カリム・グラシアを知る人間はこう語る。



 彼女は聖女のような人だ、と。



 勿論、厳密な意味での聖女ではない。聖王教会において聖女とは、列聖された女性のことを

指す。彼女は上級騎士で高位の魔導師であるが、列聖はされていない。聖女というのはあくま

で比喩で、カリムを知る聖王教徒がそう例えたことに由来する。



 言い出した聖王教徒にしても、聖女は列聖されたものだということを知らなかった訳ではな

い。彼ら、彼女らがカリムを指して聖女のようなというのは一重に、彼女がベルカの古式ゆか

しい聖女のイメージにぴたりと合致しているからだった。



 次元世界においては女性が戦うことも珍しくはない。現にミッド式、ベルカ式双方の魔導師

教会に登録される魔導師の男女比率は、3:7と女性の方が多い。守護騎士であるシグナムに

代表されるように、ある種男性的な魅力を持つ女性が持てはやされることもあるほどで、教会

騎士団においても武に優れる人間を順に上げていけば女性の数が多いことに驚かされる。



 古代の記録は散逸して久しいが、昔からベルカは『強い女性』が多かったという考えが現在

の研究では主流である。守護騎士のシグナムなどが良い例だが、要するにああいう女性が古代

には多く存在していた……らしい。



 ベルカ騎士を絵に描いたような性格をしているシグナムだが、流石にその考えは笑い話だろ

うとシャッハは思う。彼女は素晴らしい人格であると心の底から思っているものの、右を見て

も左を見てもシグナムばかりでは、流石に息が詰まる。



 女性はやはり、穏やかで控えめなのが良い。自分がそういうイメージから縁遠いせいもあり、

シャッハもそういう聖女イメージの女性を信仰するに至っていた。こういう考えの人間が多い

からこそ『聖女のような』という例えが聖王教徒の中であるにも関わらず発現しているとも言

える。



 さて、現代の聖女であるカリム・グラシアであるが、彼女は先日危機的状況に直面した。車

ごと吹き飛ばすような威力の爆弾テロに命を狙われたのだが、それを奇跡的に助け出した人間

がいる。



 時空管理局の二等海士――現在は昇進して海曹長になってしまったが――の男性、恭也・テ

スタロッサ。一流の魔導師ですらなしえなかったであろうカリムの救出劇は、彼を一躍時の人

とし、聖王教徒でない、管理外世界出身、時空管理局勤務、魔導師でないとと教会からすれば

悪条件の塊のような存在であるにも関わらず、名誉騎士章を教皇聖下より授けられた奇跡のよ

うな存在だ。



 授与には助けたカリムが枢機卿の孫であるということ、カリム自身が教徒の間では非常に人

気のある存在であることも大きかったろうが、名誉騎士章を授与するかを決定する教皇を議長

とした枢機卿会議は、満場一致で彼に名誉騎士章を授けると決定した。



 諸々の悪条件を無視してでも彼の英雄的行動を評価し、それを形として表すべしというのが

彼らの方針のようで、事実、現役の管理局員としては異例の引き抜き行為まで本気で検討され

ているという。



 恭也の性格を考えるに引き抜きに応じるとも思えないが、枢機卿会議の白熱ぶりを伝え聞く

に、引き抜きが成功した暁には教会騎士団の部隊を一つ二つは任されたとしても不思議ではな

い。



 英雄的行動とは言え実績一つで、と侮ることも出来ない。教会と言えども縦社会で、上に立

つ者に気に入られたという事実は、とてつもなく大きい。教会権力の頂点にある教皇をはじめ、

枢機卿全員の承認を得たとなれば、聖王教会においてこれほど強い後ろ盾もない。



 教会に完全に籍を移せば一生涯名誉ある暮らしは約束されたようなものだ。管理局では階級

が上がったと言ってもいまだ海曹長である。教会との待遇の差は歴然だったが、それでも管理

局に籍を置いているというのは、自分達が教会に思いいれがあるように、恭也・テスタロッサ

にもまた、管理局に思うところがあるということなのだろう。悔しいがこれも縁と今は諦める

より他はない。



 来るかもしれない未来より、今来ている現実だ。



 先日カリムと自分を庇ったことで、彼は今クラナガンの病院に入院している。日頃の鍛錬の

賜物か爆風と破片を背中に受けたのに命に別状はないというが、検査と、ついでに療養もさせ

るということで最低一週間の入院が義務付けられたと耳にした。一週間というのは最低のライ

ンであるので、実際には二週間、場合によっては三週間かかることもあるかもしれない。



 行動の規格外っぷりを考えると二、三日で退院ということも考えられたが、一週間もあれば

