見知らぬ世界にやってきて一日目は、部屋に案内されて床に就いただけで終わった。プレ

シアの口ぶりから犬小屋でも与えられるのかと思ったが、案内されたところにはちゃんと屋

根があり、ベッドもあった。何とドアには鍵がかかるようになっているという優れものだ。



 もっとも、それは鍵のかかるドア、寝るためのベッド、それから雨露と風を凌ぐための屋

根と壁がある『だけ』ということでもある。他には何もないのだ。文机もクローゼットもな

い。



『野に出るよりはマシではないか』

(剣士には戦場だけがあればいいのだ……)



 愉快そうな相棒の思念に、憮然として答える。



 武器はないが身体は動き、修めた技もある。扱いにはまだ難があるが新たな力にも目覚め

た。やらなければならないことは山ほどあるのだ。戦いの機会はいまだ見えないが、少なく

ともこれでしばらくの間は心の乾きを感じることはないだろう。



 軽いストレッチをして部屋を出る。歩いて十秒とかからない位置にあるフェイトとアルフ

の部屋へ。時刻は午前九時――無論、この世界の基準でだ――この世界の生活習慣を知るべ

くもないが、早いということはないだろう。



 プレートも何も出ていないフェイトの部屋に。実家にあった女性らの部屋は部屋の外と言

っても華やいでいたものだが、それに比べると殺風景に思えた。華美な装飾は好みではない

からシンプルなこの外観はむしろ恭也の好みではあったが、年頃の少女がこれではどうなの

か、とも思う。



 どうしたものかとため息をつきながら、ノックのために手を持ち上げる――ドアが開いた

のはその瞬間だった。



 拳を振り上げた状態の恭也と、完全武装したフェイトの視線が交錯する。しばしの沈黙―

―先に視線を逸らしたのはフェイトだった。興味がなさそうに恭也の横を通り抜ける。



 無視。心底嫌われている訳ではないようだが、勿論好かれてもいない。心の壁をひしひし

と感じる。



「昨日も言った気がするけど、あまり気にしないでおくれよ」

「気長にやるさ。しかし、お前は物怖じしないな、アルフ」



 素っ気無いフェイトとは逆に、赤髪の使い魔は長年の友人に向けるような笑顔を浮かべて

いる。昨日の気まずい空気を引き摺ってもいなかった。挨拶代わりに背中をばしばし叩きな

がら、今更ながらに疑問を浮かべる。



「それで、こんな時間にどうしたんだいキョーヤ」

「色々と聞きたいことができたのでな。食事はどうしてるんだ?」

「好きな時間にとっていいことになってるよ。あたし達は朝、昼、夜の三回。朝は訓練に行

く前に軽く食べて、訓練が終わったら昼ご飯。午後はフェイトが勉強に使うからあたしは昼

寝でもして、勉強が終わったらまた訓練。その後に夕ご飯を食べてフェイトはまた勉強。そ

の後に風呂に入って寝るね。特に用事がなければ、そんな生活をしてるよ」

「寝るのは何時頃だ?」

「遅くても一時くらいだよ。フェイトはたまに起き出して勉強してることもあるけど」

「ふむ……」



 予想していたよりは緩い訓練メニューだった。御神の鍛錬と比べれば大抵のメニューは緩

いのだろうが、十歳前後の少女に課す鍛錬にしては聊かハードと言える。



「休養日とかはないのか?」

「んー……フェイトが疲れてるように見えたら、あたしが休ませてるよ」

「つまり、決まった期間に休んでいる訳ではないのだな?」

「フェイトが訓練をしたがるからねぇ……あたしはもう少し気を抜いてもいいと思うんだけ

ど」

「若い時はそういう強迫観念にかられるものだ。俺にもそんな覚えがある」

「何いってるんだい。あんただってまだ若造じゃないか」

「……あぁ、そうだったな、そう言えば」



 言われて初めて、身体が若返っていることを思い出す。



(そう言えば、何故こんなことになっているのだ)

