クロニクル・ディズアスター  第三話






「なのは、最近夜遅くに外に出て行くんですよ。私達の鍛錬の後くらいに…」
「そりゃあ、子供にはよくないなぁ…」

 美由希の言葉に相槌を打ちながら、真一郎は黙々と手を動かす。金属を金属で彫るのは、
いくら彫る方が『加工』してあっても神経を使う。

 しかも、中途半端に作業を進めてしまったために、ここで失敗するとかなりの手間であ
る。こんな物を押し付けてくれた師匠の顔を思い浮かべながら、真一郎はまた作業に集中
しだした。

「でも、帰ってくるときはいつの間にか帰ってきてるんです。魔法でも使ってるんでしょ
うか?」
「だろうね…」

 恭也や美由希に気付かれずに帰宅するなど、例え彼らが眠っている時でも不可能だろう。
特に美由希は『血』のせいで夜の間の方が感覚が鋭敏になっているくらいだ。それなのに
気付かないのだから、本当に魔法を使っていると考えるのが自然だろう。

 なりたての魔法使いであるなのはにそこまでのことができるか疑問であるが、事実起こ
っているのだから、認めざるをえない。

 しかし…今回の作業は本当に骨が折れてしょうがない。真一郎は特別手先が器用な訳で
もないのに、型抜きよりも細かい作業を任せるなど、いじめとしか言いようがなかった。

 確かに、真一郎の魔術の腕前は雪に比べると遥かに下である。もうすぐ『転移』くらい
は習得する雪に比べて、真一郎はまだ基礎的な四属性の魔術とその派生しか使うことはで
きないのだから。

 一応契約系の魔術も使えるには使えるが、あれは吸血鬼の固有能力のようなものなので、
魔術の数には入っていない。というか、入れてくれない。

「なのに、みんな出かけてることも知らないから私だけが心配して…」
「そうだねぇ…」
「…真一郎さん、さっきから何をやってるんですか?」

 さすがに胡乱になってきた美由希の声に、真一郎はようやく顔を上げた。朝からずっと
この調子だったために体中が痛くてしょうがない。椅子から立ち上がって大きく伸びをす
ると、体中からごきごきと音がした。

「ちょっと、エリザに課題を出されてね。それでずっとここに篭ってたんだけど…」
「課題ですか?」
「そう、これね」

 そう言って、真一郎は作業途中のそれを美由希に放って見せた。いきなり飛んできたそ
れを美由希は臆することなく受け止めて、手の中でしげしげと眺める。

「ナイフ…ですか?」
「正確にはそのナイフの加工ね。エンチャンテッド(魔力付与)っていうんだけど、その
ための文字をそれに彫ってるとこなんだ」

 彫ると言っても、学校で出されるような工作とは訳が違う。何しろ、彫る文字の小ささ
が半端ではないし、一字でも違えば効果は半減どころかほとんど失われてしまう。

 課題というか補習のようなものだった。この課題に従事している間にも、エリザは雪や
クロノと共にここの下の部屋に篭って、イデアシードの解析を続けている。たいしたもの
だ。

「すごいですね…」
「実はあんまりすごくないんだよね。あの人の感覚で言えば、『血』を受け入れた時にこれ
くらいはできてたはずらしいから」

 おちこぼれなのかもねぇ、と真一郎。が、実際には真一郎のペースだって遅い訳ではな
い。同時に始めた雪が圧倒的に早いだけの話なのだが、エリザはそれを真一郎に教えたり
はしない。何故なら、楽しいからだ。女の子のように綺麗な顔をした真一郎を小突き回す
のは、エリザの数少ない楽しみなのだから。

 真一郎も何となく遊ばれていることは感じているのだが、結局は言い出せずいいように
遊ばれている。つくづく、女性相手には運のない男である。

「あ、そう言えばこの前、クロノ君がうちに来たんですよ」
「敵情視察とはまた大胆な…」

 才能の差か、それとも運の差かは知らないが、現在のイデアシードの回収率はなのはが
『大きく』クロノをリードしている。学校に行っていないだけクロノの方が時間はあるの
だが、昼間は今のようにエリザと雪が彼を捕まえてイデアシードの研究をさせているため、
時間が取れないのだ。

