another 第六話













「若さというのは恐ろしいものだな。この間と動きがまるで違うぞ?」

「恋をしたからですかね?……」


なんでもない会話をしているが、二人とも既に傷だらけである。

お互い飛針も小刀も投げ尽くし、鋼糸も何回も切断され使い物にならない。

残っているのは、両の小太刀のみだった。


「もう無理なんじゃないですか?コンサートが始まってしまったら」

「私が動ければどうにでもなる」

「そうまでして、美沙斗さんは何を望むんですか?」


美沙斗は昔からそれほど笑う女性ではなかったが、今の彼女ははっきり言って痛々しい。

そこが不幸になる道だと解かっているのに、あえてその道を選んでいるような……それ

でいて、周囲に救いを求めずに一人で抱え込んでいる。


「静馬さん達を亡き者にした組織の情報……それを得て私は、そいつらに復讐する」


復讐という言葉を口にした瞬間、美沙斗の纏う殺気が一段と濃くなる。


「お前も……大切な人を理不尽に奪われたことがあるなら、私の気持ちが解かるはずだ」

士郎が亡くなった時の恭也は、ただ闇雲に剣を振るっていた。

人生の目標と言えた士郎を失い、彼の代わりに美由希を育てなければならないという焦り

から、事故に遭い、膝を砕いてしまった。

だが、失ってみて初めて得た物もある。


「こんな事……もうやめてください。そんな復讐なんて静馬さん達は望んでませんよ?」

「……ならば、私のこの怒りはどこに向けばいい!!静馬さん達の無念は誰が晴らす!!」


失った者の悲しみを知っているからこそ、恭也は美沙斗を止めなければならない。

少なくとも、誰も美沙斗が不幸になる事を望んではいないのだから。


「だからと言って、俺は美沙斗さんのしてる事を見過ごせません」

「うるさい!!私は間違っていない!!」


そして、二人同時に「神速」に入る。

美沙斗は既に「射抜」の体勢に入っているため、例え恭也も「射抜」を使ったとしても、

競り負けてそれで終わりだ。


(そんなことは百も承知。本番は……これからだ)


恭也は自分の中のスイッチを入れ、「神速」の上にさらに「神速」をかけた。

モノクロだった視界がさらに濃さを増し、体にかかる圧力が一段とその強さを増す。

その代償として、動きが格段と遅く見えるようになった美沙斗に恭也は一気に詰め寄る。

これが体に鞭を打って鍛錬し続けた三日間の成果。

「神速」を超えた「神速」、貫、徹、それら全てを合わせた恭也なりの御神流の極地。








『小太刀二刀御神流、奥義の斬式・閃』









「は!……はぁ……」


過度の「神速」から脱した恭也を途方もない脱力感と激しい痛みが襲った。

たまらず倒れこみ、そのままどこかへ行きそうになる意識を何とか繋ぎ止める。


(もう……これは使わないほうがいいな……)


一回使用しただけでこれでは、どう考えても割に合わない。

壊れかけだった膝にもさらにダメージが溜まってしまったが、何とか再起不能にはならず

に済んだようだ。


(フィリス先生……怒るだろうな)


思わず浮かんだ顔を真っ赤にして怒るフィリスの図に、恭也の顔も緩む。


「だから……若い力というのは恐ろしいんだ……」

「俺には、それにすら対応する手練の者の力のほうが恐ろしく思えますけど?」

「……だが、まさか閃を使えるようになっていたとはな……」


その「閃」を食らったにも関わらず、美沙斗は恭也に歩み寄り膝の具合を見た。

美沙斗を戦闘不能にできなかったと確信した段階で死を覚悟していた恭也は、そんな彼女

をただ呆然と眺めるしかなかった。


「どうしたんだ、この膝は」

「子供の時に車にはねられて……」

「御神の剣士が乗用車に負けてどうする?しばらくは鍛錬も休んで養生しろ」

「美沙斗……さん?」

「お前からもらった一撃のせいでな、私も気が変わったようだ」


恭也がつけた左肩の傷を示しながら、美沙斗が言う。

本来であれば、防御した武器ごと切断するはずの技がこの程度で済んだのは、偏に美沙斗

の力量による物だろう。


「……まあ、当然の事ではあるが、自分のした事の後始末はつけんとな」


その言葉から恭也は部屋の外に第三者の気配を感じた。

視線の先では、確かに恭也が閉めたはずのドアが開いていて、その気配が今まさに「それ」

を置いていく所だった。


(爆弾か!?)

