古今東西、美味しいお茶を入れるためには技術が必要とされる。味がついている色水を飲

めればいいと考えているような、紅茶と言ってもティーパックしか使わない人間には理解さ

れない多大な知識、技術、そして手間というものが、確かな味を楽しみたい人間達のために

確かに存在する。



 遠野志貴個人のお茶に関しての嗜好は『どっちでもいい』なのだが、幼い頃から厄介にな

っていた家も、最近引っ越した家も、そしておそらく、記憶の彼方に忘れ去った本当に幼か

った時分も、周りの人間はお茶や嗜好品にはうるさかったらしく、その甲斐あってか志貴自

身も自分で入れる時や悪友を相手には決して使わない、美味しいお茶を入れる技術を身につ

けてしまった。



 ここ、三咲市内某所にある七夜のマンション、そのキッチンにも、自分一人の時には使わ

ない美味しいお茶を入れるための道具が、ところ狭しと並んでいる。身に着けた技術を最大

限に駆使してお茶を入れる――心の中には、時間の無駄なんじゃないか、という思いも湧き

上がっていたが、それを口にしたらどうなるかというのは世話になっていた家で嫌という程

味わった。



 自分には理解できない世界であったとしても、それに傾倒する人間はいるのだ。それを馬

鹿にしてはいけない。



 カップとソーサーは四人分。自分と、来客の女性三人のものだ。若干、女性と呼ぶには首

を捻らざるを得ない人物もいるが、彼女のような年代には実際の年齢よりも少しだけ高く評

価することが、安心して人生を過ごすための手段であるということも志貴は知っている。そ

の際は、『少しだけ』のさじ加減を間違えないことが、最も重要なのだ。それを間違えると

とんでもないことになる……それも、経験として知っていた。思い出したくもない。



 熟練の執事のような無駄のない動きで用意したものを盆に乗せると、彼女達の待つ居間へ。



「はい、お茶が入りましたよ〜」

「ありがとうございます、志貴先輩」



 ここは七夜の家なのだから、彼女達は来客である。だから立たなくてもいいとは言ったは

ずなのだが、藤乃はソファから立ち上がるとパタパタと寄ってきた。出遅れた、と顔を顰め

ている霧絵に苦笑しつつ、好意を無碍にすることもない、と思い直して藤乃に茶菓子の乗っ

た盆を手渡す。



 残り全てが乗った盆を持った志貴は、執事の動きを維持したままシエル、霧絵、藤乃、そ

して自分の順にソーサーとカップを並べ、お茶を注ぐ。



 以前から仕事で付き合いのあった藤乃と霧絵には何度か披露したことはあったが、志貴の

そんな動きを初めて見たシエルは、その見事さに目を丸くしていた。



「私は時々、遠野君の年齢と職業がわからなくなるときがあります……」

「普通の高校生のつもりなんですが……見えません?」

「見えないことはないですけど、こういう見事な執事っぷりをみると少しだけ大人っぽく見

えてしまいます。乾君と比べると解るでしょう? 彼も普通の高校生とは違いますが、遠野

君のような年代の男性というのは、多分、ああいうものです。遠野君なんて、法王庁で給仕

をしていても、違和感がなさそうですし」

「埋葬機関の司祭のお墨付きが得られるなんて、何て心強い。志貴君、もし退魔を廃業する

ことになったら、私の家で執事として働きませんか?」

「あ、浅上もお待ちしてますっ!」

「あー……気持ちだけいただいておきます」



 そういう人に尽くす仕事も魅力的だとは思う。血生臭い裏の世界で暮らすのではなく、主

を定め、その人のために尽くすことのできる生活はとても穏やかで価値のあるものだとは思

うが、志貴にはまだやるべきことがあり、したいこともある。実際、彼女達の執事になった

ら楽しい生活が送れるのだろうが、そういうことを考えるのはもっと、ずっと先の話だろう。



「さあ、粗茶ですが冷めないうちにどうぞ」



 今日は難しいことなど何もなく、ただお茶を飲み歓談するだけの実にセレブなイベントだ。

