何から始めていいか解らなかったから、とりあえず食欲に訴えてみた。腹が空けば少しは

折れるかと思ったが、それほどの効果はなかったように思う。徹底した憎悪があるのならば、

自分の用意した食事に口を着けることなと考えもしなかったのだろうが、エリオットが気に

していたのは自分の前で、その食物を口にするということだけだったようだ。



 食事を置いたまま自分が姿を消せば、エリオットはちゃんと食事を取っただろう。そう思

ったから、魚は火の中に放り込んだ。それで始めて電撃を使わずに素手で襲い掛かってきた。

避けることはもちろん出来たが、その攻撃だけは甘んじんて受け入れた。エリオットの歯型

はくっきりと、恭也の腕に残っている。



『何もここまでしなくてもいいのではありませんか?』



 倒れたエリオットを見下ろす恭也の傍で、プレシアが言った。礼儀正しい物言いをするが、

他人を慮ることをあまりしない『女性』だった。心を許しているのはフェイトとアルフ、最

近ではルーテシアにリインフォースも加わっている。ロッテはギリギリの身内といったとこ

ろだろうか。



 プレシアが触れられても気分を害しないのは、それくらいだろう。それは恭也が、テスタ

ロッサの家族と思っている女性達だった。八神家も恭也にとっては家族と言えたが、それを

プレシアは認めていないらしい。プレシアにもプレシアなりの基準があるようだった。



 そのプレシアが、エリオットを心配する素振りを見せている。フェイトに似ている境遇だ

からだろうか。出会った時から、プレシアはエリオットに同情的だった。恭也が知る限りで

は、初めてのことである。



「境遇には同情すべきものがあるが、こいつが世の中を舐めていることに変わりはない。最

低限教えておかなければならないことは、あるだろう」

『教え方にも色々あるでしょう? 主様ならもっと良い方法を取ることも出来ると思うので

すけれど』

「それで解決するのなら、俺だってそうしている。だが、今のこの娘には言葉は届かない。

最初は身体で覚えさせるしかない。それで受け入れる体勢も、少しは出来るだろう」

『効率がいいとも、頭がいいとも思えない方法ですわ』

「俺もそう思う。しかし、これ以外に方法はないと思った。他に良いと思う方法があると思

ったら、遠慮なく言ってほしい」



 言うと、プレシアは押し黙ってしまった。苦笑を浮かべる。人とどう接するかに関しては

不器用な主従だった。



 足元に倒れたエリオットは微動だにしていない。空腹に加えて、急に変わった環境で疲れ

ているのだろう。後先を考えずに電撃を打ちまくっていたし、疲労は極地に達しているはず

だった。



 このまま放っておけば、この飽食の時代に飢えて死ぬことになるだろう。ふと、ここで死

なせてやることが、エリオットのためになるのではないかという思いに恭也は捕らわれた。

絶望の中で生きるのなら、ここで死ぬ方が幸福なのではないのか。



 苦笑を浮かべ、首を振って否定した。恭也・テスタロッサはただの人間で、人の生き死に

を決める立場にはない。ならば、自分の理性と感情に従って判断をしよう。



 生きることも死ぬことも、エリオット自身が決めるべきだ。恭也の使命は、その判断をす

るための材料を、エリオットに与えること。世界とは、人間とは、一体どういうものなのか。

エリオットがそれを知り、それを思い、それを考えるべきだ。



 生き死にを決めるのは、それからでも遅くはない。





 恭也・テスタロッサに学はない。しかし、人間としてどうあるのが正しいのか、そういう

思いは心の中に刻み込まれていた。父親が、家族がそれを教えてくれた。戦うことしか出来

ない自分でも、知ることが出来たものだ。エリオットにそれが分からないはずはない。



 受け入れてくれる人間は、必ずいる。エリオットの代わりに、恭也はそれを信じることに

した。






































 最悪の目覚めだった。締め付けるような痛みが、エリオットの身体を包んでいる。腕を一

つ持ち上げることもできなかった。電撃を打ったら間違いなく意識が飛ぶだろう。意識まで

朦朧としていて、深く考えることも出来そうにない。



 食べ物を……理性ではなく身体がそれを求めていた。エリオットの脳裏に、魚を火の中に

放り込んだ恭也の姿が蘇る。



 暗い憎悪が沸いた。エリオットの記憶は獣のように恭也の腕に噛み付いたところで途切れ

ている。もっと力があれば、あのまま腕を食い千切ることも出来たのだろうか。それは人間

の所業ではないが、あの男に痛みを与えることが出来るのなら、獣でもいいとエリオットは

