「ティアナ、これから時間を作れるか?」

 いつも通り、つまりはこちらの限界ギリギリまで追い詰める地獄のような訓練の後、ペアでストレッチをしながらクールダウンをしているティアナの元に現れた恭也は、いきなり爆弾を落とした。

 あまりと言えばあまりのことに、ティアナの身体は硬直する。

 嬉しさからだけではない。刺すような殺気がティアナの身体を一瞬にして包んだからだ。

 この場で最も強大な殺気を放っているのはフェイトである。なのはとヴィータが所用で席を外しているため、今日の訓練担当は彼女だった。共に訓練していたのだから当然、汗もかいている。長い金髪は汗で顔に張り付いていて、俯いたその顔からは表情は見えない。

 ただ、ぶつぶつと何か、聞き取れないような声量で呟いているその姿は、誰が見ても精神の安定を欠いているように思えた。控えめに言っても次の瞬間には亡き者にされるのではないかという疑念がどうしても消えてくれない。

 このまま良くない方向に話が進めば、この人は容赦なくこちらを蹴落としにかかってくるだろう。それに対抗する術を持たないティアナはただただ、そうならないことを祈るばかりだった。

 フェイトに比べれば、エリオのなどかわいいものだ。直接的ではない分だけ、まだ強引に無視することもできる。自分は何も関係ありませんという風を装いながらも、耳はしっかりとこちらに傾けているのがはっきりと分かった。一緒にストレッチをしているキャロはそんなエリオの様子に苦笑を浮かべているが、笑いたいのはこちらの方である。

 殺気に指向性でもあるのか、それとも単に他の皆が鈍いだけなのか、恭也の発言にぴりぴりとしているのは殺気を発している二人と、それを受けている自分だけという構図だった。こういうものに敏感なはずの恭也が気づかないはずなないのだが、諸悪の根源たる恭也はエリオ以上に割れ関せずと、ティアナの返事を待っていた。

 これはお誘いだ。待ちに待ったお誘いだ。

 何度も夢に描いて、答えなどそれこそ幾千、幾万通りもシミュレートした伝説のアレのお誘いだ。

 答えは勿論イエスである。恭也からの申し出を断るなど、ティアナ・ランスターにはありえないことだ。

 しかし、ティアナも命は惜しい。恭也がモテて、彼を狙っている女性が少なくないことは、恭也を知る人間の間では常識なことだった。何より恭也の義妹的ポジション――的、というのが対外的には重要らしい――であるフェイトからして、恭也ラブなことを宣伝して回っている。

 エリート執務官らしく実にエレガントに事を運ぶフェイトだが、その方針は噛み砕いて言うと恭也に近付く奴はぶちのめす、ということである。有形無形の圧力を受けて恭也に近付くことを諦めた女性は、三桁を越えるとか越えないとか。

 いい年をした大人が家族の人間関係に口を出すのはどうかと思うものの、恭也が義兄ならばその心配も分かるというものである。

 見た目が良いのもさることながら、身に纏うその雰囲気が世の男性とは違う。近くで見ることの多くなったティアナでも上手く言葉にすることができないが、危うさと頼もしさが同居したような女が目を向けずにはいられないような雰囲気を恭也は持っているのだ。

 自分の欲目がそうさせているのかと一時は戸惑いもしたが、総務部主催の『管理局内抱かれたい男ランキング』において五年連続トップ10にランクインされたのを見るに、どうやら自分の勘違いではないらしいと思うに至った。恭也を良いという人間は少なからずいるとうことである。

 異性を論評するに当たり、女性のそれは男性よりも遥かに強かだ。紙面のにぎやかしのようなしょうもない企画ではあるが、それだけにそこにランクインされる男性は決して容姿だけで選ばれたりはしない。家柄、階級、将来性まで含めた実に打算的なランキングであり、独身のうちにランクインされることが、男性局員の将来性を占うとも言われている。

 そんなランキングにあって、恭也はここ五年の間ランクインし続けているのだ。佐官よりも下の階級でのランクインすら十年ぶりの快挙であるのにそこに残り続けているというのだから、彼の人気が一過性のものではなく確かなファンを構築しているのだということを意味してもいた。

 得票数こそ公開されていないが、ファンの数は年々増えているだろうことをティアナは察している。増えた分だけフェイトにぶちのめされた人間も多いということだ。年々増えて行く敵にフェイトもさぞかし気をもんだことだろうが、今はそんな恋敵の心配をしている場合ではない。

