闇の中で見つけた、ただ一つの灯り

 お前が僕の辿り付く場所

 鈍く、黒く輝いた道が、僕を導いていく

 いつか、いつの日か……
























 執務官というのは、偉い。どれくらい偉いかと言われれば、その辺りを歩いている何も考

えていなそうな子供に『将来の夢は?』と問いかけて、三番目か四番目にランクインされる。

その程度には偉いと言える。



 露出が決して多い訳ではないが、執務官は一般的にエリートの代名詞とされている。あの

リンディも、今は戦艦の艦長となりそろそろ提督になるのではないかという噂のクロノも、

通った道だった。



 その資格をフェイトが取得したのは、最近のことである。二度試験に落ちた時にはシグナ

ム達と共にもう駄目かとため息をついたものだったが、周囲からの励ましに応えて三度目の

試験で無事に合格した。今では執務官として次元世界を飛び回っている。



 仕事の内容までは知らないが、地球の家に帰ってくることも少なくなったので、忙しいの

だろうということは解った。ロッテとルーテシアの三人で食事を取ることも、最近では珍し

くなくなっている。どんなに忙しかったとしても、通信を入れて会話をすることは忘れては

いない。アルフが常に一緒にいるが、それでもやはり寂しいのだろう。ミッドチルダでは一

人前として扱われてはいるが、地球ではまだ学生をしているような年齢である。



 甘やかすべきではないと他人から言われることもあるが、こういう時に助けないで何が家

族だという思いもあった。恭也にとっては、いつまでたってもフェイトは可愛い『妹』なの

だ。



 そう素直に思えるようになって、久しい。故郷の家族を忘れた訳では決してなかったが、

今ではテスタロッサの家が自分の帰る場所なのだとはっきりと思えるようになっていた。そ

れが少しだけ、寂しくもある。



「恭也?」



 隣を歩くフェイトが、心配そうに問いかけてきた。感情が顔に出ないとは良く言われるこ

とだが、近しい者には良く考えていることを看破される。それは何か魔法を使っているので

はと思わせる程で、特にフェイトは良く恭也の心情を察していた。



「すまん。少し考えことをしていた……」



 頭を振って、脳裏に浮かんだことを追い払う。今考えるべきは、故郷のことではない。



 ミッドチルダ北部にある、管理局関連の施設である。ベルカ自治領にも程近いここは、特

殊な境遇の身寄りのない子供を保護する施設ということだった。



 職務内容に関して具体的なことを恭也は何も知らない。特共研に務める恭也には、普通に

していれば縁のない施設だったが、フェイトの強い要望もあって今回は同道していた。上司

のリスティに話も通した、正式な任務である。



 そんな施設に何が、とフェイトに問うてみれば、そういった不幸な境遇にある子供を保護

して回っているのだそうだ。流石に全てのそういう子供の面倒は見切れないようだったが、

特に酷いと報告を受けた子供を重点的に支援しているのだという。いかにもフェイトらしい

ことだと恭也は思った。



 いつも同行しているアルフはいない。こういう仕事には向いていないというフェイトの判

断だった。今日はユーノの手伝いということで、無限書庫に行ってもらっている。出発前に

は、フェイトのことを頼むと念を押された。それは何かフェイトが傷付くようなことがあっ

たら噛み付いてやるという、アルフの意思表示だった。



「エリオット・モンディアル、年齢は六歳。性別『女』とあるが、男名前だぞ。間違いでは

ないのか?」

「女の子で間違いないよ。男名前なのには、理由があってね」



 苦い顔をして、フェイトは語る。



 件の少女エリオットは、とある夫妻が亡くなった息子を模して作らせたクローンだと言う。

フェイトが生み出された時分には未完成だった技術も、世に流れ、多くの科学者が関わった

ことで格段の進歩を遂げていた。最大の問題だった記憶の引継ぎも、ある程度までならば可

能となっているらしく、多少の誤差に目を瞑れば本人と言えるほどになっているという。



 モンディアル夫妻にクローンを造るほどの知識はない。非合法の組織に繋ぎを作り、そこ

に作成を依頼したのだが、どういう意図が入ったのかは不明だったが、エリオットのクロー

ンは女性として生まれてきた。



 これに憤ったのが夫妻である。組織に文句を言おうにも自分達にも後ろくらいことがある

ために、法的手段に訴えることも出来ないにも関わらず、息子の記憶を持ち、クローンとし

ての意識を持たない少女はエリオットとして振舞っている。



 それに、耐えられなかったのだろう。筆舌に尽くし難いほどの虐待が、近隣の住民の通報

で明るみになるまで、実に一年もの間続けられた。その頃にはエリオットの心も磨耗し、誰

にも心を開かないようになっていたという。



 すぐに両親から引き離され、施設に収容されたのだが、そこでもまた問題が起こった。



「ここじゃない施設なんだけど、そこの職員にその……問題行為をされたらしくって」



 迂遠な表現から、何があったのかは察することが出来た。会ったこともない少女のことだ

が、恭也の心に純粋な怒りがこみ上げてくる。



「その不埒者は、どうなった」

「ミッドチルダの法律では、14歳未満の少年少女への強制猥褻は裁判なしの実刑判決だか

らね。刑務世界の刑務所にいるはずだよ」

「腐刑にしておけ、そんな奴は……」



 それでも温いと恭也には思えたが、日本の法律に比べればずっと妥当なように思えた。犯

罪者にして断固たる態度で臨むのは恭也の好むところではあったが、それと同時にフェイト

やはやてのような微妙な立場の犯罪者に対しては配慮する寛容さも持ち合わせている。



 それを甘いという人間もいるだろう。地球とこちら、どちらの制度が良いかというのは、

一長一短だった。

 

