正しき偽善者 第一話 『魔術師は、姿は見えず』








「ありえない……」

 現実を許容できない。魔術師としてはあるまじきことであるが、冬木の管理者にして聖
杯戦争におけるマスターの一人、遠坂凛は、そう呟かざるをえなかった。

 足元には、血溜りがある。人体に関する知識はそれほどでもないために、これがどの程
度のものであるのか知れないが、それでも、無視できるものではない量の血液が、そこに
はあった。

 血が、そこにある。つまりは、それを流した、もしくは流さざるをえなかった存在がい
たということ。そして……それは現在、魔術師が当然のように殺し合いを演じる聖杯戦争、
その舞台となっている冬木市において、まさしく致命傷と言えた。

「ありえないわ……」

 もう一度。今度は、自らの思考を整理するために、明確な意思を持ってその言葉を口に
する。

 今さっきまで、彼女のサーヴァントであるアーチャーは、敵であるサーヴァント、ラン
サーと死闘を演じていた。あのまま続けていたらどうなったか……劣勢だったことは否め
ないが、簡単に負けてやるつもりもなかった、その戦いは、しかし、奇跡とも言える闖入
者の出現によって、唐突に幕を閉じたのだった。

 その結果、目撃者を消すことを優先したランサーは、撤退。彼女とアーチャーはとりあ
えずの事無きを得、そして思い出したようにその予定調和として消されているはずの闖入
者の安否を確認しに来たのだが……

「ただいま帰った」

 物思いに耽っていた凛の背後に、音もなくサーヴァントの気配が戻ってくる。血痕から
は目を逸らさぬまま、疑問を解消させるために使いに出した愛すべき従僕に、労いの言葉
をかけることもせず、

「どうだった? アーチャー」

 魔術師、遠坂凛はその首尾を問うた。

「敷地内は探した。それらしいモノは見当たらなかった」
「血痕は?」
「無論、ない。戦闘の痕跡が見られるのは私がランサーと戦った場所だけ。そして血痕は、
ここにしかない」
「つまるところ、ランサーに殺されたはずの存在の姿が、どこにもないってことね?」
「こうまでして見つからないということは、そういうことになるな」

 その、物言わぬ骸になっているはずの闖入者の姿は、どこにも存在しなかったのだ。

「ランサーが死体を担いでいったって可能性は?」
「否、だ。余裕があればどうだか知らんが、私や君が近くにいると分かっているのだ。そ
の死体から即物的な効果を引き出す能でもない限り、そんなことはすまいよ」
「なら、ランサーには死体を跡形もなく消すだけの能力がある?」
「ない……とは言い切れんが、ならばこれだけの血痕が残っているのは片手落ちだ。死体
を消すならば、これは残さんだろう」
「そうよね。ねえ、アーチャー、貴方、死体はどこに消えたんだと思う?」
「凛……考えるのは魔術師の仕事であると思うのだがね」
「私の中でも結論は出てるのよ。だから、それを確信に近づけるために、他人の意見が聞
きたいの」
「他を当たってはもらえないのだな」
「私のサーヴァントは貴方一人。そして、私は貴方のマスターよ」
「……マスターの仰せのままに」

 恭しく、しかしどこか皮肉めいた仕草でアーチャーは一礼し、

「そも、前提が間違っているのだろう。ここにあったのは死体ではない。我々が死体とし
ていたものは、自らの足でここを去って行ったのだ」
「この血痕は?」
「我々が死体としていた存在のものだろう。仮にランサーのものであるとしたら、君はと
もかく、同じサーヴァントである私が分からぬはずはない」
「つまるところ……ランサーの必殺の攻撃を受け、これだけの血を流したはずの誰かは、
けれども彼の意思に反して死なず、自らの足で逃げ果せた、と。こう言う訳ね」
「聡明な君と違わぬ推論であると自負しているが?」

 返答や如何に、と、褐色の肌のサーヴァントは主を見つめる。僅か、二十にも満たぬ魔
術師は、しかし、迷いなく自らの頭脳で導き出した、結論を口にする。

「この血の主は生きている。しかもそいつは、ランサーの攻撃を受けてなお、その生命を
繋ぎとめるだけの能をもってる。そしてそれは――」
「聖杯戦争の最中であるこの冬木において、魔術師以外にはない。そして現在この地に存
在する魔術師は、限りなくマスターである可能性が高い……か。だが、これで証明終了とは
行くまい? 要望とあらば、これからさらに入念な調査をしても構わないが」
「必要ないわ。今日はもう帰って、明日以降に備えて休むわよ」
「死にぞこないを心配して、私を使い走った魔術師殿の言葉とは思えんな」

 弓兵の言葉には、皮肉の色が強い。普段の彼女であれば、それはもう腹も立てたろうが、
今の彼女は、良くも悪くも魔術師であった。彼女、遠坂凛は魔術師として思考し、魔術師
として結論を下す。

「私は、一般人だと思ったから助けようと思ったのよ。魔術師やそれに近い能を持った存
在なら、私が助けてやる義理もないし」

 死体であったはずの存在。それがマスター、もしくはマスターになる可能性のあるもの
であるとしたら、それこそ大損だ。姿を知らぬその存在には申し訳ないが、こんな場所に
足を踏み入れたのが不運と、諦めてもらうより他はない。

「了解した。では、帰還しようか」
「待って、アーチャー。せっかくだから、この血溜りを掃除していきなさい。私、明日か
らもここに通うんだから。こんな物騒なものが廊下にあったら、迷惑だわ」
「……確か、前にも言わなかったか? 凛。我ら『サーヴァント』は君の小間使いではな
い。我々は戦うための存在だ。それを君は何か、またも家政夫のような真似をさせると?」
「だって、私が掃除するのなんてもっての外でしょ? ここには貴方の他に男手はいない
んだから、貴方がやるのが筋じゃないかしら?」
「だからと言ってだな――」
「私はマスター、貴方はサーヴァント。なら、貴方が口にするべき返事は?」
「…………了解した」

 長い長い沈黙の後、弓兵は搾り出すように言葉を紡いだ。血を掃除するための道具を探
しに愛すべきマスターの傍を離れる。

 だが、去り際。アーチャーは恨めしそうに振り返ると、小さく、それでも間違いなく彼
のマスターに届くように、彼女にその人間性を称える言葉を贈った。

「地獄に落ちろ、マスター」