思った。



 しかし、まずは食物だった。動かない身体を懸命に動かし、周囲を見回す。



 そうして目に入ったのは、今この世界で最も憎んでいる男。叫び声を挙げようとしたが、

声は出なかった。喉が痛い。意識することで遅れて、痛みがやってきた。耐えられないほど

ではなかったが、その痛みがエリオットの憎悪をさらに刺激した。



「起きたのか、エリオット」



 男――恭也が言う。淡々とした声だった。施設の職員や、昨日あった金髪の女のように自

分を気にするような色はなく、自分を生み出した人間達のような憎悪も感じられない。



 一言で言うなら、不気味な男だった。エリオットの今までの人生の中で、見たことのない

人間である。まるでエリオットという人間に興味はないとでも言いたげなその男は、無造作

に湯気の立つ椀を差し出してきた。



 食物である。誰が差し出したのかなど考えもせず、エリオットはそれに飛びついた。微か

な塩味が口の中に広がる。火傷するのも構わず舐めるようにして、エリオットはその椀の中

身を平らげた。



 間髪入れずに、ペットボトルの水が差し出された。温くなっていたそれを、エリオットは

喉に流し込んだ。



 生き返った。そう思ったのは生まれて初めてのことだった。満腹には程遠かったが、虚ろ

になっていたエリオットという人間が、ずっと明晰になる。



 だが、心地よい感覚に包まれたのも束の間だった。考える余裕の出来たエリオットは、自

分が何をしたのかを理解し、激しい後悔の念に捕らわれた。その元凶である眼前の男を睨み

やる。殺してやる。そんな意思を込めた視線も、恭也は気にする様子も見せなかった。



 恭也は空になったペットボトルを回収すると、エリオットからは興味を失ったかのように、

テントを出て行く。



 待て――そう叫んだつもりだったが、痛んだ喉が発したのはうめき声だけだった。盛大に

咳き込みながら恭也を追い、這うようにしてテントを出る。



 太陽は既に昇っていた。確証はないが、おそらく翌日なのだろう。何もないところで転び

そうになるほど、身体が重い。一応腹には食物を入れたが、回復には遠い。



 恭也はテントの近くで作業していた。昨日にはなかった、人一人が入れそうな金属のの容

器がある。それを載せるらしい土台の高さを調整しているようだった。大した作業には見え

ないが、エリオットには欠片も注意を払わずに背を向けていた。今背後から襲えば、殺せる

のではないか――



「やると決めたら、一気にやれ」



 背後に目でもあるのか、恭也はやはりエリオットを見もせずにそういった。最初に見た時

にあった恐怖は、もうない。今、恭也に対して持っているのは暗く激しい憎悪だけである。



「どうして分かった」

「どうしても何もな……」



 立ち上がり、金属の容器を土台の上に置く。据わりが悪いと判断したのか、渋い顔をして

金属の容器を降ろし、また、土台の調整を始めた。



「テントを出る時に音がしたな。奇襲するなら、音には気をつけろ。後は、臭いだな。お前

も俺も昨日は風呂に入ってない。本人は気づかないことが多いが、そういう人間の臭いは気

を払っていれば、ある程度は気づけるものだ」



 お前は臭い、と言われているような気がして、エリオットの顔に血が上った。恭也が見て

いないことを確認すると、袖の臭いをかいで見る。いつも通り、特に臭いは感じなかった。

ということは、いつも臭いということなのかと思うに至り、エリオットの心は少しだけ傷付

いた。



「極めつけは殺気だ。特に誰かを殺そうとしている者の気配は、強く感じることが出来る。

修練を積んでいない人間でも察せられることがあるが、俺はそういう気配には特に敏感でな。

実を言えば音や臭いやその殺気がなかったとしても、お前がどこにいるかくらいは察するこ

とが出来るのだ」

「……それじゃあ、僕はお前に監視されているようなものじゃないか」

「気に食わないのならそれでいい。どうせ、今のお前にはどうしようもないことだ」



 再び、金属の容器を土台に載せる。今度はぴたり、と土台の上に据わった。それを見て恭

也は満足そうに微笑むと、森の方へと歩き出した。置いていかれるような気がして、エリオ

ットはその後を着いて行く。まだ、話は終わっていない。それだけだ。決して、他に思う所

がある訳ではない。



「僕を、どうするつもりだ」

「昨日も説明した。仕事でお前を預かることになった。特にどうしてくれと言われた訳では

ないが、預かった以上、預かる前よりも少しくらいはお前をマシにしようと思ってな。特に

することもないことでもあるし、適当に教育しようと思う」

