「まぁ、とりあえず良くやった、と言っておく」



 頭上で恭也の声が聞こえた……ような気がする。いや、確かに聞こえた。自分が彼の声を

聞き違えたり、聞き逃したりするはずがない。聞こえた、そう感じた以上それは真実であり、

恭也がそこにいるという証明なのだ。



 そんな当たり前のことを忘れるほどに朦朧とした意識の中で、ギンガ・ナカジマは考える。



(恭也さんは、やっぱり凄いんだ……)





 それを言葉にするほどの体力もない我が身が、とても悔しかった。





















 話は一時間ほど遡る。



 合宿2日目、午前六時。前日は全て鍛錬の準備に費やし、今日が初めての鍛錬日である。



 その日、『朝食の前の軽い食事』という訳の解らない食事を取らされていたギンガは、恭

也の指示を聞いて愕然とした。



「違うメニューって、どういうことですか!?」

「どういうことも何も……」



 息がかかるくらいの距離にまで詰め寄られた恭也は、ギンガの強気な視線を正面から受け

て困惑した表情を浮かべた。助けを求めるように視線を巡らせるが、エリオは我関せずと食

事に没頭し、美由希は苦笑しながら視線を逸らす。



 援護が見込めないと悟った恭也は、大きく溜息を吐き腕を組んだ。



「俺と美由希、お前とエリオで同じメニューをする訳にはいかんだろう。年齢も性別も戦い

方も違うのだからな」

「それは解ります。でも、基礎体力の鍛錬でまで別にする必要はあるんですか?」

「それこそ別にせねばならないと思わないか? あまりこういうことは言いたくないが、お

前たちと俺達では、基礎体力に雲泥の差があるぞ」

「私だって恭也さんたち以上だと主張するつもりはありませんけど、体力には自信がありま

す。一度くらい見てから決めてくれても、と思うのですが……」



 主張しつつ、ギンガの脳裏にエリオのことが過ぎった。自分が恭也達についていけば、も

う一人がまだ合流していない以上、エリオは一人で鍛錬することになる。既に訓練校に入っ

ているとは言え、まだ十歳にもなっていない彼女を一人で放置することにはギンガも抵抗を

覚えた。



 ちら、とエリオに視線を向けてみると、彼女はこちらには興味がないとばかりに黙々と食

事を続けている。何かと恭也に反発することの多いエリオだったが、恭也の別メニュー発言

に関してはすんなりと受け入れていた。



 これでは自分だけが我侭を言っているようで、気分が悪い。



 だが、この数年は厳しい鍛錬を続けてきた。恭也に胸を張れるように、努力だけは怠らな

かった。



 元々から自信のあった体力を鍛えることだって忘れていない。戦闘訓練では多少の遅れを

取ることはあっても、純粋な体力勝負ならば同年代では負けたことはなく、今所属している

陸士隊で男性まで含めて考えても、間違いなく三指に入るはずだった。



 恭也や美由希が尋常でない体力をしているのは知っているが、それでも、歯牙にもかけて

もらえていないような気がして、ギンガは面白くなかった。



 別のメニューにすることには、自分にエリオのお守りをさせる向きもあるのだろう。それ

を理解した上でこういうことを言うのは聞き分けのないことだった。恭也にそう思われるの

はギンガにとって耐え難いことだったが、それでも、自分の数年を評価してもらいたいとい

う思いが勝った。



 お前は凄いな、と褒めて欲しい……それが今のギンガの原動力だった。



 我侭を言うのはこれで最後だ。だから、今だけは梃子でも動かない。そのつもりで恭也を

強く見つめる。



 十秒ほどもそうしていただろうか。恭也のこげ茶色の瞳が諦めの色を帯びた。今度は大き

く、溜息を漏らす。



「どうしてもか?」

「どうしても、です」

「…………解った。ためしに、ということで同行を認める。リオ、済まないが今回のメニュ

ーは一人でこなしてもらえるか?」



 返事をするでもなく、エリオはこくりと頷いた。恭也は両手を叩くと大きく伸びをし、傾

斜のキツい方に向かって歩き出した。



「食事が済み次第スタートするぞ。どうしても、と言ったからには、着いてこいよ?」



























