Fullmetal princess 第五話























「良い晩だな……」

 人形のように整いすぎた容貌の男が、月明りを背にこちらの道を塞いでいる。男は薄い
笑みを張り付かせたまま、面妖な存在感を纏ってそこに存在していた。

「確かに、いい晩だ。それで……何の用だ?」

 降って沸いた男から目を逸らさず、言葉を紡ぐ。逃走中という切羽詰った状況でもなけ
れば、何の躊躇いもなく無視するという結論を下したことだろうが、あれに対して隙を見
せることは自分達の命に関わる……そう思わせるだけの何かが、男にはあった。

「随分だな。この僕が、貴重な時間を割いてまで足を運んでやったというのに」
「足を運んでくれと頼んだ覚えは俺にも、イレインにもない。相対しているこの状況に文
句があるというのなら、どうぞ俺達の前から消えてくれ」
「そうしたいのは山々だがね、残念ながらそうもいかない理由がある」

 これ以上の無駄は許さない、とばかりに男は腕を振り、剣と、次いでイレインに目をや
った。

「高町恭也。それにそちらは『最終機体』イレインだな? 氷村、綺堂、月村が長老の連
名で貴様らの保護命令が出ている。忌々しいことだが、今の僕は貴様らの味方だ。大人し
く僕についてこい」

 本当に忌々しいのか、男は吐き捨てるようにそう呟き、踵を返して歩き出した。その男
の背を見ながら、剣はどうしたものかと考えを巡らせ、肩越しにイレインを見る。どうす
る? と目で問うと、彼女は肩を竦めて応えた。一瞬の遣り取り。それだけで、二人の意
思疎通は事足りた。

「どうした? 早く来い」
「申し訳ないが、俺達は貴方についていくことはできない」

 苛立たしさを隠そうともせずにこちらを振り返る男に、ただ一言告げる。男は、一瞬だ
け目を見開くと、氷のような笑みを浮かべた。

「下賎に木偶が、この僕に意見するのか?」

 言下に煩わされた怒りを滲ませ、男は腕を組む。夜の森に殺気が広がり、敏感な小動物
達が騒ぎ始めた。ありとあらゆる生物に対する絶対的な優位性。常識の範疇では決して手
にすることのできないそれを前に『早まったか……』と内心で舌打ちをしつつ、ともすれ
ば震えそうにさる体を叱咤しながら、剣は口を開いた。

「意見など、恐れ多いことをするつもりはありませんよ。ただ、下賎に木偶が貴方のよう
な高貴な方と共に歩くのは、どうかと思いましてね」
「白々しいことをを……言っておくが、五体満足でなければならないなど、そんな人道的
な指示は受けていないからな。これ以上口答えをするようなら、手足の二三本も?いでや
って、強制的に従順にさせるが?」

 冗談のような口調だが、そんな気配は欠片もない。これ以上を意見をすれば、男は間違
いなく、そして躊躇いなくそれを実行に移すだろう。男は強者で、こちらは弱者。それは
動かしようのない事実なのだから。

 自分達では、この男に勝つことはできない。状況が、理性が、そう言っている。頭のい
い人間ならば、どんなに目の前の男が気に食わなくてもその言葉に従い、頭を垂れるのだ
ろう。が――

「できるものなら、そのように。下賎と木偶の力、その目にしかとご覧に入れましょう」

 それとは真逆のことを言ってのけ、剣は八景を抜刀し腰を落とした。戦闘用に意識を研
ぎ澄ませ、男に集中する。満身創痍のこの体では、長時間の戦闘は無理だ。戦って、そし
て勝利するつもりならば、迅速に行動し男を叩き伏せねばならない。

