1、



 野心はあった。だから、管理局に入った。



 そういう人間も、少なくないと思っている。中には本当に、世界のために戦いたいと高尚

な目的を持って入局した人間もいるのだろうが、自分――ナナカ・マルグリッドは違った。



 幼い頃から、勉強に打ち込んだ。魔導師になれると解った時から、そちらの訓練も怠らな

かった。士官学校も優秀な成績で卒業し、魔導師ランクもBを獲得。十歳前後で入局するよ

うな一部の超エリート――海のハラオウン執務官など、一部の高位魔導師に多く見られる―

―を除けば、まずまず優秀と言っていいだろう。



 いずれは管理局のトップに、などと大それたことを考えている訳ではないが、誰にも誇れ

るくらいには出世してやる、出世できる……そういう人並みの大望を抱いて入局したのが、

今年度の始めのことだった。



 配属は、希望の通り最初から本局となった。地上と本局の間に格差はない、というのが管

理局が押し出している建前であるが、新人の多くは本局で働くことを希望する。実際には建

前の通り格差はないのだろうが、イメージというものは拭い難い。



 また、新人の中で腕に覚えのある物は、地上、本局に関わらず、戦闘を行う部隊を希望す

る。



 これは希望というか半ば強制のようなものだ。魔導師と認定されたものでありながら、最

初からそうでない部署に配属されることは、人手不足に悩まされる管理局でなくとも、非常

に稀である。



 当然、ナナカもそういう部署を希望した。古代遺物管理部や、次元航行部隊など花形の部

署で実績を挙げて高給取りになり、やがては内勤になって踏ん反りかえる。田舎に帰っては

自分の実績を自慢し、やがて職場結婚して寿退社……そんな青写真を描いていた。



 その青写真が、仕事を始める前から崩壊するなどと、一体誰が予想できるだろうか。



 配属されたのは本局に違いなかったが、前線ではなく内勤だった。



 運用部である。管理局入局を目指してきたナナカは当然、ここがどういうことをする部署

なのか知っていたが、管理局に縁のない一般人には、言葉だけではさっぱりだろう。少なく

とも、手放しに自慢出来る部署ではない。



 当然、ナナカはこの人事に強くに抗議した。前線でも人手不足であるはずなのに、自分は

何故内勤なのかと。



 前線で役に立たないと判断されたはずはない。仕官学校に在籍していた魔導師の中でも、

ナナカは常に上位の成績をキープしていた。自分よりも下位の成績の同期も、問題なく前線

に配属されている。



 何故、自分だけが……縦社会において上の判断に楯突くことが、どれだけ出世に響くこと

か、理解していなかった訳ではないが、自分の青写真を根本から覆されたことで、ナナカも

少しだけ理性を失っていた。



 疑問が解決されるまで引き下がらないという、無駄な決意も固めていた。首になることす

ら、無意識の内に覚悟していたかもしれない。



 だが、最終的にナナカに対応した女性は、にこりともせず、まるでそれが当然のことであ

るかのように、こう言った。





『私がそう、望んだからよ』





 それがナナカと、レティ・ロウランとの出会いだった。





 レティ・ロウラン。『本局の魔女』、『紫紺の女帝』などの異名を持つ、現代管理局きっ

ての才媛。物騒な二つ名であるが、その名に相応しい戦果を挙げた訳ではない。ナナカの聞

いた限りでは、レティは一度だって前線には出たことがなかったはずだ。



 入局してからずっと内勤で、技術者でもないのに、士官学校にまで轟くような名を挙げて

いる人間は、管理局の歴史の中でも――まだ、百年にも達していない短い歴史ではあるが―

―そうはいない。現代においては、レティ一人と言ってもいい。



 階級は准将。出世に関して、前線経験者が圧倒的に強い管理局にあって、一度も前線に出

ることなく、現在の地位、階級にまで上り詰めた、現在進行中の生きる伝説である。



 ナナカの人事は、口の悪い人間は魔女とすら呼ぶ、レティ直々の指名だったらしい。内勤

を希望していた者なら狂喜乱舞するのだろうが、前線を希望していたナナカにとっては、い

い迷惑だった。



 内勤を希望していた者は、他に何人もいたはずだった。それなのに何故、自分を選んだの

だろうか。



 レティ付きの秘書のような仕事を始めてもうすぐ十ヶ月となるが、いまだに理由を教えて

はくれない。聞いても適当な物言いで誤魔化される。そう望んだから……今ではそれ以上の

理由などないのかもしれないと思うに至っているが、内勤を続けなければならない今の境遇

に、不満も感じていた。



