「全員床にうつ伏せになれ!」



 銃声と一緒にその言葉が投げ出された時、藤乃は周囲の客とは別の意味で言葉を失った。

まさか、今どきこんな言葉を吐き、かつ銀行強盗なんて古臭い犯罪を犯す人間がいるとは思

ってもみなかったのだ。しかし、そうした心に余裕を持った行動ができていたのは彼らと彼

らの拠り所たる拳銃と覆面という武装を脅威と思えない藤乃と他一名のみだったようで、他

の客及び従業員達は、悲鳴を上げながら犯人一味の言葉に従っていた。



「――おい。おい! そこのお前、聞こえなかったのか!?」



 銃口が無遠慮に突きつけられて初めて、藤乃はその声が自分に向けられていることに気づ

いた。見れば、立っているのは自分だけだ。突き付けられた銃口は、自分もうつ伏せになれ、

ということを促しているらしいが……冗談ではない。



 今、藤乃が着ているのは、今日この日のために吟味に吟味を重ねて、手持ちの服から選び

出した一張羅なのだ。加えて念入りにブラシを一週間も前からかけ、服を眺めて意味もなく

ベッドをごろごろすること数十回……そんな服を着た自分に、土足で歩くような床にうつ伏

せになれ、と目の前の男は言うらしい。覆面の犯人の分際で。



(さて、どんな風に凶げてあげましょうか……)



 今日というこの素晴らしい日にケチをつけただけでも、藤乃的には万死に値するのに、理

不尽な命令までしてきたのだ。これは半殺しにしても罰は当たるまい、と決断を下し、犯人

一味の運命はこの時点でめでたく決定された。



 目に見える限り、銃を手に覆面をしている犯人一味は五人。覆面をしていない一味……例

えば、銀行の関係者やうつ伏せになった客の中に犯人一味がいるかもしれないが、その気に

なれば、ここにいる全ての人間の首を一瞬で捻じ切ることもできるのだ。他にもいたところ

で関係はなく、出てきたら改めて捻じ切ってやればいい。周囲全てを『見る』ことのできる

藤乃に不意打ちは通用しないし、万が一人質を取られたとしても、捻じ切られ方が『半殺し』

から『生き地獄』にランクアップするだけで、藤乃には何の影響もない。



 呼吸をするように自然と、自らの感覚を犯人一味の全身に絡める。後は、一言。決定的な

一言を口にするだけで、犯人一味は壊れたおもちゃのように、その場に崩れ落ちることにな

る。見てる人間には理解の及ばないことだろうが、自分の命が助かったことに比べれば些細

なこと。我先にと外に逃げるだろう彼らに紛れて、警察や報道陣に絡まれないように逃げ出

せば、ケチのついた今日を少しでも挽回することができる。後は、実行に移すだけ――



「まが――」



 しかし、口に出そうとした瞬間、藤乃はその場に引きずり倒された。周囲全てを『見て』

いたはずの自分を引きずり倒したのは、一足先に床にうつ伏せていた『他一名』である。汚

れないように行動していたのにも関わらず、他でもない連れである彼女に服を汚された藤乃

は、一瞬怒りで我を忘れるが――



「…………」



 何もうつさない彼女の瞳に灯った、紛れもない感情の色に気持ちは一気に覚め、同時に冷

や汗をかく。



(霧絵さん……その……怒ってたりするのでしょうか)

(これで怒らない理由があるのだとしたら、聞かせてほしいものですね……)



 答えながらも、その見えないはずの視線は犯人一味から片時も外れない。彼らは自分達の

仕事に忙しく、その射殺せそうな視線にも気づいていないようだが、藤乃はその殺気の質を

感じ取り、少しだけ犯人一味に同情した。これから彼女がやろうとしているのは、おそらく

藤乃がやろうとした『生き地獄』以上のことだ。



(なら、何で伏せているんですか? 敵は死徒でもあるまいし、貴女なら一瞬で血祭りにあ

げることもできたと思うのですが……)

(…………足を滑らせました)



 伏せたまま藤乃は思わず、肩をこけさせた。



(逆恨みではありませんか……)

(あんな連中が来なければ、私が足を滑らせることもありませんでしたし? 私が吟味に吟

味を重ねて選び出した服が埃に塗れることもありませんでした。もちろん、今日というこの

日にケチがつくことだってありません。だから、決して、逆恨みでは、ありません)



 一言一言に殺気を込めて、霧絵は呟く。先ほどまでは自ら手を下そうとしていた藤乃であ

ったが、野生の熊でも逃げ出しそうなその気迫に、尻込みする。同じように床に伏せている

客のうち、感の良さそうな子供が犯人に向けるよりも恐ろしそうな顔で霧絵を見ているが、

悪魔という言葉を殺気のみで体言している途中の霧絵は、それに気づいている様子はない。



(先輩がこの姿を見たら、何と言うのでしょうか……)