「そんな訳で、ただでさえ不安定な状態なのに男性に対しては物凄い拒否感を持ってるんだ

って。だから、せっかく着いてきてくれたのに申し訳ないんだけど……」



 エリオットの部屋までもう暫くといったところで、申し訳なさそうな顔をしたフェイトが

足を止めた。ここから先は対魔導師用の隔離区域となっており、魔法を使って暴れる少年少

女のための部屋が入っていた。エリオが収容されるまでは、一応用意されていただけの区域

だったという。専用施設を使わないといけないほどに暴れる少年少女というのは、次元世界

でも稀有なのだそうだ。



 フェイトの用向きは既に施設に対して伝えてあるので、近くに職員の姿はない。何かあっ

たら駆けつけることになっているが、いざそういう時になった時の戦力としては不安が残る。



 自分が連れてこられたのには、そういう目的もあるのだろう。魔法を使わずに魔導師を制

圧出来る技能の持ち主は、管理世界では驚くほどに少ない。屋内で、しかも相手に怪我をさ

せずにということになったら、さらに希少な存在だろう。



 エリオットの境遇を考えれば、同じ女性である美由希の方が適任だったのかもしれないが、

フェイトが指名したのは恭也だった。許可を求める際に任務詳細を聞いていたリスティにか

らかわれはしたが、呼ばれた以上全力を尽くすつもりでいる。美由希ではなく自分を選んだ

のは信頼の証だと思うことにした。



 タッチパネルを操作しドアを開いて、フェイトは奥に消えていった。スライドして閉まる

ドアと遠ざかっていくフェイトを見送ると、恭也はドアに背中を預け、エリオットの境遇を

思った。



 望まれて生まれて、生み出した存在に疎まれた。フェイトとエリオットの境遇は驚くほど

に似ている。ここまで隔離されているということは、魔導師としての才能もあるのだろう。



 だが、フェイトとエリオットで異なるのは、愛情を注いでくれるものが一人もいなかった

ということだ。フェイトにはアルフと、師であるリニスがいた。リニスに会ったことはない

が、二人からは素晴らしい女性だったと聞いている。



 プレシアから屈折した愛情を受けていたフェイトが、それでも心を壊さずにあの時まで生

きてこれたのは、彼女らがいたからだろう。



 ならば愛情を受けることのなかったエリオットの心は、既に壊れているのではないのか。

そんな少女を救うことが、果たして自分達に出来るのか。



 フェイトは自分と一緒に暮らしていたとは思えないほど、真っ直ぐな少女になってくれた。

エリオットを助けたいというのは、そのフェイトが自分から言い出したことでもある。



 やがて、ドアの挟んでいても分かるほどの、少女の絶叫が聞こえた。



 それから、魔法を使った気配。感じられる気配は二つ、そのうちフェイトでないほうが猛

然とドアに向かって近付いてきた。



 角を曲がって出てきた瞬間、恭也に見えたのは不揃いに伸びた、燃えるような赤色の髪を

した少女だった。その少女――エリオットはドアがロックされているにも構わず、脇目も振

らずに突っ込んでくる。



 その目を捉えた瞬間、恭也の手はタッチパネルに伸びていた。フェイトの動作を見ていた

から、打ち込むべき番号は記憶している。



 ドアが開いた。破壊するつもりでいたらしいエリオだったが、これ幸いと空いた空間に滑

り込んでくる。目もくれずに走り去ろうとしたエリオットの首筋に、恭也は手刀を打ち込む。

驚くほどにあっさりと、エリオットは意識を失った。帯電していたエリオットの魔力も、そ

