ。私にはお前と戦う意味はない。恭也も

――」

「恭也を攫ったお前が、恭也の名前を呼ぶなっ!」



 眼前からフェイトが消える。瞬間、首筋を狙って躊躇いなく放たれたバルディッシュの刃

を、後手に抜き放ったレヴァンティンで受け止める。殺し殺される戦場の空気に、シグナム

の心が震える。



「兄がそんなに大事か! フェイト・テスタロッサ!」



 フェイトは答えず、弾幕を張ってシグナムから距離を取り、上空へ逃げる。そのフェイト

の姿を追うように、カートリッジを消費してレヴァンティンをシュランゲフォルムに変形、

上空のフェイトを包囲するように展開させる。



「返答は!」

「お前を倒して、恭也を取り戻す!」

「ならばお前は、今から正しく私の敵となった!」



 鞭のようにしなったレヴァンティンは、四方八方からフェイトに襲い掛かる。シグナムの

意思で自在に操作できるそれは、長大な外見と異なり視認できぬほどの速度で動き回ったが、

障害のない空中でフェイトはその速度を存分に発揮し、それらを全て避けてみせた。



 一頻りそれを避けき切ると、雷の弾丸を精製。足止めとか、弾幕とか、そういったことは

戦術的な先送りは一切にせずに、全ての弾丸をシグナムに殺到させた。



 自分は確かにこちらに来ないか、と交渉をしたはずであったが、この殺意に満ち溢れた攻

撃はどうなのだろうか。殺意によって研ぎ澄まされた弾丸は、気を抜けばこちらの防御を抜

いてしまう。それらをレヴァンティンで相殺し、あるいはフィールドで受け流しながらフェ

イトに迫る。



 距離を取りながら、フェイトはそれでも雷の魔力弾を放ち続ける。足場を作らなければト

ップスピードがこちらを超えることが出来ない恭也と違い、空中でもその速度は変わらない。

単純な速度だけならば、明らかにこちらよりも上手だった。



 距離を取る戦法を取っている以上、魔力弾を放ちながらでも追いつくことは出来ないが、

魔力が続いている限り、こちらは魔力弾を捌き続けることができる。



(時間稼ぎか?)