準備をする余裕もある。他人が縛り付けられることを喜ぶなど聖職者にあるまじき行為である

が、主であるカリムのことを考えると、恭也には一日でも同じ場所に縛られているのが望まし

い。



 管理局に籍があるとは言え、カリムの本分は教会騎士だ。教会にも居場所を用意されたばか

りとは言え、管理局に籍を置く恭也とは会う機会は少ない。関係を深める機会はあまりないの

だ。これを生かさずして何を生かすのか、と口には出さないがカリムも珍しく意気込んでいる

のが、長年の従者であるシャッハには見てとれた。



 その意気込みが形となって現れているのが、現在の光景である。



 長い金色の髪はポニーテールに結われ、いつもは一分の隙もなく、けれども優雅に着こなし

ている僧衣はやぼったい部屋着に変わっていた。掌が袖で隠れるくらいの聊か丈のあっていな

いトレーナーに、こちらはぴったりとしたジーンズ。腰から尻にかけてのラインが非常に艶か

しい。教会関係者は愚か、家族ですら中々見ることのできないラフな格好だった。



 ベルカ自治区にあるグラシア本家ではこんな格好は出来ない。



 ここはクラナガン。管理局で仕事をしなければならない時のカリムの仮住まいである。窓か

らは管理局地上本部を見ることもできる、都内一等地に立つマンションの最上階に位置してお

り、グラシア家ではなくカリム個人の所有する物件だった。



 自分の部屋を持ったらしてみたいことがあると昔から言っていたが、ラフな格好というのも

その一つだったらしい。実家では着ることの出来ない服を部屋の中だけで――外に着ていく勇

気はないらしい――着るのがカリムのささやかな趣味の一つであるのだが、この際それはどう

でも良い。



 危なげない手付きではあるが、料理をするために包丁を握るカリムをシャッハははらはらし

た気持ちで見つめていた。



 グラシア家は名家であるから、当然使用人も沢山いる。教会シスターという肩書きを持って

はいるが、分類するならシャッハもその使用人の一人だ。護衛だけでなくカリムの身の回りの

世話も仕事に含まれるため、食事を作ることもあればメイドの真似事をすることもある。



 使用人を常時連れまわしているようなもので、家柄もありカリムのことを何もできないお嬢

様と思う人間も数多いのだが、彼女はこれで大体の家事を如才なくこなす。



 仕事を奪うのはやめてくださいとシャッハが頼んでいるから普段はあまり手を出さないが、

自分がやりたいと思った時は梃子でも動かない。料理を作りたいと思い至った時は、中々手の

込んだ美味しい料理をこちらに振舞ってくれることもあるほどだ。



 この容姿、この性格で、料理まで出来たら世の殿方も一層カリムのことを放っておかないだ

ろうと思うものの、カリムの家事スキルのことを知っている人間は、勿体無いことに本当に少

ない。



 本家の使用人でも古参の者か、両親を含めた近しい家族、知っているのはその程度のものだ。

故に手料理を振舞われるというのは友愛の証、カリムからの仲良くなりたいというアプローチ

に他ならない。



 奥手なカリムが姻戚関係にない男性に料理を振舞うということはもう、愛の告白に近い物だ

とシャッハは思うのだが、それを正直に言ってもカリムは断じて認めないだろう。手を打つな

らば早いうちにやっておいた方が良いと、同じく男性と付き合った経験のない自分ですら思う

のだが……性格と立場が禍しているのだろうか。まずはお友達から、の姿勢を崩そうとしてい

ない。



 しかし、いつまでも友達のままでは宜しくないという危機感だけは持っているようで、内密

に、という条件付きで恭也・テスタロッサに関する調査を依頼してきた。恭也の入院する病院

は聖王教会の息はかかっていないが、取り立てて対立している訳でもないために仕事は難しい

ものではなかったが、その調査結果が果たしてカリムの望むものであるのか。彼女と付き合い

の長いシャッハも、断言しかねる所だった。



「出来たわ。シャッハ、味を見てもらえるかしら」



 ふぅ、と小さく溜息をついたカリムは作品を一つ摘んで、歩み寄ってくる。あーん、という

小さく聞こえた彼女の声に至福を感じながら、シャッハは要求どおりに小さく口を開けた。口

の中に放り込まれる作品。ぽりぽりと噛み砕くと、口の中にほろ苦い甘みが広がった。




 カリムの好みにしては、ビター過ぎる仕上がりである。彼女の好みはもっと甘い。カリムが

自分で食べるために作ったというのならこれは完全な失敗作だったが、目的を考えるなら成功