れで霧散する。



「恭也!」



 慌てて駆けてきたフェイトが開いているドアを見て驚き、倒れているエリオットを見てさ

らに驚いた。エリオットの絶叫が聞こえていたのだろう。女性を中心にした職員も、後方か

ら4、5人の集団で駆けて来た。



「迅速に無力化した方がいいと思ったから、そうした。気絶しているだけで外傷はないし、

おそらく後遺症も残らないと思う」



 ありのままをフェイトに説明したが、倒れているエリオットを見つめるフェイトの表情は

暗かった。助けようと思ってきた相手が、このようになって気分のいい人間はいない。まし

てフェイトは人の感情に敏感だ。エリオットの瞳にあったものは、誰よりも理解出来ている

だろう。



 あの瞳を、思い出す。どういう人生を歩んだらそうなるのだろうと思わせるほどの、負の

感情で満たされた瞳だった。助けは確かに必要だろう。それも、迅速にだ。放って置いて治

るものでは絶対にないし、フェイトのような正攻法でどうにかなるとも、恭也には思えなか

った。



 今やらなければ、駄目になる。確信に近い思いを持つと共に、恭也は自分が何をするべき

なのかを悟った。



「フェイト、この娘を俺が預かることはできないかな」

「預かるって……どれくらい?」

「一週間。それでどうにかして見せる」



 自信はあるにはあったが、成功する保障はどこにもない。やろうとしている恭也でさえそ

うなのだから、傍から見ているフェイトはもっと不安だろう。どうするのが正しいことなの

か、フェイトは瞳を閉じて暫く考えていたが、大きく息を吐くと首を縦に振った。



「必要な手続きは、全部私が代行する。クロフォード部長には、任務の続行という形で話を

通しておくよ。でも、私の権限だけじゃ、この娘をここから連れ出すことは出来ないんだ」



 施設に入れられている以上、最低でもその施設の責任者の許可がいる。自分の抱える案件

についてはかなりの権限を持っているフェイトだが、今日の来訪は一応職務の範囲として活

動しているとは言え、私的な部分も多い。正式な命令書を取るのは難しいだろうし、仮に取

れたとしてもいつになるか解ったものではない。



 だがエリオットには時間がないのだ。命令書など、待っている時間はない。



「この施設の責任者の方と話をしたいのですが……」

「私です」



 集団の先頭に立って駆けてきた女性だった。胸元にはロザリオ。同じデザインの物をカリ

ムとシャッハがしているのを見たことがある。それは聖王教教徒の証だった。



 女性は口を真一文字に結び、屹然とした態度をしていた。



「この娘を外に出すことは、許可できません。どうしてもというのであれば、命令書をお持

ちください」

「そんな時間はありません。この娘の心は今にも壊れようとしてる。それが解らないという

ことはないでしょう」

「毎日この娘の顔を見ていますからね。心の壊れていく音が、聞こえるような思いです。で

すが、だからと言ってこの娘を外に連れ出せば、問題が解決しますか? まして、貴方は男

性です。この娘の過去は資料でお読みになったでしょう」

「憂慮すべき事柄ではありますが、部屋に閉じ込めておく理由にはなりえません。この娘は

外に出て暮らすべきだ。俺なんぞに躓いていたら、それは一生叶わないでしょう」

「早急すぎます。もっと時をかけるべきです」

「それで何かが変わりましたか? 時間が何も解決してくれなかったからこそ、この娘はま

だここにいるのではありませんか?」



