1、



「皆でケーキを作りましょう!」



 テスタロッサ家のチビッコたちを集めて、そのお姉さん役を務める――と自認している―

―リインは、皆を見渡してそう宣言した。



 休日。外では燦々と太陽が輝き、今日が絶好の日和であることを教えてくれている。こん

な日は外で遊ぶに限ると、見た目に反したアウトドア派であるルーテシアなどは自分を引き

止めるリインを迷惑そうに眺めていたが、使命に燃えるリインはそれに気づかない。



 ロッテはルーテシアに同調するだけだから、その調停役になるとしたら自分しかいない。

それに否応なく気づいてしまったエリオは、内心で文句を言いながらもそれが自分の義務な

のだと言い聞かせて、疑問を口にした。



「ケーキを作るのは分かった。でも、何で?」

「リインたちは、日頃の感謝をファータに表すべきなのです!」



 だからケーキを作ろう、ということか。



 リインにとってのファータ、恭也の名前が出たことで、ルーテシアの態度も少しだけ軟化

する。好きなものを問われて虫と躊躇いなく答えるほど、女子小学生としては尖った趣味を

しているルーテシアだが、家族のことは殊更大事にする。



 特にテスタロッサの家の中でも恭也には懐いており、虫を目当てに爆走することの多いル

ーテシアも、恭也の言うことだったらほとんど聞く。ルーテシアの一番の友達であると思っ

ているエリオにはそれがとても面白くないが、恭也のことを話すルーテシアは本当に楽しそ

うなので、どうこう言うことも出来ない。



 エリオ本人も、恭也のことは心の底から嫌っていると公言して憚らないが、戦闘技能者と

して、人間としては尊敬しないところがないとも言えない。養われている身であることだし、

日頃の感謝を表すというのなら、それに乗らないということもない。



「それなら形に残るものの方が良いんじゃないかな」

「リインは頑張って何かを作った方が良いと思うのですよ。だから、リインが大好きな物を

作って、ファータにプレゼントしたいのです」

「賛成する……」



 リインの強気の主張に、ルーテシアも静かに同調した。食物に関しては男性的な嗜好をし

ているため、エリオは彼女らと趣味が合わない。恭也にプレゼントするというのは――本心

を言えば甚だ不本意なことではあるが――百歩譲って構わない。



 だが、どうせプレゼントするなら、恭也が好むものを贈るべきなのではないか。恭也が甘

味を好むという話は聞いたことがないし、食べているところを見たこともほとんどないのだ。



「他の物にした方が良いんじゃないかな。ケーキって作るのが難しいって言うし……」

「こんなこともあろうかとこっそりはやてちゃんのうちで練習したのです! リインに任せ

れば大丈夫なのですよ!」



 リインの勢いは留まることを知らなかった。ルーテシアもこくこくと頷いて同調している。

猫姿のロッテは、ルーテシアの傍らで小さく丸まり欠伸をしているだけだ。駄目もとで何と

かしてくれと視線を送るものの、取り合う様子が欠片もない。



 ルーテシアがイエスと言うなら、ロッテの答えもイエスだ。



 退役した管理局員の使い魔であるらしいロッテがどうしてルーテシアの守護者になったの

か、その詳しい経緯をエリオは知らないが、本来の主従と同等の信頼関係が二人の間に構築

されていることは、見ていれば解る。見ていて羨ましくなるくらい、二人は仲が良い。



 ……ともあれ、三人がイエスというのならエリオに反対する理由はない。キャロがこの場

に居てくれれば違う展開にもなったのだろうが、テスタロッサ家の子供たちの中でも唯一の

