another エピローグ











「那美〜早くしないと遅れるぞ〜」

「は〜い!今行きます〜」


台所からの耕介の声に二階から少し間延びした声が返ってくる。

彼はそのまま洗い物に戻ろうとしたが、ある事に思い当たり、慌てて廊下に飛び出した。


「那美、階段はゆっくり―」

「きゃう!」


時既に遅く、その時には耕介の予想通り那美は階段を踏み外していた。


(やっぱりか!)


耕介は階段まで一気に駆け寄り、宙を舞う那美を受け止める。


「と、大丈夫か?」

「すいません兄さん。朝からお見苦しい所を……」

「気にしない。それより次からはこんな事がないようにな?」


とは言っても、耕介が管理人に復帰してからお同じ台詞を彼是三回は言った気がするが、那

美のドジは一向に直る気配がない。

ここまで来れば天然と諦めるしかないが、いつかこれで怪我でもしないかと一応の兄である

耕介は心配でならない。


「はい……鏡とにらめっこしてたら、いつのまにかこんな時間に……。じゃあ、行ってきま

す、兄さん」


耕介から離れまた転びそうになりながらも、那美は慌しく出かけていく。


「兄さんね……」


そんな妹分の背中を見送りながら、耕介はその言葉を噛みしめていた。


「もしかして……那美に手を出そうとか思わなかった?」


予期せぬ所から聞こえた声に、耕介はここ数年で培った瞬発力でもって飛び退った。

振り返ると、そこでは呆れ顔のリスティがため息をついていた。


「……そこまで反応するってことは、少しは考えてたんだね」

「俺はそこまで餓えてない……」

「でもさ、耕介もそろそろ身を固めた方がいいんじゃないの?もうすぐ三十だろ……」

「年の事は言うな……」


彼の名前は耕介……槙原耕介だ。

籍を入れる前に薫が亡くなったのだからそれも当然の事だが、耕介は神咲姓を名乗っていな

い。

帰還の挨拶のために、一度神咲本家に戻った時には、神咲の養子に……という話もあったの

だが、耕介がいともあっさりとそれを断ったため、今でも彼は槙原なのだ。


「そんなことよりも耕介、これから暇だったら―」

「お兄ちゃん!」


ちっと露骨に舌打ちするリスティを無視して、知佳は耕介の腕に取り付いた。

何でも長期休暇を取っているらしく、真雪のアシスタントをする傍ら、リスティと一緒に久

しぶりに管理人に復帰した耕介の手伝いなどしている。


「ねえ、お兄ちゃん。今日私と一緒に遊ぼうよ。お兄ちゃんと、久しぶりに行きたい所があ

るんだけど」

「ダメだよ、知佳。耕介は僕が連れて行こうと思ってたんだ」

「え〜、私は少ない休みでここに帰ってきてるんだから、譲ってくれてもいいじゃない」

「そういう問題じゃない。なんなら、一勝負するかい?」

「……そう言えば、リスティと喧嘩するのも久しぶりだね」

「そうだね……懐かしいよ」


などと言いつつも、リスティは「トライウィングス・オリジナル」を知佳は「エンジェルブ

レス」を展開して、文字通り火花を散らし始める。


「なあ…………・二人とも……」


耕介の止める暇もあればこそ、さざなみ寮におよそ数年ぶりの轟音が響き渡った。




「舞ちゃん達は、リスティをクールな人とか言ってたんだけどな〜」


目の前で大人気ないが壮大な喧嘩を繰り広げるリスティからはお世辞にもクールなどという

言葉は似合いそうもなかった。

いや、下手をすれば会った時よりも子供に見えるかもしれない。

知佳も知佳で、見た目はかなり大人っぽくなったのに、これでは昔のさざなみ寮に逆戻りである。


(まあ、それはそれで楽しいけどさ……)


