「私は反対です」



 カリムと異なる意見を持つことなど極めて稀だったが、カリムに反対することが出来る

のもまた、自分しかいない。正直心は痛んたが、敬愛すべきカリムのため、聖王教会シス

ター、シャッハ・ヌエラは心を鬼にしていた。



「貴女にはもっと相応しい相手がいます。人選は再考すべきです」

「でも、ハラオウン提督の推挙よ?」



 重厚な執務机の向こう、革張りの椅子に腰掛けたシャッハの主、カリム・グラシアは、柔

らかな微笑みを浮かべてシャッハの言葉にやんわりと反論した。諭すような物言いは何処ま

でも穏やかで、教師でもやれば人気が出るのではないかとシャッハは常日頃から思っている。



「こちらから意見を求めて、それに沿う形で最高の相手として紹介してくれたのよ? それ

に文句をつけるのは、失礼ではないかしら」

「しかし……」



 がリンディに対し礼を失しているというのはシャッハも解っていた。リンディ・ハラオウ

ンの人柄はシャッハも知るところである。彼女の推挙というのなら間違いないのだろうが、

それでも、と思うのはやはり過保護なのだろうか。



「貴女の言い分も解るわ、シャッハ。でもこの方……名前は何と言ったかしら」

「恭也・テスタロッサ二等海士です、騎士カリム」



 ああ、そうでした、とカリムは恭也の資料を呼び出した。何度も精読したシャッハは、資

料に記載されているくらいの内容は、既に暗記している。



 恭也・テスタロッサ二等海士。出身は第97管理外世界。リンディ・ハラオウン少将の推

挙で管理局に入局し、今年で四年になる。資料には恭也に関し、ありとあらゆることが記載

されていたが、最初にシャッハの目を引いたのは学歴の欄が空欄であったことだ。



 管理世界の中でも、時空管理局は最大規模の組織であり、その入局のためにはそれなりの

手順というものがある。仕官学校や訓練校を卒業するのが普通の方法であるが、恭也はその

どちらも踏んでおらず、実力を認められたという形で入局していた。



 そりゃあ、全くの無学ではないのだろう。そこまでとなったら、いくらリンディの推挙で

あると言っても管理局に入れるはずがない。管理外世界の教育機関でそれなりの教育を受け

たのだろうが、管理世界においては、管理外世界の学校全ては、学歴として認定されない。

管理外世界で最高の教育を受けたとしても、管理世界に来てしまえば『学歴ナシ』なのだ。



 それが魔導師であればまだいい。彼らに求められるのはまず力量であり、知識は二の次な

のだから。よほど行動、人格に問題がなければ、魔法の腕さえ確かであれば、管理世界にお

いて職は保障される。魔導師優位の社会と言われ続けて久しいが、それが管理世界の現状だ

った。



 だが、恭也は魔導師ではなかった。加えて学歴もないのに正規の職員というのだから、シ

ャッハとしては驚かざるを得なかった。



 所属は本局、特設共同技術研究開発部。名前の通り後方勤務の研究職であり、恭也自身の

登録も魔導師ではなく事務員である。新しい魔法体系の研究に、部長であるリスティ・シン

クレア・クロフォードと共に関わっているらしいが、学歴も定かではない人間に研究職が勤

まるとも思えない。



 肩書きだけで人間を判断するべきではないことはシャッハにも解っていたが、出身、学歴、

魔導師ランク、役職、階級……それら全てが、シャッハも求める物に合致していない。カリ

ムの相手として難色を示すというのもまた、当然のことと言えた。



 シャッハを説得する材料を資料から見出そうとしたのだろうが、聡明なカリムを持ってし

ても、これらの要素からシャッハを説得するのは無理と判断したのだろう、端整な顔に苦笑

が浮かぶ。



「貴女に相応しくない、と私が言うのもご理解していただけたでしょうか」

「肩書きだけが人の全てではないわ」

「ですが、職歴を見るに、彼は一度二週間の停職処分を受けております。何でも、地上本部

の高官に手を挙げたのだとか」

「正確でない表現を用いて他者の思考を誘導するのは、褒められたことではないわよ、シス

ター・シャッハ」



 柳眉を寄せて、苦言を言うカリム。



「その事件に関しては私も知っているわ。葬儀の場で、その高官が殉職した職員のことを侮

辱したそうね。テスタロッサ二等海士は、友人の名誉を守るために行動した結果として、手

を挙げることになってしまった」

「ですが、暴力によって問題を解決することが、正しい行いとは思えません」

「先に手を出したのは高官であるとの証言は多く寄せられているし、何よりも、職に殉じた

者を侮辱することは、罰するに値する行為です。ベルカの民は名誉を重んず。騎士として聖

職者として、私はテスタロッサ二等海士の行動を支持するわ」



 シャッハは、長いため息をついた。それが正しいことと解っていても、状況に応じて人間

は振り上げた手を下ろしてしまう。時には、拳を握れないことすらある。それを実行するこ

との出来る人間が正しく強い人間であるとは必ずしも言えないが、シスターであるシャッハ

の目から見ても、恭也・テスタロッサの行動は評価するに値した。高官が不人気であるせい

もあるのだろうが、同席していた局員の多くも恭也の行動を支持している。



 恭也・テスタロッサは一種のヒーローと言えた。リンディが保障するだけあって、優れた

人格の持ち主であるのは確かなことのようだ。



 それさえなければ、とシャッハは思う。停職処分を受けたその事件がなければ、カリムを

丸め込むことも出来ただろう。処分されたという事実が人間を評価することになるというの

も因果な話だったが、ミッドチルダよりも特に名誉を重んずるベルカにあって、恭也のその

行動一つは無視出来ない程に大きい。



「大丈夫よ。シャッハもきっと気に入るわ」



 何も問題はないというように、カリムはにこにこ微笑んでいた。



 シャッハとて、恭也・テスタロッサという人間を信用していない訳ではない。リンディの

目が確かであるというのも知っているし、彼女が推挙する以上は間違いのない人間なのだろ

う。存分にこちらの要望を果たしてくれるに違いないが、それと自分の気持ちとは別の問題

だった。



 きっと、誰が推挙されたのがどんな人間であったとしても、カリムに文句を言ったのだろ

う。シャッハはそんな自分が、どうしようもなく嫌いだった。











































 特設共同技術研究開発部は、リンディのオフィスに比べると本局施設の隅にある。施設内

部を移動するのに転送ポートは使えないから移動するには歩いて行くしかないのだが、中央

