「回数を重ねてくると、罪悪感もなくなってくるよな」



学生ならまだ授業を受けているはずの午前中、相川真一郎は人気のない旧校舎を歩いて

いた。授業が休講になったとかの理由はない。早い話がサボりである。



風通しがよく人のいない旧校舎は真一郎のような目的を持った人間には打ってつけであ

るが、埃っぽいとかいう理由のためか、いつきてもあまり人気はなかった。本気で授業を

サボる気なら学校に残るはずもないので、当たり前と言えば当たり前である。本来なら真

一郎もそうしていたはずなのだが、今日はなんとなくここに足が向いてしまった。



適当に選んだ教室に足を踏み入れると、埃っぽく冷えた空気が流れ出した。真一郎はご

ほごほと咳き込みながら教室を突っ切り、窓を開け放った。辛気臭い空気と入れ替わるよ

うに、春の到来を予感させる心地よい風が吹き込んでくる。



「ん〜いい風だ」



 気持ち良さそうに目を細め、大きく伸びをする。こんな気持ちのいい日なのだから、寝

転がればさぞかし気持ちいいのだろうが、埃だらけのこの場所でそんなことをしたら、自

慢の短ランがあっという間に真っ白になってしまう。



かと言って、このまま立ちっぱなしというのもただ疲れていくだけで、授業をふけてき

た意味もない。サボろうと思ったのも突発的だったために、何か暇を潰すような物は何一

つ持ってきていなかった。



「さて……来たはいいけど、何をしようかな……」

(……た!)