遠野に越してからこっち、血生臭い出来事ばかりが続いたため、本当に何気ないことだけを

話題にするこういう場は久しぶりで、本当に落ち着く。何しろここではナイフを持つことも

なく、魔術を使うこともない。吸血鬼と戦わなくてもいいし、妙な事件を捜査しなくてもい

い……それだけで、志貴はこの上のない幸福を感じていた。ともすれば、この幸福がずっと

続きますように、と。



 そもそもそれが非日常、陽の当たる場所に住む人間が決して足を踏み入れることのない世

界に、全身どっぷり漬かっている者の発想だというのは理解していたが、それを悲しいとも

思っていなかった。



 違う日常を選ぶことも出来たのかもしれないが、遠野志貴はここにいる。過去を悔やんで

も仕方はないし、大切な仲間もいる。命の危険が日常的にあっても、志貴にとってはそれは

それで幸せな日々なのだった。



「――私は私立でしたから、子供時代は習い事ばかりでしたね」

「私は家の手伝いばかりだったような……家業をしてましたから。友達と遊んでいたことよ

りも、家の手伝いをしていたことの方が記憶に残っていますね」

「私は魔術や退魔の訓練ばかりでした。だから、学校には憧れます。ほとんど行かないまま

終わってしまいましたからね……学校って、どういうところですか?」

「どうって言われてもアレですけど、俺のクラスは楽しいですよ。馬鹿な奴が一人いまして、

そいつを中心にして馬鹿なことをするんですけど、皆馬鹿なのか、つまらないことでも馬鹿

騒ぎになりますね」

「何もそこまでバカバカ言わなくても……」

「いえいえ、霧絵さん。乾君の……キャラって言えばいいんですか? あれは一見の価値は

ありですよ。男性としてみるとちょっとごめんなさいですけど、一緒にいて退屈しないこと

だけはこの私が保証します」

「そこまで言われると私も興味が……ちなみに、どんな方なんですか?」

「赤い髪で両側かりあげ、制服は着崩してますし、ピアスもしてます。身長は俺よりも高い

んじゃないですかね。一言で言うなら、フランクな赤毛のサルってところじゃないかと」



 フランクな赤毛のサルが制服を着て人語を喋り面白いというのは想像できないらしく、霧

絵も藤乃も難しい顔をして首を傾げている。乾有彦という赤毛サルを知っている二人は、そ

んな二人の反応がおかしくて、顔を見合わせて苦笑する。



「二人で見詰め合ってそういう風に笑いあうの、反対です」



 一応、二人と同じ高校生ではあるが、違う高校のために同じものを共有できない藤乃はジ

ト目で二人を見やる。学生ですらない霧絵は、それに輪をかけて不満そうだ。彼女達の生み

出した少しだけ張り詰めた空気は、『これ以上見せ付けたら、ヤる』と言っているようで、

セレブなお茶会の雰囲気は一気に戦場のそれに変わった。



 売り言葉に買い言葉と、二人のジト目を見返しながら、シエルはそっと後ろに手を回し―

―その手に黒鍵が握られているのを、志貴は見てしまった。



 放っておけば、この部屋は戦場になる。七夜のアジトとして、魔術師の工房としての側面

もあるため物理的魔術的に耐久力は高いのだが、一流の実力者三人を相手に、たとえそれが

戯れのような行為であっても耐えてくれるかどうか……持ち主である志貴にも解らない。



 何かいい案はないだろうか……ない知恵を必死にしぼり、そう言えばまさにこういう時の

ために用意してあったアイテムがあることを、志貴は何とか思い出した。テーブルの下に手

を伸ばし――



「そ、う言えば前に皆、アルバムみたいとか言ってましたよね。有間の家から持ってきたん

ですけど……みます?」



 殺気は、一気に霧散した。手品のように取り出されたそのアルバムを前に、三人は目を奪

われている。早く見せて、という彼女達の心の声を聞いたような気がした志貴は、とりあえ

ず一番近くの藤乃にアルバムを手渡した。



 テーブルを挟んで向こうがわにいたシエルと霧絵は勢いよく立ち上がり、藤乃の背後に回