部から端にまで移動するとなると、結構な時間を食うことになる。



 基本的に中央部にいる人間の方が階級が上のため、大抵の用事は通信で済ませ、どうして

も顔をあわせなければいけない時は、端の施設にいる人間を呼び出すのが普通だった。



 故に、この辺りに将官が来ることなど稀であり、すれ違う人間全てがリンディの顔を見て

驚きの表情を浮かべ、慌てて敬礼をするのだった。最初はそれを面白がっていたリンディも

目的の場所に着くまでには、流石に飽き始めていた。



 その点、特共研の職員達はフランクな物である。入ってきたのがリンディであると知ると、

笑顔で手を振ってくるほどだった。気の短い将官であれば激怒しそうな光景であるが、特共

研ではこれが普通なのである。組織としてどうなのかという意見も多々あるが、リンディは

この組織らしくない、アットホームな雰囲気がとても気に入っていた。



「恭也・テスタロッサ二等海士がどこにいるかしら」

「戦術研究室に部長達と詰めてますよー」



 丈のあっていない白衣を着た、ティーンエイジャーにすら見えない職員に礼を言って、件

の部屋に向かう。攻撃魔法、防御魔法、補助魔法、回復魔法、魔導工学、魔導生物学。局に

正式に申請されている、特共研の研究内容はその6つであるが、彼女らは自分達の知識欲の

赴くままに、何でも研究する。



 戦術研究は部長リスティの肝入りで最近新設された小さな部門であり、質量兵器との相対

の仕方や、AMF影響下での戦闘方法、魔法を使わない戦闘など、およそ今までのミッドチ

ルダでは考えられなかった物を研究していた。



 十年前であれば研究することも認められなかったのだろうが、近年のAMFの横行、同時

に質量兵器を持った犯罪者も増えてきたことから、注目されるようになった研究分野だった。

質量兵器が一応の禁止を受けて久しく、また、ミッドチルダもベルカも魔導師主体の文化で

あったためにどこの部署でも研究は遅々として進んでいなかったが、恭也と美由希の管理外

世界での知識が大層役に立ち、出世街道の奈落とまで言われた特共研のオフィスにも、今で

はちらほらと外部からの訪問者が来るほどまでになった。



 ゆっくりとではあるが、管理局も変わってきている。主義主張から魔法を使わない戦いを

認めない者も管理世界では少なくないが、慢性的な人手不足を解消するために恭也達の研究

は多くの人間に必要とされている。テスタロッサ式と名づけられた魔法体系の新設を目指す

のもその一環であり、これが採用されれば、今まで戦力としてカウント出来なかった者を戦

力として扱うことが出来る。



 どれもこれも一朝一夕で完成に至るものではなかったが、派閥の代表として、リンディは

助力を惜しまないつもりだった。レティや他の派閥幹部達も同じ意見である。それで他の保

守派の派閥とは対立せざるを得ないだろうが、それだけの価値がこの研究にはあった。



 スライドするドアを潜ると、似合わない白衣を着た恭也と美由希が白熱した討論を繰り広

げていた。他にはリスティの他に、攻撃魔法部門、補助魔法部門、魔導生物部門の責任者で

ある、アイリーン、アムリタ、ティーニャの三人がいる。



「――近寄られる前に殺れというお前の理屈は解らんではないが、万が一接近を許してしま

った場合はどうするのだ。そういう時の対処法まで検討することは、決して無駄ではないだ

ろう」

「そういうのよりも先に、考えることがあるって私は言ってるんだよ。近づかれた時が一番

危険なんだから、近寄らせないで敵を倒す方法を考えるのが、第一だと思う」



 リンディの見る限り、恭也と美由希では上下の関係がはっきりと決まっていたが、今日は

珍しく美由希が譲っていないらしい。普段は恭也に合わせるというか、多少の齟齬があって

も恭也が強引に統合させていたのだが、今日は美由希が恭也に反抗していた。



 題目は近接戦闘における対処の仕方……レトロな手書きのホワイトボードにそう記されて

いる。気だるそうなリスティの様子から、この討論はそれなりに長く続いていることも解っ

た。



 リスティの視線がリンディに向く。火の点いていない煙草を加えたまま、リスティが口の

端を上げた。



「恭也、美由希、お客様だから討論は一時中断だ。というか、気づいてたのに続けようとし

ただろ」



 少しばかりの悪意を含んだ指摘に、押し黙った恭也と美由希は大きく息を吐いて椅子に身

体を投げ出した。アイリーンの引いてくれた椅子に座ると、アムリタがコーヒーを出してく

れる。ありがとう、と礼は言うものの、甘党であるリンディはコーヒーのような苦い飲み物

が苦手だった。ブラックでは舌が全く受け付けてくれない。砂糖かミルクはないものかと視

線をめぐらせると、恭也がリンディのコーヒーの勝手に角砂糖を投入した。個数にして4個。

リンディの感覚ではまだ十分に苦かったが、人前ではそれだけにすると決めていた個数だっ

た。



 驚きの目を恭也に向けると、自分のコーヒーを啜りながら恭也は視線を逸らす。無表情な

りに照れているらしく、恭也の表情を見ることが得意な美由希は苦笑を漏らしていた。それ

を見逃すような恭也でもない。笑い声が聞こえたその時には、美由希の額にデコピンを打ち

込んでいた。痛みに呻く美由希に見向きもせず、事も無げに恭也は言った。



「クロノから個数は聞いておりましたので、勝手にやらせていただきました。ご迷惑とあら

ば、俺が飲みますが」



 リンディが甘党であるのと反対に、恭也は甘い物が苦手だということはフェイトから聞い

ている。自分がこの甘いコーヒーを飲めと言えば、恭也は文句の一つも言わずに飲むのだろ

うが、自分一人くらいは本当に恭也に優しくしてあげてもいいだろう。恭也が砂糖を入れて

くれたカップを両手に持ち、リンディは微笑んだ。



「迷惑なんてことないわ。ありがとう、恭也くん」

「提督、恭也をからかうのもそれくらいに。態々来たってことは、何か僕らに用事があるん

でしょう?」

「そうよ、お仕事を持ってきたの。恭也君、カリム・グラシア少将を知ってるかしら」

「寡聞にして存じ上げません」



 知っているということが前提の質問だったのだが、恭也は無情にも首を横に振った。同時

に周囲の女性達から、抗議の声が上がった。



「偉い人間になんて全く興味のない僕だって知ってるぞ。どうしてそんなことも知らないん

だい」

「貴女以上に、偉い人に興味がないのでしょう。俺は自分のことで精一杯ですので」

「なら僕が説明してやろう。カリム・グラシアというのは聖王教会からの出向組で、管理局

に籍を持った教会関係者のまとめ役の一人さ。爺さんが枢機卿らしくてね、向こうでも偉い