「はえ?」



 突然の声に内心驚きつつも真一郎は目をぱちくりさせて教室を見回したが、自分の他に

は誰もいないし、人が身を隠せるような場所も存在しなかった。



「気のせいかな……」



そう、首を捻った瞬間――真一郎は膝をついた。



 立ち上がろうとして、失敗する。全身を支配する奇妙な感覚……頭は割れるように痛い

し、死にそうなくらいに吐き気がする。十数年の人生の中で、およそ最悪な状態であるの

は間違いない。



 理不尽にして唐突な不調の襲来に真一郎は根性を振り絞って抵抗したが、それでも視界

は段々と白んでいく。何十秒も、ひょっとしたら何時間も経っていたかもしれない。とに

かくそんな抵抗の後に、真一郎の意識は本格的に闇の中に沈んでいった。

















「気が付いた? 結構な時間寝てたけど、だいじょうぶ?」



 目を開けたら、世界は赤く染まっていた。鈍い痛みの残る頭を摩りながら身を起こすと、

青春を謳歌している学生達の声が聞こえる。白い天井に白い壁……清潔を演出しているこ

の部屋は、記憶に違いがなければ保健室のはずだった。



「何で、ここにいるんだ?」

「旧校舎で倒れてるの君を、あたしが見つけたの」



 独り言に応える声があった。目を向けた先のベッドに腰かけている女生徒が、一人。腰

まで届く長い髪に、古風な黒いセーラー服。綺麗で大人っぽいその雰囲気は、真一郎の周

りにはない物だった。少なくとも、真一郎に見覚えはない。



 だが、その綺麗な女生徒はまるで旧来の知り合いにでもするように微笑んでみせた。遠

慮のない仕草に、思わずどきりとする。



「そのままにしておくのも目覚めが悪かったから、ここまで運んできたんだけど……ひょ

っとして迷惑だった?」

「そんなことないよ、ありがとう。俺、重かったでしょ?」

「女の子みたいな外見の通り、そうでもなかったわね」



 気にしていることを言われても、何故か不快にはならなかった。女生徒はベッドから立

ち上がり、こちらへと近寄ってくる。今まで嗅いだこともない、甘いバラの香り。それは

どこか幻想的で、夕暮れの保健室に立つ彼女を一層綺麗に仕立てていた。



「どうしたの? ぼ〜っとして」

「いや……そうだ。そんな制服うちにあったっけ?」

「……あったのよ。少し古い上にマイナーだから、知らないのも無理ないけど」



 呆れたように大きくため息をついて、女生徒は額に手をやった。



「こんな美人のお姉さんがいるのに、最初に聞くのは制服のこと? 何か他に聞く事ない

の?」

「……お名前は?」

「私は春原七瀬、七瀬って呼び捨てでいいわ。これからよろしくね」

「俺は相川真一郎、二年。とりあえずここまで運んでくれてありがとう。で、俺の短ラン

どこかな、そろそろ帰らないと……」



 一人暮らしの真一郎は、当然食事の用意も自分でしている。食費を遣り繰りするのも、

所帯じみたこの身にはそれはそれで楽しいが、色々と苦労もある。何しろ今日は近所のス

ーパーの特売日。月に一度あるかないかの、食費を大きく浮かせられるチャンスなのだ。

こんな所でもたもたしていては、生命線――自由にできる金銭の量に関わってしまう。



 そんな使命感から、真一郎は身を起こしたのだが、これには七瀬が驚いた。



「え? もう動けるんだ」

「動ける?」

「ううん、こっちの話。あ、君の服だったらあっちの椅子にかけておいたよ」

「すまないね……なんか色々」

「それはこっちの方。あたしはこれから迷惑かけるわけだし……」

「……迷惑?」

「うん……実は――」

「真一郎、生きてる〜」



 ドアの向こうから会話を割って忍び込んだのは、もはや聞きなれた幼馴染の声だった。

間延びしまくった声にマッチした雰囲気を纏った彼女は、勢いよくドアを開けて保健室の

中に入ってくる。その姿に、真一郎は首を傾げた。



「唯子か……どうしたの? 部活は」



 言いかけて、慌てて時計を見る。針が差しているのは、いつもの護身道部だったら、と

っくに活動を終えている時間だった。それほどまでに寝ていた……というのは、何だか無

駄な気がしてならなかった。



「まだいるかな〜って思って来たんだけど、よかった真一郎いて。最近痴漢が出て恐いん

だよ」

「ついさっきまで保健室で寝ていた友達をいきなりガードに使いますか……唯子に勝てる

痴漢なんてそうはいないでしょ?」

「でも、怖いものは怖いんだもん。真一郎は、唯子が痴漢のどくがにかかってもいいの?」

「いいわけないだろ。まったく、身体は大きい癖に臆病なんだから……」



 しょうがないなぁ、といった風に真一郎はため息をついた。この臆病な幼馴染を守るの

も、数少ない役目である。気分もそれなりに良くなってきたし、一緒に帰るくらいだった

ら何の問題もないだろう。



 ついでに――と言っては随分と失礼だが、助けてくれた礼も兼ねて七瀬を送っていくの

も悪くはない。一人でなら下心を疑われもするだろうが、唯子も一緒なら警戒される心配

もあるまい。



「と、いう訳だから、七瀬も――」



 視線を巡らせたその先に、しかし、七瀬はいなかった。存在そのものが真一郎の勘違い

でもあったかのように、忽然と消えていたのだ。



「七瀬って……他にも誰かいたの?」



 唯子はほえっと首を傾げて、こちらの顔を覗きこんでいる。保健室の入り口は一つ、た

った今、唯子が入ってきたドアだけである。七瀬がここから出て行くには、少なくとも彼

女とすれ違う必要があった訳なのだから、唯子が知らないとなれば、勘違いと考えるのが

自然ではある。



 だが、その考えを真一郎は一瞬で追い払ったのだった。そんな言葉では片付けられない

ほどの存在感が、七瀬にはあったのだ。その証拠に、あのバラのような臭いも微かではあ

るがまだ残っていた。



「七瀬って……他にも誰かいたの?」

「いや……確かにいたはずなんだけど……おかしいな」

「真一郎の見間違いじゃないの? ほら、帰ろうよ。唯子も真一郎のお買い物に付き合う

からさ〜」

「……まあ、いいか。でも奢らないぞ? 今月は厳しいんだから」

「ぶ〜。唯子はそこまでがめつくないもん」

「はいはい」



頬を膨らませてふてくされる唯子の頭に無造作に手を置いて、子供をあやすように撫で

ると、真一郎はベッドから立ち上がった。



「あ、だいじょうぶなの? 真一郎」

「問題ないみたい。ちゃんと健康だよ」



七瀬の言った通りの場所にあった短ランを羽織り、一緒にあった学生鞄を持って保健室

を出る。その間に唯子は乱れたベッドを直し、開けっ放しのドアをちゃんと閉めて、真一

郎の隣りに並んだ。



「女の子置いていくなんて最低だよ、真一郎」

「普段はのろまな唯子が悪い。で……俺の鞄は誰が持ってきてくれたの?」

「ななかちゃんがね、わざわざ保健室まで持ってきてくれたんだよ。感謝するんだぞ」



何故彼女が? と思ったがなんのことはない。よく考えれば友達の中で唯一同じクラス

である大輔にそこまでの気が回るわけもない。ずぼらな恋人に代わって気を利かせてくれ

たのだろう。



 それよりも問題は、何故自分が保健室まで運ばれていたのか――突き詰めれば、あの時

何故七瀬は旧校舎にいたのか、ということである。



 言うまでもなく、真一郎が旧校舎にいたのはまったくの偶然だ。サボろうと思ったのも

突発的なら、旧校舎を選んだの偶然である。となれば、七瀬も偶然旧校舎にいたのだろう

か。



(何か陰謀の臭いが……って考えすぎか)



