Fullmetal princess 第三話



























 一歩、二歩……ゆっくり、ちょっとだけ加速して、身体の具合を確かめる。ここしばら

く寝っぱなしだったので、歩くという行為自体が妙に新鮮に感じるくらいになってしまっ

たが、身体はどうにか動いてくれた。



 鬱陶しい包帯はまだ取れそうにないが、これで散歩くらいはできるようになるだろう。

読書に昼寝でも暇は潰せるが、退屈なことこの上ない。



 思い立ったらと、早速散歩に行こうとした剣は、自分の格好が愛想のないパジャマであ

ることに気が付いた。何か羽織る物はないかと部屋の中を見回してたところで……間の悪

いことに、部屋のドアがノックされた。



 疚しいことをしていたつもりはないが、気分は脅かされた子供である。剣は大きく深呼

吸をしてノックに応えた。僅かの間を空けて、ドアが開いた。



「あれ……もう動けんの? ゴキブリみたいね」



 入ってきたのは、花の入った花瓶を抱えたイレインだった。彼女は立っている剣がよほ

ど意外だったのか、目を大きく見開いて、彼を凝視している。



「ゴキブリとは何だ……ゴキブリとは」

「その怪我を見た奴は一月はベッドって言ってたのよ。あたしもそれくらいかな? って

思ってたんだから、あんたはゴキブリ決定」



 気を取り直してベッド脇の台に花瓶を置いたイレインは、腰に手を当てて恭也を睨む。

少し不機嫌なようにも見えるが、表情で彼女の気分を計れないことは、この一週間で嫌と

言うほど学んでしまった。



「せめて、生命力があるとか言ってくれ……」



 抵抗の声もどこか弱々しい。『以前』の自分もこんなに情けなかったのかと、ベッドに腰

を降ろしながら、剣は心の中で盛大にため息をついた。(面と向かってこういうため息をす

ると、イレインが怒るのだ。辛気臭いとか言って……)



「で、気分はどう? どれくらいなら動けそう?」

「普通に散歩をするくらいだったら何も問題はないと思うが、運動は無理だろうな」

「走れたりとかできない?」

「無理をすればできないこともないと思うが……できることなら遠慮したい」

「そう……」



 うつむき、そう呟くイレインの表情は冴えなかった。天邪鬼である彼女のこと、ひょっ

としたら気付かないうちに気に障ることでもしてしまったのでは、と剣は気が気でならな

い。



「イレイン、何かあったのか? 俺でも良かったら相談に乗るが……」

「あんたが?」



 顔を上げたイレインは露骨に嫌そうな顔をしたのだが、その中に、何か期待するような

色が含まれているような気がするのは自分の気のせいだろうか。だが、それを確かめる前

に、イレインは首を横に振って、その不確かな色を完全に消してしまった。



「あんたに心配されるほど、あたしは柔じゃないの。そんな暇があるんだったら、そのゴ

キブリ生命力を活かして、さっさと怪我を治しなさい」

「それは言われるまでもない。ところで、そろそろこの部屋の外に出たいのだが――」

「駄目!!」



 構わないか? という言葉は、声を荒げたイレインによって遮られた。突然の恋人の行

動に剣がぽかんとしていると、イレインは、はっとして目を逸らした。



「ごめん……怒鳴ったりして」

「いや、それは別にいい。それより、散歩は駄目なのか? そこまで強行に反対されるよ

うな体調ではないと思うのだが……」



 以前の記憶は綺麗さっぱり消えているが、何故か自分の体調だけは正確に管理できてい

た。その感覚を信じるのであれば、怪我をしている以外はいたって正常、自分で言ったと

おり、散歩くらいは問題ないはずである。



「あんたがそれくらいに元気なのは分かってるわよ。でも、駄目な物は駄目。運動ができ

るくらいまで怪我が治るまで、あんたはここから出ちゃ駄目なの」

「……なら、理由を聞かせてくれないか? 訳も分からずに自由を奪われるのは、何と言

うか……居心地が悪い」

「ごめんね……今のあんたには、教えられない。理不尽なのは分かってるし、私もそうい

うのは嫌いだけど。とにかく、言えるのはこれだけ。これで、納得してくれない?」



 剣の中でイレインという人間は、理不尽の塊のような女性だった。思い出したように真

っ赤になってはこちらを小突くし、怒鳴られたことなど、この一週間でも数え切れないほ

どである。



 そのイレインが、こちらを見つめている。瞳の中にあるのは理不尽などではなく、疑い

ようもないくらいに純粋な、自分を気遣う感情だった。そんな顔をされては――



「分かった……」

「そう。いい子ね。剣は」



――頷くしか、ない。何か非常に釈然としないものを感じるが、こんなものだろう。記

憶は依然として戻らないままであるが、こういう風に女性と言い合いになって勝てないの

は、どういう訳か身体が覚えていたのだった。



「で、聞こうと思ってたんだけどさ。あんた、何も思い出さないの?」

「思い出せているとありがたいんだが……すまん、何も思い出せていない。イレインくら

い強烈な人間なら、嫌でも忘れないと思うのだが……」

「ほめてる? それともけなしてる? どっちにしてもムカつくから。今言ったこと記憶

と一緒に忘れておきなさい」

「すまないな……本当に」

「いいわよ、そんなの」

 

