「一時の方向……その木です」

「オーケイ。投影 開始」



 腕の中のセラの声に従い、三本の剣を実体化。指示された木に目標を定めると、剣は各々

の最短コースを通って目標に着弾。士郎が軽く指を打ち鳴らすと同時に、轟音をあげて爆散

する。



「よし――」

「何がよし、ですか。この程度で喜ぶなど、程度が知れるというものですね」

「む……ここは素直に労ってくれてもいいんじゃないか? 程度はどうあれ成功したんだか

らさ」

「ですからこの程度、聖杯戦争に参加する魔術師なら誰でも出来ると言っているのです。イ

リヤスフィール様は言うに及ばず、後ろを走る遠坂の魔術師や私でも可能でしょう。貴方は

その程度のことで、婦女子から賞賛の言葉を貰おうと? 図々しい正義の味方もいたもので

すね」



 お姫様抱っこされているくせに、この釣り目メイドの言葉には少しも容赦がない。城を出

てすぐのようにボカスカ殴られるのも困りものだが、何かを言う度にぶちぶち文句を言われ

るのもそれはそれで困る。



 彼女と会うのは今日が始めてのはずだが、どうも目の仇にされているような気がしてなら

ない。主であるイリヤスフィールをあだ名で呼んだことがそんなにいけないことなのだった

のだろうか……しかし、今さら彼女をイリヤスフィールと他人行儀に呼ぶのも、何か違う気

がする。実際、イリヤスフィールと呼んだら、抱っこメイドは満足するかもしれないが、当

のお姫様は臍を曲げるだろう。



 あちらを立てればこちらが立たない。理由はどうあれ彼女らを助けに来たはずなのに、ど

うしていきなりこんな目にあわなければならないのだろうか。正義は一体、どこにあるのだ

ろうか……



「それは俺の、心の中に……」

「突然何を……頭に虫でも湧きましたか?」

「正義の味方を自称する俺でも、一応我慢の限界ってもんがあるんだけどな……もう少し謙

虚にできないか?」

「貴方に払う敬意などありません」



 つん、そっぽを向く。城を出てからこっち、視線を合わせてもいない。照れ隠しとかそん

なレベルではなかった。彼女は心底、自分達が嫌いなのだろう。大人しく抱っこされている

のだから最低限の礼節は払うつもりのようだが、敬意などは夢のまた夢だ。ぽっと出の正義

の味方など、釣り目メイドにとっては羽虫程度の価値しかないのだろう。



 しかし、である。羽虫にだって思うところはあった。



 そして正義の味方は正義の味方であって、決して何を言われても頭にこない聖人ではない。

ついでに言えば、特殊な職業をしている人物に後見人になってもらっているだけあって、衛

宮士郎の感情の沸点は、彼と彼の交友関係を知っている人間が思っているよりもずっとずっ

と低いものである。



 だから、まるで学校に行く前に洗面台の前に立つのと同じくらい自然に、士郎はセラの背

中に回されていた手を――離した。



 イリヤを抱え士郎のすぐ後ろを走っていたリーゼリットが最初にそれに気付き、続いて殿

を務めていた凛が気付く。次いで先頭を走っていたアルトリアが、後方の小さな異変を感じ

て振り返る……落とされた当人であるセラが、自分が投げ出されたことに気付いたのは自動

車のような速度でひた走る士郎達の集団にあって、一番最後のことだった。



「きっ――」



 とっさに口をついて出た悲鳴を、セラは何とか飲み込んだ。瞬時に自分の状況を理解した

彼女がしたことは、自分をこんな状況に追い込んだ犯人を睨みつけること。ゆっくりと地面

に向かって落ちていく中、その人間を睨みつける。彼女がとった行動はただそれだけだった。



 常であれば魔術で何とかすることもできたのだろう。だが油断か、それとも疲労からか、