と言えるだろう。



「良い味です。流石は騎士カリムですね」

「味に騎士であるかは関係ないでしょう?」



 苦笑を浮かべるが、褒められたのは満更でもないらしい。カリムは作品――シンプルなデザ

インのクッキーだ――を手早く箱に詰めると、丁寧にラッピングを施す。




「これでお見舞いの品は万全ね。さて、待たせたわねシャッハ。報告を聞かせて貰えるかしら」

「了解です。騎士カリム」



 カリムに促されてシャッハは紙の資料を捲った。正直に言うべきか、紙の上に踊る自分で記

した文字を見ても迷いは続いていたが、自分の言葉を待ち焦がれているカリムの熱い視線を裏

切ることは出来なかった。



「……テスタロッサ卿の病室を訪れる人数を数えよとのご命令でしたが、病院関係者に来客者

名簿を拝借して調べましたところ、この四日間で彼の病室を訪ねた者は、532人に登ると見

られ――」

「待って、シャッハ。今信じられない物が聞こえたような気がするのだけれど」

「532人というのは事実です。これは訪れた人間の人数で、のべ人数にすると540人とな

ります」

「驚いたわ。彼はそんなにも慕われていたのね」

「その半数以上はテスタロッサ卿の所属する特共研の人員ですけれどね。彼女らは義理堅いよ

うで部長のクロフォード女史をはじめ、その全員が見舞いに訪れているようです。他、病院が

クラナガンにあることもあり、テスタロッサ卿が懇意にしている地上本部の職員などが見舞い

に訪れた模様です」



 特共研の人数は恭也以外全て女性という特殊な環境であるものの、それでも人数は300人

を少し越えたくらいだ。見舞い客の内の半分に迫る人数が、彼と同僚という訳ではない。



 まして恭也は本局の人間で、本局と地上本部は犬猿の仲だ。近い所で働いているとは言え、

本局職員の恭也に地上本部の人間が見舞いに来るという辺り、彼の人柄が伺える。



「加えて、見舞いの電報なども届いているようです。教会関係者では枢機卿から数名。ここに

はグラシア枢機卿も含まれておいでです。ご本人は直接見舞うことを希望されたようですが、

教皇聖下に妨害されたようで、今現在も任地においでです」

「お爺様、聖下とは仲が宜しいから」



 カリムは穏やかに、けれども苦笑する。信者から絶大な信頼を寄せられる枢機卿達であるが、

彼らの本質は、結構柄が悪い。公式の場でこそ威厳を保っているが、身内だけになると本性が

露になる。



 特に教皇ヨーゼフとグラシア枢機卿は悪友として関係者に知られており、身内だけの酒の席

になるとお互いに70を越える老体にも関わらず殴り合いになることもあるほどだ。両方とも

若い頃は教会騎士として戦ったことがあるだけに、老いてもなおその手腕の片鱗は健在である。



「ところで、見舞い客の中の女性比率はどうなっているの?」

「ほとんどが女性です。特共研の職員はテスタロッサ卿を除いた全員が女性ですし、それ以外

の見舞い客も女性が多かったようです。数値に直すとおよそ九割弱が女性のようですね」

「九割……」



 シャッハが躊躇っただけのことはあったようで、九割という圧倒的な数値はカリムにとって

もショックなようだった。打ちひしがれたカリムの姿に、やはり報告はオブラートに包むべき

だったかと後悔するシャッハだったが、調べれば直ぐにでも解ること。主相手に嘘を吐くこと

はあまりしたくない。



「どれだけ数が多くとも問題にはなりません騎士カリム。要はその中で最も結果を残せば良い

だけの話なのですから」

「でも、それだけいたらお見舞いの品も沢山あるでしょう?」



 打ちひしがれつつも頭は回っていたようで、核心を突いてきたカリムにシャッハは言葉を詰

まらせた。看護士に話を通して見舞いの品まである程度は調査が済んでおり、カリム以外にも

手作りの料理ないし身の回りの物を持ってきた見舞い客がいたことは調べがついていた。



 恭也の義妹であるフェイト・テスタロッサや、旧知の間柄である高町なのは、八神はやてな

どがそれであるが、看護士の目を最も惹いたのは紙で作られた昆虫の置物であったと言う。



 いずれにせよ物を贈っても手作りの料理を持っていっても今更真新しさはない。こうなると

出遅れたことが悔やまれるが、いの一番で見舞いにいった時には何も準備など出来なかったし、

それから取って返そうとした時には教皇庁が名誉騎士章授与のための演出を整えていたために

教会関係者は恭也に近付くことが出来なくなっていた。



