「私を恭也さんの部下にしてくれませんか?」



 すずかのその言葉を聞いた時、恭也は思わず天を仰いでしまった。そこに心を癒してくれ

る青空はない。そこにはただ、いつも通りの天井が広がっていた。



 尤も、仮にここが屋内だったとしても、青空を見ることはできなかっただろう。今朝から

降り続いている雨のせいで、今日の海鳴の空はずっと薄暗い



 深々と溜息をつく。驚きはなかった。代わりに、ついに来たか……という諦めに似た気持

ちが恭也の胸を満たした。会う度に洗練されていくすずかの仕草が、確信めいた何かを恭也

に覚えさせていた。それが現実となって像を結び、眼前に現れた。言葉にするならただそれ

だけのことである。



 眼前の少女を見る。月村すずか。妹フェイトの友人であると同時に、恭也自身の友人でも

ある。図書館で出会った頃は少女だったが、今年で17になる現在では少女の面影を残した

まま、大人の女性の雰囲気を身に着けつつあった。



 鈍感朴念仁であると自覚している自分でも、ふとした仕草にどきりとすることがある程で

ある。清楚可憐を絵に描いたような、恭也の思い描くお嬢様のあるべき姿をを体現している

のがすずかという少女だった。



 ただその『あるべきお嬢様像』も、たった一つの要素を持って台無しになっている感が否

めない。月に一度は自分に会う時間を作ってくれ、メールの遣り取りも、仕事関係を抜きに

すれば、フェイトに次ぐくらいにしている。妙に恭也・テスタロッサという人間に関わろう

とするのが、すずかの最大の短所だった。



 もっと他にすることがあるだろうと何度言ったか知れないが、すずかは決まってにこにこ

笑い、答えをはぐらかす。その後は決まって大体連れ立っているアリサに蹴飛ばされるのだ。

すずかと会うということは恭也にとって、アリサに蹴飛ばされるのと同義だった。



 そんなすずかは私立聖祥に通う女子高生である。中卒で管理局で働き始めたフェイト達に

遅れること二年、そろそろ進路に対して明確なプランを持つべき時期に差し掛かっていた。



 金持ちの子女が集まる聖祥女子であるから、就職という選択肢はないに等しい。稀に家の

事情で進学をしない者もいるとのことだが、そういう少女らほぼ例外なく卒業と同時に結婚

している。そういったイレギュラーは誤差のようなものだ。客観的には、聖祥を卒業したほ

ぼ全ての少女が大学に進学していると言っていい。



 しかもすずかの実家である月村家はいくつかの企業の経営にも携わる、恭也からすれば雲

上の資産家である。生まれた時から生粋のお嬢様なのだ。



 そんなお嬢様が自分の部下になりたいと言っている。



 普通ならば止めるべきだろう。君にはもっと相応しい進路がある、もっと考えてからでも

遅くはないんじゃないか……



 個人的な感情は説得して考えを改めさせるべし、と言っていたが、説得するべき材料を何

一つ持ち合わせていないことに、恭也は口を開き始める段階になって初めて気づいた。



 感情に任せて反対するということは出来ない。すずかの提案に対して驚くにはタイミング

を逸してしまったし、そもそも彼女は以前から今日のことを匂わせていた。こちらがある程

度察していることを、すずかも察しているだろう。性格上、今更知らぬ存ぜぬは決め込めな

いということも看破されているに違いない。



 女性が関わるには危険な仕事である。



 尤もな言い分ではあるが、それは地球であればこそ通る理屈だった。直近の部下である美

由希からして女性だし、すずかの小学生時代からの親友である三人も、管理局で活躍してい

る。性別を理由に彼女を拒むことは出来ないし、危険というのならばフェイト達から説得を

始めなければならず、すずかにだけそれを持ち出すのは筋が通らない。