セラは落ちるに任せるだけだった。それでも口は動くのだから落とした当人である士郎は千

年の恋も冷めるような、メイドにあるまじき罵詈雑言を期待していたのだが、これでは期待

はずでもいいところだ。



「可愛げがないな、まったく」



 自分のしたことに対して欠片も罪悪感を見せない声音で、急ブレーキ。後続の凛とリーゼ

リットをかわし、地面に激突する寸前のセラを間一髪で抱えなおす。常人なら腰がどうにか

なりそうな衝撃が士郎を襲うが、魔力で強化した体は普段の鍛錬の甲斐もあって無駄に頑丈

だった。



 土煙を上げながら再びブレーキをかけ方向転換、加速し、こちらを見つつもスピードは落

とさなかった凛達を再び追い抜いて集団の先頭に立つ。



「……脅しのつもりですか? 衛宮士郎」



 声音は相変わらず氷雪のように冷え切っていたがその内容に反して、セラの言葉にはこち

らを責めるような気配がなかった。起こったことを事実として確認している、ただそれだけ

なのだろう。敵であるならば排除し、そうでないならば利用する。彼女はその線引きが士郎

以上に明確であり、共同戦線を張っているとは言え、彼女にとって自分達は間違いなく敵な

のだった。



 元より、自分達以外の全ては敵だというスタンスで戦ってきたアインツベルンの勢力にと

って、この状況は既に敗北の一歩手前……いや、居城に押し入られ唯一にして最強の手駒で

あるバーサーカーがあそこまでいためつけられていた以上、既に敗北したと言っても過言で

はない。アインツベルンの中ではセラだけが、その事実に気付いていた。



 態度の悪さの原因の一つはそんなところだろう、と士郎は当たりを付ける。元々の性格が

こんなものだという可能性の方が自分の女運を鑑みると高いが、危機的状況な今、気分を盛

り下げることを考えても仕方がない。



 目線だけを腕の中のセラに向ける。先程の声音同様、返ってくる視線は冷えに冷え切って

いたが、今度は少しも腹も立たなかった。正義の味方は物事に寛容でなければならない……

同じ事にそう何度も腹を立てる訳にはいかなかった。



「いや、正直に謝る。すまない。お前なんてちょっと、怖い目にでもあえばいいやと思った。

正義の味方はやっぱり、そんなことしちゃいけないよな」



 素直に謝ったことがそんなに意外だったのか、苛立ち、無関心ばかりが浮かんでいたセラ

の顔に、わずかに驚きの色が見てとれた。初めて見た女性らしいその表情に、士郎の顔も綻

ぶ。



「ごめんな。この詫びは必ずするから」

「……ではこの汚い手をさっさと離してほしいものですね。高貴とは言えないこの身ではあ

りますが、貴方に触れられているのは気分が悪い」

「いやいや、それじゃあ俺の気がすまない。お前が今までで感じたこともないような幸福を

プレゼントしないと、とっさに悪事に手を染めた俺の気は済まないな。具体的には俺の手料

理フルコースくらいしないと」

「半人前の魔術師がどんな世迷言を言い出すのかと思えば……貴方の料理が私の最上の幸福

になると? 寝言は寝てから言ってほしいものですね」

「そうか、『言ったな』? 今いった言葉を覚えておけよ、メイドさん。衛宮の料理は世界

を取れるってことを、近いうちに証明してやる」

「近いうちですか……それが来たらいいものですけどね」



 セラは気を張った態度の中にも、確かな諦めの色が浮かべていた。最強と信じていたもの

が敗北したのである。バーサーカーを追い込んだあの金色のアーチャーの実力を覆せるもの

を想像することができないのだろう。



 比較的楽観主義である士郎でさえ、手放しに勝てるとは言いかねる状況だった。足止めと