 何故ならそのぶちのめされる対象に、自分が選ばれたかもしれないのだから。

 思いを寄せる、憧れるくらいならば見逃してくれるということは、経験上分かっていた。恭也コンのフェイトであっても、その全てを排除していたのでは恭也の人間関係が立ちいかなくなることは分かっているようで、むしろ同好の士とでも言うように気さくに接してくれたこともあるほどだった。

 しかし、目の前で恭也からアプローチを受けたのならば、話は別らしい。今のフェイトから立ち上る気配はエリート執務官などでは断じてなく鬼神か何かのそれだった。身の安全のためにも関わるべきでないと本能が警告しているが、自分の中の乙女がこの場から立ち去ることを拒否していた。

 恭也からのお誘いである。待ちに待ったお誘いである。

 それには命を賭けるだけの価値があった。例えこの後、若手最強の魔導師の一人であるフェイトと『おはなし』することになろうとも、ティアナ・ランスターはここから逃げない! 

 金髪のあくまに立ち向かう覚悟と大人の階段を登る覚悟をばっちりと決めて、ティアナは肯定の意思を返した。

「はい、もちろんです!」
「そうか。では医務室に行こう。シャムには話を通してある」

 既に場所まで! とティアナの心はときめいたが、外野はそれどころではなかった。抜き差しならない状況だと判断したらしいフェイトが恭也の視線を遮るように、ソニックムーブで一瞬で移動する。

「恭也、流石に不純異性交遊は見過ごせないよ!」
「……お前は何を言ってるんだ」
「惚けても無駄だよ! 医務室に連れ込んでティアナに何をするつもりなの!?」
「何をと言われてもただのマッサージだが……」

 困惑すらせず当然だと言わんばかりの口調の恭也にフェイトは更にヒートアップ……しなかった。

「ああ、うん。マッサージなんだ」
「マッサージだな。何ならお前も受けていくか?」
「あー、私はいいよ。私の分もしっかりティアナにしてあげて?」
「お前がそういうなら俺はそれで構わんが……」

 何か言い足りなさそうな恭也を他所に、フェイトは強引に話を纏めると足早に去っていく。気づけばエリオとついでにスバルもいなかった。残っているのは微妙に毒気の抜けてしまったティアナと、キャロのみである。

「キャロ、リオはどうした?」
「スバルさんと走って行っちゃいました」
「何も逃げることはないと思うのだが……お前はどうだ?」
「マッサージですか? いえ、私は遠慮しておきます」

 できた幼女であるキャロはティアナの方を一瞥すると、ぺこりとお辞儀をして去って行った。年下の友人に心中で感謝するティアナである。自分があれくらいの時に、男女を二人きりにするという配慮はできなかったろう。年上に恋する乙女という属性以外は何一つ被っていない仲間であるが、今度食堂で何か奢ろうと心に決めるティアナだった。

「では、行くか」
「はい! その、お手柔らかにお願いします!」
「そう畏まることはないだろう。たかがマッサージだ」

 と恭也は言うが、構えずにはいられない。先ほどよりは流石にテンションは下がったが、それでも密室で恭也と二人きりになることに変わりはない。むしろマッサージという単語が出てきたことで、より現実味を持った未来にティアナは別の意味で興奮した。

 マッサージということは、色々と身体を触られることになる。意中の人に身体を許すのだと考えれば、これも素敵イベントに違いはなかった。

 萎えかけた気持ちを再び盛り上げ、前を行く恭也の後をついていく。普段の彼女であればすぐに気づいただろう、背後で動く影に気づかないまま……





















 三日ぶりに訪れた医務室は本当に無人だった。主であるシャマルの姿はどこを探してもない。

 大人の女性然としたシャマルだが、恭也の知りあいというだけあって、たまにどうしようもない悪戯をすることがある。いないふりをしてカーテンの裏に隠れているなど、考えられないことではない。

 せっかくの二人きりなのに、邪魔をされては叶わないと、およそ人が隠れられそうな範囲については全てを確認した。姿を隠している可能性もあるので、手で探るという念のいれようだ。

 もっとも、シャマルほどの高位魔導師ならば、自分に見つからないように隠れることなど造作もないだろうし、部屋を監視するだけならばもっと簡単のはずだ。

 ましてこの医務室はシャマルの『城』である。御伽噺ならば罠の一つが仕掛けられても可笑しくない場所だ。盗撮されているのかも、というのはこれからときめく予定の乙女には気分の悪いことであるが、疑い始めたらキリがない。見たければ見るが良いと開き直ることにして、ティアナはベッドに腰を下ろした。

