1、

「どーもはじめまして。本局運用部人事課課長補佐、ナナカ・マルグリット一尉です」


 どうぞよろしく、と人好きのする笑顔と共に差し出された手を、恭也ははぁ、と気のない

呻き声と共に握り返した。隣ではアリサが唖然とした表情を浮かべている。



 唖然とする気持ちは解らないでもなかったが、初対面の人間を前にしてその顔はどうかと

思う。流石に注意絵せねばなるまいと思ったところ、いきなりアリサに腕を取られ、近くの

物陰に連れ込まれた。



 往来のある駅前で、急に物陰に駆け込む若い男女二人……傍から見たらバカなカップルに

でも見えるのだろう。通行人が微妙な表情を浮かべながら――特にご年配の方々は世も末だ

とばかりの苦々しい顔をして通り過ぎて行くが、幸運にもアリサはそれに気づいていないよ

うだった。



(気づいていたら、この手で俺を容赦なく殴るのだろうな……)



 襟を締上げるアリサの手を見ながら、詮無いことを考える。怒った顔がよく似合うのが玉

に瑕だが、アリサは目の覚めるような美人だ。この手の早ささえなければさぞかしモテるの

だろうと思うが、すずかに聞く限りどこでも気の強さは相変わらずのようで、アリサに近付

いてくるようなチャレンジャーは女子高に進学したのを期に片手で数えられる程度しか現れ

ていないとのこと。



 その数名の勇気あるチャレンジャーも全てアリサの拳によって精神的物理的に玉砕してい

るという。すずかの話では砕かれたのはロクデナシばかりだったらしいが、そろそろ高校も

卒業しようかという年齢になって異性と付き合ったこともないというのは、近頃の学生とし

ては寂しい物があるのではないだろうか。



 尤も、恭也とて学生時代に異性と交際したことはないし、今もそういう特定の相手はいな

い。学生だったのも今は昔。現役女子高生に偉そうなことを言えた義理ではないが、好きな

相手でも出来ればアリサの手も少しは遅くなるかもと思うと、現在のアリサの『被害者』を

代表して、彼女の恋を応援せざるを得ないのだった。



「その顔は、あたしに不都合なことを考えている顔ね」

「良く解りますね。俺はポーカーフェイスに自信があるのですが」

「本当のポーカーフェイスってのはもっと優雅なものよ。あんたのそれは表情を顔に出さな

いようにしてるだけ。意識的にだか無意識的にだか知らないけどね。それにあんた、自分で

思ってるほど無表情じゃないんだから、何か隠し事したいんだったらもう少し他の方法を考

えないよ駄目よ?」

「そんなに顔に出ていますか?」

「辛うじてね。あたしは鋭いから解るし、すずかもある程度は解るって。付き合いの長いフ

ェイトやアルフは当然あたしたちよりも分かってるはずよ」

「俺の知らぬ間に世の中そういうことになっていたのですか」

「まぁ、あんたの人生なんだからあたしの知ったことじゃないけど。それより、あれよ、あ

の人。あの人はなに!?」



 あの人、と自分の身体で隠しながら、アリサは背後のナナカを親指で示す。その指先を追

ってナナカを見てしまいそうになり、恭也は慌てて視線を逸らした。



 考えていることが顔に出る、と忠告されたばかりだ。初対面の人間に考えを見透かされる

ほど顔に出やすいとは思わないが、注意するに越したことはない。胡散臭いと思っているこ

とがバレたら、いくら相手が出来た人間でも関係が拗れてしまう。



「本人は運用部人事課課長補佐のナナカ・マルグリッド一尉と仰ってましたが……」

「役職も名前も階級もどうでもいいの。問題なのはあの人の見た目! バリバリのキャリア

ウーマンが来るってあんたが言うからパパとママにもそんな風に説明したのに、どうしてく

れんのよ!」

「それに関しては俺の関知しないところで何かが起こったとしか……」



 首をぶんぶんと振られながら抗議しても、事実は変わらない。



 本来は……少なくとも恭也が理解していたところでは、今日のアリサの『試験』のために

はレティが来ることになっていたのだ。管理局という組織を事務方から説明するに当たって

これ以上の人材はいない。レティに会ったことのないアリサには、そういう人がくるからと

レティのことを端的に説明した。



 だが、約束の時間に現れたのはレティではなく、アリサの向こうで暇そうに佇んでいる女

性だった。

 