 捌きながら、シグナムは考える。



 現状、戦っている管理局の魔導師は、使い魔を含めて三人。シャマルの報告ではもう一人、

黒髪、黒衣で無愛想なの背の低い少年の魔導師が一人いたはずであるが、その姿は今のとこ

ろ確認されていない。



 その少年の増援があるということだろうか? しかし、こちらもシャマルがこの場にはい

ない。今ここで少年を投入すれば、シャマルに対応することが出来なくなる。



 管理局としてこの場にいる以上、組織だって行動しているだろう。戦える人員が、その少

年を含めた四人で全てということはないだろうが、個人で自分達と戦えるような戦力は、彼

ら四人だけと考えても問題はなさそうだった。



 正確な戦力について恭也が話してくれればいいのだが、それに関しては頑として恭也は口

を割らない。ヴィータは出てくる奴を叩き潰せばいいと息巻いているが、全容の見えない相

手というのは、どんな状況であれ不気味なものだ。



 情報の不足は管理局側も同じはず。向こうは自分達に対して、自分達以上に不安を抱いて

いるだろうが、それで劇的に戦況が傾いてくれるほど、管理局側も無能ではない。彼らに捕

捉されずに活動すること自体が、そろそろ限界に来ているのだろう。



 だが、現状他に手段が考えられない以上、管理局の魔導師の目を盗んで蒐集を続け、闇の

書を完成させるより他にない。本格的な増援など来てしまってはジリ貧になる。目に見える

あらゆる危険は、早急に排除する必要があった。



「お前達の遊びに、付き合っている暇は――ないのだ!」



 魔力弾を相殺しながら、その合間を縫ってフェイトに向かって、魔力の斬撃を繰り出す。

それ一つにフェイトを沈める程の威力はないが、直撃を許してもいいような悲しい威力でも

ない。



 無視を出来ないフェイトは、自分に対する魔力弾の密度を下げて、防御に手を回さざるを

得ない。



 好機である。身体に過負荷をかけて速度を上げ、魔力弾による多少のダメージを喰らいな

がらも息のかかる距離にまでフェイトに肉薄し、レヴァンティンの一撃を加える。



 間一髪にバルディッシュでそれを受けたフェイトは、その向こう側から殺意の篭った視線

を無遠慮に叩きつけてくる。



「そんなに私が憎いか?」



 フェイトは答えない。単純な力ではこちらに分があるようで、力の及ばないフェイトは次

第に顔を真っ赤に染めていく。速度を生かして逃げようとしても、シグナムは技術でもって

れを押さえ込んだ。恭也であればさらに自分の技術で逃げ出すことも出来たのだろうが、フ

ェイトにはそれがない。



 兄との経験の差を目の当たりにしたシグナムの頬が、自然と緩む。それが当然、フェイト

には気に食わないもので、力任せにバルディッシュを押し込んでくる。仮に全ての力を注い

だとしても、こちらの体勢を崩すことはできないだろう。



 戦闘魔導師として、高い技量を持っていることは間違いないようだが、色々と、詰めが甘

い。そうだと分かると、言葉で相手を揺さぶる余裕も、シグナムには出てくる。



「お前の兄は、いい男だな」



 無視を決め込んでいたフェイトの額に、青筋が浮かぶ。殺意が濃くなり、どこからそんな

力が出ているのか、バルディッシュに込められる力まで増した。抑えきれない魔力が体から

漏れ出し、弱い雷となってフェイトから発せられる。それでも叫び声を発しないのは、元来

の性格故だろう。これがヴィータであれば、あらゆる物に当り散らしながら、絶叫をあげて

いたところだ。



「私は奴と寝室を共にしているぞ? 私から迫ったこともある。あれほどの男だ、管理局で

も放っておかれてはいないのではないか?」



 言葉に嘘はないが、事実を正しく伝えている訳でもない。多分に誤解を招くような言い方

を意識的に行い、フェイトの反応を見る。迫った結果がどうだったのかなど、教えてやるこ

とはない。



 聡明なフェイトならば、自分の言葉がどういうことを意味しているのか理解できるだろう。

例えそれが、事実と異なることであっても、容易に推理できるはずだ。



 シグナムの言葉から、明確な答えに至ったフェイトの顔が、怒りとは別の意味で真っ赤に

染まる。



「捕虜で捕らえたはずなのだがな、私もすっかり情が移ってしまったようだ。帰った時に連

れ合いになっていたら、お前は私の義妹か」

「バルディッシュ! こいつの口を閉じさせるっ!!」



 言いながら、デバイスを通して直接電撃を流し込もうとするフェイトの意図を読み、シグ

ナムは自分から距離を取った。フェイトの瞳に羞恥どころか、感情の色は見えない。からか

い過ぎて感情の臨界点を超えたようだ。ミッドチルダらしい非殺傷設定も解除されたかもし

れない。



(からかい過ぎたか……)