 それはレティの仕事振りを見ていて、タダでさえ少なかった内勤に対する自信が、粉微塵

に打ち砕かれてしまったことにも起因した。



 物、金、人の全てを動かす運用部は、管理局内勤の中でも最精鋭の集まる部署の一つであ

り、所属している人間の平均年齢も高い。内勤一筋という人間が多く、魔導師ランクを持っ

ている人間も、ナナカを含めても数人程度だったが、内務の仕事に関してはエースクラスの

連中が集まっている部署なのだが、レティはその中でも群を抜いていた。



 定時に来て、定時に帰る。それなのに仕事量は、運用部のエース達の倍はやってのけるの

だ。これでもっと仕事に心血を注いでいたら、管理局は彼女の物になっていたろうと言われ

ているが、仕事に人生を捧げる気は更々ないようで、自分がいなければ決済できないような

案件がない限りは、部下がどれほど忙しく立ち回っていても、定時に帰る。



 聞けば丁寧に答えてくれるし、仕事に関しては部下の面倒見もいい。出身世界や魔導師ラ

ンク等で差別はしないし、男女の扱いも均等だった。無駄に部下に高圧的でもない。上司と

しては理想的と言える。



 これで自分の頼みも聞いてくれたら、と思うが、それに関しては取り合ってくれなかった。

人事に関してはレティが責任者だ。これが地上であれば、彼女の手が完全には及ばない所も

あるのだろうが、ここは本局である。



 誰が何処に配属されるのかも、最終的にはレティの気持ち一つだった。彼女がNOと言え

ば、人事に関しては他の誰が何を言っても、覆ることはない。



 椅子を引く音にナナカが目をやると、レティが帰り支度を始めていた。



 時計を見ると、午後五時。レティにとっては帰宅時間だった。最近、彼女を煩わせていた

闇の書事件の処理も一段落つき、レティがいなければ解決しないような仕事は、何もない。



 そのレティが、いつになくそわそわしていることに、気づかなくてもいいのに、ナナカは

気づいてしまった。美人であるが、たまに浮かべる薄い、怜悧でサディスティックな笑み以

外に、感情を浮かべているところをほとんど見たことがないので、そういうレティはとにか

く不自然だったのだ。



「何か、いいことでもあったんですか?」

「今日ね、とある男性と飲みに行くのよ」



 それでか、と納得すると共に興味が沸いた。



 レティは仕事の出来る女として有名だが、同時に、男好きということでも有名だった。



 と言っても、男と見たら見境なく手を出している訳ではなく、手を出す男にはレティなり

の基準というものが存在しているらしい。



 顔のレベルがある程度以上であるのは最低条件のようだが、何よりも優秀であることに重

きを置いている。



 もちろん、レティが誰それと関係を持ったとか、逆にレティと関係を持ったという男性職

員の、直接的な話は耳にしない。噂として、そういう関係なのではないか、と言う程度で、

レティにしても、普段から美形の男性職員を常にはべらせているというのでもない。



 第一に、秘書からして女性の自分である。仕事振りを見る限りでは、レティの周囲に男性

の影はない。その辺りは実に巧妙だった。



 見ていないだけで、自分がここで働くようになってからも、そういったことはあったのだ

ろうが、今日のように顔に出ていることは一度もなかった。。



 レティにとって、目当ての男性とそういうことになることは、特筆すべきようなことでは

ない。顔に出るということは、つまりは、よほどの相手ということだ。



 レティに自分から関わることなどしたくはなかったが、そんな男性にナナカも興味が沸い

た。



「お二人で、デートですか?」

「だと良かったのだけどね。リンディ・ハラオウン提督も一緒で、三人よ」



 言って、レティは苦笑を浮かべるが、リンディを邪険に扱っている様子はない。どちらも

本局で名を馳せた女傑であるが、同期で仲がいいというのも有名な話である。



 相手がどんな男性なのか知らないが、その話が本当だとすると、本局きっての女傑二人に

挟まれて酒を飲むことになる。どんなに美味しい酒を奢ってもらったとしても、自分では満

足に味わうことも出来ないだろうと思うと、ナナカは名前すら知らないその男性に、同情的

な気分になった。



「興味本位で聞きますけど、どんな方なんです?」

「恭也・テスタロッサ三士。特共研の新入り局員よ。貴女も名前くらいは聞いたことがある

でしょう」

「ああ、彼ですか」



 新しい魔法体系を修めている者として、有名ではあるが、魔導師の全体数が増えることを

良しとしない上層部には嫌われてもいる男性だった。一度だけすれ違ったことはあるが、ナ

ナカの目から見ても、端整な顔立ちをした青年だったと記憶している。