『サービス……と言うのか、最近の言葉では。老いているよりは若い方が良かろう』

(いきなり違う体になっては鍛錬をやり直さなければならんだろうが。もしかして、頻繁に

若返ったりするのではないだろうな)

『安心しろ。若返りはこれで打ち止めだ。我もそこまで暇ではないのでな』

(サービスをしたいのなら、次からはもう少し気の利いたことにしてくれ)

『では出来るだけ汝の要望に沿う形にしてやろう。希望があったら言ってみるがいい』

(何もするな)



 相棒に一方的に宣告し、鍛錬のプランを考える。十六歳にまで身体が若返っていのだとす

れば、鍛錬もそれに合ったものに変更しなければならない。これからこの身体が順当に時を

重ねるのだとすればこれから成長するのだから。



 一度体験しているだけに、一回目よりは効率のいい鍛錬ができるだろう。小太刀も小刀も

飛針もないのは問題だが、ないものを強請っても仕方がない。



「それでものは相談なんだが、俺もアルフ達の鍛錬に参加させてもらえないだろうか。今の

状態では相手にならんだろうが、一人でやるよりは効率が良さそうなんでな。こちらの戦い

方も見てみたいし、もしかしたら俺の方からも何か助言ができるかもしれんのだが……どう

かな」

「いいんじゃないか? あたしも人は多い方がいいと思うよ。構わないよね? フェイト」

「私は……アルフがいいって言うなら、いいと思う」

「よし、決まりだ。ついでだし、訓練場までの間だけど時の庭園の中を案内してやるよ。ペ

ットのくせに迷子になったら、かっこ悪いだろ?」

「ペットと言うのは何だが……助かる。すまないな」

「いってことさ。同類だろう?」



 朗らかな笑顔。誰にでも優しくはないだろう女性がこうして笑いかけてくれていることに、

この上のない幸福を感じる。感謝の言葉が口をつきかけたが……止めた。ここで何かを言う

のは酷く無粋な気がしたのだ。



 遠足に出かける子供のような足取りで、アルフは歩く。赤色の尻尾は楽しそうに揺れてい

た。


 ふと、強い視線を感じた。フェイトである。何時の間にか先頭になっていたアルフと恭也

を交互に眺め、恭也に対して強い不満の表情を向ける。


 昔、美由希がこんな顔をしていたのを思い出した。幼い時分に、猫に無視された時のこと

だった。その猫はなのはと自分にじゃれ付き、美由希には見向きもしなかった。基本的には

動物に好かれる性質の美由希にしては珍しい明確な敗北だったため、記憶に残っていたのだ。



 フェイトはいま、その時の美由希と同じような顔をしている。自分がやり場のない感情を

抱えていることと、それがどうにもならないものだということを同時に自覚している、そん

な顔だった。



 こういう時に、自分のボキャブラリィのなさを痛感する。かけるべき言葉が思いつかない

のだ。何かを言うべきだとは思うのだが、今思いついた言葉を口にすると、フェイトとの間

に開いた溝がただ事でない大きさになる。そんな予感がした。



 そして、高町恭也という人間は悪い予感だけは嫌になるくらいに当てる。悪寒に苛まれて

いる間に、フェイトはぷい、と顔を逸らすとアルフの隣に並んだ。当てつけのように笑顔で

会話を始める二人……無性に、海が見たくなった。臨海公園で海を見ながら、チーズ味のタ

イヤキを食べたい。



『あの金色の小娘に、尻尾でも振ってみたらどうだ? 服従の意思を示せば上手くいくかも

しれんぞ?』

(こんな愛想のない動物では、逆に噛み付かれるのがオチだな……)