 だがそれは、兎が虎に戦いを挑むようなものだ。二者の間にあるものは一方的な狩りで
あって、断じて勝負などではない。

 その優位性を十二分に認識しているらしい男は、見下しきった目でこちらを見やると、
不愉快そうに鼻を鳴らした。

「大した自信だが、それは慢心というものだよ。色々あって貴様らを殺す訳にはいかない
が、それに近い状態にはなってもらうからな」

 蒼かった男の瞳が真紅に染まり、殺気が膨れ上がる。殺気に影響された小動物達が我先
にと逃げ出す。しばらくの喧騒の後、夜の森に完全な静寂が訪れた。

「どうした、その小太刀は飾りなのか? この僕に啖呵を切ったんだ。せめて退屈凌ぎく
らいのことはして見せろ」
「退屈凌ぎ? いや、俺達は貴方を叩き伏せるつもりですよ。何しろ――」
「あたし、あんたみたいなタイプが死ぬほど嫌いだから!」

 男の背後、音もなく回り込んだイレインがその腕を振り下ろす。施設内では壁を粉砕し
てのけたその拳である。人間に直撃すれば、それこそ原型を留めぬほどの衝撃を受けるの
だろうが――

「それは奇遇だな。僕も、頭の悪い者は嫌いだよ」

 後ろに回した掌で、男はいとも簡単にイレインの腕を受け止めた。攻撃がその程度のも
のだったのかと言われれば、そうではない。受け止めた瞬間、男の体は地面に数センチほ
ど沈んだのだから。男はそれだけの攻撃を簡単に受け止め、平然としているのだ。

 それで決まると思っていたイレインの顔に、はっきりと驚愕の色が浮かんだ。同じく驚
いてはいたが、離れて見ていた分、剣は幾分冷静だった。男への最短距離を、全速力で。
傷だらけの体に鞭を打ちながらも八景を腰溜めに構え、男に突き出す。

 それは避けられるタイミングではなかったし、こちらの状態を差し引いても、その攻撃
は考えうる限り完璧だった。それにこれはイレインのような打撃ではなく、斬撃である。
体で受ける以上、無傷と言う訳にはいかない。八景は吸い込まれるように男の右肩へと迫
り――


 ――そして、突き抜けた。


 肉を裂き、骨を砕く。その在るべき感触がなかったことに戦慄しながらもステップを踏
み、剣は男から距離を取った。

(避けられたのか!?)

 いや、男は一歩たりとも動いてなどいない。剣の持つ八景は文字通り、男の右肩を通り
抜けたのだ。

「いい攻撃だったと思うが、それだけだな。夜の支配者たる僕を傷付けるには、お前とそ
の小太刀は圧倒的に役不足だ。この木偶は返すぞ」

 言うが早いか、男は雑作もなくイレインを放り投げる。彼女を受け止めるか避けるか、
逡巡しているうちにイレインは空中で体勢を立て直し、砂煙を上げて着地した。

「何であいつを切れないのよ! あんたならできるかもって大分期待してたのに」
「勝手なことを言うな、何だ? あれは」
「聞いたことくらいはあるでしょう? ある程度以上高位の吸血鬼は、装飾具を含めた体
を霧に変えることができるのよ。その効果は見ての通り……退魔の技を使う連中はあの状
態でもダメージを与えることができるって言うけど、あんたの腕前で死角から攻撃して無
理だったんだから、多分普通の人間には無理ね」
「あの男、吸血鬼なのか?」
「今さら何言ってんのよ。さっきの場所にいた連中はほとんど人間じゃないわよ。もっと
も、自分の体を変質させることができるような高位はいなかったみたいだけど」
「……俺もお前も、そんな化け物相手に思い切り啖呵を切ってしまったぞ?」
「きっぱりと忘れて水に流してくれるといいんだけど……あいつ、忘れっぽいタイプには
見えないわね」
「ああ。これは俺の私見だが、あれは些細な事を何時までも根に持つタイプだ。見たとこ
ろ、友達はかなり少なそうだが……」
「……何時までも貴様達に構っているほど、僕も暇ではないんだ。霧となる僕の力は見た
だろう? あれを破る方法がないのだったら、大人しく僕に八つ裂きにされろ。あるのだ
ったらさっさとそれを見せてくれ。今から検討するなどもっての外、時間の無駄だ」