 その言葉の通り、ついて行くことは出来たが、それだけだった。傾斜がキツく道すらない

山の中を、恭也も美由希も凄まじい速度で駆けていた。



 魔法も何も使わずにそれなのだから、彼らの体力や足腰がどれほどの物なのか想像に難く

ない。悪路を走る技術というのもあるにはあるのだろうが、それを差し引いたとしても、彼

らはギンガの遥か先を言っていた。



 キャンプまで戻ってくると同時に、崩れ落ちるようにして倒れこんだ。気を抜くと吐きそ

うだったが、恭也の前でそれだけは出来ないと強引に体調を整える。



 どういう状態なのか察してくれたらしい美由希が近寄ってきて背中を摩ってくれたが、そ

れに礼を言う元気すら、ギンガには残されていなかった。



 恭也の姿は近くにはない。彼は次のメニューから通常の物に戻すことを告げると、エリオ

を連れて朝食の準備に向かってしまった。



 涙が出そうな程に悔しかったが、予想していたことでもある。これは自分で引き起こした、

起こさなくても良かった不始末だった。ここで泣くのは筋が通らない。



 そして、いつまでも蹲っている訳にはいかなかった。荒い息はそのままに、どうにかして

立ち上がる。支えようとしてくれた美由希を手を挙げて制し、一度大きく深呼吸をする。



「申し訳ありませんでした。格好悪いところをお見せして……」

「いいんじゃない? これくらいなら。自分を見て欲しいって思って失敗しちゃったことは

私にだってあるし、恭也にだってあるはずだから」

「恭也さんも、こういう失敗をしたことがあるんですか?」



 ギンガにとって恭也は尊敬の対象だった。彼だって最初から今の状態だったはずはないが、

禁欲的で誠実で、こういう子供のような失敗とは無縁な存在だというイメージがギンガの中

にあった。



 それは、恭也を知る人間ならば大抵の人間が持つイメージだと思う。自分が恭也に対して

どういう感情を抱いているのか、それを差し引いたとしても、恭也と今の自分のような失敗

を結びつけることは難しいだろう。



 そんな感情が顔に出ていたのか、美由希はギンガを見て苦笑を浮かべた。



「本人から聞いたことはないけどね」

「聞かなくても分かるってことですか?」

「確信はないし、半分以上は願望だけどね。非の打ち所がないって、何か悔しいじゃない?」

「解らないでもないですけど……」



 女として男性の弱い部分を支えてあげたいという願望もあるが、恭也にはヒーローであっ

て欲しいと願う気持ちの方がギンガは強かった。美由希の主張にはいまいち同意できるとこ

ろがなかったが、立場を考えて曖昧に微笑み、言葉を濁しておく。



 美由希もギンガから手放しの同意を得られるとは思っていなかったのだろう、早々に話を

打ち切ってテントの方に戻っていく。



 テントに戻ると既に食事の準備は出来ていた。出来合いの缶詰やレトルトばかりだったが、

朝食ならばこんなものだろう。見た目に反して大食いな身としては物足りなさを感じないで

もないが、自分で用意していないのだから、文句を言う筋合いでもない。既に椅子に着いて

いたエリオ、恭也に倣い美由希と共に着席する。



 誰からともなくいただきますと言い、食事は始まった。相変わらず黙々と食事を続けるエ

リオと、無駄に明るい雰囲気を振りまいている美由希。恭也はいつも以上に無表情を貫いて

いたが、何か言いそうにしているのはギンガにも解った。



 美由希がちらり、と目配せをしてくる。その意を察したギンガは、自分から口を開いた。



「先ほどはお見苦しいところをお見せしました」

「確かに格好良くはなかったが、見苦しくはあるまい。誰でもオーバーワークをしたらああ

なる。それを笑ったりする人間は、ここにはいない」

「でも、私のせいで恭也さんたちのペースをダウンさせてしまいましたし……」



 ギンガの言葉に、恭也の眉がぴくりと震える。気づかれていないつもりだったのかもしれ

ないが、恭也たちが本来の想定よりも若干ペースを落としていたことには、ギンガも気づい

ていた。彼らが本当に自分を追い込むつもりで走っていたら、山の中に置き去りにされてい

ただろう。



