広いか狭いかの二択で判断するのなら、アルフにとっての世界とはとても狭く単純なもの

だった。親愛なる主、フェイト・テスタロッサにとって味方か、敵か……彼女が気にするの

はそれだけである。フェイトの味方であればアルフにとっても味方であったし、敵であるの

ならば敵であった。そうあるように努めてきたと言ってもいい。主と使い魔という関係以前

に、彼女とってフェイトは大事な家族だったから、全ての行動と判断においてフェイトを優

先してきた。



 だからこそ、自分のような短気な人間が今の今まで我慢することができたのだと思う。フ

ェイトの母、プレシア。彼女は使い魔である自分とは違い人間で、本当の意味でフェイトの

家族だった。それなのにあれの行動は、家族のそれではない。むしろ、フェイトを憎んでい

る節すらある。



 家族だからと言って、必ずしも愛を注げるとは限らない。大本が獣であったアルフには、

本能としてそれが理解できていた。出来の悪い固体は群れから切り離される、自然の中では

それが掟だ。



 だが、フェイトもプレシアも人間だった。アルフの目から見ても彼女は良くやっている。

虐待しかしないあの女を母として愛しているし、成果もきちんと出していた。



 それなのに、それなのに……だ。プレシアは労いの言葉一つかけることもない。あれがす

る事と言えば、鞭でフェイトを叩くことだけ。後はフェイトが何を言っても無視をする癖に、

自分の用事だけは平気で押し付けてくる。



 アルフがこれまで我慢出来たのは、フェイトがプレシアを母として慕っていたからだ。そ

うでなければとっくにあの女をかみ殺していただろう。アルフの尺度ではプレシアは紛れも

なくフェイトの敵であった。



 フェイトがいたから、我慢が出来たのだ。だが……それも限界だった。



 管理外世界での任務。プレシアの都合で押し付けられた仕事。管理局にも目を付けられ、

厄介な魔導師とも敵対した。その中で目的の物も回収した。あれの期待よりも少ないかもし

れないが、成果は挙げたのだ。それなのにプレシアはフェイトを傷つけた。敵だ。敵なのだ。



 自分がプレシアを傷つけることに、フェイトは心を痛めることだろう。だが、これ以上フ

ェイトが傷つくのを黙ってみていることは、アルフには出来なかった。



 プレシアを――痛めつける。かみ殺さないことだけが、アルフの最後の良心だった。





 渾身の力を込めて扉を粉砕する。殺風景な部屋の中、プレシアはいた。物憂げな表情でア

ルフを見やり、そしてすぐに興味は失せたとばかりに視線を逸らした。彼女にとって自分は

塵芥に等しい……解っていたことではあったが、今のアルフには許せることではなかった。



「あんたは……フェイトの母親なんだろう!!」



 威嚇の意味を込めて魔力の塊をプレシアの間近に着弾させる。吹きすさぶ暴風……それで

怪我でもしてくれれば良かったが、防御でもしたのかプレシアにはかすり傷一つついた様子

はなかった。明らかな敵意である。自分以外に興味のないプレシアが、塵芥に攻撃された。

普段のあれであれば許しがたい反逆だろう。激情に駆られて攻撃でもしてくれば、反撃でき

る。アルフはそれを期待していた。



 しかし、プレシアはそれでもアルフには興味を示さなかった。言葉を聴いている様子すら

ない。どうとも思っていないのだ。自分は元より、フェイトのことも。



 アルフは自分の心が急速に冷えて行くのを感じた。決心する。この女は……ここで殺す。



 魔力を全身に行き渡らせ、突撃。いくらプレシアが大魔導師と言えど彼女は人間だ。急場

で拵える防御など、叩き潰す自身があった。効率のいい攻撃の仕方を、管理外世界での任務

に出るまでずっと信頼の置ける友に教授されてきた。



 地を蹴った瞬間に確信した。殺せる。どんな防御だって間に合わない。自分の拳は確実に、

あの女の頭を粉々にする――



「あたしの前から、消えてなくなれっ!!」



 心の底からの叫び。粉砕される彼女の頭部……望みの光景は展開されなかった。





 全てにおいて完璧だった攻撃は、たった一人の男によって防がれた。黒い髪、黒い瞳、黒

い服……自分がただ一人、フェイト以外に心を許した相手。不器用だけども誠実で、素っ気

ない態度を取るフェイトにも、心を砕いてくれた。この男になら、と……仲間だと思ってい

たのだ。それなのに。それなのに――



「どうしてだ……どうしてそんな女の味方するんだよ、キョーヤっ!!!」



 返答は拳だった。下からの掬い上げるような一撃に、アルフの身体は中空へと投げ出され

た。動物としての本能で姿勢を制御、とっさに殴り飛ばした忌むべき相手を睨みすえようと

して、その人物が既に目の前に迫っていることに気付いた。恭也は空中に魔力で足場を作っ

て踏み切り、既にこちらに向けて足を振り上げているところだった。



 二度目の衝撃。同時に地面に叩きつけられる。身体中の骨と内臓が軋む音が確かに聞こえ

た。いくらかは本当に破損しているだろう。手加減はしているのかもしれないが、受ける側

にしてみたらないも同然の攻撃だった。明らかに、こちらを破壊する意思が込められている。



 そしてその事実はこの状況において、恭也は自分ではなくプレシアに味方するのだという

ことを意味していた。仲間と信じる男が仇敵と憎む女の味方になったのである。攻撃された

という事実をもってしても、俄かには信じることができなかった。



(違う……恭也は、仲間だ……)



 血を吐きながら激しく咳き込み、気絶しそうな痛みに苛まれながらも、アルフは自分の思

いを信じていた。高町恭也は味方で、これは何かの間違いなのだと。



「寝るな、起きろ」



 腕一本で中空に吊り上げられる。人とは思えない膂力だった。魔力を全身に行き渡らせて

強化しているのだ。時の庭園に現れた時は全くの素人だったのに、この数ヶ月で身体に関す

ることだけはアルフですら舌を巻くほどの力量を見せていた。



 その力量を見せる男の瞳が、まっすぐ自分を射抜いているのが見えた。



「フェイトのためを思うなら、今すぐ尻尾を丸めて帰れ。いくらお前でも、俺とプレシアを

同時に相手にして勝利を収めることはできまい」

「あの女はフェイトを苦しめた! 何度も、何度もだ! あたしだって我慢の限界だよ! 