 苦笑を浮かべ、レヴァンティンを構えなおす。



 ここまでやれば、フェイトは自分を敵と認識してくれるだろう。全てが終わった後の関係

にしこりを残すかもしれないが、その時はその時だ。恭也と違って素直そうな少女である。

誠意を込めて謝れば、きっと許してくれるだろう。



 いい友人に、いい宿敵になれそうだった。こんな人間がいるのなら、いつか惰弱と侮った

ミッドチルダというのも、悪い気はしない。



「手持ちのカートリッジは全て使い切るくらいのつもりで行くぞ。相当にお前への負担とな

るが、お前も騎士の剣だ。やれるな? レヴァンティン」

『勿論です。マイスター』



 カートリッジをロード。炎を纏ったレヴァンティンを大上段に構える。バルディッシュも、

カートリッジをロードするのが見えた。掛け値なしの全力勝負……主たるはやての危機に、

自分が騎士として、彼女の家族として戦っていることすら忘れ、眼前の好敵手のみが心を占

める。



 砂を含んだ風が、二人の間を通り過ぎた。



 ぴくり、とフェイトの身体が動く。スピードではフェイトの方が上だ。初動で遅れては後

手に回る。動いた、そう認識した瞬間、シグナムは全速でフェイトに向かって駆けていた。

真正面からの、最大の一撃。自分の防御に自身のあるシグナムだからこそ出来る、騎士の戦

い。



 先の戦いで遅れを取った恭也とは、言わば真逆の性質だった。悪い言葉を使えば『バカ正

直』とでも評されるそれも、その道を極めたシグナムが行えば、研ぎ澄まされた暴風となる。

魔力によって生み出された炎を剣とその身に纏い、一陣の炎風となってシグナムは駆ける。



 一秒にも満たない時間の中、真っ直ぐに駆けたシグナムは、大上段からレヴァンティンを

振り下ろす。フェイトは――動かない。



 振り下ろされるレヴァンティンを見る、引き伸ばされた思考の中、シグナムは思った。





 何かが、おかしい。





 本能的に第三者の気配を感じ取ることが出来たのは、幸運だった。その上に一度振り下ろ

必殺の一撃を、フェイトに当たる直前に止めることが出来たのは、奇跡と言える。



(増援か! 無粋なことを!)



 例の黒衣の少年の姿を思い浮かべ、フェイトから大きく距離を取る。あのタイミングで降

って沸いた気配だ。自分を狙っていたと考えるのが普通である。転移してきたのか高速で接

近したのか……いずれにせよ、戦いの中で緊張感の高まっていた自分が、直感的にでなけれ

ば感じ取れないような距離にまで接近を許した。



 戦いを邪魔する神経は、無粋極まりない物であったが、腕だけは確かな相手。邪魔をされ

た今は、虫の居所が悪い。



 それが敵であるのならフェイトを含めて二対一となるが、今、シグナムの心中では炎が吹

き荒れている。そんじょそこらの好敵手程度では消せはしない。だろう。



 気配の元……フェイトの背後に、長身の人影。



 仮面をつけた短髪の、体型からしておそらく男。先の戦闘でシャマルに協力した、所属不

明の男。不意に現れ、少年の魔導師を撃退したという。闇の書の扱いにも精通していた。行

動だけをみたらこちらの味方であったが、『謎の人物』をそのまま信用できるほど、ヴォル

ケンリッターは世間知らずの集団ではない。その仮面の男に関しては油断をしてはならない

と、自分達の意見は満場一致を見せていた。



 その仮面の男が、目の前にいる。自分とフェイトの戦いを邪魔する形で。前回の動向を鑑

みるに、それはこちらに有利な行動になる可能性が高い。勿論、シグナムに救援を求めた覚

えはない。楽観できる状況ではなかったが、戦いの動向は不明なままだった。そのまま戦い

続けていれば勝利をもぎ取っていたという自負もある。



「貴様は、何者だ……」



 レヴァンティンを油断なく構えたまま、仮面の男に問いかける。その問いに、仮面の男は

答えず、ただ左手を差し出した。



 視界の隅に、それを捉える。男の左手はフェイトの胸を貫通していた。魔法を用いた、リ

ンカーコアの摘出術である。見た目以上に高度な技術であり、ヴォルケンリッターの中でこ

れを使用できるのはシャマルだけだ。



 それだけで、仮面の男が高位の魔導師であることは理解できる。だからこそ余計にそんな

男が、管理局に敵対してまで自分達に有利な行為をする理由が、シグナムには見出せなかっ

た。



「もう一度だけ聞く。貴様は、何者だ……」

「闇の書の完成を望む者、とでも言えばお前は満足するか?」

「戯言に付き合うつもりはない。お前は我々の味方か、それとも敵であるのか、それだけを

答えろ」

「敵だ、と答えたら?」

「私の戦いの邪魔をしたのだ。ここで果てるくらいは、覚悟してもらうぞ」



 仮面の男は短く息を漏らした。笑ったのだろうが、それは明らかな嘲笑であった。



「……何がおかしい」

「私は私に課した勤めとして、この場に存在している。お前は闇の書の守護騎士だろう? 