で、エリザの研究から開放され夜もふけた頃――要するに、なのはと同じくらいの時間
にクロノも真一郎と一緒に回収に出かけるのだが、『何故だか』ことごとくなのはに先回り
されている。結局、クロノが回収できているのはなのはの帰った後の僅かな時間だけ。そ
れでも、朝起きてからは真面目にエリザの研究に付き合っているのだから、当然睡眠時間
は真一郎達の中で誰よりも少ない。

 それでも、クロノはすずしい顔をして今も研究を続けている。見かけによらず、かなり
タフな少年だ。

「えっと…たまたまなのはに会ったみたいなことを言ってたんですけど」
「まあ、本当にたまたまなんだろうね。不思議なことに」

 まさか、いくらエリザと真一郎がさりげなく邪魔をしているとはいえ(これは、クロノ
には絶対の秘密である)、なのはに危害を加えるようなまねはしないだろう。一緒に暮らし
てみて分かったことだが、彼は年のわりにかなり大人びているし、考え方も紳士的だ。と
もすれば、真一郎の方が子供に見えてしまうほどである。

「ま、クロノのことは放っておくとして、美由希ちゃん。よかったらこれからどこかに付
き合ってくれない? 朝からずっとこんなだったから、息が詰まっちゃってさ」
「それだったら、あの…うちに来ませんか?」
「ん? 別にいいけど、何かあるの?」
「その…私の母が来てるんです……」
「ほほう。きっと美由希ちゃんに似て美人さんなんだろうね」
「……だから真一郎さんに、うちに来てくれないかな…って思うんですけど…」

 何やら、美由希の顔が段々と真っ赤に染まっていく。その理由を理解しないまま、真一
郎が面白がって美由希を眺めていると、美由希は真っ赤な顔のまま外で待ってますからと
言い残して部屋を飛び出してしまった。

「何か悪いこと言っちゃったのかな…」

 今でも女性に間違われる顔に不思議そうな表情を浮かべて、真一郎は道具を片付け始め
た。




「真一郎、出かけるみたいですね」

 モニタから視線を逸らさずに、誰にともなくエリザが言った。真一郎が作業をしていた
部屋のさらに下、相川邸の地下二階の研究室である。同じ部屋には雪とクロノがいて、各々
自分なりの方法で研究を進めているのだが、その時はたまたま暇だったのか雪もクロノも
手を止めて、エリザの方を見た。

「完成したんでしょうか?」
「ん〜まだだと思いますよ。ちょっと難しめの課題を出しておきましたから」
「…なのはのお姉さんも一緒に出て行ったみたいですね」

 クロノは思った通りのことを言っただけなのだが、雪はその言葉に僅かに難色を示した。

「さぼりはいけないんじゃないですか?」
「まあ、雪ちゃんが拗ねるのも分かりますけど、最近はちょっと真一郎をいじめすぎまし
たからね。少しくらいは遊ばせてあげるのもいいんじゃないですか?」
「それは…そうですけど」

 師匠の言葉とあれば、内心どう思っていても頷くしかない。頬を膨らませたまま作業に
戻る雪を微笑ましく眺めながら、エリザはクロノに視線を戻した。彼もいつの間にか作業
に戻っている。なのはや久遠と同じくらいの背丈くらいしかないクロノだが、その手際は
驚くほどいい。

イデアシードやヒドゥンの研究も彼の持ち出してきたミッドチルダの研究資料のおかげ
でかなり進んでいるし、こちらに巻かれた物もなのはが順調に回収しているらしいから、
何の問題もない。真一郎に負けず劣らずの美少年だし、良かったら向こうに帰らないで助
手として働いてほしいくらいなのだが、そこはまあ、今話すべきことではない。

(どちらにしても…もう何の問題もありませんね…)

 ヒドゥンに関して未知だった部分も、クロノの資料のおかげで完全にカバーすることが
できた。もはや、かの現象はエリザにとって脅威でも何でもないのだが、ここでクロノに
退場してもらうのは面白くなかった。

 クロノは何も言わないが、既になのはと『そんな』関係になりそうだということをエリ
ザは独自の情報網でキャッチしていたのだ。恋愛は、悠久の時を生きるエリザにとって数
少ない娯楽の一つである。こんなに面白いことをみすみす手放すのは、吸血鬼の血が許し
はしない。

(楽しませてくださいね〜)