耕介が被害の及ばない場所に隠れて喧嘩を眺めていると、二階から愛が降りてきた。


「あら、楽しそうですね〜」

「愛さんには楽しく見えるんですか?これが……」


二人とも力の使い方がうまくなったおかげで今のところ寮にはまったく被害は出ていないが、

閃光が走り、轟音が響くこの現状を見れば当事者でなくとも、楽しさより先に不安や恐怖が

出るのが常であろう。


「はい耕介さん、お手紙です」

「こんな朝から郵便屋さんが来たんですか?」

「いえ、来たのは昨日だったんですけど、出すのを忘れてました」

「はは、愛さんらしいですね」

「はいどうぞ。ところでどなたですか?差出人の名前は女性みたいですけど」

『女性!』


女性という単語にリスティたちはピタッと喧嘩を止め、耕介に詰め寄った。


「お兄ちゃん、女の人って誰!?」

「おいおい……まだ見てもいないのに分かる訳ないだろう?」

「まさかぐれてる間に子供作って逃げてきたんじゃないだろうね?」

「リスティ……今日のおやつは抜きな……お、なんだ美沙斗さんからか」

「なんだ……。で、美沙斗はなんだって?」

「おう、ちょっと待て。え〜なに?向こうでしっかりと職に就いた。今度まとまった休みが

取れた時は美由希ちゃんの顔を見にこっちに来るから、その時は鍛錬の相手でもしてくれっ

てさ」


新たにライバルが増えるのでは、と思っていた知佳はこっそりとため息をつく。


「さて、愛さん。今日はお暇なんですよね?」

「はい、病院の方は他の人が見てくれてますから」

「じゃあ、上でダウンしてる真雪さんも連れて五人で出かけませんか? 那美も恭也君とデ

ートに行っちゃったことですし」

「いいですね〜知佳ちゃんとリスティは?」

「いいよ。私も行きたい」

「僕もだ」




二人きりで行きたかったリスティと知佳はあまりいい顔をしていなかったが、耕介の提案で

あれば断れるはずもない。




「それじゃ、俺はぱぱっと済ませるから三人とも準備しておいてくれ。知佳は真雪さんを起

こすように。その際は十分に注意すること」

『は〜い』



そう言って、三人はそれぞれの部屋に散っていく。

耕介は笑顔でそれを見送ると、台所に戻った。

そして、思い出したように服の袖をまくる。



「身を固めろ……か……。薫、お前だったら……相手を探せって言うんだろうな、きっと……」


耕介がぐれていた間も片時も手放さなかったダイバーズ・ウォッチ。

その時計の向こうに耕介は今は亡き薫の姿を見ていた。


「今はまだその時じゃない。……でも、いつか自分の気持ちに整理がついて、心に余裕がで

きたその時には……薫は、笑ってくれるか?」


死人は何も語らない……語らないが、体を張って自分を止めてくれた妹分に対しては報いな

ければならない。

きっと薫もそれを望んでいるはずだから……。



「さて……洗い物済ませないとな……」













「すいません恭也さん……お待たせしました」


待ち合わせ場所に決めていた海鳴駅に那美が到着した時には、すでに恭也はその場所にいた。

那美が十分ほど遅れてきたのだからいて当然なのだが、しっかりしている恭也のことである、

さらに約束の時間の十五分くらい前からここにいたはずだ。

要するに、かなりの時間待たせてしまったことになる。


「いいえ、俺も今来た所ですから」

「すいません。鏡に向かってたらいつの間にか時間が……」

「鏡?これといっていつもと変わってないように見えますけど」


心情を読むことに関しては絶望的に鈍い反面、恭也の観察眼は下手な探偵よりも鋭い。

それでも何か見落としていると思ったのか、恭也は那美を繁々とながめる。


「いえ……特に髪とかに気を使ってきた訳ではないんですけど……」

「じゃあ、どうしたんですか?」

「髪型を変えようと思ったんです」


そう言って、那美はポニーテールにしていたリボンを解いた。

夏の到来を予感させる風の中、那美の髪がさぁっと広がる。


「まだ整えていないのであれなんですけど……どうですか?」

「…………え?ああ、いいと思いますよ」

「今の間……何ですか?」

「いや、その…………少し見惚れていました」


言った恭也も言われた那美も照れてしまって、しばらく会話が途絶えてしまう。



「……どうして髪型を変えようと思ったんですか?」

「元々この髪型は姉の真似でしたから。兄さんも帰ってきてくれたので、そろそろ変えてみ

ようかと……」

「いいんじゃないですか?それも那美さんに似合ってますよ」

「ありがとうございます。それで、そのついでと言っては何ですけど、最後に姉の真似をし

てゲンを担ごうと思ってるんですよ」

「真似……ですか?」

「今度の夏休みに兄さんと一緒に里帰りするんですけど、恭也さんもどうですか?」

「那美さんの実家って鹿児島でしたよね……いいですよ。俺はここ最近遠出してなかったので」

「ありがとうございます。その時は祖母と両親に紹介しますから、覚悟しておいてくださいね」


瞬間、恭也の一切の動きが凍りついた。


「もしかしたら、父がいきなり恭也さんに襲いかかるかもしれませんけど、恭也さんならだ

いじょうぶですよね?」

「いきなり……ですね、本当に」

「恭也さんは私を貰ってくれないんですか?」

「いや……那美さんは貰いますけど……とりあえず、親父さんには負けませんよって伝えて

おいてください」

「がんばってくださいね、―――」

「え?……那美さん今何て?」








「これからもよろしくお願いしますね、あなた」