「大きなお世話だ。僕はそんなこと望んでない」

「生憎と、お前の都合で世界は回っていない」



 恭也は落ちている木の枝を、具合を見ながら拾って行く。乾いている物だけを拾い、湿っ

ている物には見向きもしない。



「お前がいい娘でいる方が、大多数の人間は都合がいい。山を降りる前には、それなりに良

い娘になっていてくれると、俺もお前を連れ出した甲斐があるのだがな」



 恭也が振り返る。無感動な瞳がエリオットを捉えた。自分を生み出した人間にあった憎悪

も、この世で最も憎悪する男が持っていた劣情も、金髪の女が持っていた同情や憐れみもな

い。恭也は自分に、どんな感情も向けていなかった。



 今まで見た人間の、どれとも違った。だからと言って恭也に対する憎悪が薄れることはな

かったが、恭也はそれすらどうでもいいというように、振舞っている。



 どうせ殺せないと侮っているのか。何度か打ちかかって解った。今の自分では、何をやっ

てもこの男を殺すことは出来ない。戦うという点において、必要な全ての要素が眼前の男よ

りも劣っていることを、エリオットは初めて自覚した。それが堪らなく、悔しい。



「することがないのなら、薪を拾って欲しいのだが……」



 拾え、とも言わない。エリオットの返事も待たなかった。着いてくるのかも確認せず、そ

れ以上言葉を続けて、行為を強要することもしなかった。



 無関心という態度が、エリオットの癪に障った。恭也を追い抜き、見えるようにして薪を

拾い始める。それについても、恭也は何も言わなかった。頭にきて、薪の一本を恭也に向か

って放り投げるが、恭也はそれを振り向きもせずに受け止めた。



「そうだ。拾うのはこれくらい乾いているものだ」



 頭にきた。身体が悲鳴を挙げるのも無視して、目につく大丈夫そうな木の枝を片っ端から

拾い集める。運動などほとんどしたことはないから、エリオットの体力はないに等しい。直

ぐに息は上がったが、汗が身体を塗らすのも、息が切れるのも構わずエリオットは動き回っ

た。



「もういいぞ」



 恭也のその声が聞こえると、薪を抱えたままエリオットはその場に崩れ落ちた。歩み寄っ

てきた恭也はエリオットと薪を軽々と肩に担ぎ、テントの方へ歩いていく。金属の容器の直

ぐ近くに、エリオットは降ろされた。薪は纏めて放り出される。



 そこで何かするのかと思ったが、恭也はそれに背を向けた。



 エリオットから距離を取ると、両手と腰にデバイスを出現させた。これも、エリオットの

見たことのない物だった。形状は、剣のように見える。片刃で、エリオットの知る剣とは大

分違ったが、それが斬ることを目的にしているのは、何となく分かった。



 それを振り始める。振るだけではない。見えない敵と相対するように、激しく動き始めた。

斬る、突く、薙ぐ。拳で殴り、蹴りまで放った。エリオットの目を意識してか、その回転が

段々と上がっていく。しばらくすると、エリオットの目では何をしているのかも分からない

ほどになった。目にも留まらない程の速度で、恭也は剣を振るっている。



 恭也に対する憎悪も忘れて、エリオットはそれに見入った。自分が恭也を殺せない理由が

そこにあった。



 汗を滴らせた恭也が、その動きを止めた。エリオットは深く息を吸う。呼吸も忘れて見入

っていたのか……その事実がエリオットを苛立たせた。タオルで汗を拭きながら、恭也が近

付いてくる。エリオットはそれを、憎悪を込めて睨み上げた。



「戦うことに興味があるのか?」



 恭也を睨み上げたまま、頷いた。



「何故だ。自分で言うのも何だが、腕を上げてもいいことはないぞ」

「あんたを殺せる。それで十分だ」

「俺を殺すか」



 目を細めて、恭也はエリオットを見やった。言葉を理解していないのか、恭也の表情は穏

やかだった。



「人生の目標という奴だな。聊か物騒ではあるが、何もかもに絶望されるよりはずっとマシ

か」

「僕はあんたを殺すと言ったんだ。どうしてそんな風にしていられるんだ」

「そりゃあ、今のお前に俺を殺すことなど、不可能だからな」



 その言葉に、エリオットは不愉快そうに呻いた。事実であるのだから仕方がない。今のま

までは、一万回襲撃を繰り返したところで、恭也にかすり傷一つ負わせることは出来ないだ

ろう。未来のことまで、ということになるとエリオットにも見通しは立たないが、恭也の口

調は何をしても無駄だと言っているようで、エリオットの心の黒い部分に触れた。



「練習すれば、僕だってお前を殺せる」

「かもしれん。だが、並大抵のことでは俺を抜くことは出来ないぞ。俺は、努力しているか