し人気もある。僕ほどじゃないが美人でスタイルもいいし、おまけに独身だ。絵に描いたよ

うな高嶺の花だけど、狙ってみる価値はあるんじゃないかな」

「恋愛は個人の自由だと思うけれど、それは別の機会にしてもらえると嬉しいわ。今回の仕

事は、そういう悪い虫をグラシア少将に近づけないことなの」

「提督、そんなのはうちの恭也でなくとも勤まることでしょう。グラシア少将ほどの身分な

ら、教会からお目付け役を連れてくることだって出来るはずだ。どうして恭也なんです?」

「局主催のパーティに出席することになったらしいのだけど、局上層部から、教会関係者は

なるべく連れてくるな、という趣旨の要望があったそうよ。グラシア少将はあまりそういう

イベントに参加したがらないのだけど、今回は適当な理由を見つけられなかったみたいね」

「お近づきになりたい男性諸氏からすれば、最大のチャンスという訳か。教会関係者を連れ

てくるなというのも可笑しな話だけど、それもそういう連中の差し金なのかな」



 聖王教会は管理局を除けば、次元世界の中でも最大規模の組織である。カリムの一族はそ

の教会で要職にある。婚姻とは行かないまでも、カリムと深い関係になることが出来れば、

聖王教会との間に太いパイプが出来ることになるのだ。男性の立場からすれば都合のいいこ

とに、カリムは見目麗しい。上を目指す若い管理局員には、超のつく優良物件だろう。



 レティが集めさせた情報によれば、本気でカリムを狙うボンボン達がパーティへの出席を

決めているという。そんな中にカリムを放り出す訳にはいかない。リンディの所にそういう

話を持ってきたのは、カリムの祖父である枢機卿猊下だった。



「そういう理由から、信頼の置ける護衛を紹介してほしいという依頼を受けたのよ」

「暇があるか知りませんが、それならばシグナム等のほうが良いのではありませんか? 魔

導師の方が、先方の受けも良いでしょう」

「出来れば男性がいいというのも、先方の希望なの。女性だけだと纏めて誘ってきかねない

ということね」

「そこまで心配ならば、パーティになど参加しなければいいではありませんか」

「そういう訳にもいかないのが、立場ある人間の辛いところね……とにかく、私の知ってる

間の中で、男性で、信頼がおけて、警護が出来て腕の立つ人となると、恭也君しかいないの。

引き受けてもらえないかしら」

「受けること事態は吝かではありませんが、俺でいいのですか? 局主催のパーティとなれ

ば、お偉方も出席するのでしょう。俺はこの間、高官を殴り飛ばして停職処分を受けたばか

りですが」

「先方には護衛の候補として、既に貴方の資料を渡しているのだけど、件の行為は先方には

好評のようよ」



 尤も、それは先方が気にしないというだけで、恭也に火の粉が掛からない訳ではない。

管理局の方でも恭也の関わった事件の話は伝わっている。恭也を支持する声もあるが、非難

する声もないではない。カリムに付いてパーティに出席するということは、そういった悪意

の中に自ら飛び込むということだった。



 恭也もそれは解っているのだろうが、気にした様子もない。相手にかかる迷惑のみが気に

なっていたらしく、それが問題ないと分かると恭也はあっさりと首を縦に振った。



「そういうことならば、俺で宜しかったらお受けしましょう」

「助かるわ。衣装とかは経費で落ちるようにしてあるから、サイズとか注文は直接用度課に

伝えてね。パーティは一週間後だけど、それまでには完成させるように伝えておくわ」

「助かります」

「とんとん拍子に話が決まったけど、恭也、君は作法なんて知ってるのかい?」

「故郷で要人警護をしていたことがあります。パーティに伴われたことも何度かありますの

で、要領は心得ていますよ。世界が異なればマナーも変わるのでしょうから、新たに勉強を

する必要はあると思いますが」

「じゃあ、作法を勉強してもらうとしようか。通常の業務は全て切り上げて、仕事中は作法

の勉強をすること。手の空いてる人間を、君の指導に着けよう。特共研の看板を背負ってい

くんだ。無様な真似はするんじゃないよ?」

「いや、俺にも仕事が……」

「研究は何よりも重要だけど、これで君を弄る方が面白そうだ。これは部長命令だ、恭也・

テスタロッサ二等海士。僕らに弄られろ」

「理不尽な命令には反抗する権利があると愚考しますが」

「残念だったね。君にそんな権限はない。さあ、既に話を聞いた暇な連中が部屋の外で待機

しているよ。彼女らに紳士としての振る舞いを叩き込まれてくるといい」



 尚も恭也は抵抗しようとしたが、その両脇をアイリーンとティーニャによって取り押さえ

らえる。背後もアムリタが確保するという万全の布陣だった。助けを求めるように恭也の視

線が彷徨うが、美由希もリンディも笑みをかみ殺しながら目を逸らす。



 ほどなくして、文句を言い続ける恭也は連行されていった。研究室に残されたのは美由希

とリスティ、リンディのみとなった。



「そう言えば美由希さん、悪いわね。討論の邪魔をしてしまって」

「いえ、討論というほどのものじゃありませんよ。結論の出てる話を、立場を変えて意見を

出し合ってただけですから」

「解決しているのなら、言うことはないけど……」

「そもそもが手探りなんですからね。最初のうちくらいは優先順位なんて決めないで、出来

ることは纏めてやるつもりでいます」



 恭也達のやろうとしていることは、管理局では初めて、魔導師主体の歴史を歩んできた次

元世界の中でも、稀に見る試みだった。既得損益なども存在しているからそこかしこで軋轢

が生まれるのは必至だろうがそれ以上に、魔法を使わないでも戦える方法を様々な人間が渇

望している。



 今はまだ細々としている研究だったが、活動に勢いが付けば本格的に援助を申し出る派閥

や民間企業も出てくるはずだ。



 他の人間が――例えば魔導師や、ただの研究者だけでこの仕事をやっていたら、こうまで

形にはならなかっただろう。使命感を持って、組織にも対抗できる根性を持った人間。恭也

や美由希に、この仕事は打って付だった。



 管理外世界にあって管理局に勤める人間は少ない。いたとしてもなのはやグレアムのよう

に、なし崩し的に関わるようになる場合がほとんどだ。いつの間にか、向こうから関わって

きた美由希は、管理局としては望外の拾い物と言えた。



 美由希のようなケースは本当に稀であり、嫌々働いているのだとしたらリンディも心苦し

かったのだが、恭也やリスティと一緒に働いている美由希は本当に充実した表情をしている。



 場所を得た。その手助けが出来たのだとしたら、嬉しいことだ。





 























 

