行きかう、人の流れを見る。様々な人種。自分のような東洋人然とした容貌は少ない。そ

のせいか、すれ違うほとんどの人間の視線が自分を見ているような気がして、異国の地で恭

也は、居心地の悪さを感じていた。



 自分がきちんとしていればいい。普段であれば他人の視線などそこまで気にも留めないの

だが、ここまで来た目的を考えると嫌でも気分が滅入り、、恭也・テスタロッサにしては珍

しく、落ち着かない様子を見せることになったのだった。



 イギリスはロンドン、ヒースロー空港。大英帝国は空の玄関口で、恭也は一人、苛立たし

気に踵を鳴らした。遠巻きに、何気なさを装って恭也を見ていた人々――主に、十代後半の

若い女性が多い――が、それで慌てて遠ざかっていったが、恭也はそれに気づく様子もない。



「何をチンピラみたいなことをしているんだ、恭也・テスタロッサ」



 睨むようにして声のした方を見やると、旅の同行者の姿。普段は海鳴ですごしているため、

通貨をポンドに両替してきたクロノ・ハラオウンが、ぶつぶつと文句を言いながら歩み寄っ

てくる。



 出会った二年前は声が幼く身長も低かったせいで少女にも見えたが、成長期に突入したク

ロノは、生意気にもいっぱしの青年の風貌をしていた。低くなった声に精一杯に皮肉の色を

乗せて、両替したばかりのポンド札を差し出してくる。



「強面の君がそんなことをしていたら、警官が飛んでくるぞ。君に留置場で一晩を過ごす趣

味があるというのなら止めはしないが、頼むから僕と関係のないところでやってくれ」

「その時は身元引き受け人として、お前の名前を出すことにしよう」



 ふん、と不愉快そうに息を漏らし、クロノは先に立って歩く。青年二人の組み合わせ。片

方は黒髪の西洋人風で、身長も高く、フォーマルな服装から、オフのビジネスマンと見えな

くもない。もう一人は明らかに東洋人然とした青年で、隙のない風貌と立ち振る舞い。見る

人間が見れば武術において、一角の実力者であることは見て取れた。



 そんな二人が並んで歩いているのだが、それを見て仲良く旅行と思う人間はいないだろう。

何しろ二人の間に流れる空気は、言語の壁があっての誤解のしようもない程に険悪なのだ。

ならば喧嘩別れでもしそうな物だったが、どれほど激しい遣り取りをしても二人は離れるこ

とはなかったし、お互いに手を挙げることもない。



 見れば見るほど不思議である。一体、彼らはどういう取り合わせなのか。それが、周囲を

行きかう人々の疑問だった。その疑問を直接ぶつけられたとしても、当の二人とて答えに窮

していただろう。同僚というには距離が遠く、友人と言うには険悪で、仲間と呼べば虫唾が

走る。相手の何が憎いのか。恭也もクロノもやはり明確な解答を持っていなかった。



 強いてあげるのならば、宿敵――ただし、トモとは読まない――とでも言うべき関係の二

人は、一つの目的を持ってここ、ロンドンの地を歩いていた。正確には、恭也の目的にクロ

ノが同道した形である。



 恭也もクロノも、はっきりとお互いを必要としていなかったのだが、ワーカホリックの執

務官に有給を消化してほしい運用部や、有事の際のセーフティーバーを求めた提督などの思

惑もあって、この奇妙な二人旅は実現していた。



 空港から外に出ると、冬の冷たい空気が二人を襲った。雪こそ降っていなかったが、空は

灰色に曇っており、天気はお世辞にも良いとは言えない。霧の都は緯度のわりに温暖な気候

であると聞くこともあるが、冬であれば地球の何処にいても寒いのだと身を持って実感した

恭也は、黒い手編みのマフラーをたくし上げる。



 この前の誕生日の際に、管理外世界の少女がプレゼントしてくれた一品だった。屋敷のメ

イドに教えを請いながら作った初めての作品だと言うが、出来は悪くなかった。



「先方の話では、迎えが来ているはずなんだが……」

「『歓迎、恭也・テスタロッサ様、クロノ・ハラオウン様』という幟を持った人間がいたら、

全力で張り倒そうと思う」

「不本意ながら、それには僕も同意するが、先方もそこまで悪趣味じゃない。タクシーを使

うのも不経済だからと、車を回してくれることになっているんだ。既に着いたというメール

はさっき届いたから、見えるところに居るはずだ。君も探してくれ」

「――ああ、今見つけた」



 クロノの言葉を食うようにして言葉を紡ぎ、歩き出す。あの日と格好は違っていたが、身

に纏う雰囲気と、気配は変わっていなかった。その女性は車のドアに背中を預け、何をする

でもなく灰色の空を見上げていた。誰かが近づいてきたのが分かると顔を向け、それがクロ

