クロニクル・ディズアスター 第五話







「いよいよ……ですね」

 相川邸の地下、そこに設えられた研究室でエリザは一人呟いた。決して広くはない研究
室に、澄んだ声がやけに響く。エリザの他には誰もいない。いつも彼女の手伝いをしてい
る雪は真一郎やざからと共に出かけてしまったし、クロノはなのはの所に行っている。確
か七瀬はまだ家にいたと思うが、彼女は部屋でぐっすりと眠っているはずである。実質、
この家にいるのはエリザ一人だった。

「もう少し時間がかかるかと思っていたんですが……私の読みもまだまだですね」

 すっと、音もなく椅子から立ち上がる。部屋の中央――ここに来た時に描いておいた魔
法陣の中央に立ち、口の中で小さく呪文を唱える。

 光が、弾けた。一瞬の後には、エリザの手の中には大層な拵えの杖が握られていた。堪
えきれない笑みが浮かぶ……ここまで大きなことは起こるのは、一体何百年ぶりなのだろ
うか。絶大な力を持つことと引き換えに、彼女は『本気』を出せる場所をなくしてしまっ
た。ざからも、真一郎も、世間の基準からすれば十分に強いが、彼女自身には遠く及ばな
い。正直暇を持て余していたところだ。

ヒドゥンはおそらくクロノ達でも対処可能だろう。今回自分の役目は、あくまで露払い
だ。もっとも、かの事象に露があることに気付いているのは今のところ自分だけのようだ
が……

「では、楽しませていただきましょうか……

 そして、急転を告げる電話が、鳴った。










「桃子さんが倒れたって?」

 真一郎が七瀬から連絡を受けたのは、ちょうど商店街にいた時だった。買い物をあらか
た終えて翠屋にでも寄ろうかと話していた矢先のことだったので、雪にいたっては大層驚
いている。

『そう。さっき美由希から連絡があったんだけど。どうも、普通の病気とか過労と違うみ
たいなの…』
「普通じゃない……もしかして、イデアシード?」
『そうなんじゃないかって、美由希は思ってるみたいね』
「クロノ君はなんて言ってる?」
『確認してはいないけど、ほとんど間違いはないって言ってたわ。天文学的な確立でしか
起こらないはずの暴走って……』
「暴走か……」

 魔術に類する道具の暴走は、例外なく性質が悪い。ドイツは、エッシェンシュタイン邸
で、真一郎もいくつかの魔術装置を見たことがあるが、そのほとんどが絶大な力を持って
いた。

 あまりの性能に驚いた雪が暴走したらどうなるか、というような質問をした時、彼女は
冗談めかしてこう答えたものだ。

『大陸一つが、荒野になりますよ』

 イデアシードにそこまでの力があるとも思えないが、ことがことだけに放ってもおけな
い。七瀬に先に美由希のところに行っているように言ってから電話を切ると、真一郎達は
急ぎ家まで戻った。

「エリザ!」
「ここにいますよ」

 家に入るなり大声を張り上げる真一郎を出迎えたのは、いつもどおりに穏やかな声だっ
た。居間へ入ると、エリザがソファに悠然と腰を降ろして紅茶を飲んでいた。ただし、着
ているのは私服ではなく、白を基調とした魔術師ぜんとしたローブである。

「エリザ先生……どうしたんですか? その格好」
「今晩少々出ることになりましたから、そのための準備です。それよりも、三人で慌てて
どうしました? さっき七瀬ちゃんも飛ぶように出て行きましたけど……」
「桃子さん……分かるよね? 美由希ちゃんのお母さん。その桃子さんが、倒れたらしい
んだ。クロノ君の見立てでは、イデアシードの暴走が原因らしいけど」
「あら、これはまた確立の低い事象が起こりましたね。これも、影響なのでしょうか?」
「影響って……何かあったんですか? エリザ」
「はい。そろそろ……と言っても今晩ですけど、とっても凄いお客さんが来ることになり
ました。名前は……ヒドゥン」
『……』

 ここで聞くと思わなかった名前に、真一郎と雪も目が点になる。

「と言っても、正確にはその余波ですけどね。『本体』が到着するのはもっと後ですし、そ
れはちゃんとクロノ君やなのはちゃんに任せることにしますけど」
「エリザ一人でやるの?」
「何を言っているんですか? 真一郎。もちろん、貴方達にも手伝ってもらいますよ」

 勘弁してほしかったが、彼女の中では既に決定事項になっているようだった。隣では雪
も複雑な表情をしているが、ざからだけはまだ見ぬ強敵に躍りだしそうなほど喜んでいる。

「でも、桃子さんの方はどうするんですか?」
「そっちの方はクロノ君が何とかするでしょう。一人では難しいと思いますけど、いざと
なったらなのはちゃんがいますから」
「二人なら……大丈夫なのかな?」
「だいじょうぶですよ。ああ見えて、なのはちゃんも中々の魔法使いですから」

 ほにゃっと笑って、エリザは立ち上がった。

「では、私は少し準備を進めてきます。時間になったら戻ってきますから、真一郎達はそ
れまで準備をしておいてくださいね」

 と、言うが早いか、エリザは杖を振って真一郎達の前から姿を消した。彼女の消えた空
間を数秒ほど眺めて、真一郎は糸が切れた人形ようにソファに倒れこんだ。

「また……急だね、エリザの言うことは」
「仕方ないですよ。災害はこちらの都合なんて考えてくれませんから」
「そうだけどさ。このくらいには来るかなって見立ては絶対に立ってたよ、あの顔は。せ
めてそれくらいでも教えておいてくれたら、こっちも心構えが出来たのに……」
「心構えができても相手の強さは変わらないですよ、ご主人様。それよりも、ここまで大
掛かりな戦いも久しぶりですから、気合を入れて行きましょう」
「……元気だねぇ、ざからは」