 クロノや雪にはばれないように心の中でくすりと微笑むと、エリザは眼鏡をかけなおし
て作業に戻った。




「恭也君は…今日、いるのかな?」

 高町家も近くなってきた所で、真一郎は思い出したようにぽつりと呟いた。

「いると思いますよ。多分、那美さんと一緒だと思いますけど…」

 どうしてですか? と美由希が視線で問いかけてくる。

「最近手合わせしてなかったからね、ちょっと付き合ってもらおうと思ってさ」

 そう言って真一郎は自分の『骸手』の入った布袋を掲げて見せた。最近、退魔の仕事に
も出かけていないせいか、体がなまってしょうがない。ざからとの修行もここ一週間はし
ていないし、クロノと一緒に夜な夜な出かけてはいるが、何かアクションができる訳では
ない。早い話、運動不足気味なのだ。この海鳴市には何故か実力者が集まっているが、真
一郎の鍛錬に付き合える程度には暇で、尚且つ死なない程度に白熱できる仕合をできるの
は、恭也くらいしかいなかった。

「鍛錬なら…私が付き合いますけど?」

 真一郎の心理を察したのか、美由希が少し恨みがましい目で見上げてくる。

「ん…まあ、そのうちね」

 その視線にさりげなく冷や汗をかきながら、真一郎は視線を逸らす。美由希はそれでも
じ〜っと真一郎を見つめていたが、しばらくすると諦めてため息をついた。

「…いじわる」
「いや、別にいじわるしてる訳じゃないんだけど…」
「じゃあ、今度鍛錬に付き合ってくれます?」
「いや…それとこれは話が別で…」
「真一郎さん、私のこと嫌いなんですね…」

 本気とも冗談ともつかない口調でそう言い、美由希は俯いた。俺が何をした…と思わな
いでもないが、ここで開き直れるような性格だったら真一郎は今、こんな生活を送ってい
ない。

「今度、遊びに行かない? 二人で…」
「え? いいんですか?」

 美由希は、たちまち笑顔になった。さっきまで機嫌が悪かったのに、もう笑っている。
女の子が分からないな、と心の中で思いながら真一郎は苦笑を浮かべた。

「最近美由希ちゃん、頑張ってるしね」
「えへ、真一郎さんもそう思いますか? 恭ちゃんにも誉められたんですよ」

 機嫌の良さはそのままに美由希は足を速め、高町家の門に手をかけた。真一郎がゆっく
り歩いて追いつくのを待ってから、美由希はそれを開ける。

「こんにちは…」
「いらっしゃい」

 何の気なしに言った挨拶に返答があったことで、真一郎は少しばかり驚きを含んだ目を
そちらに向けた。そこにいるのは、穏やかな雰囲気纏った女性だった。初めて見る顔だが、
この高町家にあってもなかなかの美人さんである。

「あ、母さん。ただいま」
「美由希、おかえり。そちらの方は、友達かい? 神咲さん以外の友達を連れてくるのも、
珍しいな…」

 何やら、少しばかり勘違いしているようだ。真一郎が苦笑いしていると、察した美由希
が慌てて説明する。

「母さん、この人…男の人だよ」
「……え?」

 美由希母は信じられないといった視線を、真一郎に向ける。もうそろそろ二十も半ばに
なる真一郎だが、女顔は相変わらずである。むしろ、髪が伸びている分学生の時よりも容
姿に磨きがかかったほどだ。落ち着いて眺めれば女性にしては身長が高いことに気付くの
だろうが、皆が皆最初に真一郎の容姿を見てしまうので、今でも女に間違われることは稀
にある。

 もはや慣れたことである真一郎は、悪戯が成功した時のような気分でぺこりと頭を下げ
た。

「はじめまして、相川真一郎と申します。美由希ちゃんには、いつもお世話になってます」
「…………美由希の母の、美沙斗です。そうですか、貴方が相川さんですか…………」

 一瞬だけ、美沙斗が不可解な気配を発する。気のせいかと思うほどの僅かな時間でしか
なかったが、真一郎はそれを見逃さなかった。美沙斗に目を向けると、彼女は穏やかな笑
みを浮かべてそこに立っているだけだった。