 いずれ仲良くなれればいい。そう思うことにした。























 訓練場と聞いていたから屋外と勝手に判断していたが、案内されたのは屋内の運動場だっ

た。それでも広大な空間は確保されている。実家にある道場と比較すれば、数百は軽く入る

だろうが、がらんとした空間には寂しさすら感じられた。



「なんて顔してんだい、キョーヤ」

「……言いたいことを言う前に、言っておくことができた。細かいことかもしれないが、俺

の名前は恭也だ。キョーヤではない。きょ・う・や。リピートアフターミー」

「キョウヤ?」

「まだかたいな。きょ・う・や、さんはい」

「きょうや……恭也?」

「正解だ。次からは出来たらそう呼んでくれ」

「分かったよ、キョーヤ。で、何か言いたいことがあるのかい?」

「……鍛錬なら外でやったほうが気分がいいと思うのだが?」

「やりたきゃやってもいいけど、あたしは薦めないよ? ああいう空は見てて気分が悪くな

るんだよねぇ……」



 気分の悪くなる空というものが恭也には想像ができなかったが、本気で気分の悪そうなア

ルフを見れば、それだけで十分だった。



「慣れればここも悪くないよ。でも、たまには青い空の下を思い切り駆け回ってみたいもん

だね」

「生きていればそのうちそんな機会にも恵まれるだろう。それまではここで出来る限りのこ

とをせよ、そういうことなのだろうさ」

「…………アルフ。始めよう」



 中空からフェイトの声。こちらのことは見ようともしない。嫌われたものだと苦笑を浮か

べる恭也に気付いたアルフが、小声で『すまないね……』と耳打ち。手を小さく振ってそれ

に応える。時間が解決するのを待つしかないのだ。



「じゃ、キョーヤはその辺で適当にやっといで。なるべくそっちには飛ばさないようにする

けど、もし何かがすっ飛んできた時にはちゃんと避けておくれよ?」

「それくらいは何とかしよう。お前達はいつものように鍛錬をしてくれ」

「あいよ。何をやるのか知らないけど、あんたもがんばんなよ」



 笑顔と共に肩を叩き、アルフはフェイトを追って中空へ。そこで二言、三言を交わした二

人は部屋の両端に移動し、次の瞬間から目まぐるしく飛び回り始めた。



 速い。自分に空を飛ぶ能力がないことを差し引いても、二人の動きは見事なものだった。

武器の扱い方、身体の動かし方にはまだ無駄な部分も見られるが、動きそのものには淀みが

ない。時折見せる魔法も、戦術として使うに十分な展開速度を見せていた。



 アルフがいくつなのかは知らないが、フェイトが見た目どおりの年齢をしているのだった

ら、これだけの動きができるのは驚異的ですらある。少なくとも、自分があれくらいの年齢

だった時よりはずっとい高い成果を出しているだろう。



 天賦の才がある。努力もしている。それをさせるだけの何かが、譲れないものがあるのだ。

聊か思いつめ過ぎにも見えるが、それによって大きな壁にぶつかった時どうするのかという

のも、修行の一つだ。冷たいかもしれないが、それは自分で何とかするしかない。フェイト

やアルフが本当に困ったら、その時に初めて助けてやればいい。



 それよりも、目下の問題は自分だ。魔法が当たり前らしい世界で魔法を使えない自分は、

ひよっこ以下の存在である。早急に対策をたてなければ、本当にペット以下の存在になりか

ねない。



『そのために我がいると思え。退魔の連中と比べても遜色のない剣士にしてやろう』

(まさか、自分でそんな力を使う日が来るとはな……)