 運用部所属なのだからレティの部下であるのは間違いない。課長補佐という役職から仕事

が出来るのも理解できる。一尉という階級も、まだ曹長の自分から見れば大分上の人間だ。

本来ならば文句を言えるような立場に恭也はないが、レティが来ると思っていた身には肩透

かしも良いところだった。



 思わず天を仰ぎたくなるのを堪えながら、揺さぶりつかれたらしいアリサの手を解く。



「いいですか、アリサ。確かにあちらの方はマメダヌキみたいな容姿をしてらっしゃいます

が――」

「あたし、そこまで言ってないわよ? 就職活動中の大学生みたい、って思っただけだもの」

「それも大概に酷いと思いますが……それはさておき、今回の件はロウラン閣下に話を通し

ました。その上で彼女が現れたというのなら、彼女は今回の件に関して非常に有用な人材と

言うことになります。ロウラン閣下は人格的に問題が散見される方ですが、仕事に関しては

一切の妥協をしない方です。まずはその点に関しては安心することにしましょう、お互いに」

「でも、説明と違うってパパもママも思うわよ?」

「それに関しては……諦めましょう。俺もこのサプライズは知りませんでした。これによっ

て何か不都合が生じた場合、俺が全面的に責任を持つことにしますので。煮るなり焼くなり

お好きなように」

「嫌よ、あんたなんて食べるの。煮ても焼いても美味しそうにないじゃない」

「俺も自分の肉を食べたことはありませんので、調理方法に関してはお任せします。さて…

…いい加減に戻りましょう。ここで押し問答をしていても、何も解決しません」

「作戦会議は終わりましたか?」



 気づけばアリサの背後にまでナナカが近寄っていた。その声に驚いたアリサが慌てて飛び

のき、恭也の背に隠れるように移動する。



「あー、まずお聞きしたいのですが、ロウラン閣下は何処に?」

「ロウランは本局で仕事中ですよ。それがどうかしました?」

「……俺はロウラン閣下がお越しになると、本人からそう聞いていたのですがご存知ありま

せんか?」



 恭也の物言いに、ナナカは軽く眉を顰めてサインフレームを……出現させることを直前で

止め、懐から紙の手帳を取り出し、物凄い速度でページを捲る。



 そして、信じられないくらいに書き込みのされたページの一部を、こちらに向かって突き

出した。ご丁寧に、下に赤ペンで線まで引かれている。



「貴方がロウランに要請をしてからすぐ、直接ロウランから指示を受けました。今回の仕事

は最初から私が担当することになってますよ」

「では、俺は……」

「騙されたってことでしょうねー。そういうところのある人ですから」



 軽い調子のナナカの声とは逆に、恭也は思い切り肩を落とした。この様子をレティが隠れ

て見ている可能性もないではないが、観察はしていてもこの場に来ている可能性は限りなく

ゼロに近い。



 ナナカの話を信じるならレティは今現在本局で仕事をしている。今から来るように頼んで

直ぐに移動を始めてくれたとしても、アリサの両親との約束の時間には絶対に間に合わない。



 つまり、今日の『試験』はナナカで行くしかないということが、この時点で確定した。



 ちらり、とナナカに視線をやる。



 管理局の制服はこの世界では目立つからということで普通のスーツを着ているのだが、こ

れがまた着慣れていない感がひしひしと伝わってくる。



 整った容姿をしているとは思うが、結構な童顔だ。身長は決して低くないのに、これでは

実年齢よりも低く見られることが多くあるだろう。年齢は今の自分と大差ないだろうが――

前後三歳よりも離れていることはないはずである――管理世界は就業年齢が低いために、こ

れくらいの年齢でも十年選手はざらである。



 レティから直接指示されたのなら、ナナカは彼女に『この仕事を達成できる』だけの能力

があると太鼓判を押されている。先にも言ったが、レティは仕事に関しては一切妥協をしな

い女性だ。今回の仕事は達成できる、それは問題がない。



 ただ、過程まではレティは保障してくれない。しかも今回は自分が関わらないだけあって、

より設定に凝った気配があった。自分で行くと言っておいて眼前の女性を寄越したのでは、

皆肩透かしになることが分かっていたはずなのだが。



 女性として恵まれたスタイルをしているレティとそうではないナナカでは、持っている戦

力差が圧倒的だった。レティは何もしなくても他者を引き込むような力があるのだが、ナナ

カにはそれが……ないとまでは言わないが、レティと比較するとないに等しい。



「大丈夫ですよ。私もきちんとこの日のために準備してきましたから。そりゃあ、ロウラン

には及びませんんが、お役に立てることは、約束します」

「いえ、貴女の力量を疑っている訳ではないのですが……」



 嘘は言っていない。肩透かしを食らっただけで、レティが派遣してくれたというだけでナ

ナカの力量は信頼するに値する。隣にいるアリサを説得することと、アリサから話を通され

ているはずのアリサの両親も自分と同じくらい肩透かしを食らうだろうことが問題ではある

が、それさえ目をつぶることが出来るなら、ナナカはこの上ない戦力だった。



 大体にして、ナナカの助力も得ることが出来なかったら、恭也自身がプレゼンをするしか

なかったのだから、派遣してもらえるだけ有り難いと思うべきなのだろう。



 気持ちを落ち着けるために深呼吸をして、頭を振る。



「失礼しました。お互いの理解に行き違いがあったようですが、その原因追求は後にしまし

ょう。マルグリット一尉、今日はよろしくお願いします」

「もっとざっくばらんに行きましょう。ロウラン――あー、もう別にこういう言い方しなく

てもいいかな、うちの部長とも軽い調子で話してるんでしょう?」

「……さて、何のことやら」



 レティとの関係は恭也としてはあまり公にしたいものではない。



 しかし、証拠隠滅などを積極的に行っている訳ではないから、そういう噂までを消去する

ことはできていなかった。耳の早い連中は誰それがロウラン部長閣下の毒牙にかかったか、

それとなく察している節がある。



 加えてナナカは運用部の所属で、レティの信任厚い部下だ。噂好きのただの局員よりも詳

細な情報を掴んでいる可能性も否定できない。



 だが、アリサは管理局の事情――特に人間関係、派閥構成などにはまるで知識がない。採

用が決まれば高確率でレティの部下になるのだろうから、いずれは知られることなのかもし

れないが、それが今である必要はないだろう。



 恭也はさりげなく移動し、アリサの視線からナナカの顔を隠すと、口に人差し指を当て

て『黙っていろ』という仕草をした。ナナカは目を瞬かせて不思議そうな表情を浮かべた

が、居心地の悪そうな恭也と背後のアリサを見比べて、あぁ、と息を漏らした。



「武勇伝みたいにして語る人もいるんですけどねぇ」

「恥部とは申しません。いや、言わないが、吹聴して回ることでもないというのが俺の考

えだ。出来れば、そちらも同じように行動してくれると嬉しいが」

「努力はしますよ。さて……改めてはじめまして。私はナナカ・マルグリット一尉――貴

女はまだ局員じゃないから、一等海尉って言わないと駄目なんだけどね……まぁ、こっち

の恭也……」



 自己紹介の途中でナナカは肩越しに振り返る。



「恭也って呼んでもいいですか?」

「構わんよ。俺も適当に呼ばせてもらう」

「適当は嫌ですねぇ……何か良いあだ名とかあるならそれでも良いですけど」

「マルグリットだからマールとでもするか?」



 えー、とアリサから否定的な声が漏れたが、ナナカはそれを気に入ったようだった。胸の

前で手を大きく打ち鳴らして、表情を輝かせる。



「あ、いいですね、それ。今まで一回も呼ばれたことないから、ちょっと新鮮です」

「…………話を戻しても宜しいですか? マールさん」

「ん、ごめんなさい。そっちの恭也の紹介で今日は来ました。部長に比べると数段頼りない

と思うけど、頑張るのでよろしく」



 人好きのしそうな笑みを浮かべて、ナナカは手を差し出す。



 なるほど、立ち振る舞いによって敵を作らない、ということに関してはレティよりも上か

もしれない。人懐っこいこの雰囲気は、大抵の人間には受け入れられることだろう。期待を

裏切られた出会いでなければ、手を握り返すアリサが微妙な表情をすることもなかったろう

が……



「じゃあ、行きましょうか。案内、よろしくお願いします」



 微笑むナナカの表情は、やはりどこか頼りなさを感じるのだった。







 

 