 ちなみにシャワーは浴びている。どうせまた汗をかくのだからと言う恭也を反射的に殴り飛ばしてしまいそうになったが、それはぐっと堪えた。好きな異性に身体を触られるのである。年頃の乙女には色々と準備があるのだと納得させ、十分な時間をかけてシャワーを浴びてティアナはここにいた。

 ツインテールを残すかは最後まで悩んだが、今回は素の自分を見せることにした。こういう時のギャップに男はときめくんよ! と耳年増全開の部隊長からのアドバイスを思い出したからだが、果たしてこんなことで効果があるのか。

 まだ少し湿っている髪を手で弄びながら考える。

 少なくとも恭也がいつもと違う自分にときめいている様子はない。ポーカーフェイスの得意な恭也だから本当のところは分からないものの、獣欲を抑えきれないほど興奮しているということはないだろう。

「さて、始めるか。楽にしてくれて良いぞ」

 そんな大人の女性と付き合いの多そうな恭也が、てきぱきと準備をしながら呟く。勝手知ったる我が家という感じでタオルや洗面器などを取り出し、洗面器に湯を張る姿は救護魔導師でもないのに様になっていた。

 看護師とかも似合うかもしれないと、その姿を見て思う。白い看護師の服を着て病院で働く恭也なら、大した用事はなくても看護されないときっと思うだろう。白い服が壊滅的に似合わないような気はするが、それはそれでOKだ。ギャップ萌えだ。

「う、うつ伏せとかになった方が良いんでしょうか!」
「座ったままでも良いが……その方が楽か。ではそのように」

 という恭也の指示に従い、ベッドに寝転がる。その傍らに恭也が立つと、ティアナの緊張は最高潮に達した。今まで身体を触られたことがない訳ではないが、ここまで意識的に、近い位置にくるのは初めてだった。

 恭也の手が背中に触れる。いつも見ている通り、ごつごつとした男らしい手だ。その手が背中をすっと動くと、ティアナから溜息が漏れる。ただそれだけなのに、気持ちよい。好きな人に触れられている幸福感に人知れず酔っていると、何かを探り当てたのか、恭也の手がぴたりと止まった。

「始める前に行っておくことがある。どういうことになったとしても、俺はお前を軽蔑したりはしないから安心してほしい」

 それはどういう、とティアナが疑問に思うよりも早く、恭也の手がティアナの背を押さえつけ――

 ゴキリ、という音がした。

 音の後に壮絶な痛みがくる。訓練校時代も今も何度も強烈な痛みを経験したが、これはそのどれよりも強烈だった。悲鳴を挙げるということすらできず、ベッドの上で悶える。反射的に暴れる身体を恭也は巧みな重心のコントロールで押さえつけていた。

 動かないように押さえつけながらも、恭也の侵略は止まらない。動けないのを良いことに恭也の手はティアナの身体を這い回り、その場所を見つけると容赦なく手を加えた。

 その度にティアナの身体からは悪夢のような音が発せられる。その度に痛みが身体を駆け巡った。意識を失わなかったのは、一重に恭也の前だからだろう。悪戯好きの恭也が態々宣言までした意味がようやく分かった。痛みに薄れていく意識の中、しかし、どうにか気絶だけはしないようにと、もはや意地だけで意識を繋ぎ止める。

 実際には、三分もなかったろうが、その苦悶の時はティアナにとって無限にも感じられた。荒い息をつきながらも意識を保っているティアナを、恭也は意外な物でもみるように見つめている。

「驚いたな。気絶くらいはするかと思ったが」
「……恐縮です」

 短く答えるのが精一杯だった。呼吸を整えることに努めているせいで、恭也の顔も良く見えない。

 目に溜まった涙を恭也が指で拭ってくれる。大きな手が顔に触れる段になってようやく意識も鮮明になってきた。自分の格好を気にする余裕も出てくる。汗を大量に吸ったTシャツはぴったりと身体に張り付いており、身体のラインをこれでもかと主張していた。

 羞恥心が痛みの残滓を押し流し、ベッドの上で飛び起きて身体を隠す。もっとばっちり見せておくべき、と小さな自分が頭の中で感情的に抗議しているが、理性的な自分がそれを蜂の巣にする。