いう形で凛のアーチャーが残ってくれてはいるが、彼が負ける可能性だって十二分にある。

どれほど強固な存在であったとしても、やられる時はやられるのだ。



 しかし、そんな妄想を振り払うかのように士郎は腕の中のセラをじっと見つめ、口の端を

上げて笑って見せた。



「来るさ。俺は正義の味方だからな」

「意味が解りません。その『セイギノミカタ』というのは、日本の学生特有のスラングか何

かですか? 救いようのないくらい頭が悪い男子、という意味の」

「あー、何か俺の怒りゲージは既にさっきの二倍くらいになってることを宣言しておくぞ。

でも俺は正義の味方だから、さっきみたいな行動は取らない。俺の料理で吠え面かかせてや

るからな、必ず食べてもらうぞ。そして必ず俺の目の前で美味しいです士郎様、と泣きなが

ら言わせてやる」

「私は、貴方に期待することなどありません」



 ぷい、と直ったはずの機嫌がまた悪くなってしまった。だが、今はこれでいい。



 捨て鉢になられたり無関心でいられるよりは、例えマイナスに向いているのだとしても自

分に関心を持っていてくれた方が、より守りたいと思える。いつか心の底から微笑んで『あ

りがとう』と言ってもらえるようになりたいと、頑張ることができるのだ。



 正義の味方だって、正義の心だけで動いている訳ではない。お礼の言葉は欲しいし、それ

が妙齢の美女ならなおさらである。



「まぁ、期待しないで待っていてくれ」

「さっそく女性を口説いてらっしゃるところ申し訳ないんですけど、衛宮君」



 士郎の少し後ろを走っていた凛が、スピードを上げて士郎に併走する。半人前の魔術師と

扱き下ろしていた士郎よりも、遠坂の魔術師である凛の方が気に喰わないのか、凛が隣に並

ぶと同時にセラは逆の方向に顔を向けた。聞き違いでなければ、舌打ちまで聞こえたような

気さえする。



 その態度に凛のこめかみに血管が浮き出るのが見えたが、彼女はぶつぶつと小声で何かス

ラングのような言葉を呟くとたった今見たことを無かったことにし、改めて士郎に向き直っ

た。



「うちのアーチャーが奮闘してるおかげで今回は逃げ切れそうだけど、森を出たらこの後は

どうするのかしら?」

「お前の家に――」

「却下よ。そんなことは私が許さないし、アインツベルンも良しとしないでしょう。それに

忘れてないかしら? 私と貴方はまだ暫定的な同盟に過ぎないってこと」

「もう別に同盟ってことでよくないか? 俺たちの力は証明できたと思うが」

「力を持ってる奴を即信用できるなら、私はさっきの金ピカの僕になってやるわよ。あいつ、

何だか金持ちそうだったし」

「お前の判断基準は金持ちかどうかなのか……」

「判断のうち大きな要素を占めるわね。お金で買えないものは確かにあるけど、この世のほ

とんどのものはお金で買えるの。覚えておいてね」

「お前に一生のお願いを頼む時は、金塊でも持っていくことにするよ」

「金よりは宝石がいいわ。持ってくる時は私に言いなさい? 欲しい宝石を教えてあげるか

ら」



 図々しいにもほどがあることを当たり前のように言ってのける。彼女の本性を知った時は

ガラガラと青春の一ページが音を立てて崩れるのを感じたものだが、ざっくばらんと言えば

まだ聞こえのいい彼女のこういった態度に、士郎は密かに好感を持っていた。



 自分の頭の中で描いていた想像よりも、それとはかけ離れた現実の彼女の方がずっと魅力

的……とはまた違うが、印象が強烈だった。学校で見るミス・パーフェクトとはまた違った

意味で今の彼女は人を惹きつけて止まない。



 自分が彼女に憧れていたのは、内面まで見抜いていたからなのだろうか? だとしたら、

