鬱蒼と茂る木々の中に、光は届かない。生み出された闇、自然で最も深い黒の中に光を

嫌うかのように蠢く影達。



「頃合か……」



 見上げた空には、影達の守護にして母たる月。全ての準備が整い、そして今宵その月が

満ちた。影達を阻むものは、もはやない。影達が待ちに待ったこの時だ。







 さあ――







「狩りの時間だ」



 影の一人が指を打ち鳴らすと、闇の中に無数の紅い光が灯った。それは、夜に祝福され

た種族の証。純血と呼ばれる一人を残し、影達は夜の闇の中を音もなく駆け出していった。

純血の男は、影達の後を悠然と歩いていく。



 男に緊張はない。なぜならそれは、狩る立場の人間だから。そして、この先にいるのは

純血たる身にとっては得物にしかならない小物達。しくじるなどという選択肢は、男の頭

の中には、少しも存在しない。本来ならば、退屈極まりない仕事のはずだが、氷のような

その美貌には、うっすらと笑みが浮かんでいた。



 先祖が拵えた傑作――その一つである『最終機体』イレインを退けた、人間の男。家畜

に過ぎないという考えを変える気はないが、興味を引かれたのも事実。この頃、義妹と顔

を合わせっぱなしでストレスも溜まっていた所だ。家畜とは言え、それだけの実力を持っ

ているのなら、少しは楽しませてくれるだろう。



 真紅に染まった男の瞳が細められる。それだけで、霧となった男は夜の闇に溶けていっ

た。



























「何だ……」



 面妖な気配を当てられ、浅い眠りについていた剣はすぐさま意識を覚醒させた。枕元に

置いてあった八景を手に取って飛び起き、窓に身を寄せる。



 すぐ近くには森。そこには当たり前のように、いつものように闇が広がっているが、今

夜のそれが、いつもの闇とどこかが違うような気がした。何かが迫っている。問題は、そ

れが危険なものなのかそうでないのか、分からないことだ。それだけは、早急に判断を下

さなければならない。



「イレイン……」



 彼女なら、この疑問を解決してくれるだろう。この、自分が何者かすら分からない世界

において、イレインだけが剣の寄る辺だった。理不尽な物言いをする彼女であるが、頼り

にはなる。イレインは、決して裏切らない。根拠のない確信が、剣にはあったのだ。



 八景を握り締め、踵を返す。何か使えそうなものはないかと部屋を見回すが、あるのは

一週間ほどの生活で読み飽きてしまった何冊かの小説と、傷だらけのこの身。そして、手

の中の小太刀のみ。



「頼みの綱はお前だけか」



 八景は、沈黙を答えとした。苦笑した剣は、八景を腰に下げると足音を殺して扉に歩み

寄った。『扉の向こう』の気配に悟られぬよう、自らを消して、そっとドアノブに手をかけ、

一気に開け放った。



 ドアの向こうの影との距離を一気に詰め、その首筋に抜き身の小太刀を突きつける。



「何してんのよ、あんたは……」



 自分の脇腹に、同じく凶器を突きつけた影は、胡乱な目つきで、そう問いかけてきた。



「せっかく迎えに来てやったってのに、そのあたしにそういう対応する訳?」

「少し神経質になっていたのかもしれん。許してくれ」

「ったく……外の連中のことには気付いたんでしょうね?」

「一応な。連中が何なのか俺には分からんが、とりあえずここが包囲されているのは、理

解している」

「それだけ分かれば十分よ。どっちにしたって好機には違いないんだから」



 凶器――指にはめるタイプの小型ブレードを引っ込め、先にたって歩き出すイレイン。

剣は、彼女について歩きながら辺りを見回している。



「別に、何の変哲もない廊下よ」

「それでも俺には久方ぶりに景色だから。初めて歩く場所であるし、見ておいて損はない

と思う」

「構造を頭に入れておくってんなら、それも悪くないわね。一応、隠し通路とかトラップ

とか、そういう大層な仕掛けがないことだけは、先に言っておくけど」

「トラップか……また、物騒な話だな」



 部屋から一歩も外に出なかったとは言え、一週間も過ごした場所がそんな魔窟では、目

覚めが悪くて仕方がない。剣が渋面を作ると、イレインもそれに呼応したかのように、不