「ここで立ち話もなんですから、こちらにどうぞ…」

 そう言って、美沙斗は――母屋ではなく、道場の方を示した。真一郎も美由希も怪訝な
顔を彼女に向けるが、返ってきたのはいたって真剣な瞳である。

「分かりました」

 と、何も分からないうちに真一郎がそう返答すると、美沙斗はにっこりと笑って母屋の
中に消えていった。魅力的な笑顔だったが、どこか人を不安にさせる笑顔である。

「…母さん、どうしたんだろう?」
「武術家の血が騒ぐとか、そういうことだと思うけど…」

 それ以外に思いつくことのない真一郎は、言われた通りに道場にあがって準備を始める。
元々恭也を付き合わせる算段だったために、服装はそのままで手に『骸手』をつけるだけ
で準備は終わった。何気なく準備運動などをしていると、どこか釈然としない面持ちの恭
也がやってきた。美由希の言葉の通り、那美を共にしている。

「ここに来る途中美沙斗さんとすれ違ったのですが…何があったんですか?」
「いや、俺はただ挨拶をしただけなんだけど…やっぱりやばかった?」
「俺の口からは何とも…でも、一言だけ。御愁傷さまです」
「恭也さん、縁起でもないですよ」
「そうだよ。母さん、ただ真一郎さんと勝負してみたいだけだと思うよ?」

 少女達は冗談だと思ったらしく恭也の言葉を笑ってたしなめるが、真一郎は逆にそこに
別の何かを感じていた。おそらく、男どおしでしか通じないであろうアイコンタクトを交
わして、恭也の真意を探る。

「覚悟は…決め手おいた方がいいのかな?」
「そうしておいた方がいいでしょう…」
「おまたせしました…」

 恭也と顔を見合わせてため息をついていると美沙斗がゆらり、と効果音でも付きそうな
雰囲気で現れた。殺伐とした雰囲気の濃い赤色のコートで身を包み、完全武装したその姿
はさきほどまでの穏やかな雰囲気とは随分とかけ離れている。はっきり言って怖い。でき
れば相手にしたくない手合いだが…目の前のご婦人は許してくれそうにない。どうにかし
て逃げられないかと考える真一郎など構いもせず、美沙斗はずんずんと道場の中を歩き、
真一郎から間をあけて止まった。

「相川さん、お手合わせ願います」
「俺に選択権は…」
「美由希が選んだ相手がどれだけの者か…試させていただきます」
(だめだこりゃ…)

 目が既に、こちらの話を聞いてくれそうにない。どうやら、殴られるなり倒すなりしな
いといけない状況のようだ。真一郎は観念して、構えを取る。美沙斗は両手をだらりと垂
らして、真一郎と向かい合う。

 その瞬間、道場の中にいた全員が直感した。この女性(ひと)は本気だ…と。

「小太刀二刀御神流…御神美沙斗、参る!」

 美沙斗がそう叫んだ時には、もう目の前に切っ先があった。うなりをあげて迫りくる小
太刀を半歩外に動いて避け、一息に間を詰める。がら空きに見える美沙斗の脇腹に拳を押
し当て――

「吼破――」

 殺気を感じた。真一郎が転がるようにして前方に身を投げ出すと、今まで彼のいた空間
を二条の銀光が走っていた。起き上がりざま、美沙斗と目があう。その目は…殺意に満ち
ていた。

(俺が…何をした?)

 吹き寄せてくる殺気に心を奮い立たせて必死に対抗しながら、真一郎は必死に考えてい
た。鍛錬にしては、美沙斗のこの殺気は異常だ。だからと言って、美沙斗にここまでされ
るような失態をおかした記憶はない。何しろ初対面なのだからそんなことできるはずもな
いのだが…

(どっちにしても、許してくれないだろうなぁ…)

 呼吸を整える間もあればこそ…動いた。手首を動かすという、最小の動作で繰り出され
たそれはほとんど目視不可能な0番鋼糸だったが、夜に生きる真一郎にはその軌道が手に
見て取れた。鋼糸の描く僅かな隙間をぬって美沙斗に迫る…だが、真一郎が動き始めた時
には既に、その直線上に飛針があった。

 避けたいが、もう遅い。細心の注意を払いつつ『骸手』で飛針を払うが、もうその時に
は攻撃の態勢に入っている美沙斗が迫っていた。二刀を抜刀して、全身のばねを利用して
力を溜めている。美由希の皆伝の儀式の時に一度だけ、御神の奥義を全て見たことがある。これは――

『小太刀二刀御神流 正統奥義 鳴神』

 早い話がめった刺しである。両方の小太刀を一息の間に可能な限り繰り出すだけの単純
な、それだけに避けにくい技である。技量があればそれだけ回数も増えるのだが、美沙斗
の場合…一息で、五回。五つの銀光が、一瞬で迫ってくる。

 三つまでが限界だった。捌ききれなかった残りの二つは真一郎の肩と腕をかすめ、血を
巻き上げる。もったいない…と、吸血鬼の感覚で思いながらも体を動かし、美沙斗から距
離を取る――いや、取ろうとした。そうしようとした瞬間に、美沙斗が視界から消えた。

(まずい!!)

