クロニクル・ディズアスター 第六話 美由希編











 危険を予測する際に、最も重要とされる技術とは何か? まあ、個々に備わっている能
力もその一つではあるが、それにしたところで、実戦において経験を積まなければ真の力
は発揮できない。

 戦闘の技術はあっても、美由希にはその経験が真一郎達に比べて致命的に不足していた。
七瀬や雪が気付いた攻撃に、彼女は気付けなかったのである。もっとも、一行の中で唯一
純粋な退魔能力を持たない美由希に、その感知を要求するのは酷かもしれないが……

 ともあれ、ヒドゥンの攻撃を食らってしまった美由希は、突然自分の置かれる状況の変
化に戸惑っていた。

「ここ……どこ?」

 さっきまでいた場所とはまるで違う……それなのに、どこか見覚えのある場所であった。
板張りの、それなりに広い部屋。壁には大小の木刀がかかっていて、正面には神棚がある。
いわゆる、典型的な道場だった。高町の家にも道場はあるが、あの建物は、試合用に一面
を取ると、それだけでいっぱいになってしまう。それに引き換え、この道場は三面を取っ
てもまだ余裕のある造りだった。

「何か……うちの道場に似てるなぁ……」

 広さは比べるべくもないが、造りというか何というか、とにかく雰囲気のような物が、
ここと高町家の道場は酷似しているのである。造りのバリエーションなどたかがしれてい
るし、空似と言ってしまえばそれまでなのだが、一度気になってしまうと中々頭から離れ
ないのは、美由希の癖であった。その疑問を解決するべく、神棚を眺めてみたり、壁にか
けてあった小太刀の木刀を手にとってみたりするが、逆にその疑問は深まるばかりである。

「何か、うちと関係があるのかな……」

 美由希にとっては馴染みの深い鉄心入りの小太刀サイズの木刀を片手に、美由希は首を
傾げる。頭の中に浮かんでは消える可能性を次々に検証してみるが、こういうことに不慣
れな美由希では、仮説は立つもののどれも確証を得れない。その格好のままでしばらく考
えに没頭していた美由希であったが――

「誰か、いるのか?」

 意識の外からの声に反応して、美由希は木刀を床に放り出すと、腰に下がった愛刀に手
を伸ばして戦闘態勢を取る。声をかけた方は、ここに美由希がいることがよほど以外だっ
たのか、整った顔を呆けさせていた。

 見覚えのない男だった。身長は、恭也よりも高いだろうか。彼と同じくがっしりとした
体格であるが、ごつい印象のない、精悍な男だった。手に持った二本の小太刀は遠めに見
てもその造りから業物であることが理解できる。そして、それらを持つ男の力量もまた、
優れたものだった。

 この男には、おそらく勝てない。剣士の直感とも言うべき物で、男から意識を逸らさず
に、美由希はそう感じていた。勝てない勝負はするなと、常日頃から叩き込まれているが、
唯一の出入り口を自分よりも力量が上の男に押さえられてしまっては、いかんともしがた
い。

「あ〜そのな……だれだ? お前は……」

 だが、男に美由希と敵対するような雰囲気はない。小太刀を抜刀もせず、頭をかきなが
らこちらを眺めるその姿は、こちらに根拠のない安心感を与えた。

「できれば、そちらから名乗っていただけないでしょうか……」

 相手が誰なのか分からない以上、軽々しく自分の名前を言うことはできない。美由希と
しては、当たり前の反応を返したつもりだったのだが、それを受けて男はさらに困った顔
をした。

「とは言ってもな。こっちも、自分のうちの敷地にいつの間にか入ってきたお嬢さんに、
名乗るってのも、立場的に難しいものがあるからな……」
「ここ……貴方のお宅なんですか?」
「まあ、正確には俺のではないが、俺が住んでいる家であるのは間違いがない」

 その言葉に、美由希の心は揺れる。元来いい人である美由希は、人に迷惑をかけること
に人並み以上に抵抗を感じる。何が起こってこんな状況になっているのか知らないが、例
のヒドゥンが絡んでこうなってしまったことは、容易に想像がつく。

 ならば、迷惑をかけているのは、こちらということだ。見たところ、男にはこちらに害
を加える様子はないみたいだし、誠意を持って話し合えば分かり合えるかもしれない。な
によりも、同じ武器を持っているもの同士であることだし……

『…………?』

 気付いたのは、美由希と男、同時であった。両方が、相手の小太刀のうち一本を凝視し
て、それから自分の手の中の小太刀と見比べる。そして、示し合わせたかのように、お互
いのそれを軽く掲げて見せた。