「保護者の許可は?」



 これも苦し紛れの言い分だった。外堀を埋めずに行動を起こすような愚を、すずかは犯さ

ないだろう。それにすずかの保護者は『あの』月村忍である。恭也の知る忍とは別人である

が、月村忍と名乗っている人間がこういうことに首を突っ込まないはずがない。すずかが初

めての例というのなら考えもしたのだろうが、フェイト達が既に所属している組織となれば

彼女が止める理由はない。



「ええ。義兄共々、恭也さんによろしくと言っていました」



 微笑む姿には貫禄さえ漂っていた。こちらの恭也にすらよろしくされたのでは、無碍には

出来ない。月村の家に婿養子など、自分では考えもしなかったことであるが、こちらの恭也

はそれなりに幸せにやっているらしい。



 既に子供までいるというのだから、自分ではないとは言え、高町恭也の行動力には驚かさ

れるばかりだった。これでお前も叔母さんだな、と美由希となのはをからかったのも今は昔

の話である。



「……解りました。上司に話を通してみます」



 恭也に言えるのはそれだけだった。その言葉を聞いて、すずかは花の咲いたような微笑み

を浮かべた。この笑顔を見るとまぁいいか、という気分になるのだから、美人というのは得

である。



 これから処理しなければならない厄介ごとを思いながら、恭也はコーヒーを啜った。



「もう私が話してもいいのかしら?」



 努めて意識しないようにしていたすずかの隣の席で、少女が静かに声を挙げる。すずかが

『静』のお嬢様だとしたら、こちらは『動』のお嬢様だった。立ち振る舞いから漂うオーラ

のようなものは否が応にも彼女自身の存在を主張し、勝気な性格を宿した瞳は見る人間を怯

ませる。



 世が世ならば女王にでもなっていたのではないか。アリサ・バニングスというのは恭也を

して世迷言を思わせる、そんな少女だった。



 その女王気質の少女が、静かに声を発している。自己主張の激しい彼女は、いつも明朗快

活に言葉を発する。他人が彼女の言葉を聞き逃すということはない。



 つまるところ静かに喋るということは、今のアリサは常の彼女とは異なるということの証

左でもあった。機嫌のベクトルが良い方に向いているのかそうでないのか、それは態度を見

れば一目瞭然である。



 恭也が何か言葉を発するよりも先に、アリサの両腕が首元に伸びた。抵抗する間もあれば

こそ、身長と体重の差をものともせずアリサは全力でこちらの首を締上げてくる。



 こういう技術に関しては素人だからいきなり絶息するには至らないが、恭也・テスタロッ

サと言えども人間である。気道を押さえられれば苦しいし、呼吸をしなければ死ぬしかない。



「話していいかと問われたはずなのに、いきなり首を絞められているのは何故なのでしょう

か、アリサ」

「自分の胸に聞きなさい。小学校からの仲良しだったのに、なのはばかりかすずかまで私か

ら奪おうっての!」



 声がエキサイトしていくにつれ、首を絞める腕にも力が篭ってくる。耐えるだけならばま

だまだ行けたが、テーブルを挟んで少女が男の首を絞める光景というのは、社会的に宜しく

ない。ちらとカウンターに目を向ければ、苦笑を浮かべた桃子が唇に人差し指を当てていた。



 店内ではお静かに。尤もな話である。



「落ち着いてください、アリサ。話せば解ります」

「その言葉を言った偉人がどうなったのか、賢い貴方なら知ってるわよね」

「撃たれるのは勘弁してほしいところですね」



 冗談のつもりで言ったのだが、アリサはくすりともしなかった。隣のすずかも事態の推移

を紅茶を飲みながら静かに見守っている。息がかかるくらいに近付いたアリサは、懐からリ

ボルバーを取り出しても可笑しくないような形相だった。怒り心頭なのは間違いないが、そ