らな。今まで生きてきた時間の多くを割いて、この力を手にした。お前にそれだけのことが

出来るか? 俺を殺す、そのために人生を犠牲にするのは、馬鹿らしいことではないのか?」

「あんたを殺せるのなら、それだけの価値はある」

「そうか……」



 恭也は身を翻し、自分のテントの中から二本の棒を取り出してきた。



「一つのことを約束するのなら、お前に俺を殺すことの出来るかもしれない技術を教えてや

らんでもない。拒んだところで何もペナルティはない。殺す予定の相手に教えを請うことが

気に食わないのなら、それでもいい。強くなる方法は一通りではないからな。俺の支援など

なくても、強くなることはできるのだし」

「あんたが、あんたを殺す方法を教えてくれるのか?」



 恭也は頷く。それをエリオットは、暗い喜びと共に見つめた。



「やる。約束する。あんたを殺せるなら、何でもやってやる」

「そんなに俺が憎いか?」

「この世の誰よりも」

「嫌われたものだな……」



 エリオットの言葉を疑ってでもいるのか、どうせ出来ないだろうと侮っているのか。吐き

出した言葉とは裏腹に、恭也は微笑を浮かべていた。



「だが、やるというのなら教えてやろう。それでは、お前に守ってもらうことを伝える。俺

以外の年上、目上の人間には敬意を払って接しろ。同年代以下にも、丁寧に接するんだ。自

分のしてほしくないことを、相手には絶対にするな。理解できるか?」

「そんなことでいいのか?」

「ああ。だが、これがやってみると難しいものだ。人間というものは、自分本位だからな。

これが出来ると約束するのなら戦う術を教えてやるが、お前に出来るか?」



 エリオットは頷いた。殺したいのは、恭也だけ。それ以外の人間になら、今なら大抵のこ

とは出来るような気がした。心の中でどう思っていてもいいのだ。行動するだけならきっと

容易い。



 恭也が持ち出してきた棒のうち、短い方がエリオットに手渡された。短いと言っても、恭

也が持っている方に比べての話である。エリオットの身長と比べてたら、いくらか長い。



 棒を持って、恭也は構えた。



「俺の技を教えてもいいが、身体が出来上がる前のお前にはこういう長い武器の方が合って

いると思う。棒だが、鑓だと思って振ってくれ。専門外だから深く教えることは出来ないが、

ここにいる間は基本の動作だけで終わるだろうからな、基本の打ち込みだけ教えておく」



 そう言うと恭也は流れるような動作で棒を繰り、振り下ろし、突き、薙いで見せた。それ

を前に出す足を変えて、もう一度。それらを三度繰り返した。



「鑓を扱う上で、最も基本となる動作だ。これをきちんと出来るようになれ。次のステップ

に進めるのは、それからだ」

「僕は棒を振るだけか?」

「基礎とは即ち、全ての礎となる物だ。基礎を疎かにする人間に明日はないぞ。文句を言う

暇があったら、棒を振れ」



 恭也は自分の棒をテントに放りこむと、バケツを持って森の方へ駆けていった。



 棒を持ったまま、エリオは呆然とその背を見送る。沸々と怒りが沸いてきた。まさか、こ

れで終わりとでも言うつもりなのか。無駄に約束までさせておいて、こんな終わり方なのか。

怒りの感情を抱えたまま、エリオットは恭也が森から戻ってくるのを待った。バケツに水を

満載にした恭也は、その水を金属の容器の中に入れると、空になったバケツを持ってまた森

へと戻っていった。エリオットには、目もくれない。



 棒を地面に叩き付けた。どうやら本当にこれで終わりということらしい。頭に血が上って

いる。思いだけで人が殺せるなら、恭也など百度は殺せるほど、エリオットの心は恭也への

殺意で満ちていた。



 だが、電撃を撃っても飛び掛っても、恭也に攻撃を当てることも出来ない。自分には力が

ない。山に連れ込まれてエリオットが最初に理解したのは、それだった。無力感が自分を苛

んだが、次の瞬間にはそれは行動の原動力に変わっていた。



 叩き付けた棒を拾い上げ、腰を落として構えた。脳裏に浮かべるのは恭也の姿。足が震え

る。鏡で自分の姿を見るまでもなく、恭也の構えには程遠いのが分かった。そのまま、棒を

打ち下ろす。力任せに振りぬいた棒は、エリオットの手をすっぽ抜けて地面に転がった。



 拾い上げ、また構える。今度は突いてみたが、やはり棒はエリオットの手を離れた。握り

込みが足りないのだろうか。また棒を拾い上げ、拳が白くなるほどに握り締めてみる。



 構えた。前よりも様になっているような気がする。棒を横に薙いで見た。振りぬいても、

棒はエリオットの手の中にあったが、流れそうになる身体を強引に押さえ込むと、今度は身

体ごと地面に倒れることになった。