 睨みあいが続く。眼前の女性も、真剣にエリオットのことを考えてくれているのだろう。

どうでもいいと思っているのなら直ぐに放り出しているだろうし、こちらの申し出にも直ぐ

に乗ったはずだ。



 人間としては信用できる。善良で、素晴らしい人格だ。



 しかし、エリオットの問題を解決するには足りない。真摯な取り組みだけで解決するよう

な問題ではないのだ。今までと同じことをしているだけでは、異なる結果は得られない。



 どうすれば説得できる? 知恵を絞ってそれを考えていると、眼前の女性が自分の首元を

見つめているのが解った。恭也も追って目をやる。そこには管理局の階級章の他に、先日聖

王教会から貰った勲章があった。



 違う組織から貰った勲章をぶら下げて歩くのもどうかと思ったが、建前の上では管理局と

教会は友好関係にある。付けていたら排除されるとかいう風潮は、少なくとも表向きは存在

しない。局員で聖王教会の勲章を貰った事のある人間が、数えるほどにしかいないため、局

の中では目だって仕方がなかったが、人の噂も75日と努めて忘れることにしていた。



 勲章一つで、人の評価が変わるとは思えない。



 しかし、眼前の女性は勲章に目を凝らし、それが何であるのか理解すると居住いを正した。



「教皇庁縁の方とは知らず、出すぎた事を申しました」

「いや、その……俺はただの管理局員の下士官です。これは貰っただけのもので、聖王教会

に所属している訳ではありません」

「教皇庁の紋章を身につけることが出来るのは、教皇聖下に認められた方だけです。まして

教徒以外でとなれば、それは貴方の人格の正しさを示しています」



 女性の態度は拝礼せんばかりのだった。教皇庁という言葉が聞こえた段階で、女性につい

ていた職員達の顔つきも変わっている。土地柄、聖王教会の教徒が多いのだろう。虎の威を

借りているようで正直気分は良くなかったが、今は小さなことに拘っている時ではない。



「この勲章があれば、エリオットを連れ出すことが出来ますか?」

「教会の施設のほとんどは、その門戸を開くことでしょう。ここよりもいい施設に送ること

も可能となるはずです」

「施設にいるのでは、この娘の問題は解決しないでしょう。俺が何とかする、と約束するこ

とは出来ませんが、全力を尽くします。エリオットのこと、認めてはいただけませんか?」

「致し方ないでしょう」



 諦めにも似た感情が、女性の顔にはあった。



「私とて、その娘の幸せを願っています。このままでは駄目なことも解っていました。緩や

かな絶望に浸りながら死ぬのを眺めることが、運命なのかとも」

「そうはさせません」

「その言葉に、期待するしかないのでしょうね」



 女性の顔には、無念さがにじみ出ていた。恭也をじっと見つめると、女性は静かに頭を下

げた。



「その娘を、よろしくお願いいます」































 目が覚めると、体の節々が痛んでいた。それもいつものことである。部屋から出ない生活

は退屈で仕方がなかったが、することがない訳でもなかった。生まれつき備わっていた電撃

の能力。対魔処理の施された部屋は頑丈で、壁に電撃を打ち込んでもビクともしないのだ。



 起きて食事をし、疲れてぶっ倒れるまで能力を使い、また食事をする。今の施設に移動し

てからはずっと、そんな生活を続けていた。身体に良くないだろうことは察しがついていた

が、死んだところで悲しむ人間もいない。決して楽しくはない生活だったが、思うように電

撃を打てるようになるのは、少しだけ嬉しかった。