こちらの声が聞こえていたのか(剣もイレインも、聞こえるように話したつもりだった
のだから当たり前だが……)相対するだけでも感じていたプレッシャーが、さらに研ぎ澄
まされていく。

「イレイン、何かいい知恵はないか?」

 さすがにただの小太刀では霧を切り裂くことはできないし、剣にそれをするだけの能力
はない。これでイレインに何も策がなければ、本気で八つ裂きにされかねない雰囲気では
あるが――彼女は神妙な面持ちで、頷いて見せた。

「一応ね。アイツにも効きそうな武装も一応持ってるけど……発動するまでに少し時間が
かかるのよ」
「どれくらいだ?」
「一分。それだけあれば、確実にブチ当てることができるわ。その間、私にあれを近づけ
させない。そんな大仕事、ポンコツの体でできる?」
「…………聞いておくが、その技であれを倒すことはできるのか?」
「あれに対して使ったことはないから確証はないけど、大丈夫だと思う。でも、それ以前
にあたし達には他に方法がないの。もう一度聞くけど、あんたはそんな不確かな技に、決
して自分ではない他人が生み出すチャンスに、一つしかない自分の命を賭けることができ
るっての?」

 その質問に剣は何も答えず、八景の切っ先を男に向けた。剣という人間を構成するあら
ゆる要素が、男に相対してはいけないと警告を発するが、僅かなプライドと理性でそれを
無理やり押し込めた。

 腕はそこそこ立つつもりだが、眼前の男には正直勝てる気がしない。イレインがどんな
隠し玉を持っているのかしれないが、刃が素通りするような敵に効果があるかと考えると、
それも疑わしい。断言してもいいが、ここで男と戦うことは愚かなことだ。

「お前がそれしかないと言うのなら……」

 だが、その対価に自分の命を賭けなければならなくても、その愚かをしなければならな
い時というのが、確かに存在する。男としてのプライドか、剣を振るう者としての意地か
……それらが理性の生み出した判断を超えて、剣という人間を突き動かしていたのだ。

「俺はそれを信じよう。そのために何でもしよう。それが俺の義務であり、願いだ」
「…………死んだらあたしも、すぐに後を追ってあげる。だから、死ぬ気で行きなさい」
「承ろう」

 その間、男はずっと嘲笑を浮かべてこちらを眺めているだけだった。強者としての余裕
がそうさせるのか……何れにしても、される側にしてみれば気分のいいことではない。

「段取りは決まったようだな。もう、始めてもいいか?」
「律儀に待っていてくれるとは……全くそうでないように見えて、実はいい人なのか?」
「……御託はもう十分だ。時間が必要なのだろう? なら、そのガラクタのような体を使
って、さっさと稼いで見るがいい」
「言われなくとも!!」

 制限時間はおよそ一分。手負いの体に最後の鞭を入れ、肉食獣のような低姿勢で疾走す
る。右手には小太刀、左手は何気なく地面を引っ掻いて小石を回収し、それを男の死角に
なる位置から指弾で放つ。

 数にして五つ。タイミングもスピードも着弾点も僅かにずれたそれらは、しかし部分的
に霧となった男の体を素通りした。

「そういった攻撃は無意味だよ」
「試せることは全て試すまでだ」

 手数、威力、タイミング……人外を相手にするための特殊な技能を持ち得ない剣にとっ
て、選択できる方法はその程度しかない。今までの男の言動や行動も考慮に入れると、そ
の程度でダメージを与えることすら不可能に思えるが、そんなことはもはや関係なかった。
今できることを、全力で。自分は命を賭けてイレインを信じると決めたのだ。たとえ意味
のない行動だったとしても、剣にはそれに全てを傾ける義務がある。

(惚れた弱みというやつか……)