「逃がさん!!」


こちらに向かって慇懃に礼をして立ち去ろうとした男に、美沙斗は折れた小太刀の切先を

投げつけた。

それは男の左手に当たり、覆っていた布を切り裂く。


「青い龍の刺青……だと!?」

「美沙斗さん!あれ爆弾です!」


瞬間、「神速」を発動しようとした恭也を激痛が襲った。

さきほどの二段がけが堪えたのだろう、足が全く動かない。


「お前はじっとしていろ!」


恭也の言葉で我に帰った美沙斗は「神速」で一気にそれへと近付き、それを廊下に放り投

げてからドアを閉め、遮蔽物の影に身を投げ出した。



――――!!!



激しい爆音がこの階層を揺るがし、立ち上った煙と熱波が恭也達の部屋に立ち込める


「恭也、無事か!?」

「ええまあ……美沙斗さんさっきの男は?」

「……私に今回の仕事を持ってきた連絡員だ。まさか、奴が「龍」だとは思いもしなか

ったがな……」


美沙斗は無事な方の小太刀を鞘に収め、改めて恭也の傷の具合を見た。


「私はもう行く。悪いが応急処置は自分でしてくれ」

「……さっきの男を追うんですか?」

「心配するな。これからは真っ当な方法で奴らを断罪するつもりだ」

「また、会えますよね?」

「近いうちにな。お前の家にでも顔を出させてもらおう」

「それでしたら、うちのか〜さんがこの町で翠屋って喫茶店をやってますから、そちらに

いらしてください。俺も美由希も向こう一週間はそこでバイトしてますから」

「覚えておこう……」


そう言って踵を返して連絡員を追っていく美沙斗を見送って、恭也は安堵のため息を漏ら

した。


「……命があるって素晴らしいな」


その部屋では煙が立ち込め火が燃えていたが、恭也は全身の力を抜いて、暫くぶりの休息

を楽しんだ。









(爆発か!?)