自分のその女性に対する観察眼を褒めてやりたいところだが、自分と親交のある女性は妹分

である桜を除いて、皆精神的に『攻め』のタイプばかりであることを思い出す。



 単純に、衛宮士郎という人間がそういうタイプの女性を引きつけているだけなのかもしれ

ない。ならば、自分は今後、こういった女性にばかり絡まれる人生を送るのだろうか……想

像して、身震いする。冗談にしては笑えなかった。



「ひとまずは俺のうちってことでいいか? 移動手段は徒歩ってことになるが、夜でなけれ

ば連中も襲ってはこないだろう」

「楽観してると痛い目にあうわよ。背中からぐさり、なんてことにならないように注意して

ね」

「遠坂、もしかして俺を刺すつもりだったりしないか?」

「貴方を刺すつもりだったら、とっくにやってるわ。機会は何度もあったしね。例えばさっ

き、アインツベルンの城の中でとか。私、使えるものは使う主義なのよ。魔術師だもの。貴

方が暫定的とは言え同盟の相手だから、遠慮して――」

「待て、遠坂」



 凛の言葉を遮り、先頭を走るアルトリアに視線を向ける。



 アルトリアが『何かをする』気配を感じ取った士郎の視線が彼女に届くよりも先に、彼女

は走る速度を上げていた。今の士郎達の速度が乗用車なら、アルトリアはまさに弾丸である。



 一体、何が起きたのか……士郎も凛もイリヤスフィール達もそれを考え、そして同時に、

アルトリアの駆けた先に立ち上る、強大な気配を感じ取った。



 サーヴァントの顕現である。



 敵襲だ、と理解し士郎は思考を切り替える。いつでもアルトリアを援護できるように思考

を切り替えるが、同時に困惑もしていた。この敵の気配には覚えがある……そして、何故彼

が今、敵として目の前に立ちふさがるのか理解ができなかった。



 灰色の狂戦士。アインツベルンのサーヴァント『バーサーカー』、ヘラクレスである。



 思考することを止め、足を止めた者から戦場では命を落とす。彼が何故、と理解できない

のは同じだったが、士郎の声を聞き、自らの目で戦況を確かめた凛が速度を落とし殿へと移

動する。周囲と後方に注意を向け警戒――他のサーヴァントがこの機を突いてこないとも限

らない。



 茫然自失といった少女に声をかけるの憚られたが、これを聞かないことは命に関わる。そ

の場で誰もが疑問に思っていることを、士郎は口にする。



「イリヤ、どういうことだ」

「……解らない、私、命令してないよ? 今も戻ってって指示は出してるのに! 戦えなん

て思ってないのに!」



 今にも涙を流しそうな彼女が、嘘を言っているようには見えなかった。サーヴァントとし

て契約し聖杯戦争に参加した英霊が、主の意に反するような行動を取ることがあるのか……

判断しようにも、正規のマスターではない士郎にはそうした知識がなかった。



 どうしたものか、と凛に視線を向けると、彼女は放蕩息子を持った母親のような表情で深

くため息をついた。



「そりゃあ、英霊だって『個人』だから、主従の契約よりも優先するような事柄があれば、

そっちを優先するでしょう。元々人間が扱うには過ぎた存在だものね、ヘラクレスくらいの

クラスが本気で抵抗すれば、意に反する行動をすることくらいは可能だと思うわ。ただ――」

「ああ、そこまでしてセイバーに戦いを挑む意味が解らない」



 内心どう思っていたとしても、今、彼のマスターであるイリヤは自分達と歩調を合わせて

いるのだ。先の発言からも態度の上では、イリヤに戦う意思がないのは明確だし、、バーサ

ーカー本人も金色のアーチャーとの戦闘で満身創痍なのだ、戦う状況にはない。

 