 この鍛錬はギンガだけの鍛錬ではなく、恭也達の鍛錬でもある。自分がいたことで彼らに

迷惑をかけたのなら、幾ら謝っても足りない。このまま帰れと言われてもそれに従うくらい

のつもりで、ギンガは『申し訳ありませんでした』と頭を下げた。



 あー、と恭也の妙に間延びした声が、頭の上から聞こえる。



「この二週間は、俺達の鍛錬というだけでなく、お前達の鍛錬でもある。今回のことがお前

の成長に繋がったのなら、俺や美由希からは何も言うことはない」

「私はこれからも、鍛錬に参加して良いのでしょうか」

「むしろ、帰られても困る。二週間面倒を見るという約束で、お前達を部隊から借り出した

のだからな。途中で放り出したとあっては、俺や特共研の沽券に関わる」


 それだけ言って、恭也はそっぽを向いた。柄にもなく照れているのだ。



 頭を上げると、その態度に苦笑を漏らしそうになった美由希が、慌ててそれを引っ込める

のが見えた。ギロリ、と恭也が美由希を睨みやりデコピンの構えを取ると、美由希は椅子に

座ったまま、一瞬で距離を取る。



 見ていて惚れ惚れするような反応だった。美由希がやっているのを見ると何でもないこと

のように思えるが、至近距離から、たかがデコピンとは言え当てるつもりになっている恭也

の攻撃を回避するというのは至難の業だ。



 少なくとも、ギンガには出来ない。知っている範囲でこれが可能なのは、母のクイントく

らいのものだろう。それにしたって美由希ほど上手に回避は出来ないはずだった。



 そんな行動の端々に見せる反応にさえ、自分と恭也たちとの隔たりを感じたような気がし

て、ギンガは一人、唇を噛む。自分は彼らと同じ場所に並ぶことが出来るのか……



 ふと、気になってエリオを見た。今までの遣り取りの間、エリオはずっと我関せずとばか

りに一人で食事を続けている。恭也の言葉にも美由希の動作にも、特に反応した様子はない。



 この寡黙な少女のことを、ギンガはほとんど知らなかった。



 複雑な生い立ちを持った少女で、恭也が保護責任者をしていること。今は管理局の空士訓

練校に通っており、そこで優秀な成績を示していること……ギンガが知っているのはその程

度の物だった。



 恭也の伝で顔をあわせたことはあるが、一緒に訓練するのはこれが初めてだったし、個人

的な付き合いはまるでない。会話を交わしたことさえ、両手で数えられる程度のものだ。



 たが、ギンガはこの赤毛の少女に、自分に近い物を感じ取っていた。



 視線、仕草、態度、その全てが物語っている。エリオにとって、恭也・テスタロッサは特

別だ。自分と方向性は違えども、彼女の行動は全て恭也を意識した物のようにギンガには感

じられた。



 強くなりたいという思いは、魔導師ならば少なからず持っているものだ。



 しかし、そうなりたい理由はというと、個々人によって異なる。名誉のためという人間も

いるだろう。自己の研鑽のためという人間もいるだろうし、もっと単純に金銭のためという

人間だっている。



 そんな中、エリオ・モンディアルという少女はただ一人の人間のために強くなろうとして

いる……そんな感じがギンガにはするのだった。



 勿論、それを確認した訳ではない。貴方は彼のことをどう思っていますか? なんて、い

くら年下の少女相手とは言え、面と向かって聞くのは恥ずかしい。これはあくまでギンガの

想像で、無理やり理由をつけるとするなら『女の勘』というその程度のものだったが、恭也

に関するこの感性にだけは、ギンガは全幅の信頼を置いていた。



 その感情の向きがどういうものであっても、ただ一人、とある男性のために強くなろうと

するというのは、美しい話だとギンガは思う。それを実行しているのが十歳にも満たない少

女というのも、同じ少女として興味を掻き立てられた。



 問題があるとすればただ一つ。エリオのその意思の中心にいるのが、恭也・テスタロッサ

であるという点だけである。そうでなければこの寡黙な少女のことを心の底から応援してい

ただろう。



 エリオを視界の端に捉えながら、あまり注視せずに黙考する。



 果たしてこの少女はライバル足りえるのか?