 自由に動けるようになって、明日が最初の機会なのである。仕事の関係もあるために、次は

いつになるか解らない。恭也の回復力は凄まじい物があると医者も言っていたし、おそらくこ

れが恭也を見舞う最後のチャンスになるだろう。



「大丈夫です。貴女の作った物は、他の何にも見劣りしませんよ」

「貴女がそういうなら、信じてみるわ」



 言葉をかければ、立ち直るのも早い。元より、教会と管理局のパイプ役を務めるカリムだ。

その仕事に就任したのには家柄も関係しているが、それだけではこの役割を長く勤めること

は上手くいかない。お嬢様然とした風貌に反して、その胆力はシャッハの目から見ても中々

の物だ。



「明日の午後一番でお見舞いに行くわ。スケジュールの調整は万全にしたつもりだけど、急用

でない電話は全て、私には繋がないでね?」

「了解しました、騎士カリム」



 ここで早く動かないと仕事に追われるとでも思っているのか、ラッピングしたお菓子を手早

く抱えると、挨拶もそこそこに寝室へとカリムは駆け込む。



 カリムの明日の予定は既に決まっていた。丸一日完全な休暇である。早起きして身支度を整

えて早めに昼食を終えて、午後一番で恭也の病室を訪ねられるように綿密なスケジュールが組

まれている。



 教会にも管理局にも少なくとも見舞いが終了するまでは仕事を入れないようにしつこく言い

含めてある。大災害クラスの不測の事態が起こらない限り、カリムが呼び出されるということ

はないだろう。



 元より、管理局におけるカリムのオフィスも、その人員のほとんどは聖王教徒で固められて

いる。恭也とカリムの因縁は彼ら彼女らも知るところであるから、カリムが自発的に仕事に戻

るとでも言わない限りは、仕事関係で邪魔が入るということはないだはずだった。



 まるで遠足前日の子供のような足取りのカリムを思い出して、シャッハは苦笑を漏らした。

あのように楽しそうなカリムを見るのは、久し振りだ。自分を守ったせいで入院しているとい

う負い目はあるのだろうが、それを感じさせないくらい恭也と会うことを楽しみにしている。



 浮いた話のほとんどなかったカリムであるが、これはもしかすろともしかするかもしれない。

カリムの父君は発狂するほど荒れるかもしれないが、シャッハはカリムの従者である。グラシ

ア家にも恩義はあるが、基本、カリムが幸せならばそれで良い。



 カリムの子はどんな子になるのだろう。気は早いと思いながらも夢想することは止められな

かった。相手が恭也と決まった訳では勿論ないが、考えるだけならば誰にも迷惑はかからない。



 自分用の紅茶を淹れて、椅子に腰掛ける。夢想を肴に夜更かしをしても、罰は当たらないだ

ろう。



































 寝坊したのは生まれて初めての経験だった。恭也に会える、と思うと目が冴えて眠れず、さ

りとて何もすることがないまま、悶々と夜を過ごしたのが原因らしい。



 いつまでも起きてこないことを不審に思ったシャッハにたたき起こされて、身繕いのために

風呂場に駆け込んだ時には意識は覚醒していた。時間に余裕はなかったが、湯浴みもせずに恭

也の前に出る訳にもいかない。



 いつもの半分の時間で風呂場から出ると、シャッハに髪を整えてもらいながら食事を取る。

急いで食べるのははしたないと、実家にいたら教育係の爺やに死ぬほど怒られただろうが、今

はそんなことを気にしている余裕もない。



 簡単に食べられる物を用意してくれたシャッハに感謝しつつ、荷物を確認。昨日のうちに見

舞いの品を用意しておいて良かった。これで起きてから作る予定だったら、恭也の見舞いを諦

めなければならない可能性すらあった。できることはできるうちにやっておく、と習慣づけて

いる普段の自分に感謝である。



 密かに自慢の金色の長髪は、乾かすのに時間がかかるのが難点である。仕事に行く前のよう

に完全には乾かなかったが、みっともなくないようにシャッハが手早く整えてくれた。本職は

シスターであるはずなのに、メイドのようなことをさせて申し訳なく思うものの、シャッハが

手伝いをしてくれる生活に慣れてしまっているため、彼女がいなければ生活することもままな

らない。



 自分で大抵のことは出来るつもりでいるが、本質的にお嬢様なのだろう。身の回りのことを

誰かにやってもらうことに慣れているせいか、自分の部屋以外に何処に何があるのか良く解ら

ない有様だ。



 そういう箱入りな所が良いと言う殿方はベルカにも大勢いるが、そんな自分を情けなく思う