2、


 バニングスという姓を知らぬ者は、海鳴には存在しない。当主はデイビット・バニングス、

妻はジュリア・バニングス。アリサはその二人の一人娘で、物心ついた時から海鳴で暮らし


ていた。


 本社ビルは海鳴外にあるが、海鳴に住んでいる人間の中にはバニングスの企業で働いてい

る人間も多く、小学生の頃、なのはやすずかを連れまわして歩いていたアリサは、その気質

に反して街の人々からお嬢様と親しまれていた。



 ナナカと待ち合わせていた海鳴駅でも、すれ違う人間の中にはアリサに対して頭を下げた

り、親しげに話しかけてくる人間もいたほどだった。普通の高校生ならばそれで恐縮するの

だろうが、アリサはそれらを時には笑顔も交えて、そつなく対応していた。



 その堂々とした態度は、場所を移しても変わらなかった。



 自分とナナカを従えて、父親、デイビット・バニングスの経営する会社の本社ビルに足を

踏み入れたアリサは、まるで騎士を引き連れた女王の風情だった。格好こそ高校の制服であ

るのに、きっちりとしたスーツに身を固めた周囲の人間が、一斉にアリサに注目する。



 それがトップの一人娘であると分かると、誰もが進んで道を開けた。中には最敬礼するも

のまでいる。これにはお供をしているナナカの方が目を丸くしていたが、アリサに動じた様

子はまるでない。



 おそらくこれが、アリサにとっての普通なのだろう。自分がこの立場に置かれたとしたら

三日と持たずに嫌になるだろうことを思うと、アリサの精神力というか肝の太さには頭の下

がる思いだった。



「アリサ・バニングスです。アポは取ってあります。社長に取り次いでもらえますでしょう

か」



 大分年上であろう受付の女性に、怯みもせずにアリサは話しかける。その女性もアリサの

顔を知っていたのだろう、特に不審に思うこともせずに対応する。



 その受付の女性の視線がアリサの両隣にいるナナカと自分に向いた。ナナカを問題なく素

通りした女性の視線が、自分のところでぴたりと止まる。じっと見つめる視線の中には、不

審と警戒の色があった。



 表情には出さずに、自分の今の格好を思い出す。



 ナナカに同じくこの世界では管理局の制服や、ましてや戦闘服は目立って仕方がないため

この世界のスーツを着用している。恭也自身はスーツならば何でも良かったのだが、仕事に

行くのにそれでは舐められるとフェイトに駄目だしをされた結果、彼女とたまたま暇だった

シグナムのセンスで選ばれたのが、今日の一張羅だった。



 黒いジャケットに黒いスラックス黒いシャツ、それに加えて無地の真っ赤なネクタイ。お

まけとばかりにフレームのない駄目メガネまで渡されていたが、それは待ち合わせの場所に

現れたアリサのに『せめて眼鏡だけは外しなさい』という言葉によって外されていた(ちな

みにその眼鏡はアリサに没収されてしまった)。



 可笑しな取り合わせということはないと思う。実用一点張りの自分と違い、フェイトやシ

グナムはそれなりに身なりに気を使う。彼女らのセンスが一般とは乖離しているという可能

性もないではないが、自分一人のコーディネイトよりは遥かにマシなのだろうから、恭也に

それを深く詮索する資格はなかった。



 何より、服屋で今日の服に身を包んだ鏡に映った姿を見て、ゴーサインを出したのは自分

なのだから、文句も何もあったものではない。



 ちなみに、いそいそと眼鏡をハンドバッグに仕舞うアリサに今日の服はどうだろうかと、

初デートに挑んだ女子学生のような質問をぶつけてみたところ、即断即決の彼女にしては珍

しく判断に迷ったような顔で、



『マフィアのボディーガードみたいで頼もしいんじゃないかしら』



 と返された。



 貶されてはいないのだろうが、褒められたような気もしないかった。



 ともかく、当初フェイトが唱えていた『相手に舐められない』という目的は達成出来そう

だったからそれで良しとすることにした。受付嬢の不審と警戒の視線も鉄の意志を持ってや

り過ごす。



 受付嬢は尚も恭也を不審そうに眺めたが、社長令嬢であるアリサがその不審な男を伴い、

彼女自身が何も言わないのならば通しても問題のない人物なのだろう、と判断したらしい。

見ていて惚れ惚れするくらいの営業スマイルに切り替えると、



「承っております。バニングス社長は最上階の社長室でお待ちです」

「ありがとう」



 アリサは受付嬢に負けないほどの余所行きの笑顔で微笑むと、供を連れてエレベーターホ

ールに向かう。彼女の来訪を待っていたようにエレベーターが到着し、中からぞろぞろとス

ーツ姿の社員が出てくるが、彼らはアリサの姿を認めると一様に飛び退るようにして道を譲

った。



 まずアリサを通し、次がナナカ。男の義務として最後にエレベーターに乗り、表示板の前

に立つ。自分達と同じようにエレベーターを待っていた人間もいたが、彼らに動く気配はな

い。『乗らないのか?』と片眉をあげて彼らに問うと、彼らはぶんぶんと首を横に振って応

えた。



 行き過ぎた感のある配慮に会釈を返し、『閉』のボタンを押す。ゆっくりとドアが閉じる

と、緩やかな沈黙がエレベーターの室内を支配した。



「話には聞いてましたけど、アリサさん、お嬢様だったんですねー」

「パパが偉いってだけよ。私は別に何もしてないわ」