機嫌な顔をして、ため息をついた。



「それくらいはやるんじゃない? ここの持ち主のおっさんのこと考えたら――」



 唐突に、イレインは言葉を区切る。どうした――そう剣が問うよりも先に、身を翻した

イレインは人間離れした速度で廊下を駆け出した。その先、突き当たりの角から現れたの

は武装した二、三人の男達。そのうちの一人に瞬く間に肉薄したイレインは、走りこんだ

勢いもそのままに、その顔面に思い切り拳を叩きつけた。拳を喰らった男は、反応も出来

ずに近くの窓を突き破って、視界から消えた。



 剣を含め、男達は何が起きたのか理解していない。沈黙が支配するその空間の中で、素

早かったのはイレインだけだった。無駄のない動作で、残りの片割れに脇腹に拳を叩き込

むイレイン。骨の砕ける鋭い音……胃液を吐き出しながら前のめりになる男の顎に容赦な

く膝を叩き込んで、追う動きで、ついでとばかりに窓の外に放り出す。



 残りの一人は、そこまでされてようやく我に返り銃を構えるが、気付いた時には、イレ

インは既に銃の間合いの内側――吐息のかかるような距離で、微笑んでいた。男には、こ

れが悪魔の微笑みに見えていたに違いない。



「さよなら」



 無慈悲な声と、共に聞こえた音は三つ。両の手刀で一度に肩を砕き、それとほぼ同時に

叩きこんだ膝で、あばらが折れる。優雅に弧を描いた足で窓の外にまで吹き飛ばし、これ

で三度。いや、二階下の地面に何かが叩きつけられる音まで含めれば、四度。イレインと

彼らの圧倒的な実力差を表す音が耳から離れるのを待って、剣はゆっくりと彼女に歩み寄

った。



「何もあそこまでする必要はないのではないか?」

「あれでも生ぬるいのよ。あの連中のしぶとさはよく知ってるんだから」



 窓の下でうめいているであろう男達には目もくれず、イレインは手のひらについた血に

顔を顰め、当たり前のようにこちらに手を差し出してきた。剣は無言で服の裾を破り、そ

の手を拭いてやる。



「ここ以外でも戦闘が始まっているようだな」

「戦闘じゃないわ、これは狩りよ。小悪党の生き残り程度じゃ、狩猟専門の連中には歯な

んて立たないだろうし、狩り自体はすぐに終わると思うわ」

「助けに行かなくてもいいのか?」

「言ったでしょ、小悪党だって。あたし達はそいつらに囚われてたんだから、お礼参りこ

そすれ、助けてやる義理なんてないの」

「囚われていたのか、俺達は……」

「あんたね、一週間もあんな狭い部屋に閉じ込められてて、変だと思わなかったの?」

「不自由はしていたよ。それで、これから俺達は何をすればいいのだ?」

「決まってんじゃない、逃げるのよ。ここの連中も狩り出しにきた連中もやり過ごして、

外まで逃げるの。それから後は、あんたの好きにしなさい。帰る場所くらい、あんたには

いくらでもあるんでしょ?」

「イレインは、どうする」

「あたしのことは放っておきなさい。あたしはあんたとは違うの。帰る場所なんかなくた

ってうまくやってけるわ」



 血のついた布切れを窓の忌々しげに窓の外に放り投げ、イレインは剣から目を逸らす。



「一応、謝っておくわ。私が最初から捨て身になってれば、あんたをあんな部屋に押し込

めなくても済んだんだから。でも、それももう終わりよ。あんたはこれで、自由になれる」

「それは嬉しく思うが……俺は、イレインがどうするかを聞いている」

「なら、もう一度言うわ。あたしのことは放っておきなさい。あたしの恋人である剣って

人間は、もう必要ないの。あんたは本来のあんたに戻って、これからを生きればいい。待

ってる女がいるんでしょ? だったら、私なんて必要ないじゃない」

「俺は、剣だ。お前の、イレインの恋人の」

「まさか、全く記憶が戻ってないって? 馬鹿言わないで。あんたなんかが私を騙すなん

て、一生かかってもできないんだから」

「騙そうなどとは思っていない。俺は、当たり前のことを言っている」

「その当たり前がそもそも違うって言ってんのよ! あたしがいいって言ってんだから、

あんたはそのまま回れ右して、あたしの前から消えればいいの」

「イレインを、放ってはおけない」

「いいかげんにしなさいよ……」

 