ホテル全体を揺るがす振動をリスティは誰よりも早く感じ取っていた。

コンサートの客の中にもそれを感じ取った人間はいたようだったが、軽い地震として処理

したのだろう、パニックに陥る人間は一人もいなかった。

通信機で警防隊の人間に自分達が行く事を伝えると、リスティはテレパスの回線を知佳達

全員に繋げた。


『リスティ、今の音なに!?』

『間違いなく爆発だ。那美の行った屋上と、恭也の行った階の二箇所でほぼ同時に起こっ

た。ホテルに構造上の被害が出る心配は今の所ない』

『何これ!屋上見れないよ!』

『那美みたいな退魔師が結界を張ってるんだ。これから私たちで様子を見に行く。セルフ

ィとフィリスは舞台袖に戻って警防隊の指示を待って。知佳は美由希と一緒に恭也のいる階に。急いで!』

『了解!!』


リスティはリアーフィンを解放し、恭也のいる階へと転移した。

視界が切り替わったその瞬間、リスティの目に飛び込んで来たのは立ち込める煙とまだ燻

っている炎だった。


「知佳!いるんだったら頼む!」

「もうやってるよ!」


その声と共に火はあっという間に消え、煙は開いている窓の方へと押しやられた。

救助という仕事柄、知佳が得意とする「消火弾」(エクスト・ボール)と「換気」の効果で

ある。


「リスティさん、恭ちゃんは!」

「こっちだ!……っと酷い有様だな……」


その部屋の扉は爆弾の威力で内側に吹き飛び、それが爆発したと思われる箇所は思い切り

抉れてそれの威力のすさまじさをを代弁していた。


「恭也!生きてるか!?」

「ええ、まあなんとか……」


恭也は部屋の壁にもたれ掛かり、呑気にこちらに手を振っていた。

全身切り傷だらけでかなり疲労している。

とても無事とは言いがたかったが、とりあえず生きているなら御の字だろう。


「襲撃者は!?」

「無事に解決しました。今ここにはいませんが、もうコンサートは襲いませんしこれから

悪事を働く事もありません。それよりも那美さんを。おそらく、まだ屋上でリプルって男

と」

「RIPPLE?……そういう事か」


その「リプル」という名前と恭也の記憶から、リスティはその男の事情を大方飲み込んだ。


「それから、美由希は置いていってもらえませんか?」





















リスティと知佳は再び転移し、今度は屋上へと向かった。

まだ僅かに煙の残っている中、その屋上の中央にリスティたちに背を向ける形で男が立っ

ていた。

その腕には明らかに気を失っている那美が抱かれている。

間違いなくこの男が恭也の記憶にあって、那美が戦ったリプルなのだろう。


「那美ちゃん!」


その男に向かって衝撃波を放とうとする知佳を手で制すと、リスティは湧き上がるある感

情を抑えながらゆっくりと男との距離を詰めた。


「お前がリプルか?」

「さっきまでは……ね」

「へぇ……じゃあ、今は何て名前なんだい?」


男は那美を抱えたまま肩を竦めると振り返った。

背後で知佳の息を飲む音が聞こえる。


「サングラスでもかけてた方が良かったかな?」

「やめときなよ。その顔にそんな渋い物似合わないからさ」

「むう……。口の悪くなった姪を見て、俺は悲しいぞ?」

「僕だって女だ。出来損ないの管理人がいない間に成長したんだよ」

(僕?)