ノであると解ると意地の悪そうな笑みを浮かべ、その隣に恭也がいることに気づくと、笑顔

を凍らた。



 飛行機による長旅を終えた身には随分な出迎えの仕方ではあったが、それで気を悪くする

ようなこともない。笑顔があるはずもないのだ。それだけのことをしたし、それだけのこと

をされた。これくらいが、当たり前なのだろう。



「ロッテ、君が来たのか。アリアが来ると思ってたよ」

「ジャンケンで負けてね。どっちが行くかで揉めたんだ」



 負けたその結果、ここにいるということなのだろう。あまり来たくはなかった、と言って

いるようなものだった。バツの悪そうな顔。恭也は努めて、視線を合わせないようにする。

会話を切り出すようなこともしないので、必然的にクロノとロッテだけの会話になった。一

人で喋らされている事に気づいたクロノが睨みやってくるが、既に恭也の視線は空港の方に

向いており、売店で売っていたフィッシュアンドチップスに思いを馳せていた。帰るまでに

食べる物リストの中に、付け加えて置く。



「じゃあ、移動するよ。クロスケは助手席に――」

「お前の方が階級が上だからな、後部座席に座る権利は譲ってやろう」



 言うが早いか恭也は助手席のドアを開け、シートに腰を降ろした。口を開いたまま固まっ

ているリーゼロッテと、二人を見比べて、どうした物か、という顔をしているクロノ。恭也

相手には全くと言っていい程、物怖じしないクロノだったが、師匠格であるリーゼロッテの

ことは苦手としているようだった。声をかけたいのならかければいいのに、散々に躊躇った

末に何も言わない。



 さらにリーゼロッテが何も言わない物だから、席順はそのように決まった。クロノもリー

ゼロッテも無言でシートに腰を降ろし、車は出発する。目的地はロンドンの郊外、ここから

の道程は二時間程だと聞いている。一眠りするには、悪くない時間だった。



 相変わらず何か文句でも言いたそうなクロノにちら、と目をやると小さく息を吐き、シー

トを僅かに倒して瞳と閉じた。旅の疲れが、一気に襲ってくる、眠りに落ちるのは、直ぐの

ことだった。







































 こういう家を、豪邸というのだろう。恭也の中では、豪邸と言えば月村の屋敷だったが、

敷地面積だけを比較しても、ここは月村の屋敷のゆうに4倍はありそうだった。自分には一

生縁がなさそうだと人事のように感じながら、グレアム家の門を潜る。門から家までの遠い

道のりを、車で行く。きちんと手入れされた庭である。季節の花が咲く控えめな雰囲気は、

恭也にも好感が持てた。



 車庫に車を止めると、リーゼロッテの先導で歩き出す。いくつかある家屋の、見た中では

最も大きな屋敷が、母屋ということだった。ならばそれまであったのは何なのだろうか。管

理局員というのはそれほど高給取りなのかと考えるが、ハラオウン家は困窮はしてない物の、

これほどの富豪ではない。



 既に退役したグレアムの方が勤続年数も長く、階級も上だったのだろうが、目に見える程

の差があるとも思えなかった。疑問という程のものでもなかったが、顔に出ていたのだろう。

歩きながら恭也の顔色を伺っていたりーゼロッテが、その疑問に答えた。



「管理世界で稼いだ資金を、この世界で運用してるんだ。管理世界にいる時間の方が長いか

ら、代理人に頼んでるんだけどね。それが高利に高利を呼んで、今の立場って訳さ」

「そんなものですか……」



 母屋の廊下は掃除も行き届いていて、調度品のセンスも華美でなく地味でない。これらの

手配まで自分でやっているのだとしたら、そのセンスは中々のものだ。過去の付き合いから

恭也には美術品の知識がそれなりにあったが、その目から見ても並んだ美術品はどれも一級

品だった。



 普通ならば、そこから美術なり資産の運用なりに話を展開させるのだろう。事実、リーゼ

ロッテもクロノもそのつもりでいたのだろうが、恭也はそれきり興味を失ったように口を閉

ざした。



 気持ちの悪い沈黙が降りる。クロノは顔を顰めて胃の辺りを押さえ、リーゼロッテは沈痛

な面持ちで視線を逸らした。



 それでも三人は歩き続け、応接間に到着する。一際気を使ったらしい調度品が並べられた

広い部屋。毛足の長い絨毯に、重厚なテーブル。その両脇に設えられたソファに、この屋敷

の主はいた。



 ギルバート・グレアム。クロノやリンディの恩師であり、恭也にとっては仇敵だった男だ。

その後ろには、使い魔の片割れ、案内を務めたリーゼロッテの半身であるリーゼアリアが、

何故か男物の執事服を身に纏って立っていた。



