nのフィールド――無限に近い数の有限個の世界が存在する世界に、そこが何番目かも忘

れ去られた世界がある。番号も名前もなく訪れる者すら稀なそんな場所、何もない部屋。そ

の中央には真円のテーブルが一つあり、その周りには番号のつけられた八つの椅子が並べら

れている。



「まったく、むかつくです、あんちくしょ〜」



 その一つ、『V』と書かれた椅子に座るのは、フリルのふんだんにあしらわれた翠色のド

レスを着た少女だった。頭には白いレースを乗せ、少々癖のある茶色の髪は地面につきそう

なほどに長い。黙って座っていれば、文字通りお人形のような少女なのだが……



「毎日毎日、呼ばれもしないのにやってきては、ジュンにべ〜ったり。何様のつもりなんで

す? それに、ジュンもジュンですっ!! 翠星石というものがありながら、あんな赤い女

に鼻の下を伸ばして――」



 この少女、少々口が悪いのだ。このお茶会の発起人は彼女――翠星石であるはずなのだが、

席についてからの彼女はずっと、ここにはいないとある人間の愚痴ばかり零していた。微笑

ましい光景、と彼女の普段を知っている者なら思うのだろうが、今日の彼女はその『ここに

はいない人間』に対してよほど思うところがあるのか、口から吐き出される愚痴に、いつに

もまして力が篭っている。



「翠星石、その、のろけ話はそれくらいにしてもらっていいかな……」



 ともすれば、一晩くらいは延々と続いていたろう少女の毒舌を止めたのは、翠星石の隣の

席――『W』と書かれた椅子に座った少女だった。顔立ちは翠星石に似ているが、着ている

物は蒼を基調とした、まるで少年のような服である。髪の色は同じだが、翠星石と違って短

く、少女然とした彼女とはまるで正反対だったが、不思議と言うか何と言うか、少年のよう

な格好をした少女の方が随分と落ち着いて見えた。



「の、のろけ話とはなんですか、蒼星石っ!! 双子の姉がこんなにも困ってるというのに、

ですぅ」



 あくまで筋を通した発言をしたつもりの蒼星石だったが、ぷりぷりと怒っている翠星石に

は効果は薄かった。自分と彼女の二人だけだったら一晩でも愚痴に付き合っあげてもよかっ

たのだが、今晩に限ってはそうも言っていられない理由があった。少し離れたところから発

せられる剣呑な気配を気にしながら、



「翠星石が困ってるのは分かったよ? ジュン君が最近構ってくれなくて寂しいんだろうっ

てこともね。僕としては、姉さんの愚痴をずっと聞いてあげたいところなんだけど、今ここ

にいるのは、僕達だけじゃないから……」



 うっ……と、翠星石は言葉を富め、ブリキのおもちゃのようにゆっくりと、自分から見て

右に二つ隣の椅子を見た。『T』と書かれた椅子には、翠星石達と同じように、一人の少女

が、ただし、不機嫌そうな顔をぶら下げて座っていた。



 背中の大きく開いた黒いドレスに烏のような漆黒の羽根、銀色の髪。翠星石や蒼星石と比

して、随分と大人っぽい印象を与える格好だが、不機嫌とでかでかと書かれた顔はさきほど

までぷりぷり怒っていた翠星石と、子供っぽさでは大差がない。



 しかし、二人の少女は知っていた。この黒い少女こそが彼女達姉妹の中で、一、二を争う

ほど危険な思考を持っているということを。



「お話は済んだのかしらぁ?」



 ねっとりとしたその声に、翠星石はぶんぶんと首を縦に振った。こんな反応をするくらい

なら、最初から静かにしていればいいのに……と、黒い少女――水銀燈は見せ付けるように

大きなため息をつき、優雅に紅茶のカップに口をつける。



「……確認するけど、貴方は私達を愚痴の相手をするために呼んだのかしら?」

「違うです、翠星石はそんな命知らずなことしないですぅ。水銀燈と蒼星石が日本で目覚め

たって感づいたから、確認のために呼んでみただけですぅ」



 当の水銀燈にしてみれば、迷惑もいいところだった。元々彼女は馴れ合いを好まない性質

で、六人の姉妹ともあまり仲がよろしくない。同じマスターに引き当てられたということで、

今回は蒼星石と一つ屋根の下で暮らしているが、他のドールと一緒に暮らすなど水銀燈の数

百年の人生の中で初めての経験である。



「それにしては、翠星石。この場に君しかいないというのはどういうことなんだい? 君は

今、真紅や雛苺と一緒にいるはずじゃないか」

「真紅は紅茶、ちびちびはうにゅ〜とやらに忙しいですぅ」

「もしかして、それを持ってきたのが……」

「あの、赤い女ですっ!!」



 き〜っ、と翠星石は器用に座りながらスタンピング。振動でテーブルが揺れて紅茶に波紋

がたち、水銀燈がまたも迷惑そうな顔をするが、蒼星石のまぁまぁ、という苦笑に、不承不

承文句を引っ込める。呼び出されてからこっち、水銀燈はずっとこんな調子だった。これが

他の喧嘩相手とも言える真紅や、子供然とした雛苺、金糸雀などであれば実力で黙らせるこ

ともできるのだが、今は同じマスターの元に世話になる身。そして過去に彼女を『殺した』

という負い目がある手前、強く出ることができないのだ。



「まぁ、とりあえずムカツク赤い女のことはこっちにおいておくですぅ。それより、一体ど

ういうことなんですか? 蒼星石が水銀燈と同じマスターの元に目覚めるなんて。ちびちび

が『くく』を理解するよりも、ありえねーことですぅ」

「ありえねー、と言われてもねぇ……私も蒼星石も、同じマスターに引き当てられた。それ

以上の意味はないわ」

「アリスゲームも、しないんですか?」

「しないわねぇ。今は、今の生活が面白いのよ」

 