「リンディの紹介で管理局に入ったから、その縁で話を聞けないかと前から話していたのよ。

闇の書事件に巻き込まれてバタバタしていたみたいだけど、ようやく時間が取れるというこ

とだから、席を設けてもらったの」

「特共研の所有物、という噂もありますけど……」

「非売品でも売約済みでもなければ、私が手を出してはいけないという理由もないでしょう

?」



 何を遠慮する必要がある、と自信に満ち溢れた態度と、言葉だった。何十年経っても、自

分ではその境地に達することは出来ないだろう。羨ましいとはあまり思わないが、眩しくは

ある。



 片付けを終えたレティが立ち上がった。ナナカも秘書用のデスクから腰を上げ、彼女のコ

ートを手に取る。ドアを出るまでレティを見送るのも、ナナカの重要な仕事の一つだった。

レティにコートをかけ、ドアを開ける。



 すると、今思い出したとでも言うように、レティは懐から一通の茶封筒を取り出すと、ナ

ナカに押し付けてきた。そのままいつも通りの挨拶をして、レティは去っていく。



 レティの背中が廊下の向こうに消えて見えなくなるとドアを閉め、ため息をついた。手の

中の茶封筒をぱたぱたと振り、光に透かしてみる。残念なことに、空でもなければ、現金が

入っている訳でもなかった。



 封を破り、中身を取り出して目を通す。



 書類のほぼ全てが電子媒体になった時勢に、それでも紙媒体を使うということは、それだ

け重要な案件で、加えて表に出せないような案件であることが多い。今までそういった仕事

を請け負ったことはないが、巨大な組織に所属している以上、いつかそういうことになるの

では、と覚悟もしている。



 だが、今自分が所属しているのは運用部である。潜入して危険任務に従事するとか、スパ

イ活動とか、学生時代に思い描いていた任務が、今の自分にあるはずもない。重要な仕事を

任されることは、それだけ期待されているということでもあるが、今の状況にはため息も出

るというものだ。



 しかし、読み進めていく内に、ナナカの呼吸は段々と静かになり、やがて止まった。



 何かの間違いかと思い、書類を何度も読み返す。何度読んでも、変わらない。中身はレテ

ィ直筆の、仕事の指示書だった。何処の部署の誰それが、こういう不正を働いていて、ここ

にこういう証拠があるから、こういうことをやって、それを掴んで来いと、一から十まで事

細かに記されている。



 ここまで丁寧に書かれていたら、何も知らない子供でも、任務を達成できるだろう。



 ならば、これを手にするのは、自分でなくともいいはずだ。運用部には他にもっと優秀な

局員がいるのだし、レティ自身が使ってもいい。新人の自分などよりはよほど、出世競争の

只中にある女性だ。手柄はあって、あり過ぎることはないだろう。



 リストを良く良く読み進めて行くと、『不正アリ』と書類にリストアップされている人物

が、軒並みレティの対抗派閥の人間であることが見て取れた。



 つまりこれは、政敵排除の指示書、とも受け取れる。



 一つとして、この書類に書かれていることが全て、ないし一部がでっち上げという可能性

に思い至った。政敵を排除できればそれでよし、失敗したとしても、首を切られるのは新人

の局員一人だけだ。レティの懐は、全く痛まない。それならば、何の接点もなかった自分を

いきなり秘書に採用した理由も、説明が付く。



 だが、十ヶ月の間レティの仕事を見てきて、彼女がでっち上げなどをする人間でないこと

くらいは、理解できた。資料は本物である。それは、信じてもいい。



 この仕事を、自分にさせる意味とは、何だろうか。



 新人がこれらの仕事を達成すれば、レティの指示に従ってのこととは言え、階級の一つや

二つは上がるだろう。階級が上がれば基本給も増えて、有給休暇も多く取れるようになる。

その分責任を多く背負うことになるが、それは本来、ナナカの望むところだった。



 畑違いの部署に来てしまったとは言え、管理局でのし上がって左団扇という野望を、捨て

た訳ではない。自分の能力を生かしきれない現状では、この書類は渡りに船と言えた。



 やるしかない。書類の日付は、早い物では今日になっている。今晩、レティはお楽しみな

のだろうと思うと、一人の身に小さな怒りが沸いたが、今は仕事だ。のし上がれば、男でも

マンションでも宝石でも思いのままなのだ。



 両の頬を叩いて、一つ気合を入れる。



 仕事には、全身全霊で望むべし。



 ナナカが、レティの元で学んだことだった。



 



