 リーゼロッテに促され、恭也はクロノと共にソファに腰を降ろした。リーゼロッテはリー

ゼアリアと対になるように、グレアムの後ろに立ち、入れ替わるようにしてリーゼアリアが

紅茶の準備を始める。堂に入った、洗練された動作だった。



「まずは、我が家へようこそ、二人とも」

「ご無沙汰しております、グレアム提督」



 挨拶を返したのは、クロノだけだった。紅茶を配膳するリーゼアリアが、ちら、と恭也を

見た。殺気を込めて睨まれても不思議ではないが、リーゼアリアは本当に、恭也を見ただけ

だった。配膳が終わると、再びグレアムの背後に戻る。どうやらそれが、彼女らの定位置で

あるらしい。



「既に退役した。もう提督ではないよ」

「では、先生とお呼びします」

「呼び方くらいは、お前に任せよう。さて……」



 僅かに身を乗り出したグレアムが、恭也に視線を向けた。湖水のように、穏やかな瞳。静

かに、しかし確実に恭也の中に怒りの感情が湧き出した。それを、無感動に制御しながらグ

レアムの視線を、受け止める。



「一度君とは、ゆっくり話をしたいと思っていた。こうして向かい合うまでに二年もの時間

をかけてしまったが、まさか、君の方から会いたいと言って来るとは思わなかったよ」

「必要に差し迫られたもので、仕方なく」



 挑発的な言葉。背後のリーゼアリアから、僅かに殺気が漏れた。言葉を受けたグレアムは、

ふむ、と小さく頷いて紅茶を啜る。



「ゆっくりと話す時間はなさそうだな。話を聞こうか。最初から、全てを話してくれ」



 言って、グレアムはソファに背中を預けた。鷹揚な態度が癪に障ったが、心の波紋も全て、

自分とは関係のない、別の世界で起こっていることのように恭也には思えた。感情を、どこ

かに置き忘れてきたかのような感覚。恭也は、心が急速に冷えていくのを感じた。



「ジェイル・スカリエッティという男をご存知でしょうか」

「名前は、耳にしたことがある」

「その男の活動が、近年活発になっております。地上も、本局も、一部の執務官も捜査を行

っており、先日、地上本部の一隊がスカリエッティの拠点の一つと思しき施設に立ち入り、

機動兵器と戦闘を行いました。その結果、隊は壊滅的な打撃を受けましたが、逮捕者はゼロ

でした」



 グレアムは、黙って恭也の言葉に耳を傾けていた。



「壊滅した隊に死亡者はありませんでしたが、行方不明者が二名。隊長のゼスト・グランガ

イツと、隊長補佐のメガーヌ・アルピーノ。このうち、メガーヌ・アルピーノには子供がい

ます。名前は、ルーテシア・アルピーノ。一歳の少女です」



 促されたから説明はしていたが、グレアムには事前にリンディから資料が渡っているはず

だった。一分一秒が惜しい今、周知のことを喋らされるのは苦痛だったが、物を頼む立場に

あるのは間違いなくこちらなのである。そこには通すべき筋というものがあり、欠かしては

ならない義理がある。どんな相手だったとしても、それは守らなければならない。



「このルーテシアが、スカリエッティの手の者と思われる者に、襲われました。幸い、局員

が近くにおり事なきを得ましたが、これからそういったことがもう一度起きないとも限りま

せん。早急に、彼女を守護することの出来る人間を、用意しなけれなばならないのです」

「管理局に保護を求めるのが一番だとは思うが……」

「スカリエッティの手は、管理局の内部にまである気配なのです。それに、ルーテシアを襲

った者は変身能力を持っているとか。多勢の中に置くのは、危険と判断しました。これには、

ハラオウン提督や、ロウラン部長も同意しております」

「その二人が言うのなら、間違いはないだろうな」



 グレアムの視線が恭也を捉えた。口を真一文字に結ぶ。心は冷え切ったままだ。大丈夫。

出来る。何も問題は、ない。



「人間では、ルーテシアの周囲にあるにも限界がある。守護する存在は、使い魔であること

が望ましいのです。スカリエッティの手の者からルーテシアを守れるだけの実力があり、管

理局の枠の外にあって、この仕事をするに辺り、俺達が信用出来る存在となると、他に思い

浮かびませんでした」



 恭也は居住いを正し、頭を下げた。クロノが、リーゼロッテが息を飲む。この世で、最も

頭を下げたくない相手に、頭を下げたのだ。心はまだ、冷えている。



「どうか、手助けを。貴方がたのお力を、借りたいのです」

「君は、私のことが嫌いではなかったのかな」

「嫌いです。この世の何よりも。貴方はそれだけのことをしたのですから。ですが、それと

これとは話が別です。必要となれば、何度だって頭を下げる。ルーテシアの安全が買えるの