「何もしてないでアレは、説明がつかないでしょう。アリサのことです、何か彼らに力を示

すようなことをしたのではありませんか?」

「……まぁ、してないこともないけど……」



 『照れ』と『怒り』の中間くらいの顔で、アリサはそっぽを向いてしまった。少女染みた

その態度が可笑しかったのか、ナナカかくすり、と微笑を漏らしたが、取って返したアリサ

の射るような視線で慌てて居住いを正した。



「それにしても恭也、見た時から思ってましたけど、その格好は凄いですね!」



 話題の転換にしては脈絡がなかったが、ここで突き放してはアリサの視線に耐え続けるこ

とになる。こちらを見るナナカの表情は必死だった。



「凄いと言うと方向性があまり限定されませんが……似合いませんか?」

「似合ってますよ? それは断言します。部長の護衛とかが似合いそうですよね。煙草とか

差し出したりしたら様になるんじゃないかな」

「……レティは煙草を吸えませんよ」



 本当は吸えないこともないが好んで吸わないだけ……薦められれば吸うこともあるのだが、

知っている人間はそう多くはないと本人から聞いている。リンディと、自分と、その他数人

と言ったところだろう。



 自分の言葉に、ナナカはうんうん、と頷いている――つまりは知らないということだ。ど

の程度ならば知っているのか、興味が沸かないこともないが、それをここでナナカに確認す

るのは自殺行為もいいところだ。



「ちなみに恭也は煙草吸うんですか?」

「吸いません。ちなみに酒も自分では嗜む程度です」

「へー、ちょっと意外です。部長や総務部長さんと結構飲みに行くーとか聞いたので、てっ

きり大酒飲みなのかと。総務部長も随分な飲兵衛だって聞きますよ?」

「あの二人に合わせて飲んでいたら、全員纏めて前後不覚になりかねませんからね……立場

は比べるまでもなく俺が一番下っ端ですから、セーブするのは俺の役割なのですよ」

「へぇ……ところでマールさん。私は貴女の部長さんのお顔を拝見したことはないんだけど、

美人なのかしら」

「それはもう。方々にファンがいますよ。女の目から見ても凄く綺麗な人で、今でも頻繁に

男の人に誘われてます。まぁ、好みが激しいのか滅多に誘いに乗りませんけどね。ちなみに

バツイチで息子さんがいらっしゃいますが、今は一人身です」

「そう……つまり、そちらのテスタロッサさんはそんな身持ちの固い独身女性に飲みに誘わ

れる程気に入らているってこと? 聞いた話だど、酔いつぶれた時の介抱役まで受け持って

るようですし? 今後の参考に詳しい話を伺いたいのですけれど?」

「……ついたようですね、どうぞ、二人とも」



 殺気を具現化しかねないアリサに対し、あくまで無表情に徹して対応する。言いたいこと

は山ほどあるといった顔だが、ここで問い詰めることを状況は許してくれない。一度ギロリ、

とこちらを一睨みすると、アリサは足音も高くエレベーターを出た。



 すれ違い様に、思い切り爪先を踏み抜かれる。



 仕事がら安全靴を履くこともあるが、間の悪いことに今日は普通の革靴を履いていた。躊

躇いなく振り下ろされたアリサの足の破壊力は、そのほとんどが軽減されずに伝播する。飛

びあがったり声を挙げたりすることはどうにか避けたが、どれだけ鍛えても痛いものは痛い。



 当然我慢できないほどではなかったが、目の端に僅かに涙が浮かぶのは止めることが出来

なかった。



「モテる男は辛いですねぇ……」

「貴女の話題転換のせいでとんでもない目に合った」

「ははは、埋め合わせは今度ということで」



 ナナカを促し、恭也が最後にエレベーターを出る。



 毛足の長い絨毯に覆われた、明らかに重要人物がいるであろうことを予感させるフロアで

ある。エレベーターを出て直ぐのところにさらにカウンターが備え付けられており、そこに

も下階同様、受付嬢が――この場合は、秘書とでも呼ぶのだろう――が存在していた。



「アリサ・バニングスです。社長に取り次ぎ願います」

「承っております。どうぞ」



 一礼した秘書の女性がドアを開ける。スタスタと歩くアリサに続き、右手後方に恭也、左

手にナナカといった配置で、室内――社長室に。



 おそらくこのビルで最も素晴らしい眺望を誇る部屋なのだろう。窓から見える景色に、恭

也の口から思わず溜息が漏れる。横目で見ると、ナナカも同じように呆然としていた。自分

よりもこういう景色を見慣れているはずだったが、美しいものは美しいと感じるらしい。



「お待ちしてました」



 低い男性の声に、現実との僅かな乖離から引き戻される。



 自分達の正面に立った声の主は、まるでハリウッドの俳優のように一礼する。軽く頭を下

げただけなのに、その仕草がやけに様になる男性だった。



「アリサの父、デイビット・バニングスです。こちらが妻のジュリア。今日は私達家族のた

めにご足労いただき、感謝しています」



 流麗な日本語とにこやかな笑顔で手を差し伸べてくる。



 恭也自身、それほど低い身長をしているつもりはなかったが、眼前の男性はその恭也から

見上げる程に大きい。アリサと同じブルネットの髪をオールバックにし、口周りには髭。切

れ長の目は覇気に満ち溢れており、気の弱い人間ならば見ただけで卒倒させそうな迫力があ

った。



 存在感の塊のような男である。アリサも人を惹きつけるオーラのようなものを持っている