 お互いに万全ならばいざ知らず、ここまでハンデのある状態ではいくら最強の騎士バーサ

ーカーとして定義されたヘラクレスでも、アルトリアを相手に勝機を見出すのは難しい。現

に一合打ち合う度に、バーサーカーの傷は確実に増えているのだ。それでもまだアルトリア

との打ち合いを維持できているのは、英霊の中にあっても並外れた実力の証左に他ならない

が、それでも、バーサーカーの敗北という形でこの勝負が終わるのは時間の問題と思われた。



「どうする? 止めるの?」



 凛が問うてくる。イリヤはバーサーカーに呼びかけ続けていて、こちらには見向きもしな

い。メイドの二人もこちらには何も期待していないのか、主と同じく視線はバーサーカーと

アルトリアに固定されている。アインツベルンの一派には誰も、この状況を望んでいるもの

はいない……ならば同盟を組んでいる以上、戦いを止めるのが筋というものだが、先に仕掛

けたのはアルトリアではなく、バーサーカーだ。



 アルトリアをとめることは、最悪令呪でも使えば何とかなるが、イリヤが命令しているの

に聞かない以上、バーサーカーの行動に関しては部外者である士郎にはどうにもならない。



 やれやれ、と士郎は気付かれないようにため息をつく。



 死人は少ないに越したことはないが、理由も告げずに襲い掛かってくるのなら迎え撃たね

ばならない。正義の味方は、博愛主義者ではないのだから。



「四重凍結解除、武装名『偽・死棘槍』。全ての目標を狂戦士に再設定」



 以前、作るだけ作って使わなかった武器に魔力を流し、自分の周りに出現させる。その数

は四つ。過去、実際にそれらを向けられた凛が体を強張らせるが、武器の向いた先が自分で

はないことに、静かに胸を撫で下ろす。



 セラが、こちらに気付いた。士郎の周りに漂う武器を見てその意図を悟るが、目を僅かに

見開いただけで何も言わない。咎める気配すらない。気付いたのはセラ一人だけだ。



 普段であればイリヤスフィールも気付いたのだろうが、彼女の意思は相変わらずバーサー

カーにのみ向けられている。それだけ心に余裕がなく、それだけ彼女は純粋にバーサーカー

を思っているのだろう。



(怒るだろうなぁ、攻撃したら……)