 鼻歌を歌いながら自分の愛刀に綿を滑らせる白髪の少女を妙に悟った目で眺めつつ、真
一郎はこれから起こるであろう一連の事件に思いを馳せ、ため息をついた。










「まさか……こんなことに……」

 日も暮れかけた八束神社、その石段に腰かけて、クロノは一人頭を抱えていた。

 封印されたテクノロジー、イデアシード。この装置を正しく扱うことができれば、これ
までの歴史のように、かの災害に対して多大な犠牲を支払う必要もない。有効な切り札に
なる……少なくとも、クロノと彼の仲間達はそう確信していた。だからこそ、彼女を最高
執政官から解任したりもした。あまりにも優しすぎる彼女では、イデアシードを扱うこと
などできないだろうから。

 もちろん、記憶を全て持っていくつもりはなかった。ただ、その人間にとって忌むべき
記憶、それだけを奪ってエネルギーに変える……記憶の提供者は不幸を忘れ、こちらはエ
ネルギーを得る、それはある意味理想のシステムのはずであった。

 その確信も彼女に出会い、真一郎達と過ごしたことで、揺らぎ始めている。忌むべき記
憶すら、かけがえのないもの……彼らが言っているのはそういうことだ。

 イデアシードが封印された理由が、ここに来てようやく解かったような気がした。太古
の技術者達も、そう考えたからこそイデアシードを封印したのだろう。

 もっとも、記憶を食わなかったところで、一度生物に取り付いたイデアシードはそこそ
このエネルギーを確保する。記憶を食う食わないの是非は後で考えるとして、今後も種だ
けの回収に努めよう、とそう思っていた矢先にこれだ。

 イデアシードの事故……天文学的な確率であるはずのそれが起こったのは、よりにもよ
って、桃子だった。なのはは、泣いていた。母が死んでしまうかもしれないと……

 なのはの泣く顔は見たくない。そして、クロノの取るべき行動は、二つしかなかった。

「悩んでいる……みたいですね?」

 唐突に正面に現れた人影に、クロノは視線を上げることもしなかった。人影は、それで
気分を害した様子もなく、クロノの隣に腰を降ろした。何を思ったのか知らないが、白一
色の服を着ている彼女は、地味な服しか着ないクロノとは対照的だった。

 エリザは、クロノの知る限りで最高の魔術師だった。魔法が一般化しているミッドチル
ダの技術者が百人くらい束になったとしても、彼女一人の足元にも及ばないだろう。曖昧
な要素の排除されたこの世界で、いかにして彼女がここまでの技術を見につけたのか……
その興味は尽きない。

 その最高の魔術師が、今こうして隣にいる。彼女は意味のないことは絶対にしない。こ
ちらを見つめる蒼い瞳に急かされるように、クロノは口を開いた。

「僕は……どうしたらよいのでしょう?」
「何をすべきかで悩めるのは、幸せなことです。まだ、間に合うんですから。ただ……」

 エリザはクロノの頬に手を当てると、そのまま抱き寄せた。母親がするようにその頭を
撫でながら、諭すように言う。

「ただ……同じ魔術師として、貴方に忠告をしておきます。私達にとって、最も大切なこ
と……それは、『自分』というものを把握することです。己を理解できない者に、真なる魔
術は扱えませんからね。そして、大抵の場合自分の中には答えが出ている物です。その答
えを見つけられる者こそが真の魔術師だと、私は思います」

 顔を上げると、そこにあったのはどこまでも透き通った蒼い瞳だった。深い知性と、優
しさを湛えたその瞳が自分を見下ろしている。そう思うと、クロノの中から不思議なほど
に迷いは消えていた。

「すべきことは、見つかりましたか?」
「僕にも守りたいものができた……そういうことなのでしょう」

 記憶がかけがえのないことを教えてくれたから、忘れていた人の優しさを思い出させて
くれたから、彼女を……なのはの笑顔を守りたい。そして、そのかけがえのないものを守
る術は一つしかなかった。

「貴方は、やはり力ある魔術師ですよ、クロノ君。すべてが終わったら、私のところに来
ませんか? 歓迎しますよ」
「僕も一応ミッドの技術者ですからね。あまり異世界の誘いに乗ることは……」
「でも、貴方の顔にはかいてありますよ。一番大切なものは何か……」
「……その件は考えておきます。エリザさん、やはり貴女は、最高の魔術師だ」

 苦笑して、クロノはS2Uを振るった。瞬く間に彼はエリザの前から姿を消す。

 茜色に染まった空の向こう……目には決して見えないそこに、確かな気配があった。災
害と呼ばれ、忌み嫌われた獣が……その影の足音が、エリザには聞こえる。

 なのはやクロノは影の存在までは感知できていない。しかも、彼らは最も大事な用事で
出払っている。

「おいしいお菓子を作れる人は、世界の宝ですからね……」

 獣ごときに、世界を踏み荒らさせたりはしない。空を見上げたまま、エリザは、彼女に
しては珍しく挑戦的な笑みを浮かべていた。
















「風が、強くなってきましたね…」

 舞い上がる髪を片手で押さえながら、エリザ。真っ白なローブを着て、杖を持ったその
姿は、おとぎ話の魔法使いそのものである。

「ここでいいの? そんな大層なモノが、こんな近場に来るとは思えないんだけど…」
「だいじょうぶ、間違いなく『影』はここに来ます。もともと、この街には不自然なくら
いに力を持ったものが集まってますし、加えて、私が今ここにいますから。目印としては
申し分ないでしょう」