 あまりに大きな障害になるようだったら、今のうちに牽制しておく必要があるが、エリオ

に対するギンガの認知度は、精々『危険度 並』だった。少なくとも今すぐにどうこうとい

うレベルではない。



 エリオから視線を外し、カップに目を落とした。誰にも気づかれないように、小さく息を

吐く。



 少女として、エリオのことを注視する必要はない。エリオも将来美人になるだろうが、今

現在はまだまだ子供だ。それよりも警戒すべきは、妹ポジションにいるのを良いことに調子

乗っているあの金髪ツインテールである。



 金髪ツインテールの牽制のためにもギンガはこの二週間で勝負をかけるつもりでいたのだ

が、二週間も山奥で二人きり! と喜び勇んで来てみれば、そこには恭也だけでなく、望外

の邪魔者が二人もいた。恭也を巡る状況は逼迫していたが、流石に衆人環視の中で青少年の

教育上色々と不適切な行為に臨む訳にもいかない。



 しかも、誰かは知らないが邪魔者はこれからさらに増えるという。自分の存在をかぎつけ

た金髪ツインテールが執務官の激務を縫って態々邪魔をしにくるのかと思うと、ギンガの心

は大いに焦ったが、自分が何も出来ないというこの状況はむしろ、目に見える範囲に恭也が

いることで、他人がポイントを稼ぐのを妨害する作戦を実行しているのだと思えば、そう悪

い状況でもない。



 普段からして、地上本部と本局で勤め先が離れているのだ。たまに顔を合わせた時くらい

独占したところで、誰にも文句を言われる筋合いはないと思う。



 決して楽観できるような状況ではないが、普段より事態は好転している。そう自分を強引

に納得させると、ギンガは呼吸を整えて食事に手をつけた。



 朝から山中を激走する羽目になったが、この後にはさらにハードな鍛錬が待っている。い

つもよりは食欲がわかなかったが、ここで何か口にしておかないと冗談抜きで生命に関わる

と、武術家としての本能が告げていた。



 缶詰の中身の口に押し込みながら、同じく食事をしている恭也と美由希を見る。がっつい

ているという印象はないものの、二人ともかなりの早さで缶詰を消費していた。セーブせず

に食事を共にすると、大抵の人間に目を丸くされて驚かれるギンガと比べても、その食いっ

ぷりは遜色がない。自分の健啖っぷりが小さな頃から密かなコンプレックスだったギンガに

とっては、実に有り難い状況である。



「もう一人の方は、明日合流するという話でしたけれど。明日の何時頃お着きになるんです

か?」

「その予定だったのだがな。どうも先方が気を使って予定を繰り上げてくれたらしく、今日

の昼過ぎには合流することになった」

「では、麓まで向かえに行くのですか?」



 自分の言葉に、ギンガは僅かに顔を顰めた。



 麓までと言葉にすれば簡単だが、それは脚には自信のある自分たちが大荷物を背負ってと

は言え三時間もかけた道程だ。行きは手ぶらで魔法やデバイスを使っても良いならそれ程時

間もかからないだろうが、合流するメンバーだって荷物は持っているだろう。



 迎えに行けばそれを持たねばならないし、案内も兼ねているのだから当然、一人ですいす

い先に行く訳にもいかない。



 ぐるり、とメンバーを見回してみる。



 迎えに行く役目を与えられるとしたら、それは自分だろう……とギンガは暗鬱な気持ちで

悟った。最年少はエリオだが、年少過ぎて役目を任せるには不向きだし、恭也は階級も年齢

も上である。



 唯一美由希が自分より年長ではあるものの階級が下という難しい立場にいたが、この鍛錬

の場においては階級など何の意味もないことは、ぶっ倒れるまで全力疾走したことで思い知

っている。美由希が上で、自分は下だ。



 正当な手順を経て自分で下した評価だ。下っ端パシリであることに否やはないが、純粋に

訓練とは別の意味で疲れるのに加えて、恭也と接する時間が減るというのはギンガにとって

苦行だった。