 思ってもみなかった。故郷にいた頃、もっと早くにざからと出会えていたら、違う世界も

見えていたのかもしれない。



『さて、まずは炎……といきたいところではあるが、気の扱いの方が急務だな。退魔師を見

たことがあるのなら話は早い。汝にはああいう風になってもらう。内在する気を繰り、それ

を停滞、放出し魔を祓う……退魔師がやっているのは簡単に言えばこうだ。そしてこれは、

人間に対しても有効である。見たところ奴らの扱っている『魔法』とやらも、この方式から

それ程遠い位置にあるのではないようだ。攻撃でも防御でも、我の知る方法は有効だろう。

力の使い方は、我が知っている。その我が内にあるのだから、汝の身体や魂はそれを記憶し

ているはずだ。普通ならば数年かかる鍛錬だが、汝ならば一月もあれば十分だろう。朝から

晩まで我が監督してやる。死ぬ気で鍛錬せよ』

「死ぬ気で鍛錬するのは慣れてるが……」



 近くに人もいなくなったので、遠慮なく声を出す。



「俺はあっちのフェイト達と戦えるようになるのか? 忌憚のない意見を聞かせてくれ」

『汝次第だな。ただ、我が汝の身体を使うとしたら、勝てる』

「つまり、俺にも勝てるということだな。幸先のいい話だ」

『いいか。まずは汝の体内にある気を意識できるようになれ。それを自在に操るところから

始める。我が補助をする。まずはこれを見ろ』



 ざからの声と共に、恭也の意識ががらりと変わった。今まで見えていた世界の上に、新し

い世界が重なったような感覚。新しい何かは自分の体の中にも、周囲のもの全ての中にもあ

った。



 大きな『何か』が動いているのを感じる。目を向けてみると、フェイトとアルフだった。

さらに離れたところに二人よりも巨大な『何か』……これがプレシアだと理解できた。



「人によって……違わないか? 色というか……いや、どうも表現に困るんだが。フェイト

の中にあるものとアルフの中にあるものは、違う気がする」

『生命の中にある気はその生命に染まる。違うのは当たり前だ。それで個々を区別すること

もできる。湖に封じられる前の我ならば、地平の彼方まで探知できたものだが……』

「流石にそれは嘘だろう?」

『どうだかな。真実だといったところで、今の汝にはそれを確かめる術はないのだからな」

「では俺も、地平の彼方まで探知できるようになると思うか?」

『それは最初に断言しておいてやろう。汝に我を越えることはできん』



 視界が元に戻る。何かが見えたという残滓がそれでも残っているような気がして、気分が

悪い。



「出来ん、と言われると挑戦してみたくなる」

『我は妖。汝は人間だ』

「妖怪を倒すのはいつだって人間だろう? お前を湖に縛り付けたのは、人間では?」

『人間と妖、それに獣だった。個々に数えるのなら、人は少数派だな』

「決めたぞ。俺はお前を越えることにした。後で吼え面をかかせてやる」

『期待しないで待つとしよう……さて、先の視界を意識せずとも知覚できるようになれ。見

ようと思えば見えるようになるはずだ。しばらくはこれを続けてもらう。始めろ』

「了解。相棒」



 特に集中するでもなくただ『見よう』と思っただけで、恭也の視界はまた一変した。ただ

見ようと思わないと見れないようで、気を抜いたら視界は一瞬で元に戻ってしまう。その度

に頭の中にざからの失笑する気配が伝わり、気合を入れて周囲を見る。その繰り返しである。



「…………なにやってんだい? キョーヤ」



 だが、本人は一生懸命でも、傍からみれば汗をかき、じっとしたまま唸り続けるだけの単

なる間抜けだった。気付けば鍛錬を終えたらしいアルフが、怪訝な顔をしてこちらを見つめ

ていた。その傍にはフェイトが、まるで汚物でも見るような視線を遠慮なく向けてくる。主

従の態度には相変わらず温度差があった。



『視界は出来るだけ維持しろ』



 ざからの言葉に、緩みそうになる気を引き締める。アルフから見たら、無駄に顔を引き締