 ついにその日が来てしまった。恭也・テスタロッサとやらが良い感じに不幸な目に合わな

いものかと祈ってみたが、幸か不幸か何事も起こっていない。今朝方、本日はよろしくとい

う内容の連絡も貰った。



 ため息をつく。



 神に仕える身として、他人の不幸を祈るなど言語道断だったが、出来ればやってきてほし

くないというのは、シャッハの偽らざる本心だった。自分以外の人間が、カリムに仕える。

そんなことがあって欲しくないのだろう。焼きもちと言えば可愛く聞こえるが、要するに嫉

妬である。これもまた、決して褒められはしない感情だった。



 カリムが美しいのはいつものことだったが、パーティに行くということで、普段は地味な

装いを心がけているカリムも、下品でない程度に派手なドレスを纏っていた。着飾ったカリ

ムは同性のシャッハの目から見ても本当に美しい。これで責任ある地位にあり、祖父が枢機

卿で親族も皆教会の重鎮という高貴な家に生まれ、、性格も控えめ。カリム・グラシアはま

さに、古き良きベルカの女性を体現したような存在だった。



 教会騎士の間でも絶大な人気を誇り、縁談の申し込みもシャッハは把握しているだけでも

半端でない数があったが、本来ならどこか両家から婿を貰って幸せな家庭を築いていても不

思議ではない年齢なのに、カリムは仕事が恋人と言わんばかりに働いていた。



 家庭を築きたいとは思っているのだろう。以前に一度だけ、カリムからそんな話を聞いた

ことがある。それはカリムなりの冗談だったのかもしれないが、シャッハとしてはカリムに

は素敵な相手を見つけてもらって、幸せになってほしいのだった。



 しかし、それには相手が必要である。そしてそれは、誰でもいいという訳ではない。結婚

という結果にだけ目を向ければ、引く手は数多なのだ。カリムの場合、相手を選ばなければ

明日にだって結婚できる。だが、それではいけない。



 お互いに好き合っているなら、それでいい。カリムが望んでいるのはそれくらいだろうが、

何事にも最低限度というのはある。



 自分にカリムの相手を選定する権利などない。



 だが、その最低限度を下回る男性がカリムに近づかないようにすることは、自分の義務で

あると、シャッハは思っていた。



 シャッハの目から見て、恭也・テスタロッサという男性は不合格である。特に厳しい目と

も思わない。カリムの関係者の誰に聞いても、おそらく同じ答えが帰ってくるだろう。



 教徒でなく、管理外世界出身で、魔導師でもない。加えて管理局に務めていて階級まで低

いとなっては、書類の上ではいいところが一つもない。強いて良い所を挙げるとするなら、

リンディの信頼が厚いということだろう。



 それ以外には、中々顔がいいということくらいしか、シャッハには恭也の長所が見つから

なかった。顔だけでいいのなら、他にいくらでも相手はいる。管理局からの要望がなければ、

カリムと付き合いのあるリンディ・ハラオウンからの推挙でなければ、シャッハの独断でも

撥ねることの出来た相手だった。



 カリムが恭也に心を傾けることなどないだろうが、何事にも万が一ということがある。こ

れを機会にカリムに近付こうなとど恭也が考えているのだとしたら、それは排除しなければ

ならない。管理局のボンボンも敵だったが、それと同じくらいの敵意を、シャッハは恭也に

持っていた。



「どうしたの、シャッハ。怖い顔をしてるわよ」

「申し訳ありません、騎士カリム。パーティにお付き合いするのは久し振りのことなので、

柄にもなく緊張しているようです」

「それはいけないわ。ちょっと、顔を寄せてもらえる?」



 一体、何をするつもりなのか。怪訝な顔をして言われた通りに顔を寄せると、カリムは

シャッハの頬をぐにぐにと解し始めた。



「怖い顔をしてたら、美人が台無しよ。緊張感を持つことも大事だけれど、笑顔は人に安心

感を与えます。私達は神に仕える身でもあるんですから、出来るだけ心がけてくださいね」

「……お手数をおかけしました」



 熱くなった頬を押さえて、微笑みを浮かべてみる。カリムには及ぶべくもないだろうが、

それを見てカリムは聖母のように微笑んでくれた。シャッハにはそれだけで十分だった。



 無機質な音が、エレベーターが一階に着いたことを知らせた。それが、緩んだシャッハの

気持ちを引き締める。



 ミッドチルダでも最高級のホテルだけあって、ホールも広大である。件の恭也・テスタロ

ッサとはこのホールで待ち合わせということになっているのだが、これでは見つけるのも一

苦労か、とホールに足を踏み出した時、その男に目が留まった。



 資料で見ていたから、顔は知っていた。だから、一目で解ったというのは違うかもしれな

いが、多くの人が行きかうホールの中でシャッハの目はその男に引き寄せられたのだった。



 何気なく立っているように見えて、まるで隙が見えない。死角から襲ったとしても、彼な

らば何なく対応するだろう。それでいて、周囲に威圧感を撒き散らしたりはしない。隙がな

いとシャッハが感じることが出来たのは、あくまで同業者だからであって、周囲の一般人か

らすれば、彼はただの無害な好青年でしかなかった。



 勝てないかもしれない。手を合わせる前からそう思ったのは、久し振りの経験だった。強

者と言えば魔導師という世界において、魔導師でないのにも関わらずここまでに至るという

のは、シャッハにしてみれば狂気の沙汰だったが、その青年は事実としてそこに在り、エレ

ベーターから降りた自分達を相当の距離があるにも関わらず、当たり前のように発見し、歩

み寄ってきた。



 緊張して、シャッハは背筋を伸ばした。先の微笑みを浮かべたまま歩みを進めるカリムに

慌てて着いていく。



「お初にお目にかかります、少将閣下。恭也・テスタロッサ二等海士と申します」

「ご丁寧に。でも、形ばかりの階級で呼ばれるのは心苦しいわ」

「では、何とお呼びしたら」

「聖王教会では、騎士の位を頂いております」

「それでは……騎士グラシア?」

「それも他人行儀です。カリムとお呼びくださいな」

「了解しました。騎士カリム」



 恭也が何気なく差し出した手を、カリムは躊躇いなく握り返した。



「それで、こちらが私の秘書の……」



 数秒の間。カリムと恭也に見つめられて、二人が自分の言葉を待っていることに気づいた。



「シスター、シャッハ・ヌエラと申します。はじめまして、テスタロッサニ士」

「ご丁寧に」



 差し出された恭也の手を、シャッハも握り返した。無骨な、武人の手だった。



「失礼ですがシスター・シャッハ・ヌエラ、貴女は何か武術を?」

「……それはどういう意図の質問でしょうか」



 握ったままの手を力を込め、恭也を睨みやる。恭也は気まずそうに苦笑すると、失礼しま

した、とあっさりと頭を下げた。



「シスターとお聞きしたので、少々意外に思っての問いでした。他意はありません。非礼の

ほどはご容赦ください」

「それならば、別に……女性らしくない手で、驚きましたでしょう?」

「女性らしくはないかもしれませんが、俺はそういう手が嫌いではありません。貴女の努力

の証でもありますから」



 シャッハは視線に、さらに力を込めた。口説き文句にしては、随分と陳腐な物言いである。

聖王教会では武装できるシスターも、決して珍しい存在ではない。そのようなシスターを誘

う時の典型的な文句がそれだったのだが、恭也はさらに睨まれる理由に検討が付かないよう

だった。さらに失言を重ねたと考えたのか、また丁寧に謝罪すると、自分から手を離す。



 カリムが、嗜めるような視線を送ってきた。確かに、やりすぎたかもしれない。これでは

ただ、因縁を付けただけだ。シスターとして、初対面の相手にする態度ではない。



 だが、謝罪するにはタイミングを逸してしまった。恭也は既に気分を改めて、カリムを先

導している。会場までの車は既に教会が手配していた。管理局から来た恭也がそれを知って

いるはずはないのだが、ロビーを出ると恭也は迷わずその車に向かって歩いていく。



「あら、テスタロッサニ士。どうして車を?」

「運転手の方が、俺の顔を知っていたようでしてね。ホテルに入る前に、話しかけてくれた

のですよ。今日は一緒に仕事をすることになるから、よろしく頼むと」



 ちょうど、車から降りてきた運転手が、自分達に向かって頭を下げた。柔和な笑みを浮か

べた初老の、いかにもな運転手だった。洗練された執事の所作で、恭也が後部座席のドアを

開ける。カリムはその手を取り、中へ。続いて恭也は、当たり前のようにシャッハにも手を

差し伸べてきた。差し出しかけてしまった手を、寸前で抑える。



「私は貴方と、同じ立場にある者ですので、そういった扱いは無用に願います」

「では、そのように」



 道を譲られた形でシャッハも車の中に。恭也が助手席に乗り込むと、車は静かに発進した。



「シャッハ……貴女、どうしたの?」



 カリムは声を潜めるでもなく聞いてきた。車の前部と後部には防音ガラスがあり、特別な

操作をしない限り、こちらの声は恭也と運転手には聞こえないようになっている。



「見苦しいところをお見せしました……」

「自分が正しい行いをしているのではないことは、解っているのね?」

「はい」



 カリムに叱責されるのも、珍しいことだった。それがまた、シャッハの心を苛む。誰が悪

いのかと言われれば、まず自分だろう。恭也・テスタロッサという存在に心を乱されたのは

事実だが、落ち度のない存在を責めるのは話が違う。自分の非を他人のせいにするのは最低

の所業だ。



「お別れするまでには、きちんと謝罪をなさい。テスタロッサニ士は優しい方のようだから、

貴女のことも、きっと許してくれるわ」



 カリムが微笑む。シャッハもそんな気がしていた。強面ではあるが、物腰は穏やかで驚く

ほどに紳士的である。謝れば許してくれるどころか、何を謝るのかと逆に問われかねない雰

囲気があった。騎士にしても神父にしても、何かと対話することに慣れた男性ばかりのカリ

ムの周囲には、あまり見ないタイプの青年だった。



 カリムの印象も悪くないようである。元々人を嫌いになることの少ない人だから、予想の

出来ることではあったが、自分がカリムと『ほとんど』同じ意見であることまでは、予想だ

にしていなかった。



 悪い人間ではないことは、見て取れた。だからと言って、全面的に信用するのはまだ早す

ぎる。カリムを出世の足がかりにしようとしてないとは限らないのだ。そういう輩を排除す

るのも、カリム付きのシスターである、シャッハの役目だった。



 だが、差し当たっては、恭也との関係をニュートラルな状態にまでしないといけない。貸

し借りのある状態では、恭也という人間を正等に判断することなど出来ないのだ



 そんなことを、呪文のように繰り返す。思いつめたシャッハの顔を、隣のカリムは微笑み

ながら眺めていた。







 




























 





