でぃあ・び〜すと 最終話













「相川君…」
雷が放たれた。
薫の目の前で、それが唸りを上げている。
「あ…ああ…」
薫と変わらないくらいの人型になったそれは何かに耐えているのか、苦しそうに胸を押
さえていた。
その力は強力すぎるほど強力…だが、目覚めたばかりの今なら薫一人でも…
「久遠…うちはお前を…祓う!」
あまり手に馴染んでいない刀を抜いて、構える。
久遠だからとか、そういった甘さは捨てなければならない。
そうでなければ、殺されるのは自分だけではすまないから。
「神気―」
「待ってください!」
そんな声と共に、文字通りその少女は空から降ってきた。
ざからは薫と久遠の間に着地すると、とおせんぼするように腕を広げた。
「久遠は殺しちゃだめです」
「現にこいつは攻撃した。相川君だって無事じゃあ…」
「うちのご主人様はそんなに柔じゃありません」
薫が目を向けると、立ち込める煙の中に二人分の影が見えた。
立ち振る舞いに負傷している様子はない。
無事なようだった。あの至近距離で雷を食らったのに、だ。
もし薫が彼らの立場だったら、おそらく瀕死の重傷を負っていただろう。
「一体、どんな手品を…」
「それは、私のご主人様ですから」
呆然とした薫の声に、ざからの嬉々とした声が重なった。









「さすがに今のは危なかったね…」
「一瞬でも気づくのが遅かったら、私たち仲良くいなくなってましたね」
「…今、ほんの少しだけそれもい〜かな〜なんて思わなかった?」
「するどい…」
「まあ、そんなことより―」
口に入った砂を吐き出し、真一郎は立ち込める煙を腕の一振りで追い払った。
「あまり、好ましくない状況…」
どういうことか知らないが、久遠は一日早く目覚めてしまった。
間の悪いことに薫もいる。
今なら久遠はそれほど強力でもないし、この場の全員ならなんなく祓えるだろう。
だが、元々そんな気のない真一郎にはどうでもいいことである。
(七瀬、聞こえる?)
(こっちでも感知したよ。今、大急ぎで準備してる所)
(全速でどれくらい?)
(七分。どうにかしてそっちに行くから、それまで)
「了解。なるべく急いでね。薫さん、今から七分だけ久遠を食い止めます」
「それで、何かできるのか?」
「してみせます。ざから!」
「分かってま〜す。よっと!」
ざからは「ざから」を抜刀し、それをそのまま地面に突き立てた。
呼応して、神社の石畳を割って数本の触手が久遠に伸び、その体の自由を奪おうとする。
久遠も抵抗するが、数秒後には雁字搦めになって地面に転がされていた。
「これで安心です。力で引きちぎれるような物でもないですから、安心してください」
「おし、よくやった!」
び…
小さな、本当に小さな音がその喜びを砕いた。
全員の目が久遠に集まる。
その中で、彼女を拘束していた触手はあっという間に日に包まれた。
「雷で焼いたか…また、熱そうなことを…」
「今度使う時までには、火に強いのを用意します」
軽口を叩きあいながらも、真一郎とざからは久遠をはさんで、向かい合わせに移動する。
雪は薫を守るように、言い換えれば暴走させないように彼女の傍に立った。
「行きます!」
そうざからが叫ぶと同時に、反対側の真一郎が踏み込んだ。
反応の遅れる久遠に雷を放つ隙を与えず、ボディに二発、前蹴り―
「ついでだ!」
そこから「吼破・改」につなげる。
久遠はまともに吹っ飛んで、背後の木に激突した。
人間なら、丸一日は動けなくなるほどの連打。
実際に使ったのは十蔵以外では、実戦でも初めてである。
「頑丈だね〜」
久遠は何事もなかったかのように、起き上がった。
その両手の爪が、音を立てて伸びる。
久遠の妖怪なテイストに拍車がかかるが、この爪にさらに雷など走っているから始末に
負えない。
「素人が危ない物持っちゃいけません」
ざからが妙に楽しそうに、真一郎と久遠の間に立った。
久遠の爪に雷が走っているのが見えていないはずはない。
だがそこは五年前、真一郎達の総攻撃にも耐えた彼女である。
今さら、少々黒焦げになる程度の雷を食らったところで大した影響はない。
「もちそう?」
「努力はしてみます」
「そっか…なら俺が―」
「真ちゃん、薫ちゃん!」
ある意味予想通りの来客に、真一郎は心中で舌打ちした。
振り向くと、石段の所に那美と恭也。
この場にいるべき人間には違いないが、こうなってしまった今では、足手まといになる
公算の方が高い。
「あぁぁ―――!!!」
真一郎達の注意が逸れたのを見て、久遠が雷を放った。
とっさに真一郎とざからはそれを防ぐが、捌きそこなった一条の雷が背後で轟音を撒き
散らした。
「那美!!」
しかしその一瞬後、恭也に抱えられた那美は別の場所に出現した。
だが、恭也にも余裕がなかったのか、彼らはさらに真一郎たちから離れてしまっている。
そして、久遠が駆け出すのを真一郎は止めることができなかった。
那美では久遠の攻撃は防げない。霊力のない恭也は問題外である。
「奥の手」はめったに使わないから「奥の手」なのだ。
だが、絶体絶命のこの状況は真一郎にそれを許してくれそうにはなかった。
(どうか、薫さんにはばれませんように…)
祈りながら真一郎は目を閉じる。
そして、ゆっくりと目を開くと、モノクロに染まった世界を駆け出した。