振り返ったイレインは、疑うべくもない怒気を発している。あと、たったの一押しで暴

れ出すのは、誰の目にも明白である。先ほどの彼女の力で殴られれば、ガラクタのような

この体、一溜りもあるまい。



 賢い人間なら、ここで口を噤んでいる。戦う時には必ず勝つ。それが、剣の『本来』の

性質だったはずだ。だが、剣という男は――



「何とでも言え」



 決して賢くはなかった。触れれば切れてしまいそうな怒気を前にしても、一歩も引き下

がることはない。そんな態度がイレインの癪に障ったのだろう、伸ばされた彼女の細腕に

剣は高々と吊り上げられてしまう。



「私は、呪われた最終機体よ。今まで何だって殺してきた……人間も、夜の一族も。そん

な連中と同じように、今この場で、あんたの命を狩ることだってできる。その辺まで理解

して、あたしに意見してる訳?」

「俺の知っているイレインは……不条理な奴……だが、外れたことはしない。今、俺を…

…吊るしているのが彼女なら、俺を殺すことは、絶対にない」

「都合のいい答え……」

「そう、だな。言ってる俺も思うのだから、世話はない」

「ふん……」



 失笑気味のため息をついて、イレインは剣を放り出した。二、三度咳き込んで立ち上が

った時には、またイレインは目を合わせようとしていなかった。



「ここから少し行った所に、裏口があるの」

「だが、包囲されていたのなら、そこも危険だろう」

「でしょうね。狩り側の連中に鉢合わせする可能性は、十分にあるわ」

「お手上げじゃないか……」

「馬鹿ね、剣」



 長い金髪をかきあげて微笑み、イレインは剣の背中に腕を回した。いきなりな柔らかい

感触に頬を染めながらも抗議の目を向けるが、イレインは素知らぬ顔で取り合わない。



「道がなきゃ、作ればいいのよ」

「おい、何を――」



 嫌な予感を持って剣の発した言葉は、豪快な破砕音によって遮られた。巻き起こる旋風

と視界を覆う自然の煙、それらが収まった時、剣の目の前に広がるのは、夜の闇とそれま

で壁の役割を果たしていたはずの、残骸であった。



「ね?」

「…………」

「何か言いなさいよ。一人で喋ってるなんて、馬鹿みたいでしょ?」

「ああ……なんと言うのか、驚いた」

「今の音で嗅ぎつけてくるでしょうけど、それまでに外まで出れれば何の問題もないでし

ょ?つる……」



 言いかけて言葉を噤んだイレインは、首を傾げて中空を見つめた。何か自分なりにいい

案を探しているのだろうが、数秒続けたその行為でも望んだ答えは得られなかったらしく、

イレインは後ろ頭に手をやりながら、不機嫌そうに尋ねた。



「あんたの本名、まだ聞いてなかったわね。教えてくれる?」

「本名? そんな物を聞いてどうする」

「あんたはもう自分のことも思い出せないよう馬鹿じゃないんだから、知っとかないとあ

たしが馬鹿でしょ? だから、さっさと教えなさい。あんたの名前は?」

「俺は、剣だよ」



 悩んだ末の問いに、あっさりとした対応。これで、剣はからかうような笑みを浮かべて

いたのだから、イレインの癪に障らないはずはない。案の定、イレインはその言葉を頭で

理解するよりも早く、剣の首を締め上げていた。



「あたしをおちょくって楽しい? 死にたくないならさっさと答えなさい。言っとくけど、

今度は本当に殺すわよ」

「なら手は緩めてくれ。俺は本気に答えたつもりだし、死にたくはない」

「ならあんたが根っからの馬鹿だったか、偶然なんて言葉を信じるしかないじゃない。本

当に剣って名前だっての?」

「ああ、今ここで、俺は剣だよ」

「あくまであたしをおちょくり続ける気なら、今後あんたとは口もきかないつもりだから、

そのつもりで答えなさい」

「分かった。観念する……」



 降参の意味で軽く両手を挙げた剣を見て、イレインはようやくその手を彼の首から離し

た。絶対に後の残っている首を摩りながら、首を絞められ慣れてきている自分に釈然とし

ない物を感じながらも、剣は無言で外を示した。