なら、俺の矜持など安い物だ」



 しかし、恭也の人間の好悪と矜持と同じように、グレアムが話を受けるかどうかも、別の

問題だった。使い魔を手元から離すというのは、魔導師にとってはこれ以上ないほどに大事

なのだ。二人いるから良いだろうというのは、他者の理屈である。



 グレアムは虚空を見上げた。視線を彷徨わせてクロノを見て、恭也に目を留めた。この世

で最も嫌いな人間の、視線である。



「私は、間違ったことをしたとは思っていない。私が守護するべきは、常により多くの人だ

った。一人を犠牲にすることで、それ以外の人々を救えるのなら、私は迷わずそうする。例

えもう一度、同じ時に立ったとしてもだ」



 その嫌いな人間が、さらに恭也の嫌いな言葉を紡いだ。冷えた心に、熱が蘇る。



「はやては、乗り越えた。その可能性を、貴方は潰そうとした」

「奇跡の類だろう。何度やってもそうであるとは思わない。君達が失敗したら、多くの人々

が危険に晒されたのだ。君はそれを、是とするのか」

「犠牲の上に成り立つ世界など、あってはならないと思います」

「それは理想論だよ」



 空になったカップを、グレアムは置いた。音もなく歩み寄ったリーゼアリアが、紅茶を注

ぎ足す。



「君と私では、主義主張に大きな食い違いがあるようだ。求める物に、大きな差はないはず

なのにな」

「仕方のないことでしょう。俺と貴方では、何もかもが異なるのですから」

「私の立場にあれば、君とて同じ決断をするかもしれない」

「かもしれません。ですが、それまでは、俺はこの主義を、主張を変える訳にはいかないの

ですよ」



 沈黙が降りた。リーゼアリアは無表情を装って、グレアムの後ろに控えている。同じよう

に控えているはずのリーゼロッテは、不安そうにグレアムと恭也を、交互に見つめていた。



 考え込んでいたグレアムが、大きく嘆息した。組んでいた足を組み替えて、ソファに座り

なおす。クロノの話では退役してから大きく老け込んだとのことだった。その所作は、老人

のものだった。



 老人が、言葉を続ける。



「君がもっと早く私の前に現れていたら、友人になれたのかもしれんな」

「そうはならなった。それが、貴方と俺のめぐり合わせなのでしょう」

「世界は、こんなはずじゃなかったということばかりだな」



 グレアムが苦笑を浮かべた。クロノから何度か聞いたことのある言葉だったが、目の前の

老人が言うと、その重みもまた一入だった。主義主張を裏打ちするだけの強い思いが、グレ

アムにはあった。



 それがギルバート・グレアムという人間で、自分は、八神の家族だった。ここにあるのは、

百年の時を持ってしても、変わることのないものなのだろう。そう思うことにした。



「返答やいかに」

「リーゼロッテをお貸ししよう。小さなレディのためだ、好きに使ってくれて構わない」

「感謝します」



 立ち上がった。そのまま、部屋の外へ向かう恭也に、慌ててクロノが追いついてくる。



「外で待ちます。出来るだけ早急に荷物を纏めていただきたい」

「蜻蛉帰りもいいところだな。もう少しゆっくりしても、いいと思うのだが」

「用が済めば、ここにいる理由は俺にはありません」



 そのまま立ち去る。来た道程を勝手に戻り、玄関を出て直ぐの所の壁に、背を預けた。当

然ながら、外は寒い。室内が暖かかっただけに、落差も凄まじい物があったが、この世の物

とは思えないほどに、冷えた空気が美味かった。やり遂げた。そんな爽快感が、恭也の胸に

溢れていた。



「僕を置いていくな」

「着いて来いと言った覚えはないぞ。久し振りの再会だったのだろう? 積もる話でもして

くればいい」

「あんな空気の部屋にいて堪るか」

「その空気に耐えてさえいれば、俺と共に寒空の下というのは回避できたのだが」

「君と一緒というのは最低けど、この際それも已む無しだ。僕も自分の身が可愛い」

「そんなものか」



 コートのポケットから缶コーヒーを取り出し、隣のクロノに放る。空港で余分に買ってお

いた物のため、温いを通り越して既に冷たくなりつつあったが、何もないよりはマシだろう。

プルタブを開けて、口を付ける。そこで初めて、リーゼアリアの紅茶に手を付けなかったこ

とに思い至った。飲んでいたのはグレアムだけで、クロノすら手を付けていない。入れた人

間が誰でもあっても、紅茶には罪はない。飲んでおくべきだったか、と冷たいコーヒーを半

ば義務感で飲みながら、しかめっ面をしながらも、律儀のコーヒーを飲むクロノを見やった。



「すまんな」