闇の書の完成を目指すのが、お前の使命ではないのか」



 それはシグナムにとって、他の守護騎士達にとって、命題であると言ってもいい。闇の書

によって生み出された自分達は、その完成のためにこそ存在するのだから。



「……何がおかしい」



 同じ問いを、今度は仮面の男が発した。腹の底から込み上げてくる嘲笑を隠そうともせず、

シグナムはレヴァンティンを引く。



 フェイトの魔力を仮面の男から受け取るが、それを闇の書に蒐集はしない。むき出しの魔

力は長い時間その状態を維持しておけるものではない。取り出したのならば直ぐに蒐集しな

ければ、時間が経過するごとに魔力の純度は落ち、その総量も下がっていく。



 苛立ちを見せる仮面の男に、一度引いたレヴァンティンを向けた。



 お前には従わないという、明確な意思表示である。以前の自分であれば、考えもしなかっ

た行動だった。主の守護、闇の書の完成は全てにおいて優先される。如何にその手段が意に

沿わなくとも、それが騎士の務めであると、強引に自分を納得させたはずだ。



 しかし、今、騎士の務めよりも自らの感情を優先させた。勝負を邪魔したこの男を許すこ

とはできないと、心は言っている。



 この時代に目覚めるまで、明確に知覚することのなかったシグナムとしての個。騎士とい

う務めに、プログラムとしての存在に埋没していた感情が、発露していた。



 自分のために、非道をすることはない。魔法も何も知らなかった少女は、突然現れた自分

達に、家族として願ってくれた。幸せな今があればいいのだと、今までの自分を忘れて、家

族として生きて欲しいのだと、主は言ってくれた。



 その時から、自分達は変わっていたのかもしれない。今までの自分達は、命題を忘れるこ

となどなかった。守護騎士にとって闇の書を完成させる行為は、主の命令と同等の優先度を

持つ。主の命令と言えども、それを放棄することなど本来ならばありえないのだ。



 この人のために、力になりたい。守護騎士でもプログラムでもなく、シグナムとして初め

て抱いた願望。それから、自分も、ヴィータも、シャマルも、ザフィーラも、我侭になった。

プログラムであるはずの自分達が、段々と変わってきている。



 騎士であることを、忘れた訳ではない。闇の書を完成させなければ、はやての命はないの

だから。そのために、はやての命令にも背いた。そんな自分達に、非道正道を論じる資格な

どないのかもしれないが……



 眼前の男の行為を見逃すことを、はやては決して喜んではくれないだろう。命令に背いた、

騎士失格の自分にも、譲れない一線があった。



「……私は、お前達に歩み寄ろうとしている。闇の書の完成は、私の望みでもあるからだ。

そのための協力を惜しんだりはしない。それでもお前は、私を拒絶するというのか」

「これは、我らの戦いだ。部外者を招き入れるつもりはない」



 切っ先を、さらに近づける。仮面の男も、切っ先に込められた明確な拒絶が解らぬ程、

愚鈍ではなかった。



「お前達にも主にも、時間は残されていないはずだ」

「貴様の関知するところではない。我らに協力するというその姿勢に免じて、今日のことは

不問にしてやる。だがこれ以上我らの前に現れるつもりなら、次はその首、貰い受ける」

「後悔するぞ……闇の書の騎士」

「騎士を舐めるな。貴様などに頼らずとも、我らは悲願を達成する」



 舌打ちをすると、仮面の男は何も言わずに消えて失せた。男の腕によって支えられていた

フェイトは、そのまま地面に崩れ落ちる。



「こちらのせいで迷惑をかけた。この戦いの続きは、またいずれ」



 歩み寄り、抜き取られた魔力を胸に押し当て、フェイトに送り返す。強引に抜き取られた

以上、例え魔力が戻ったとしても、一時間ほどはまともに身体を動かすことは出来ないだろ

が、自然回復に任せるよりは圧倒的に回復も早く、後遺症が残ることも少ないだろう。