 手負いとは思えぬ速度で小太刀を繰りながら、心中で苦笑する。愚かな行動だとは思う
反面、そんな馬鹿を肯定する自分も確かに存在するのだから、始末に終えない。

 悲鳴を上げる関節を無視して、ワンツー。霧になるまでもないと判断したのか、男は何
気なく翳した掌でそれらを受けるが、受けた瞬間、その顔に苦痛の色が浮かんだ。

 普通、打撃の衝撃というのは体内に留まらず、外に突き抜けるものだが、ある程度の武
術を修めた人間は、その衝撃を内部に停滞させることができるようになる。

 剣が今放ったワンツーもそれだ。それを受けてしまえば、いかに人間離れした身体能力
を有していようとも、対抗することはできない。さらに先の領域に進んだ人間は、内部に
浸透するその衝撃にまで対抗するというが、裏を返せばそこまでしなければ対抗できない
ということ。武術を修めた気配のない男にそれを望むのは、無理な相談だろう。

「効くだろう? 俺の攻撃は全て霧で受け流すのが無難だぞ? 如何に種族的な能力が優
れていても、お前自身の動きが粗雑では対応できまい」
「高貴な僕から下賎な貴様にに対するささやかな贈り物だよ。全てが無意味に終わってし
まっては、何事もつまらないだろう?」

 聞くもの全てに不快感を残す声で笑いながら、男は距離を取った。その声に、焦りの色
は当然のように存在しない。吸血鬼という種族が、一体どれほどの力を有しているのか知
れないが、今は夜で、空には満月が輝いている。全ての存在に分け隔てなく光を注ぐはず
の月が、今宵は何故か男の味方をしているように剣には思えた。

「……お前が、吸血鬼が、人間以上の能力を有しているのは認めよう」

 夜の支配者である男は、悠然と剣の言葉を聞く。

「だが、それだけで世界の覇者になれるような時代はもう終わったはずだ。お前が下賎と
蔑む人間とだって、手を取り合っていかなければならんのではないのか?」
「命の遣り取りをしている最中に、愉快なことをほざくな? 無論、考えたことはないで
もない。そして厄介なことに、一族の中ではそちらの方が主流なのだ。僕のような考えの
者はもはや異端でしかない」
「ならば――」
「だがね、それでも譲れないものがあるのだよ。お前は、家畜と共に生きることができる
というのか?」
「……ならば家畜の力、ご覧に入れよう!」

 感覚のない手足を引きずりながら、それでもイレインの言った時間を稼ぐために、剣は
疾走し、小太刀を繰り、衝撃を乗せた拳を突き出す。しかし、小太刀は霧と化した男の体
を素通りし、衝撃を乗せた拳は粗雑ながらも人間には到底及びもつかない速度で回避した。

「どうした? 家畜の拳を受けられないのか?」
「受けられないのではない、受けたくないのだ。高貴なこの身が穢れるからな」
「穢れるような体など、お前には存在しないよ」
「家畜に決められることではない」

 拳を回避した動きそのままに、後ろ手に拳を――コンクリートの壁くらいは楽に粉砕で
きそうな速度で振るう。剣はそれを寸でのところで回避、小太刀を持った方の拳を突き出
す……ように見せかけて、肩からブチかましをかける。

 肉薄するような距離で体ごと突っ込まれては、回避はほとんど不可能。しかも衝撃を乗
せているために、直撃すればそれなりのダメージを受けることになる。男は一瞬でそれを
判断したのか、それとも本能的に察知したのかしれないが、とっさに体全てを霧ににして
回避し、剣の背後、イレインとの間に割り込む形で出現する。

「残念だったな。それが当たれば、少しは戦況も変わっただろうに」
「……思うのだが、無意識の攻撃に対しても霧になれるというのは反則ではないのか?」
「そこが僕が高貴である由縁だな」
「なら、これも避けてもらおうかしら?」

 一分が、過ぎた。男に向かって突き出されたイレインの両の手は、肘の当たりまでが蒼
い光に包まれている。光の正体は、緻密に刻まれた異国の文字。それらは明滅を繰り返し
ながら周囲の空間に対して影響を与えていく。