 剣が頭を下げると、イレインは――ここ一週間の彼女にしては、本当に珍しいことでは

あるが――気まずそうに目を逸らして、そう言った。『元来』鈍感である剣は、その反応の

意味するところに気付かずに、イレインの気分を害してしまったのでは、と内心焦りなが

ら俯いてしまった。



「ねえ、これはあたしの独り言なんだけどさ……」



 いいかげん、精神力には根拠のない自信を持っている剣でも逃げ出したくなってきたこ

ろ、イレインが目を逸らしたまま口を開く。



「あんたは馬鹿ね、剣」

「それは――」



 剣は反論しようと顔をあげるが、無言のうちに立てられたイレインの人差し指によって

その言葉は遮られた。イレインは、目論見どおり黙ってくれた剣に満足すると、言葉を続

ける。



「あたしの見立ては確かよ。見た限り、記憶が消えたくらいじゃあんたの馬鹿さ加減は治

らないみたいだしね。記憶なんてなくても、あんたは同じことを言ったし、同じことを言

うと思う。確かに馬鹿よ。でもね……剣。だからこそ、あんたはいい男なのかもしれない。

なんて言ったって、このあたしが恋人にしたくらいなんだから」

「誉めているのか? それとも貶しているのか……どちらにしても非常に照れくさいのだ

が……」

「その両方よ。実を言うと、私ね、今が一番幸せなの。あんたは馬鹿だから、あたしをあ

たしとして見る。それは、簡単だけど難しいこと。でも、あんた以外の今までの連中は、

そんなことすらしなかった」



 自嘲気味に笑って、イレインは立ち上がった。そして、つま先を剣のベッドの下に差し

入れると、そこから小さな筒状の物を蹴り出す。それを取り上げて、



「あんたの記憶なんて、あたしは要らない。今のあんたがいれば、それでいい。でも……

それじゃあ、あんたが自由じゃないのよね」



 イレインは手に持ったそれを、剣に放る。剣が手に取ったそれは、ずっしりと重かった。

だが、それは、不気味なほど手に馴染む重みだった。その重みに驚きを覚える剣に、イレ

インは背を向ける。



「正直、あんたにもあたしにも時間がないの。あたしにとってはいらない物でも、あんた

には大事なものかもしれないでしょ? だから、思い出す出さないはあんたに任せるわ。

それでも見て、自分が誰の剣なのか、よく考えるのね」



 一方的に言い切ると、イレインは振り向きもせずに部屋を出ていった。気分を害した、

というのとはどこかが違う。彼女のその姿に何か、無理やりにでも言葉を当てはめるとす

れば、『悲しみ』だろうか。とにかく、それに似たものが、イレインからは感じられた。



「誰の……か」



 今まで、考えなかった訳ではなかった。おぼろげではあるが、昔の記憶は今でも剣の中

に確かに存在する。決してなくなった訳でも、消えた訳でもない。ただ、そこに蓋がされ

ているだけなのだ。



 そこには、大事な何かがあるはずだった。記憶を取り戻したくないと言えば嘘になる。

だが……すぐさま記憶を取り戻すことには、抵抗を感じる。



「お前は一体何を知っているんだ?」



 手の中のそれを見下ろす……それは、日本古来の小太刀という武器で、その銘を『八景』

と言った。

















「無能ね……」

「開口一番がそれか? 何もしていないくせに文句だけを言うのは止めてもらいたいもの

だな」

「市外には逃げていない。それなのに、一週間経っても消息をつかめていないというのは、

無能以外の何者でもないんじゃない?」

「下賎の思考など、僕の知ったことではないよ」

「その下賎の思考も読めないなんて、純血もたかが知れてるわね」



 ただの言葉の応酬にも、命の取り合いをしているかのような殺気が漂っている。普段か

ら仲の悪いこの義兄妹であるが、いまだに進展を見せないこの状況が、その彼らをさらに

苛立たせていた。



 造りの整った瀟洒な部屋で、ライオンでも殺せそうな睨み合いが一分も続いた頃、二人

のうちの女性の方――さくらが、大きくため息をついて、首を横に振った。



「時間の無駄ね。それじゃあ遊、無能なりに調べた結果を聞かせてくれる?」

「……奴に関連のある場所を虱潰しにしたが、有力な情報は得られていない。オリジナル

イレインも例の僕も発見されず、真実は闇の中だ」

