クロニクル・ディズアスター 第六話 七瀬編










 やられた……そう思った時には、もう遅かった。ざからに抱えられてこちらから離れる
真一郎の顔を見て、七瀬は自身の消滅すら覚悟した。

 真一郎に憑いてから役七年、生きて、幽霊だった時期も合わせると半世紀もの時を七瀬
は生きてきた。

 生きていた頃に感じていたのは、退屈。それに反するように、幽霊になった後に感じて
いたのは、言いようのない――おそらく、生きている者には理解できないであろう、孤独
だった。死んでから生きていることのありがたさに気付く、最近ではどこにでも転がって
いそうな話だ。

 それでも、どんなに孤独を抱えても、七瀬は生き続けた。自分の過ごしていた場所が旧
校舎と呼ばれるようになってからも、一人で生き続けた。

 だが、限界は何にでも存在する。生に対する執着と、幽霊としての経験と才能、それら
すべてをつぎ込んでも、自身の存在を維持できないくらいの状態に、七瀬は直面していた。

 あの日、あの場所で『偶然』にも真一郎に出会っていなければ、今の七瀬はなかったと
言ってもいい。

 だが、その出会いは七瀬の命を助けただけではなく、真一郎の運命すら変えてしまった。
元の真一郎は、標準以上の霊力は持っていたが、それだけ少年だった。その霊力は退魔師
をするには、少々物足りない程度であったし、あのまま七瀬と関わらなくても、薫の目に
は止まっただろうが、責任感の強い彼女のこと、それだけで真一郎を退魔師に勧誘すると
も思えない。彼をこちら側の世界に引き込んでしまったのは、自分なのだ。

(幸せだったのかな……真一郎は)

 守護霊も退魔師も吸血鬼も……普通に生きていれば、おそらくめぐり合うことはない。
どうしようもないくらいの女顔という要素を除けば、真一郎は十分に普通に生きる才能を
持っていたのに、七瀬に出会ってしまったから道を変えることを余儀なくされた。

(あたしは、いない方がよかったのかな)

 それは、常から感じていたこと。この世で一番近しい真一郎にすら打ち明けたことはな
い、七瀬の最も奥深い悩みである。何度も相談しようと思った。打ち明けて、慰めてもら
いたい……そう、思った。だが、そんなことができるはずがない。どれだけ、不安に思っ
ていても、今が幸せなのは確かなことなのだから。あの旧校舎の孤独から自分を助けてく
れたのは、真一郎なのだから。

 でも、そんな生活も終わる。ついさっき七瀬は戦いにおいて、不確定な敵の攻撃を受け
るという致命的なミスを犯した。死すら内包しているこの仕事で、どんな理由であれ一瞬
でも気をぬくことは、その死の具現に直結する。

 それでも、仲間を巻き込まなかったのは御の字だろう。自分の失敗で命よりも大切な仲
間を死なせてしまったとあっては、死んでも死にきれない。

 一度は失ったこの命……こんなつまらないことでもう一度手放してしまうのは残念でな
らないが、それすらも七瀬にとっては贅沢な話だった。いるのかどうかは知らないが、も
し本当に神というものが存在するのだったら、行き着いた先で挨拶でもしなければならな
いだろう。

(そう言えば、私のお葬式ってやるのかな?)

 普通、葬式には遺体が用意され、参列者に見守られて火葬される。だが、幽霊である七
瀬には、そんな都合のいいものなど存在しない。なんにしても、この世から立ち去った後
のことなので、正直、七瀬には関係のない話なのだが、できることならやってもらいたい。
そして、その時には……真一郎は泣いてくれるだろうか?

 脳裏に浮かぶは、最愛の人の姿。この年月、最も自分と近しい距離で過ごしてくれた、
青年。彼の泣き顔はあまり見たくないけれど、それでも、彼が自分のためだけに泣いてく
れるなら――

(一生に一度くらいは、見てもいいかもしれないわね……)













 ……生きている。

本気で死を覚悟していた身にとっては、拍子抜けするほど変わりなく七瀬は当たり前の
ように、『そこ』に存在していた。身体のどこにもおかしな要素はない。試してはいないが、
念動力も使えるだろう。無事な理由……攻撃が不発だった? いや、さっきの攻撃は――
もしかしたら、攻撃でなかったのかもしれないが――確かに直撃したはずだ。

 雪やエリザであれば、今のこの状況に何らかの結論を下せるのだろうが、魔術の知識の
ない自分では、いかんともしがたい。だが、そんなものを持ち出さなくても、分かってい
ることが一つだけある。