りこむ。ついさっきまで殺気をぶつけ合っていたとは思えない変わり身だった。



「これは有間の家にいた頃のものですか?」

「ええ。それは俺が高校に入学する時の写真ですね。有間のおじさんおばさんと――」



 写真の中、初めて袖を通した学ランに少し緊張気味の、今よりも若干幼い顔立ちをした自

分。その後ろには落ち着いた雰囲気の夫婦――遠野から追い出された自分をわが子のように

育ててくれた二人だ。そして、自分の横には仏頂面をしながらもひっついている、今よりも

さらに小柄な少女が一人。



「都古ちゃんっていって、その二人の娘さんです。一緒に暮らしてたはずなんですけど、あ

まり仲良くなれなくってですね。この時もさりげなく間接を極められてました」



 当時の思い出を語る志貴に、三人の女性の瞳が向く。『何を言ってるんだ、こいつは』そ

んな目だ。何か間違ったことを言ったのだろうかと、苦笑を浮かべて志貴は首を傾げるが、

三人の女性が浮かべたのは自分と同じような苦笑、そしてため息だった。先ほどの答えは、

何一つ解らない。



「まぁ、遠野君ですしね」

「先輩がそんな性格をしているからこそ、私としては安心なんですけど……」

「会ったこともない他人ながら不憫ですね。こんなにかわいいのに……」



 なんとなく写真の中の都古は同情されているらしいというのは理解できた。同時に自分に

何か根本的な原因がある、ということも。ただ、その原因が何なのか皆目検討が付かないと

言ったら……これも何となくではあるが、怒られるような気もする。理不尽な気はしないで

もないが、理由がいまいち理解できないことで怒られるのことの方が志貴にとっては嫌だっ

た。疑問は胸の中の引き出しにそっとしまうことにして、自分で入れた紅茶を飲みながら、

彼女らがアルバムを捲るのを何となく眺めることにする。



 遠野志貴のアルバムは、今のところ一つしかない。自分が写っている写真を全て焼き増し

してもらって、せっかくだからと一つのアルバムに収めたのだが、その時に最近のものから

始めたため、進んでいくに従って写真の中の遠野志貴は若返っていく。中学の卒業式、修学

旅行、一応出た体育祭や入学式に文化祭。アルバムを作った時に自分でも驚いた、よくもこ

んなに自分の写真があるものだと。



 殺伐とした人生を送ってきたつもりの志貴だったが、写真の中の自分は困惑しながらもカ

メラを向けられて確かに笑っている。過ぎてみたらいい思い出だった、というのは良く聞く

言葉ではあるが、自分の人生もいくらかはその言葉に当てはまるらしい。無理やりにでも写

真を取り、収集してくれた有間の両親に今更ながら心の中で感謝する。



「最後は……小学校のものですね」

「ええ。それ以前のものはもしかしたら遠野の屋敷にあるかもしれませんが、探してないの

で解りません。それだけご好評なら、琥珀さんにでも聞いて取り寄せておきますが」

「是非そうしてください」



 是非、の部分に何やら力が篭っていた。好評と言ったのは自分だが、そんなに写真という

のは見ていて楽しいものだろうか……いや、楽しいのだろう。皆、同じような目をしている。

言葉にはしていないが、全員が写真を所望しているといのは日を見るよりも明らかだった。



 解りました、と軽く両手を挙げて降参を表現しながら立ち上がる。どうせなら連絡は早い

方がいいだろう。充電器にささったままだった携帯電話に手を伸ばし、アドレス帳から琥珀

のものを選び出す。携帯電話に縁のなさそうな家だが、ハイテク担当の彼女は当たり前のよ

う携帯電話を複数所持してるのだ。秋葉や翡翠を解さない連絡は、主に携帯電話のメールで

やり取りすることにしている。今回は秘密の用事という訳ではないが、自分に関することだ

ったら秋葉に聞くよりは、メイドの琥珀に聞いたほうがいいだろうと、その旨を伝えるメー

ルを打ち始めた、その時、



「ん、遠野君。その写真は何ですか?」



 自分の動きを視線で追っていたシエルが、その先にあった『それ』に気が付いた。充電器