「気持ち悪いことを言うな。なんだ、僕の知らないところで、謝らなければならないような

ことを、何かしたのか」

「いや、俺と元提督の諍いにお前を巻き込んでしまった」

「そんなことか……」



 空になった缶を両手で弄びながら、クロノは周囲を見渡した。当然のことではあるが、豪

邸の玄関付近に、都合よくゴミ箱があるはずもない。



「僕は僕の使命感を持ってここに来た。誰に感謝をされる謂れもないし、況してや君に謝ら

れるなど、もってのほかだ。そりゃあ、先生の行動には僕にも思うところがあった。言いた

いことも山ほどあるが、君と舌戦した後に言うべきことでもない。全ては過ぎ去ったことで、

今更言っても、退役した先生には意味のないことだからな。言いたかったことは僕の中で昇

華させて、今後に生かす。それでいいさ」

「お前も言いたいことを言っていたら、あの爺さんを少しは追い詰められたのかと思うと、

残念でならない」

「あの人にはあの人なりの正義があって、あの人なりの悩みがあったんだと思う。それが君

や、僕の考えとは相容れないとしても、先生は世界を救うために行動し、それで命を救われ

た人もいた。確かに取った行動は局員として、人間として許される物じゃないが、あの人の

姿勢には、尊敬の念さえ覚える。あの人に頭を下げた、君の前で言うべきことじゃないのか

もしれないが、それが僕の本心だよ」

「俺にだって、そういう気持ちがないではない。どういう経緯だったとしても、はやて達は

帰ってきたんだ。あの爺さんによって、俺が失った物は何もない。いつまでも、あの爺さん

達を恨むのは、建設的ではないんだろうが……あの爺さん達が、俺の仲間を手にかけたとい

う事実は、変わらない。俺はあの爺さん達を、一生許すことはないと思う」

「先生も、君に許してもらおうとは思ってないだろう。もう、顔を合わせない。それでいい

んじゃないか。先生も、のう無理に君と会おうとは思わないだろうし」

「そうあって欲しいものだ」



 それからは会話もなかった。30分程で、スーツケースに荷物を纏めたリーゼロッテが、

リーゼアリアを伴って現れた。リーゼアリアは、空港までの運転手らしい。車庫まで、リー

ゼアリアとクロノを先頭に歩き、次いで恭也。暗い顔でスーツケースを引き摺ったリーゼロ

ッテは、最後尾だった。



「来る時は後部に押し込めたからな。クロノ、空港までは助手席でいいぞ」



 リーゼロッテが、泣きそうな顔をした。無言でスーツケースを奪い取り、トランクを開け

て待っていたリーゼアリアにそれを渡す。執事服の使い魔が、顔を寄せて囁いてきた。



「私の姉妹を、あまり苛めないでね。あの娘、あれで結構繊細なんだから」

「不当な態度を取っているつもりはありません。あちらが歩み寄る姿勢を見せるのなら、考

えないでもありませんが」

「紳士じゃないわよ、そういう態度」

「相手が淑女なら、紳士にもなりましょう」

「……あまりにも貴方の態度が悪いようなら、私にも考えがあるわよ」

「物言いあるなら刃で。結構なことではありませんか。何時でも、今度は俺も、本気でお相

手しましょう。来るのなら、死ぬ気でどうぞ」

「そうならないことを祈ってるわ」



 トランクを閉め、リーゼアリアは運転席に。特に文句もなくクロノは助手席に座り、後部

座席には恭也とリーゼロッテが座った。



「このまま空港まで直行するけど、三時間は待つことになるわ。チケットの手配はしておい

たけど、時間を潰す方法は三人で考えてちょうだい」

「なら、食事でもしないか? ロンドンの料理は世界一不味いというが、どこかそうではな

い店を知らないか、恭也・テスタロッサ」

「異邦人の俺に聞くな」



 言いながら、恭也はクロノの意図を読み取っていた。お節介な……と思いながらも、切欠

をまるで掴めていなかった恭也は、本当に少しだけ、クロノに感謝しながら、俯いたままの

リーゼロッテを見やった。



「何処か、美味い物を出す店を知りませんか? リーゼロッテ」



 声をかけられると思っていなかっただろう。リーゼロッテは小さな悲鳴を挙げて、恭也を

見た。その頃には恭也はリーゼロッテの方を見ておらず、窓の外を流れる景色から視線を外

さない。しばらく待った。誰も声を発さない。リーゼロッテは見ているだけで、リーゼアリ

アとクロノは我関せずを決め込んでいる。恭也の位置からでは二人の顔は見えなかったが、

腹の立つような笑みを浮かべているのは、想像できた。



 声をかけるのなら、自分しかいないのだ。イライラしている自分を意識しながら、噛み砕

くようにして、言葉を続ける。



「俺もクロノも、そろそろ食事をしたいのです。それなので、どこか貴女のお勧めの、食事