カリムである。テロに巻き込まれたこともあり、元々過保護気味だった父やグラシア家の侍従

長である爺やなどはシャッハだけでなくもっと従者を置くべきだと口うるさいが、これ以上メ

イドや付き人を増やされては、本当に何もできなくなってしまう。



 それでは流石に格好悪い。せめて出来ることを増やそうと、最近は特に家事に手を出そうと

試みているのだが、日常的にそういったことに手を出そうとするとシャッハが悲しそうな顔を

するので、その方面の鍛錬は一向に進んでいない。現実はままならないものだ。



 さて、朝食と身繕いを神速もかくやという速度で済ませ、忘れずにお見舞いの品を持って部

屋を飛び出すと、運転手の待つ地下の駐車場に向かう。初老の運転手はグラシア本家時代から

の付き合いで、敬虔な聖王教徒でもある。



 幼い頃から知っているグラシアのお嬢様が御付のシスターと供に転がるようにして現れたの

を見るや運転手は目を丸くしたが、どうやら急いでいるというのは言われずとも解ったらしい。

後部座席をドアを開けると、アイコンタクトでドアを閉めることをシャッハに任せ、自分は運

転席に滑り込んだ。



 後部座席に飛び込み、シャッハがドアを閉めるとほとんど同時、車は発進する。胸に手を当

てて乱れた息を整える。こんなに走ったのは久し振りだ。隣のシャッハは日頃鍛錬をしている

だけあって、まったく息が乱れていない。済ました顔で、けれども心配そうにこちらを覗き込

んでいる。



 その視線が寝坊を非難しているような気がして、カリムはシャッハから視線を逸らすと、無

理矢理呼吸を整えて平静を装った。



「……予定は調整しないで済むかしら」

「もう少し遅れていたら、私が騎士カリムを抱えて走らざるを得ないところでした」

「そんなに格好悪い真似はできないわ。今日の予定は私の都合だけで組んだ予定なのだから、

遅れても何も問題はないはずよ?」



 ムキになって言い返すが、遅れないようにとさっきまで走っていた人間の台詞ではないと

口にしてから気づいた。あまりに頭の自分の物言いにカリムが辟易していると、シャッハが

解ってますよ、と苦笑を浮かべた。



「ここ数日のデータを鑑みるに、午後一番というのが最も邪魔をされない時間帯なのです。テ

スタロッサ海曹長を――失礼。テスタロッサ卿を見舞う人間は数多く、一人で見舞うことの出

来る時間は、あまりに少ない。チャンスを生かさずして何としますか」

「あくまで可能性が低い、というだけなのでしょう?」



 何しろ人数が人数だ。二人きりという状況は願ってもないが、あれだけの人数がやってきた

のなら、どういう時間帯を狙ったとしても誰かしら他の人間がいるだろう。データを元に同じ

ことを考える人間がいたところで、不思議ではない。



「最初から諦めるよりは、少しでも可能性を追求するべきです……この話は昨晩もした気がし

ますが、そう言えば昨晩は遅くまで起きてらしたのですか?」

「…………」



 恭也のことを考えていたら眠れませんでした、と正直に答えるのはいかにも恥ずかしい。ち

らり、とシャッハを見ると真面目な彼女にしては珍しく、人をからかうような笑みを小さく浮

かべている。



 付き合いが長いだけあって、寝坊の原因にも感づいているのだろう。察しが良く、しかし忠

誠心の高い彼女にしては、珍しい行動である。生真面目なところのあるシャッハであるから、

こういう友人のような行動をしてくれることはカリムとして非常に好ましいものである。



 しかし、からかわれることは気持ちの良いことではない。



「病院まで少々かかります。少しお休みになってはいかがですか?」



  不貞腐れて視線を逸らすか、理屈をこねて言い返してみるか、いずれにしても格好悪い方

法を勢いに任せてカリムが選択しようとしたその時、絶妙のタイミングで運転手が声を上げた。



 シャッハと揃って彼の方に視線を送ると、運転手はルームミラーごしにパチリと、ウィンク

をした。皺の刻まれた目元に浮かぶのは、柔和な微笑みだった。



 思わずシャッハと顔を見合わせる。年の功を見せ付けられた感じだ。子供のように言い争お

うとしていたことが、途端に恥ずかしくなる。



 先に目を逸らしたのはシャッハだった。からかうような笑みはもうなく、どこか気まずそう

な顔だ。運転手はグラシア家に仕えて長く、シャッハから見て大分先輩に当たる。運転手と御

付のシスターと仕事こそ大分異なるが、現在カリムの運転手は彼一人のため顔を合わせること

も多い。