のすぐ横、固定電話などが置いてあるエリアに一つの写真立てがある。シエルが言っている

のはアルバムの中に入らなかったそれらしい。残りの二人も不思議そうな顔をしている。こ

の部屋には何度か足を運んでいる彼女らも、この写真を見るのは初めてのはずだ。シエルと

同じように僅かばかりの困惑を込めて、こちらを見やっている。



「この間、アルト達が来た時に置いてったものです。写真が嫌いらしいんですが、それは俺

がアルト達と撮った唯一の写真ですよ」



 吸血鬼だからですかね、と写真立てを放り投げる……キャッチしたのはシエルだ。女性ら

は我先にと写真に群がり、凝視する。



 写ってるのは少しだけ昔の自分と、四人の主従だ。自分はくたびれた余所行きの格好に、

彼女――アルトルージュはいつも通り黒いドレスを上品に着こなし、隣のプライミッツ・マ

ーダーとあわせて、良家のお嬢様然としている。



 彼女がお嬢様なら、後ろの二人は執事だろうか。黒一色のスーツを着込んだ黒髪のオール

バックの男は、主である彼女の後ろに控えながらも不機嫌さを隠そうともしていない。写真

を撮ることに最後まで反対したのは彼だった。逆に乗り気で過去の自分の肩に腕を回してい

るのが、白いスーツに金髪の男。ぱっと見はまるでホストのようだが、それにも関わらず執

事と言われれば信じてしまいそうな、そんな気品が写真の向こうからすら漂っている。童顔

だと言われる身としては実に羨ましい限りだった。



「で、そんなに怖い顔してどうしましたシエル先輩」

「……二十七祖の十位以上が四人もいる、その中に違和感なく溶け込んでいる遠野君に、何

とコメントをしたらいいのか、考えているところです」

「そういう方々とも仲良くなれるのが、志貴君の魅力なのでは?」

「どういう人とも仲良くなれるというのは、節操がないと思います」

「あー、でも遠野君みたいな怖いもの知らずでないと、私達のような種類の女性は、出会い

ってないかもしれませんねぇ……」



 ですね、とシエルの言葉に残りの二人が頷く。シエルは写真立てを志貴に返し、自分の考

えを整理するようにこめかみに指をあてる。



「それは、彼女達と遠野君が出会ったときの写真ですか?」

「そうですよ。俺が休憩時間に手慰みに作った木彫り人形が売れると解って、一日50個の

ノルマを師匠が課してた頃ですから――二年くらいですかね、中学の。夏休みに師匠に無理

やり国外に連れ出されて財布も取り上げられて、日本語と英語しか話せないのにドイツ語圏

に放り出されて自力で帰って来いといわれて途方に暮れてた……そんな時に出会いました」

「中々凄まじい教育方針ですね、志貴君のお師匠様は」

「自由奔放がモットーだと言ってますよ。おかげ様で日常会話程度なら、何ヶ国語か話せる

ようになりましたから、感謝はしてるんですけどね」



 琥珀へのメールを打ち終え、自分の席に戻る。女性らは皆身を乗り出して、自分の話を待

っているようだった。あまり人に話すようなことではないと思うが、乗りかかった船だ。彼

女らにも口止めはされていない訳だし、聞きたいと言うのなら話しても問題ないだろう。



「あまり面白くはないと思いますよ」

「それは、聞いてから私達が判断します」



 もっともな話だ。と、志貴は肩をすくめ、空になっていたカップに紅茶を注いだ。



























「腹減った……」



 人はいる。それも、結構な数だ。放り出されたのが田舎だったらまだ諦めもついたのだろ

うが、手を伸ばせば届くところに人間は沢山いる。食い物も当然ある。だがその中には何度

凝視しても日本人どころか東洋人っぽい容姿をした人間すらいないし、その辺にある看板は

ドイツ語で書かれているし、何より財布がない。



 もっとも、財布があったとしても中に入っているのは日本円だから、このドイツの街で使

えるかどうかは、志貴にも自信がない。語学も堪能で度胸もある師匠なら、それがペソだろ