 少しくらいは幻滅でもしれくれれば、彼の取り分が増えて嬉しい限りなのだが、どうせあ

の感性のずれた男性は、今の彼女を見ても勇ましい、とか言うのだろう。強いとか気迫があ

るというのは、よほど外面的な美しさが損なわれない限りは、彼にとってはアピールポイン

トにしかなるまい。



「それでは、あの無礼者たちは私が死んだ方がマシな目にあわせてきますが……参加します

か? 藤乃さんも」

「…………いいえ、霧絵さんにお任せします」



 手を出せばぶっ飛ばす的な顔で言われれば、藤乃にはそう答えるしか道はないのだ。床に

伏せたまますすっ、と道を譲るように移動すると霧絵はありがとう、と小さく礼をいい、立

ち上がる。犯人一味の視線、客、従業員の視線が一気に霧絵へと集中する中、彼女はそれが

当たり前の行為であるかのように、悠然と歩いていく。



「止まれっ、手前……本当にぶっ殺すぞ、こらっ!!」



 一番手前にいた男が、震える手つきで銃を霧絵に向けるが、たかが鉛球が飛び出す程度の

物を、今更霧絵が恐れるはずもない。彼女が日頃から相対しているものは、そんなものより

ももっと恐ろしく、そして強大なものなのだから。



「さて……あなた方にどんな主義主張があり、事情があるのかも私は知りませんし、興味も

ありません。銀行強盗でも何でも、私の目の届かないところでやってくれれば、それを取り

締まるのは他の方の仕事ですし、私には何の関係もなかったのですが……残念です、ええ、

非常に残念です」



 言葉とは裏腹に、霧絵はその顔に笑みを深くする。それまでは銃を持ち、あくまでも強気

で押していた犯人一味は、ここに来て彼女の持つ目に見えない、自分達には持ち得ない『何

か』に気づき、本能的に一歩、二歩と後ずさる。この時点で銃を捨て、わき目を振らず霧絵

とは逆の方向に逃げ出せば、もしかしたら無事でいられることもあったのかもしれないが、

自らの安全と目の前の脅威、そして掴みかけた現金を前を秤にかけて、彼らは目の前の脅威

の排除、という最も愚かな選択をしてしまった。



「殺せっ!!」



 一番奥にいた覆面の号令の元、全ての銃が一斉に霧絵へと照準を合わせる。次の瞬間に起

こる惨劇を想像し、伏せた客達の間から悲鳴が漏れるがその中で、霧絵は歌うように呟いた

――





「I'm singing in the darkness (闇の中、我が歌声は響く)」





 霧絵を狙って銃口が火を噴く中、彼女は何事も無いかのようにその中を歩き、ゆっくりと

一味に近づいていく。驚いたのは一味の方だ。銃弾は確かに発射され、今も発射されている。

射線は間違いなく目の前の脅威を通り、銃弾は当たっているはずだ。にも関わらず、女は一

歩、また一歩と近づいてくる。



 非現実的な光景に耐えられなくなったのか、一番霧絵に近かった一味の一人が、ナイフを

引き抜き彼女に飛び掛る。彼我の距離は一足、常人ならばとても避けられるようなものでは

ないが、霧絵は確かに見えないはずの目をその一人に向け、あろうことか自らの左腕でその

ナイフを受ける。



 男は目をむいた。渾身の力を込めて振り下ろしたナイフは、霧絵の腕どころか、服に傷一

つ付けていないのだ。そんなことがあるはずがない、とさらに力を込めて押しても、分厚い

壁と独り相撲をしているような感触ばかりが返り、男の焦燥をさらに掻き立てる。



「残念でした」



 と、霧絵はこれ以上ない、というほど楽しそうに笑い、男の腹部に軽く手を当て――





「壊れなさい」






 瞬間、男はびくっ、と大きく痙攣すると、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。

倒れるまでに机に強かに頭部を打ち付けたが、少しも反応がない。一味の連中の呼びかけに

も答えることなく、ただ思い出したように床に伏せたまま、自分の生み出した血溜まりの中

で痙攣を繰り返すのみである。



「物理的な身体構造を解析して、少々力を流させてもらいました。神経は壊れ、骨には異常、

五感は消え失せ、今の彼は何も感じることはできません。もしかしたら、一生このままかも

しれませんね……」



 霧絵はその笑顔を、一味へと向ける。もはや人間の所業ではないそれを見せ付けられ、一

味の中で彼女に歯向かおうとするものは一人もいなかったが、圧倒的な強者を前にした彼ら

は、自らの命の危機を感じても動けないまま。そして、それを見逃してやるほど、霧絵は寛

容ではない。





「さあ、自らの行いを悔いてもらいましょうか。二度と私にケチをつけることのないよう、

死んでも忘れないような目に、あわせてさしあげます」









 そうして霧絵はゆっくりと左腕を持ち上げ――打ち鳴らした。







































「すっきりしました……」