 真一郎が疑い半分に問いただすと、エリザは講義をするようにゆっくりとそう言った。
さざなみ寮近くの、見通しのいい丘……ここから見える景色は格別のものだし、霊的にも
安定している場所である。確かに、対決の場所としては申し分がない。

「あと、どれくらいで来ますか?」

 内心のわくわくを隠しもしないで尋ねるのは、ざから。戦闘服である式服に身を包んで、
腰には愛刀を下げている。今度の相手は今までで最も強大である、と説明をしたはずなの
だが、彼女にすれば小学校の遠足と何ら変わることはないのだろう。

「もうすぐですよ。だから、ざからちゃんも用心してくださいね」
「あの……エリザさん……」
「なんですか? 美由希ちゃん」
「この場に私がいても、役に立てない気がするんですけど……」

 相川家の面々が完全武装で勢ぞろいしているなか、美由希も同じく完全武装してこの場
にいるのだが、退魔師、魔術師、守護霊などなど、『すごい』メンバーが揃っているだけに、
美由希は、多少なりとも引け目を感じていたのだった。

「あら、どうしてそう思うんですか?」
「だって……私は、お化けとか出てきても戦えないし……」

 お化けという単語に自分で言ってて怖くなったのか、美由希は身震いする。常識の範疇
に照らし合わせれば、十分お化けの仲間である自分達を目の前にして何を今更……と真一
郎達は苦笑する。

「戦えない人を連れてきたりはしませんよ。美由希ちゃん、貴女だって『お化け』と戦え
るんですよ」
「本当……ですか?」
「はい。本当です」

 当たり前のように断言してのけるエリザに、美由希の不安は少し影を潜めた。首に下が
ったペンダントを握り締めて目を閉じる。ゆっくりと目を開いた時には、美由希は落ち着
きを取り戻していた。

「もうだいじょうぶみたいですね」
「でもさ、美由希がお化けと戦えるんだったら、いつもの仕事に連れていってもいいんじ
ゃない?」
「お、そうだね。どう? 美由希ちゃん。次の仕事の時には――」

 一同の目が、美由希に集まる。とうの彼女は、本場のお化けと真一郎に同行することを
天秤にかけて揺れていた。真剣に悩んでいる美由希を、皆微笑ましく眺める。

「まあ、無理にとは言わないよ。でも――」

 なおも勧誘の言葉を続けようとして、真一郎はすさまじい力で後ろに引っ張られ、誰か
の腕に抱え込まれた。加速度的に遠ざかっていく視界に、呆然としている美由希達がいる。
その姿が……突然掻き消えた。

「美由希ちゃん!」
「駄目です、ご主人様!」

 着地して駆け出そうとした真一郎を、抱えて跳んだざからが慌てて止める。真一郎は構
わず走ろうとするが、根本的に腕力に差があるざからには、敵うはずもない。しばらく慌
てた後に、真一郎は膝をついた。

「来ましたね、影が……」

 頭上から落ち着いた、不自然なまでに落ち着いたエリザの声がした。いまだに整理のつ
かないまま彼女の視線を追うと、美由希達の消えた場所で目に見えない『何か』の気配を
真一郎は感じた。

「あれが……ヒドゥン?」
「正確には、その影ですけどね。気をつけてください。強敵ですよ」
「……いるんだね、エリザにも強敵って」
「私だって女の子ですから。さて、真一郎にはあれと戦ってもらいます。その間に美由希
ちゃん達は私が助け出しておきますから」

 項垂れていた真一郎が、勢いよく顔をあげる。その頭を撫でながら、エリザは誇らしげ
に胸を張って見せた。

「私は『魔術師』、エリザベート・ドロワーテ・フォン・エッシェンシュタインですよ。私
にできないことはありません。だから、今だけは大事な女の子のことは忘れて、目の前の
敵に専念してください」
「了解!」

 茶色いその瞳に、溢れんばかりに生気を漲らせて、真一郎はその歪みに歩み寄った。そ
れに呼応するように、歪みから『影』が出現した。

 エリザが散々煽ってくれるからどんな怪物かとも思っていたが……歪みから出てきた影
は予想に反して人の形をしていた。ただし、身体全体が透き通っていて表情らしい表情は
感じ取れなかったが。

「……これが影?」
「そうです。でも、見た目に騙されてはいけませんよ」
「仰せのままに。じゃあ……神咲一灯流、相川真一郎、参る!」

 影までの距離はおよそ五十メートル。その距離を、真一郎は瞳を染めて一息で詰める。
右の『骸手』に霊力を込めて、すれ違いざまその影を引っ掻くように――

「おぉっと!?」

 何の手ごたえも残さずに通り過ぎた右手を引き寄せ、真一郎は慌てて影から距離を取っ
た。

「なんで!?」
「ご主人様、霊力が足りないんじゃないですか?」

 先鋒で真一郎が飛び出したために外野に徹しているざからの言に、真一郎は多分の驚き
を込めて舌打ちした。霊力を込めたにも関わらず攻撃が当たらなかったというのは……認
めたくはないが、そういうことだ。だが、真一郎とて神咲の退魔師、さすがにキャリアで
勝る薫には及ばないが、結構な数の仕事をこなしてきた退魔師としてのささやかなプライ
ドがある。