 男性というものに失望している訳ではなかった。



 グラシアの家に生まれた以上、いずれは良い人を見つけて子を成すことは、宿命付けられ

ている。それなりの努力はしているつもりだったが、良縁には未だに恵まれていない。高望

みをしすぎなのか、と思う。妥協を知れば『良き縁』など直ぐに見つかるのだということは

解っていたが、変に引っ張ってしまったせいか、今では自分の周囲の人間の方が目を光らせ

るようになってしまった。シャッハなどはその筆頭で、近寄る男性は皆目の仇にしている節

すらある。



 ショーウィンドーに飾られている商品は、きっとこんな気分なのだろう。グラシア家の娘

として、幼い頃から衆目を浴びていた。家の名に恥じないような教養を身につけ、与えられ

た仕事もきちんとこなしてきた。



 上手く出来ていたとは思う。実際に、周囲の自分に向けられる色々なモノは、カリムのそ

の思いを裏付けていた。それがまた、自分の価値とやらを押し上げる。結果を出せば出すほ

ど、人はどんどん遠くへ行くような気がしていた。



 カリム・グラシアは、何処へ行こうとしているのか。



 気乗りがしない訳ではない。世界が色あせていることなど、いつものことだった。それを

楽しむ方法もどうにか解ってきていたし、シャッハやヴェロッサのような心の置けない人間

もいないではない。



 出来るだけ淑やかに、優雅に。カリム・グラシアに求められているのは、そういうものだ。

そう振舞って居れば、周りは満足する。いつかは息苦しさを覚えていた所作も、今では呼吸

をするように行える。



「お手を、騎士カリム」



 恭也の手を取り、車を降りる。シャッハはその後に続いた。パーティ会場に入ると、周囲

の目の大半が、自分に向くのが感じられた。管理局のパーティで、カリム・グラシアははっ

きりと外様である。階級も少将ではあったが、飾り程度の意味しかない。



 飾りだけに、若干遠巻きにではあるが無遠慮に人が寄る。教会に居ては味わえない扱いだ

ったが、特に面白い訳でもなかった。どんな誘い方をしてくるのかを適当に観察し、やんわ

りと断る。その一連の作業の腕前も、ここ数年で随分と上がった気がした。



 今日のパーティもそうやって乗り切るつもりだったが、共回りのシャッハ以外にお客様が

いた。祖父の提案でリンディが紹介してくれた男性。



 名は、恭也・テスタロッサ。階級は二等海士である。



 他人の経歴などにはあまり興味のないカリムだったが、資料を見た時はシャッハに言われ

るまでもなく、どんな人間が来るのかと心配になってしまった。普通に生活していたら、自

分の周囲にはまず現れることのない男性だったろう。それほどまでに資料だけで見た場合、

恭也・テスロッサという人間は最低だった。これでは祖父も流石に難色を示しただろうが、

一目も二目も置いているリンディ・ハラオウンの推薦だった。内心どう思っていても、ゴー

サインを出さざるを得なかっただろう。



 一体どんなことをしてくれるのかと、恭也に対して緩い期待を持っていたカリムだったが、

意外なことに今日のエスコートの所作は、カリムの目から見てもほとんど完璧に近いものだ

った。車の乗り降りの時に手を引くタイミング。会場に着くまでもついてからも態度は堂々

としたもので、喉が渇いたと思った時には飲み物が出され、退屈な相手との会話をそろそろ

打ち切りたいと思った時には絶妙のタイミングで合いの手を入れる。



 心を読んでいるのかと疑いたくなるほどの気配りだった。付き合いの長いシャッハでもこ

こまでは出来ない。彼女はいつも通り、影のように着いてきてくれているが、シャッハも恭

也の所作には目を丸くしていた。



 あの経歴からこれを想像することは、誰にも出来ないだろう。これではまるで本職だ。前

の職業が執事と言われても、今なら信じてしまいそうだ。



「騎士カリム」

「はい、なんでしょうか、テスタロッサニ士」



 微笑を浮かべて、返事をする。容姿に関してはそれなりに自信もあった。自分が美人であ

ると吹聴するほどではないが、平均はずっと超えていると思う。そんな微笑を向けられれば、

男性なら少しくらいはどきどきしてもいいはずなのだが、恭也の反応はどこまでも事務的で

淡白だった。



 男性をぶん殴ってやろうかと思ったのは、生まれて初めての経験だった。



「ダンスが始まるようです。お出来になるようでしたら、お付き合い致しますが」



 紳士的に舐めたことを口にする恭也に、流石にカリムもかちんときた。恭也の手を取り、

中央に向かって歩き出す。ダンスは普通男性がエスコートするものであるので、カリムに手

を引かれた恭也という図は悪目立ちしていたが、カリムは気にしなかった。



 ここでいいだろうと思った位置で、恭也の手を取り体を合わせ、好き勝手に踊りだす。振

り回すつもりで始めたのだが、ここでも恭也は意外さを見せた。決して洗練された動きでは

なかったが、自分の動きにちゃんと着いてきている。ダンスの基本は出来ているようで、運

動神経も悪くはない。いや、運動神経で強引に合わせているのだろうか。とにかく、カリム

の目論見は外れた。それがまた、癪に障る。



「申し訳ありません。ダンスが出来るかなど、失礼な問いでした」

「それまで上手く振舞えても、最後がそれでは片手落ちですよ、テスタロッサニ士」

「肝に銘じておきます」



 ターンで、スイッチ。若干ぎこちなかった恭也の動きも、段々と修正されてきた。手を取

っているカリムだから違和感を覚えているが、傍から見れば完璧だろう。会場の注目も集め

ていた。それに悪い気はしなかったが、カリムにとってこの状況はあまり面白いものではな

かった。



 一つの曲が終わった。次のダンスを申し込もうとする男性達の中を、恭也に守られながら

シャッハの元に戻る。



「見事な手並みでした、騎士カリム」

「今日は、自分でも上手く踊れたような気がします。きっと、テスタロッサニ士のリードが

良かったのでしょうね」



 適当に褒めて見ると、恭也は照れていた。



 弱点が何処にあるのかわからない男性である。受け流すこともあれば、初心な少年のよう

に顔を赤くすることもあった。そういう仕草を可愛という女性は、大勢いるだろう。本局の魔

女辺りが、好みそうなタイプだった。



「義理は果たしたでしょう。騎士カリム、そろそろ」



 シャッハが耳元で囁く。元々、付き合いで来ただけのものだ。長居しても詰まらない男性