体力のない体を酷使して、那美は走っていた。
神社へと続く石段を息が切れるのも構わず、全力で。
(久遠…)
本来、ある程度邪を退ける性質の神社で発生した強大な気配。
それは、十年経った今でも忘れることはできなかった。
いる。あの、獣が…
「那美さん、何があったんですか?」
遅いペースの那美に合わせて隣を走る恭也が問い掛ける。
何の気なしに神社に行こうと言い出したのは恭也だったが、霊力がないだけに那美の突
然の行動についていけない。
「久遠が…目覚めました」
「『約束の日』は明日じゃなかったんですか?」
「ですけど…間違いありません!」
語調を強めて、那美は石段を駆け上がる。
神社が近付いてくると、数人の声が那美の耳に届いた。
少なくとも薫と…真一郎がいる。
真一郎がいるのだから、残りは七瀬達だろうか?
だが、那美にすら予想できなかった久遠の目覚めの現場にどうしてか彼らがいるのだろ
うか。
疑問は残るが、これはこの際幸運だと思っておくしかない。
現状が現状なだけに、事情を知っている退魔師は一人でも多い方が心強かった。
「真ちゃん、薫ちゃん―」
石段を登り切り、最初に那美の目に映ったのは、自分に向かってくる雷だった。
避けられない―そう思った時には、那美は背後から恭也に掴まれ僅かな距離を一瞬で移
動していた。
さっきまで那美のいた場所は雷を受けて砕け散る。
それを放ったのが久遠だと知って、さらに那美は愕然となった。
「那美さん、あれは―」
恭也の呟きは那美に届いていなかった。
久遠の色々な感情が綯い交ぜになった目が那美達を―那美だけを捕らえる。
すると、彼女は一瞬だけ微かに表情を変化させた。
泣きそうで、辛そうな表情。
それに気づいたのは、那美だけだっただろう。
だが、次の瞬間にはそれが夢であったかのように久遠は突然襲いかかってきていた。
その手には、雷の走った鋭利な爪。
雪月も持ってきてはいるが、あの攻撃を防ぐだけの腕は那美にはない。



那美の視界を何かが遮った。



「恭也さん―」
恭也の腕に抱かれ、那美は呟いた。
剣士として、自分があれを防ぐことはできないと恭也は瞬時に理解した。
その先に待っているのが死だとしても体がとっさに動いたのは、彼の才能のせいか。
なんにしても、久遠らしいあの者の攻撃に対して恭也は対抗手段を持っていなかった。
那美を庇ったのは苦肉の策である。