「いや、直接こっちまで来るそうだ。プレシアを目印に出来るそうだから、こちらから態々

迎えに行く必要はない」



 とんとん、と恭也が胸元にぶら下げられた、待機状態の黒いデバイスを指で叩いて見せた。



 ギンガはあまり世話になったことのない機能だが、管理局に登録されているデバイスには

お互いの位置情報を感知できる機能が存在する。何らかの影響で電源が完全に落とされてい

るか、作戦行動中で秘匿モードにされていない限りそれは有効で、こういう局員同士のちょ

っとした待ち合わせなどにも利用されている。



 戦艦のコンピュータや本部施設ならば登録されている全デバイスにアクセスが可能だが、

個々のデバイスでそれを行う場合は、感知したいデバイスを予め登録しておくという聊か面

倒な手順が必要がだった。



 尤も、デバイス持ちの局員は緊急時に備えて部隊の仲間は勿論、同じデバイス持ちの知人

友人は登録しておくのが普通であるから、入局以来の相棒であるギンガのリボルバーナック

ルにも恭也のプレシアは登録されている。合流する人間も、恭也と顔見知りであるのなら、

デバイスに登録してあっても不思議ではなかった。



「目印があるにしても、荷物を抱えての山道は堪えますよ? やっぱり迎えに行った方が…

…」

「奴は俺たちと違って飛べるからな。力もあるし、そういう心配は無用だろう」

「強い方ですか?」

「難しい質問だな……」



 恭也は苦笑を浮かべて、美由希とエリオを順番に眺めた。



「俺が戦って勝てるかと言われれば、状況にも寄るだろうが恐らく勝てる。戦う者としての

腕前は、今の段階では正直今ひとつだが、魔導師としての才覚の話をするなら、俺が知って

いる中でも指折りだ。うちのフェイトや、ともすればはやてよりも上かもしれん」

「魔導師じゃない私たちが魔法語っても説得力ないよー」



 美由希の言葉に、恭也は振り向きもせずに腕を閃かせ飛礫を放った。唐突なその一撃を美

由希はフォークを振るって難なく叩き落す。



「……空気の読めないメガネの言葉はさておくとして。客観的に見てあれが優秀な魔導師で

あることに違いはない。将来性も抜群だ。お前と会うのは初めてだったと思うが、仲良くし

ておいて損はないと思うぞ」

「……参考までにお伺いしますけど、その方は女性ですか? 美人ですか? 家庭的だった

りしますか?」

「その答えは……そうだな、全てイエスだ」

「そうですか、ありがとうございました」



 その返答に戦慄を覚えたのを心中に隠しつつ、ギンガはぺこりと頭を下げた。



 何事にも肝が太いように見えて、恭也は案外照れ屋だ。例えそこに本人がいなくても、他

人を褒めるということをあまりしない。そんな恭也が美人であるかという質問に対して、イ

エスと答えた。



 控えめに考えても、その人間の容姿が100点満点で70点を下回ることはないだろう。

思わず目を疑うほど、周囲が容姿端麗な人間で溢れている恭也のことだ。世界最高の美人が

現れるくらいの覚悟は固めておいた方が良いのかもしれない。



 思わず、溜息が漏れた。



 分かっていたことではあるが、自分には敵が多すぎる。しかもその敵は時間を経るごとに

増えており、現在でも絶賛増加中だ。金髪ツインテールが相当な数をブロックしていると聞

くが、それでも離れた場所に勤務しているギンガの耳にさえ、恭也の評判は聞こえてきた。



 返す返す、今回の鍛錬が二人きりでなかったことが悔やまれた。母クイントの見立てでは、

直接的な言動と行動に出れば、恭也にはそれを振り払うだけの器用さはないとのこと。押し

の一手で攻めるべし、というのが伝授された攻略法であるのだが、今回はそれを使えそうに

もない。



 とは言え、このまま手を拱いている訳にもいかない。現れるのが強敵であるのなら、今の

うちに格付けを済ませておく必要がある。こいつは強敵だ、という印象を相手に与えておか

ないと、付け入る隙を与えることになるのだから。



(負けませんからね……)