 今、この時。相川真一郎が守護霊、春原七瀬は、間違いなく生きているということだ。

「なら、この場をどうにかするべきね……」

 細かいことを気にしないのは、彼女の美徳である。

 思考して、七瀬の意識は、柔らかな光の差し込む周囲へと向いた。少なくとも、さっき
までは夜だったはず……加えて、今自分のいる場所に、心当たりはない。

 高度な魔術を行使する者は、対象者を任意の場所に転移させることもできると言うが、
おそらくそれに近いことが起こったのだろう――と、魔術に詳しくない七瀬は勝手にそう
当たりをつけた。今が昼間であることの説明が微妙につかない気もするが、そんなつまら
ないことを気にするのは後である。

 まずは探検、と、七瀬は本人の感覚で慎重に――他人からすれば、遠足に出かける子供
のような足取りで、歩き出した。

 窓から差し込む光は、どうやら本物。幽霊たるこの身には、いささか眩しすぎるが、真
っ当な人間の感覚で判断すれば、『ちょうどいい』くらいだろう。

「何か、お城みたいなところね……」

 無論、洋の東西問わず、七瀬は城になど足をはこんだことはないのであるが、幼い頃に
読んだ御伽噺に出てくるような雰囲気を、周囲に感じたのである。

 だが、日本であることには、七瀬は確信が持てた。根拠、とするには弱いが……この、
少しばかり『洋』の雰囲気を出そうとしている建物、いや、雰囲気そのものに、七瀬は奇
妙な懐かしさを感じていたのである。

「既視感……ってやつなのかしら」

 私に限って……と、普段の七瀬なら、その思いつきを笑い飛ばしていただろうが、足を
進める度にその感覚が強くなっていくというのであれば、流石にそうはいかなかった。

 無目的に歩いているはずなのに、明確な目的を持っているかのような。行くべき場所を
知っているかのように、自然と足が動いているのである。身体は七瀬の意思を離れてはい
ない。七瀬はあくまで自分の意思で『目的の場所』に向かっている。

 こんな事態は初めての出来事。何が起ころうとしているのか検討もつかないのは気味が
悪いし、何かに弄ばれているような気がして気分も悪い。いっそ、この感覚に逆らってこ
こから飛び出してしまおうか、という気さえ起こってくる。七瀬は足を止めずに黙考して
……ゆっくりと首を横に振った。

 とあるドアの前に立つ。既視感は、いよいよ早鐘のように七瀬に『何か』を訴えかける。

「神様か運命か知らないけど、私に喧嘩を売ろうって言うなら……」

 買ってやる。愛しい人の守護霊たる、春原七瀬のこの名にかけて。

 ノックをせずに、ドアを開け放つ。そこに待っていたのは、危険でも何でもなく――

「あら……どなたですか?」

 突然の来客に、純白のドレスに身を包んだ女性はわずかに目を見開いた。その容貌に、
七瀬は言葉を失うと共に奇妙な安心感を得た。それは、女性の方も同じだったらしく、綺
麗に化粧を施したその顔に、驚きを浮かべている。

同じくして異なる驚きを抱えた二人の女性は、しばらくの間互いから目を離せなかった。
だが、白い衣装の女性の方が先に立ち直り、七瀬に問いを投げかけた。

「……私のお客様、ですか?」
「いや、別にそういう訳じゃないんだけど……」
「でも、お暇ですよね?」

 今までの気分からすれば、それは随分と緊張感に欠ける問答だった。することが見当た
らない、というのを暇というのであれば、当座することを見失っている七瀬は確かに暇だ
った。目の前の女性に興味のあった七瀬は小さく頷くと、手近な椅子を引き寄せて女性の
前に座った。

「何かお飲みになりますか?」
「いいわ。それより聞きたいんだけど――」
「ええ。多分、貴女の思った通りですよ」

 淀みのない返答。七瀬本人ですら確信を持てなかったことを、女性はこともなく肯定し
た。非常識に慣れている七瀬ですら、それは受け入れがたいことであった。術にしろ能力
にしろ、とにかくそういったもので騙されていると考えるのが、この場合は一番妥当であ
る。今さっきあったばかりの人間の言葉など、到底信じられるものではない。

「そう。貴女がそう言うなら、そうなんでしょうね」

 それでも、七瀬はその言葉を信じた。根拠は、目の前の女性自身と、『己』の勘である。

「それで、私は貴女のお話に付き合えばいいの?」
「はい。あまりに退屈でしたから。ちょうど、話相手が欲しかったところなんですよ」

 今日、結婚するんです。自らを暇と称した彼女は、そんな風に話を切り出した。一言で
言うなら、それはのろけ話。結婚相手とやらと彼女の馴れ初めに始まり、彼が如何に素敵
で、今の自分がどれだけ幸せなのかを、小さな手振りも交えて彼女は嬉しそうに話した。