有職者であるキャロ(リインは定職についてる訳ではなく、あくまで手伝いだ)は、仕事で

管理世界にいる。



 そのキャロならばどう言うのか、考えてみた。心優しいキャロのことだ、きっとこう言う

のだろう。



「うん。僕もそれが良いと思うな」



 キャロも、恭也のことは好いている。彼に感謝の意を表すのなら、反対する理由はないだ

ろう。自分と違ってキャロは女の子趣味をしてるから、ケーキという案にも反対しないと思

う。キャロがここにいれば、自分が反対意見を通したとしても三対一が四対一になるだけの

話。



 ならば、反対するだけ無駄なのだった。



 ならば少しでも事態を良い方向に導いていくのが自分の役目と、エリオはそう思い定める

ことにした。リインが八神の家でケーキ作りの練習をしてきたというのは嘘ではないのだろ

うが、今日の本番できちんとしたケーキが作れるという保障はどこにもない。



 この場にいる中で一番台所に立つ機会が多いのはロッテだが、リインやルーテシアが乗り

気なのに出張ってくることはない。手伝いとして口を出すことはあるかもしれないが、それ

以上はしないはずだ。



 ロッテを除くとなると、料理の腕で次点に来るのは自分だ。キャンプのように屋外で行う

ワイルドな料理ならばキャロの独壇場なのだが、いないキャロとありえない状況の話を言っ

ても始まらない。



 せめてまともな物が出来るように監督する。別に恭也が腹を下して下痢になろうと知った

ことではないが、料理下手の仲間だと思われるのは癪に障る。



 エリオット・モンディアルは、侮られることが嫌いだ。それが恭也・テスタロッサである

なら、尚更である。別に恭也のためにやっているのではない。自分の、名誉のためにやるの

だ――



「それでは膳は急げ、早速行くのですよ! リインについてくるのです!」



























2、



 日本というのは東洋人の国だ。



 東洋も西洋も管理世界にはない括りなので、こちらに住み始めた当初はエリオも、どうい

うことを意味しているのか良く解らなかったのだが、数年も暮らしてみるとそれを肌で感じ

られるようになった、



 要するに、恭也や美由希のような顔立ちをした人間が多い国、ということだ。ミッドチル

ダにもそういう地域はあるが、それが一つの国を成しているというのは管理世界でも例を見

ない。



 それだけに、海鳴にあって自分のような『西洋人』というのはとても目立つ。特にテスタ

ロッサ家は恭也を除いて(ロッテまで含めて)皆『西洋人』であるから、皆で移動している

と途轍もなく目立つのだ。



 さらに、この世界では二十歳以下は子供として――より具体的に言うなら、親権者の庇護

かにある存在として――扱われる。15歳以下は問答無用で義務教育を受ける決まりとなっ

ており、十歳にも満たない自分など、子供も子供として扱われる。



 子供として扱われるのはまだ良い。周囲の人間から見れば、自分が子供に見えるのは事実

なのだろうから。



 だが、鍛錬のためでもテスタロッサ家の買い物のためであるにしろ、平日昼間に街をうろ

ついていると、警察権力に補導されるのがいただけない。管理世界の空士訓練校に通ってい

ると言っても海鳴はもれなく、管理外世界である。



 事実そのままを言っても、頭の正気を疑われたのでは割に合わない。 結局、一度補導さ

れてから昼間にはなるべくうろうろしないと心に決め、訓練校に行く前の時代は部屋で大人

しく、訓練校に通うようになってからも、カレンダーと睨めっこしてから外に出るのが今の