「むかついた……こうなったら、全力で!」

 右手に灯っていた霊力の光が輝きを増し、同じような光が左手にも現れる。『骸手』に溜
めておける霊力としては、これが真一郎の限界だ。普通の霊障なら、触れただけで消滅す
るだろう。ただ、それだけに真一郎の消耗も大きい。動かずに相手を睨みすえているだけ
なのに、頬を流れ落ちている汗が何よりの証拠だ。

 目を染めたまま、ゆっくりと真一郎はにじり寄っていく。影はぼんやりとそれを眺めて
いたが、何気ない動作で右手を振るった。

 ようやっと聞こえる程度の小さな音を立てて影から伸びた半透明の腕が、とっさに体を
捌いた真一郎のすぐ横を通り過ぎていく。これを好機と見て取った真一郎は、神速と同等
の加速で影との距離を詰めた。反応させる時間もあればこそ――

「吼破……改!!」

 渾身の力を込めた真一郎の拳が、影の脇腹に直撃する。ダメージと共に伝った衝撃で影
の身体は後方に泳ぎ、吼破の勢いもそのままに反転した真一郎は、続けざまに左の裏拳で
影を弾き飛ばした。

 弾丸のようにすっ飛んでいく影。だが、それを追う真一郎はまさに風のようだった。月
だけが照らす夜の闇の中、赤く染まった真一郎の目だけが、獲物を求めて貪欲に輝いてい
る。

 追いつくのは、簡単だった。思いのほか早く体勢を立て直した影が、今度は両手を鞭の
ように操り、真一郎を狙ってくる。元々不透明な上にこの時間……さらには不規則に動く
それらを補足するのは、とかく骨の折れる作業だったろう、普通の人間であれば。

「……ふっ!!」

 だが、生憎とここに揃っているのは、『普通』などという言葉からは、かけ離れた者ばか
りだった。結界のように隙間なく振り回される腕の中に、真一郎は無造作に踏み込んでい
く。ゆったりと、時には素早く……緩急のついた動き、その見本のような真一郎の体捌き
に、表情のない影に焦りのようなものが浮かぶ。反対に、余裕を感じさせる笑みを浮かべ
た真一郎は労せずに腕を避けきり、右手を一瞬だけ影に密着させる。

「神気発勝……神咲一灯流、神威・楓陣刃!!」

 ゼロ距離からの必殺……解き放たれた霊気の炎に押し出された影は、しかし、まだ消滅
していなかった。内心、その頑丈さに舌打ちをしつつも、真一郎は続けて左手を影に向け
た。

「追撃、神咲無尽流、神威・洸桜刃!!」

 追って放たれた光弾は、炎に包まれる影に吸い込まれるように跳び、その勢いに拍車を
かける。これで倒せないとしても、あの炎に囚われている間は満足に動けまい。本当は、
ここまでで倒すつもりだったのだが、影は今だに健在である。

 技を使ってしまったために空になった『骸手』に霊力を再充填、今までよりもさらに神
経を研ぎ澄まし、狙いを影に定める。撃つのは、楓華疾光断。真一郎の退魔能力の中では
最大の威力を誇る技である。まさかこれで倒せないということもなかろうが、念には念を
入れて、真一郎に制御可能な最大限まで霊力を集中させた。

「神気発勝……神咲一灯流奥義、封神――」

 まさにそれを放とうとしたその時、真一郎の脇を白い風が通り抜けた。一瞬後、あれだ
け苦戦した影は随分あっさりと上下に両断され、霧散した。『骸手』の霊力はそのままに、
影が存在した場所を真一郎は呆けたように見つめる。

「時間かかりすぎですよ、ご主人様」

 その姿を、白い髪の少女が笑った。肩に担いだ愛刀には、霊力の炎……今、真一郎の両
の手に込められたものよりも、遥かに密度の濃い炎が揺らめいていた。

 先を越された、真一郎がそれに気付いた時には、ざからは納刀して真一郎のすぐ隣にま
で歩いてきていた。

「俺が相手にしてたでしょ?」

 霊力を体内に還元し、真一郎は早速文句を並べてみるが、ざからはそ知らぬ顔で耳を塞
いで、いやいや、と首を振った。

(ムカつく……)

 真一郎の中の生来のいじめっこの血が、ゆっくりと首をもたげる。実力でざからに勝て
るはずもないが、それとこれは別だ。漢にはやらなければならない時がある、ということ
で――

「……天誅!!」

 見た目には十分に中学生でも通じるざからに、端も外聞もなく襲い掛かる真一郎。単純
な力比べでは敵わないが、上背に結構な違いがあるために随分あっさりとざからは組み敷
かれてしまった。

「なにするんですか!」
「うるさい! 俺の見せ場を取ったくせに!!」

 草原をごろごろと転がりながら、二つの影が怒鳴りあう。真一郎が『うにゅ〜』をやっ
たかと思えば、ざからが真一郎の首を絞める。まさに子供の喧嘩であるが、二人はいたっ
て真剣にふざけているのだった。

「いつもご主人様はずるいじゃないですか!? この前だって私が取っておいたお菓子勝
手に食べました!」
「あれはちゃんと聞いたでしょうが!?」
「寝ぼけてる時に言われても反応できません!!」

 もはや、何が原因で始まった争いか分からなくなってきている。当事者以外には、この
場所にエリザしかいないのだが、彼女がこういう争いの仲裁に入るはずもなく、果てしな
くくだらない言い争いは、どんどんエスカレートしていく。