れでもその顔を美しい思えてしまうのは、怒った顔がアリサらしいと思えてしまうからなの

だろう。



「お話ということでしたが、どういうご用件で?」

「いくらアンタでも察しくらいはつくでしょ?」



 NOと言えば締上げると言外に言っていた。冗談を言えるようなタイミングでもない。首

を締められているなりに息を整え、アリサの瞳を真っ直ぐ見つめる。



「貴女も管理局に入りたい、そういうことですね?」

「……その通りよ」



 気は済んでいないのだろうが、アリサはぶっきらぼうに言い放つと襟から手を離した。椅

子に身を投げ出すようにして座り、紅茶のカップに口を付ける。



「すずかまで管理局に行ったら、こっちの世界に私一人だしね。すずかの提案にOKを出す

なら、私だけ拒否する理由はないでしょう?」

「すずかに関しては上司に話を通してみると答えただけで、まだ管理局に入局が決まった訳

では……」

「あんた、すずかが審査か何かで刎ねられると思う?」

「……いいえ、思いません」



 苦々しい顔で、恭也は首を横に振った。話を通すべき人間はリスティと採用に関して最終

的な許可を出すレティだが、どちらもその人材が優秀ならば無理を通すだけの度量を持って

いる。直接手を合わせた訳ではないが、見た限り二人の眼鏡に敵うだけの実力を、すずかは

持ち合わせているだろう。



 話を通すという返事はしたが、それは形だけのもの。すずかに意思がある時点で管理局へ

の入局は決まったようなものだ。事前に相談でもされたのか、アリサはその辺りまで察して

いたのだろう。すずかの入局は既に決まったものとして話を進めている。



「同じ質問をさせていただきますが、アリサはご両親の許可は?」

「……自分たちが知らないような組織に娘を就職させるなんて出来ないって言われたわ」

「そりゃあ、普通の親御さんならばそう仰るでしょうね」



 大切な一人娘が進路の相談をしてきたと思ったら、異世界の治安維持をしている組織に就

職したいなどと言い出した。普通ならばまず娘の正気を疑うだろう。本気にしているのかど

うかまでは恭也には解らなかったが、話を聞く姿勢にあるだけバニングス夫妻はアリサの言

葉を信用している事がわかる。それだけにアリサが言い出したこととは言え、両親から愛さ

れる彼女を連れ出す形になってしまうのは、何とも心苦しいことだった。



「ついては組織に関して話を聞きたいから、組織の概要について説明できる、しかるべき立

場の人間を連れて来いとも言っていたわ」

「理解があり過ぎやしませんか、貴女のご両親は」

「バニングス家は徹底した合理主義なの。社会正義に反しない限り、使える物は皆使うわ。

それがオカルトでも、魔法でもね」

「納得しました」



 納得などしていないが、恭也にはそう答えるしかなかった。筋に外れたことは出来ない。

自分が採用の是非を決める立場にない以上、話を通してくれと言われたら通すしかない。通

した振りをして誤魔化すというのも考えないではなかったが、眼前の二人にとって管理局と

の繋がりは自分一つではない。



 恭也・テスタロッサを経由しないでも、情報を仕入れることは出来るのだ。そんな誤魔化

しをしたことがバレたら、友人知人たちの間での立場が色々と不味いことになる。



 何より、すずかもアリサも真剣に自分の進路を考えて話を持ってきたのだ。雑な対応をす

ることは正しい行いとは言えない。



「二人のことを纏めて上司に話を通してみます。どちらの審査が先になるか今のところ解り

ませんが、詳細は追って連絡するということでよろしいでしょうか」



 二人は満足そうに頷いた。一仕事終えて肩の荷が下りたのか、二人の顔にも笑みが戻る。



(こういう笑顔には一生勝てないのだろうな……)



