Fullmetal princess 最終話
























「はい、じゃあゆっくりと体を動かしてみてください」

 ここ数日、掛かりきりで自分の治療をしてくれた女性の言を受け、恭也はゆっくりと体
を動かした。足、腕、首に指先に至るまで入念に動かし、その反応が以前とまるで変わり
のないことに、感嘆のため息を漏らす。

「自分の体のことですが、ここまで治りが早いというのは、やはり面妖ですね」
「貴方の中には忍の血が入ってましたから、私の魔術の効きが良かったんですよ。人間は
本来、太陽の加護を受けているんですけど、貴方の加護は月に変わっているようですし」
「それは、俺も人ではなくなったということですか?」
「い〜え。貴方はちょっと頑丈なだけの人間さんですよ。安心してください」

 にこ〜っと、女性は柔らかな笑みを浮かべて立ち上がった。さらさらした長い銀髪が、
日の光を受けて輝いている。夜の加護を受けているというが、その姿はまるで妖精のよう
で、美人は見慣れているはずの恭也でも、思わず見とれてしまうほどだった。

「あらあら。貴方のように素敵な男性に見つめられるのは嬉しいですけど、心に決めた女
性がいるなら、こんなオバさんに気を取られては駄目ですよ。夜の一族の女性は皆、嫉妬
深いですから」
「申し訳ありません。決して邪な気持ちがあった訳では……」
「分かっていますよ。でも、その言葉は忍に向けて上げてください。きっとあの娘が一番、
貴方の身のことを心配していたはずですから」

 そう言って春の日差しのように微笑み身を翻す女性に、恭也は『あ……』と間抜けな声
を上げた。

「どうしたんですか?」
「あの、貴女のお名前を教えていただけませんか?」
「私は魔術師ですから、今の貴方にフルネームを名乗る訳にはいきません。そんな失礼な
人相手でも話をしてくださるというのなら、私のことはエリザと呼んでください」
「失礼など……こちらこそ不躾なことをしてしまったようで、申し訳ありません」
「構いませんよ。もっとも、貴方になら、すぐにフルネームを教えることになると思いま
すけど」

 それでは、と魔術師を名乗る女性は、最後まで爽やかに恭也の前から姿を消した。その
余韻に浸る間もあればこそ――

「恭也、生きてる?」

 ドアを開け、ひょっこりと顔を出したのは血の盟約を交わした思い人、月村忍だった。
その後ろに影のように付き従う、メイド服姿のノエル=綺堂=エーアリヒカイト。部屋か
ら出たことはないので判然としないが、確かここは病院だったはずだ。いくら一族の息が
かかっているとは言え、事情を知らない一般の人間も少なからずいることだろう。その中
を彼女はメイド服で来たというのだろうか。

「これが私の制服ですから」

 ご要望とあらば着替えますが、と心中を読んだノエルが呟く。

「別段難癖をつけるつもりはないが……それでは目立つのではないか? 確か以前は普通
の服を着ていたと記憶しているのだが」
「最近は修理ばっかりで服なんて着る暇がなかったから、これでも着たりないんじゃない
の? ま、メイド服もかわいいから、私はこれでもいいけど」
「主であるお前がそう言うなら、俺から言うことは何もないな」

 大きく息を吐き、ベッドに身を投げ出す。さくらに釘を刺されるまでもなく、こんな状
態では運動などできるはずなどないし、する気も起きない。一月も掛からないうちに退院
できるだろうが、その間はずっと退屈な生活を送ることになるだろう。

「私は入院ってしたことないから分からないんだけど、やっぱり退屈だよね」
「ああ。風景でも見ながら思索に深けるくらいしか、今の俺にはすることがない。何か読
むものでもあればいいのだが……」
「一応、うちの本棚からいくつか持ってきたよ。恭也の本の趣味ってまだ分からないから
セレクトは本当に適当だけど」
「何を持ってきたのか知らんが、何もないよりはましだ。ありがたくお借りしよう」

 そこそこに重量のありそうなバッグを傍らに置き、忍は手近な椅子に腰かける。ノエル
はと言うと、誰に言われるでもなくリンゴを取り出し、てきぱきと剥き始めた。

「それで、その後どうなった?」
「安次郎の残党は全て捕らえられたし、資産は全部凍結させたわ。うちの火災は大したこ
となかったし、その修理費すら安次郎のなけなしの資産から出されるんだから、懐も全く
いたんでないし……長年の悩みも解消されたから、恭也のこと死にそうなくらい心配した
ことを除けば、私にとっては概ねプラスね」
「すまんな。それと、助けていただいたさくらさんには、何か礼をしなければと思うのだ
が……」
「怪我が完治してからお越しくださいと、さくらお嬢様から託を預かっております」

 何気にうさぎになっているリンゴに楊枝を刺しながら、ノエル。

「他、お世話になった方々には忍お嬢様と私で挨拶は済ませて参りました。恭也様はお怪
我を治すことに専念なさってください」
「承ろう……」

 他にも誰かいたような気もするが、思い出せないというのなら、それは別段気にしなく
てもいいことなのだろう。何となく、ああいう風に命の遣り取りをした人間とはあまり顔
を合わせたくはないし、忍もノエルも『その名』らしき物を口にしないことも合わせて考
えれば、態々礼を言いにいく必要はないように思える。