 顔から、地面に激突する。口の中に血の味が広がった。不意に流れた涙を、エリオットは

袖で拭った。涙など、見せるものか。あの男の前で、弱い姿など見せない。心の深い部分に

それを刻み付けるとエリオットは立ち上がり、棒を振り続けた。



「もういいぞ」



 そう恭也に声をかけられたのは、太陽が沈もうとする時分だった。棒を取り落とす。握っ

ていた部分は血に塗れていた。当然、手を見ると血塗れである。その血塗れの手を、恭也が

繁々と眺める。



「まぁ、始めた日に気を入れてやれば、そんなものだろうな」



 それだけ言って、恭也はテント脇のバケツを指差した。脇に、タオルが置いてある。それ

で洗えということなのだと解釈して、エリオットはそうした。棒は、直ぐ手に取れる位置に

置いてある。恭也に飛びかかれる瞬間があれば、いつでもそう出来るようにだ。



 傷に沁みるのを我慢して手を洗いながら、恭也を眺める。拾ってきた薪を金属の容器の下

に入れて、火をつけた。次いで、その近くに別の火を起こす。いつの間に処理をしたのか、

串に刺された魚が昨日と同じ数だけ、火にかけられていた。



 何をするでもなく、魚が焼けるのをエリオットはじっと眺めていた。



「焼けたぞ。こっちに来い」



 その声に、エリオットは従った。棒は手放さない。焚き火の火を挟んで恭也の向かいに腰

を下ろした。恭也は魚の具合も見ながら、金属の容器の方の火の面倒も見ている。それで何

をするつもりなのかは、エリオットには分からなかった。



「昨日と同じ数だけある。お前の分は半分だ。解っていると思うが、食えるのは食事の時間

だけだ。今から30分。その間に食わなければ、火の中に放り込むぞ」



 恭也が言った。ならば、それがここのルールなのだろう。自分にはそれを妨害するだけの

力はない。本音を言えば絶対に従いたくはないが、仕方がなかった。



 魚を食べたことはあったが、こういう形で食べるのは初めてで、食べ方も良く解らない。

もそもそと黙って食べる恭也のやり方を真似て、エリオットは魚に噛み付いた。



「美味しい……」



 思わず、その言葉が口をついて出た。自分が何を言ったのか気づき、慌てて恭也を見やる。

恭也はエリオットの方を見てはいなかったが、口の端を上げて笑っていた。聞こえてはいた

ようだ。それが堪らなく悔しい。



 当てつけのように、魚に噛み付いた。速く食べているつもりだったが勝手が違うのか、エ

リオットがまだ二尾しか食べないうちに、恭也は四尾を食べ終わっていた。テントに戻って

筒のようなものを持ってくると、金属容器の下の火に向かって強く息を吹きかけ始めた。



 それで、火の勢いが強まる。金属容器の中の水は、もう大分熱くなっているようだった。



「それは何だ」

「風呂だ。俺の世界では山に篭った時の風呂と言えば、現地に温泉でもわいていない限りは、

こんな物だったな。都合のいいドラム缶のようなものを調達してくるのに苦労した」

「僕をからかっているのか、あんたは。そんな物が風呂だって?」



 自分の知識ではなく植えつけられた知識だが、エリオットも風呂がどういう物かくらいは

知っている。温泉というのも知っていた。どちらも、こんな足も伸ばせず脱衣所もないよう

な物ではなかったはずだ。



 何も知らないと思って自分をからかっているのか。エリオットは恭也を睨みつけたが、恭

也は冗談だとも本当だとも言わなかった。恭也・テスタロッサという人間を深く知っている

訳ではないが、今、嘘をついていないというのは何となくだが解った。



 つまりこれは、風呂なのである。



「もうしばらくしたら、いい湯加減になる。そうしたら、入れ」



 金属容器の下から退けた薪に、バケツの水をかける。水によって火が消える音をどこか遠

くに聞きながら、エリオットはその言葉の意味を考えた。顔が、熱くなる。



「ここで入れって?」

「ああ、着替えは施設の方に用意してもらった。お前のテントの中に一週間分置いてある…

…らしい。何が入っているかは確認していないから知らんが」

「ここで入るのか! あんたの見てる前で!」



 自分が何を気にしているのか気づく様子が欠片もなかったから、恥ずかしいのを堪えてそ

のままを言った。どういう神経をしているのか、恭也はそれでもエリオットが何を言いたい

のか気づかない様子だったが、数秒唸るようにして考えるとようやく思い至った。



「別に恥ずかしがる必要はないと思うのだが……」

「この変態!」

「……女性に変態とまで言われたのなら、配慮しよう。お前が入っている間は視界に入らな

いようにする。上がったら言え」