「ご主人様は、どうして久遠にだけ甘いんですか! おやつとかだって、久遠の方が多い
です!」
「お前の方がお姉さんなんだから……我慢するのは当たり前だろう」
「私の方が起きてる時間は短いですから、どちらかと言えば、私の方が妹です」
「…………て言うか、俺はおやつに関して久遠と差別したことは一度もないぞ?」
「でもでも、たまに仲間外れにします。七瀬とか雪とかエリザは、夜たまにご主人様の部
屋に遊びに行くじゃないですか? 私は呼ばれません。きっと、皆で何かおいしい物を食
べてるに決まってます」
「そんな妙なことしてないって……それに、今の話には久遠が入ってないでしょ?」
「たまに久遠もお部屋に行ってるの、私が気付いてないとでも思ってるんですか?」

 段々と、真一郎の立場が悪くなってくる。冷や汗をかきながら、視線でエリザに助けを
求めるが、彼女は面白そうにこちらを眺めているだけで、助けてくれそうにはない。そも
そも、面白いもの好きの彼女に、助けを求めるのは間違いであった。

「別に……ざからを仲間外れにしてる訳じゃないんだけど……」
「なら、今度私も夜にご主人様の部屋に行きます!」
「…………来るの?」
「駄目……なんですか?」

 涙目で見上げられて、一体どういう反応をすればいいのか。ざからを組み敷いた体勢の
まま、真一郎は頬をかく。

 夜に集まって何をしているか、もちろん、そういうことをしているのだが、合意の上で
やっているし、真一郎にもやましいことをしているという意識はない。ざからだけ仲間外
れ、というのは強ち間違いでもないが。

 ざからの容姿は無理をすれば高校生に見えなくもないくらいであり、久遠ほど子供に見
える訳ではない。さらに真一郎は女性を選り好みするようなことはしないので(ある意味、
もっとも危険な姿勢であるとも言えるが……)、ざからだって十分に守備範囲である。

 が、ざからは危険なのだ。能力で雷を放てる久遠も危険と言えば危険なのだが、以前の
ように封印が不完全の時だったらいざ知らず、使い魔化している今の状態では、雷が暴走
するようなことはまずない。力だってたかがしれている。だが、ざからの場合は素で力が
強いのだ。

 りんごと言わず、パイナップルくらいは平気で握り潰すし、少し力を込めて正拳でもや
れば、一抱えくらいの木は余裕で真っ二つにする。

 最近忘れがちになって困るが、当時、最高クラスの退魔師であったろう、骸をしても霊
剣を数本も折られた挙句に、倒しきれなかった大妖怪、それがざからなのである。真っ最
中の時にどうなるか、真一郎でなくとも想像に固くない。

「……ご主人様、私のこと、嫌いなんですか?」
「ごめん。そこまで落ち込むなんて考えてなかった。その……今度、来る? 俺の部屋…
…」
「いいんですか?」
「俺は、誰も仲間はずれにはしたくないの。みんな大好き、俺は不器用だからそれだけは
崩したくないんだ」
「ご主人様……」
「綺麗に纏めようとしてるところ、ごめんなさい。そろそろ、お仕事してほしいんですけ
ど」
『お仕事?』
「ヒドゥンの影を倒すのが、今の私達のお仕事ですよ、忘れたんですか?」
「いや……忘れてないけどさ、それはさっき――」

 エリザは、にっこりと笑って正面を指差した。真一郎とざからは、その指の先を見て…
…絶句すると同時に、すぐさま立ち上がった。

 そこには、影がいた。それも、大量に。人型もいれば獣もいる、半透明のそれらが視界
を埋め尽くしていたのだ。

「言ったでしょう? 強敵だって。一体で終わる訳ないじゃないですか」

 その言葉を合図としたかのように、影達は一斉に襲いかかってきた。真一郎達は一瞬で、
それぞれの得物に霊力を充填、散開する。

 大小様々の影がひしめくなか、最初に襲いかかってきたのは、鳥のような連中だった。
戦略も何もなく、ただ真一郎を食いつくそうとするかのように、全方位から突っ込んでく
る。

「エリザのめちゃくちゃはいつものことだけどさ……」

 目を赤く染めて、全身を緊張させる。大きさが小さいと言っても、影は影、その頑丈さ
は先ほど嫌というほど思い知ってしまった。これらをすべて自分で倒せるはずはない、だ
が、逃げるという選択肢は真一郎の中に存在しなかった。

「……そういうことは、先に言ってよ!!」

 地面を這うような姿勢で加速する。鳥型の影は確かに物量で攻めてきてはいたが、鳥っ
ぽい形をしているためか、地面だけは彼らの隙となっていた。

 真一郎は右手を軸に回転、今しがたすれ違ったばかりの集団に向けて手を翳す。

「神咲一灯流、封月輪!!」

 霊力でできた薄い幕が影の集団を取り巻き、その動きを止める。だが、止めた傍から幕
には縦横無尽に亀裂が入る。あまり長く持ちそうにないのは、明らかだった。

「神咲一灯流奥義、封神――」

 最大威力の技はしかし、発動すらしなかった。突然感じた激痛と不自然な虚脱感に目を
向けると、犬のような影が真一郎の右足にかっちりと食いついていた。透明なくせに口か
らはみ出た牙は思いのほか鋭利で、傷口からはどくどくと血が流れ出している。どういう
力が働いているのか知らないが、霊力も一緒に流れ出しているようだ。

「――っんの!!」

 式具も何もつけていない左足に霊力を込めて、影の犬を蹴り飛ばす。重い手ごたえと共
に影は吹き飛ぶが、堪えた様子はない。仮に、楓華疾光断を放てたとしても、倒せるかど
うか、今の真一郎には自信が持てなかった。

 血と霊力を急速に失ったためか、強烈な眩暈を感じて、真一郎は地に膝をついた。さっ
きから、喉がしきりに渇きを訴えてきている。吸血鬼化しているこの身にとって、血は燃
料のようなものだ。それを一気に消耗したとあっては、いくら今が夜であったとしても、
動きとて制限される。

(こりゃあ……やばいかな?)