エリオの習慣になっていた。



 幸いなことに今日はこちらの世界も一般的な休日であるため、商店街を歩いていても咎め

ようとする大人はいない。それ自体は良いことなのだが、そういう咎めようという視線とは

別に、エリオたちは周囲の注目を集めに集めていた。



 自分に向けられる感情に対して、殊更に敏感であるという自信がエリオにはある。中でも

自分に危害を加えようとしている人間など直ぐに分かった。逆に言えば、そうでない人間も

消去法的に解るということでもある。



 善意に関しては悪意ほどに敏感ではなかったが、周囲の視線から感じるものは全てが好意

的なものであるのが感じられた。



 前を行く二人を見る。



 銀髪のリインフォース。姓はない。本人はテスタロッサを名乗るつもりでいるようなのだ

が、リインのマスターである(と、本人は主張している)八神はやてが、リインはうちの娘

だと言って譲っていない。



 テスタロッサの家主である恭也は、それならそれで……と姓に関しては拘りがない姿勢を

貫いているが、自分の居場所はここなのだ、とリインが頑として譲っていない。リインが生

まれた時からこの問題は続いているが、一向にして解決する気配がなかった。



 ちなみに、このメンバーの中ではお姉さんぶっているが、実はリインは一番年下である。

テスタロッサ家にやってきたのは一番早かったから、その立場を当然と思い、そのように振

舞っているが、エリオの目から見れば一番子供っぽい。



 だが、どこから来るのか解らないその自信に満ち溢れた表情と、いつでも笑っていられ

る明るさは、周囲の人間に、特に彼女とは年の離れた大人に好印象を与えているようで、一

人で商店街を歩いていてもよく知らない大人に親切にされるという。



 知らない人間には関わるなと、恭也などは口を酸っぱくして言っているが、性善説が心に

染み付いているのか、彼女の運が善人ばかりを引き寄せているのか、とにかくリインは人に

愛されることが得意な少女だった。



 好かれるためには努力しなければならない自分とは、随分な違いである。これも彼女の人

徳なのだろう。エリオには真似できないことだった。



 人から好かれると言えば、ルーテシアも負けてはいない。



 お世辞にも人当たりが良いとは言えないが、怖いくらいに保護欲をそそる少女だ。打算的

な物言いをするのなら『この娘は私が守ってあげないと……』と他人に思わせるのが悪魔的

に上手い。リインと並んでいても、同じくらいに声をかけられていると言えば、ルーテシア

の魅力がどの程度のものが分かるというものだろう。



 かくいうエリオも、ルーテシアの魅力にヤラれた人間の一人であるのだが……この際それ

は関係がない。



 とにかく、リインでもルーテシアでも、商店街を歩けば多くの人間から好意的に声をかけ

られる。二人とも愛らしく目立つ容姿であるから、見かけたらまず商店街の人間は声をかけ

るのだ。



 リインのように魔法使いであっても、ロッテという護衛がついていても、少女が一人二人

で歩くことは恭也も不安に思っているようだが、これだけの人に守られていれば万が一は起

こらないだろう。



 そんな二人が、迷うことなく次々とケーキの材料を買い込んで行く。普段恭也やフェイト

と買い物に来た時はお菓子に目移りするばかりのリインなのに、今日はまったく行動に淀み

がない。



 材料を買うお金も、リインのポケットマネーから出ているようだった。恭也とはやての仕

事を魔導師として、ユニゾンデバイスとして手伝うことが出来る分、リインはテスタロッサ