 起き上がり、脊椎反射のように電撃を打とうとして、そこが自分の部屋でないことに気づ

いた。打ちっぱなしで殺風景な、自分で傷付けた壁で囲まれた薄暗い場所。それがエリオッ

ト・モンディアルの世界の全てだった。



 今は、光がある。周囲に壁などなく光を通すほどの薄い何かで覆われていた。空気の流れ

る音も聞こえる。



 外にいる。それに気づいた時、倒れる前の記憶が段々と蘇ってきた。見覚えのない金髪の

女がやってきて、部屋の中に入ってきた。何かを言っていたような気もするが、部屋のドア

が空いた瞬間を見計らって、部屋を飛び出した。施設の職員は扉越しにしか話してこなかっ

たし、食事も同様である。態々部屋の中にまで入ってくるなど、エリオットには馬鹿としか

思えなかった。



 そして、閉められていたドアが勝手に開き、そこに飛び込んだところで意識が途絶えてい

る。誰か人間がいたような気がするが、全く思い出せない。その人間が自分をここまで運ん

できたのだろうか。



 それも、エリオットにはどうでもいいことだった。外に出ることが出来た、重要なのはそ

れだけである。



 起き上がって、外に出た。太陽の光が目を焼き、エリオットは痛みを覚えた。涙を堪えな

がら、ゆっくりと目を開いて行く。久し振りの外だった。風が流れ、光がある。たったそれ

だけのことが、エリオットの心を動かしていた。



「起きたか」



 背後から声が聞こえた。獣のような姿勢で飛び退り、振り返る。黒尽くめの格好をした男

だった。それ以上を、エリオットは認識しない。喉の奥から声を振り絞って、男を目掛けて

全力で電撃を放った。



 直撃すれば死ぬ。それほどの一撃である。無論、殺すつもりで放った。男というのはエリ

オットにとって、恐怖と憎悪の対象だった。そこに手加減という感情が入る余地は欠片もな

い。



 しかし、殺すつもりで放った電撃はあっさりと男に避けられた。ゆっくりとした――実際

には途轍もなく速かったのだろうが――動きでエリオットに肉薄すると、すれ違い様に拳を

打ち込んでくる。



 身体の中の全てが逆流してくるような感覚。エリオットは胃の中の物を全て吐き出してい

た。蹲り、殺意を込めた視線で男を睨み上げる。拳を打ち込んだその男は、平然とエリオッ

トを見下ろしていた。



「俺は恭也・テスタロッサという。任務でしばらくお前を預かることになった。お前には特

に何をしろということはない。朝、昼、夜に三回の食事以外は何をしていても構わない。俺

が憎かったらさっきのように殺しに来ても構わないが、俺は先の施設の職員のように優しく

はないからな。殺しはしないが、反撃はするのでそのつもりでいろ。言っておくが――」



 男とは逆の方向に駆け出そうとしたエリオの『眼前』に、男――恭也は既に回り込んでい

た。殴られる――エリオは目を閉じたが、いつまで立っても拳は飛んでこない。



「逃げようとは思わないことだな。俺はお前よりもずっと速く動けて、お前よりもずっと鋭

い。寝ていても離れていても、お前が逃げようとすれば絶対に気づく。それでも逃げたいと

いうのなら止めはしないが、目を開いた時にはこの場所に連れ戻されているということは、

覚えておくといい」



 殴らないまま、恭也はエリオットに背を向けた。二つ並べられたテントの片方に歩み寄る

と、釣竿とバケツを持ってエリオには目もくれずに歩いていく。その背中が森の中に消える

と、エリオットは地面に崩れ落ちた。



 殴られた痛みは、まだ残っている。気分は最悪に近かったが、胃の中にはもう何もないの