 ベルカ気質なシャッハは、年功序列を重んじる。目上の人間からの助け船に、自分の行いを

振り返り後悔しているのが表情からも見て取れた。ここが車の中でなければ手を着いて謝って

いたかもしれない。



 そんなシャッハを見て、カリムも謝らなければ、という思いにかられたが、せっかく運転手

が助け舟を出してくれたのに、ここで話を蒸し返しては可笑しな空気になってしまう。謝るの

は落ち着いてから、二人きりの時にでもすれば良い。



 シャッハとは常に一緒にいるようなものだ。待っていれば、今日のうちにでも二人きりにな

るチャンスは訪れるだろう。



 それよりも今は睡眠だ。



 最後に見た時計を思い出すに、睡眠時間はいつもの半分を余裕で下回っている。丁寧に整え

られた車のシートは、眠るのにちょうど良い塩梅だった。



 恭也の入院する病院まで車で30分もかからないが、どれだけ少なくとも眠れるということ

は、今のカリムにとって凄く魅力的に思えた。



 シートに深く背中を預けると、カリムはゆっくりと目を閉じる。耳に微かに届いた良い夢を

という言葉はシャッハのものだった。






























 カリムが爆弾テロの憂き目にあった事件に名前は付けられていない。背後関係は教会、管理

局の双方が死力を尽くして探しているそうだが、現場で死亡した男からは何も情報を掴めず、

背後関係は何も解っていないというのが現状である。



 あまり良い状況とは言えないが、捜査も始まったばかりである。調査能力に関しては、教会

も管理局も優秀だ。今は解らなくても、いずれ何某かの手掛かりを掴むことだろう。今現在、

何も解らないということはそれほど気にしていない。あの規模の爆弾テロで死人が一人もいな

かったことが、不幸中の幸いと言える。



 本来ならば死亡者、カリム・グラシアとなっていても可笑しくはなかったのだろうが、それ

は恭也の奮闘によって回避されている。恭也は言わば、命の恩人なのだ。失われるはずだった

今後の人生全てを、彼が傷を負うことで守ってくれた。



 ベルカの民は、受けた恩を忘れない。この恩は、一生を費やしても報いる必要がある。



 だから手作りのお菓子を持って見舞いに来たとしても、何も可笑しなことはない。他意を強

調され詮索されるような疚しいことは何もないのだ。少なくとも、対外的には。



 他人にからかわれた時のための自己弁護が終了すると、カリムは大きく息を吸って病院に足

を踏み入れた。



 恭也が入院しているのは、恭也の功績にはいまいち見合わない中規模な病院だ。管理局も負

傷者には派閥を超えて寛容であるし、教会は言わずもがな。本来ならばもっと規模が大きく設

備の充実した管理局、ないし教会関連の病院の最上級の個室が用意されたはずだが、テロの現

場から最も近い手術可能の病院ということで、ここが選ばれたのである。



 教会も管理局も転院を薦めたそうだが、退院できないのならどこでも一緒だと恭也が拒否し

たのだと言う。質実剛健な彼らしいと、シャッハと一緒に笑ったのも記憶に新しい。



「カリム・グラシアです。こちらはシャッハ・ヌエラ。恭也・テスタロッサ氏の見舞いに来ま

した。お取次ぎ願えますか?」



 面倒だとは思うものの、来院の際は受付で記帳しなければならないのはこの病院の規則であ

る。病院には珍しい規則であるが、警備がしっかりしているのだと思えば面倒も悪くない。あ

の恭也に限って警備が温いことで損をすることはないだろうが、被害に対する備えという物は

あって損することはない。



 突然の教会騎士の来訪であっても、病院の受付は慣れたものだった。資料を確認するまでも

なく、恭也の病室の場所をこちらに教えてくれる。



 それだけ、彼を訪ねる人間が多いということなのだろう。受付の女性がカリムとシャッハを

交互に見て苦笑を浮かべたのが気にはなったが、丁重に礼を言って受付を離れる。



「見舞い客は他にいないのでしょうか?」



 病院の廊下を行きながら恭也と何を話すか思いを馳せていると、シャッハが顔を寄せて囁い

てくる。公務ではないがシスターであるシャッハは僧衣のままだ。ミッドチルダ首都クラナガ

ンは次元世界でも有数の大都市で聖王教徒も少なくはないが、管理局、それも地上本部のお膝

元ということもあり、聖王教徒でございと声高に主張する民間人は少ない。



 故に聖王教徒、それも聖職者であることを言外に主張する僧衣のシャッハは、病院の廊下で

も悪目立ちをしていたのだが、クラナガンで目立つことなどいつものこととばかりに、医師や