が、デイビットのこれと比べると霞んでしまう。



 武道をやっている気配もないではない。少なくとも何もやっていないということはないだ

ろうが、その腕は自分はもちろん、ナナカと比べても数段劣る。明らかに守られる立場の人

間であるはずなのに、眼前の男性を敵に回すのは不味いと感性が告げていた。



 自然と、握手をする手にも力が篭る。



「……申し送れました。恭也・テスタロッサと申します。お嬢さんには、妹共々お世話にな

っております」

「なに、気の強い娘で苦労しているとは思うが、これからも仲良くしてやってくれると父と

して嬉しいね」

「もう、パパったら!」



 アリサがむくれて見せると、バニングス夫妻から苦笑が漏れる。



「はじめまして、ミスタ・バニングス。時空管理局『本局』、運用部人事課課長補佐、ナナ

カ・マルグリット一等海尉です」

「ご丁寧に。あー、失礼だが、一等海尉というのはどれくらいの階級なのかな」

「大尉(レフテナント)です、ミスタ・バニングス」

「ほう……まだお若いのに中々のものだ」

「管理世界は就労年齢がこの世界よりも低いのですよ。私は入局して八年になりますが、同

期の中には私よりも年下の人間は大勢いました」

「実に興味深い価値観です。今日はよろしければ、その辺りもお話願いたいものですな」

「ええ、もちろん。ミスタにご満足していただけるよう、全力を尽くします」

「ところで、アリサの話ではもっと魅力的な……失礼、年長の方がみえると伺っていたので

すが」

「それに関しては謝罪いたします。どうも情報に行き違いがあったようで……ですがご安心

を。ご期待以上のものを私が提供いたします」

「貴女の話を聞くのが、どんどん楽しみになってきましたよ」



 先ほどまでの緩い雰囲気からは想像もできない、あくまで強気の物言いのナナカに、デイ

ビットも苦笑と微笑の中間のような笑みを浮かべて握手を求める。



 デイビットの存在感にも物怖じした様子はない。見た目からは想像できない程、肝は据わ

っているらしい。あのレティが自信を持って送りだした理由が、少しだけ解ったような気も

した。



 デイビットに促されるままに、アリサがソファに座る。それと相対するようにデイビット

とジュリアがその向かいのソファに。着席した三人から見やすいように適度な距離を保って、

ナナカが社長室の空いたスペースに立った。



 恭也もデイビットに座るように促されたが、丁重に辞退する。ナナカの振る舞いには興味

があったし出来ることなら聞く立場でいたいものだが、アリサに今日の『試験』を仲介した

という立場を忘れる訳にはいかない。



 それにすずかの時は観察していたのに、アリサの時は一緒になって話を聞き入っていたと

言うのでは、不公平というものだろう。それに誰が怒るということはないだろうが、恭也自

身の気持ちの問題でもあった。



 自分の隣の席を勧めようとしていたアリサは少しだけ不満そうな顔をしていたが、それに

気づかない振りをして、舞台上で演説する要人を警護するつもりで、ナナカから僅かに離れ

た位置に立つ。



「掃除は完了しております。盗聴も盗撮もされていません。私も妻も、今日聞いたことは公

言しないことを改めて約束しましょう」

「管理局を代表して、ミスタのご協力に感謝します」



 ナナカが指を一振りすると、その周囲にサインフレームが浮かび上がる。管理世界では見

慣れた技術だが、地球にあってはまさに未知の技術だ。自分が使うサインフレームを見たこ

とがあるアリサはともかく、初見であるバニングス夫妻は唐突に虚空に沸いた画面に目を丸

くする。



「さて、此度は管理世界の成り立ちと管理局の組織体系についてお話したいと思います。そ

れから管理世界で行っている基本的な就職説明に入りまして、質疑応答の時間を設けます。

疑問にはお答えできる範囲で全てお答えいたしますので、どうぞお気軽に」


















































3、



 お気軽になどと大見得を切っただけあって、ナナカの説明は堂に入っていた。序盤の管理

世界の成り立ちや管理局の組織体系などは完全に頭に入っているようで、アンチョコを見る

ようなこともしていない。



 就職説明の時も同様だ。内容に限らず、人を前にしての堂々とした発表行為など絶対に出

来ないことであるので、恭也は素直に感心する。



 同じ感想をバニングス一家も抱いていたようで、特にデイビットなど説明が進むに従って

野獣の笑みを浮かべるようになっていた。悪巧みをしている時のリスティのようなその表情

の通り、質疑応答の時間になると矢継ぎ早にナナカを質問攻めにした。



 中にはそんなことまで……と隣で黙って話を聞いていたジュリアが思わず苦笑を浮かべる

ような、実に子供じみた内容にまで質問は及んだのだが、ナナカはどんな質問が来てもそれ

に淀みなく答えていた。



 結局、最後までアンチョコを一度も見ることのないまま、ナナカのプレゼンは終了した。

ご清聴ありがとうございました、と一礼するナナカにバニングス一家の惜しみのない拍手が

贈られる。



「素晴らしいプレゼンでした。ところで幾らなら貴女を管理局から引き抜けるのです? 欲

しい給料を言ってくれればそれを払う用意が私にはあるのですが……」