うが日本円だろうがペリカだろうがきっちり使って物を得ることくらいは出来るのだろうが、

志貴にはそのうちのどれもが欠けているのだった。思い出の中のあの人に近づくには、まだ

まだ遠い。



 しかし、泣き言ばかり言っていても始まらない。耐久力には自信のある志貴だったが、絶

食も四日目を越えると空腹もそろそろ限界に近い。どうにかして食物を得ないと、冗談抜き

で死が待っている、そんな状況だ。



 その辺りで行き倒れの振りでもしていれば、誰かしらは助けてくれるだろうか。これくら

いの文明圏なら身包みはがされたりはしない、という打算もある。かなりの高確率で飯には

ありつけるだろうが、そのためにはどうしてもプライドを捨てなければならない。



 まだ高校生にもなっていない志貴にとって、それはとても我慢のならないことだった。ま

だ犯罪者になる可能性を踏まえた上で万引きでもした方がいいのでは、と満腹の状態では考

えないようなことまで頭を過ぎるほどで、そしてそれは、英語が話せるなら大抵の地域では

大丈夫だと、旅に出る前に師匠に言われたことさえ完全に忘れさせていた。



 志貴の目が、近くの商店に向く。商店と言っても、日本にだってあるようなコンビニエン

スストアだ。監視カメラはあるだろうが、その死角を突く程度は志貴にとって訳もない。自

分と同程度の実力者が店内にいない限りは成功するだろう。



 それで、食物にありつくことができる。外から店を眺める志貴の目は、まるで飢えた獣の

ようだった。もしこの時近くを警官が通ったら、志貴は問答無用で逮捕されていただろう。

一般人にも危険と解るほど、志貴の気配は尋常ではなかった。



 だが、運命を采配する者の気まぐれだった。志貴の周りに警官はおらず、東洋人というこ

とで一目を引いていたが、声をかける者もいなかった。そのまま誰も声をかけなかったら、

彼の万引きは無事に成功していたことだろう。しかし、である。



『―――――――――?』



 まさか声をかけられると思っていなかった志貴は、それが自分に向けられた声だと気付く

までに、数秒の時間を要した。邪魔をされた、と短絡的に感じた志貴はその声した方に振り

向き、絶句する。



 黒髪、黒いゴシックドレス、ただ、瞳だけが血のように赤い。貴族のような気品を身に纏

い、隣にはいかにもな大型犬を連れている。一目見て金持ちとわかる風貌だった。年齢は自

分と同じくらいだろうか、と志貴は当たりをつけるが、同時に何故こんな少女がここに、と

不思議にも思った。



 自分が金持ちに見えないことに関しては、志貴は絶対の自信を持っている。それだけに、

こんな金持ち然とした少女が自分に話しかけてくる理由が、志貴には思い当たらなかった。

相手をお間違えでは? と言おうと咄嗟に思ったが、少女が使ったのはドイツ語だ。どう答

えていいのか検討もつかない。



『―――――――――?』



 何も答えない志貴を見て、少女は再び口を開いた。しかし、今度はドイツ語ではない。残

念ながらこれも志貴には理解できなかったが、中国語の一種だと思われた。どう見ても西洋

系である少女が東洋の言葉を話すのは志貴にとってはシュールな光景だったが、受けを狙っ

た訳ではない少女の方は、またも理解を示さない志貴に対して少しだけ不満そうな顔をした。



「何かお困りかしら?」



 そして、ようやく目の前の少年は日本人らしいという可能性に至った少女は、志貴にも理

解できる言語で、三度目になる質問を口にする。師匠に放り出されて初めて理解できる言葉

を聴いた志貴は、安堵のあまりその場で腰をぬかした。



「……大丈夫?」 

「日本語、どれくらいわかります?」

「読み書き何でもござれよ。ここで会ったのも何かの縁、何かお困りのようだったら助けて

あげてもよろしいけど」

「なら、頼みがあります」



 いざ蜘蛛の糸が眼前にたらされると、プライドというものはゴミ同然になるらしい。つい