2、



 グラスをちびちびと傾けながら、リンディは後悔し始めていた。



 レティと酒を飲むのは、今回が初めてではない。同期で入局した女性局員で、まだ管理局

に籍があり、親交があるのはレティだけだった。リンディにとっては、最も親しい友人と言

っていい。



 それだけに、レティの趣味には納得のいかないものがあった。自分とそう年齢は変わらな

かったはずだが、男漁りに心血を注いでいるのである。そういう場所に通って男に貢いでい

ないだけマシだ、とも思えるが、芽のあるフリーの男性局員にに片っ端から粉をかけるのも

どうかと思う。



 抵抗する相手を無理やり、というのではなく、最初から自分で落とせそうな相手を吟味し

ている辺り、性質が悪い。仕掛けられた方も、満更でもないのだろう。何しろ、レティは美

人だ。スタイルも良く、詳しくは知らないし知りたくもないが、閨の技も上手いのだとか。



 そして、今回その毒牙にかかる予定なのが、恭也・テスタロッサだった。



 特共研からの派遣任務は先日で終了したため、既にリンディの部下ではなかったが、今で

も付き合いは続いている。



 テスタロッサ兄妹は身寄りがないため、彼らを暫くハラオウンの家で面倒を見ても良かっ

たのだが、給料は貰っているし、それでは悪いという恭也の案を、妹であるフェイトも支持

し、妥協案として第97管理外世界のハラオウン家の隣の部屋を借りる、ということで落ち

着いた。



 今は恭也の分の当該世界の戸籍を準備している段階で、それが終了次第、ハラオウン邸か

ら引っ越すことになっている。



 寂しくはあったが、お隣さんになれただけで良しとすることにした。



 下手に恭也の機嫌を損ねて離れた所で暮らされては、せっかく見つけた息子クロノの友人

を、彼から引き離してしまうことになる。



 友達の少ないクロノのことだ。気兼ねなく言い合いの出来る、同年代の友人など、待って

いたら次は何時出来るのか解ったものではない。



 そんな事情もあって、どこか掴み所のない少年ではあったが、リンディ・ハラオウン個人

としても恭也・テスタロッサという青年は、それなりに大切な位置にいるのだった。



 その恭也が今、親友の毒牙にかかろうとしている。



 この飲み会自体、レティの発案だったのだから、そういう目的であるというのは解ってい

たことなのだが、断りきれなった自分はレティの行為に消極的に賛成していることになるの

ではないか。



 出自が不明瞭なことと、プレシア・テスタロッサの関係者であったこと。管理外世界の出

身で、ミッドでもベルカでもない魔法を扱う。人格がどうこう以前に、真っ当な管理局員に

は忌避される要素が、恭也には目白押しだった。



 恭也の能力と人格を知れば、ある程度のそういったことは吹き飛ばせるかもしれないが、

それでも、過去という物は一生個人に付きまとうものであり、そういうことでしか人物を

判断できない人間も存在する。



 そして、そういう人間に限って、権限を持っているものだ。恭也のような人間にこそ、何

かあった時に後ろ盾になってくれる人間が必要なのである。自分が庇える時はそれでもいい

が、そうでない時に、影に日向に、恭也・テスタロッサ個人を助けてくれる存在……本人は

自覚していないのだろうが、今の恭也には最も必要なのはコネだった。