「勿体無いお言葉ですが、骨を埋める覚悟で管理局に入局しましたので」



 冗談めかした口調で答えデイビットの手を握り返したナナカがちらり、とこちらを見る。

『どうだ!』と言わんばかりのその表情に僅かに気を入れた拍手を返すと、子供のような微

笑みを浮かべて得意がってみせた。



 これがレティならば『当然だ』とでも返しただろう。レティは自分の仕事を他人に誇ると

いうようなことをあまりしない。彼女にとっては出来て当然なのだ。最初にレティに会った

時は管理局の事務方は彼女のようなタイプばかりなのかと危惧したものだが、ナナカのよう

に純粋に成功を他人に誇れるような感性を持った人間が、運用部上層にもいるのだと思うと

まだまだ管理局の捨てたものではないな、と安心する。



「とにかく素晴らしいプレゼンでした。これならばアリサを預けても安心でしょう。そちら

の経歴をこちらの世界の履歴書に書けないことが残念ではありますが、この世界では一生か

かっても出来ない経験が、管理局では出来そうだ」

「こちらこそ、私どもも事務方とは言え中々の激務でありますので、お嬢さんのような優秀

な方に入局していただけると非常にありがたいです」

「ともあれ本日はお疲れ様でした。別室に妻がお茶を用意しましたので、そちらで寛いでく

ださい」



 ささっ、とナナカを促すと同時にデイビットは身体を恭也と、彼女の間に割り込ませてき

た。実にさりげない所作だったが、別室に移動するアリサとナナカに続こうとした恭也は、

その行動に出鼻を挫かれる。



 恭也がついてこないことに気づいたアリサが振り返り、不審そうな目を向けてきた。デイ

ビットは何も言わない……

 小さく嘆息する。何かを言うのは自分の役目らしい。



「申し訳ありません。父君と話がありますので、先に行っていてください」



 今日の主役はナナカで、アリサだ。本来ならば恭也がデイビットと話すことなどあるはず

もない。それを理解していたアリサは不審の目を恭也と父に向けたが、デイビットが笑みを

浮かべて恭也の言葉に追従したのを見るとナナカを伴い、母の後を追って別室に消えた。



 扉が閉まり、足音、気配までが遠ざかり、それからさらに数秒が経過する。



 完全に三人は戻ってこないと恭也が確信したのとほぼ同時に、デイビットは懐から葉巻を

取り出した。カッターで吸い口を切り、デスクの上にあったジッポを手に取る。火を点けた

段階でこちらに向かって確認の視線を送ってきたが、恭也は別に紫煙に嫌悪を覚える性質で

はない。



 首肯すると、デイビットは相好を崩して葉巻に火を点けた。芳醇な葉巻の香りが、部屋に

広がる。



「妻も娘も近くで吸うと嫌がるのでね……愛煙家には生き難い時代になったもんだ」

「解ります。うちも女所帯なので、男は肩身が狭い」

「お互い家のことでは苦労しているな」



 デイビットは苦笑を浮かべると、葉巻の灰を灰皿に落とす。火の点いた葉巻を手で弄びな

がら、何から話したものか、と視線を中空に彷徨わせ思案する。



「君をわざわざ呼び止めたのは他でもない、娘のアリサのことなのだ」

「お嬢さんが何か?」

「アリサは仕事しか出来ない私の娘にしては、随分と出来た娘に育ってくれた。学業も、ス

ポーツも、私や妻の学生時代などとは比べ物にならんほど結果を残している」

「成績不良だった私には、眩しすぎるほどです」

「加えて親の贔屓目を抜きにしても、実に美しい女性に成長した。白人種にしては若干ボリ

ューム不足は否めないが、それもあの娘の魅力の前には些細な問題だろう。先日うっかりバ

スルームでニアミスしたのだが、あまりの神々しさにその場で神に感謝したほどだ」

「良くぞご無事で……」



 そんなアクシデントに遭遇したら、自分ならば足腰が立たなくなるまで蹴飛ばされるだろ

う。見たところデイビットには目立った外傷はなく、足取りもしっかりとしている。見えな

い場所に深刻な怪我を負っているということもないようだ。



 だが、『あの』アリサが身内だからと言って手を緩めるとは思えない。



 それを不思議に思っていると、解っている、とばかりにデイビットが大きく頷いた。



「電光石火の勢いで繰り出されたシャンプーのボトルで頭を殴打されてね。情けないことに

一瞬で気絶してしまったよ。髪で目立たないが、今も後頭部には瘤があるのだ」

「気絶したのは幸運だったようですね」



 デイビットの防御力がもう少し高く、アリサの一撃を喰らっても意識を保っていたら、ア

リサの殴打はそれ以降も続いていたはずだ。仮にその状況にいたのが自分だったらと思うと

背筋が凍る。



 常人以上の耐久力を持っているという自信はあるが、逃げ出せず殴打され続けるしかない

状況というのは、この世の地獄でしかないだろう。その際アリサ・バニングスという美少女

が全裸であるという。世の男性垂涎状況を鑑みても、デイビットの代わりを務めたいかと言

われれば答えはNOだった。



「まぁ、娘の裸身を見れたと思えば殴られた甲斐もあったというものだが……昔は一緒に風

呂まで入った仲だとい言うのに寂しいものだ」

「女性は年頃になるとそういうものだと聞きます」



 済ました顔で答えるものの、テスタロッサ家の場合はバニングス家とは逆で、一緒に風呂

