クロニクル・ディズアスター 第六話 雪編












 自身が魔術師である故か、ヒドゥンの攻撃を受けても、雪は慌てなかった。その攻撃に
触れた瞬間、効果を理解し、それが自分に害を与えるものではないと認識できた雪は、攻
撃に対し、大した抵抗もせずに、流れに身を任せた。






 そして、その雪は、眼前の光景に言葉を失っていた。空には月、辺りの風景は先ほどま
でとあまり変わってはいない。正確な場所までは分からないが、桜隅にほど近く、もう少
し歩けば、海だって見えるはずだ。海鳴市……それは、間違いない。ただ、『この頃』はそ
んな名では呼ばれていないはずだった。何と呼ばれていたか、覚えてはいない。訳の分か
らない世界に飛ばされることすら覚悟していた雪にしてみれば、これは聊か拍子抜けする
ところであるが、それを補って余りある驚きを用意することを、神は忘れていなかった。

 目の前には、小屋。立て付けが悪いらしく、隙間風が吹き込んでいるであろうことは、
外からでも分かる。うち捨てられた猟師小屋……そう、当たりを付けたはずだった……そ
う、『彼』が。

 記憶の中の自分が、今の自分を急かす。会いたい、抱きしめてもらいたいと。今の自分
が、それを押しとどめる。会えない、もう顔を合わせることはできない、と。

 どちらも声も、雪の本心である。大事だったものと、大事なもの。もし二つを秤にかけ
られるようなことがあれば、自分はどちらを選ぶのだろう?

 決断できるはずがない。だが、決断をしなければならない。ありえないはずの秤が、今、
目の前にあるのだから。

 小屋の中の『気配』が、動きを止めた。その意識が自分に向けられていることが、雪に
は、瞬時に理解できた。彼のことなら、何でも分かる。あの時の自分は、それを自負して
いたはずだ。

 そして、呼ばれていることが分かる。駆け出したい気持ちを抑えて、雪はゆっくりと歩
みを進めて、戸を開け放った。

 彼は、あの時の姿のままで、そこにいた。

「よお……雪、じゃあねえよな。姿形は一緒だが。霊力は段違いだ」

 女性のように整った容貌、そのくせ、その瞳には悪戯っ子のような光が絶えることはな
い。かつて愛した人は、雪の姿を目に留めると、わずかに首を傾げた。

「雪……じゃ、ねえよな。なりは一緒だが、霊力がまるで違う。妖って訳でもねえみたい
だし……」
「私は……雪、です」

 そう言って、色々な感情がないまぜになった雪は、それに耐え切れずにその場にくず折
れ、涙を流した。これに驚いたのは、当の男である。手入れをしていた刀を床に置くと、
慌ててこちらに駆け寄ってきた……は、いいが、何と声をかけていいのか分からないらし
く、雪の前で腕を組み、ひたすら困りだす。

「まあ……その、雪。すまねえ……とにかく謝るから……泣くな、許してくれ」

 当たり前のことだけをしていたはずの、男の方が慌てている。向かうところ敵なしだっ
たはずの男のこんな表情を、雪はあまり見たことはなかった。そんな表情が可笑しくて、
雪は目に涙を溜めたまま、小さく吹きだした。泣き顔から転じて笑顔になった雪を見て、
男は大きく息を吐き出す。

「勘弁してくれよ……俺は、そういう涙に弱いんだからさ」
「申し訳ありません。貴方の表情が、とても可笑しかったものですから」
「そりゃあそうと……お前、何者なんだ?雪本人ってんなら、氷那はどうした?」
「確か、『私』はあの泉とは別の泉を見つけて、水浴びをしていたはずです。まだ、もうす
こし帰ってくるには時間がかかると思いますよ」
「『私』……はず?」

 いよいよ、訳の分からないといった顔をする男に、雪は顔を上げて小さく微笑むと、色々
な気持ちを込めて、三つ指を立てた。

「私は、槙原雪。およそ三百年の後の世から参りました。貴方の『知っている』雪です」








「信じられない話だが……信じるしかねえ見たいだな」

 雪に座布団と白湯を勧めながらも、男はまだ渋面を作っていた。

「信じていただけるだけで私は十分ですよ」

 退魔師なら、雪の言葉を嘘と決め付けて祓いにかかってきても可笑しくはない。と言う
か、この時勢なら、そうするのが普通であった。だが、男は色々な意味で普通という言葉
を逸脱していた。そして、そこが彼の魅力でもあったはずだ。