キョーヤ、後生だから力を貸しておくれ。ここであの女を殺せるなら、後で何だってしてや

るから! ここであの女を何とかしないと、フェイトはどんどん不幸になって行くんだよ!」

「……それはお前達の総意か?」



 激情の中、静かな恭也の言葉にアルフの勢いが途切れる。独断なのだ。大事な母親を傷つ

けるなど、フェイトは決して許しはしないだろう。そしてそれを察せないほど、恭也は間抜

けではなかった。



「これがお前の独断なら……」



 恭也の手が首から離れる。既に恭也の姿はない。背から地面に落下する中、逆行と共に見

えるのは、魔力の篭った拳を弓を引き絞るようにして落下してくる恭也の姿だった。



「アルフ、お前は俺の敵だ」



 拳が放たれる。アルフが始めて見る、躊躇いのない一撃だった。腹に穴が開かなかったこ

とは奇跡かもしれない。それほどまでに研ぎ澄まされた一撃だった。



 地面を突き破り次元の海へと落下している中、恭也の言葉について考える。



 お前は敵だと恭也は言った。心の底から仲間だと思っていた相手だ。この人間になら、自

分と主の背中を預けるに足ると、高町恭也という人間を自分の目で見、感じた上で自ら結論

を下した。生涯の友人になれると思っていたのだ。



 それが、この様だ。生涯の友人だと思っていた恭也はよりにもよってあのプレシアの味方

をし、自分を敵と断じて攻撃した。明確な裏切りに、アルフの精神が急速に沸騰し――同じ

くらいの速度で冷えていった。



 恭也の行動は確かに裏切りだろう。だが、それがどうだと言うのだ。自分は恭也を生涯の

友と認めた。自分と主の背中を預けるに足る存在だと認めたのだ。頭の回転の鈍さを自覚し

ているアルフだったが、敵味方を判断する嗅覚にだけは全幅の信頼を置いていた。その鼻が

言っているのだ。高町恭也は味方であると。例えどのような状況になっても、彼を信じるべ

きなのだ。それが仲間というものだから。



 だが、アルフは流れる涙を止めることはできなかった。自分が負けたことに変わりはない。

彼が自分を攻撃したことに変わりはない。状況は自分とフェイトにとって良くない方向へと

転がり初めている。



 それがたまらなく、悔しかった。



 薄れていく意識の中、転送魔法の構成を編みながら最後の力を振り絞り、腹の底から声を

張り上げる。



「信じてるからな……キョーヤ!!」



 アルフの身体は光となって、次元の海に消えた。























「…………上手くはいかないものだな、相棒」



 地面に開けた穴から、アルフが何処かに消えるのを見届ける。全力で戦いはしたが、彼女

の頑丈さなら耐えられるだろうという確信があった。伊達に一緒に修行をしたりはしていな

い。フェイトほどではないが、アルフのことは恭也だって理解している。



 後は彼女が頼るべき相手の元へ行くだけでいい。忠節もいい使い魔の条件の一つだろうが、

主のためにならアルフはつまらないプライドなどいくらでも捨て去るだけの柔軟さを持って

いる。遠からず彼女らと合流するだろう。



 白い服を纏った、魔法使いの少女。異なる世界に来てまで顔を見ることになるとは思って

も見なかったが、そのおかげで自分の異なる可能性を見るという貴重な経験をすることもで

きた。関わりあいになりたいとは思わないが、アルフには必要な少女だ。



「ざから、たまには声を返してくれないか? 独り言を言うのは俺の趣味ではない」