に絡まれるだけで、大した面白みもない。それをいかにして避けるかが数少ない楽しみだっ

たのだが、そこは恭也が全てブロックしてしまった。



 潮時だろう。シャッハの言に従って、カリムは会場を後にすることに決めた。シャッハと

恭也を従えて、ホールを後にする。呼び止めようとした男性が一人二人といたが、またも恭

也がブロックした。リンディの紹介だけあって優秀には違いなかったが、その優秀さがどう

にも気に食わなかった。



 だが、もう会う機会もないだろう。教会の供回りを連れてきては駄目だというような無理

を、管理局はもう言ってこないはずだ。恭也のような護衛は、もう必要なくなる。惜しいよ

うな気もするが、それが縁というものなのだろう。



 本来ならば会うはずもなかった恭也と、顔を合わせることが出来た。それで良しとするべ

きだった。



 ホテルを出る。陽はもう沈み、夜の帳が降りていた。夜の空気を胸いっぱいに吸い込みな

がら、正面につけた車に向けて歩く。



 無造作に腕を掴れたのは、そんな時だった。



 何を――抗議の声を揚げる前に、甲高い音が数度響いた。正面に、何かを構えた男。拳銃

だった。襲撃された。何故、と考えるよりも先に恭也は動いていた。一息に男の懐に入ると、

拳を一閃。男が地に崩れ落ちるよりも先に、拳銃を取り上げる。



 一拍遅れて、周囲が慌しくなった。われ先にと、思い思いの方向へ逃げ出していく。ホテ

ルの中にも警備担当の魔導師がいたが、押し寄せる客を前にこちらまでこれないでいる。



 カリムの腕をシャッハが掴んだ。いずれにしても、この場に留まるのは得策ではない。シ

ャッハに手を引かれながら、車に向けて歩く。一刻も早く離れるべき。シャッハはそう判断

したのだろう。



 車の運転手と目が合った。来た時と同じ男性だった。運転席に腰を降ろし、ハンドルを握

り締めている。乗れば、直ぐに発進する。そんな意思がはっきりと見て取れた。



 そこに違和感を覚えた。何かが違う。しかし、それが何なのか解らない。命の危険は迫っ

ている。一応の戦闘訓練は受けているが、他の騎士達のようには戦うことは出来ない。拳銃

等を持ち出されたら、流れ弾で死にかねないのだ。



 そのためには、ここを一刻も早く離れる必要がある。シャッハも車の運転手も、それに協

力してくれている。そこに疑問を差し挟む余地などない。



「騎士カリム、早く車へ!」

「駄目だ、戻れ!」



 自分を守護するべき立場にある人間の意見が、綺麗に割れた。戻れと吼えたのは恭也だっ

たが、シャッハは今まさに車のドアに手をかけようとしているところだった。今更戻ること

など出来ない。



 シャッハの手が、ドアに触れる。離れた所に居た恭也が、一瞬で移動してきた。そのまま

自分とシャッハを抱えて、地面に身を投げ出した。



 閃光。そして、轟音。



 爆風がカリムの髪と肌を撫でた。吹き飛ばされそうになる体を、上に乗った恭也が必死に

押さえ込んでいる。シャッハが何かを叫んでいた。何も、聞こえない。



 数秒して、爆風は収まった。強烈な臭いと、煙。手の届く範囲も、どうなっているのか見

えない。周囲の誰何の声も、何処か遠くに聞こえていた。



「ご無事ですか、騎士カリム」



 恭也の声だけは、何故かはっきりと聞こえた。熱い液体が、顔と背中に掛かる。真っ赤な

それを、手で拭った。



 跳ね起きると、バランスを崩した恭也が地に膝を突いた。服は破れて、血に塗れている。

爆風を受けた背中が特に酷く焼け爛れており、いくつかの破片も突き刺さっていた。重症な

のは誰の目から見ても明らかだった。



 シャッハが悲鳴を挙げるのを、カリムは冷静に聞いていた。異常事態に、逆に心が冷えて

行く。恭也を助けなければならない。そのためにはどうすればいいか。頭を限界まで回転さ

せて、考える。



 恭也の近くで膝を折り、回復の魔術を発動した。デバイスも設備もない屋外だが、応急処

置以前の気休めくらいにはなる。聖王教会で役職を持つ者は、必ず回復系魔術の習得が義務

付けられているのだ。



 カリムはそれほど得意な魔法でもなかったが、ないよりはマシのはずだ。こんなことにな

るのなら、もっと熱心に学んでおくのなったと後悔したが、今はどうにもならない。立ち直

ったシャッハも、それに加わる。弱々しい光が恭也を包んだ。



「騎士カリム、貴女が安心して守護を任せることの出来る人間は、どれくらいで到着できま

すか」

「五分。それ以上はかかりません。貴方の役目はそこで終わります。それまでの、辛抱です

よ」

「申し訳ありません。貴女を危険に晒してしまいました」

「守ってくれたではありませんか。これ以上を望んでは、天罰が下ってしまいます」



 血が止まらない。意識も飛びかけている。このまま死んでも可笑しくはない。それほどの

重症だった。他にも怪我を負った人間がいるらしく、ここまで駆けつけてくる人間はいない。

煙がようやく晴れてきた。周囲に無事なものは、何一つない。



「最初の襲撃は、囮でした。貴女を車に追い込むことが目的だったようです。運転手が、入

れ替わっていました。変身能力を持った、人間でない者……気配は覚えています。次に会っ

たら、確実に仕留めて見せますから」

「そこまでは期待していません。いいから、喋らないで」



 自分を呼ぶ声が聞こえた。武装した教会騎士。爆音を聞いて駆けつけてきたのだろう。見

覚えのある顔ばかりだった。シャッハ以外に、自分を護衛してくれている者達である。



 駆け寄ってきた彼らとの間に、地を這うようにして恭也が割って入った。血塗れの、今に

も死にそうな男を、騎士たちは怪訝な瞳で見やっている。恭也の声。段々と、小さくなって

いく。



「この中に、変身している者はいません。俺では判断ができませんが、騎士カリム。彼らは

貴女の知り人ですか?」



 声が出ない。カリムは大きく頷いて見せた。



 血に塗れた顔を上げ、恭也は大きく息を吐いた。地に手を着く。だがまだ、倒れてはいな

い。



「時空管理局本局、特設共同技術研究開発部所属、恭也・テスタロッサ二等海士です。命あ

って騎士カリムのお傍におりました。不手際を、お詫びします。危険はまだ、確実に排除で

きておりません。警戒を……」



 そこまで言って、恭也は崩れ落ちた。シャッハがまた、悲鳴を挙げる。それで、他の人間

達も気づいたようだった。回復魔法の心得のある者達が、恭也に駆け寄ってくる。教会騎士