 心の底からそう思った真一郎はすぐに目を閉じ、目を染めると遅ればせながら神速の領
域に入った。モノクロ染まった世界の中で真一郎はさらに後方に跳躍するが、先に神速に
入った美沙斗の方が速い。弓を引き絞るような体勢から、小太刀が放たれる。美由希の得
意技の、射抜だ。御神流の中でも最大の破壊力と射程を誇る技である。後ろに飛んで威力
は殺しているからさすがに死ぬことはないと思うが、それでも目の前の小太刀が直撃すれ
ば死ぬほど痛い思いは、免れないだろう。

(ああ…またエリザにどやされる…)

 しょうもない後のことを気にしながら観念して目を閉じる。やがて神速が解け、体に圧
力がかかった時――

「…お?」

 間抜けな声をあげて、体を確認する。肩と腕から血が出ているが、それはさっき受けた
傷であって射抜の傷ではない。訳の分からない心地で視線を持ち上げると、

 そこには、小太刀があった。真一郎に当たるはずだった射抜は確かに放たれていたのだ。
だが、それは中空でぴたりと静止している。寸止めしたのか、と美沙斗を見るが彼女の顔
も驚愕に彩られていて、とてもそんなことをした後のようには思えなかった。

「怪奇現象?」
「馬鹿言わないの。あたしがいたの、本当に忘れてたでしょ」

 真一郎と美沙斗の間に、ぼんやりと人影が現れる。古風なセーラー服に、腰まで届く長
い髪…見慣れたその後姿が目に入った時、真一郎は思わず安堵のため息を漏らしていた。

「七瀬、ありがとう」
「あたしを守護霊にしたのは真一郎でしょ? こういう時に役に立てないでどうするの」
「いや…ごめんね」

 へにゃとした笑顔で謝る真一郎に、七瀬は目を逸らしてため息をついた。もう少しきつ
く責めるつもりだったのだが、この笑顔で謝られてはもう言うことがない。何気なく、七
瀬は指を鳴らした。すると、美沙斗の硬直が解け、彼女は真一郎達から距離を取った。そ
の美沙斗に、七瀬は殺気の篭った目を向ける。これ以上やるなら容赦はしない、そんな目
だ。美沙斗の顔にも緊張が走る…だが、

「か〜さん!!」

 びくっと、体を震わせて構えを解く美沙斗に美由希が足音を立てて迫る。

「今、本気でやったでしょ」
「いや…そのな…」
「真一郎さん、大怪我するところだったんだよ? 今の射抜だって、七瀬さんが止めてな
かったら当たってたんだし…」

 今にも泣きそうな娘の言葉に、美沙斗は立つ瀬もなくおろおろとしだした。何かいい訳
を探しているらしいが、彼女を前にしてはそこまで気の利いた文句も浮かぶはずもない。
結局、美沙斗は美由希の非難の目に負けて真一郎の前に立ち、そのまま頭を下げた。

「すいませんでした。その…我を忘れていたもので…」
「いえいえ…大丈夫ですよ。こういう怪我はいつものことですから」
「申し訳ありません…」

 平謝りするその姿は、真一郎にはとても小さく見えた。戦っている時のあの殺気は微塵
も感じられないし、美由希にはひたすら弱いのもどこか可愛げがあった。

「…で、俺は何か失礼なことをしてたんでしょうか? 身に覚えがないんですが…」
「いえ、相川さんは悪くないです。以前、美由希を連れて旅行に行ったと聞いたものです
から…」
「ああ、それで…」

 一人娘をよく知らない男が旅行に誘えば、そりゃあ心配にもなるだろう。まして、真一
郎のように特殊な環境に住んでいる人間だと知れば、殺意くらいは沸くかもしれない。考
えてみれば、美沙斗の凶行もそれなりに筋が通っていたものだったのだ。