めているように見えるのだろう。怪訝な顔は変わらずだ。



 何か理由はあるとアルフは思ってくれたようだが、フェイトはそう思ってくれなかったら

しい。アルフを守るようにして彼女の前に、武器を持って立つ。



「……凄い気だな、フェイトは」



 憮然としたまま、首を傾げるフェイト。漫画のような台詞。口に出してみて急に恥ずかし

くなった恭也は、『なんでもない』と手を振りながら、視界を元に戻した。頭の中でざから

が文句を並べ立てたが取り合うことはしない。



「俺はお前達みたいに魔法が使えないからな。代わりの手段を使えるようになるための鍛錬

をしていたのだ」

「プレシアに出した炎みたいな奴かい?」

「ああ。あれをきちんと制御できるようになるのが、目下の目標だな。他にも何かできるよ

うになるらしいんだが、今の段階では良く分からんのだ」

「よく分からない力を、よく使う気になるもんだ……」

「選り好みのできる状況じゃないってことだけは、理解できるからな。俺が元々持っている

技術だけじゃあ、この世界で苦戦するのは目に見えている」

「そんなことはないんじゃないかい? 魔導師じゃない人間だって、この世界にはたくさん

いるさ」

「だが、魔導師でない人間が魔導師に勝つのは稀だろう? そういうのが嫌だから、俺は新

しい力に手を出そうと思った。今まで身に着けた力が無駄だと言われているような気がする

から、実はあまり気分は良くないんだがな……」

「無駄ってことはないだろう? 力ってのはあって損はないもんだよ」

「なら、試してみるか? 魔法の使えない俺が、アルフにどれくらい通用するのか」

「…………面白いね。やってみるかい?」
「アルフならそういってくれると思ったよ」



 にやり、とお互いに笑い、フェイトを残して距離をとる。置いていかれた形になったフェ

イトは、やっぱり不満そう。移動してからお互いに彼女に気付いて、苦笑を浮かべる。気の

あった二人の姿に、フェイトはさらに不満そうな表情を浮かべた。



 フェイトに一瞬だけ視線を向け、アルフに。首を傾げて問う。アルフは一つ頷いた後、小

さく首を横に振った。仕草は、ただそれだけ。でもお互いに伝えたいことが伝わったことを

確信した二人は、微笑みを浮かべたまま、構える。



 観察する。構えとは言ったが、アルフには構えらしい構えはなかった。ただ相手にのみ意

識を集中し、喉元に喰らいつく。人の形はしていても、アルフの性質は獣のそれだった。生

前の士郎と山篭りした時、野犬の大群に囲まれたことを思い出す。あの時は飯が向こうか

ら来た! と狂喜した士郎が野犬以上の素早さでそれらを全滅させたものだが、目の前のア

ルフはその野犬全てよりも明らかに強い。



 野生をある程度持ったまま、人の形をし、理性を持っていることが如何に脅威なのか自覚

する。アルフは人間よりもずっと速く、力強い……命の危機であると同時に、そんな存在と

戦えることが、たまらなく嬉しかった。



『意見が一致したな。この高揚は久しぶりだ』

(悪いが、お前の力は使わない。俺は俺の持つ技のみで、アルフと戦ってみたい)

『もとより我もそのつもりだ。死力を尽くした戦いとは、本来そういうものなのだからな』

(見てるだけで満足なのか?)

『戦を見るに、これ以上の席はあるまい』

(違いない!)



「永全不動八門一派、御神真刀流小太刀二刀術、高町恭也……推して参る!」



 アルフと戦うのに、手加減はできない。最初から、全力で行く――







『神速』







 モノクロに染まった視界の中、アルフに迫る。流石にこの速度には追いついていないよう

だったが、明らかに反応が早い。間合いまでの距離はまだ五歩残っているが、この時点でア

ルフは恭也が消えたことに気付いたようだった。その目線がゆっくりと、恭也に向く――身

体がかつてないほど軽い――それはこのまま勝てる、と思わせるほど、恭也の身体を高揚感

が駆け巡った。



(勝てる……勝つ!)