「…………魔術装置、か。一族の秘法を備えているとは、流石は最終機体と言ったところ
だな」

 常に余裕を湛えていた男の顔から、それが消える。魔術装置……それに対して一切の知
識を持たない剣にも解かるほどのプレッシャーが、イレインから放たれているのだ。それ
が傲岸不遜を絵に描いた男を、怯ませている。なるほど、奥の手と言うだけのことはある
ようだった。

「あたしを作った連中は身内すら信用してなかったみたいね。あんた達みたいな連中を殺
すための能力(ちから)が、あたしには腐るほどあるのよ。これはその一つ……『偉大な
る世界』。この能力で限定された空間の中では、一族のあらゆる力が制限されるわ。この中
ではあんたもただ力が強いだけの凡人よ。さあ、さっさとうちの男に殴られなさい!」
「世にも珍しいものを見せてもらったのだ。家畜相手とは言え、その報酬に殴られてやる
のも吝かではない気がするが……対して整備もされていないその身でこの結界を維持する
のは、骨ではないか? それに霧になれないだけで、それ以外の能力が制限される訳では
ないようだ。もはやゴミ寸前の君の男に、果たして僕に一矢報いるだけの力があるかな?」

 イレインには申し訳ないが、その言葉に反論するだけの力は、剣には残されていなかっ
た。油断でもしてくれていればまだ望みもあったのだろうが、秘法とやらを目にした男の
気配は、既に狩人のそれに変質している。意表をついたとしても、おいそれと攻撃を受け
てはくれないだろう。

 小太刀を構え、それでも隙を窺いながら少しずつ男との距離を詰める。

 イレインがこの『偉大なる世界』とやらを発動させていられる時間にも限りがある。こ
の結界が霧の能力を制限している以上、効いている間に仕留められなければ剣もイレイン
も終わりだ。他に助けが期待できない以上ここで倒すしかないのだが……

(あまり言いたくはないが……無理な相談か)

 だが、イレインが命を張っている以上、剣も張らない訳にはいくまい。万に一つの奇跡
に賭けるか、このまま命を落とすか……いずれにしても、碌でもない人生だ。

「僕からのせめてもの慈悲だ。痛い目を見せるのはお前からにしてやろう。せいぜい木偶
人形の前で惨めに膝を折るがいい」
「剣! あんたなんとかしなさいよ! こんな偽優男に殺されてもいいの!?」
「……人の話を聞いていなかったのか? 不本意ながら、僕はお前達の味方なのだよ。本
気で八つ裂きにしてやりたいのは山々だが、そんなことをしては僕の首が比喩抜きで飛び
かねないのでね」
「ならばどうして俺達は争っているのだ?」
「決まっているだろう……この僕の退屈凌ぎのためさ」

 男の右手、その爪が伸び刃物のように硬質化する。イレインの両腕はまだ輝きを失って
いないが、男の言ではイレインを放り投げた腕力はまだ健在とのこと。手中の小太刀があ
の爪の負けるということはあるまいが、あれを受け止める自信は剣にはない。

 もはやこれまでか、と半ば諦めながら構えを取る剣。しかし、その視界の端に何か煌く
ものが入った。

見間違いかと一瞬注意をそちらに向けるが、それに対する反応は男の方が早かった。

 男は大きく地を蹴ると、大きく腕を横に振った。遅れて何かの炸裂する音と、金属質の
何か――男の爪が砕け散る音が夜の森に響く。

 何が起こったのか、剣やイレインが理解するよりも早く、事態は進む。男は同じ位置に
一秒と立ち止まらずに体を動かし続け、夜の闇から飛び出してくるものを避け続けた。遅
れて、届く硝煙の匂い……誰かが男を狙撃しているのだと、この時初めて剣は理解した。