 建物の内外から迫ってくる、色々な気配。どちらがどちらか、脱走者である剣達にはそ

んなことは関係ない。都合がいいから合わせているだけ、味方という保障のない集団に飛

び込むという楽観的な発想は、二人の中には存在しなかった。



 イレインが剣を支える形で二人は壁の裂け目から飛び出した。着地した時には、剣から

離れたイレインが先導する形で走り出す。全力には程遠いペースであるが、まだまだ怪我

人のレベルである剣にはこの辺が限界なのである。それでも、一般人の行群に比べれば十

分に早いが、混血が多数であろうとは言え夜の一族相手の追いかけっこには、このペース

では心もとない。落ち着き払ってはいるが、追われる者としての焦りが、この時確かに二

人の中には存在していた。



「戸籍の上で、俺は剣ではない。俺の親が付けた名前がちゃんとあるし、それを蔑ろにす

るつもりもない」

「だからあたしは、その蔑ろにしない名前を聞いてんのよ。それとも何? あたしには教

えたくもない?」

「そういうことを言っているのではない。ちゃんと教えるつもりはあるぞ? いずれ、だ

が」

「教えたくないならはっきりそう言いなさい。まどろっこしいのは、嫌いなの」

「名前には、意味があるのだと思う……」

「は?」



 怪訝そうに、しかしその疑問の声の中に明らかな怒気を含んで、イレインは問い返して

くる。喧嘩を売られているようなものであるが、こんなものは剣にとって慣れたものだ。



「俺にとってイレインの前で剣と名乗ることは、なんら違和感がないということだ。確か

にこの名前は、出任せで付けたのかもしれない。恋人という関係にしたって、過去にそん

な事実はなかった。だがな、この一週間、俺の中でそれは真実だった。確かに俺は剣でお

前――イレインの恋人だったんだよ」



 深夜の森を先立って疾走しながら、イレインは黙って剣の話を聞いていた。望んでいた

答えではないはずだがどこか納得しつつある、そんな表情。だが、納得しきれていないの

は、暗闇の中でもはっきりと分かった。



「要するに、あんたは何を言いたい訳?」

「俺は、ここまでの一週間を大事にしたい……そう思っている。ここで俺が『本名』を教

えてしまったら、その一週間が無意味なものになってしまう気がしてな。そうしたくない

から、イレインと、恋人だった時間を」



 胸のうちに溜まっていた気持ちを吐き出した剣は、実に清々しい気分だった。前を走っ

ているイレインが急に俯いて無口になったことも、その清々しさに拍車をかける。



(ともすれば、これが最初で最後のイレインに対する勝利かもしれないな……)



 自分と彼女のこれからを暗示する不吉な予感を頭を振って払い、夜の森を駆ける。あれ

だけのことをしたのだから、どちら側も自分達の脱出には気づくだろう。ここが何処なの

か知らないが、海鳴市からそう離れていない核心が剣にはあった。それならばこっちのも

のである。幼い頃からの鍛錬の成果か近場の山々は庭のようなもの、一度見知った場所に

出てしまえば、迷うことなどあろうはずもない。



 イレインに特定の目的地があるのか――あってもそう多くはないだろうが――知らない

が、大雑把な方向さえ間違っていなければ、闇雲に走っていたとしてもこのまま脱出でき

るだろう。後は、連中に見つからないことを祈るばかり――



「止まって、剣」



 いつになく緊張した声が剣の足を止め、同時にそれに気付かせた。周囲から、音が消え

ていたのだ。風の音も、木々のざわめきも、まるで存在を否定されたかのように姿を消し

ている。



 無論、それが錯覚でしかないことは剣にも分かっていた。超常的なことが起こっている

のではない。そこにいる存在の発する気配が、剣の感覚の全てを自らに集約させているの

である。



 強い……剣はそう思った。緊張で汗ばんだ手で八景を握り締め、森の闇を凝視する。



















 二人分の視線を浴びながら、闇はこともなげに形を持った。月明りの下、氷のような美

貌を携えたその影は、剣と、そしてイレインを見て口の端をあげた。