 それは、『龍鱗』。美由希の愛刀の一本で、御神皆伝の証に、恭也から譲り受けた、御神
正統の証である。業物であれば、共打ちがあったところで不思議ではないが、二人の小太
刀は共打ちというレベルではなかった。

「その刀……どこで手に入れた?」

 男の目がすっと細められると、空気の性質が変わった。

「これは、私がちゃんと受け継いだものです」

 信じてもらえないのだろうが、美由希は一応本当のことを言って、男に対峙した。戦闘
になれば、命の保障はない。男はきっと全力でかかってくるだろう。下手をすれば、美沙
斗よりも実力は上……死ぬ気で挑んだとしても、勝てる見込みは、おそらく五割以下。

「信じられると思うか?」

 案の定、男は「その」小太刀を抜き放った。やらなければならない……交差差しにした
小太刀を抜刀し、構える。恭也相手に何度も練習をした構え、美由希自身の努力の結晶で
ある。これが、この男にどう通じるのか……


 男が、動いた。

 体に一切の無駄のない動きで一息に美由希との距離を詰め、「その」小太刀ともう一刀で
攻撃してくる。わずかにタイミングをずらしただけの『初歩』の斬撃。その避け方は……

「ふっ――」

 美由希は、必要な分だけ身体を後方に逸らして、身体を沈め、踵で男の膝を狙った。こ
れも、『初歩』。男は、刀を振った勢いでステップを踏み、身体を反転させて小太刀で美由
希の首を狙う。

 終わった。迫り来る小太刀を意識の隅で感じながら、美由希だけでなく男もそう思って
いた。タイミングも、申し分ない。これを避けられる人間など、いるはずがない……はず
であった。

「……え?」

 当たり前のように耳元で聞こえてきた金属音に、美由希は目を見開いた。まるで、そこ
に小太刀がくることが予め分かっていたかのように、美由希の姫が男の小太刀を防いでい
たのである。

 この、得体の知れない攻防に、美由希と男、二人の動きが完全に止まってしまう。

「どういうことだ?」

 そんなことを聞かれても、美由希に答えられるはずもない。単純な力比べでは勝てない
美由希は、飛針を撒き散らしながら後方に跳び、着地と同時に神速を発動させた。

 色を失い、時の止まった世界でも男の動きは衰えない。男は、美由希の放った飛針を小
太刀ですべて叩き落とすと、すぐさまそれを納刀する。美由希は矢を放つかのように腕を
引き絞り、男を目がけて加速する。

(こんな戦い……どこかで……)

 実の母に教わったこの技と、兄の得意とするあの技。その二人が技を出し合ったとき、
確か競り勝ったのは母の方だった。相性の問題もあるが、この二つの技がぶつかりあえば
美由希の放つ『射抜』の方が大抵勝つ。飛針を放っていた分、美由希の方が早く技の体勢
に入れた。改めて冷静に分析してみても、自分の勝ちでこの戦いは終わる。そう、思った。

『油断しちゃ……いけない』

 現在、美由希の目標である母は、剣を教えるよりも先に、それを語った。

『どんなに完璧に見えても、どんなに有利にことが運んでいても、必ず隙はどこかに存在
するものさ。勝てる……そう思った時にこそ、私達は細心の注意を払わないといけない』

 男はまだ、小太刀を抜いていない。『薙旋』……恭也の得意とする、瞬速の四連撃の構え
である。恭也が放つところを何度か見たし、それは間違いはない。このままなら勝てる、
それでも美由希の見解は変わらない。競り負ける要素はどこにも――

『注意を怠れば、その影響は自身だけじゃなく、その周囲にまで及ぶ。だから美由希、私
達は負けてはならないんだ……』

 ――ないはずはない。本当の『必ず』なんてものがこの世界にないことなど、子供でも
知っているというのに。

 『射抜』を放つために緊張していた全身の筋肉が緩む。それと同時に、男の全体を眺め
る余裕も出てきた。納刀した、今の『薙旋』の構えは……フェイク。

『そして、私達は必ず生きて帰らなければならない。私達が刀を振るう、その理由のため
に。私は、それに気付くのが遅かったけど……美由希、お前には――』

 納刀したままで、男はほとんどノーモーションまま、美由希の進路を塞ぐ形で小刀を放
った。そういう行動を思考の隅に置いていた美由希は、右足で大きく踏み切り、小刀と男
の間合いの外に抜ける。