の一人がカリムの手を引いた。それを、払いのける。このままこの場を、離れろというのか

――



「貴女は安全な場所へ、少将閣下」



 叫びそうになったカリムを推し留めたのは、恭也に回復魔法をかけている魔導師の一人だ

った。



「自分は、クロード・アクロイド医療一尉です。ここは我々が引き受けます。閣下は、退避

を」

「彼は、私を守って死にかけています。それを放って――」

「貴女がいても、何もできません。この勇敢な同胞は、我々が責任を持って生かします。絶

対に死なせません。ですから、退避を」



 何もできない。それは事実だった。悔しさに唇を噛み締める……口の中で、血の味がした。

こんなもの、恭也が流している血の、代わりにもなりはしない。教会騎士が引き摺るように

して手を引いていく。それに、シャッハも続いた。



 教会騎士は、カリムを乗ってきた車の後部座席に押し込むと、強引に車を発進させた。ホ

テルの周辺にも、車が集まりつつある。後少し遅かったら脱出の不可能になっていただろう。



 自分は、生きているのだ。今日の今日まで当たり前のように享受していた生を実感すると、

途端に涙が溢れた。シャッハが手を握ってくれる。それでも、涙は次から次へと溢れてきた。



 生まれて初めて、カリムは声を挙げて泣いた。












































 全く、酷い目に合った。記憶の一部は飛んでいたが、何があったのかくらいは覚えていた。



 車に爆弾が仕掛けられていることを本能的に悟れたまでは良かったが、どうせ気づくのな

らば、もっと早くに気づくべきだった。あと少し気づくのが遅れていたら、カリムもシャッ

ハも無事ではなかっただろう。



 犯人に対して、怒りがこみ上げてくる。自分の転機には必ず立ちふさがってきた、爆弾。

運転手と入れ替わっていた者が、実行犯の主格なのだろう。拳銃を持っていた男は、搬送さ

れた先で死亡が確認されていた。何を目的として行われたテロなのか、管理局は特定出来ず

にいるようだったが、あれはカリムを狙っていたのだと恭也は確信していた。



 あの、運転手に成りすましていた者の目は、確実にカリムを見ていた。実際、後一歩のと

ころまでは成功していた。魔法主体の世界では、地球ほどに科学的な爆発に対する備えをし

ていない。自分さえいなければ、とあの男だか女だかも解らない者は、今頃歯軋りでもして

いるかもしれない。



 だからと言って溜飲が下がるでもなかった。幸い命に別状はなかったが、一週間はベッド

で安静とのこと。退院はさらに二週間も先のことだった。魔法で回復をしたのならそれでい

いような気がしないでもないが、魔法世界には魔法世界の治療というものがあるらしかった。



 いずれにしても、許可を出すのは病院側であるので、そちらから動くなと言われれば、恭

也としてはベッドの上でじっとしているより他はなかった。



 入院の報を聞きつけた知り合いがひっきりなしに尋ねてくるので、暇つぶしの道具には事

欠かない。今はクロノが持ってきた鉢植えの花に向かって、スバルが持ってきてくれたジャ

グリングボールを投げつけるのが、唯一の趣味と言えた。どの葉っぱを標的にしても、百発

百中で当てることが出来るようになったが、それに大した意味はない。



 昼食の終わった、昼下がり。外は快晴で、散歩するにはいい気温だった。



 抜け出して、歩いてみようか。そう思い実行に移したことが何度かあったが、看護士とい

うのは患者に対しては異常な感性を持っているらしく、ドアを開いたその時には、真正面に

看護士が立っていた。それが、四度続いた時、恭也は脱出を諦めた。



 ドアがノックされた。いや、ノックではない。誰かが外で、ドアを殴打している。ここは

病院で、この部屋には自分という入院患者。看護士はドアを殴打する義務などないから、つ

まりは外にいるのはドアを殴打する自分に用事がある人間か、嫌がらせをしに来たクロノと

いうことになる。



 後者であることを期待しながらジャグリングボールを握り締め、恭也は入室を促した。



 入ってきたのは、老人だった。背筋のすっきりと伸びた、見事な髭を蓄えた男性。見覚え

のある顔ではない。身なりは普通のスーツである。どういう素性の人間なのか検討もつかな

かった。殺気はないから敵ではないと分かるくらいだ。



「お前が、恭也・テスタロッサか」

「表札がどう出ていたのか知りませんが、俺は、恭也・テスタロッサです」

「そうか、そうか」



 老人はにやにやと笑いながら歩み寄り、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。近くで見ると、

威圧感が凄まじい。武術をやっているとか体格がいいとかそういうことはないのに、見る者

を圧倒する何かを持っているのだ。



「俺はヨーゼフってもんだ。色々あって、礼が遅くなっちまったな。お前がカリムを守って

くれたんだって?」

「守ったと言いますか、もう少し上手く出来たのではと後悔する毎日です。騎士カリムは、

ご無事ですか?」

「無傷じゃないが、かすり傷程度だ。本当なら死んでたことを考えれば、誤差ってもんだろ

うよ。お前さんも生きてる、カリムも無事。これ以上はねーよ」

「まぁ、無事ならば良いのですが……」



 傷を負っているのなら良くはないのだが、眼前の老人に恭也を攻めるような気配はなかっ

た。



「まぁ、助かったよ。カリムは俺達の……なんつーんだ、アイドルみたいなもんだからな。

犯人はいずれ見つけ出して八つ裂きにするとしても、お前にはまず、感謝の気持ちを表すっ

ってことに寄り合いで決まってな。何か欲しいものはあるか? 何でも言っていいぞ」

「騎士カリムとシスターシャッハが無事なら、何も」



 欲しい物と言っても、特に思い当たるものはない。強いて言うなら自由が欲しいのだが、

患者の希望を病院が通してくれるとも思えなかった。



「無欲な奴だな。若いんだ。もっと強欲でもいいと思うんだがね。あー、そうだ、カリムの

奴を嫁にもらう気はねーか? グラシアの爺は反対するかもしれんが、構いやしねぇ。俺達

全員で賛成すりゃあ、あの頑固者を首を縦に振るさ」

「結婚っていうのは、そういう風にするものではないでしょう。いや、騎士カリムに文句が

ある訳ではないのですが……」

「あきれるくらいに、無欲な奴だな。つまらんが、まぁ、面白い。教会の若い連中なら飛び