 封月輪を破壊した鳥型の影は、再び真一郎を包囲している。隙のあった地面すれすれに
は、今度は別の影が存在していて、独力では切り抜けられそうもない。真一郎の顔に自嘲
的な笑みが浮かんだ。

「俺も、まだまだだねぇ……」
「ご主人様!」

 影達の向こうで、ざからは奮戦していた。彼女は真一郎と違って、影をすべて一刀のも
とに切り捨てているが、かつてさざなみ寮のメンバーを圧倒した彼女の力をもってしても、
今度の敵は手に余るのか、一撃を放つたびに疲労の色が濃くなっていく。

 こちらを助けにこようとしているようだが、多数の影がそれを阻んでいる。援護は期待
できそうにもない。

 取り囲む影の気配が、すべてこちらを向いた。ここ久しく感じることのなかった死の予
感を前に、真一郎の身が強張る。終わり……の、はずだった。真一郎には、それを防ぐ手
段など残されていないのだから。あれに殺到されたら、苦しむかどうかしらないが、無事
で済まないのは確実である。

 だが、影は一向に襲いかかってはこなかった。見ると、ざからと戦っていた影も、その
動きを止めている。呆然と、いや、明らかにその無貌に『恐怖』の色を浮かべて、ある一
転を凝視している。

 ぱちぱち、と場違いに軽い拍手が草原に響いた。

「まあ、合格ですね。真一郎はもう少しかっこいいところを見せてほしかったですけど…
…」

 拍手を止め、エリザは杖を構えなおした。常に悪戯っぽい色を湛えたその瞳が、すっと
細められる。

 その瞬間、空気の温度が下がったような気さえした。エリザはただ、目を細めただけだ。
ただそれだけのはずなのに、この身を切るような感覚は一体何だと言うのか。

「私の前で真一郎の綺麗な体に傷を付けたのは、気に食わないですね。ほんとはざからち
ゃんに任せるつもりでいましたが、もういいでしょう」

 感情などとはおよそ縁のなさそうな影の集団から、一つの感情の気配を感じた。すなわ
ち、恐怖……圧倒的なまでの力を持つ者に対する本能的な感情だ。逃げる、という当たり
前の選択肢を選ぶことすら許されない、直接に向けられていない真一郎ですら、思わず身
震いするほどの殺気である。

 エリザは、悠然と歩みを進めながら、手にしている自分の――槍を突き出した。

 穏やかで、暖かな真一郎の周りを包み込む。心地よさすら感じるその光の中で、真一郎
は、無音の絶叫を聞いたような気がした。光がおさまって……そこには、何もなかった。

「魔槍ウルズ……久方ぶりの戦場です。思う存分、暴れてくれていいですよ」

エリザは、杖だった槍を愛しそうに撫でると、影の集団に突っ込んで言った。エリザが
ああいう武器を持って戦うところを見るのすら初めての真一郎は、自分が怪我人であるこ
とも忘れて、眼前の風景に見入っていた。

「私と戦った時でも、エリザ、あれは出しませんでした」

 影から開放されたざからが、真一郎の足元にしゃがみこんで怪我の具合を見る。相変わ
らず出血は多いが、吸血鬼にとってこの程度の怪我は大したことではない。戦闘をするの
でもなければ生命に影響はないし、真一郎でも一日もあれば完治する。

「私の時よりも、本気ってことですね。くやしいですけど……あの影すべてよりも私の方
が強い、という自信はありません」

 どこから取り出したのか、包帯を傷口にくるくると巻いて、ざからはため息をついた。
彼女とて、真一郎では手も足も出ない。その彼女ですら、エリザの前では、赤子同然なの
である。

 彼女が槍を振るうたびに、影は紙のように吹き散らされていく。果敢にも――いや、無
謀にも向かってくる影は、十体近くまとめて返り討ちにされ、殺気から開放され、逃げを
決め込んだ影も、彼女の打ち出した光弾によって霧散する。

 加勢しようかとも思っていたが、それも必要はなさそうだ。一方的な破壊をしつつも、
草一つ傷つけていない彼女に、一体どんな加勢が必要だというのか。

「私は……いつになったら、エリザに相手にしてもらえるんでしょうね……」




 そして、あまりにも一方的だった戦闘は、やはり一方的に終わった。ひしめいていたす
べての影を片付けたエリザは、既にざからに治療をされた真一郎を見て、ほっと胸をなで
おろした。