 にこりと最後に微笑めば話が込み入った話もオチるのだから、言い訳をしたり頭を悩ませ

なければならない自分と比すると、女性というのは狡いと思う。



 心持ち苦い顔をして窓の外に視線を逸らし、温くなってしまったコーヒーを啜る。朝から

降り続いていた雨が上がり、雲間から太陽が覗いていた。






































「いいよ。採用」



 翌日――厳密にはすずか達と話してから次の出勤日、恭也は特共研に出勤すると部長室に

直行した。



 書類仕事をしていたリスティは、呼ばれない限りは足を向けない人間の来訪に首を傾げた

が、事の次第を告げると笑みを深くし、開口一番にそう答えたのだった。



 予想通りと言えば予想通りの返答だったが、百に一つくらいの断ってくれる可能性を捨て

きれなかった恭也は、ノータイムの返答に肩を落とす。



「もう少し考えてくれませんか……」

「君の目から見てそのお嬢さん達は優秀なんだろう? なら何も問題はないよ」

「申し上げた通り、優秀であるかを確認した訳ではないのですが……」



 確認した訳ではないが、立ち振る舞いなどからある程度の力量を察することは出来る。そ

の感性を信じるのなら、すずかの力量は申し分ない。



 よほど武術の修練の積んだのだろう、立ち姿に隙は見られなかったし、感じられる気も洗

錬された物になっていた。



 それが自分たちと同じ気の扱いを出来るという根拠になりはしないが、すずかに関しては

出自が出自である。故郷の世界での忍やさくらの例もあるし、そういう技術が伝わっていて

も不思議ではない。



 仮に使えなかったとしても、武術の腕前だけで見るべきところは十分にある。技術は後か

ら教えてもいいのだ。正式な管理局員というのならテスタロッサ式を伝授することに上層部

も文句を言うかもしれないが、特共研が個別に抱える部下であるのなら、よほど社会正義に

反することでもない限り、横槍を入れてはこない。



「君は優秀だと思う、だろ? 僕は君みたいに戦う技術に精通してる訳じゃないが、君の感

性は信用してる。君が思うのなら、うちで雇うには十分だ」

「お褒め頂いて恐縮です」

「ただ、形だけでも審査はしなきゃいけないからね。その役目は君にお願いするけど、構わ

ないよね?」

「願ってもないことです」



 リスティの申し出に、苦笑しながら応対する。科学者としても上司としても素晴らしいが、

彼女だけに審査を任せた日には、自分のいないところで何を吹き込まれるか解ったものでは

ない。



「美由希を使ってもいいでしょうか」

「構わないよ。後は先方の都合を聞いて審査の日程を調整してくれ。どこでどういう審査を

するにしても、うちの仕事だってことで処理をしておくから」

「何から何まで申し訳ありません」

「気にしなくて言い。これも科学の発展のためさ。ただ、あまり派手なことはしないでくれ

よ? 女帝陛下はともかく、僕は大事を揉み消すには不向きだからね」

「そんなことは……清く正しくが俺の主義ですので」

「個人の主義と現実は往々にして食い違うものさ。君が凪の時間を望んでいても、君の周囲

に集まるのは嵐ばかり……」

「仰るとおりです」

「……と、君は思ってるのだろうけどね」



 リスティは恭也の瞳を覗き込んでにやり、と笑った。



「僕に言わせれば、君は嵐の中心だよ。君自身は凪かもしれないが、君の周囲にはいつも風

が吹き荒れている。巻き込まれた人間はどこに行くのか検討もつかないなんて、素晴らしい

ことだと思わないかい?」

「それを素晴らしいと思えるのは、貴女のような人間だけです、リスティ。ついでに言うと、

俺は努めて他人を巻き込まないように行動しているつもりです。周囲を巻き込むという表現

は聊か心外なのですが……」

「それでもなお君の周囲は『ああ』なんだから、全くもって素晴らしいね。それに意図しよ

うとしまいと、君が引き寄せているのなら君の責任とも言える。まぁ、心外というのは解ら