か、吐くということはなかった。



 気分が落ち着くと、恭也に対する憎悪が沸きあがった。殺す――爪で皮膚が裂けるほどに

拳を握り締めながら、エリオットはそれを決意した。立ち上がり、恭也が消えた方向に向か

って駆けて行く。竿を抱えた恭也にはすぐに追いついた。



 咆哮を上げて、立て続けに電撃を放つ。その全てが必殺の一撃と言えたが、当たらなけれ

ば必殺の意味もない。造作もなくそれら全てを避けた恭也は竿とバケツを宙に放り投げると、

拳を打ち込んでくる。



 それを避ける術は、エリオっトにはなかった。






























 水をかけられて目が覚めた。直ぐ近くには湖――生まれて初めて見るそれにエリオットは

圧倒されたが、それ以上に自分に水をかけた男に視線が向いた。反射的に電撃を放つが、身

体を開いただけで避けられ、まだバケツに残っていた水を再びぶっかけられる。濡れネズミ

になったエリオットを、恭也は冷ややかに見下ろしていた。



「まぁ、元気があるのは良いことだがな、せめて攻撃にも工夫をしろ。今までの攻撃は全て

同じ意思の元に行われていた。それはいい。どんな種類のものであれ、純度の高い意思を持

ち続けるというのは、戦う者にとって重要なことだ」



 恭也はエリオットから視線を外すと、焚き火の近くに腰を落ろした。それが今日の夕食な

のだろう。腹を裂かれて火にかけられた数尾の魚が美味しそうな煙を上げている。それは腹

の中が空になっているエリオットの食欲を刺激した。



「好きな物を食え」



 それだけ言って、恭也は焼いた魚を食べ始めた。エリオットは魚を見つめている。身体は

食物を欲しているが、恭也の目の前で食べることには激しい抵抗があった。これは恭也が用

意した物なのだ。施しを受ける謂れはどこにもない。



 二尾目を食べ始めた段階で、恭也は残りの魚全てを焚き火から離した。手をつけないエリ

オットを気にするでもなく、黙々と食事を進める。エリオットは何も言わずに、恭也を睨み

続けていた。



 四尾を食べたところで、恭也の食事は終わった。その近くにはまだ恭也が食べたのと同じ

数の魚が残っている。火から離されていたため少し冷えてはいるが、エリオットの目にはそ

れは至上のご馳走に見えた。



「食わないのか?」



 恭也が問いかける。食わないとは言っていないが、恭也の目の前でというのは死んでもご

免だった。答えずに黙っていると恭也はふむ、と小さく頷き――残っていた魚を全て火の中

に放り込んだ。



 キレる、というのはこういう状態のことを言うのだろう。意味の解らない咆哮を上げて、

エリオットは三度恭也に襲い掛かった。電撃は放たない。直接恭也に飛び掛って組み付き、

その腕に噛み付いた。歯が折れるのではないかというほどに噛み付き、血の味が口の中に広

がった。恭也は噛み付いたエリオットを無表情に眺めやると、エリオットをぶら下げたまま

腕を振りぬき、放り投げた。



 中空で身体を捻り、両手足で着地する。獣のようだと、朦朧とした意識の中でエリオット

は思った。獣ならば、恭也の喉を食いちぎれるのだろう。



 自分は人間だ。



 しかし、恭也を殺すことが出来るのなら、獣になってもいい。腹の底からエリオットは咆

哮を上げた。電撃が使えることも忘れ、飛び掛る。掬い上げるように放たれた恭也の拳が、

エリオットの身体を舞い上げた。



 月が出ている。綺麗だな、と薄れていく意識の中、エリオットは思った。