 やがて、そこらの地面が掘り返され尽くした頃、音は止んだ。男は何事もなかったかの
ように腕を組んで深いため息をつき、夜の闇に対して口を開く。

「この仕事は僕に任されていたと思ったのだがね……やはり、僕は信用できないか?」
「理解しているのなら、そういう行動は控えなさい。本当に当主になれなくなるわよ?」

 闇から分かれるように生み出されたのは、紅い女性。スレンダーなその身を闇色の服で
包み、その手には無骨な金属製の塊――彼女の身長ほどもあるライフル銃を抱えている。

「さくら。お前が来たということは制圧は完了したと考えていいのだな?」
「結構よ。貴方に出来る仕事はもう残務処理しかないわ。彼らの保護は綺堂の方でします
から、さっさとこの場から消えなさい」
「これでも寝る時間を割いて参上したんだがね……」

 肩を竦めて男は苦笑する。その姿にはどことなく哀愁が漂っていたが、同情の気は不思
議と沸き起こらない。

「それでは僕はこれで失礼するよ。命拾いしたな、下賎に木偶」
「できれば、俺はもう二度と貴方には会いたくありません」
「ならば、そのように祈っておけ。今宵僕を前にして無傷でいられたのだ。貴様には案外、
月の加護がついているのかもな……」

 吐き捨てるようにそう呟くと、男の姿は溶けるように夜の闇に消えた。遅れて現れた女
性――さくらは、待っていましたとばかりに深いため息をつき、こちらに歩を進める。

「馬鹿が失礼したわね。さっきも言ったように、貴方達は綺堂の方で保護するわ。イレイ
ンの方はここを出たらすぐにでも月村の家に回せるけど、恭也君は病院に直行だから、忍
に会うのはもう少し先になると思うわ。その辺は、覚悟しておいてね」

 言いながら、さくらは剣の体を弄り始める。怪我の具合を確かめているのだろうが、妙
齢の女性に体を触られるのは、男としてアレだった。

「相当に体を酷使したみたいね。出血はないみたいだけど、中はぼろぼろよ? いくら体
内に一族の血を入れていると言っても、限度があるわね。知り合いに腕のいい魔術師がい
るから、とりあえずの治療はその人に頼むけど、それでも一ヶ月は絶対安静ね」
「あの……俺は……」
「この一週間何があったのか私は知らないけど――」

 さくらはその目を真紅に染め、剣の瞳を正面から見据える。

「私もこの一週間、遊に付き合わされてストレスが溜まっているの。つまらないことを言
うようだったら、遊ではないけど死ぬ目を見てもらうから、そのつもりでね」
「…………解かりました、さくらさん」

 剣は溜まりに溜まった息を吐き、白旗を揚げると同時に全身の力を抜いて倒れ伏した。
真に記憶が混乱していた時から気の休まる時がなかったが、今ようやく肩の荷が降りたよ
うた。

「ねえ、あんたは味方なの?」
「少なくとも、遊よりはましよ」

 倒れ伏した恭也の頭の下に自分の膝を入れながら、それでもさくらは彼の体を弄り、応
急処置のできる箇所に、てきぱきと処置を施していく。

「これから貴女は忍の所に連れていくけど、異論はないわね?」
「別にないわ。どこだったとしても、ここよりはましでしょ? 剣の――恭也だっけ? 安
全だって保障してくれるなら、あたしからは何も言うことはないわ。いい加減、そろそろ
エネルギーの残量も限界みたいだし」
「決まりね。施設の制圧は完了したから、すぐに向かえが来ると思うわ。恭也君は起きて
いるのもつらいでしょう? そのまま寝ていないさい」
「さくらさんに膝枕というのは……お手数をおかけしまくっているような気がするのです
が……」
「気にしなくていいわ。私は忍に告げ口したりしないから。もっとも――」

 瞳を元の蒼色に戻し、意地の悪い笑みを浮かべながら、

「この一週間の間に何があったか……忍共々、しっかりと聞かせてもらうから」
「勘弁してください…………」

 疲れがどっと押し寄せる。肩の荷は、まだ降りていないようだった。