ないでもないけど、そういう星の下に生まれたことは天に感謝してもいいんじゃないかな」

「……少なくとも、退屈しないで済みそうですね」

「yes。それはとても素晴らしいことだ。あぁ、後興味本位で聞くけれど、そのお嬢さん

たちは美人かい?」

「今年で17ですから美人というには年若い気がしますが、個人的には美しいお嬢さんだと

思います」



 ここにいない人物に対してとは言え、女性に綺麗と言うのは気が引けた。知らずに頬が熱

くなるのを感じると共に、それがリスティの興味をさらに煽っていることに気づき、努めて

表情を引き締めた。



「ついでに聞くけど、そのお嬢さんたちはスタイルが良かったりするかい?」

「その質問に何の意味が……」

「例え同性であっても、どうせ眺めるならポイント高い奴の方がいいだろう? 比較される

のが嫌だからって美人を拒絶するような狭量な奴は、僕を含めてうちにはいないからね。で、

話を戻すけど、そのお嬢さんたち、スタイルは良いのかい? 巨乳?」



 最後に言い直したのは、こちらをからかって遊ぶためなのだろう。にやけ具合が半端では

なく、椅子に座りながら、こちらを覗き込むように身を乗り出している。



 いっそ答えずに逃げてやろうかとも思うが、そうすればリスティは報復に命を賭けて臨む

だろう。無駄に連帯感の強い特共研である。恭也が逃げた理由を知れば、残り全ての職員ま

で結託しかねない。



 そうなってしまえば、唯一の男性職員である恭也には逃げ場などなかった。この手の提案

に関しては、従うのが遅いか早いかの違いしかないのだ。無駄に抵抗するくらいならば、問

題は早く片付けた方が良い。



「……スタイルは良いと思います。ついでに、俺が審査を担当する方の女性は、俺の見てき

た中では指折りだと思います」

「それはまた大きくでたね。シグナムやアルフくらい?」

「匹敵するのではないかと」

「実測した訳ではないんだね? 『お嬢さんたちの』おっぱいに関しては」

「当たり前でしょう。俺を何だと思ってるのですか……」

「ふむ……まぁ、君の恥ずかしい告白を聞けただけで、今回は良しとしようか」



 もっと掘り下げられるかとも思ったが、返答は正解だったらしくリスティは満足のいっ

た様子で椅子に腰を落ち着けた。今の返答の一体どこが気に入ったのか恭也には解らなか

ったが、満足しているものを蒸し返すこともない。



 それからニ三の打ち合わせをして、部長室を退出した。そのまま、自身のオフィスに向か

う。リスティ達の実験に付き合ったり他所に貸し出されていたりすることが多いため、仕事

場と表現するには聊か馴染みの薄い部屋ではあったが、そこには恭也のデスクもあるし、一

応部下という扱いの美由希のデスクもある。



 文句があるとすれば、自分の知らないところで色々な物が進み、いつの間にか自分と美由

希で一つの『研究班』という扱いになってしまったことだ。その方が上への通りがいいから

というのがリスティの弁だったが、部屋の入り口に掛けられている『テスタロッサ研究室』

という仰々しいプレートを見る度に、鬱屈とした気分にさせられた。



 もう一人の研究班員である美由希の同意も得られるのなら、立場改善のための運動も起こ

そうというものだが、彼女は研究員という肩書きに胸のときめきを覚えるタイプらしく、無

駄にリスティから支給された白衣などを着込んで、楽しんでいる始末だった。



 恭也・テスタロッサという人間を見て『研究員』という単語を連想する人間などいるはず

がない。イメージに合わない肩書きなど罰ゲームでしかないと思うのだが、同情して名誉挽

回に協力してくれそうな人間は、周囲にはいなかった。



 ハンガーにかけられた、一回も袖を通していない自分専用の白衣を見る度に思う。



 上司として見た場合、リスティ・シンクレア・クロフォードというのは細々とした気配り

の出来る非常にいい人物である。真面目一辺倒の、身内で例えるならクロノのような人間は