さっきまでプライドを優先して犯罪に手を染めようとしていた少年は、そのプライドを地平

の彼方に放り投げ、



「飯、おごってくれませんか?」



 遠野志貴のそれまでの中で、最も格好悪い言葉を口にした。





















「…………それで、お師匠様にドイツ語も話せないのに放り出されたと?」

「掻い摘んで言えば、そういうことになるね」



 腹が減ってれば、人の金なら飯は美味いというが、それを差し引いても少女に案内された

店の料理は絶品の一言につきた。高級店にでも連れていかれるのではと危惧していたが、着

いた先は大衆料理屋だった。お嬢様然とした少女には聊か不釣合いなような気もしたが、一

山いくらなコーヒーですら優雅に飲むその仕草が、周囲を彼女に相応しいものに変えていた。

美人というのは周囲があわせるものらしい。堂々とした立ち振る舞いは、まさに貴族と言え

た。



「それで犯罪に手を染めては、お笑い種ね」

「言えた義理じゃないけど、勘違いしてもらっちゃ困るね。『まだ』、犯罪には手を染めて

ないから」

「では、犯罪に手を染めるところだったところを助けてあげた、と言い換えましょうか」

「……申し訳ありません、助かりました。このご恩は一生忘れません」



 テーブルに手をついて、深々と頭を下げる。どんな経緯であれ助けてもらったことに変わ

りはない。少女に声をかけられなければ、また見ず知らずの他人に飯を奢るだけの度量が少

女になければ、志貴は本当に犯罪者になっていたかもしれないのだから。



「宜しい。義理人情は大事にしないとね」

「まさかドイツで義理人情を説かれるとは思わなかったよ……」

「袖振り合うのも多少の縁。縁は大事にするものよ、ためにはなったでしょう?」

「授業料も格安だったしね。飯を食わせて貰った上に教えを受けられるなんて、至れり尽く

せりだ」

「いい話には裏があるものよ。私が何の打算もなく施しを与えたのだと思って?」

「……まぁ、そうだろうね。タダより高いものはないってよく言うし」



 気になってはいたのだ。食堂は人でごった返しているが、自分達に向けられる視線が少な

すぎる。東洋人とお嬢様、それに大型犬もセットという目立たないはずのない組み合わせで

あるにも関わらず、だ。



 どうやら、巧妙な魔術が自分達の周囲に張られているようだった。こちらからのアプロー

チは通るのに、周囲からは注視されない。術者にとって都合のいい、精度の高い魔術だった。

志貴が使った魔術ではもちろんない。自然発生するようなものではないし、行きずりの魔術

師が術だけを残していくはずもない。



 残った可能性は唯一つ。優雅にコーヒーを飲む少女をしっかと見つめ、ドイツに着て初め

て、志貴は魔術師として口を開いた。



「施しには感謝しています。ですが今は旅先故、返礼は後ほど改めてさせていただきます」

「ご丁寧に。でも、後で出来るお礼に用はないの。私は今、貴女の力を欲している。返礼を

するつもりがあるのなら、私の意向に従って『今すぐ』対価を支払ってもらうわ」



 一連の動作はそのままに、少女の気配だけが明らかに強まった。



 授業料は高くついたか……と心中で舌打ちして、立ち上が――れない。地面に縫い付けら

れたかのように、志貴の足は動かなかった。これも魔術の効果か……と少女を睨みやる。殺

気すらこめた志貴の視線を受けた少女はしかし、悠然と微笑んで見せた。



「貴女は対価を支払うと言い、私はその対価を今求めた。契約は始まっている。一方的に反

故することはできなくてよ」

「契約ってのはさ、条件を全て提示した上でお互いが合意した時に初めて交わされるものだ

ったと記憶してるけど?」

「全てのモノは一様ではない。契約も様々で、それを扱う者もまた同じ。貴方の知る契約が

私の成す契約と同じモノだとは思わないことね、坊や」



 下から志貴の瞳を覗き込み、少女の赤い瞳がゆらり、と輝く。視線を媒介にした魔術――