 それは明確な意思となり、恭也を突き動かす。



 アルフの目が、恭也を捉える。それを意識した瞬間、再度アルフの視界から逃れ、全速で

彼女の背後に。がら空きの背中。そこに向けて、弓を引くようにギリギリまで引き絞った左

手の照準を合わせる。







『御神流 裏 奥義ノ参 射抜』







 爆発的な踏み込みの共に、引き絞った左腕を突き出す。タイミング、威力、全てパーフェ

クト。文句のつけようもない一撃だった。アルフはまだこちらに気付いていない。多少素早

い程度ではこれを避けることはできないのだ。この瞬間、恭也は勝利を確信した。しかし―





 恭也の拳は、輝く壁に阻まれた。昨日、ざからの炎をプレシアが防いだ時に出した壁と同

種か――しかし、今回アルフはこちらに気付いていない……自動で出せる防御フィールドと

いうことなのか。


「嫌な世界だな、まったくっ!」


 神速が解けると同時に、待っていたとばかりにアルフの追撃がくる。本能的に相手がどこ

にいるのか解ったのだろう。振り向きざまに放った一撃には、怖いくらいに力が入っていた。



 直撃すれば骨が砕けそうな一撃が、目の前を通り過ぎていく。大きくバックステップ、ア

ルフはまだ追ってくる。右と左のコンビネーション、続いて頭部を狙ったハイキック。どれ

も当たれば必殺の一撃だったが、おそらく一度も師についたことがないのだろうアルフの攻

撃には僅かではあるが無駄があった。



 神速の領域に踏み込んだ恭也からすれば、それは致命的な隙である。当たれば死ぬ。それ

を理解してもなお、恭也はアルフの攻撃を捌き続けていた。



「何が通用しないってんだよ、まったく!」



 これにはアルフが苛立つ。普段手足のように使っている魔法が今も使えれば、目の前の敵

は簡単に倒すことができるのだ。その思いがまたアルフへのストレスとなり、攻撃を雑にさ

せる。捌き続ける恭也には、さらに余裕ができた。攻撃しても防がれるのなら、防ぎようの

ない攻撃をすればいい。



 アルフの右のストレートを小さく避ける――と同時に、アルフに背を向けながら右腕に両

手を添える。腰を跳ね上げて、一本背負い――投げ技までバリアで防ぐことはできない。何

が起こったのか理解できない様子のまま、アルフは宙を舞った。



 しかし、投げられっぱなしのアルフではなかった。空中で体勢を立て直し、四本足で着地

――そのまま、眼前の恭也に突っ込む。閃光のような右アッパー。それに合わせて右の打ち

下ろし。



 そのままなら、クロスカウンター気味の相打ちだった。しかし、アルフには手足以外の防

御手段がある。それを頼みにしたアルフの一撃だった。勝った、と今度はアルフが勝ちを確

信した笑みを浮かべる。





 拳がお互いの身体に直撃する――





「ぐぇ」



 カエルが潰れるような声を出したのは、アルフだった。ふらふらと後退し、尻餅をつく。

涙を浮かべながら頭を押さえるアルフを見下ろしながら、恭也は頬を流れる血を拭う。直撃

していたら、頭蓋が砕けていただろう。避ける自信はあったが、肝は冷やした。



「当てはしたが倒すには至らなかった。分けということで、よしとしないか?」

「納得がいかないよ! 一体どんな手品使ったんだい!」



 破れるはずのない防御が破られたのだ。食って掛かるアルフの瞳は真剣だった。殴られた

恨みも入っているのか、不真面目な受け答えをすれば本気で噛み付かれかねない雰囲気だっ

た。使い魔の怒りが感染しているらしいフェイトの視線も痛い。



 特にフェイトの視線は、汚物を通りこして親の仇を見るようなものになっていた。これ以

上好感度を下げる訳にはいかない。



「簡単に言うとだ。技術で抜いた。鎧や壁を抜いて、その向こうを攻撃する技術があるんだ

が、それを応用してみたのだ。成功するかどうかは賭けだったが、最初に防がれた時に抜け

る気がしたんでな、せっかくだから試してみた。いや、賭けに勝ててよかった」

「あたしよりも速く動くってのはどういう了見だい?」

「それも技術……と、本当だ。そんな顔をするな、俺は嘘は言っていない。俺が学んでいた

流派の奥義の歩法だよ。最近は調子がよかったせいかな、速度は少し上がっているようだっ

たが、驚いてくれたのなら何よりだ」