 テントの中から大きな桶を持ってくるとその中に金属容器の湯を組み入れ、それを担いで

恭也は森の中に消えていった。目を凝らしても姿は見えない。本当に、エリオットの視界か

らは消えていたが、不安は消えなかった。あの男ならば人間の数倍の視力を持っていたとし

ても可笑しくはない。



 だが、風呂――これが風呂であるとは、エリオットの常識ではどうしても思えなかったが

――の魅力には抗い難かった。泥や汗で、汚れている。施設に入ってからもまともに身体な

ど洗ったことはなかった。



 テントに戻って、荷物をあさる。着替えは直ぐに見つかった。それと棒を持って金属容器

の近くまで行き、服を脱ぐ。山の空気はまだ寒かった。設えられていた梯子のようなものを

上り、湯の中に入る。



 熱い。身体の芯まで染み入るような熱さだった。思わず、間延びした声がエリオットの口

から漏れた。耐えられるかそうでないか、そのギリギリの温度である。いい湯加減とは、こ

ういう物を言うのだろう。手のひらの傷に湯が沁みたが、それ以上に気持ちが良かった。吐

き出した息と共に、身体の中にあった世界や恭也に対する憎悪が消えていくような気がした。

心が空っぽになって行く。



 至福の時間。生まれて初めて味わう感覚。落ち着いてくると、憎悪も何も蘇ってしまった

が、この時間は悪くなかった。



 ふと、金属容器の脇に何かが置いてあるのが目に入った。縁から手を伸ばして取ってみる

と、身体を洗うための道具であることが解った。どうやって洗うのか……自問して、とりあ

えず髪は頭から洗剤を被り、身体はそのままスポンジで擦った。



 何か違うような気もしたが、身体が綺麗になるというのは気分が良かった。



 一通り身体を洗い終わると、周囲に恭也がいないかと念入りに確認して、金属容器から出

た。そのままでは寒かったので、着替えを抱えてテントに飛び込み、そこで着替える。タオ

ルで髪を拭き外に出ると、空になった桶を持った恭也が帰ってくるところだった。



「俺は烏の行水だと思っていたのだが、それよりも速いか」



 単語の意味は解らなかったが、もっと風呂に入っていればいいのに、と言いたいのだとい

うことは理解出来た。



「長く入っていたら、あんたが覗きに来ると思った」

「大人を舐めるなよ、幼児体型。全ての男がお前に欲情すると思ったら大間違いだ」

「あんたは変態だ、それは間違いがない」



 根拠はなかったが、そんな気がした。恭也があの男のようにエリオットを厭らしい目で見

たことはなかったが、知らないところでは見ているかもしれない。嘘はつかないだろうし、

まともな人間だとは思うが、本質的なところでエリオットは恭也を信用していなかった。



 恭也も信頼が欲しいのではないだろうが、ストレートな物言いには思うところがあったら

しい。聊か憮然とした表情でそっぽを向いた。一応、といった感じで反論してくる。



「俺の何処が変態だ」

「まず、顔かな」

「顔……」



 そう言われるとは予想もしていなかったのだろう。無表情なりに、恭也は傷付いた顔をし

ていた。。それが可笑しくて、エリオットは声を挙げて笑った。








































 一週間はあっという間に過ぎた。今日がその最終日、恭也がエリオットを伴って山から降

りて来る日である。待ち合わせの場所として恭也が指定した、エリオットが収容されていた

施設にフェイトは足を運んでいた。他の仕事もないではなく、正直に言えばここに来る余裕

があるほど暇ではなかったのだが、今、エリオットの案件以上に重要なことはないと、強引

に仕事を調整してここまで来た。



 そろそろ着く。その段になって施設の責任者も入り口に現れた。付近を通る他の職員は、

ちらちらとこちらに視線を送るだけで、足を止める者は一人もいなかった。



「皆、エリオットのことが気になってるみたいですね」

「あの娘ほど過酷な環境に置かれた子供を、私達は知りませんからね。あの娘を助けたいと

言うのは、我々の総意ですよ」

「そういう人達の所にいられるなら、エリオットも幸せだと思います」

「しかし、こちらがそう思っていても、それを伝えることは難しい。過酷な環境にある子供

を少しでも助けたくて、私はこの仕事を志しました。他の職員達も、似たようなものだと思

います。挫折と勉強の毎日ですよ。助けよう、その意思だけでは助けることは出来ないのだ

と、何度も何度も思い知らされています」



 隣に立つ、一回りは年上だろう女性をフェイトはじっと見つめた。どこか疲れたような印

象を受けるが、目は死んでいなかった。明確な目的を持って、それに向かって進んで行こう