 その発言に、翠星石が目を向いた。彼女の頭の中では、水銀燈=アリスゲーム強硬派、な

のである。最近はずっと、どこの場合でも彼女が戦いを仕掛けてきては、翠星石達がそれを

撃退する、という構図が続いていたのだ。その本人が、アリスゲームをしない、と言い出し

たのだから、驚くな、というのも無理な話である。



「信じらんねーです……前回はあんなに怖い顔して暴れまくった水銀燈が、そんなしゅしょ

ーなこと言うんなんて、ですぅ。これはきっと、日本沈没の前触れに違いねーですぅ」

「そんなことでいちいち沈んでいたら、あと一週間もしないうちに、世界は海の底に沈むわ

ねぇ……」

「まぁ、いいじゃないか、翠星石。僕達は今までが少し殺伐とし過ぎていたんだ。これくら

い平和な方が、ちょうどいいと思わないかい?」

「平和なら、翠星石は何も文句はねーですけど、でも、真紅の奴は文句を言うかもしれない

ですぅ」

「はは……真紅が退屈だ、何て言い出したら、僕も鋏を持たないといけないかもね」



 姉妹の中で最も聡明な彼女に限ってそんなことはありえない、と蒼星石は思っていたが、

意中の相手に構ってもらえなくて退屈しているらしい姉の顔を立てて、今はそういうことに

しておく。



「……翠星石はもう行くですぅ」

「ほんと、愚痴を零すだけ零して帰るのねぇ……」

「きがじゅくすのを待ってるだけです。いずれ折を見ておめーらの今のミーディアムには会

いに行ってやるのです。その時は、おいしいお茶でも用意してまってやがれー、ですぅ」

「楽しみにしてるといいよ。マスターの入れてくれるお茶は、そりゃあ、美味しいんだ」

「期待しねーで待ってるです」

「ジュン君と真紅達によろしくね」



 蒼星石の言葉に応えるように、翠星石の人工精霊――スィドリームが踊るように瞬き……

一瞬で、翠星石の姿は消えうせた。残された蒼星石はまだ紅茶の残ったカップを見つめなが

ら、



「水銀燈……不思議だね。戦いがないなんて」

「そうね。アリスを目指して戦うことこそ、私たちの本分のはず……それを忘れて安寧とす

るなんて、怠惰もいいところだけど……」



 言葉の通り、水銀燈は気だるげに髪をかき上げて、微笑む。



「今みたいな生活も、たまには、悪くないって思うわぁ」

「そうだね。たまには、いいね……」



 蒼星石とて、自分達が作られた目的を忘れた訳ではない。今この時だって、自分に課せら

れた使命は忘れていないし、いずれ姉妹で戦うことも覚悟している。でも、たまには……戦

うために作られた人形にも、鋏を、如雨露を置いて、翼を畳んで休む時間があっても、いい

と思うのだ。





 アリスも、ローゼンも、何も関係なく。ただ、そこに存在する一人の……少女として。





「……そろそろ戻りましょうか、蒼星石。マスターが起きる時間よ」

「今日こそは朝ごはんを作る手伝いをするんだ。水銀燈、準備は十分かい?」

「誰に物を言っているのかしらぁ?」



 愚問だったね、と蒼星石は苦笑を浮かべ、レンピカを呼び出す。水銀燈の隣にはメイメイ

……彼女の人口精霊の姿がある。少女らは声をかけあうでもなく、同時に己が僕を繰ると、

瞬く間にその世界から消失した。







 残されたのは、紅茶のカップと、テーブル、椅子……誰もいない部屋。名前すらない場所

でのお茶会は、今日も唐突に始まり、そして、唐突に幕を閉じた。



































「ふぅ、やれやれ、ですぅ」



 部屋に備えつけられたドレッサーの鏡から、よっこいしょ、とおっさん丸出しの声と共に

現出する翠星石。慣れぬ人間が見れば怪奇現象そのものだが、その部屋にいたのはそれこそ、

怪奇現象そのものだった。



「蒼星石には会えたの? 翠星石」