「あんた……本当に管理外世界から来たのかい?」

「俺の世界には魔法なんぞ溢れていなかった。俺が言えるのはこれだけだな。自分の世界が

管理されているかどうかなんぞ、俺には解らん」

「まぁ、いいけどさ……」



 心配して寄って来たフェイトの頭を撫で、アルフが立ち上がった。わざとらしく頭を抑え

ながら、睨んでくる。本気で怒っている訳ではなさそうだったが、長く尾をひきそうな視線

だった。



「これならもしかして、魔法が使えなくても戦えるようになるかもしれないね。他にはどん

な手品が使えるんだい?」

「まだ良くわからんのだ。俺が元から持ってる技術はそんなものだな。バリアを抜ける、と

解っただけでもやった価値はあった。ありがとうだな、アルフ」

「こっちこそ。いい経験をさせてもらったよ。殴り合いに関しては、あんたの方が上みたい

だし。よかったら暇な時にでも見てもらえないかい?」



 尻尾を踏まれた猫のように、フェイトの背がぴん、と伸びた。瞳を輝かせるアルフの横で

フェイトは信じられないものでも見るよな瞳で、己が使い魔を見つめている。その両方を見

つめながら、恭也は自分のめぐり合わせの悪さを呪った。全てを上手くいかせるためには、

一体どうしたらいいのだろうか。



「どうせ暇だからな。プレシアに捕まっている時以外なら、いつでも声をかけてくれて構わ

ない」

「そうかい? ありがとう、恩に着るよキョーヤ」



 それが感謝の表し方なのだろう、アルフは正面から抱きついてきた。彼女は女性として、

実に恵まれた体型をしている。押し付けられる感触や香りに男として思うところがないで

はなかったが、鼻の下を伸ばすよりも先にあるものが目に入ってしまった。



 氷点下の瞳のフェイトである。心の呪詛すら聞こえてきそうだった。



「同類なんだろう? 当然のことをしたまでだ」



 笑みになっていないような笑みを浮かべながら、やんわりとアルフを引き剥がす。これで

残念そうな顔でもしてくれれば可愛げもあるのだが、純粋に感謝の気持ちから抱きついてい

たアルフは不満そうな顔を一つすることなく離れてくれた。氷河期に絶賛突入中の主とはど

んどん扱いに関して差が出てくる。このまま行ったらどうなるのだろうか……



(考えるだけでもぞっとするな……)

『そのうち刺されるかもしれんな。オスを取り合うメスの獣達が、ああいう目をしている。

オスは赤髪で、メスは汝と金髪か。ついにメスになったか相棒』

(人事だと思って好きに言ってくれる……)

『汝の死は我の死でもある。生き残れるように努力せよ。多くのメスを手玉に取ってこそ優

秀なオスだ』

(女性を多く侍らせることがいいオスの条件なら、俺は一生うだつの上がらないオスのまま

で構わん)

『つまらん。実につまらん。手当たり次第と思わんのか?』

(それではただのアホだ。俺は女性とは誠実に付き合いたいと思っている)

『時には賭け時というものがある。我が思うに、汝はそれを察するのが壊滅的に不得手だ。

このままでは胤を出す機会もないまま墓の下であるぞ? それでもいいのか?』



 いいはずがない。枯れている、朴念仁と言われようとも一度くらいは女性と付き合いたい

とは思っているし、家庭を持ちたいとも思っている。殺伐とした人生を送ってきたせいか、

高町恭也という人間は見た目よりもずっと『幸せな家庭』というものに憧れているのだ。



 それがそんな機会もないまま墓の下、と言われれば気落ちもする。



「……キョーヤってさ、浮き沈みが唐突過ぎやしないかい? さっきまで普通だったのにど

うしたんだい」

「いや、ちょっと人生について考えることがあってな……もしも俺が家を建てたらと考えて

いた。真っ赤な薔薇と白いパンジーを植えようと思ってる」

「花よりは広い庭があった方がいいね、あたしは」

「いいな。外で遊べるというのは重要なことだ」

「…………で?」

「夢を語っただけだ。別にお前にしゃもじを渡そうと思っている訳ではないぞ、念のため」

「そのシャモジが何か知らないけど、どうせくれるなら食える物にしておくれよ?」

「覚えておこう。期待しないで待っていてくれ」



 目下の最有力は、色気よりも食い気。目を移せば、金髪の少女は殺意すら持って睨んでき

ている。もう一人は問題外だ。



 春はまだ、遠い。