見舞い客の視線など物ともしていなかった。



「いないのなら好都合ね。他に人がいたら少し恥ずかしいわ」

「ですが、いたとしても怯んではいけませんよ騎士カリム。その時は私が『敵』を引きつけて

おきますから、騎士カリムはご自分の戦いに集中なさってください」

「頼りにしてるわね、シャッハ」



 大真面目なシャッハの物言いに、カリムも大真面目に返答する。恭也と何処か波長の合う彼

女が隣にいないのは戦うに当たって聊か心許ないことだが、誰それがいなければ戦えないとい

うのはいくら何でも軟弱に過ぎる。



 前線で戦う訳ではない役職としての騎士であるが、カリム・グラシアも騎士なのだ。戦うべ

き時、退いてはいけない時というのが騎士の生にはあるのである。



 そして、今がその時、退いてはいけない時だ。



 勢い込んでカリムが角を曲がろうとしたその時、隣を歩いていたシャッハが一歩踏み出し、

カリムの進路を塞いだ。



 何を? と問いかけるよりも早く、角から現れた女性がシャッハにぶつかる……寸前で足を

止めた。息のかかるような距離に現れたシスターの顔に、現れた女性は面食らっている。



「申し訳ありません。お怪我はありませんか?」

「いえ、こちらこそ。前方不注意で申し訳ありませんでした」



 出会い頭の衝突を防いだ形になったシャッハが先手を取って謝罪すると、女性の方も慌てて

頭を下げた。長い金髪が下げた頭に合わせて、さらさらと揺れる。自分の同じその長い金髪に

カリムはしかし、覚えがあった。



「確か……フェイト・テスタロッサさん?」



 唐突に自分の名前を出されたフェイトは、いぶかしむようにしてカリムの方を見やった。



 だが、カリムがフェイトのことを覚えていたように、フェイトの方もカリムのことを覚えて

いたようだった。あぁ、と得心がいった声を挙げたフェイトの顔には花咲くような笑顔が浮か

んでいた。



 その笑顔を見て、カリムは思わず身構える。



 それはこちらの全てを受け入れてくれそうな、天使の笑みだった。純朴な少年ならばこれ一

つで恋に落ちてしまいそうな素敵な笑顔なのに、その奥に言い知れない何かが見え隠れしてい

た。



 害意ほどに黒くなく、さりとて拒絶されている訳でもない。強いてあげるのならば敵意と呼

ぶのが相応しいのかもしれないが、笑顔の奥に押し込められたそれはちょっとやそっとでは気

づけないほどに隠されている。



 それはフェイトの偽装が素晴らしいのか、こちらの感覚がたまたま鋭敏だったのか。



 いずれにせよ、心全てで歓迎されている風ではないことだけは確かだった。義兄が重症を負

うに至った相手を目の前にすれば当然の感情だろうが、それだけではなさそうなことはカリム

も感じ取っている。



 敵対する理由は一つしかない。この先に誰がいるのかを考えたら、一目瞭然だ。



 自然とカリムの顔にも笑みが浮かぶ。



 つけ入る隙を与える訳にはいかない。ここは既に戦場なのだ。



「はじめまして。私はカリム・グラシアと申します。私のことはご存知でしょうか?」

「ええ。義兄から聞いています。この度は大変な目に遭われたようで」

「その節は、貴女のお義兄様には大変お世話になりました。本当はもう少し早く来たかったの

ですけれど、廻り合わせが悪くて今日になってしまったんですよ」



 ほほほ、と小さく笑ってさりげなくフェイトを抜いて奥へ行こう、という振りをする。フェ

イトは笑みを浮かべたまま、すすっと足を滑らせてあくまでも自然な素振りでその進路を塞い

だ。



 視線が交錯する。火花が散った……ように見えたのは、気のせいではないかもしれない。横

にいたはずのシャッハがいつの間にか後ろに下がり、周囲を行きかう人は足早に通り過ぎて行

く。病院の廊下で見詰め合う金髪の美女二人は、目立ちに目立っていた。



「では、今日はお見舞いに?」

「ええ。たまたま休暇が取れたものですから。恭也さんとゆっくりお話もしたいと思っていた

ところですし、ちょうどいいかな、と。そういうフェイトさんは、これからお仕事ですか?」



 カリムの問いに、フェイトの眉根が僅かに寄った。耳に、後ろのシャッハが静かに溜息を漏

らすのが聞こえる。



 意地の悪い質問だったろう。フェイトが着ているのは執務官の制服だ。宗教的な理由から僧

衣を着ているシャッハと異なり、フェイトのそれは仕事着である。仕事の帰りに寄ったと考え

られなくもないが、それならばこんな時間に病院を出て行こうとはしない。