「……で、階段から落ちたところを助けてもらった、なんて運命的な出会いから、その彼
に惚れ込んじゃったわけ?」
「助けること自体は当然のことですよ。何しろ、彼が原因で落ちたようなものですから…
…」
「ぶっちゃけた話、下手したらそれで死んでたんじゃない? よく話をする気になったわ
ね」
「虫の居所が悪かったら、私だって口も利きませんでしたよ。でも、あの人は毎日お見舞
いに来てくれました。思えば、それは当たり前の行動だったのでしょうけど、私はそれが
嬉しかった……」
「本当に嬉しそうね。その人のこと、貴女がどれだけ愛してるのか分かるわ」
「私の人生すべてを捧げられるくらいには、愛していますよ」
「私の人生の中には『いなかった』けど、貴女がそこまで言うんだから、きっと素敵な人
なんでしょうね」
「素敵ですよ。貴女が心に思っている人と、同じくらいに」
「やっぱり分かっちゃう?」
「幸せそうな顔、してます。私の人生では、そんなこと考えられませんけど、もし私がそ
の人に会っていても、やっぱり好きになっていたと思います……その人、どんな方なんで
すか?」
「いい男よ。強くて、優しくて、格好よくて、私にとって最高。いつも一緒にいて、彼の
力になれる……私はそのことがたまらなく嬉しいの」
「…………安心しました」

 そう言って、彼女は窓まで歩き、七瀬に背を向けた。

「時々考えるんですよ。私があの時、そのまま命を落としていたらって……」
「割と興味のある考えだけど、無意味ね。今が幸せなのに、そんなこと悩むなんて」
「それでも考えてしまう時はあるんです。今この道を歩いている私にも、もしかしたら、
別の道を歩くチャンスがあったんじゃないかって……」
「じゃあ聞くけど、違う道に移るチャンスを手に入れたら、貴女はそっちの道に行っちゃ
うの?今歩いてる道を放って」

 女性は、まさかと笑って首を振った。

「……思い込んだら一筋ってこと?」
「はい、貴女と一緒です」

 笑い声が重なった。まるで、旧年の親友のように、二人は笑いあう。

 そして、その密やかな笑いがおさまったころ――

『七瀬ちゃん、ここにいましたか』

 七瀬の中に、エリザの声が響く。魔術によるテレパス――突然喋りだしたこちらを、女
性は不思議そうに眺めているが、この術自体は、訳の分からない場所に放り出された仲間
を発見することに比べれば、造作もないことである。そう距離が遠くなければ、七瀬にだ
って出来る芸当だ。

『無事……みたいですね、その『様子』なら。じゃあ、詳しい話は後でします。今すぐこ
っちに引き寄せますから、そのつもりでいてくださいね』
「ヒドゥンの方はどうなってるの?」
『心配無用です。七瀬ちゃんが帰ってくるころには、全部片付いていますから』

 どことなく勝ち誇ったかのような雰囲気を残して、エリザの声は遠ざかっていった。不
吉な予感がする。あれは、何か自慢の種を隠し持っている時の声音だ。雪も美由希も自分
と同じようになっていたのだとしたら、今、真一郎と一緒にいるのは彼女とざから。うか
うかはいていられない。

 七瀬がため息をついて立ち上がると、エリザの仕事らしい空間の歪みが、七瀬を包んだ。
部屋を満たしていた淡い光も、その歪みに阻まれてどこか遠い世界のことのように思えて
くる。

「もう、行かれますか?」

 女性の声も姿も、その例外ではなかった。転じて、不確かになってしまった女性に、見
えるか分からない微笑を、向ける。

「行くわ、私の愛しい人が待ってるから。放っておけないのよ。ちょっと油断のならない
人が、今そばにいるらしいから」
「それなら、アドバイスをしなくちゃですね。好きな人から、絶対に手を離しちゃ駄目で
すよ。そんなに素敵な人だったら、その人だけじゃないんでしょ?」
「……分かってるだけでも結構いるわ。それも、みんな私と同じくらいの美人なの」
「でも、思いの深さなら、誰にも負けていないのでしょう?」
「当然。真一郎を一番愛してるのは、私なんだから」
「…………では、最後に貴女にプレゼントです」
「私は今日、結婚しますから。だから、今の私の名前を差し上げます。私は、春原七瀬…
…私は、貴女。貴女は、私。でも、同じではないんですよね。だから、この名を。名前が
二つも重なれば、きっと頑張れますから」
「そうね。私の力を借りられるなら、確かに百人力だわ。有り難くもらうわね、その名」

 もはや、姿も見えない彼女が、歪んだ視界の向こうで微笑んだような気がした。