を出来る場所を教えていただけないでしょうか」

「……予算は?」

「いくらでも。払うのは俺ではなく、クロノですから」

「ちょっとまて、恭也・テスタロッサ」



 クロノの声にも取り合わない。振り返って文句を言い始めるクロノを見て、沈んだ表情だ

ったリーゼロッテに、笑みが戻る。



「少し高いけど、食い放題の店を知ってるよ。そういうところ、お父様もアリアも好きじゃ

ないから、一度行ってみたいとは思ってたんだ」

「では、そこにしましょうか。リーゼアリア、貴女も一緒にどうです?」

「ロッテの話を聞いてたでしょう。私はお父様と一緒で、食が細いの。空港の近くの店だか

ら、そこに貴方たちを置いたら、私は帰るわ」

「元提督には、よろしくお伝えください」



 不愉快そうに、リーゼアリアはため息を漏らした。



 それから空港近くのレストランに着くまで、リーゼアリアは何も言葉を発さなかった。男

性の義務として、恭也がトランクから荷物を降ろしていると、リーゼアリアは半身である姉

妹を抱きしめ、彼女にだけ聞こえるように、耳元に何かを囁いた。リーゼロッテは何も答え

ず、ただ小さく頷いただけだった。



 それからクロノに短く別れの挨拶をすると、恭也には見向きもせずに、リーゼアリアは去

って行った。



「まったく、嫌われたものだな、恭也・テスタロッサ」

「こんなものだろう。笑顔で別れるという方が、不自然だ」

「もう少し無難な対応は出来ないものかな」

「参考にはさせてもらおう。もう、お前と一緒に彼女に会うことはないと思うが……」



 それもそうだ、とクロノの対応も淡白だった。クロノにとっては恩師である。恭也と異な

り個人的に会うこともあるのだろうが、そこに恭也はいないのだ。文句を言われることもあ

るだろうが、いくらでも受け答えのしようはある。 



「ところで、払いは本当に僕がするのか」

「割り勘でいい。貸し借りはなしにしよう。先に行って、話を通しておいてくれ。大人三名

だ」

「僕を置いて逃げるというのは、ナシだからな」

「そんな子供のような真似はしない」



 いい案だ、とは思ったが、手を取り合って逃げるのがリーゼロッテでは様にならなかった。

置いていかれたクロノよりも、自分の方が罰ゲームになっているような気がして、正直なと

ころ、割に合わない。



 リーゼロッテのスーツケースを持って、クロノを追う。リーゼロッテは黙って、後を着い

てきた。



「これは、一度しか言いませんが」



 言葉を区切ると、リーゼロッテは歩みを速めて、恭也の隣に並んだ。レストランまでの階

段を上りながら、心中で最後まで徹しきることの出来ない自分を罵倒する。後ろ手に頭をガ

リガリかきながら、 あー、うー、と意味のない言葉を呟いた末に、やっとのことで言葉を

搾り出した。



「話を引き受けてくれたことを、感謝しています。正直、受けてくれないのではないかと思

っていました」

「事情を知ってれば、受けないなんて選択肢はないよ。あたしもアリアもお父様も、あんた

が思ってるような冷血じゃないんだ」

「それは、解っているつもりです。俺は貴方たちのことを一生許すつもりはありませんが、

クロノと同じように、尊敬もしています」



 本当に少しだけですが、と付け加えて、恭也は足を止めた。リーゼロッテの真っ直ぐな視

線を、受け止める。



「貴女がたに声をかけたのは、それが最高の手段だと思ったからです。引き受けてくれた以

上、貴女は立派に仕事を果たしてくれるでしょう。だから、その……」



 視線を逸らした。そこまで言う必要はあるのか。葛藤する。リーゼロッテは、言葉を待っ

ていた。そこに居るのは、仲間を殺した相手だ。そこには恨みだけがあるべきで、それ以外

の感情はないはずだった。



 大きく、息を吐く。何かを言うだけで、緊張するのは久し振りだった。シグナムやヴィー

タがいたら力の限り罵倒されたのだろうが、こうすることが、今の恭也には正しいことであ

るように思えた。



 あの日、心の底から憎んだ相手だった。今もその気持ちは残っている。



 憎しみと、尊敬の念と、その他に色々な気持ちを綯い交ぜにしたまま、恭也は手を差し出

した。リーゼロッテは目を丸くして、その手を見つめている。



「これから、どうかよろしくお願いします」



 差し出された手を見つめていたリーゼロッテはしばらくして、手を握り返した。それはあ

の日、シグナムを刺し貫いた手だった。








































 