「で、その未来の雪が何故こんなところにいる?」
「お恥ずかしい話なのですが、妖の攻撃を受け損ねてしまって……」
「相変わらずだな、お前は。誰か一緒にいねえのか? いるんだろう、仲間くらいは」
「……いましたけど、他の人達も自分のことで手一杯だったようですから」
「大丈夫か? そんな仲間と一緒で苦労したりしてねえか?」
「苦労なんて……むしろ、楽しいくらいですよ」
「幸せ、なんだな」
「はい。幸せです」
「そうか……」

 即答する雪を、男は子を思う親のように眺めていた。その眼差しに、昔の雪の胸が痛む。
子は、親の前で子でしかありえない。例え、どれだけ思いを寄せてたとしても、彼はずっ
と雪の前で親のままだった。

 でも、彼は優しかったから……雪の思いを受け入れてくれた。そこに、雪を女性として
思う気持ちがなくても、それが、雪のためなると信じて。

 あの頃は幼かった。だが、今は彼の気持ちが分かる。愛し、愛されることを教えてくれ
た人がいるから。だから、幸せだと胸を張って言える。

「明日、俺は戦に出る。相手は、俺の人生の中で、最強の敵だ。刀も、奴に無理を言って
業物を何本も用意してもらった。がらじゃあねえが、修行だってしたんだぜ? それでも
……それでも、俺は明日死ぬだろう。奴は、それほどまでに強い。だからこそ……面白い
んだ」

 刀を握り締めた男の瞳には、獣のような獰猛な光が宿っていた。修羅でなく、純粋に戦
を楽しめる才能。それは、今の雪の親友でもある彼女と、通じているものがあった。だか
らこそ、彼は彼女に――今、この時は、人を脅かす魔物に――惹かれるのかもしれなかっ
た。

 手の中の刀は、男の隠し玉……後に、魔剣ざからと呼ばれることになる、人の生み出し
た稀代の霊剣。

「あの――」
「いや、言わなくていい。戦う前に相手のことを知るなんて、興ざめもいいとこだしな。
正直、重い荷を背負わされるお前のことが唯一の気がかりだったが、その面を見る限りじ
ゃ心配はいらねぇみたいだな」

 男は立ち上がり、雪に背を向けた。それが何を意図してのことだったか分からなかった
が、次の瞬間には、その疑問は氷解していた。

『雪ちゃん、無事ですか?』

 頭の中に響いたのは、慣れ親しんだ師の声だった。おそらくは違う世界にいるはずの自
分と『コンタクト』を取るなど、どんな手品を使っているのか今の雪には想像もつかない
が、エリザの力を持ってすれば、それは造作もないことである。

『はい、無事です』
『よかったです。じゃあ、すぐにこちらに呼び寄せますからね』

 エリザとの意識のリンクが外れると同時に、雪の周囲の空間が歪み始める。魔術を理解
していない男にこれが予期できたはずはないのだが、なんとなく、彼は理解したのだろう。
自分の理解の及ばないことでも、彼なら成し遂げる。そんな根拠のない確信を他人に抱か
せるのが、彼の得意技だったから。

「雪、俺はな……」

 こちらに背を向けたまま、男は少しだけ振り返った。女性のような、それでいて粗野な
その顔に、自嘲気味の笑みが浮かぶ。・

「俺は、わがままな男だよ。自分の好きなようにしか生きられねえから、お前にも色々と
苦労をかけた。でも、始末の悪いことに、俺は少しも反省してねえ。だから、間違っても
こんな男についてくんじゃねえぞ。お前のすべてを受け止めて、一緒に歩いていける……
そんな男を連れ添いに選べ」
「……安心してください。私の、真一郎さんは、そんな素晴らしい人ですから」

 いよいよ、歪み始めた空間は、異界の魔術師の意思の力を受けて、決定的に歪み始めた。
遠くなっていく景色、色を失っていくその世界を見ながら、もう届いていないかも知れな
い言葉を、雪は紡いだ。

「最後に一つだけ……私は貴女を、骸様を愛していました。私を助けてくださったあの日
から、ずっと貴女を思い続けていました。今の私に、骸様の手助けはできません……それ
でも、私は祈ります。骸様、貴方の未来に、幸のあらんことを……」

 その言葉が、かつての重い人に届くと、信じて……