相性が悪かろうが、波長さえ合うのなら理想の上司と言っていいかもしれない。



 悪ふざけさえなければ……そう思ったことは一度や二度ではないが、リスティを構成する

研究以外の成分のほぼ全てが『そう』なのだ。



 仮に奇跡が起こってその悪ふざけの部分を排除できたとしても、その時点でリスティはリ

スティでなくなってしまう。 悪ふざけする部分まで含めて彼女なのだ。それを人間性の一

つとして捉えさせてしまう時点でリスティの術中に嵌っているのだろうが、管理局で自分の

能力を生かし、滞りなく仕事が出来ているのは間違いなくリスティの尽力のおかげである。



 科学者としての名誉だとか、行動に多少の打算があることも疑いようはないが、そのこと

自体に恭也は素直に感謝をしていたし、リスティという人間のことが恭也は嫌いではなかっ

た。



「あ、おはよう、恭也」



 先に出勤していた美由希が立ち上がり、自分のためにお茶を入れてくれた。海鳴から持ち

込んだ渋めの緑茶であるが、その渋さから仲間には大いに不評な一品である。



 特共研は非常にオープンな環境で、どこのオフィスに行ってもお茶が楽しめるというのが

『売り』の一つである。オフィス間でも頻繁に職員が持ち込んだお茶やお茶菓子の遣り取り

が行われているのだが、そんな特共研の中にあっても、この緑茶は恭也のオフィスでしか味

わうことが出来い。



 そんな環境にあっても、誰もトレードを希望しない……それほどに不評なのである。



「リスティのところに顔出してたみたいだけど、何かあったの?」



 自分の湯のみから緑茶を――自分の物と同じ銘柄、大体同じ濃度だ。美由希は特共研の中

ではほぼ唯一の緑茶同好の士である――啜りながら、美由希が問うてくる。



「俺とお前で、特共研専属で雇うことになる新人の審査をすることになった」

「へぇ、あ、おせんべい食べる?」

「頂こう。さらに先方は奇特なことに俺の部下になることを希望しているらしい。審査の人

選に関してはそういう配慮がある。審査の日程は先方の都合に合わせて決めることになるか

ら、決まり次第、お前にも伝える」

「了解。でも、ついにかぁ……ここまで長かったよね」

「……何が言いたい?」

「いや、だって新人ってすずかでしょ?」

「頭のネジでも緩んだのか? 唐突に何を言い出すんだお前は……」

「え、やだ、もしかして違う?」

「違わないが、お前に先回りされるのはあまり面白くない」



 憮然とする恭也に対して、美由希は笑みを深くする。恭也の先回りをしたという事実が単

純に嬉しいのだろう。デコピンを見舞おうと思ったが、美由希は既にデコピンの届く範囲か

ら退避していた。



 付き合いもそれなりの長さになるが、流石にどういう時に反撃が来るのかを学習したよう

だった。舌打ちをつき、緑茶を啜る。



「すずかが管理局入りを希望していることを、お前は知ってたのか?」

「知ってたというよりは気づいてたって感じかな。すずかから管理局がどうこうって話を聞

いたことは一度もないよ」

「それで良く気づくものだな」

「恭也は時々、病気なんじゃないかって思うくらい鈍いことがあるよね……同じ条件で気づ

かないのは、多分恭也だけだと思うよ」

「流石にそこまでは……」



 ないとは言い切れない。恭也・テスタロッサガ鈍いと主張するのは何も美由希一人ではな

いのだ。口にする回数が最も多いのは確かに美由希だったが、恭也の周囲にいる女性は皆、

多かれ少なかれ似たようなことを言ってくる。



 だから自分は鈍いのだ、という事には不本意ながら気づかされて久しいが、どの程度鈍い

のかということでは、周囲と恭也の認識に大きな差が存在するため、結論を出すには至って

いない。周囲の――特に美由希やリスティなどは口を揃えて『お前の鈍さは深刻だ』と言う

のだが、恭也自身はそこまでではないと思っている……



「あ、でもさ」