 恭也が自分のような小娘の身体のラインが見えた程度で興奮するような男性なら、とっくに勝負はフェイト辺りの圧勝で終わっていただろう。スタイル抜群の女性というものを、恭也は常日頃から見慣れているのだ。家族であるフェイトもそうだし、同僚の美由希にすずかもそうだ。

 誰の耳にも入っていないだけで、彼女らとの間にもこういうイベントは数え切れないほど遭遇してきたことだろう。ここで慌てたりチャンスだ! と思ったりするのはバカらしいことだ。流行る気持ちを理性で落ち着かせると、今度はテンションが下がってきた。

 もしかして女性として見られていないのではないか。そもそも年上趣味なのではないか。噂になっているロウラン准将とは本当のところどうなのか。というか、ロウラン准将辺りが恭也の趣味ど真ん中なのだとしたら、年下の後輩である自分にはどうしようもない。

 あんな妖艶という言葉が形になったかのような百戦錬磨の女性を相手に、勝てると思える女は数えるほどしかいないだろう。正直、能力的な物は勿論のこと、女性としての魅力で勝負したとしても勝てる気がしない。唯一、魔導師であるということがレティになくてティアナにあるものだったが、それを補ってあまりあるほどの能力をレティは持っている。

 何しろ魔導師、前線職上位の管理局にあって、内勤ほぼ一筋で本局を支配するまでに至った女傑である。紫紺の女帝、本局の魔女という大仰な二つ名に恥じない仕事っぷりは地上本部にまで知れ渡っている。管理局を支配するのに最も近い位置にいるとさえ言われているのだ。二士であるティアナからすれば、まさに天上人である。

 ……女性の魅力については将来性に期待することにする。

 ともあれ、これで地獄の時間も終了だと思うと、気分も安らかになった。痛みも通り過ぎた今となっては、恭也と過ごすことのできる時間が終わってしまうことの寂しさの方が先に立ってしまう。痛みの渦中にあった過去の自分が聞けば激怒しそうな思考であるが、喉もと過ぎれば何とやらだ。

 呼吸を整えて体を起こす。汗は乾き始めてきたが、まだ完全には乾いていない。臭いの気になる乙女としては一刻も早く着替えたいところだ。年頃の少女としての使命感にかられてベッドから降りようとするティアナに、しかし、恭也が声をかけた。

「どこに行く?」
「いえ、汗をかいたので着替えてこようかと」
「着替えたいというのなら構わないが……どうせまだ汗をかくぞ? それからでも良いのじゃないかと俺は思うのだが……」

 思うと言いつつも強制力は感じない。自分の言葉に自信を持っていないような雰囲気が感じられた。訓練の時には見られない恭也である。そんな恭也をかわいいと思いつつも、ティアナは言葉の意味を考えた。

 これはもしかすると、本当にもしかするのだろうか。この後に汗をかくようなことが? 乙女脳がフル回転し、自分の未来を想像する。

 もし本当にその通りになるのだったとしたら、余計にシャワーを浴びなければならない。それとも汗の臭いがするくらいの方が恭也の好みなのだろうか? その通りなのだとしたら少し引くが、それが恭也の趣味嗜好なのだとしたら応えない訳にはいかない。

 恋する乙女は自分よりも、思い人を優先するものなのだ。恥ずかしいが、仕方がない。恭也のためだと割り切ることにして、ティアナは大人しくベッドの上に戻った。

 覚悟を固めるティアナを前に、恭也は再び近寄ってくる。

「では、マッサージを始めるか」
「……」

 恭也の言葉にティアナは沈黙で答え、黙ってうつ伏せになった。何となくではあるが、そんな気はしていたのだ。世の中っていうのはこんなはじゃなかったってことばっかりだと、心の何処かで分かっていた。それでも期待することをやめられなかった自分に恥ずかしい思いをしながらも、恭也と二人きりでいられる時間が増えたことには素直に幸福を覚える。

(もしかして私はマゾなのかも……)

 恭也に会えるのなら、痛みも受け入れると自然に考えている自分の性癖に、ティアナは一抹の疑問を抱く。アブノーマルな道に落ちていく自分を想像するのは初めての経験だったが、恭也が自分の身体に触れるに至り、気持ちは現実に引き寄せられた。