 まだ見ぬ強敵に思いを馳せながら、ギンガは缶詰の中身を強引にかきこんだ。生暖かい視

線を送る美由希に、気づかぬままに……
























「来たか……」



 恭也がぽつりと呟いたのは、近接戦闘に関する講義の途中だった。



 怒涛の基礎訓練ばかりの午前が終了し、やはり缶詰ばかりの昼食が終わって、今は午後。

午前中の疲れと食後の適度な満腹感もあって睡魔と格闘しながらの講義である。



 うつらうつらしていると容赦なく小石が飛んで来るため、エリオもギンガも既に額は真っ

赤になっていた。こういう時にぐーすか寝そうな印象のある美由希は、基礎体力が違うのか

背筋もしっかりと恭也の講義に聞き入っている。



 恭也の声に最初に反応したのは、その美由希だった。恭也の声を聞き、彼が視線を向けた

方向に目を凝らしてみる。



「……本当にいるの? 私は察知できないし、十六夜も御架月も解らないって言ってるよ」

「彼我の距離はおよそ五キロ。何事もなければ後数分で到着するな」

「プレシアがそう言ってるの?」

「これくらいならば自分で何とかなる。奴の気配は特殊だからな」

「特殊だからって出来ることと出来ないことがあると思うよ。前から思ってたけど、恭也っ

て時々人間辞めてるよね」

「優れた技能を持つことが人外ならば、俺は別に人でなくても構わんよ」



 事も無げに恭也は言うが、索敵に限定した能力を持ったデバイスでも、結界などの事前準

備なしにそれだけの距離が離れた存在を察知することは、困難を極める。



 恭也はそれを、デバイスの補助をなしにやってのけた。自分の隣で講義を聞いていたギン

ガなど、無駄にキラキラとした羨望の眼差しで恭也を見つめている。



 恋する乙女の表情が、非常に暑苦しい。



 確かに恭也は顔形はそれほど悪くない。エリオが今まで見た男性の中では、上から数えた

方が早い部類だろう。戦闘技能は指折りで、一対一で負けるところなど想像も出来ない。約

束は絶対に守るし、頼りになるかと言われればその通りだ。



 だが、それで惚れるかと言われれば話は別である。恭也相手だけではない、自分が誰かに

恋をして、今のギンガのような表情をするのかと思うとどうしようもなく体がむず痒くなっ

てしまうエリオだった。



 それが普通とは聊か異なる感性である、というのは認識しているが、それを改善しように

も、こういうことを相談できる同年代の友人というのが、エリオにはほとんどいなのである。



 その数少ない友人の一人で、訓練校に入るまで一つ屋根の下で生活していたルーテシアは、

波乱万丈な人生を歩んだエリオをして『独特の感性を持った』と評さざるを得ない少女だっ

た。



 ルーテシアと言えば、こんな話がある。



 エリオが勇気を出して一緒に遊ぼうと初めて誘った時、ロッテと一緒に案内されたのは近

所の空き地だった。女の子らしいおままごとでもするのかと思うものの、エリオもルーテシ

アも手ぶらである。運動して遊ぶようなタイプには今は勿論、その当時も見えなかったし、

では何をするのかとエリオが待っていると、何の説明もなくルーテシアはその場に座り込ん

だ。



 待つこと三十分……しゃがんだまま一言も発しないルーテシアを待つことに流石に疲れて

いたエリオを見かねたのか、顔を洗って毛繕いという実に猫らしい暇つぶしをしていたロッ

テが教えてくれた。



 何でも、空き地まで態々アリを観察しにやってきたのだと言う。放っておけば日が暮れる