に入ることを拒否するようになったのは男性である恭也の方からだった。



 髪が長くて洗うのが大変だからという理由で押し切られ、毎日という訳ではなかったが結

構長い間フェイトと――たまにアルフもセットで――一緒に入浴していたのだが、中学に上

がるくらいでフェイトの身体が女性らしい丸みを帯びてくるに至り、道義的にそろそろ不味

いのではないか、という主旨の言葉を恭也から言い出したのだが……



 当事中学生のフェイトは、恭也の青年の主張に断固として反対した。折悪しく、リインが

一緒に暮らすようになった時期とそれが重なり、子供だからという理由で必ず風呂場に突撃

してくるリインを引き合いに出し、どうして私は駄目なのかと家族会議まで開く羽目になっ

た。



 その時は見るに見かねたアルフが味方になってくれたことで、風呂は別々に、ということ

で話がついたが、今も一緒に風呂に入るリインを羨ましそうに見ているところを見ると、何

か理由をつけて復権を狙っているようにも見える。



 いずれにしても、あの時アルフが味方になってくれていなかったら、と思うと背筋が凍る

恭也だった。



「とにもかくにも、うちのアリサは素晴らしいのだということは君も理解してくれていると

思う」

「お嬢さんは素晴らしい女性です」



 間髪を入れずに、そう答える。アリサ本人に聞かれれば気持ち悪いことを言ってるんじゃ

ないと蹴り飛ばされるのだろうが、嘘は言っていないしこの場はそう答えるのが正解だろう。



 デイビットは恭也の言葉に満足したように、深く頷いた。



「だが、懸念があるのだよ。君はアリサの浮いた話を聞いたことがあるかね?」

「寡聞にして存じ上げません」



 男関連の噂は耳にしているものの、付き合うまでに至っていない物を浮いた話とは呼ばな

いはずだ。当然、誰を好いているという話も本人は元より周囲の女性からも聞いたことはな

かった。



 デイビットが親バカなのは見ていれば分かる。浮いた話を警戒していると考えるのが自然

だったが、感じる気配はそうではないと言っていた。



「そうなのだ。私も学生の時分には多くの恋をし、多くの経験を積んだ。その経験が今の自

分を作ったのだと自負しているのだが――」

「奥方様とは学生の時に出会ったのですか?」



 疑問をそのまま口にして、恭也は後悔した。気まずそうに顔を逸らしたデイビットの顔が

その質問の答えが否であると語っていたのだ。



「妻とは大学を出て、仕事を始めてから出会った」

「悪いことを聞いたようで、申し訳ありません……」

「気にすることはない。私は妻のことを愛していることに代わりはないからね」



 葉巻を持つ手が僅かに震えている。気にすることはないと言ったその本人が、たった今の

発言を酷く後悔し、恐れているようだった。



「話の途中で済まないが、私が学生時代の話を君にしたということは、妻に黙っていてもら

えるかね。妻は聡明で美しく気立ても良いのだが……聊か嫉妬深いのだ」

「墓の下にまで持って行くことを、この場でお約束します」

「君が話の分かる男で助かった」

「理解できない話ではありませんからね……」

「……話を戻そう。とにかくアリサには、年頃だというのに浮いた話の一つもない。私が男

親だから知らないだけかとも思ったのだが、妻はもちろん使用人にもそういう話を漏らした

ことはないようなのだ。それとなく娘の友人の親御さんたちに訪ねてみたこともあるのだが、

やはり結果は同じだった」



 黙考する。アリサが易々と秘密を他人に漏らすとは思えない。気が強いのに照れ屋なとこ

ろがある彼女のことだ、特に色恋の話は彼女にとって秘中の秘だろう。親友であるはずのフ

ェイトたちに打ち明けているとも思えない。



 可能性があるとすれば秘中の秘を共有しているすずかだが、あの少女の口の堅さはアリサ

の比ではないように思う。本人に秘密にしてほしいと言われていれば、目の前にどんな餌を

ちらつかせたとしても、口を割ることはないだろう。



「そこで私は思った。アリサは、その……女性が好きなのではないかとね。娘に関して話を

聞けば聞くほど、どうにも普段から男性を遠ざけている節さえある。私はリベラルな思想を

持っているつもりだが、人並みに孫の顔を見たいとも思っているのでね。それが娘の意思な

らば尊重してやりたいと思うが、やはり普通の幸せというのを掴んで欲しいと思うのだ。君

にも分かるだろう?」

「解ります」

「ところがだ。男の気配などまるでなかったアリサが、急に男の話をするようになったのだ。

何処が駄目だ、あれが見苦しいと不満や批判ばかりだったが、その男の話をするアリサは楽

しそうでね……すずかくんや君の妹御の話をする時とはまた違った、女性としての輝きを持

っているように、私には見えたのだ」

「その男というのが――」

「そう、君だ! 恭也・テスタロッサ君!」



 渾身の力を込めた手の平が、恭也の両肩に振り下ろされる。デイビットの顔には再び野獣

のような笑みが浮かんでいる。ここが企業の社長室で彼が上品なスーツに身を包んでいなけ

れば、殺し屋とでも認識していたかもしれない、そんな笑みだった。



「アリサが初めて興味を持った男性、それが君だ。話を聞く限り、君への感情が純粋な好意

のみで構成されているとはとても思えんが、個々人の感情というのは元来不純なものだ。一