そして、いくつかのことが同時に起こった。
思わず目を閉じた那美の耳に、爪が肉を貫く音が届いた。
滴り落ちる血の音、そして―
「ぐ…」
苦痛に耐える、呻き声。
それが恭也の物でないのを知って、那美は少しの安心とそれ以上の驚愕を覚えた。
「真ちゃん!」
脅威の速さで三人の間に割り込んだ真一郎は、久遠の爪でその体を貫かれていた。










「おいたがすぎるぞ…久遠」
久遠の爪に肩を貫かれながらも、真一郎は笑って見せた。
血に塗れた手で久遠の頬を撫でると、彼女は怯えたように身を竦ませた。
「お前が苦しむことはもう、ないんだよ」
「う…あ」
後退り爪が抜かれると、傷口から血が勢いよく噴出した。
それで気を失いそうになりながらも、大したことはないと真一郎は自分を抑えた。
そして、逃げるようにしている久遠の半ば強引に取りそのまま抱きしめた。
あくまで、優しく。
「俺も、薫さんも、久遠がいなくなったら嫌なんだよ」
血のついていない方の手で、久遠の髪を梳く。
何かに駆られ、暴走しているはずの久遠の目に浮かんでいたのは、涙だった。
「そうだな…帰ったら、久遠の好きな物、何でも作ってあげる。明日は、久遠の気の済
むまで、一緒に遊んであげる」
「しん…」
堪えきれなかった涙が、久遠の頬を伝う。
「毎日おいしいご飯だってあるし、寂しくなったら、ずっと俺が傍にいてあげる。退屈
 なんてさせないよ。俺が何からも守ってあげるから…」
逃れようとする久遠を、真一郎はさらに強く抱きしめて抑えつけた。
「だ…め……」
「俺も手伝うから…久遠、もう…幸せになって…」



「あ………あぁぁ―――――!!!」



久遠の絶叫と共に真一郎は至近距離から雷を撃たれ吹き飛ばされた。
彼女は頭を抱えて泣きながら叫び続けていた。
制御を離れた雷が、木と言わず地面と言わずそれらすべてを砕いていく。
「真ちゃん、だいじょうぶ?」
恭也に引きずられながら移動した真一郎に、硬直から脱した那美が駆け寄る。
そして、すぐさま真一郎の傷を癒そうとするが、他ならぬ真一郎自身がそれを制した。
大きな傷を負っていることなど感じさせない笑顔で彼は静かに言った。
「平気。恭也君は那美を守って」
貫かれた左肩を庇いながら立ち上がる真一郎を恭也が支える。
真一郎は二三度頭を軽く振ると、やんわりと恭也から離れた。






さて、状況は決して好ましいとは言えない。
結果として、久遠の暴走には拍車がかかってしまった。
中途半端に戻ってしまった彼女の自我が、本能とも言うべき物と鬩ぎあっている。
それは今、周囲の破壊という形で現れているが、本能と自我どちらが勝つか…どちらか
に賭けなければならないのなら、真一郎は本能の方に賭ける。
真一郎は久遠の味方でいるつもりだが、最終的に彼女が暴走という形で落ち着いてしま
うのだとしたら、殺すのは自分の役目だと思っていた。
ここで逃がしたら何人死ぬか分かった物ではないし、他の者の手にかかる久遠を見たら、
真一郎にはその者を動かなくなるまで殴り続ける自信があった。
無論、最後まで手は尽くすつもりでいる。
最後を過ぎれば―暗い考えが渦巻く。









「ふ…ふはは…」
思わずこみ上げる笑いを真一郎は堪えることができなかった。
「相川さん?」
歩み寄ろうとした恭也に、真一郎は―笑いかけた、無邪気に。
「日ごろの行いがいいからなのか…俺は、運がいい!」
無邪気な笑みが、改心の笑みに変わる。
「真一郎!」
空から自分を呼ぶ声が聞こえた。
それこそまさに、真一郎にとって天の助けその物だった