までそうしているというので、ロッテは帰る時には呼んでやるからと何処か別のところで時

間を潰してくることを薦めてくれたが、エリオにも自分で誘ったという意地があった。



 最後まで付き合うと啖呵を切り、結局その日は日が暮れるまで空き地でしゃがんで過ごし

た。アリが好きな人間には至福の時間だったのだろうが、虫に対しては人並み程度の好感度

しか持ち合わせていないエリオには、苦行にも近い時間だったのを覚えている。



 隣にルーテシアがいなければ、任務だったとしても放棄していたかもしれない。



 ルーテシアの虫に関するエピソードには枚挙に暇がなく、他にもエリオが自分で誘ったり

逆にルーテシアに誘われたりしながら、虫の観察に何度が付き合ったことがあった。



 全ての人間が虫を愛してくれるとはルーテシアも思っていないようだったが、どうやら虫

の観察に連れ出すということが、彼女なりの親愛の証なのだと知ってからは、内心は別にし

ても無碍に断ることができなくなってしまった。



 訓練校に入校してからは流石に誘われることはなくなったが、果たして今は誰がその役目

を負っているのか……



 ともかく、ルーテシアに色恋の相談をしてまともな答えが返ってくとは思えない。



 かと言って、ルーテシア以外の家族は揃いも揃って恭也と相対するとギンガと似たような

幸せオーラを放出するため、このテの話題では信用できなかった。



 その中でも特にフェイトの感性の可笑しさは深刻な物がある。アルフの言葉を信じるなら

昔はほとんど笑わない寡黙で陰気な少女だったらしいが、恭也を前に放っておいたらそのま

ま溶けてしまうのではないか、というほどフェイトは甘ったるい表情を浮かべるのだ。



 そんなフェイトから、過去の陰気さなど想像することもできない。



 今のフェイトならば、感性の可笑しさで眼前のギンガといい勝負をするだろう。二人が顔

を合わせているところをエリオは見たことがないが、それはそれは壮絶なバトルをするに違

いない、という確信が持てた。そのバトルを見物したいとは欠片も思わないが。



 あれやこれやとエリオが考えているうちに、恭也はテキパキと講義で使っていたアナログ

なホワイトボードと椅子を片付け終えていた。



 その頃には、ようやくエリオのデバイスも接近する管理局所属のデバイスの反応を感知し

ていた。何か巨大な物が空気を裂く音が、ここにまで聞こえてくる。周囲の木々がざわめき

生命の危機を察知した動物達が騒ぎだした。



 ここまで来て漸く、エリオは最後の一人が誰なのかを理解した。デバイスの表示を努めて

無視し、自分の勘が正しいことを証明するために空を凝視する。



 エリオの視界を、白が覆った。



 数瞬遅れて、エリオの小さな身体など吹き飛ばさんばかりの突風が吹き荒れる。空を見上

げることに集中していたエリオは対応が遅れ、本当に木の葉のように吹き飛ばされた。



 強風の中で、上手く姿勢を立て直すことが出来ない。軽い怪我くらいは覚悟し身を固めた

エリオの腕を、何時の間にか移動していた恭也が当たり前のように掴んでいた。



 そのまま野菜でも引っこ抜くように強引にエリオを引き寄せ、抱きとめる。鼻をついた恭

也の臭いに思わず胸が――強く、頭を振る。体勢が安定したと見ると、エリオは強引に恭也

を突き飛ばし距離を取った。



 反動で転びそうになるものの、その頃には空にいた白い影も遠ざかっており、風も弱まっ