 これから仕事なのは、誰が見ても明らかだ。解ってて聞いているのはフェイトにも解っただ

ろう。それでも笑顔を維持しているのは、あちらにも矜持があるからだ。



「はい。これから捜査で第三管理世界へ」

「大変ですね。お仕事頑張ってください」

「グラシア准将こそ、道中お気をつけて」



 含みを残してフェイトは去っていく。その背中が完全に見えなくなってから、角から先の廊

下をそっと覗いて見る。トラップくらいは仕掛けられているかと思ったが、何も不自然な所は

ない。



「喧嘩腰になられるとは珍しいですね」

「喧嘩だなんて……あんなのじゃれあいよ? 私、フェイトさんとは良い友達になれると思う

の」

「それは強敵と書いてトモと呼ぶような間柄、という解釈でよろしいのでしょうか」

「想像にお任せするわ。あぁ、今度フェイトさんをお茶に招待したいわ。手配、よろしく頼む

わね」

「仰せのままに」



 話も纏まったところでカリムは一歩踏み出す。角を曲がる際に何気なく壁に手を付いた――



 指先に鋭い痛みを感じたカリムは、とっさに手を引いて小さく飛び退いた。いきなりのカリ

ムの反応にシャッハが目をむいて駆け寄るが、カリムは呆然と自らの指先を見詰めるだけで言

葉を返さない。



「何事ですか?」

「……壁に手を付いたら少し痺れを感じるようになっていたみたい。ちょっとした悪戯ね」

「悪戯と仰られましても……」



 何故、という思いはあるだろう。シャッハは特に解せない顔だ。



 確かに病院の壁に魔法トラップを仕掛けるような人間がそういるはずもない。加えて設置す

るタイプの魔法はデバイスなどの補助がない限りは長時間の保存は出来ない。その上でカリム

が手を付く位置に、意図的にしろ無意識的にしろ魔法を設置することの出来た人間は一人しか

いなかった。



 指先を見つめながら、カリムはそっと口の端を上げた。



 自慢する訳ではないが、グラシア家は名家だ。生まれた時から名家の令嬢として育ったカリ

ムは、好む好まないに関わらずそう接せられることが当たり前だった。グラシア家の人間とし

て相応しくあろうとした結果、多くの友人を作ることは出来たが、供に切磋琢磨しあい、本音

で語りあうことの出来る対等な関係の友人を作ることはついに出来なかった。



 それが、そんな人間を見つけたのである。これが喜ばずにいられるだろうか。



 カリム・グラシアという人物を知ってなお、子供の悪戯程度とは言え遠慮なく魔法を行使し、

自分の存在を誇示さしめた存在。心の底でどれだけ望んでいても得ることの出来なかった存在

が、向こうから転がり込んできた。



 当然、友誼を深める必要がある。お互いのことをもっと知り合わなければ、対等とは言えな

い。彼女のことを知り、自分のことを知ってもらって、初めて遠慮なく戦うことが出来るとい

うもの。



 さらに『敵』は義妹という強力な属性を持ち合わせている。昨今の流行には通じていないが、

神話の昔から義妹は強敵を相場が決まっていた。手加減して勝てる相手ではない。



「シャッハ、お茶の手配、くれぐれもよろしくね」

「騎士カリムの、仰せのままに」



 シャッハの返答を聞いて、心軽やかになったカリムは何の気負いすることなく歩みを進め、

病室の前に立った。



 ネームプレートには恭也・テスタロッサとある。



 目的の場所についたのだ。昨晩はどれだけ緊張するのだろうと眠れない夜を過ごしたが、今

は不思議と心が落ち着いていた。好敵手の存在が、カリムの心を軽くしていたのだ。彼女に負

ける訳には、無様を晒す訳にはいかない。



 そう思うと、不思議なほどに気負いがなくなり、何でも出来そうな気にすらなってきた。



 最後の身だしなみの確認。髪は乱れていないか、服装は可笑しくないか。自分で身体を見回

し、シャッハに向き直る。彼女も全く同じ行動をし、小さく頷いた。



 準備は完璧だ。いざ、決戦の場へ。



 控えめに、それでもちゃんと相手に聞こえるように、三度ノックする。



 返事は直ぐにきた。この数日、ずっと聞きたかったその声が、カリムの心を震わせた。



 しかし、開いたドアの向こうに飛び込むようなはしたない真似はしない。あくまでも落ち着

いて淑やかに。ゆっくりと、それでも待ちきれないという思いが感じられるような足取りで病

室に足を踏み入れたカリムは、恭也の姿を認めると満面の笑みを浮かべた。



「お久し振りです、恭也さん。お加減はいかがですか?」





 さぁ、戦いはこれから。