 レティは自分と同じグレアム派(近い内にハラオウン派と改名される)に属しており、本

局運用部の責任者である。地上の人事にも口を出せる程で、本局に限ってなら、彼女が首を

縦に振らない限りは、どんな小さな異動も行うことはできない。味方にするにはこれ以上は

ない人材だった。



 個人的なパイプを作らなくとも、自分を経由すれば恭也の意向をレティに伝えることは可

能だが、独自のパイプというのもあって損はない。



 その対価が彼の『一晩の時間』であったとしても、それで自身の安全が買えるのなら、決

して高い買い物ではないだろう。自制心の強いレティだから、しつこく言い寄ってくること

はあるまいし、女性として見ても、コネを作る相手としては悪くなかった。



 後は、恭也がどう思うかだった。交際している訳でもない女性と関係を持つことを、肯ん

ずるかどうか。



 それを拒んだとしても、レティは恭也への協力を惜しまないだろうが、それはリンディが

レティを知っているから分かることで、初対面である恭也には知る由もない。



 もし、恭也がレティの誘いの言葉を深読みし、明確な拒絶の意思を示してしまったら……

仮にそうなったとしても、不味くなった関係はいずれ修復出来るだろうが、不和を自ら招く

ことが賢い選択とは思えない。



 この飲み会の意図くらいは、説明しておくべきだったか。管理局の人と物の流れという、

男女のする会話としては実に艶のない会話で盛り上がっている二人を見ながら、またも、リ

ンディはため息をついた。



 腕時計に目を落とす。そろそろ、飲み始めて三時間になる。



 ついでに言えば、明日に仕事を控えているのなら本気で帰宅を考えなければならない時刻

でもあった。



 そうでないのなら……場所を変える、本番に臨むなど、いずれにしても動き出す頃合だろ

う。



 ちなみに、恭也が明日非番であることは、上司のリスティを通して確認済みである。明日

の仕事に差し支えるから、という常套句は、レティには通用しない。



 長年の付き合いから、レティがそろそろ切り出すだろうことは、察しが付いていた。こう

いう時に良く使っている場所なのか、カウンターの内側でグラスを磨いているバーテンダー

も、レティの動きをちらちらと観察している。



 レティが、腕時計に視線を落とした。



 来た――リンディとバーテンダーは、そう直感した。



「そろそろ、お開きにしましょうか」

「そうですか。ためになるお話を聞かせていただきました。また機会がありましたら、是非

誘ってください」



 これで下心が見えているような相手であれば、レティに蹴飛ばされていたのだろうが、会

話をしていて、レティにも恭也の人となりは見えたようだった。その言葉を素直に受け止め

るレティは、付き合いの長いリンディをしても過去に類を見ないほど、機嫌が良さそうだっ

た。



「実は、部屋を取ってあるの。時間があるなら、そこで話さない?」



 レティの攻撃。



 バーの中には他にも客がいたが、その言葉が届いたのだろう。談笑していた二人組みの男

性も、老夫婦も、若いカップルも、一様に緊張して――しかし、上辺だけは何事もなかった

かのように――レティと恭也を意識した。周囲の人間全てが、恭也の次の言葉に注目する。



「ええ。貴女が宜しければ」



 行った! レティと恭也以外の心は、この時一つになった。レティ自身はと言えば、まる