 厄介なことは続くものだ、と思った。



 ロンドンから日本に戻り、海鳴の月村邸からミッドチルダに戻った。そこからクラナガン

のアルピーノ邸に向かい、美由希に守られていたルーテシアを引き取った。



 ルーテシアに身寄りはいなかった。メガーヌの両親は既に死去しており、父が誰かは解ら

ない。クイントは知っていたようだが、頑として口を割らなかったのだ。知っても意味のな

いことだ。恭也はそう、思い定めることにした。



 誰が何処でルーテシアを引き取り、面倒を見るのか。自分が面倒を見る。そう言った時に

は、誰も反対はしなかった。



 決めれば、行動をするのは直ぐだった。ルーテシアを引き取るに辺り、必要な書類は既に

揃っていた。法的に問題が起きないよう、レティが既に手を回しておいてくれたのだ。それ

を提出した足で、直ぐ海鳴に戻った。着いたときには既に日が暮れており、確認してみた所、

フェイトもアルフも既に帰宅しているようだった。



 ルーテシアを引き取ることに関しては、二人には何も相談していなかった。しても、二人

は何の文句もなく、ルーテシアを受け入れてくれたのだろう。二人の心根の優しさを、恭也

は信頼していた。



 だが、それと黙って大事なことを決めたのは、別のことだった。相談をしなかった。その

ことには、腹を立てるかもしれない。共に暮らす家族が二人も増えるのだ。それが大事でな

くて、何だと言うのか。



 命の危険はないだろう。だが、男としての尊厳は失われるかもしれない。地味だが、陰湿

で非常に効果的な嫌がらせの果てに、屈辱に塗れながら二人に頭を下げる自分を想像し、自

宅のドアを前に、恭也は身震いしていた。



 腕の中ではルーテシアが、すやすやと寝息を立てている。背後には、荷物を持ったロッテ。

気配を察知したのだろう。ドアの向こうには既に、二人の気配があった。意を決して鍵を差

込み、回す。足を使ってドアを開けると、恭也の家族である二人が待っていた。



 二人は荷物を抱えたリーゼロッテを不思議そうに見たが、その目が腕の中のルーテシアに

向くと、驚きで目を丸くした。



「恭也、あんたいつの間に子供なんて作ったんだい……」

「実しやかに言ってくれるな。フェイトが信じるだろう。違うぞ、フェイト。この娘は俺の

子供ではないからな」

「でも、無口そうなところが恭也の子供と言えなくもないような……」

「後でこの娘の母親の写真を見せてやろう。俺のことがどうこう言えなくなるくらいに、似

ているから」

「つまりは、母親に似たあんたの子供なんだね」

「違うと言っているだろう。が、そう遠くない状態とでも言えばいいのか」



 荷物を運び込んだロッテが、ドアを閉めた。沈黙が、降って沸く。



「この娘を、うちで預かることになった。一時ではなく、かなりの長期間。場合によっては、

一生かもしれない。相談しなかったことは悪いと思ってる。だが、その……」

「皆まで言わなくてもいいよ。事情があるってのは、あんたの顔を見りゃ分かる。連れ込ん

で来たのがそっちの猫だけだったら百叩きにもしただろうけど、こんな可愛い娘が一緒って

言うんじゃ、強くも言えないだろう」

「いいのか、その、ルーテシアが一緒に暮らしても」



 アルフの平手が飛んだ。乾いた音が、玄関に響く。フェイトが目を丸くして、口に手を当