 自分がそれなりに聡いことを証明しようと口を開いた矢先、美由希が思い出したように声

を挙げた。



「すずかが管理局に入ったら、アリサが海鳴で一人になっちゃうよね」

「本人もそれに思い至ったらしくてな、すずかと同様、管理局入りを希望してきた。両親を

説得するために必要だから、そのための人員を寄越せとまで言って来ている」

「個人向けの就職説明会って感じだね。そういうことだったら人事の担当だろうけど、管理

局の人事って、そういう活動ってしてくれるの?」



 美由希の疑問も、尤もな話だった。



 管理世界において、時空管理局というのは最大規模の組織である。無論、新人を獲得する

ための説明会などは次元世界の方々で行っているが、個人のために人員を割いたという話は

恭也も聞いたことがない。



 なのはのような高位の魔導師が野にいるというのなら話は別だが、魔法に限って言えばア

リサは完全な素人である。普通ならば人事が動くということはありえない。彼らだって他に

も沢山仕事を抱えているのだ。話を持っていっても、門前払いがオチだろう。



 だが、管理局において人事は運用部に属しており、本局運用部のトップはレティ・ロウラ

ンである。本局の魔女とも紫紺の女帝とも言われる彼女は特に、人材に関して優秀さを求め

ることで知られている。



 それが管理外世界であっても、魔導師でなくとも、そこに優秀な人材がいると耳打ちすれ

ば、世界の果てへでも獲得のための人員を回してくれるだろう。



「解らんが、してくれるように頼んでは見るつもりだ。確実とは言えないが、おそらく大丈

夫だろうと思う」

「なら、アリサの管理局入りも決定だね。普通に試験受けるなら、アリサなら合格するだろ

うし」



 魔法使いとしての才はなく、運動能力も特筆するほどではないが、頭の回転さと知識の豊

富さは、フェイト達五人の中でアリサは群を抜いている。異世界の試験と言えども、アリサ

ならば容易く突破することが出来るだろう。



 とは言え、目下の問題はすずかのことだった。



「審査では実際にお前にすずかと戦ってもらいたいのだが、構わないか?」

「私は別に構わないけど、恭也はいいの? すずかと戦うの、楽しみじゃない?」

「楽しみでないと言えば嘘になるが……」



 答える恭也の表情は、どうにも暗い。



 戦いたくないと言えば嘘になる。すずかの成長には目を見張る物があったし、強い者と戦

いたいというのは剣士の本能だ。すずかがどれほどの力を身につけたのか、興味がないはず

がない。



 だが、本能や興味に勝る形で、すずかと戦ってはいけないという思いが、恭也の中には存

在していた。神聖不可侵であるべき存在、とでも言えばいいのか、すずかに対して武器を取

ることが、度し難い禁忌のように思えるのである。



 性格はともかくとして、今のすずかは大人しく他人に守られているような力量ではない。

大抵の危機ならば独力で、しかも難なく切り抜けることが出来るのだろうが、それでも、月

村すずかという少女は、守るべき対象なのだ。



 その感情は、恭也の中でも上手く形を保っていない。故に他人に説明することも不可能だ

ったが、美由希は美由希で恭也がすずかと戦いたくない理由というのを考えていた。



 そして、恭也の中にある物とは別の解答に行き着いたらしい。尤もらしくうんうん、と頷

くと、解ってますよ、とでも言いたげな――恭也からすれば実に腹の立つ――笑顔で歩み寄

ってきた。



「そうだよね……恭也も男の子だもんね」

「何が言いたい……」

「すずかって美人でおしとやかで、しかも巨乳だもんね。男の子はああいう『守ってあげた

くなるようなお姫様タイプ』が好きなんでしょう? 巨乳だし」

「あからさまに特定部位を強調するような――」

「巨乳?」

「――強調するような言い回しは品がないと思うのだが、どうだろう」

「恭也っておかしなところで初心だよね。リスティたちはあんなに明け透けなのに」

「朱に交われば赤くなると言うが、交わった者全てが赤くなる訳でもなかろう」