「油断しましたね、真一郎。ちゃんと慎重に戦っていたら、勝てないまでも怪我なんてし
ませんでしたよ。だから、減点一です」
「厳しいね……これでも頑張ったんだけどなぁ」
「でも、綺麗な顔に傷は付かなかったですから、よしとしましょう。真一郎の顔に傷が残
ったら、私がさくらに怒られてしまいますから」
「それにしても、エリザ、かっこよかったよ。その槍とか……杖が変形したように見えた
んだけど」
「そうですよ。魔杖ノルン……私が最初から作った武器の中では一番の自信作です」
「もしかして……形態は三つ?」
「ご名答。さっきのが魔槍ウルズ、それから、魔鎌ヴェルザンディに魔双剣スクルド……
もう少し手応えがあったら、全部見せてもよかったんですけどね……」

 それからエリザは、こちらを見上げる弟子の二人を見下ろして、柔らかく微笑んだ。

「だいじょうぶですよ。貴方達には悠久の時があって、この私がいるんですから。いつの
日か、こんな連中なんて問題にならないくらい、強くなれますよ」
「本当……ですか?」
「ほんとう。私は嘘なんてつきません」

 エリザが頭を撫でると、ざからは無邪気に笑顔を見せた。真一郎はまだ痛む足を庇いな
がらも立ち上がり、彼女達の隣に並ぶ。

「それで、エリザ……美由希ちゃん達は……」
「ああ、それなら心配ないですよ。ちゃんとどこに行ったか探し出しましたし、もう少し
したらここに戻ってきますから。だから……」
「……だから?」
「だから、私は、授業の締めをしましょう」

 悠然と振り返るエリザの視線の先には、またも影がいた。数は……先程と同じくらいだ
ろうが、現出しても動こうとしないのは、決定的に違っている。

「綺麗な月、綺麗な夜……今は吸血鬼の時間、魔術師の時間……新たな門出には相応しい
時分ですね」

 槍は再び杖となり、魔術師の手の中に。それを正面に構えた彼女は、舞台に立った役者
がするように、優雅に会釈をした。観客は、弟子が二人と無貌の集団。

「出来損ないによって押し出された、哀れな異邦人よ。エリザベート・ドロワーテ・フォ
ン・エッシェンシュタインの名において、貴方達をその運命から解放しましょう」

 主の意思に従って、『ノルン』が光を放つと共に、流麗な言葉が、エリザの唇から紡ぎだ
された。

『我は汝を召還する……忘れ去られた時の彼方に眠る、気高き獣よ。
 見えざる者、破壊する者、すべてを飲み込み、そして、彼方へと導く者よ。
 我、真なる理を解する者なり。我が言葉、我が召還に応え、その咆哮でもって彷徨いし
哀れな者を、導きたまえ』

 大気が震え、存在するすべての物が、今だ見たことのない『もの』の来訪に、恐怖する。
真一郎も、ざからも、影の集団ですらも、その例外ではなかった。すべてが恐怖するその
中で、エリザだけがすべてを受け入れて、そして、微笑んでいた。

「安心してください。貴方達は今度こそ、いるべき場所へと行くことができます。もう、
彷徨うことはありません。貴方達の魂に、幸いのあらんことを……」

 杖を高々と掲げる。それと同時に、すべてを圧倒する力の篭った言葉が紡ぎだされた。

「我が元に来たれ、ヒドゥンよ! 『時を渉る隠獣の咆哮』!!」




 何が起こったのか、そのほとんどは理解できなかった。ただ、薄目を開けて見ていたそ
の中で、絶対的な見えない『何か』がそこにいたのを、真一郎は確かに見たような気がし
た……












「今頃、世界各地は大騒ぎだろうねぇ……」

 転移で相川邸から取り寄せたお茶を飲みながら、真一郎はまるで老人のように呟いた。
ちなみにざからは、一緒に取り寄せたお菓子をたらふく食べた末に、今は真一郎の膝の上
で静かに寝息を立てている。部屋に呼ぶ、の一件を念を押してくるあたり、ちゃっかりは
している。

「騒ぐだけ無駄なんですけどね。今の世界の技術では、ヒドゥンを解明できませんから」

 その大元を引き起こした女性は、まるで気にした素振りも見せずに、大好きなブランデ
ー入りの紅茶を飲みながら、空を見上げた。
 魔術師にとって、真実の探求はライフワークである。その事象を深くまで理解しないと、
当然のことながら、その魔術は扱うことはできない。だが、その事象を限りなく完璧に近
い状態まで理解することができ、それに相応しい力があれば、その事象は魔術師の思うが
ままだ。例えそれが、どんなに破滅的な災害であったとしても、である。

「解明できないからこそ、不安でしょう。呼び寄せるくらいのことができるんだったら、
クロノ君達に押し付けないで、次に来るのも何とかしてあげたら?」
「駄目ですよ。困難なことに二人で立ち向かうからこそ、そこに確かな感情が生まれるん
です。世界の壁を越えた愛……いいじゃないですか、面白くて」
「……二つの世界の一大事も、エリザにとっては、暇つぶしの一つか……」
「長い私の人生の中で出会った一番の強敵は『暇』ですからね。それに押しつぶされたら、
何も面白くなくなっちゃいます」
「まあ、それで二人が仲良くなれるんだったら……いいか」
「そうですよ。真一郎も分かってるじゃないですか」

 既にほろ酔いの気分なのか、僅かに頬を染めたエリザは、お気に入りの紅茶の入ったポ
ットをこちらに差し出した。苦笑して、真一郎はカップを差し出し、そこに注がれる琥珀
色の液体に映る月を見て、感嘆のため息をついた。

「あら、真一郎にも夜のよさが分かってきましたか?」
「まあ……もう、五年は経つからね、俺が、こうなってから……」
「その割には、あまり血は飲みたがらないですね」
「飲みたい……とは、思うんだけどね。まだ、あまりおいしいとは思えないんだ」