「で、もう一つ聞いておきたいことがあるのだが……」

 あの日の夜の後半部分、その一部を綺麗さっぱりと記憶の中から消去して、最後の疑問
を口にする。

「分かってるよ、イレインのことでしょ?」

 ぽりぽりと頭を頭を掻きながら、忍はどことなく嬉しそうに口を開いた。

「魔術装置なんて代物を調整なしで動かしたせいで体に大分ガタがきてたけど、うちにコ
ピーの残骸があったし、修理は抜かりないよ。解析には時間がかかりそうだけど、それは
追々何とかすればいいだけの話だし――」
「いや、技術面に関してお前を信用している。それより俺が聞きたいのは、あれがどうい
う扱いになるかということなのだが?」
「そんなに私を差し置いて作った『恋人』が心配?」
「いや……それに関しては謝ることはできないが、忍やノエルを不快にさせたことに関し
てだけは、申し訳なく思っている」
「……まあ、恭也が器用な生き方できないことなんて、最初から知ってたけど。この忍ち
ゃんへの愛が変わらいというなら、この件は寛大な心で水に流してあげます」
「高町恭也、ここに謹んで月村忍への変わらぬ愛を誓う」

 だからこれ以上は勘弁してくれ、と情けない暗喩を含んだその言葉を正確に汲み取った
のか、忍は満面の笑みを浮かべてうさぎさんリンゴを口に運んだ。

「ノエルがどういう扱いになってるかは知ってるでしょ? 形式的には私の所有物ってこ
とになってるけど、戸籍はさくらのとこにあるの。分散させることで、バランスを取って
るのね。だから、イレインにも同じことが適用されるんだけど……ちなみに戸籍上の名前
は、イレイン=氷村=マシーネプリンツェッシン。二つ続けて綺堂だと困るから、氷村の
縁者ってことになるわ」
「どこに戸籍があるかはこの際問題じゃない。つまりは、イレインもノエルと同じように
月村家で働くということだな?」
「そうよ。なんだったら恭也専属のメイドってことにしてもいいよ。その代わり、ばっち
りとデータは取らせて貰うけど」
「それは――」
「それは、プライバシーの侵害と言うのではなくって? 忍お嬢様」

 声を遮って現れたのは、黒衣を纏った金髪美人。ドアに寄りかかり、不遜な態度で忍を
見やる彼女が着ているのも、ノエルと大分感じは異なるが、メイド服であった。

「あら、マイスターが人形のデータを取るのは当然のことよ。ミスで恭也が怪我なんてし
たら、貴女だって嫌でしょ?」
「あたしに限ってそんなヘマはないわよ。だから、四六時中データを取るなんてことは勘
弁してね。そんなんじゃ、恭也を襲うことだってできやしないじゃない」
「おい待て。あるなしに関わらず、最後のそれは認知できないぞ」
「こっちのお嬢様と姉さんはお手付きなんでしょ? それなのにあたしだけなしってのは、
仮にも恋人なんだし、あんまりなんじゃない?」
「それは……そうかもしれないが……」

 だからと言って、さあしましょうと言えるような器用さを、恭也が持ち合わせているは
ずもない。イレインの直接的な物言いに真っ赤になっていると、悪戯好きのマイスターが
口を挟んだ。

「データを取って、私が手を加えた方が恭也も気持ちよくなれるし、イレインだって気持
ちよくなれるよ。いくら貴女が最終機体と言っても、そこまでの機能はないでしょ? お
互いのためにも、ここは妥協しておくべきだと思わない?」
「なんか……あたしだけが損してるような気がするんだけど」
「その分私は貴女の整備に時間を割くんだから、フィフティでしょ?」
「……まあ、そういうことにしておくわ」

 忍との話を打ち切り、恭也へと向き直るイレイン。ドイツ系の美女である彼女にメイド
服――黒を基調とした、シックな感じのするもの――は言うまでもなく似合ってはいたが、
服に気をかけるということを彼女はしないらしく、メイド服を着ているのだ、という印象
を全く与えない。

「恋人ってこととは違う形になったけど、これでもいいかしら?」
「お前がいいと言うのなら、俺からは何も言うまい。記憶がなかったと言え、俺がイレイ
ンに対して不誠実をしたということに変わりはないからな」
「仮にもあたしの恋人なんだから、お嬢さんも姉さんも、みんな手篭めにするくらいの根
性見せないさいよ」
「……俺は男だからよく分からんのだが、女性というのはもっとそういうことを気にする
ものなのではないのか?」
「マイスターからお許しがでたの、聞いてなかったの?」
「聞いてないではないが……」

 男としてはむしろ願ったり叶ったりなのだが、それは心の中にしまっておいた方がいい
だろう。ノエルの剥いてくれたうさぎさんリンゴを口に運びながら、恭也は渋面を作る。

「てな訳でよろしくね、ご主人様。わたくし、イレイン=氷村=マシーネプリンツェッシ
ン。ご主人様のご要望にお応えできますよう、誠心誠意ご奉仕させていただきます。です
から、どうぞ御寵愛ください」

 男ならば誰でも落ちそうな笑顔……魅力的であるとは思うが、その裏に何が含まれてい
るのかを考えると、おいそれと喜ぶ訳にもいかない。ここで即座に受け入れようものなら
碌でもない過労死が確定してしまうのだから。

(記憶が消えたはずなのだがな……俺は)

 貴重な体験をしたと思う。しかし、それでも女に弱いという自分の宿星は変わらなかっ
た。人間の本質がそう変わるとも思えない。おそらく自分は、一生女性に――特に惚れた
女性には逆らえないのだろう。

 怪我が完治するまでまだしばらく……嬉しい地獄は、すぐそこにまで迫ってきている。