 痛みの時間がまた始まる。それに抵抗する術はティアナにはなかった。



















 後から聞いたところによれば、最初のゴキゴキは整体で、後の行為こそが本当にマッサージだったらしい。二回に分けたのはそうでもしないと途中で気絶しそうだったからだとのこと。痛みを和らげるようにできないのかと遠まわしに聞くティアナだったが、こういうのは痛い方が効くというのが恭也の弁だ。

 実に体育会系の発想である。スバル辺りと気の合いそうな考えであるが、その痛みの被害者としては溜まったものではないだろう。痛みに耐性のありそうな恭也が、相手が痛みで気絶することを心配するなど、正気の沙汰ではない

 事実、あまりの痛みに気絶しそうになったのは、整体とマッサージの時間合わせて三十分ほどの中でも片手の指ではきかないくらいの回数だった。多少の訓練を受けているティアナでもこれなのだ。痛みに縁のない普通の女性だったら最初の整体の段階で気を失っているだろう。

 いっそ気を失っていた方が、ロマンスはあったのかもしれない。微妙に痛みに耐性のある自分を恨めしく思うティアナだったが、過ぎた時間は戻らない。整体が終わった時よりも更に汗をかき、荒い息をつくティアナの横で恭也は済ました顔をしている。

 マッサージは終了した。終了してしまった。気絶せずに痛みを耐え切ったティアナだが、痛みを乗り越えて得たものはあまりに少ない。

「シャムの言うことには着替えは向こうに用意してあるらしい。俺は向こうを向いているから、着替えたらどうだ?」
「そうします……」

 用意の良いことだが、シャマルならありえることだ。脳裏に微笑む同僚の魔導師の姿を思い浮かべながら、恭也の示したロッカーを探す。それはすぐに見つかった。中には隊長副隊長まで含めたフォワード八人に、美由希、すずかを含めた十人分の着替えが袋に小分けされて用意されている。

 スターズの自分に用意されているのは白いTシャツだ。袋を開けると、白い何かが床に落ちた。下着である。上下一組になったものがTシャツと一緒に袋に入れられていたらしい。持ち上げてみるとサイズもぴったりのようだった。何時の間にそんな……と女性として危機感を覚えるティアナだったが、六課に配属されてすぐに健康診断という名目でサイズを計測したのを思い出した。

 医療担当のシャマルならば、そのデータを知れても可笑しくはない。シャマルの人間性を疑う訳ではないが、門外不出にしてほしいデータである。特に、恭也には知られたくはない。

 着替えを手に持ちながら、ちらりと振り返って恭也を見る。電気ポットに目をやっていてこちらを見向きもしていない。普通、年頃の少女が間近で着替えるとなれば気も漫ろになるものだと思うのだが、恭也には全くそれを気にした様子はなかった。

 女としてのプライドが揺らぐ瞬間である。女として見られてはいないのかしら、と悶々としながら着替えスペースとしてカーテンで区切り、汗を吸ったTシャツと下着を脱ぎ新しい物に着替える。サイズは本当にぴったりだった。用意されていたタオルで汗をふき取り、脱いだものを袋に詰めなおす。

 シャワーを浴びたいところだが、一度部屋に戻った方が良いだろう。まだ自分の分の着替えはストックされているようだが、これはあくまで今日のような緊急用だ。用意されているのだからと簡単に使っていたら、すぐになくなってしまうのは目に見えている。

 こういう仕事をしているとシャツなどは消耗品だ。申請すれば無料で支給されるが、ここのストックの管理はシャマルの仕事で、消費したということは当然シャマルの知るところとなる。

 問題なのは、ここのストックは下着とセットであるということだ。医務室でそれらが高い頻度で消費されるというのは、誰であってもいらない想像をかきたてられる。恋する乙女としては恭也とそういう噂が立つのは望むところではあるものの、あのフェイトの耳にそれが入るのはよろしくない。これ一つで勝負が決まるというのならばまだしも、女性に対しては高い防御力を誇る恭也が相手ではそれも難しいだろう。

 人間として尊敬できる大変良い人だが、恭也絡みでフェイトに目をつけられたまま一年という長い時を一緒に過ごすのは勘弁願いたい。

 考えれば考えるだけ、恭也・テスタロッサという人間の攻略の難しさが見に沁みてくる。

 果たして、この人の伴侶となるのはどういう人なのか。そこに立つ自分を想像してみても、あまりしっくりと来ないことに苦笑を浮かべてみる。

(要は、もっと自分を磨きましょうということね)