家の子供たちの中では仕事をしているキャロに次いで金持ちだった。



 お姉さんぶるリインのことだ、何も言わなければ最後まで一人で全額負担するのだろうが、

連名で作るのならこちらも負担も分担するのが筋というものだ。使うことが全くと言って良

いほどないからエリオは年齢にしては蓄えがある。小遣いを虫関係に費やしているルーテシ

アが聊か懐事情が寂しいはずだが、それくらいは自分が負担しても良いだろう――



「おー坊主、荷物持ちか、偉いなぁ」



 そんなことを考えていると、珍しいことに呼び止められた。見れば、先ほどまでリインに

話しかけていた年配の男性が、自分を見てにこにこと微笑んでいる。



 昔ならば睨み返していたのだろうが、今ではそれなりの処世術も身に着けていた。とりあ

えず、にこりと笑って無難な答えをしておけば良い。同じく人付き合いが苦手らしい恭也か

ら教わった処世術だが、これが意外に効果がある。



「はい。こういう時が、僕の出番ですから!」



 はっきりと印象を強く話し、相手の目をきちんと見ること。笑顔でこれを行えば、どれだ

け詰まらないことしか喋れなくても、どうにかなる。



 だが、やる人間が違えば効果も異なるようで、エリオはこの方法で無難に円滑な人間関係

を構築し、爽やかで愛想の良い人だという、体中が痒くなるような評価を得るに至ったが、

恭也は人脈こそエリオとは比べ物にならないくらい広いものの、無愛想無表情朴念仁という

出会った当初からの評価は全くと言って良いほど変わっていない。



 何故だ……と微妙に落ち込む恭也を眺めるのは気分が良かったが、彼の場合は『それが良

い』という人間が――特に女性が――非常に多い。人当たりの良さだけが人間関係を構築す

る訳ではないようで、恭也は方々で大きな信頼を寄せられるに至っている。



「偉いぞ、坊主。やっぱ男はそうでなくちゃな」



 エリオが型どおりの反応をすると、男性はガハハ、と豪快に笑いながら去っていった。満

足そうな後姿に自分の対応が間違っていなかったことを確信するが、坊主と呼ばれることに

はイマイチ慣れない。



 ちゃんとスカートをはいている二人とは異なり、私服でも制服でも、エリオはズボンを着

用している。言葉使いも立ち振る舞いも、男性に見えることを意識して振舞っているのだか

ら、男として扱われることには問題はないはずなのだが……



 それとこれとは、やはり話が別なのである。思えば最近、誰からも女の子として扱われて

いない気がしてならない。このままだと自分自身でも女であることを忘れてしまうような、

そんな気さえするのだが、それを疑問に思っているのもまた自分だけのようだった。



 以前は何かにつけてスカートをはかせようとしていたフェイトも、今ではそういうものだ

と諦めている節さえあった。薦められていた時は鬱陶しく思っていたものだが、いざ言われ

なくなってみると、何処か寂しく感じてしまう。



 男になりたいとあれほど強く願っていた、それが本意だったはずだ。



 それは今も変わっていないし、そうあろうと努力すらしているのに、前を歩く少女二人を

羨ましいと思う自分も同時に心の中に存在していた。



 施設に放り込まれた頃の自分が今の自分を見たら、惰弱になったと罵るのだろう。他人の

愛に囲まれ、自分から笑顔になれる自分は、過去のエリオから見れば裏切りものだ。



 あの頃の自分がどれほど望んでも得られなかった物が、全てここにある。家族が居て、友

達が居て、やりたいことが何でも出来る。一体これ以上、何を望むというのか。



(恭也・テスタロッサの、首……)