(それで殺されかけたってのは…笑い話にするしかないけどさ…)

 笑顔を浮かべて心で泣く。単純に戦力が欲しかっただけだし、美由希には断じて手を出
していないが…美由希の血を吸ったことがある、という事実はここでは伏せておいた方が
いいだろう。せっかく美沙斗も落ち着いてくれたのだ。わざわざ修羅モードに戻す必要は
どこにもない。

「真一郎さん、だいじょうぶですか?」

 涙を浮かべつつ、美由希が真一郎の怪我の具合を見る。血は出ているが、それほど深い
怪我でもない。吸血鬼である真一郎なら、それほど時間もかけずに完治する程度の怪我だ。

「大丈夫。舐めとけば治るくらいの怪我だって」

 言って、美由希を安心させるために本当に傷を舐める。子供だましのような行為である
が、吸血鬼の唾液はどんな止血薬よりも効果がある。軽く舐めてハンカチで血を拭うと、
もう傷がどこにあるのか分からないくらいになっていた。

「……何やら、不思議な物を見たような気がするのですが…」

 美沙斗が真一郎の傷があった場所を目を擦りながら見つめている。少し不自然だったか
な、と思わないでもないが、那美の心霊治療だってこれくらいはできるし、大丈夫だろう。
小さく気合を入れて真立ち上がった所で、真一郎は一つのことに思い当たった。

「七瀬、来た?」
「ん? ……ああ、見ての通り、まだ来てないわ」
「誰か、来るのですか?」
「ええ、そういうものです。俺の危機に関する鼻が異常にいい奴でして、おそらく御迷惑
をかけることになると思いますが…」

 歯切れの悪い説明をしていると、彼方から声が聞こえてくる。それは段々とこちらに近
付いてきて、何を言っているのか分かるくらいに近くなった頃には真一郎は頭を抱え、事
情を知らない美沙斗以外の人間は苦笑を浮かべていた。

「ご主人様!」

 道場の戸を勢いよく開けて、一人の少女が転がり込んでくる。限りなく銀色に近い白髪
をポニーテールにした、まだ愛らしい感じのする少女である。その少女はきょろきょろと
道場の中を見回して真一郎の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。

「あ、なんかご主人様が流血してますね」
「ざから…嬉しそうにそういうことを言うんじゃないの…」
「そんなことはどうでもいいです。それより、どうしてそうなったんですか?」
「いや、ちょっと手合わせしてね。へまをやっちゃったんだけど…」

 と、そこで真一郎の視線が美沙斗の方に向いた。ざからの嬉しそうな目もそちらを向い
て、美沙斗の全身をしげしげと眺める。

「貴女が、ご主人様と戦ったんですか?」
「……ああ。そう、だけど」

 その少女の存在と言葉使いに色々と突っ込みたい所もある様子だったが、それを行動に
移す前に、美沙斗はその手を少女に掴まれて動きを封じられた。

「私とも勝負してください! ご主人様に傷付けられる人にあったの久しぶりです!」
「いや…私は…」
「あ、子供に見えるからって手加減しなくてもいいですからね。ちゃんと武器も持ってき
ましたから、ほら」

 にこ〜と笑って、ざからはどこかから愛刀である『ざから』を取り出した。えらく実戦
的なその刀と、ある種異様な迫力を前にしてさすがの美沙斗も少し引いている。

「ざから…初対面の人にそういうこと言っちゃだめでしょ」
「じゃあ自己紹介してからならいいんですか?」
「……そういうことでもないんだけどな」
「なあ、相川君」
「はい? ああ、俺のことは真一郎でいいですよ」
「では、真一郎君。その娘は…君と一緒に住んでいるという娘さんなのか?」
「はい、そうです。ざからといいます」
「ご主人様というのは…」
「あ、本当にご主人様がご主人様な訳ではないですよ。私が勝手にそう呼んでるだけで、
ご主人様はまだ私のご主人様になれるくらい強くなってないですから」

 美沙斗は、訳が分からないという顔をする。一体さっきだけで何回ご主人様を連呼した
ことだろう? 恭也達も苦笑しているが、この白髪の少女の言動はどこか場を和ませる雰
囲気があるようで、美沙斗にも一応好意的に写っているようだった。