 考えくらいはせめて前向きに。後ろ向きに考えていても、そこから良い結果はいられない。勝負を諦めないのならば、せめて気持ちくらいは攻撃的でなければ、こんな強敵の中では生きていけない。

 ティアナ・ランスターは凡人だ。努力することを放棄しては勝利することはできない。諦めることなく自己を研鑽し、欲しいものは全て手に入れてきた。

 その勢いで恭也も、というのは流石に虫が良すぎるだろうか。

「甘くないココアを淹れてみたが、飲むか?」
「いただきます」

 恭也からカップを受け取り、ベッドに腰を下ろす。恭也はパイプ椅子を引き寄せ、ティアナの正面に座った。ラフに着崩された戦闘服から見える胸元が実に色っぽい。ティアナは直視できずに視線を逸らした。

(これって立場が逆よね……)

 恭也の視線が相変わらずぶれていないことも、恥ずかしさに拍車をかける。熱いココアに息を吹きかけながら揺れる液体に視線を注いだ。

「そういえば、どうして甘くないココアなんですか?」

 恥ずかしさを誤魔化すために質問を口にする。医務室にはここで仕事をするシャマルのために、他にもお茶が用意されている。コーヒーに紅茶、恭也の故郷から持ち出してきた珍しいお茶もあるが、恭也が用意したのはそれらスタンダードなものを無視してココアだった。

 しかも甘くないココアである。甘い物が苦手な恭也の嗜好を考えれば甘くないというのは理解できなくもないものの、それならばコーヒーや紅茶でも問題ないはずである。事実、恭也がココアを飲んでいるところを見るのは、これが初めてだ。

 時間を埋めるためにしたあまり意味のない質問だったのだが、恭也は不意を打たれた形となったらしい。少しだけ驚いたような表情の後に苦笑を浮かべ、カップの中に視線を落とした。

「医務室で飲むとなると、俺はこれしか思いつかなかった。口に合わないようなら他のものにするが」
「いえ、そういう訳では」

 元より、嗜好品に口を出せるほど舌が肥えている訳でもない。それに恭也が淹れてくれたものに文句があるはずもなかった。甘くないココアは恭也の好みを反映するように本当に甘くなかったが、恭也が淹れてくれたと思うと美味しく飲むことができた。

「それにしても、良く堪えたな。より効果があるように痛みを感じるようにしたはずだが、気を失わないとは驚いた」
「これでもスバルの友達ですから。ああいう直接的な痛みには地味に慣れてるんです」

 直接戦闘の訓練をスバルと一緒にしていた時は、防御しそこなった拳が直撃するのが日常茶飯事だった。徒手格闘については訓練校の教官よりも優れていたスバルであるが、人に教えるのは初めての経験であったらしく加減の仕方が分からないスバルの拳は良くティアナを打ち据えたのだ。

 年頃の少女としてはあまり口にしたくない思い出であるが、その経験がティアナを痛みに強くした。恭也の痛みはスバルの拳よりも大分痛かったが、その経験があったからこそ今の自分がいるのだと思うと、今よりさらに未熟だった頃の思いでもどこか誇らしい。

「それでも良く堪えた。お前くらいの年齢でこれを受けて気絶しなかったのは、スバル以外では初めてだ」
「フェイトさんやなのはさんもですか?」
「奴らは十代前半の頃にやったからな」
「それは地獄を見たでしょうね」

 そんな幼い少女にも、手加減せずにマッサージをやったろうことは想像に難くない。恭也の面相もあり、傍から見たら幼女虐待の瞬間であるが、空気の読めるティアナはそれを口にしないことにした。

「痛いだけあって効果はあるだろう。マッサージを受ける前よりも身体は軽くなっていると思うが、どうだ?」
「言われてみれば……」

 鈍く身体の中に残っていた疲れや小さな痛みが、綺麗になくなっているのである。身体の何処にも不調を訴えるところはない。訓練の後ではあるが、これならばもう1セットでもやれるような気がする。気がするだけで欠片もやりたいとは思わないが、それくらいにティアナの身体は軽かった。

「魔法を使わなくてもこういうことってできるんですね」
「何でも魔法技術を前提に考えることが、この世界の悪い常識だな」
「恭也さんはどうしてこういう技術を?」

 恭也がこういう技術を習得していることは雑誌の情報で知っていたが、来歴までは紹介されていなかった。基本的に過去を語りたがらないというのが、恭也ファンの間では常識である。公式にフォローされているのは、管理局に入局するまでで、それ以前の情報については何処を探っても得ることができない。恭也にまつわる謎の一つだった。