 第五ドール、真紅が本から視線を上げずに問うてくる。



「水銀燈にも会ってきたですぅ。ありえねーことに、二人ともすごーく幸せそうだったです」

「水銀燈、幸せなの?」



 こちらは第六ドール、雛苺。長い間姿を見ていなかった姉妹の話に、赤い姉よりはよほど

興味があるようだったが、苺大福を食うのに夢中で、自分の誘いを蹴られたという事実を、

翠星石は忘れた訳ではなかった。彼女らの様子を報告してやるのは簡単だったが……



「えい、ですぅ」



 とりあえず、その何も考えていなさそうな顔を上下左右にひっぱってみた。これがまた、

面白いくらいに良く伸びる。『やめてなの〜』と何処かから声が聞こえるような気もするが、

気がする程度なのだから、きっと気のせいなのだろう。



「騒々しいな、何やってんだ? 呪い人形ども」



 迷惑、というオーラを隠そうともしない声が聞こえると、それまで嬉々として妹の頬を弄

んでいた翠星石の動きが、ぴたり、と止まった。



「べ、べつになにもしてねーですよ? ただ、ちびちびがちょっとばかり生意気なことをい

いやがったから、懲らしめてやっただけなのですぅ」

「雛、何も悪いことしてないの〜! 悪いのは、翠星石なのよ〜っ!!」

「……真紅」

「私は何も見ていなかったのだわ」



 声の主は面倒くさそうにため息をつく。『僕は保父か?』、などと悪態をつきながら、尚

も子供のような喧嘩を続ける二人の少女を猫にするように、つまみ上げ、



「ジュンっ! レディに何てことをするですか!」

「わ〜、高いの〜、おもしろいの〜」



 文句と歓声を無視して部屋を横切ると、蓋の開きっぱなしになっていた鞄に、二つの荷物

を放り投げる。ぶぎゅ、と蛙が潰れたような声が聞こえたが、それもジュンは無視して鞄の

蓋を閉めると、その上に錘として椅子を乗せてやった。鞄は自分の存在を主張するようにガ

タガタと揺れていたが、これで随分と騒々しさは軽減された。彼女らの性格を考えれば、後

一時間は騒ぎ続けるだろうが、少し離れて過ごす分には、もう何も問題はない。

い。



「リン、とやらとの会談はどうだったの?」



 真紅が、やはり本から視線を上げずに問うてくる。無関心……を装って、実は興味津々の

彼女の『いつも通り』の様子に、ジュンは苦笑を浮かべながら、あったままのことを答えた。



「会談ってほどのもんじゃないぞ。少し、お前らの話をしてきただけだ」

「そうかしら? あの人間は相当に聡いみたいだから、ジュンが手玉に取られないか心配だ

わ」

「ああいうのは、お前らの相手でとっくに慣れたよ」

「あら、何かコツでもあるのかしら?」



 ここで真紅は、初めて本から顔を上げた。青い宝石のような瞳でジュンをまっすぐと見返

し、小さく首を傾げてくるその姿は、本当にアリスのようで見るものを魅了してやまない…





(それも本質を知らなければ、の話だけどな)



 七体全ての人形を知る彼をして、真紅は一番の曲者である。扱いずらく乗せずらく、口を

開けば紅茶がぬるいだの文句を言われ続け、その細い腕で殴られたことも数知れない。



 しかし、殴られ続けて得たものもある。桜田ジュン、という人間は彼女のおかげで変わる

ことができた、と言っても過言ではない。照れくさく言えば増長するだろうから、口に出し

たことはないが、心の中ではいつも、彼女には感謝しているのだ。それ以上に、憎らしく思

ったりすることもあるが、彼の周りの人形達は、今日も概ね、平和に過ごしている……



「美味い紅茶を入れることだ。お茶の味を知ってる人間なら、これで必ず黙る」

「真理ね、ジュン。それじゃあ、私にもリンを黙らせた紅茶をもらえるかしら?」

「はいはい……ご主人様の仰せのままに……」