呪いの類か。しかし、『対象者がその視線を認識した事実』を媒介にした魔術は総じて、志

貴には効果が薄い。眼鏡をかけている時限定の効果だが、魔眼殺しは外からの魔術にも有効

なのだ。



 志貴に魔術が効かなかったことが意外だったのか、少女が眉根を寄せる。志貴の顔をじっ、

と見つめ、自らの魔術が失敗した原因を悟る。



「中々素敵な品をお持ちのようね」

「俺の持ち物の中では最高級の品だよ。欲しい言ってあげないからね」

「結構よ。私が欲しいのは貴方――たかが物に興味はないわ」



 カップをソーサーに置いた少女は椅子から立ち上がり、志貴の真横に移動する。横から後

ろから志貴を眺め、うんうんと頷くと、彼の体を自分の方へと向き直らせる。



「格好が貧相だけど、見た目はまぁまぁね。鍛錬も積んでいるようだし、拾い物としては合

格点かしら。そうね、貴方――」



 少女の赤い瞳が志貴を射抜く。望まれるものは命か意思か……いずれにせよロクなことに

はなるまい。魔術師が魔術師に自由を奪われた時点で、最悪の事態は想定するのは当たり前

のことだ。



 だが、体が動かないこの状況で少女を出し抜くには『奥の手』を使わなければならない。

それは遠野志貴の本当に奥の奥に封印されている。使うにはそれこそ、自らの死以上の覚悟

を固めなければならない。



 少女を見つめる。彼女はそれほどの相手だろうか。自らの命を対価にして倒さなければな

らない相手だろうか。志貴の本能は彼女が人間でないことを告げていたが、そんなものはど

うでもいい。彼女が自分にとってどういう存在になりうるのか……彼女に対して力を使うに

は、まずそれを見極めなければならない。



 もし、彼女が理不尽な要求をしてくるのなら、その時は仕方がない。魔術師としての力量

が及ばない以上、『奥の手』を開放するのは必然だ。だが、そうでないのなら……



 あらゆる状況を想定しながら、志貴は少女の言葉を待った。志貴の表情の変化を楽しんで

いたらしい少女は、言葉を区切って志貴の意識が自分に向くのを待ってゆっくりと、言葉を

紡いだ。



「貴方、私の騎士になりなさい」



 その要求は、志貴のどの想像とも違っていた。きょとん、とする志貴を、悪戯が成功した

子供のように眺めながら、少女は言葉を続ける。無邪気に、そしてそれが必然と言うかのよ

うに。



「命の保障はしてあげるし、私の望む成果を得られたら、別に報酬を支払ってもいいわ。言

っておくけど、断れるなどとは思わないことね。貴方は私の行為に対して返礼をすると言っ

た……私は私の名を持ってそれを契約とし、履行することを貴方に強制する。反故は死と心

得なさい」

「俺に断るって選択肢はないみたいだね」

「もちろん。私は血と契約の支配者。貴方みたいな半人前の魔術師が、私に勝てるなんて思

わないことね」

「…………骨身にしみたよ。そういえば、自己紹介がまだだったかな。俺は遠野志貴、日本

人で半人前の魔術師だよ。ご飯のことは素直に感謝してる。助かったよ」

「そう言って貰えると施しを与えた甲斐もあったものだわ。では、こちらも自己紹介。まず

この子の名前はプライミッツ・マーダー。私の頼もしい友達よ」



 ばふ、と泣き声とも空気を漏らしただけ、ともとれる音が大型犬の口から漏れる。ペット

の類とは縁のない志貴はその頭を撫でようとしたが、足が動かないので手も届かない。



「それにしても……プライミッツ・マーダー?」

「何か物言いあって?」

「いや、どう呼んだものかな、とさ。プライミッツ? マーダー?」

「この子はどうでも構わないと思うけど、迷うくらいならプライミッツ・マーダーと繋げて

呼んであげてくださるかしら」

「喜んで。今は動けないけど、よろしくな、プライミッツ・マーダー」



 また、ばふ、という音……今度は先ほどよりも大きな音が志貴の耳に聞こえた。



「そして、私はアルトルージュ・ブリュンスタッドよ。アルトとでも呼んでくれればいいわ。

よろしくね、志貴」