てた。とっさに出かかった悲鳴を、無理やりに押さえ込んだらしい。



「本気で言ってる訳じゃないだろうけど、そいつはあたしやフェイトに対する侮辱ってもん

だ。全く相談しなかったことも含めて、これでチャラにする。もうこの話はなし。これで、

その娘はうちの家族だ。それでいいだろう?」



 是非もない。眠るルーテシアをフェイトに渡す。幼児を抱いたことのないフェイトは、ど

どうすればいいのか解らないらしく、心底に困った表情で隣に立つアルフを見上げた。その

顔が可笑しくて、恭也は小さく噴出した。笑われたのだと解ったフェイトが、むくれて見せ

る。



「で、そっちの猫はどういう事情でここにいるんだい」

「ルーテシアは、身柄を狙われている。その守護のために来てもらった。管理局とは関係な

く、善意で着てもらっている。目的から、うちで暮らしてもらうことになったのだが――」



 再び、アルフの手が飛んできた。二度、恭也の左右の頬を打つ。痛みには慣れていたが、

アルフとて非力ではない。しかも先ほどよりも力を入れていたらしく、フェイトが今度は確

かに、小さな悲鳴を挙げた。頬に、熱い痛みが走る。



「事情は解った。もう聞かない。家族かどうかは知らないけど、あたしはその猫を歓迎する

よ。部屋は余ってる部屋を勝手に使ってもらうんでいいのかい?」

「いずれルーテシアのものになる部屋だ。その前提で、選んでくれ」

「分かったよ。猫、着いてきな」



 ホストの礼儀としてスーツケースを担ぐと、アルフは先にたって歩き出した。ロッテより

も大分年下のはずだが、ここが我が家であるという意識がそうさせているのか、アルフの振

る舞いは堂に入っていた。多少の軋轢があると思っていたが、アルフは自分よりもずっと大

人だったらしい。少なくとも表面上は、そんな様子は欠片も見受けられなかった。



 懸念の一つは、これで消えた。



「済まないな。何も相談しなくて」

「この娘を守りたい。そう思ったんでしょう?」



 フェイトの問いに、恭也は黙って頷いた。



「きっと、この娘はここに来る運命だったんだよ。私は、この娘のこと、好きになれると

思う。恭也が連れてきた娘だもん。妹みたいに思えるよ」

「この娘はテスタロッサではないぞ」

「恭也がテスタロッサじゃなくなっても、私もアルフも、恭也の家族だよ」

「それは俺もそうだが、そうか、妹か……」



 対外的な恭也の年齢は18で、一歳のルーテシアとは一回り以上の年齢差があった。妹に

しては随分と年齢の離れた妹だったが、既に妹であるフェイトからして、外見的には恭也と

は欠片も似ていないが、妹として振舞っている。年齢差くらいは、大した問題ではなかった。



 眠っているルーテシアの顔を覗き込む。自分の周囲で何が起こっているのか、何も知らな

いのだろう。寝顔は実に安らかだった。



「そうか、妹か……」



 もう一度、呟いてみた。フェイトの腕の中、眠るルーテシアの頬を突付いてみる。小さく

唸ったルーテシアは、そのまま口を開けて、恭也の指をくわえ込んだ。



 それを見て、フェイトが笑った。



 部屋に荷物を運び込んだアルフが、ロッテと共に戻ってくる。ルーテシアに指を咥えられ、

どうしたものかと困ってい恭也を見て、二人は声を挙げて笑った。空いた方の手で、ルーテ

シアの頭をそっと撫でる。これが、家族か。声には出さずに、そう思った。