 自分の内側に存在する相棒に問いかけるも、反応はない。消えた、というのとも違う。声

が届いているという確信はあるのだが、彼の言葉を恭也はもう一月近くも聞いていなかった。

それを吉兆と思えるほど楽天的でもない。



 何か、良くないことが起ころうとしているのだ。自分の身にも、そして、仲間達にも。



「独り言は終わったかしら?」

「独り言など……いや、聞いていたのなら止めてくれませんか? 俺も好きで独り言を言っ

ている訳ではないのです」

「思い出したように誰にともなく言葉を発しているから、癖だと思っていたわ。全く……自

分の行動も制御できないなんて、貴方は本当に愚図なのね」

「そこまでご存知なら返す言葉もありません」



 プレシアの調子は相変わらずだったが、独り言を言っていたのはどうしようもない事実だ。

嗜虐的な瞳で見やってくるプレシアにおざなりに頭を下げると、彼女はそれを見ようともせ

ずに踵を返す。ついてこいという無言の要請に、従者のように彼女の後ろに付き従う。



 向かう先はフェイトのところか。アルフが消えた今、フェイトの行動はプレシアの思うが

まま。どんな命令を下したところでフェイトはそれを受け入れるだろう。フェイトにとって

プレシアは神にも等しい。人形のように動く彼女を不憫に思うが、今の自分の言葉ではフェ

イトの心を動かすことはできない。



 フェイトにとっての神は邪神だった。ならば彼女の運命を覆すのは人間でなければならな

い。それは自分ではなく、赤い使い魔でもない。白い衣を纏った、あの少女……自分の妹に

似た彼女ならば、フェイトを救ってくれる。そんな確信が恭也にはあった。



 歩みを進めたプレシアは、一つの扉の前に辿り着いた。先ほどまでフェイトを責め抜いて

いた部屋だった。また彼女を責めるつもりなのかと、恭也はプレシアの隣に並び彼女の瞳を

覗き込んだ。



「無駄かもしれませんが、一応進言しておきます。これ以上酷いことはしないでいただきた

い」

「それは無理ね。あれにはもう利用価値は残っていないもの。最後に一仕事をしてもらった

ら放逐するわ。後はどこでのたれ死のうと私の知ったことじゃない」

「……それは、貴女なりの優しさ?」

「顔を見るのも嫌になったのよ。我ながら良く我慢したものだわ」



 プレシアのフェイトに対する憎しみはある意味本物なのだ。めぐり合わせが悪かったら本

当に殺してしまってもおかしくはなかった。誰にとっても不幸になりかねないそんな状況に

比すれば今の状況はずっとマシなのかもしれないが、それでも恭也には納得のいかないもの

があった。



 しかし、今更それを言っても始まらない。プレシアは自分よりもずっと頭のいい女性なの

だ。言ってどうにかなる程度の執念なら、そもそもこんなことになってはいないだろう。



「……出来ることなら、もう少し我慢してもらいたかったものですがね」

「時間があれば、それも考えたかもしれないわね。それさえあれば、あれにもまだ利用価値

はあったもの」

「貴女の頭脳を持ってしても、時を操ることはできませんか」

「…………それが出来たら、私があれを生み出すこともなかった」



 ため息が、その言葉に続く。もはやプレシアの視界に恭也は入っていなかった。



「ままならんものですね、人生というものは」

「寝言はもっと苦汁を舐めてからほざくことね」



 扉を開け、部屋の中に入る。先ほどまで自分を打ち据えていた母親を、フェイトは呆然と

した瞳で見上げている。



「あの使い魔は逃げたわ」

 