「そりゃあ、霧絵さんはそうでしょうけど……」



 あの後、ものの十秒で一味全員を血だるまに変えた霧絵は、その足でそれ以外の全ての人

間に施術。藤乃をつれて、警察が来る前に悠々と銀行を後にした。



 血だるまで倒れている犯人一味を見て、そして、彼らが何故そうなったのか他の人間が誰

も記憶していないことで、ちょっとした三面記事くらいにはなるだろうが、誰も自分達のこ

とは覚えていないし、実際犯人達以外にけが人はいない。彼らは『運が良ければ歩けるくら

いには回復する』程度に壊しておいた。ないとは思うが、多分、もう一度霧絵を前にしたら、

発狂するくらいのトラウマは、刷り込まれたはずだ。



「犯罪の抑制にもつながったのでしょうから、いいではありませんか」

「私のこのやり場のない気持ちは、どこに行けばいいんですか?」

「そもそも、藤乃さんが銀行に行きたい、なんて言い出すから、こんなことになったのでは

ありません?」

「それは……」



 一ヶ月も前から待った、せっかくのデートの日なのだ。三人で一緒、というのが不満だが、

今日は代行者もいないし、黒の姫君もいない。彼女らがあの街に来る前から繰り返された、

彼女達と彼の時間を演じられる日だったのだ。費用を持つと彼はいつも言うのだが、彼にば

かり払わせるのも、格好がつかない。だからと言って、いつも支払いをするためのカードを

出しては、庶民思考の彼にいらぬ壁を築かせてしまう。だから、前もって現金を用意しよう

と、銀行に行こう……既に現金を用意していた霧絵をつき合わせてまで、銀行に行こうと言

い出したのは、他ならない藤乃だった。



「ぎ、銀行強盗は私のせいじゃありません!」

「当然です。銀行強盗が藤乃さんのせいでは、訳が分かりません……」



 はぁ、と霧絵は小さくため息をついた。



「ですが、さっきの騒動でお金は下ろせなかったのでしょう? どうするんですか? 他の

支店にでも行きますか?」

「でも……あ、ちょっと待ってください、電話です……先輩から――」

「はい、もしもし、志貴君ですか?」



 ちょっと、霧絵さんっ! と跳ねる藤乃から遠ざけるように電話を取り上げ、届かぬよう

に背伸びをする。小柄な藤乃と女性にしては長身の霧絵では、当然のことながら、藤乃が飛

び跳ねる結果になる。その姿はまるで仲のいい姉妹のようで、道を行きかう人々は微笑を浮

かべて彼女らを眺めていたが、色々なことに必死な彼女達は、それに気付くことはない。



「ええ、もう少しでつきます。お金を下ろすのに銀行に行ってからですけど……え? なん

ですか? まさか、そんなことがある訳ないじゃないですか。志貴君も冗談が上手くなりま

したね……いえ、大丈夫です。私は志貴君のことを信じてあげますから、はい、それでは切

りますよ? お話は合流してからしましょう」



 ぴ、と勝手に切って携帯電話を押し付けると、藤乃は形のいい眉を吊り上げて、睨み上げ

くる。怒っているんだぞ、というポーズなのだろうが……正直に言って、迫力よりも可愛ら

しさの方が目立つ。もっとも、大人っぽくなりたいと常日頃から言っている彼女は、そんな

ことを言われても喜ばないのだろうけれど。



「先輩は、何て言ってたんですか?」

「私達をからかおうとしていました。銀行でお金を下ろすといったら、何ていったと思いま

す? 『今はコンビニでもお金は下ろせる』なんて言うんですよ?」

「……先輩は、私達をバカにしてるんでしょうか……」

「まったくです。私達をからかったんですから、相応の報いは受けてもらわないといけない

……そう思いませんか? 藤乃さん」

「その意見には、とても賛成します。具体的には?」

「そうですね……ここに、私が一ヶ月練りに練ったデートプランのつまったノートががある

んですが……」

「奇遇ですね。私も似たようなものを持ってきました」

「……確認しながら行きましょうか」

「そうですね。少しくらいは待たせても、大丈夫でしょう。先輩ならきっと、『ううん、全

然』とか言ってくれるに違いありません」



 待ち合わせ場所に自分が駆けていき、『待った?』と彼に問うことを想像し、藤乃も霧絵

も思わず頬がだらしなく緩む。想像の中の志貴はいつにもまして素敵で、もっと待たせた方

がいいんじゃないか、と思えるほどだった。



 そして、何か不思議な力でも働いたのか、テレパスも何も使っていないのに、二人は示し

をあわせたかのように、いつも以上にゆっくりと歩き出す。志貴の元についた際、どちらが

『待った?』をやるかで喧嘩をすることは目に見えているのが、それは今は気付かないふり

だ。









 まぁ、結論から言うのなら……待ち合わせ場所の喫茶店には、藤乃達の他に先客がいて、

それがまた眼鏡をかけた長身の美人だったりしたものだから、喧嘩の方向はまた別の方向に

向いていくのだが……今の彼女達は知るよしもないし、それで誰が被害を被るかというのも、

関係のない話だ。