 だまし討ちに近い攻撃、イリヤからすればそれは重大な裏切りだ。正義の味方を気取って

迎えに行ったのに、結局は助けたい存在に牙をむくことになる。



「やるの?」

「しょうがないだろう……って言葉は好きじゃないけどな。まぁ、正義の味方は恨まれるも

んだ。そしてその恨みは真摯に受け止めなきゃならない」

「大変ね、正義の味方も」

「そう思うなら協力してくれ。正義の味方には、頼りになる味方が必要だ」

「考えておくわ。まだ衛宮君が役に立つか分からないし」

「役立たずではない自信はあるんだけどな」



 ぼやきながら、意識をバーサーカーに集中する。普通に撃ったらアルトリアを巻き込んで

しまうが、この武器ならば問題はなくバーサーカーだけを攻撃できる。本家よりも効果は数

段劣っているし出来損ないもいいところだが、いかにバーサーカーが相手と言えども一瞬程

度の隙ならばできるはずだ。



 そして一瞬でも隙ができれば、アルトリアには十分だ。今のバーサーカーならば一太刀で

も、斬って捨てるには十分である。



 後は放つだけ――





 ――その時だった。







「……遠坂、何か聞こえたか?」

「ちょっと幻聴? 勘弁してよ」

「いや、幻聴じゃないな。これは……」



 耳に手を当てて、その『声』に耳を傾ける。それは今も確かに聞こえていた。だが、凛に

は聞こえていないらしい。セラもリーゼリットも、戦っているアルトリアも同様だ。自分の

他に聞こえているのは――イリヤスフィールだけのようだ。



 あれだけバーサーカーに呼びかけていた彼女の声がぴたり、と止んでいたのだ。士郎と同

じように耳に手を当てている。



「なんで、どうして、バーサーカー!」



 イリヤスフィールの血を吐くような叫びが、彼女が自分と同じ『声』を聞いているのだと

いうことを士郎に理解させた。そしてそれは、彼女が最も信頼する従者の『声』だったのだ。



 彼は彼女に何を言ったのだろうか。別れの言葉か、感謝の言葉か。いずれにせよ慈愛に満

ちた言葉に違いない。



 だが、彼は戦士としてここに在る。これは聖杯戦争であり、彼はサーヴァントだ。それは

かの英雄にとって自らが神の試練を乗り越えたという事実に匹敵する誇りであり、今ここに

存在する意味でもある。



 約束したのだろう。白い少女を勝利に導くと。自らの名と力の元に、彼女に全てをもたら

すと。彼女と彼の力があれば、それは確かに為しえたはずだった。



 しかし、事実はそうはならなかった。彼は今、自分達の力の前に倒れようとしている。そ

れは彼と彼女の望む結果ではなかったのかもしれないが、望むものはまだ消えてはいなかっ

た。姿形は変わっていても、彼はそれを果たそうとしている。満身創痍の身ながら、主であ

るイリヤスフィールの力になろうとしている。



『力を示せ……』



 声は士郎にそう言った。英雄たる自らに力を示せと、そう言ったのだ。



 彼はもう、ここから消える。これは彼の主である少女がどれだけ力を尽くしても、変わる

ことはない。幾多の戦場を潜り抜けてきた英雄としての彼が、そう決めたのだ。彼はここか

ら消える、それは変わることはない。



「アルトリア!」



 闘い続ける二騎の英雄に向かって士郎は叫び、そしてゆっくりと歩み寄った。凛も、イリ

ヤスフィールも止める間はない。自らが生み出した赤い武器を引きつれ、士郎は歩く。



「命令する! これからは俺がバーサーカーと戦う! お前は一切の手を出すな!」

「なっ!」



 士郎の声に、アルトリアの体は不自然に動きを止めた。令呪の効果である。



 使ってから初めて、止まらなければどうしようかと考えたが、死闘を繰り広げていた彼女

の動きがぴたり、と止まった現実を見て、その心配が杞憂だったことを士郎は理解した。



 アルトリアの周囲には赤い光が音を立てて巡っている。理不尽なマスターの命令に剣の英

霊が本気で抵抗している証明であるが、その抵抗はまだ実を結んではいない。何も言わず自

分の前を通り過ぎようとするマスターを、アルトリアは射殺さんばかりの視線で見やった。



「貴方は……何を考えているのですかっ!」

「『力を示せ』……向こうが俺をお望みだ。死に行く相手の頼みなら、正義の味方としては

きかなきゃいけない。矜持ってのは凄く大事だ。お前には解るだろう?」

「それと、これと……は、別の問題です! 貴方は我々をバカにしているのですか! 人間

が英霊に勝てるなどと――」

「勝てる勝てないは問題じゃない。これは俺が乗り越えなきゃいけないことなんだ」

「貴方の手の内には既に、この戦いに巻き込まれた女性がいる! 彼女達の命をも、貴方は

無碍にするというのか!」

「負けるつもりはないよ。勝てばいいだけの話だろう? でも、絶対はないから……もしも

の時はセイバー、お前は遠坂を頼ってくれ」

「そんな勝手が通るとでも――」

「嫌なら仕方ない。残りの令呪を全部つぎ込んでも、意地を通すまでだ」



 その宣言は、梃子でも動かないという士郎の意志表示だ。令呪に抵抗していることを示す

赤い煌めきがアルトリアの周りで燻っていたが、それはやがて憮然としたアルトリアの表情

と共に、弾けて消えた。



「これで負けたとしたら、私は貴方を許さない。剣を預けたことを忘れ、貴方の魂をこの世

の終わりまで蔑むことでしょう。断っておきますが、許したなどとは思わないでいただきた

い。振るわれるべき時に振るわれない剣の気持ちを、貴方は考えたことがあるのか」

「ない。道具は道具、仲間は仲間だろ。お前は間違いなく仲間だから、申し訳ないとは思っ

てるよ。この侘びは必ず入れる。だから許してくれるとその……嬉しい」

「女性の気を引くのならば、貢物を用意することです。身勝手な殿方の言い分に耳を傾ける

ことができるほど、淑女は寛容ではないのですから」

「なら、勝利を捧げる」



 そうして狂戦士に向き直る時、一瞬だけイリヤスフィールと視線が交錯した。力の限り罵

られるとも思ったが、意外なことに彼女は何も言わなかった。悲しそうな瞳でじっと、自分

と自らの従者を見つめるだけ。彼女にだけ聞こえた『声』が、何かを告げたのだろうか。





 どうであろうと、することは変わらない。正しき志に在った戦士が、今死のうとしている。

彼が発した最後の望みを断る言葉を、衛宮士郎は持ち合わせていない。戦うことがその望み

ならば、最大限の敬意と力をもってそれに相対するのみだ。











「さあ、始めるか……バーサーカー!」





 主の声に従い、赤い武器が狂戦士に殺到する。巻き上がる鮮血……それが開戦の合図だっ

た。