 嘘で塗り固めたプレシアの言葉を、恭也はただ黙って聞いていた。

















「あの使い魔は逃げたわ」



 母の言葉を絶対として受け入れているフェイトをしても、その言葉を信じることはできな

かった。自分の使い魔……アルフはフェイトにとって唯一の友達である。彼女のことを最も

理解しているのは自分だという自負もあった。



 アルフは自分を置いて逃げるような性格ではない。プレシアがどう言ったところで、フェ

イトにとってはそれが真実だった。



 だが、事実アルフは時の庭園の中にはいない。フェイトは指示を出していないから、プレ

シアの言葉を借りるなら逃げたということになるのだが、フェイトにはアルフが逃げる理由

が見当たらなかった。



 プレシアから負かされた任務が多少上手くいっていない以外は、今までと特に変わったこ

とはない。今日は多少プレシアに打たれたと思うが、その程度だ。今まで我慢できていたこ

となのだから、今日だって我慢できるはずだ。



 同様に、プレシアがアルフを排斥するという理由もないと思う。多少反抗的ではあったが、

自分もアルフも従順だった。指示に逆らったこともない。



 自分が思いつかないようなアルフが逃げ出すような理由が、存在するということだ。そこ

まで考えて、フェイトの視線は一人の男性へと向いた。



 高町恭也。時の庭園に突然現れた訳のわからない男。アルフと中睦まじく、さらにプレシ

アの傍に在るという自分には出来ないことを平然と成し遂げた男。



 アルフは彼のことを好いているようだが、フェイトは恭也のことが嫌いだった。ここに居

るのは自分達家族だけでいい。彼の存在は邪魔なのだ。アルフとプレシアの心を引き、自分

の居場所を奪おうとしている……本心がどうあったとしても、目に見える結果が今の全てだ。

フェイトとしては許せるものではない。



 その男は、母が去った今も無表情にこちらを見下ろしていた。その瞳の奥に自分に対する

哀れみが見えたような気がして、フェイトの心は瞬時に怒りに染まった。この男には、問い

たださなければならないことがある――



「アルフは、本当に逃げたんですか?」

「ああ、逃げた。俺の目の前でな」



 フェイトの指が、待機状態のバルディッシュに触れる。恭也の黒い瞳をまっすぐに見据え、

言葉を続ける。



「アルフは貴方を信用していました。アルフは貴方に、助けを求めませんでしたか?」

「ああ、求められた。あたしに協力してくれと、頼まれたよ」



 瞬時に戦斧に変形したバルディッシュが振りぬかれる――鈍い音と感触。骨を砕くくらい

のつもりで肩口に振り下ろしたつもりだったが、そういう手応えは感じられなかった。自分

の非力さを恨めしく思いながら、フェイトはさらに言葉を続ける。



「アルフは貴方を仲間だと思っていました。貴方は、アルフに協力しなかったんですか?」

「ああ、しなかった。アルフを庭園から叩き出したのは俺だからな」



 バルディッシュを振るう。今度は頭部だ。先に振り降ろした時よりも力を込めた一撃。恭

也は避けようともしない。血が一筋流れるが、それを拭おうともしなかった。



「私は、貴方が嫌いです」

「そう思われていることは自覚しているよ。俺としては仲良くなりたいものだが……」

「そんなの、虫唾が走る。仲間を見捨てるような人と仲良くなりたくはありません」

「確かにな。俺もそんな奴と仲良くなるのはごめんだ」

「解っているのなら、もう私には構わないでください。貴方の顔なんか見たくもありません」

「嫌われたものだ」

「好かれるようなことが貴方にあるとも思えません」

「そうだな……ああ、これが最後になるかもしれんから、伝えたいことを伝えておこう。ア

ルフのことだ」



 バルディッシュを握る手に力が篭る。恭也の口からアルフの名前が出ることすら、我慢が

ならなかった。アルフを裏切った男が何を言うのか。お前が協力していれば、ここから去る

ことなどなかったのに……



「アルフはお前のことを思っていたよ。だからこそ、いずれお前の前に立ちふさがることに

なる。お前達と戦っていた白い服の少女のところに身を寄せることになるのだろうな。ここ

に帰ってこないのならば、彼女の行く場所はもうあそこしかないからな。つまりどういうこ

とかと言うとだ……フェイト、アルフはお前の敵になるということだ」

「お前のせいで!」



 瞬時にサイズフォームに変形したバルディッシュを、怒りに任せて振るう。狙い違わずそ

れは恭也の首筋に――そのまま振りぬかれていれば恭也の身体に重大な損傷を与えていたの

だろうが、輝く刃先は恭也の首筋に触れる寸前で止まった。フェイトの判断ではない。バル

ディッシュ本人の勝手な判断だった。



 仲間の思わぬ反逆に、フェイトは忌々しげに舌打ちする。こんな奴の首なんて落としてし

まえばいいのだ。再度命令を行おうかとも思ったが、止めた。大抵の命令には反逆しないバ

ルディッシュだったが、彼は独自の倫理観を持っている。それに反することを強要したこと

は今まで何度かあったが、彼が言うことを聞いてくれたことは一度もなかった。デバイスマ

スターの教育の賜物だったが、恩師である彼女のことを今は少しだけ恨みたい気分だった。



 バルディッシュが何やら捲くし立てていたが聞く耳は持たなかった。刃を引っ込め、足音

も高く部屋を後にする。



「気は済んだか?」



 かけられた恭也の声に振り返り、ありったけの恨みをこめて言い放った。



「お前なんか……いなくなってしまえばいいんだ!」