ている。無様を晒さずに済んだと、人知れず安堵すると共に恭也を睨みつけると、彼は既に

こちらに背を向けていた。



 それはそれで、面白くない。



 それに、そのままでも大事はなかったとは言え、形の上では恭也に助けられたことになる。

エリオ・モンディアルは侮られることが大嫌いだった。礼も言えないような人間と思われる

ことなどあってはならないことだ。



 どうせ彼は地獄耳だ。他の誰に聞こえなくても、その耳には届くだろう。



「あ、ありがとう……」



 小さじ一杯の感謝を込めて、エリオは蚊の鳴くような声で囁いた。周囲では風が唸ってい

る。いくら恭也でも聞こえなかったか、と柄にもなくエリオが不安に思った矢先、恭也は後

ろ手に軽く手を挙げ、二度、ひらひらと振って見せた。



 それが妙に嬉し――強めに、頬を抓った。自分は何も見なかった、思わなかった……



 よし、と頬を叩いて気合を入れなおす。いつも通り、いつも通りと呪文のように心の中で

繰り返し、もう一度エリオは空を見上げた。



 速度に任せて一度通り過ぎた白い影がちょうど、エリオ達の遥か上空に戻ってきた所だっ

た。大きな翼をはためかせゆっくりと下降してくると、再び風が強くなってくる。



 今度はしっかりと地面に脚を踏ん張って、飛ばされないようにする。無様を晒して恭也に

抱えられるのはご免だ……そう思いながら段々と大きくなっていく白い影を睨みつけた。



 一際大きな突風を撒き散らして、白い影――白龍は着地した。大きな体を震わせ、長い首

を地面に降ろし頭を垂れる。



 その背に乗っていた少女がよたよたと首を上を歩き、えい、と小さく叫んで、地面に降り

立った。身に纏った白い民族衣装が、さらりと風に流れる。



「遠いところ、良く来てくれたな」

「いえ、いえ。こちらこそ、呼んでくださってありがとうございます」



 少女が頭を勢い良く下げると、背後の白も彼女に習って頭を下げ――ようとしたが、既に

頭を垂れていたので、のたのたと地面を僅かに移動しただけだった。その動きがコミカルで、

美由希とギンガから小さな笑い声が上がった。



「フリード、ありがとう」



 と、二人の声で気づいた少女が慌てて言うと、間髪いれずにフリードは光に包まれた。目

眩むような閃光が収まると、そこにはパタパタと頼りなげに中空を漂う――飛ぶ、とはどう

してもエリオには表現出来なかった――小さなフリードの姿があった。



 頼りなく翼を動かしたフリードは、少女の元を――通り過ぎ、迷わず恭也の肩に飛び乗っ

た。恭也は猫にでもするようにフリードの喉を撫でる。



 それでフリードは喜ぶのか。ドラゴンの生態に詳しくないエリオは首を傾げたが、当のフ

リードはきゅくー! と気持ち良さそうに鳴いていた。嫌がっているような様子はない。少

なからず喜んでいるのだろう。



「あの、恭也さん……」



 エリオがドラゴンの生態について、軽いカルチャーショックを受けていると、ギンガがお

ずおずと声を挙げた。



「そちらの方が、最後の参加者なんですか?」

「ああ……そうか、お前は顔を合わせたことがなかったな。自己紹介を頼めるか?」



 お安い御用です! と少女は答えた。少女が求めると、フリードはパタパタと中空を移動

し、少女の腕の中に納まった。小さな二人はギンガの前に歩みでると、揃ってぺこりと頭を

下げる。





「はじめまして、私はキャロ・ル・ルシエです。この子はフリードリッヒ。二週間の間、ど

うぞよろしくおねがいします!」