とする人間の目だった。そこには、一点の曇りもない。



「こういう問題に関しては、無関係を決め込む人間が驚くほど多いのですよ。貴女のように

資金を出してくれる人は稀で、実際に行動しようと思う人間はさらに少ないものです。支援

を受けることで我々がどれだけ助かっているか、貴女は知らないでしょう?」

「助けになれているのなら、幸いです」



 個人で人道支援を行うことを、偽善と罵る者もいた。そういう声を、フェイトは気にして

いない。例えそれが偽善でも、人を助けることが出来るのならそれでいい。自分のような思

いを味わう子供が一人でも減れば、それがフェイトの幸福だった。



「着たみたいですよ」



 恭也だけなら走った方が、公共機関、車を使うよりも速いが、エリオットが一緒だから車

で帰ってくると言っていた。山の方面にはバスは通っていないから、近くまでフェイトがタ

クシーを手配している。



 そのタクシーが、見えてきた。一週間も山篭りをしていた人間を載せる羽目になったタク

シーの運転手には申し訳ないと思うが、既に多くのチップを渡してある。多少の小汚さは許

してくれるだろう。



 一週間ぶりに見る恭也は……特に変わりはなかった。伸びた無精髭がフェイトの乙女心を

激しく刺激してたが、恭也が薄汚れているのは特に珍しいことでもない。施設を連れ出され

た時は気絶していたエリオットは、今回はきちんと自分の足でタクシーを降りた。



 出て行く時にフェイトが持たせた荷物の他に、見覚えのない棒があった。エリオットが背

負う荷物の中に紛れているからおそらくエリオットの物なのだろうが、拾った物にしては綺

麗だから、恭也が加工した物なのだろう。握りの部分が痛々しいまでに血塗れなのが気にな

った。



 タクシーが去る。恭也に連れられるような形で、エリオットは歩いていた。フェイトが初

めて会った時は負の感情が綯い交ぜになった表情をしていたが、今は湖水のように澄んだ雰

囲気を持っていた。



「汚い格好で申し訳ありません。預かっていたエリオット・モンディアルを返しに参りまし

た」



 恭也に促される形で、エリオットが歩み出る。荷物をその場に下ろすとエリオットは責任

者の女性に向かって、深々と頭を下げた。驚いたのは、その女性である。話に聞けば口を聞

かないのは当然として、何か自分からアクションを起こしたこともなかった。人らしいこと

をしているエリオットというのは、それこそ驚天動地だろう。



「まだまだとっつき難いところはあると思いますが、普通に暮らす分には問題ないようにな

ったと思います」

「その、何と言ったらいいか……」



 じっとエリオットに見つめられていた女性は、ぼろぼろと涙を零し始めた。恭也もフェイ

トも、そしてエリオットもそれをじっと眺めている。



「これからも、エリオットはここで暮らすのでしょうか」

「それはエリオットと相談してください。俺やフェイトが決めることではありません」

「そう、ですよね……エリオット」

「はい」



 エリオットが、返事をした。女性は涙を拭うと、エリオットの目線に合わせる。



「貴女は、どうしたい?」

「僕は……」



 エリオットが恭也を見上げた。信頼に満ちた瞳……とはお世辞にも言えない。どうするん

だと不機嫌その物の表情だったが、影になっていて女性には見えていない。その代わり身に

フェイトは唖然としたが、恭也は面倒くさそうに頷いただけだった。



 振り返った時には、普通の表情に戻っている。恭也と一緒にいて学んだことは、この変わ

り身だったのだろうか。



「ここに居ても、いいでしょうか」

「もちろん。好きなだけいてくれたらいいわ」

「なら、僕はここにいたいです」



 エリオットが女性に抱きしめられる。いい娘になった。女性はそれを疑っていないだろう。

裏に隠れてしまった事実を見たフェイトは実に複雑な気分だったが、これによって誰も損は

していないから、態々言い立てる必要はないのかもしれない。大人なるというのは、こうい

うことなのかと思うと、気分は良い物ではなかった。



 エリオットが女性に伴われて、女性は施設の中に消えていった。恭也とフェイトに、何度

も何度も頭を下げている。恭也は照れくさそうな微笑みを浮かべて、それに応えていた。施

設の中に女性とエリオットが消えると、フェイトは恭也に寄って耳打ちした。



「エリオットに何をしたの」

「特に何も。若干荒っぽいことはしたと思うが、それだけだな」

「荒っぽいことって、なに?」

「目上の人間には丁寧に接する。飯を食う前にはいただきます、食い終わったらごちそうさ

ま、そういうことを言えるように、身体に教え込んだ。俺が礼儀を説くというのもおかしな