風を撒き散らして着地した彼女達は神社の状況をざっと見回してとりあえず顔を顰めた。
「間に合ってる?」
「いや、ちょうどいいタイミングだよ。準備の方、できてますか?葉弓さん」
「もう少し調整の時間は欲しかったですけど、とりあえず使えます」
七瀬に抱えられていた葉弓は、この状況でも穏やかな笑みを真一郎に向ける。
「葉弓さん…なしてここに?」
薫の疑問ももっともだ。
そもそも、薫のフライングは他の当代がいては成り立たない。
前日のこの日を選んだのも、葉弓と楓が来れないことを知っていたからだ。
にも関わらず、薫よりも事情に詳しいらしい葉弓が現にここにいた。
「薫ちゃん、積もる話はありますけどそれは後にしましょう。まずは…」
静謐な瞳で久遠を見据える葉弓は、すでに退魔師の顔になっていた。
「久遠を、なんとかします」
口の中で低く何かを呟くと、彼女は両手を組み合わせ複雑な印を切り始める。
「雪さん、七瀬、葉弓さんを!」
『了解!』











「ぐ…が…」
葉弓が印を切るたびに、「久遠」の表情が厳しくなっていく。
彼女がどうしようとしているのか、本能的に解っているのだ。
葉弓を殺せば何とかなる。だが、「久遠」の体は見えない力に押しつぶされ、まったく
と言っていいほど動いてはくれなかった。
七瀬の「念動力」である。
五年前、ざからを押さえた時よりも格段に進歩したこの力。
目覚めたばかりとは言え、元々ざからほどの腕力は持ち合わせていない久遠にこれが破
れるはずもない。
「あぁぁ―――!!」
心の底から吼え、「久遠」は雷を放った。
今までで最大威力。大気が震え、その閃光は葉弓達三人を一瞬でこの世から消し去る。
だがそのはずの雷は、彼女達に当たる直前見えない壁に阻まれてその効力を失った。
雪の「術」によって作られた純水の壁。
極端に相手を選ぶ術ではあるが、雷しか使うことのできない今の「久遠」にとって相性
は最悪と言ってもいい。
それも「久遠」には、理解できないことだった。
「貴女の気持ち、私には理解できます」
複雑に動いていた指を止め、葉弓は両の手を打ち合わせる。
「人を恨み、退魔師を恨み、世界を恨む貴女の気持ち、痛いほど解ります。ですが、私
は退魔師で、久遠の友達です。貴女の苦しみを認めるわけにはいきません」
葉弓の両手が淡い光を放つ。
それを見て、「久遠」は狂ったように暴れだすが七瀬の力はそれを許さない。
「退きなさい!」
その声と共に両手の光は消え、それは「久遠」の全身を包み込んだ。
「があぁぁ―――――――!!」
尾を引く絶叫。
涎をたらし、地面を掻き毟りながら「久遠」は抵抗する。
だが、それも数秒のこと…











「あれが…」
「そう、あれが久遠の『祟り』です」
久遠の背中から、白い靄が立ち上る。
ただの靄ではない。この世の恨み、絶望、そういった物を凝縮し久遠を暴走させていた
根源的な物だ。
それから解き放たれた久遠は力を失い、地面に倒れた。
靄はまだ諦め切れていないのか、久遠の周囲を漂っている。
「後はあれを倒せば、おしまいです」
「そうか…なら、もう黙っている必要はないな…」
凄絶な声が、神社に響いた。
「ぎぃぃぃ―――!!!」
靄の中央を光り輝く霊剣が貫いていた。
薫はそれを無造作に操り、靄を切り裂く。
「危ない所だった。このままうちは何もできないのかと思ったよ…」
刀を包む光がさらに輝きを増す。
「相川君、これは久遠とは違うのだろう?祓っても、構わんのだよな?」
「ええ…ですが、抜け駆けはいけませんよ」
「骸手」も光を放つ。薫に比べ、彼は満身創痍だ。
だが、それをまったく感じさせないほど、真一郎の顔には薫と似た凄絶な笑みが浮かん
でいた。
「俺も、混ぜてください」
言いながら真一郎は間合いを詰めると右手で靄を殴り飛ばし、久遠から引き離した。
そこに畳みかけるように薫が切りつけ、再び真一郎が殴り飛ばす。
それからは一方的だった。だが―
「しぶとい…ですね」
楓陣破を靄に叩き込んで、真一郎はぽつりと呟いた。
真一郎が殴り、薫が切った。それもすべてが確実に当たっている。
久遠から解き放たれ、もはや靄には大した力は残っていないはずだった。
それなのに、靄は依然として存在しつづけている。
「なら、全力でもって相手をするのが、相応しいじゃろう…」
「そうですね…」
薫は刀を構え、真一郎は両手を靄に向けた。
真一郎と薫、二人の退魔師の各々の得物が燦然と霊力の光を放つ。
もはや最初の半分ほどの大きさになった靄に向けて、二人は最高の技を、放った。