 忘れてはいない。エリオット・モンディアルは、あの男を超えなければならない。



 恭也自身が定義したのだ。自分の生きる意味は、彼を超えることだと。それを目標に人生

を捧げることが、エリオのすべきことなのだと。



 幸せを噛み締めながらも、エリオは自らを鍛えることを片時も忘れていなかった。今期か

ら入学した二年制の空士訓練校では、生徒の誰も自分に勝つことは出来なかった。実技でも

座学でも、一度もたりとも敗北していない。



 無難に振舞うことが生きているのか、エリオの敵は驚くほどに少ない。同級生は皆、天才

だと褒めちぎってくれる。それが心地よくもあり、辛くもあった。



 エリオは自分が天才だと思ったことは一度もない。血反吐を吐くような努力を続けた結果

が、今の自分なのだ。ルーテシアのような綺麗な手は、自分にはない。あるのは鍛錬の末に

硬くなった、無骨な手。



 だが、この手があるからこそ、今の自分があるのだ。



 足を速めて、そっと、前を歩くルーテシアの手を取った。小首をかしげながらルーテシア

が振り返る。いつも眠たそうに細められている垂れた目が、エリオの瞳を捉える……それだ

けだった。



 何を言うでもなく、ルーテシアはエリオの手を受け入れて、歩みを再開した。テスタロッ

サの家に着てからの付き合いだから、結構な時間を彼女と過ごしているが、今だに何を考え

ているのか、よく分からない。



 魔法を使わずに明確な意思疎通ができるのは、いつも一緒にいるロッテか、恭也くらいの

ものだろう。この二人の前では、ルーテシアは良く喋るらしい。



 らしい、としか言えないのが悔しいところである。ルーテシアはあまり、自分の前では喋

ってくれないのだ。



「リオー、何か食べたいものはありますかー」



 先頭を歩くリインが、腰に手を当てて振り返る。ふふん、と得意げに笑っていた。何かお

姉さんっぽい行動をするつもりなのだろう。リインが奢ってくれるのは珍しいことだから、

乗っても良いのだが、今は人の目があり、男に徹していることもある。



「いや、今日はいいや。それより結構買い込んだけど、買い忘れたものはない?」

「今日のリインに抜かりはないのですよ! 出かける前にメモしたものは、もうほとんど買

い揃えたのです!」



 つまり、まだ買うものがあるということか。ちょっとだけ、エリオは溜息をついた。リイ

ンとルーテシアには間違っても見られないように、きちんと顔は逸らす。



 好意の視線を向けられ続けるのは、疲れる。出来れば早く帰って休みたかったが、今日の

リインは疲れを知らないようだった。ルーテシアも文句を言わずについてくるところを見る

と、まだ疲れてはいないようだ。



 もっとも、肌の白さに反してルーテシアは休み日には山を歩き回るアウトドア派である。

見た目以上に体力はあるし、運動神経も実はそれなりに良い。流石に自分などとは比べる

べくもないが、体育の授業などではクラスメイトに良く驚かれるという。



 彼女らの驚きも解る。ルーテシアと運動というのは、全く結びつかない。人は見かけに寄

らないものだと、テスタロッサ家で暮らしているとしみじみと思うが、その中でもルーテシ

アは見た目と中身のギャップが激しい存在だった。



「リオ……何だか楽しそう」



 ぼそり、とルーテシアの声――というよりも息が耳に届いた。見ると、ルーテシアの顔が

間近にある。息がかかりそうなほどの近い距離で、ルーテシアはじっとこちらを見つめてい

た。



 鼓動が高鳴る。ルーテシアは女の子、自分だって一応生物学上はそうなる。なのにこの鼓

動はどういうことなのか……静まれ、僕の胸。



「そう……かな、皆で一緒に買い物してるのが、楽しいのかも」

「それは私も楽しい。リオも、私と一緒」



 心もち、ルーテシアの表情が緩む。表情の変化に乏しいだけで、ルーテシアも色々な表情

を見せてくれる。それに気づけるか気づけないかで、彼女との親密度が決まると言っても良

い。



 エリオは勿論気づける立場にいたが、いつか花が咲くような本当の笑顔を見てみたいとも

思う。



(かわいいんだろうなぁ……)



 今の笑顔でこれなのだから、本当に笑ったらどれだけ魅力的なのか。自分が男だったらそ

れだけで惚れていると思う。ルーテシアが敵対する立場にいたとしても、気にかけてしまう

くらいに。



「さあ、次はあのお店に行くのですよ!」



 びしっ! とリインが指差した先には、豊富な果物を取り扱う店があった。翠屋も一目置

いているという噂の店で、近隣では知る人ぞ知る名店だった。女性ばかりのテスタロッサ家

も贔屓にしており、中でも買い物に来る機会の多いリインは店主と大の仲良しである。



「行こう、リオ」



 ルーテシアがぎゅっと手を握り、足を速めた。荷物を持っているエリオは引っ張られるよ

うな形になり、僅かに体勢を崩すが、ルーテシアの前で転ぶような無様は出来ない。素早く

足を運んで事なきを得て、何事もなかったようにルーテシアの隣に並ぶ。



「行こうか、シア」




























3、



 漫画のように材料を爆発させるオチが待っていると思っていたが、そんなことはなかった。

ケーキ作りの練習をしてきたというリインの言葉は、信じられないことではあるが本当のこ

とだったらしい。



 キッチンを使うには身長が足りないから踏み台を使用し、小さな身体を目一杯に動かして

ボールの中のクリームをかき混ぜたりしている。多少手付きが危なっかしいが、これならば

炭が出来上がるということはないだろう。



 炭を食わせて恭也に逆襲することを考えないでもなかったエリオだが、少し当てが外れて

しまった。



(逆襲は自分の力ですれば良いか……)