「私も一緒に住んでるよ。私は春原七瀬、真一郎の守護霊。ちなみに、こう見えても貴女
よりも年上」
「そうなのですか…ご存知かもしれませんが、私は御神美沙斗。美由希の母です」
「美由希のおか〜さんですか…どうりで印象が似てると思いました」

 他意のないざからの言葉に、美沙斗と美由希が微笑む。その反応に事情を知らないざか
らは首を傾げるばかりだったが、真一郎は胸に温かい気持ちが広がるのを感じていた。

「旅行に一緒に行った…要するに俺と一緒に住んでるのが、後二人います。一人は今ちょ
っと家で仕事してますけど、もう一人は今ここに――」
「しんいちろう…」

 小さな声が聞こえたと思って振り返った時には、少女は既に真一郎に向かって飛んでい
た。軽い体を抱きとめて頭を撫でてやると少女――久遠は、気持ち良さそうに甘えてくる。

「久しぶりだね、久遠。ちゃんとなのはちゃんの言うこと聞いていい子にしてるか?」
「うん…久遠、いい子」
「そうか、偉いぞ」
「その子は…君の同居人だったのか?」
「今はそういうことになってますね。そうなるまでには色々とありましたけど…」

 その言葉に、関係者である那美と恭也は顔を見合わせて苦笑した。

「く〜ちゃん…速い…」

 走ってきたらしいなのはが、入り口で息を切らせている。その肩の上には何やら羽根の
生えた人影がいるような気もするが、その『女性』には徹底的に目を合わせないようにす
る。

「なのはちゃん、ありがとうね。久遠の面倒みてもらって」
「いいえ〜。私もずっとく〜ちゃんと遊べて楽しいですから。でも…」

 なのはの目が、何と言うのか羨ましそうなものに変わる。見ると、美由希も似たような
目をしていた。

「なにか、まずいことしたかな」
「まずいことはないですけど…真一郎さんって、久遠には甘いですよね」
「そんなこと…ないと思うけどなぁ」

 そんな会話をしつつも、久遠はべったりと真一郎に引っ付いて離れようとはしない。気
持ち良さそうな顔はそのままに、尻尾もぱたぱたと揺れている。甘えられて真一郎も悪い
気はしないので、抱きしめる手にも思わず力が篭ってしまっていた。

 傍目に見れば子煩悩の父親のような状況であるが、残念ながら本人達はそう見えている
ことに気付いていない。それがまた、まだまだ悟りきれていない美由希にはやきもきさせ
られる要因にもなっているのだが…だからといって久遠に対抗して真一郎に甘えられるほ
どには、美由希も壊れていなかった。

「ふふっ…」
「どうしたの? か〜さん」
「いや…真一郎さんはもてるのだな、と思っていたところだよ」
「もてると言うか…遊ばれているのが現状ですね」

 ははは、と知ってか知らずか乾いた笑いをする真一郎をよそに、美沙斗は隣りの美由希
の肩を小さくつついて耳に顔を寄せた。なあに? と首を傾げる美由希に、美沙斗は――
本当に珍しいことだが、悪戯っぽく――微笑んでみせた。

「ああいう手合いは、積極的に攻めた方がいいかもしれない。静馬さんも兄さんも恭也も
とにかく鈍感だからな」
「……積極的って?」
「一緒に旅行に行くくらいでは弱いかもしれないぞ? そうだな、例えば…」

 ごにょごにょ…小さく耳打ちすると、美由希は湯気がたちそうなほど真っ赤になって、
俯いてしまう。

「美由希ちゃん、どうしたの?」

 言って、邪気のない真一郎が美由希に顔を寄せる。すると、少女はどうやらオーバーヒ
ートしたようで…

「あ…うぅ」

 こて、と妙に軽く倒れてしまった。途端に慌てる真一郎達。そんな彼らを楽しそうに眺
めている美沙斗に、七瀬が近寄る。

「あまり煽らないでくれる? ただでさえライバルが多いんだから」
「なに…私も人並みに、娘の幸せを考えているだけさ」

 そんな会話をしているうちに、美由希は真一郎におんぶされて担ぎ出されていく。目を
回しながらもどこか幸せそうな娘の姿を眺めながら、美沙斗は小太刀についた血を払って
鞘に納めた。

 その時の美沙斗はまるで少女のような笑みを浮かべていたのだが…それを見ていたのは、
これからどうするべきか、と本気で考えていた七瀬のみだった。