無意識のうちに変化していた呼称に、リスティは煙草を取り出そうとした手を止めた。

そしてそのまま腕を組み、煙草は吸わない事にする。


「せっかく耕介が戻ってきたんだしね……」

「何か言ったか、リスティ?」

「いや、空耳じゃないかな」

「そうしとこう。……知佳、悪いけど那美を診てくれないか?」

「あ、うん」


それまで呆然と二人のやり取りを見ていた知佳だったが、慌てて耕介から那美を受け取り、

傷の具合を見始める。


「とりあえず、これでコンサートは守られた訳だね」

「その点は迷惑をかけた。にしてもすごい警備だったな……。神経使ってやっと包囲網

を突破したと思ったら、次は那美だろう?おまけにお前達もいるし……」

「フィリスにセルフィもいるよ。そのおかげで大犯罪者にならないで済んだんだから、感

謝してよ?」

「お兄ちゃん、那美ちゃん気絶してるだけだったよ?」

「さんきゅ、知佳。それからただいま……美人になったな」

「おかえり……お兄ちゃん」


そう言って、知佳は耕介に抱きついた。

泣きじゃくる知佳の頭を耕介は優しく撫でる。


「女の子を気絶するほど痛めつけるなんて、酷い男だな……」


美人と言ってもらえなかった腹いせと、一人だけ撫でてもらっている知佳への嫉妬を込め

たリスティの言葉に、耕介は決まりが悪そうに笑う。


「しかたないだろう。いくら「御架月」の力を借りたと言っても、元々かなり霊力差のあ

る俺の奥義を止めようとしたんだから、霊力が空に近いんだろう。シルヴィ、俺の霊力

を分けるから手伝ってくれ」

「はい!」


その辺に耕介の物らしい刀と一緒に放り投げられていた「御架月」から、シルヴィが登場

し、耕介の隣りに並ぶ。


「それからさ、どうしてリプルなんて安直な名前を付けたの?」


RIPPLE(リプル)……大意は「さざなみ」である。


「何でだろうな……自分で言うのもなんだけど、やっぱり未練だったのかな?」


十分もそうしただろうか、安らかな寝息を立てるようになった那美をリスティに渡し、耕介は落ちたままだった自分の刀を拾うと鞘に戻した。


「……と、それじゃ俺はそろそろお暇しようかな。近いうちに顔出すから……」

「僕達がこのまま耕介を帰すと思うのかい?」

「まさか……俺を捕まえようってのか?」

「いや、もっとすごい事さ」


リスティはこんな事もあろうかと用意していたある「もの」を懐から取り出し、耕介に押

し付けた。


「なんだ、これ?」

「ある人からの素敵な招待状さ」


















「……美、那美!」

「は……い?……あれ、恭也さん」

「はい、恭也です」


今、那美達がいるのは屋上ではなく、ティオレ達がコンサートをしているはずのホール、

しかもその最前列だった。

満員だった会場はがらんとしており、二人の他に人の気配は……あった。

那美から見ればかなり後方、さざなみ寮のメンバー、そして高町家一同が皆着飾って(あ

の晶でさえも……だ)座っている。

那美の視線に気付くと、レンやなのはが手を振ってくれる。

彼女達の性格を考えれば、すぐにでも駆け寄ってきても良さそうなものだが、気を使っているのだろう、皆微かに真雪のような笑みを浮かべて、寄り添っている二人を楽しげに眺

めている。

那美は頬が微かに熱くなるのを感じながらも、手を振り返し恭也に視線を戻した。


「兄さん……いえ、私が戦ってた人はどうなりましたか!?」


耕介に風華疾光断を撃った所までの記憶しかない那美は、耕介に詰め寄るが、恭也は軽い

調子で答えてくれる。


「ああ、耕介さんですか。リスティさんの話では大丈夫とのことですよ。那美さん、大活

躍だったみたいですね」

「はあ……ありがとうございます」


本当は競り負けて気絶していたのだが、無論その事は気絶していた那美本人は知らないし、

その場にいなかった恭也は知るべくもない。


「これから、ティオレさん達が?」

「はい。予定のないスクールの人達と一緒に小さなコンサートを開いてくれます」


恭也はステージの脇でスタンドマイクを握っているリスティを指した。









「さて、それではそろそろクリステラ・ソングスクール裏コンサートを開催します」


おお〜っと後ろの方からコンサートには似つかわしくない軽い歓声が上がる。

リスティはそれを手で制すると、続けた。


「なお、このコンサートはティオレ女史のご好意で開かれました。多忙な中、我々のため

に時間を割いてくれた彼女達に大きな拍手を」


その声にさっきよりも大きな歓声つきの拍手が間髪いれずに沸き起こる。

ステージ上のティオレ達にも、この反応の受けはいいようで彼女達も楽しげに顔を見合わ

せ笑っている。