 美味しいケーキを皆で作って見せれば、少しは恭也も自分達を見直すだろう。心の底から

憎んでいる恭也であっても、一目置かれるのは悪い気分ではない。



 ケーキを作るに当たって、三人の間ではきちんと役割分担が成されていた。ルーテシアが

材料の分量を量り、リインが材料をかき混ぜる。エリオは包丁で材料を切る係だ。刃物の取

り回しには自信があったし、いくらそれなりに手馴れているとは言え、リインやルーテシア

に包丁を持たせるのは危険だと思ったのだ。



 ちなみにロッテは何を手伝うこともなく、猫の姿のままキッチンの隅で丸くなっている。

子供達だけでケーキを作ると決めた今回は、よほどのことがない限り手を出さないと決めた

らしい。



 人の姿でいることが多いアルフと違って、ほとんどの時間を猫の姿でロッテは過ごしてい

る。本来の主からは離れているから、必要に差し迫られでもしない限りは変身しないと決め

ているのだとか。



 不便でないのかと人間であるエリオは思わないでもないが、使い魔とは動物の姿が本体で

ある。動物の姿で過ごしていたところで、それほど不便は感じないのだろう。



 さて、切る担当のエリオは早々に仕事を終えてしまった。買ってきたスポンジケーキを切

り、果物を適当な大きさに切る……エリオに割り当てられた仕事はその程度だったが、リイ

ンもルーテシアも仕事をしているのに、手持ち無沙汰でいるのはどうも気が引ける。



 まだケーキは出来ていないのだから、手伝うことはまだまだ残っている。何か手伝おうか

と問うてみるエリオだったが、リインもルーテシアも当たり前のように首を横に振った。



 こうなると二人とも頑固だ。正攻法では手伝うことは出来ないだろうし、絡め手を使うの

も馬鹿らしい。かと言ってこのまま出来上がるのを待つのも、暇で仕方がない。



 その時、玄関の方からがちゃがちゃと音が聞こえた。同時に人の声……夢中で作業をして

いたリインとルーテシアが腕を止め、ぱっと駆け出して行く。



「おかえりなさいですよー、ファータ!」



 ルーテシアの声は聞こえなかったが、同じようにリインと同じように恭也に飛びついてい

るのだろう。憎らしいことに、ルーテシアは恭也にとても懐いているのだ。



 暫くすると、両腕にリインとルーテシアを抱えて恭也がやってきた。一緒に帰ってくる予

定だったフェイトとアルフもいる。



 エリオが普段は全寮制の空士訓練校に通っていて、フェイトが執務官という激務加えて恭

也、キャロ、アルフは仕事に出ているために、家族全員が揃うことは驚くほどに少ない。キ

ャロが欠けているが、これだけ家族が揃うというのも珍しいことだった。



「うわー、何か甘い臭いがしてるねー」

「ファータのために作ったのですよ!」

「ほう……俺のために」

(ん?)