「僕ではなく、恋人よ。盟約を交わした以上、彼はもう一族の一人。貴方もそろそろ、そ

れを認めたら?」

「人間を一族などと、誰が認めるものか。奴らは脆弱で短命だ。僕らの足元にも及ばない

ことくらい、さくら、お前でも解かるだろう?」

「確かに人間は、私達に比べて脆弱で短命かもしれない。でもね、遊。彼らと私達の違い

はそれだけでしかないのよ」

「それだけ違えば十分だよ。家畜は、どこまで行ったとしても、家畜のままだ」

「……貴方のような考え方の者がいるから、私達は衰退するのね」

「家畜と同列に身を堕とすなど、僕には考えられん」



 いつものことだが、この議論は平行線のままだ。さくらは人間を、遊は自分の誇りを優

先する。夜の一族が衰退しているのは事実であるのに、遊のような考えを持つものは誰も

そのことを直視しない。自分達の脅威が彼らに通じていたのは、もう何百年も昔の話だ。

短命だ、脆弱だと侮っている人間に、今では種族として、明らかに敗北している。



 機械人形に代表されるテクノロジーが流出しきってしまえば、もう夜の一族が人間にイ

ニシアチブを取れるものはなくなってしまう。一族の中でも混血化が急速に進んでいる今、

あと百年もかからないうちに、それは訪れる。そうなった時、人間を下賎と侮る彼らはど

うなるのか?



 どんなに主義が合わなくても、同胞は同胞……彼らが流すであろう血を好んでみる悪趣

味など、さくらは持ち合わせていなかった。悲しいことではあるが、それを悲しんでなど

いられない。人間を侮るなど、今のさくらには到底できそうにもないことであったから。



「もう少し歩み寄れたら、私達はもう少しましな義兄妹になっていたかもしれないわね」

「そうかもな。それだけは、少々残念だよ」



 話に区切りを付けたさくらが、先に席を立った。振り向きもせずに歩み去る彼女を、遊

は席も立たずに、コーヒーを飲みながら見送る。



 そして、さくらがドアに手をかけた所で、遊は思い出したかのように口を開いた。



「市外に別荘群があるのは知っているな。海鳴は避暑地としてもそこそこ有名だからな。

その分、うち捨てられている物も多いのだが……ここ数日、そのうちの一つに出入りの形

跡がある。部下に調べさせたが、その中には『金髪の美人』がいたという話だ。幸いなこ

とに今晩は満月だ。面汚しを狩るのには、絶好の夜だと思わないか?」



 どうだ? と言わんばかりの挑戦的な遊の目を、さくらは世にも冷たい赤い瞳で見返し

た。霧散していた殺気が再び収束し、その場の温度が急速に下がる。



「本当に貴方は無能ね。そういうことは先に言うべきじゃないの?」

「能ある鷹は爪を隠す、というだろう」

「驚いたわ。最近の鷹はない爪でも隠せるのね」



 最大限の皮肉を込めたさくらの言葉に、遊の瞳も赤く染まる。二人、直接の喧嘩をする

など、学生の時分以来だが、今はあの時ほど若くもなく立場も自覚している。



「忍のところのノエルが、彼の捜索に参加したいと言っていたわ」

「人形相手に僕らが怪我をしてもしょうがないからな。手配しておこう」



 一度だけ、二人は睨みあうと、微笑みも別れの挨拶もなく、さくらは部屋を出て行った。

その背を見送っていた遊は、人間とは比べ物にならないほど発達した聴覚が、足音を捕ら

え切れなくなるまで身動きすらしなかったが、やがて、彼は全身の力を抜いて、ため息を

ついた。



「歩み寄りを目指しているつもりなのだがな。やはり、主義の違いは絶対か……」



 さくらが聞けば耳を疑うかもしれないが、これでも遊は変わっていた。それでも、どう

しても人間を同士として見ることはできない。純血であることは、彼の誇りなのだ。



 忍が伴侶に選んだという人間、高町恭也。さくらからの報告によれば、かの男は、夜の

一族にすら匹敵する戦闘能力の持ち主であるという。戦いたい……遊は、いつの間にかそ

う思っていた。



 家畜の限界を再認識するため、一族の未来を考えるため、理由などいくらでもつけられ

る。だが、結局のところ、彼が行動する理由は一つしかなかった。



 遊が目を見開くと、彼の姿は空間に溶け込むように掻き消える。行動するは、自分のた

めに。下賎を狩るは、己がために。純血を誇る吸血鬼は、自らの欲望を満たすために、旅

立った。