ステージ上にいるのはティオレ、フィアッセ、アイリーン、SEENAことゆうひの三人

である。

今晩のコンサートに比べれば聊か見劣りするが、いずれも世界的なビッグネームである。


「それでは、特別ゲストの紹介です。ここにいる皆さんの何人かは知ってる結構有名人で

す。それでは、どうぞ!」


リスティの力によって無理やりその方向に向けられたスポットライトの光が当たる中、会

場に繋がるドアが勢いよく開き、そこから場違いな服装―とにかくボロボロで薄汚れた黒

ずくめ―をした大男が出てくる。

その男は呆然とする一同の間を平然と歩き、最前列まで来ると舞台上のティオレに深々と

頭を下げた。


「本日はこのような素敵な催し物に招いていただき、まことにありがとうございます」

「礼には及びません。生徒の家族は私の家族でもあります。家族と共に楽しく時を過ごす

のは当然の事でありましょう?」


突然現れた耕介にも―ついこの間襲撃を受けたにも関わらず―ティオレは平然として応え

る。

フィアッセは襲撃の場にいただけに複雑な表情をしているが、ティオレが平然としている

手前何も言えず、ゆうひは心ここにあらずといった感じで、アイリーンは突然現れたこの

男をどうしたものかと首を捻っていた。

そうこうしている内にティオレと耕介の話は勝手に終わり、彼は舞台上のゆうひに手を振

るとさざなみ寮のメンバーが座っている辺りに足を向けた。


「みんな……その……ただいま」


それは、あの時のさざなみ寮のメンバーが一番聞きたかった言葉である。

耕介が出て行った後に入ってきたメンバーは耕介を見て首を傾げるが、愛達はゆうひと同

じような顔をしていたが、愛達は突然の管理人の帰還に、呆然としている。


「耕介さんですか?……」

「はい。本当に俺ですよ、愛さん」

「耕介!耕介だよね!?」


美緒は耕介に取り付くと、周囲の目を気にせずわんわんと泣き始めた。


「ああ、ただいま美緒。みなみちゃんも真雪さんもただいま」

「耕介さん……」

「馬鹿かてめえは今更帰ってきたってお前の仕事なんか……」

「そんな顔していっても説得力なんてありませんよ、真雪さん」

「うるせぇ……」


突き放すような口調だったが、その目に涙が溜まっているのは本人はもちろん、耕介も気

付いていただろう。








「感動の再開のところ申し訳ないけど、そろそろ始めさせてもらうよ」


リスティのその言葉に立ちっぱなしだった耕介は慌てて、近くの席に座る。

その両サイドい誰が座るかで、ささやかな争いが展開されるが、司会のリスティはそれを

きっぱり無視して進行する。


「まずは「若き天才」アイリーン―」

「一番椎名ゆうひ、歌います!」

「ちょっとゆうひ、だめだよ順番守らないと」

「いいのいいの、こういう時は譲ってあげないと、ね?」

「おおきにな、アイリーン」


乙女の心情を察してくれたアイリーンに軽く頭を下げ、ゆうひは会場の一点を指した。


「耕介くん、今まで何しとったん!!……なんて、うちはそんな無粋な事聞かへん。

 せっかく耕介くんが帰ってきてくれたんやから、せやから、今までうちが耕介くんに言

いたかったことを歌にして送ります。急やったんでタイトルもまだ決まってへんけど、

うちの……心からの……言葉です」


ゆうひの歌は伴奏も何もない、ただの歌だった。

だが、その声はまさに「天使のソプラノ」と呼ぶに相応しい物で、ゆうひの思いと共にそ

の歌は聞く者全員の心に染み渡った。


「これは……ラブソング?」

「ええ、それも最高級のね。歌でもこれほどの事ができるなんて……俺も心底驚いてま

すよ」

「ねえ、恭也さん。私が今一番言ってほしい事、分かりますか?」

「……いい歌ですね。これほどの人と知り合いなんて鼻が高いですよ」

「恭也さん、ふざけてますね……」

「耕介さんって強そうですよね。今度さざなみ寮にお邪魔して手合わせでも―」

「恭也さん!」

「冗談ですよ……」


恭也は那美に顔を寄せ囁くように言った。


「愛してる……那美」








「僕が送るこの歌は……まだ名もない……歌だけど……。どうも、ありがとさんで

す!」


少しばかりの沈黙の後、ホールに柔らかな拍手の波が広がった。

そんな中……二人の顔は近付き……。


「あの〜私もいるんだけど〜」


申し訳なさそうな美由希の声に、那美は慌てて恭也から身を離した。


「美由希さん……どうしてここに」

「私も警備頑張ったからって……ティオレさんが……」

「母さん達には言うなよ」

「ごめん……もう遅いみたい」


美由希が後ろでに指したその先では、一部始終を見ていたらしい桃子たちが不自然に目を

逸らしていた。


「最悪だ……」

「……ねえ那美さん、那美さん」

「何ですか?美由希さん」