 男は、必殺のはずだった攻撃を避けられたことに驚きつつも再び抜刀するが……遅い。

 美由希の視界に、光が灯る。それは、幻覚にして、境地。美由希の奥底の美由希が示し
た、小太刀の辿るべき道筋である。

 美由希はその光目掛けて、龍鱗を振るった――






「いや、すまなかった。君の目を見た時には、敵意のないことは分かっていたんだが、こ
れも性分でね。強い人間とは戦ってみたくなるんだよ」

 美由希よってきっちり三等分にされた小太刀を床に放り投げて、男は笑いながら床にど
っかと腰を降ろした。年端もいかない少女に負けたにしては随分と晴れやかな、男の顔だ
った。

「私の方こそ、申し訳ないです……」

 既に龍鱗と姫を納刀した美由希は、男の前に正座してひたすら小さくなっている。元々、
不慮の事故であるとは言え、美由希が勝手に人の家に押し入ったのだから、非はこちらに
ある。それなのに、あろうことか家人に剣を向けてしまうとは、もはや返す言葉もない。

「なに、同門の剣士は身内も同じ。君も使うのだろう? 御神の剣を」
「はい……まだまだ未熟ではありますけれど」
「閃……か。御神流、奥義の斬式……俺も使いこなせない技を出されるというのは、癪だ
な。閃、好きな時に出せるのか?」
「ううん……調子のいい時にしか、出せませんけど……」
「それでも、出せるのならたいした物だ。この小太刀だって――」

美由希によって断ち切られたそれは、龍鱗や姫には及ばないものの、中々の業物である。
加えて、男くらいの腕の持ち主が使っていれば早々折れる物ではない。それを、美由希は
断ち切ったのである。

「君の才能と、努力の賜物だ。偶然でも、たまたまでも、素直に喜んでおくんだね」
「はい……」
「御神の剣を極めし者、この世において、斬れぬものなし……ってな。それを使いこなせ
れば、君に敵はない。人も、魔も、神ですらその手にかける。斬るという行為の究極、絶
対斬、それが、御神流奥義の斬式、閃の力さ」
「何でも、切れる……」
「まあ、他にも聞きたいことはあるが、それはもう気にしないことにするよ。悪い人間で
ないのなら、気にすることもなかろう。幸い、君の迎えも来るようだし」
「迎えって――」
『美由希ちゃん、生きてますか?』

 腰が抜けるかと思った。そりゃあ、普通の人間は頭の中にいきなり声が響けば、驚きも
する。真一郎達にはなれたことでも、美由希にとってはまだまだ未知のできごとだった。
もっとも、美由希が驚くことを知った上でエリザはわざとそうしているのだが。

「エリザさん……ですか?」
『はい。その様子だと無事みたいですね。もうすぐこっちに引き寄せますから、そのつも
りでいてくださいね』

 言うが早いか、声は頭の中から遠のいていった。

「さて、もう帰るのだろう?」
「ご迷惑をおかけしました」
「なに、俺も手合わせができて楽しかったよ。その刀、大事にするんだぞ」
「……貴方のその刀は――」
「さあ? 似てるだけの別物だろう。よくあることさ」

 座ったまま、男が美由希を促す。美由希は立ち上がると、男に一礼した。そして、その
まま男に背を向けて道場を出る。すると、一人になったのを見計らったかのように歪みが
周囲を包み、美由希はその世界から姿を消した。









「士郎と美沙斗……それから、恭也の匂いがするな。お前の構えからは……」

 少女の気配が消えて、一人道場に残された男。先ほどの戦いを思い返しながら、男は一
人思いを馳せる。

 男には、一人娘がいた。眼に入れても痛くはない、妻と同じくらいこの世で大切な娘で
ある。

「お前は、剣士になる道を選んだんだな。淑女になってくれてもよかったんだが、それも、
よし……か」

 剣士として、あの娘は大成していた。よほど、よい師がついたのだろう。閃を使いこな
すのだって、時間の問題でしかない。

「惜しむらくは、構えの中に俺の匂いがないということか。でも、俺は嬉しいよ。愛しい
娘が、俺と同じ道を歩んでくれて……俺の魂の篭った『龍鱗』を受け継いでくれて……」

 龍鱗を納刀し、男は立ち上がる。愛しい娘は、今、妻と一緒に夢の中にいる。だが、さ
っきであった少女は、紛れもない美由希であろう。

 どうということはない、ただ、男は――永全不動八門一派、御神真刀流小太刀二刀術、
最後の当代、御神静馬は、嬉しかったのだ。

 母屋へと、踵を返す。どうやら今夜は、酒が上手く飲めそうだった。