 恭也の声の調子が落ち着いているのはいつものことだったが、今日はそれにも増して暗い

気がした。何かあったのかと気づかれないように顔色を伺ってみるものの、そこにあったの

はいつもの無表情で無愛想な顔。ついでに言えば朴念仁。



 何を考えているのか相変わらず解らなかったが、恭也の両隣にいるフェイトとアルフが、

恭也の心情を表すように困惑の表情を浮かべていた。



 心中でエリオは首を傾げる。困惑する、その意味が解らない。リインやルーテシアからの

プレゼントだったら、泥団子でも喜んでもらうのが恭也・テスタロッサという人間だ。まだ

作っている途中ではあるが、エリオの見たところこのケーキそのものに失敗はない。



 安心して食べることの出来るものであるだけ、無茶なプレゼントをされるよりは遥かにマ

シなはずである。



 事実、エリオはもっと困惑すべきプレゼントをリインやルーテシアから貰っている恭也を

今までに何度も見ていた。虫の佃煮すら余裕の表情で食していた恭也だ。それらに比べたら

たかがケーキなど、恐れるに足りない。恭也自身は何もアクションを起こしていないが、フ

ェイトとアルフの態度から今が聊かマズい状況なのは見て取れた。



 気づいていないのは、はしゃぐリインとそれに付き合っているルーテシアだけ。部屋の隅

で状況の推移を見守っているロッテも、この事態には気づいて――いや、最初から知ってい

るようだった。



 ロッテにだけ聞こえるように、爪先で床を鳴らす。それで自分を呼んでいるのだと気づい

たロッテは、さりげなくエリオの足元まで移動してきた。



(なにかな、リオ)

(これはどういうことなんだい? ロッテ)

(どういうことも何も……恭也は甘い物が大の苦手なんだよ。知ってて黙ってるもんだと思

ってたけど、知らなかったの?)

(いや、初耳だよ)



 聞いたことくらいはあるのかもしれないが、エリオの記憶には残っていなかった。



 そう言えば、食べているところを見た記憶がない。恭也の分として甘い物を出されても、

何か理由をつけてリインかルーテシアに上げていたような気もする。



(何で教えてくれなかったのさ)

(ルーテシアとリインフォースが作ったものなら、あの男は何でも食べるだろうからね。そ

れにたまには、あいつが困った顔を見て見たいとも思ったのさ。君ならこの気持ちは解るだ

ろ?)

(解らないでもないけどさ……)



 恭也が困るのは願ったり叶ったりだが、知っていて甘いものを作る案を通したと思われる

のは嫌だった。恭也が自身がどうなろうと知ったことではないが、彼が甘物が苦手なことを

誤魔化しきれなかったら、リインやルーテシアが傷付くことになる。



 そんなルーテシアたちの顔を見るなどご免だったし、それに関与したということで自責の

念も生まれる。



 ロッテが言ってさえくれれば……とは思うものの、自分の大好きなケーキを大好きなファ

ータに作ってあげようと頑張るリインを見たら、自分では真実を告げられなかったようにも

思う。どちらが正解なのか、エリオには良く解らなかった。



「ファータ、試食してほしいのですよ!」



 はい! とリインはボールからクリームを指で救い、恭也に向かって差し出した。そのま

ま舐めろということらしいが、そのクリームを作るところを見ていたエリオは、そのクリー

ムが通常の三割増しくらいに甘い仕様になっていることを知っていた。



 フェイトとアルフの顔に、緊張が走る。どうしようか迷っているのを見る限り、どうにか

して止めなければ不味いような状況らしい。



(ちなみに、あいつはどの程度苦手なのさ)

(前に甘物を食って気絶したことがあるとか言ってたねー)