話だが、奴はそれ以前だったからな。爆発するのではないかと不安ではあったが、あの様子

を見ると大丈夫なようだな」

「あれで大丈夫なんだ……」



 恭也に対しては施設を出る前と変わっていない。それどころか酷くなっているような気さ

えした。他人に対して普通に振舞えるようになったのは大きな進歩だと思うが、万事上手く

という訳にはいかなかったらしい。



「そんなものだろう。いつか強くなって、俺を殺すのが目標なんだそうだ」

「……今のうちにどうにかしておいた方がいいような気がしてきたよ。もう一度聞くけど、

本当に大丈夫なの?」



 誰かと戦って恭也が負けるなど、フェイトには想像し難いことだったが、何事にも万が一

ということもある。フェイトの目から見てもエリオには才能があったし、彼女が執念に突き

動かされて真面目に修練したとしたら、恭也を越える日もそう遠くないことように思えた。



 そんなフェイトの心配を他所に、恭也は平然と無精髭に手を当てている。



「大丈夫だろう。生きる目的を持ってくれたのならそれはいいことだし、屈折した思いは俺

にしか持っていないようだからな。外に向くようなら叩きのめしに行くとも言い含めてある。

後はどれくらいの速度でエリオットが強くなるかだが、俺も早々負けるつもりはない。要は

俺が負けなければいいだけの話だ」

「そりゃあそうだけど……」

「目の届くところに置いておいた方がいいと思ったからな。ここの生活に飽きたらうちに来

るようにとも言ってある。その時は俺が身元引き受け人になろうと思うのだが、どう思う」



 いいんじゃないかな、と答えるしかなかった。法律以外のところで色々と、特にフェイト

の心情的に問題があったが、恭也を説得出来るだけの理由をフェイトは見つけることが出来

なかったのだ。



 それにしても、随分と気楽に考えたものである。自分の命がかかっているのに、気にして

いるような様子が微塵もない。殺されるならそれまで、その程度に考えているのだろう。人

の命には敏感に反応するのに、自分の命にはそれほど執着を見せない。負けるはずがないと

思っているのか。いずれにせよフェイトには信じられない境地だった。



「そんなことよりフェイト、暇ならばどこか食事に行かないか? 山に篭っている間はほと

んど魚だったのでな、肉が食いたい」

「んー……」



 恭也と二人で食事に行く機会は、実は滅多にない。本音を言えば行きたいが、片付けなけ

れば行けない仕事は山ほどあるし、一人で眺めている分には幸せな気分になれるが、今の恭

也の格好を世間は受け入れてくれないだろう。恭也は気にしないだろうが、風評というもの

がある。ましてここはベルカ自治領に近く、聖王教会の目もあった。勲章を貰ったような男

を、こんな格好で晒す訳にはいかなかった。



「次に私が帰ったら、私がご飯を作るよ。恭也の好きな物を作るから、それでいい?」

「良い。帰れる時は連絡してくれ。どんな仕事をしていても、切り上げて帰る」

「わかった。じゃあ、車でクラナガンまで送るよ。今日はもう、地球に戻るんでしょう?」

「ああ。久し振りにルーテシアの相手をしようと思っている」

「ロッテさんとも、話してあげてね。恭也ともっと、話したいと思ってるよ」

「話してるさ。お前が知らないだけでな」



 駐車場に移動する。周囲に一目がないのを確認すると、フェイトは恭也の腕を取った。出

会った時は見上げるだけだった恭也の顔が、今では大分近くになっている。恭也の背も少し

は伸びたようだが、自分はもっと伸びた。



 あの時から、兄と妹の関係になった。黒髪と金髪だから、似てない兄妹だとは何度も言わ

れた。誰に言われてもフェイトはそれが気に食わなかったが、似てない兄妹が居ても良いと

恭也は微笑っていた。それもフェイトは気に食わなかったのだが、恭也が気にしないのなら

良いと、自分も気にしないことにした。



 恭也の秘密も知っている。テスタロッサになる前の、恭也の名前。それを知っているのは

自分以外ではアルフと、遠くに行ってしまった母プレシアだけだった。何があっても誰にも

言っては行けないと言われた。その物言いにアルフは特に考えもなく頷いていたようだった

が、フェイトは感動に打ち震えたものだった。



 恭也の秘密を知っている。それはフェイトに、自分が特別なのだという思いを起こさせた。

巡りあわせがそうさせた。運がいいだけだと、アルフならば言うだろう。フェイトはそうは

思わない。恭也の名前を知ることは、運命だったのだ。



 その運命が、自分と恭也にとって幸いであればいい。フェイトが祈るのは、それだけだっ

た。