 お酒と一緒、と紅茶に口をつける真一郎を眺め、エリザはぽんと、手を打った。

「さくらから聞いたんですけど、お酒を美味しく飲む方法があるんです」
「別に、俺はお酒を飲めない訳じゃないんだけど……」
「細かいことは気にしないでください。一緒って言ったのは、真一郎の方ですよ」
「…………まあ、いいか。血を美味しく飲む方法?」
「はい。で、ちょっと目を瞑っていてもらえますか?」
「はいはい……」

 疲れていたせいで酔いが回っていたのか、真一郎は何の疑いもなく目を閉じた。そして、
閉じた瞬間、唇に押し付けられる柔らかい何かを感じて、真一郎はゆっくりと目を開けた。

 口の中に広がる鉄の味……それは、たまに飲む時と変わらないはずだったが、どういう
訳か不快感はなかった。唾液と一緒に口の中の血を飲み下す。すると、ずっと喉の奥に居
座っていた渇きは、嘘のように掻き消えた。

「好き嫌いしないで、血はちゃんと飲んでくださいね。私や真一郎は、『普通』とは違いま
すから、同族からでも血を受け取ることができるんですよ。どうしても飲めない時には私
を呼んでください。またこんな風にして飲ませてあげますから……」

 酒を始めて飲んだ時のように、頭がぐらぐらする。だからか知らないが、息のかかるく
らいに近くにいるエリザの笑顔がとても魅力的に見えて、身体の中から熱い気持ちが溢れ
てきて、真一郎は思わずエリザを抱きしめていた。

 普段は、あくまで師として接してくる彼女が、今は真一郎の腕の中で大人しくなってい
る。腰まで伸びる綺麗な銀髪を手で梳きながら、エリザの顎に手をかけた。そのまま再び
唇を重ねようとして……口に指を当てられた真一郎はぴたりと動きを止めた。

 拗ねたようにエリザを睨むと、彼女は微笑んで首を横に振る。駄目ですよ、と目が言っ
ているが、それを承服できるほど、真一郎は素直ではなかった。それでも真一郎は引かな
いことを知ると、エリザは残った方の手で、真一郎の後方を指す。その意を解した真一郎
は、面倒くさそうに首を動かして――横っ面に衝撃を受けて、吹き飛んだ。

「何かよく分からない目にあって帰ってきてみたら……エリザ、抜け駆けするなんてずる
いんじゃない?」
「私だって女の子ですから、好きな人を独り占めしたいって思う時もあるんですよ」
「だからって……私達のいない間に手をださなくてもいいじゃないですか」
「雪ちゃん、タイミングを見誤らないことも、生きていく上では重要なことですよ」

 ぴっと人差し指を立てて、真面目くさった口調でエリザ。的を射てはいるが、いつも筋
道の立った説得が相手に通じるとは限らない。そして、今は通じない時だった。

 真一郎を吹き飛ばした張本人達――七瀬にしても雪にしても本当に珍しいことはあった
が、彼女達は久しぶりに彼女達の師に本気で牙を向いた。吹き荒れる氷雪を、迫り来る弾
丸を、当たり前のことではあるが、エリザは難なく捌いてみせる。余裕のあるその態度が
癪に障るのか、二人は攻撃の手はますます苛烈になっていった。




「真一郎さん……大丈夫ですか?」
「…………かなりやばいかもしれない。頭が割れるように痛いし……」

 実を言うとそれは酒による頭痛であったのだが、今の真一郎にはそれすら理解できなか
った。その痛みにひたすら呻く真一郎、美由希はどうしたものかと辺りを見回したが……
七瀬と雪はエリザとじゃれあっているし、ざからは傍ですやすやと寝息を立てている。久
遠にいたってはここにすらいない。真一郎を介抱できるのは、今のところ美由希一人だけ
だった。

「あの、真一郎さん。向こうで横になったほうが……」

 美由希のその言葉は、本当に良心から出てきたものだった。平時であればその心遣いに
感謝の言葉でも言っていたのだろうが、この時の彼は、少しばかり冷静さを欠いていた。

 痛む頭を押さえて顔を上げた真一郎には、美由希の示す向こうというのは、どうにも遠
くに見えたのだ。そこまで動くのは、辛い……と言うか、面倒くさい。もっと近くに休め
るところはないかと首を巡らせてみると、『ちょうどいい所』にそれはあった。

「おやすみ……」

 そう言って、真一郎はそのちょうどいい所に倒れこんだ。美由希の胸に、である。美由
希にとっては一番大事な人である真一郎。いきなりこういうことをされても、慌てこそす
れ拒む理由などあろうはずはなかった。

 だが、真一郎の知るべきところではないが、この時は聊かタイミングがまずかった。と
っさのことに気が動転した美由希は、思わず条件反射で、真一郎の頭に拳を叩き込んだの
である。その打撃を恭也が見ていたら、文句なく百点をくれるであろう、それくらい文句
のつけようもない、素晴らしい打撃だった。



 頭の中を掻き回されるようなその一撃に、真一郎は抵抗もできずに地面に転がった。慌
てて美由希が駆け寄るが、いくら呼びかけても真一郎が起きる気配はなかった。




 結局、真一郎が本当に介抱されたのは、エリザ達の争いが集結して、ひと段落してから
のことだった。そしてしばらく、真一郎が原因不明の頭痛に悩まされることになるが、ほ
とんど毎日美由希が見舞いに来てくれたので、問題はなかったと言う。