「独学で指導をせざるを得ない状況にあったことがあってな。健康や体調を管理することを考えていたら、自然に身についていたよ」
「私も覚えておいた方が良いのでしょうか」
「覚えておくに越したことはないだろうが、執務官を目指すのならば他のことを覚えるのに時間を使った方が良いだろうな。俺は他に手段がなかったから覚えたが、こういうことを専門にする人間がいるのならそいつに任せた方が良いと思う」
「私がもう一度やってほしいと言ったら、恭也さんはしてくれますか?」

 ティアナの言葉に、恭也は驚いた表情を見せた。

「チャレンジャーだな、お前は」
「駄目ですか?」
「いや、駄目ということはない。時間が空いている時なら付き合うが……痛いぞ?」
「それは身をもって知っています」

 知っているが、今日は堪えられたのだ。ならば次も堪えられるだろう。痛みと引き換えに恭也と一緒にいられるのなら、それはやっぱり安いものだ。恋する乙女としては当然の選択だと思うが、反応を見るにそれは珍しいことなのだろう。スバルもエリオも、フェイトさえも恭也の申し出の前に逃げていたことを思うと、自分からお願いしたのは初めてなのかもしれない。

 恭也にとって初めて……良い響きだった。
 
 ティアナが密やかに満足していると、恭也が部屋を移動する。何気ない仕草ではあるが、足音も衣擦れの音も全くしない。目でその姿を捉えているはずなのに、存在感すら気迫に感じられる。これを魔法でなく技術のみで行っているのだから、恐れ入るばかりだ。

 そんな技術を披露してまで何をするのかと見つめていると、恭也は気配を殺したままドアの前まで移動した。こちらに向かって、唇に指を当てる。静かに、というその仕草にティアナは疑問を深めるばかりだったが、それはすぐに氷解した。

 恭也がいきなりドアを開く。そこにいたのは――

「さて、お前は何故ここにいるんだ? スバル」
「……ティアが大人の階段登っちゃうかもと思ったら親友として心配で」

 誤魔化すように愛想笑いを浮かべるが、要約するとそれは覗きだった。恭也は惚れ惚れするほどにわざとらしい微笑みを浮かべると、スバルを部屋の中に招き入れる。それに促されスバルは自発的に部屋に入った……形の上ではそう見えただろうが、恭也の表情からは逆らうことは許さないという不可視のオーラが感じられた。

 動物的勘の優れるスバルである。この場で逆らったらどうなるかというのは、何を言われなくても理解しただろう。汗をだらだら流して無言でいる親友にティアナもにっこりと微笑みかける。

 二人きりの時間を過ごしたという事実に変わりはないが、そこに覗きがいたというのはいただけない。視線があったのでは、ケチがついたも同然だ。これには報復しなければならない。乙女の恨みは怖いのである。

「恭也さん、スバルもマッサージしてほしいそうですよ」
「そのようだな。スバル、そこに横になると良い。ティアナにマッサージしたことで俺の身体も温まってきた。今なら先ほどの三割増しくらいの威力を出せることだろう」
「マッサージに威力って可笑しくないかなキョウ兄」
「俺のマッサージは攻撃力でサービスを判断するのだ」

 それでも何か文句を言い募るスバルに、恭也の足払いが決まる。見事なまでに体勢を崩されたスバルはベッドの上に放り投げられた。その上で転がって逃げるよりも早く、恭也はスバルの背を押さえつける。

 まさにまな板の上の鯉。スバルはあっさりと抵抗するのをやめた。

「……せめて優しくしてね?」
「あんたが恭也さんにそういったってことは、ギンガさんに伝えておくわ」
「そういう嫌がらせやめてよティア!」

 それがティアナが聞いた、スバルの最後の意味ある言葉だった。それから十分ほど、スバルは悲鳴を挙げ続けた挙句、ベッドの上で気絶した。

「さて、時間があるようだったらこれから食事でもどうだ?」
「是非お願いします」

 ぴくりとも動かないスバルを他所に、ティアナは足音も軽く医務室を後にした。

 少し前を恭也が歩いている。その広い背中を見ながら、思った。

 いつかこの人の隣を歩いてみたい。近くて遠い背中を見ながら、その願望を現実にするための努力を続けることを、改めて心の中に刻み込んだ。