 四の五の言っていられるような状況でもなさそうだ。恭也の身体はどうでも良いが、目の

前で倒れられたら二人が傷付く。良い案は浮かばなかったが、とにかく止めよう。意を決し

て足を踏み出したエリオを、恭也の視線が捉えていた。



 じっと、こちらを見つめている。何もするな――恭也自身は念話を使うことは出来ないが、

確かに恭也の声が聞こえたような気がした。



 エリオからリインに視線を戻した恭也は、彼女が指を差し出し安いように腰を落とした。

あー、と口を開けると待ち構えていたようにリインのクリームに塗れた指が突っ込まれる。



 三割り増しの甘さのクリームだ。甘い物で気絶するような人間には、劇薬に等しい。せめ

てぶっ倒れてはくれるなと心の中で祈りながら、事態の推移を見守る。



「どうですか?」

「……あぁ、美味いな。これはお前が一人でやったのか?」

「シアやリオにも手伝ってもらったのですよ! 今日は皆で、ファータに感謝する日なので

す!」

「おやおや……あたしには感謝してくれないのかい?」

「当然、アルフやフェイトの分もあるのですよ。今日は皆で楽しくケーキを食べるのです!」



 恭也に褒めてもらえたことでテンションの挙がったリインは、フェイトもアルフの手を取

ってキッチンに連れ込む。子供たちだけで作る予定だったはずだが、今のリインにそれはど

うでも良いことらしい。



 ルーテシアもそれに乗っかって、アルフと一緒に一番の大仕事であるケーキのデコレーシ

ョンに取り掛かっている。スポンジは二つ買ってきたから、残りは必然的にリインとフェイ

トの受け持ちになった。



 手持ち無沙汰に拍車がかかったエリオは、冷蔵庫からブラックのコーヒーを取り出すと、

誰にも声をかけることなく居間の方に消えた恭也の後を追った。



「ほら」



 放り投げたコーヒーを受け取った恭也の顔色は、少しだけ青い。これも、彼の表情を見慣

れていなければ気づかないことだろう。不本意ではあるが、恭也・テスタロッサを観察する

ことにかけては、エリオにもそれなりの物がある。



 リインの前では笑って見せたが、流石にクリームを直で口に入れることは堪えたらしい。



「格好つけるから、そういうことになるんだ」

「お前はあのリインの前で、甘い物が苦手だからと拒めるのか? 俺にはそんな真似は死ん

でも出来ん」

「でもさ、苦手なんだろ? 甘い物」

「確かに苦手だが、あれはリインが一生懸命、俺のために作ってくれたものだ。それが食え

ないなんてことは断じてないし、不味いということもない」

「強情だよねぇ……まぁ、今日はその強情さのおかげで助かったんだけど」

「お前も一緒に作っていたのだろう? いいのか? 参加しなくて」

「材料を刻んだだけだからね。後はフェイトさんやアルフもいるし、僕がいなくても大丈夫

だろ。それに不本意ではあるけど、僕もお前と一緒で、甘い物が苦手なんだ」

「お前の場合は、リインもルーテシアも、苦手なことを知っているからな……」

「今度からそういう宣言は早くしておくんだね。まぁ、色々と思うところはあったけれど、

お前の苦しむ姿が見れたから、今日は良い日だ」



 くっくっ……と喉の奥で笑って、恭也の手からコーヒーを奪い取ると、見せ付けるように

して一気に飲み干した。手の甲で口元を拭い、空き缶を手で弄ぶ。



「まぁ、お前が苦しむのはこれからだけどね。ホールのケーキが二つ、お前のために作られ

るんだ。胃薬でも用意しておいた方が良いんじゃないか?」



 キッチンは恭也も見たはずだ。作りかけのケーキは、あの時点で二つ出ていた。状況から

それらが全て、主に自分のために用意されたものであることは、恭也にも解っただろう。



 忘れようとでもしていたのか、エリオがそれを口にした途端、恭也の顔色が青くなるのが

解った。気絶したことすらある奴なのだ、それがどういう苦行なのかエリオにだって想像が

出来る。



 だが、この男の精神力なら例えホール二つを一人で食べることになったとしても、無事に

乗り切り、リインとルーテシアに不器用な笑顔の一つでも浮かべるのだろう。



 ルーテシアの心中の恭也ポイントが上がることはムカついてならないが、死ぬほどの苦労

を恭也が味わうのなら、相殺にしてやっても良いかもしれない。



 いつもは丸め込まれてばかりなのだ。青くなる恭也など、めったに見れるものではない。



「まぁ、どうしてもって言うなら手伝ってやらないこともないよ?」

「二人の愛は俺一人で受け止める。お前になんぞ分けてはやらん」



 男としての意地があるのだろう。恭也は突き放すようにそう言って、視線を逸らした。普

段、憎らしいほどに遠くに見える背中が、この時だけは手の届くくらいに近くなった気がし

た。