色で染め上げられた感情など不自然極まりない。そういうものは洗脳と呼ぶのだから」



 万力のように肩を締上げていた掌を離し、灰の溜まった葉巻を灰皿に押し付ける。デイビ

ットは自分の中に溜まった熱い感情を逃がすように、大きく息を吐いた。クールダウンをし

たつもりなのだろうが、その瞳にはまだ強烈な意思が宿っている。



「アリサの感情が所謂ところの好意に転換することは十分にありえる。そうなった時は……

男親としては複雑な気持ちではある。本心を言えばそうなった時、君を――失礼、君とは限

らないな。相手の男を八つ裂きにしてやりたいのだが、私は大人でアリサも分別のつく年齢

になった。恋愛くらいは娘の自由にさせてやりたい。だが! 相手が行った行為でアリサが

深く傷付いてしまった時だけは話が別だ。その時は私の持つあらゆるコネクションを駆使し

て、相手の男を社会的に抹殺しようと思っているのだ。そのことを肝に銘じておいてくれた

まえ」

「お嬢さんには誠心誠意、接することを約束します」

「私は口約束を鵜呑みにしてはいけない立場にある身だが、君のその言葉を信じよう。アリ

サのことは、くれぐれもよろしく頼む」

「管理局のスタッフは、俺などよりもよほど優秀です。お嬢さんならすぐに友好的な環境を

築けることでしょう」



 それに、この『試験』が好意的に終わった段階で、アリサの運用部入りは決定したような

ものだ。アリサの成績などのデータは既にレティの手に渡っている。彼女の権限ならば新た

に入局した人間の人事など、思いのまま。それが事務方の人間ならば尚更だ。



 レティは人格的には聊か問題があるが、仕事の面では学ぶところも多い。彼女の近くで働

くことは、アリサにとってもプラスになるだろう。レティに目をかけられるということは出

世コースに乗ったと取ることも出来る。客観的に見ても、損はしていないはずだ。



「……はぁ、肩の荷が降りたような気もするが、どっと心が重くなった気もするよ。まだま

だ子供だと思っていたが、もう二年もすればアリサもひとり立ちをするのか」

「心中お察しします」

「大いに察してくれ。君も子を持ったら――特に娘を持ったらこの気持ちが解るはずだ」



 不意に、ドアを殴打する音が響いた。控えめに表現してもノックではない。ドアの向こう

にいる人間の感情が透けて見えるくらいに、苛立ちの篭った音である。



 ナナカがこんなことをするチャレンジャーにも見えない。デイビットに視線を向けると彼

は苦々しげに首を横に振った。彼にも覚えはないということは、彼の奥方でもないだろう。

関係のない社員が社長室の扉を殴打する風習があるのでもない限りは、音の主は一人しかい

ない。



「お嬢さんが早く来いと言っているようですが……」

「羽目を外しているのかな。家ではもう少し大人しい娘なんだが……」

「ああいう自分を偽らないところは、お嬢さんの魅力でしょう。うちの妹はどうにも引っ込

み事案なところがあるので、鈍感な俺としてははっきりと物を言ってくれる方が助かります」

「フォローをしてくれるのは有り難いがね。これは君を同じ男と見込んでの愚痴なのだが、

父親としてはもう少し淑やかでいてくれると、と思うのだよ」



 解ります……と言いかけて恭也は口を噤んだ。アリサと自分の間は、厚い扉が隔てている。

声を張っている訳でもなし、会話の内容が聞えているとも思えないが万が一ということは常

にある。



 うん、と小さく咳払いをすると、恭也はデイビットを促して扉を開けた。もう一度扉を殴

打しようとしていたらしいアリサが、出てきたデイビットを認めてぱっと腕を引っ込める。



「何でパパを先に出したのよ」



 デイビットの後ろを二人して並んで歩いていると、自分にだけ聞えるような小声でアリサ

が囁いてきた。本人は声を潜めているつもりで、実際に囁くような声ではあったが前を歩く

デイビットの肩がぴくりと震えたのを恭也は見逃さなかった。



 聞えている……のだろう。



 デイビットが社会人としての分別を持っていると核心しているが、娘と男の会話を聞き流

してくれるほど寛容な性格をしているとも思えない。過度に傷つけるようなら抹殺すると宣

言されたばかりでもある。下手な切り替えしは、身の破滅を招きかねない。



「立場としては招待される側ですので、先に立って歩くのもどうかと思いまして」

「あんたのせいで私がお転婆みたいに思われちゃったじゃない!」

(何を今更――)



 と、答えれば足が飛んでくるのは目に見えていた。ない頭を捻って『気の利いた答え』と

いうのを考えてみる。



「お転婆でもアリサは魅力的ですよ」



 その言葉が口をついて出た瞬間、アリサの顔が真っ赤に染まった。ヤバイ、と思うよりも

早く、渾身の力を込めたアリサの足が恭也の脛を打つ。目に涙を浮かべて蹲る恭也を他所に

アリサはずんずんと足音も高く去っていく。



「……君もチャレンジャーだな」

「女性の機嫌を取るのは、俺には難しいようです」

「君には是非とも女性の扱いを教授したいが残念だ。私も妻に、脛を蹴られたくはないので

ね」

「お気持ちだけ頂いておきます」



 差し出された手を握り締め、立ち上がる。涙を拭くと、廊下の先で仁王立ちになっている

アリサが目に入った。お嬢様はお冠らしい。



 デイビットと顔を見合わせて苦笑する。その笑顔には、何か通じる物があった。