 罪滅ぼしになるとは思っていない。これは最低限の義務だ。目的の達成がそれだけ遠のい

たことになるが、主の前でこれ以上恥ずかしい真似をすることはできない。



 かけるべき言葉も、もはやない。闇の書の完成という目的が果たされたその後、彼女との

信頼が回復できれば、また戦う機会もあるだろう。出来なければ、また敵として戦うのみだ。



「ま――って……」



 シャマルの誘導にしたがって転移を実行に移そうとしたその時、地に這ったままのフェイ

トが声をあげた。



 既に瞳の中の殺意は消えている。立ち上がろうとしているようだが、魔力を抜かれた後遺

症で、それも叶わない。それでも懸命にこちらの方へ這いながら、言葉を紡いでいる。



「恭也を・・・・・・恭也を、返して……」



 意識も朦朧としているだろう。声を発することすら苦しいはずだ。先程まで戦っていた相

手に、しかも不意打ちで敗北を強制させられた。殺意すら持っていたのに、それを放って去

ろうとする相手にかける言葉は、再戦の誓いでも恨み言でもなく、ただ、その一言だけだっ

た。



 純粋に義兄を心配するその姿勢に敬意を表し、片膝をつき、フェイトの視線を受け止める。



「お前の兄を返すことは出来ない。お前達管理局の魔導師に、人質などというものが通用す

るとも思えないが、それだけであの男を返却する理由にはならない。いくらかでも情報を引

きだせることを期待していたのだが、あの男は本当に末端の局員なのだな。何も知らないに

等しい……そういった点では何の役にも立たない男であるが――」



 今の我々には、必要なのだ。その言葉を発する直前で飲み込んで、シグナムはただ微笑ん

だ。客観的に見れば人質に感情移入してしまったという、それだけのこと。自分達が戦って

いる相手が、そんなセンチメンタリズムに浸っていると知れば、百戦錬磨の管理局員は即座

に攻勢に打って出るかもしれない。



「主に捧げる忠誠にかけて、恭也・テスタロッサを賓客として扱うことを、ここに誓う。我

らの目的が達成された後は、速やかに奴をお前の元に帰そう。だから安心してくれ、とは言

わない。家族を奪われた苦しみは、我々にも分かる。お前が戦うというのなら、私は胸を貸

そう。納得の行くまで、刃を交えに来てくれて構わない。私は、恭也の家族を拒絶するつも

りはない」

「恭也を――」



 それ以上は、聞かなかった。フェイトの口から延々と恭也の名を聞いても、気が滅入るだ

けである。シャマルが先ほどから、さっさと転移しろとせっついてくる。戦によって高ぶっ

た感情は、燻ったままだった。このまま八神の家に帰らねばならないのかと思うと、さらに

気分が滅入る。



 これは、あの男で晴らすしかない。



 だから、そう結論付けるのも、仕方のないことだった。彼ははやての認めた八神の家族だ

が、それ以前に管理局から奪取した人質である。多少の手荒い扱いは、当然というものだろ

う。



 それに、最近の恭也は調子に乗っていて困る。この辺りでどちらの立場が上かはっきりと

させておくのも、悪いことではあるまい。



「では、帰ろうか――」



 家というものに意味などなかった。主がいて、寝床がある。生活する場所……その程度の

認識だった。なのに今は、家に帰る、ただそれだけのことがこんなにも楽しい。永い時を生

きてきたのに、こんなことは初めてだった。



 足取りは軽く、心も軽い。後はあの男を叩き飲めることが出来れば、完璧だ。適当にから

かって、適当にぶちのめして、皆で食事をし、やはり適当にからかいながら、同じ部屋で眠

る。



 それだけでいい。あの男が、他の皆が、いつも通りをしてくれることが今のシグナムにと

って最大の幸福だった。自分が何者であるのか、騎士の使命すら忘れて、こんな時間がずっ

と続けばいいと思える程に、今の八神の家での時間は幸せだった。



 転移が、始まる。守護騎士達の、帰るべき家に向けて。





「――我らの家に」