『神咲一灯流奥義、封神―楓華疾光断!!』



二条の光は帯状に広がり、収束した。
靄に断末魔は…あったのかもしれないが、光とそれが生み出した轟音の前には、確かめ
るすべもない。
「三百年前も、十年前も、あれが久遠を暴走させていました」
失血によって朦朧とする頭を押さえながら、真一郎は言った。
「それは、俺達が祓いました。もう、久遠が暴走することはないでしょう。那美の『約
束』は―」
「久遠!!」
那美の悲痛な叫び。
真一郎達が振り向いた先には、那美に抱えられた久遠がいた。
もういつもの人型に戻っており、さきほどまでの凶悪な気配は感じられない。
だが、その代わりに感じるのは―
「さっきの『祟り』が、久遠の霊力を持っていったようです」
顔を伏せ、涙を流しながら葉弓。
久遠に感じるのは、明らかな「死相」だった。
「私の力不足です」
「葉弓さんのせいじゃありませんよ」
葉弓の肩に手を置き、真一郎は久遠の傍らに寄った。
幼さを残した顔には、生気が感じられない。
霊的に見て、その原因は明らか。霊力が枯渇している。
世界中どんな物でも―それこそ、そこに転がっている石にさえ霊力はある。
『存在』を構成する要素として、霊力は欠くことのできない物。
どんな理由であれそれを奪われれば、奪われた者は存在を維持できなくなり、まもなく
崩壊する。
解決策は単純にして困難。枯渇した分の霊力を戻してやればいい。
だが、先ほどから那美が久遠に治癒を続けているが、効果は現れていない。
治癒とは根本的に違うのだからそれも当然である。
久遠を助けたければ、一時的にしろ彼女との間に精神的に強固な繋がり―真一郎と七瀬
くらいの繋がりを構築するしかない。
そして、真一郎にはその方法に心当たりがあった。
「薫さん、葉弓さん。今から少し違反します。苦情は後で聞きますから、今はとりあえ
 ず、黙って見ててください」
「久遠を助けるのか?」
「はい…」
「なら、何をしてもうちは文句を言わん。何でもやってくれ」
「私は…言うまでもありませんね」
「感謝します」
那美から久遠を受け取り、その腕に抱いた。
生気のない瞳。まだ表面的には出てきていないが、崩壊は急速に進んでいる。
もはや、一刻の猶予もならない。
真一郎は唇を思い切り噛み切ると、そのまま久遠に口付けた。
口の中に広がった血が、久遠に移される。
一同の見守る中、久遠はそれを―嚥下した。
『我が名は相川真一郎。盟約を発動する者なり』
真一郎の口から歌うように言葉が漏れる。
薫にも、葉弓にもその意味は理解できない。それは、彼が『師』から教わった異国の旋
律だった。
『久遠よ。汝、我が名の元に僕となり、我が血の元にその力を行使し、我が命の元にそ
の身を捧げよ。されば、我はその従属に応え、汝に我が力の片鱗を与えん。『盟約』
(カヴァナント)!』
ここに絶対的な関係が成立。
その盟約を媒介に真一郎の霊力は久遠に流れていく。
(久遠……)
名前を呼ぶ。心の中で。
その声は―届いたのか?
自分の祈りが届くことを信じて、久遠を抱きしめたまま真一郎は意識を失った。