「こんな兄ですが、よろしくお願いします」

「ほ〜では明日にでもこんな兄が鍛錬を見てやろう」

「え〜、今朝までつきあったじゃない。それは少し横暴だと思うな」

「……実は今、新メニューを開発していてな。その実験台に……」

「ごめん恭ちゃん。私が悪かった……」

「では、悪いが……少しばかりか〜さん達の所へ行っててもらえるか?」

「は〜い。じゃあ那美さん、また」


美由希が十分遠ざかるのを待ってから、恭也はため息をついて口を開いた。


「まさか美由希の気配すら感じられなくなってるとは……」

「それだけ恭也さんが頑張ってお勤めしたってことですよ。……それで恭也さん?」

「なんでしょう」

「不束者ですが、よろしくお願いいたします」


恭也はそれで照れたのか、顔を僅かに染めてそっぽを向いた。

それで軽い優越感に浸った那美は、その肩に頭を乗せる。


「まあ……努力はする」


返事としてはどうにも無愛想な物だったが、恭也にすればこれが精一杯だろう。

それで満足した那美を待ちかねたように睡魔が襲う。


「少し……休みますね」


わざわざコンサートを開いてくれているティオレ達には失礼な気もするが、恭也の肩を借

りて眠る方が、今の那美には優先順位が高いのだ。


「歌は俺がしっかり聞いておこう。お休み、那美さん」

「お休みなさい……恭也さん」










「いい歌だな……」


気配を断っていたつもりだったリスティは、それで一瞬足を止めた。

だが、それこそ資格に足ることだと思い直して美沙斗の隣りに並ぶ。


「そりゃあ、世界の歌姫達だからね。……吸うかい?」


懐から煙草を取り出し美沙斗に示すが、彼女は首を振ってそれを断った。

それであっさりと煙草を引っ込めるリスティを見て、逆に美沙斗が問い返した。


「お前は吸うんじゃないのか?」

「僕はしばらく禁煙さ。耕介は煙草吸わないだろうからね」


無表情だった美沙斗の顔に微かな笑みが浮かぶ。


「耕介は、やはり人望があるのだな……」

「当然さ。曲のある僕らの管理人を務められるだからね」

「お前は管理人以上に認識しているのだろう?」


またも虚を突かれたリスティは悔しそうに頭を掻いた。

それを見た美沙斗の表情がさらに柔らかい物になる。


「参ったね。表情を読まれないことには結構自信があったんだけどな」

「伊達にお前よりも長く生きていない。お前はとてもそれらしい顔をしているぞ。さて……」


美沙斗は笑みを消し、リスティを見下ろした。

その顔は裏の世界を生き抜いてきた人間の顔に戻っており、リスティにも否応なしに緊張

が走った。


「何の用だ?私を捕まえに来たと言う訳ではないようだが……」

「さすがに恭也の身内だけあって勘がいいね。だから、そんな貴女に素敵なプレゼントだ」


リスティは用意しておいた封筒を美沙斗に押し付けた。

彼女は一応視線で問い返してきたが、リスティに止める意思がないのを見ると、封を切り

中身に目を落とした。

だが、読み進めていくに従って彼女の目に驚きの色が浮かんでくる。


「何だこれは……」

「見たままの物だよ。タイトルにもそう書いてあるだろう?」

「香港国際警防隊、隊員募集要項……」


美沙斗は書いてある通りのことを読み上げ、中身の便箋をリスティに返した。

たしかに、一番上の便箋にでかでかとそう記されている。

しかもご丁寧な事に手書きで、労働条件などの詳しい事が事細かに書かれている。

これを渡した人間の言葉を信じるのであれば、これを書いたのは副隊長のはずである。


「実は僕の妹がそこに勤めてるんだけどさ、少し人手が欲しいんだって泣きつかれてさ。

本当は恭也に渡すつもりだったんだけど、あれを見せられたら、さすがに気が引けるだ

ろう?」

「ああ、さすがにな……これは受け取っておこう。堕ちた人間には分不相応な再スター

トとは思うがな」

「頑張ってよ。ちなみにそれが紹介状になってるからよろしく。日本で繋ぎを取れる場所

もそこに書いてあるはずだから」

「済まないな……いつか埋め合わせはしよう」


美沙斗は便箋を丁寧に畳むとコートの内ポケットにしまい、寄りかかっていた壁から体を

を離した。


「もう行くのかい?」

「ああ……では、近いうちにまた会おう」


そう素っ気無く言うと、美沙斗は振り向かずに夜の闇へと消えていった。

外ではまだ彼女がこれから世話になるであろう警防隊がうろついているはずだが、彼女な

ら問題なくその包囲網を突破できるだろう。

これで、本当にコンサートは守られた。

リスティはポケットの中の煙草に手を伸ばし……すぐに止めた。


「煙草は止めたんだったね」


人知れず彼女は一際子供っぽい表情を浮かべると、ドアを開きホールの中へと舞い戻った。