「ああ、こっちこそよろしく、アルト。できれば分かれる時は、お互いに笑顔で別れられる

ことを祈りたいものだけど……どうかしたか? 何か物言いがあるのかな」



 椅子から動けぬまま、見上げる形になっている少女――アルトは、何故か不満そうに志貴

を見つめていた。不満あるのはその表情から理解できるが、何故不満に思われているのか理

解できない志貴は、疑問をそのまま口にするが、少女は不満の色を深めて『べつに……』と

呟いた。



「私、それなりに有名人のつもりだったのだけれど、ここまで無関心というかお前なぞ知ら

ないって反応をされると、傷つくものなのね……白翼公が名声に拘る理由が何となく解った

気がするわ」

「あー、ほら、俺魔術師って言っても半人前だから、そのせいじゃないかな。別にアルトが

無名ってことはないと思うよ、うん。美人だし、そのうち有名にもなるって」

「案に私が無名だと言われているような気がするわ……生まれて初めてよ、そんなことを言

われたの。黒い方の従者が聞いていたら、斬首ものね、貴方」

「その黒い方の従者がいなくてよかったよ」



 少女が指を打ち鳴らすと、志貴の麻痺も解ける。体が動くということが何だか久しぶりの

ような気がして、体中の間接をゴキゴキと鳴らす。



「で、俺に従者になれってことだったけど、具体的には何をすればいいのかな」

「私のことを知らないような無知な人間には、それほど難しい指令は与えないわ」



 先ほどの言葉を根に持っているのか、顔を合わせてもくれない。見た目が少女然としてい

ることもあり、言葉から受ける印象以上に根が深そうに思える。助けを求めようにも、自分

のことを認識できる存在は近くにプライミッツ・マーダーしかおらず……試しに志貴が彼の

方を見ると、彼はばふ、と小さく吠えて顔を逸らした。まったくもって、孤立無援である。



「簡単なことよ。私は狙われているの。その刺客から、私を守ってちょうだい」

「俺が半人前だってこと聞いてたかな……腕にはそれなりに自信はあるけど、あくまでそれ

なりだからね。君の命を狙う程度の刺客が本当にいるなら、さっき話に出てきた黒い方の従

者にでも守ってもらった方がいいと思うよ」

「それは私の事情であって、貴方の事情ではないわ。私がどうあろうとも、私が貴方に求め

るのは、私との契約を履行することだけ。そこに貴方の意志は関係ないの。貴方は自分の命

の心配だけをしていなさい」

「心配してもらえてるようで、俺は嬉しいよ……」



 厄介なことになった、と今更ながらに志貴は思った。師匠に放り出された時から嫌な予感

しかしていなかったが、空腹に犯罪を犯そうと思ったら今度は他人の命を守るために自分の

命を危険に晒さないといけなくなっている。



 自分が幸運だと思ったことは一度たりともないが、最近は何だか大したことのないその運

勢がさらに下降線を辿っているような気がしてならない。運気を下げるようなことをしたよ

うな覚えはない。運が下がっているとしたら、それは師匠に吸い取られているとしか思えな

いのだが、師匠は何時だって金がないし、魔術師としては有能だが、人間としては控えめに

言ってもアレだ。彼女をして幸運だとは、どうしても思えない。では、自分から出て行った

運は一体何処に行っているのだろうか。



「まぁ、貴方には多くを期待していないけれど、時間稼ぎと退屈しのぎくらいにはなるでし

ょう」

「君の退屈しのぎのために、俺は命をかけないといけないのかな」

「当然でしょう? それが契約というものよ」



 これが良いものなのか悪いものなのか、今の段階では判断がつかなかったが、眼前の少女

が自分のこれからの人生の中で、大きなウェイトを占めることになるだろうことを、志貴は

確信していた。嫣然と微笑む少女が男としてみて魅力的だったことが、唯一の救いとも言え

る。



 ともあれこれが、『神聖なる紫』遠野志貴と『血と契約の支配者』アルトルージュ・ブリ

ュンスタッドの出会い、その一端である。