「適当に赤くなって置けばやり過ごせるのに、それが出来ないから弄られるんだよ? まぁ、

リスティたちは『それがいい』って思ってるんだろうけど」

「リスティたちを喜ばせるために、こんな性格をしてる訳じゃない」

「私も、そのままの恭也が一番良いと思うよ」



 美由希の笑みは崩れない。それがまた、恭也を疑心暗鬼にさせる。美由希が笑顔を浮かべ

ている時は、大抵何かがある時なのだ。年上風を吹かせている癖に、美由希は腹芸がまるで

得意ではない。とにかく考えていることが顔や態度に出るのである。



 最近は自然な風を装ってやけに自分に絡んでくるが、そこに何か意図することがあるのは

間違いがなかった。



 美由希がこちらを理解しているように、恭也もまた美由希を理解している。美由希が含ん

でいるものが自分にとって、彼女自身が思っているほど大したことではないことだけは解る

のだが、それ以上具体的なことはまるで解らない。



 気が利かないだの、壊滅的に察しが悪いだの、常日頃から自分の性質に対して文句を言っ

ているのは、美由希自身なのだ。何かしてほしいことがあったら口に出して言うというのは

習慣のようなもので、つまり何も言い出さないということは、特にしてほしいことがある訳

ではないということ。それくらいは、恭也にも察せられる。



 してほしくはないが、何かを期待されている。まるで禅問答のような問いかけだったが、

美由希に苛立った様子は全く見られない。むしろ、今の状況を楽しんでいる節すらある。



 恭也にとってはそれが不気味でならなかったが、問題が起こっていない以上、自分から突

付いてみるというのも馬鹿らしい。興味を見せれば、それこそ美由希は得意な顔をして一か

ら十まで語りつくすことだろう。それでは面白くない。



 解決手段が見えない以上、会話に関する技術をまるで持たない恭也としては、問題を放置

するしか手段がなかった。にやにや笑う美由希にデコピン乱舞を見舞いたいという衝動を何

とか抑えながら、強引に話を戻す。



「とにかく、お前にはすずかと戦ってもらいたい。ある程度力量は見極めねばならんから丸

きり手加減をする必要はないが、全力を出して怪我をさせるなどということはあってはなら

ないからな。かすり傷でも負わせてみろ。向こう一年は月給1リリカルで過ごしてもらうぞ」

「1リリカルじゃ自動販売機でジュースも買えないよ恭也……」

「そうならないように努力してくれ。俺が簀巻きにされて海に沈められるかどうかは、お前

の腕にかかってるからな」

「アリサとそんな約束でもしたの?」

「した訳ではないが、アリサならばそれくらいはすると俺は確信している」

「アリサもそこまで鬼じゃないと思うけど」

「いや、彼女は絶対にやる。何もしてなくても蹴飛ばされるのは日常だからな。すずかに傷

をつけたとあっては、俺の命などいくらあっても足りん」

「恭也がすずかに『傷を付けた』のなら、そりゃあアリサも怒ると思うけど……」

「……俺の未来とお前の懐がかかっている。適度に慎重に行くぞ」



 美由希の冗句を無視して、椅子に腰を降ろす。湯のみに手を伸ばす直前に、美由希が新し

くお茶を注ぐ。実に気の利いた所作だった。湯気を立てる湯のみを見つめながら、恭也はぽ

つりと呟く。



「美由希のくせに生意気な……」

「これでもお姉さんですから?」



 ふふんと胸を張る美由希の額に、消しゴムを打ち込む。こちらが椅子に座ったから攻撃は

もうないと油断していたのだろう。明らかに警戒を緩めた美由希はとにかく隙だらけだった。



 額を押さえて蹲る美由希を横目に、美由希の入れた緑茶を啜る。やはり、自分が淹れた物

よりも遥かに美味い……それが忌々しくはあったが、礼くらいは言わねばならない。



「美味いな……」



 得意そうな顔をして立ち上がった美由希の額に、今度は二周り大きな消しゴムを撃ち込む。

ひっくり返る美由希を横目に見ながら、恭也は緑茶を啜った。