つくような話だなんだが……それもまた良しか」



 一人でぶつぶつと言うと、老人は懐から小さな箱を取り出し、投げつけてきた。



「やる。こんな礼しか出来なくて悪いと思っちゃいるが……気が変わったら何時でも言って

くれよ。欲しい物があったら、何でも用意する」

「お気持ちだけ、頂いておきます」



 ひらひらと手を振りながら、老人は出て行った。



 足音と気配が遠ざかるのを確認してから、受け取った箱を開ける。複雑な意匠を凝らした、

勲章のようだった。当然ながら、見た記憶はない。カリムの縁者のようだから聖王教会関連

のものなのだろうが、管理局の内情にすら疎いのに他の組織のことまで知っているはずもな

かった。



 貰える物は、有り難く貰っておく。自分の行動に対する感謝の結果というのなら、悪い気

はしなかった。



 箱を弄んでいると、またノックがあった。今度は、きちんとした普通のノックである。



 入室を促した。入ってきたのは銀髪の、恭也の上司だった。病院であるから白衣は脱いで

いるが、人をからかうような笑みは相変わらずだった。



 部屋に入ると脇目を降らずにベッドに飛び乗り、窓を開けて懐から煙草を取り出した。そ

のまま壁に背を付けて、煙草に火を点ける。



「病院内は禁煙ですよ」

「外に向かって吸うから、院内ではないよね」

「俺をつるし上げにでもするつもりですか。頼みますからやめてください」



 窓から顔を出しては、煙草を吸ってますと叫んでいるようなものだ。そんなところを見つ

かったら、担当の看護士に何をされるか解ったものではない。



 意外なことに、リスティは素直に煙草を消して携帯灰皿に押し込んだ。煙草くさい息を吐

き、手の中の勲章を見つめると、口の端を上げて微笑った。



「さっきさ、下で有名人を見たよ」

「俺はさっき、豪快な老人を見ましたよ。それでこいつを貰ったのですが、どういった物な

んでしょうか、これは」

「んー……恭也、入院してからテレビは見たかい?」

「この部屋にテレビがあるように見えますか?」



 誰の方針なのか知らないが、恭也の病室にはテレビもなければラジオもない。部屋を出る

ことも出来ないから新聞を買うことも出来ず、下界の情報からは遮断されていた。



「じゃあ、見せてあげるよ。どこの局でもこの間の事件関連のニュースで持ちきりだからね」



 言って、リスティは懐から携帯テレビを取り出すと、電源を入れた。



 まず最初に飛び込んできたのは、先ほどの老人の姿だった。スーツではなく、装飾の施さ

れた法衣を纏っている。只者ではないのは、何も聞かないでも解った。問題なのは、その下

に出ているテロップである。聞いた名前と違うが、そんな物はどうでもいい。問題は、老人

の名前の最後に付随している彼の役職だった。



「俺の目が確かならリスティ、どうも教皇という文字が見えるのですが……」

「視力までは落ちてないようだね。その爺さんは間違いなく、聖王教会教皇。あの宗教団体

の実質的な最高責任者さ」



 眩暈がした。それにしても教皇とは。どうりで威圧感を感じたはずである。急に、手の中

の箱の重みが増したような気がした。何故だか気分も悪くなり、冷や汗まで出てくる。



「すると、この勲章は……」

「名誉騎士章って言ってね。上級騎士五人以上の連名によって推挙され、枢機卿会議で全員

の賛成を得た後、教皇の名の下に与えられるものさ。聖王教徒以外に授与されたのは史上初

だって。それがあれば聖王教徒からは畏敬の念を向けられるって話だよ。教会関連施設のほ

とんどにフリーパスで入れるようになるし、パスポートの代わりにもなる。教皇が全面的に

人格を保障してくれるようなものだからね。いや、凄いものだよ、それは」



 ちなみにグラシア少将閣下は上級騎士だ、とリスティは付け加えた。



「そんな凄いものだったのですか……」

「授与が決まったのが昨日。君に授与するって通達が、向こうの教皇庁から着てね。上層部

も大慌てだよ。局員史上初の名誉を得た人間を、ニ士にしとく訳にはいかないとか、特共研

に預けておくのはいかがなものかとかね」

「所属が変わるのは困るのですが」

「安心しなよ、それは食い止めておいたから。という訳で喜べ恭也! 今朝付けで君は一等

海士に昇進した。これがその通知と階級章だ」



 勲章の隣に、通知と階級賞が並ぶ。リスティの笑みが、深くなった。



「そしてさらに喜べ! 今日の午後一時付けで海曹に昇進した。これがその通知と階級章だ」



 さらに通知と階級章が、恭也の膝の上に追加された。出てくるのはため息ばかりである。

リスティはまだ微笑みを消していない。魅力的ではあったが、今の恭也にはリスティが悪魔

か何かに見えた。



「……いいですよ、一気に言ってください」

「のりが悪いなぁ……」



 言うよりも先に、通知書と階級章がさらにもう一つ追加された。



「明日の朝一付けで、海曹長に昇進する。魔女は准海尉まで押し上げたかったみたいだけど、

流石にそこまではと上層部が反対したらしい。とにかくこれで君も下士官だ。おめでとう恭

也」

「ありがとうございます。出来れば出世などしたくはなかったのですがね」

「仕方ないだろう。英雄的行為には褒美が付き物だ。昇進は姫様を救ったオマケみたいな物

だと思うことだね」

「騎士カリムには、会いましたか?」

「一度だけね。君に心の底から会いたそうな顔をしてたよ。今日も聖下についてこようとし

たみたいだけど、いなかったところを見ると自重したみたいだね」

「別に、遠慮することもないと思うのですが」

「聖下と一緒じゃあ、オマケと思われるのも仕方がないからね。君にきちんと礼をしたいと

言ってたし、後でショートカットのシスターと一緒に来るんじゃないかな。お礼に私を貰って

ください! くらいは言うと見てるよ、僕は」

「冗談でもそんなことを言うものではありませんよ、リスティ」



 リスティのことだから欠片も冗談ではないのだろうが、強引に冗談だということにした。



 煙草を吸おうとするリスティの頭を押さえて妨害しながら、勲章を見る。



 父親は言った。俺達の家業は、少しだけ感謝をされてそれで終わりなのだと。ずっとそう

だった。してきたことに対して、評価というものはあまりにも少ない。



 それが形として残った。こういう物が欲しくてやった訳ではない。それは偽りのない恭也

の本心だったが、たった一つのこの勲章が言葉では言い表せないくらいに嬉しかった。