で恋する乙女のように頬を染めて、ぽーっとしていた。恭也が首を傾げると、それが自分の

キャラとどれ程離れた物なのか意識したらしく、慌てて表情を引き締める。



「それなら、行きましょうか。リンディ、貴女はどうする?」



 首だけ振り返り、レティが言った。誘いの言葉ではあるが、意訳すれば、付いてきたら殺

す、ということだ。



 まさか三人で! と風に解釈したらしい二人組の男性がうめき声を挙げたが、そこまでの

趣味はリンディにはないし、レティも許容しないだろう。



「私はもう少し飲んで行くわ。何だか、飲み足りなくて」



 レティの意を汲んで丁重に断りの言葉を入れると、レティは恭也に伴われてバーを出て行

った。よほど嬉しいのだろう。去り行くレティの背中は、やはり乙女になっていた。



 恭也がレティに気に入られない可能性もないではなかったが、あの様子を見る限り、お気

に入りの一人にはなったようだ。



 これなら、レティは大抵の無理を聞き届けてくれるだろう。恭也に野心があれば、直ぐに

でも出世コースに乗れるだろうが、そういう物に最も縁遠い所に居るのが恭也である。



 何も言ってこない恭也に、レティもしばらくはヤキモキするだろうが、良い目を見るのだ

から、それくらいの苦労はしてもいいはずだ。



 ふいに、リンディの目にバーテンダーの姿が留まった。彼はグラスを磨く手を止めると、

無言で掌をこちらに向けて、左手の指を三本立てる。



 それは管理局員の間に伝わる、スラング的なサインだった。公式に決まっている訳では

ないが、口に出すには憚られることを伝えるための片手で行えるサインが、局員の間には

伝わっていた。バーテンダーが局員であるはずもないが、管理局員に教わったのだろう。

サイン通りの意図を伝えようとしていることは、リンディにも解った。



 同じサインでも状況によって意味が異なるが、先ほどバーテンダーが行ったのは、『女

性が勝つ方に300リリカル賭ける』という意味だ。左手が女性、手の向きと指の本数で

賭ける金額を示す。



 あくまで管理局の流儀に合わせてきたバーテンダーに、リンディはさっと左手の親指を

立て(賭けの提案を承諾)、机を軽く叩き(賭け金のレイズを提案)、掌をバーテンダー

に向けて広げて見せた(恭也が勝つ方に、500リリカルを賭ける)。



 レティが勝つことを疑っていないのだろう、リンディの提案に、バーテンダーは目を剥

いた。



「あの青年は、そんなに?」

「さあ。私は品行方正に生きてるもの。彼がどうかなんて知らないわ。でも、それほど女

性を知ってるようには見えないから、レティが負けるようなことがあったら、それは彼の

才能なのでしょうね」



 言って、グラスの酒を一気に飲み干した。年端もいかない男性に負ければ、レティも少

しは、男遊びを控えるだろう。



 過度な期待をしてはいけない、とは思うが、恭也が早々にレティに負かされている図と

いうのも、リンディには想像できなかった。



 勝ってくれれば、後は恭也がレティのような遊びを覚えないことを、祈るばかりである。



 もし、女遊びに目覚めてしまったら……自分は巻き込まれないように、距離を置くこと

にしようと心に決めた。



 クロノと同じくらいの年齢の時に、恭也に出会わなかったことを幸運なことだと思い定

めて、口直しと恭也の勝利、未来の平穏を祈って、おかわりを注文した。