膨らみかけた馬鹿らしい考えを頭を振って払い、真一郎は思考を今晩の夕食のことに切

り替え、歩みを進めた。



















 所帯じみていることは自分でも理解している。好みよりも低コストを念頭に置いた買い

物の仕方は、女顔と相まってどれだけ若奥さんみたいと評されても、真一郎の誇りであっ

た。



 だがそれも、あの唯子が一緒にいるだけでぱ〜になってしまう。食品売り場についてか

ら安い物を選び今晩の献立を決めるのに、あのお嬢は知らぬ間に自分の買いたいものを籠

に次々と突っ込んでいくのだ。



 おかげで今日の夕食は唯子の好みがめちゃくちゃに反映されている。買い物を終え、ス

ーパーを出たときにそれに気付いた真一郎は、とりあえずその場は唯子の頭を叩くことで

納得し、理不尽な文句を言い続ける唯子を送ると、家路についた。



「ただいま……誰もいないけど」



 買い物袋から食品を取り出し、冷蔵庫へ。それから空になった袋をストックして、真一

郎は制服も脱がぬままに、ベッドに倒れ込んだ。普段なら、せめて制服をハンガーにかけ

てからやるその行為が、今日に限ってはなぜか自然に思えた。



「俺が倒れるなんて、めったにないことだったからね……」



 そのめったにないことのために、女の子である七瀬に保健室まで運んでもらうという格

好の悪い事態になってしまったが、起こってしまったことを嘆いていてもしょうがない。



 だが、それにしても……女顔の自分が女の子に抱っこをされていたら、それはそれで妖

しい光景になっていたのではなかろうか。お姫様だっこならぬ、王子様だっこ……何とも

まあ、友達軍団にでも見せたら狂気しそうな光景である。



 いつの間にか、自分の想像の中でも自分を見世物にしていることに気付いて、真一郎は

深く深くため息をついた。



「やめよう、馬鹿馬鹿しい。まあ、健康が一番だよね」

「そうそう……ごめんね、真一郎を押し倒すつもりはなかったんだけど」

「押し倒すって……」



 そんな嬉しいこと――



 答えを続けるよりも先に、身体の方が反応した。とっさに自然に入り込んできた声とは

逆の方に飛び退くが、それでもそこは狭いベッドの上。すぐに果てに行き着いた真一郎は

壁に頭を強かに打ちつけて、その場に蹲った。



「うわ……痛そ。だいじょうぶ? 真一郎」

「いや、全然大丈夫じゃないけどさ……それより、どうして?」

「どうしてここにいるの? それならちょっと長くなるけど……」



 そう前置きしてから、七瀬は何気ない仕草で真一郎の鞄を指差し、目をすっと細めた。

ふよふよ、くるくる……頼りない動きで鞄が宙に浮く。どう? といやに七瀬はいやに挑

戦的な目を向けてくるが、真一郎にはコメントのしようもない。



 しばらくして鞄は七瀬の手の中におさまったが、呆然とした真一郎は何も言葉を発しな

い。それでも七瀬はしばらく待ったようだが、やがて多きくため息をついて、真一郎に鞄

を投げてよこした。



「あのね、私幽霊なの。正確にはあの旧校舎の地縛霊だったんだけど……」

「幽霊って言われてもな……」



 一般人の幽霊の印象と言えば墓場に出てきてうらめしや、とこの程度が関の山であろう。

他に類を見ない女顔の真一郎であるが、それでも一般人であることに変わりはなく、特別

に幽霊の知識を持ち合わせていない彼にとっては、七瀬は十二分に幽霊の範疇の外にある

存在だった。





「む……何かな、そのリアクションは……」



 だが、七瀬はそんな淡白な反応が気に食わなかったらしく、元々釣りがちの目をさらに

細めて、不快のオーラを出している。



 何か、素晴らしいリアクションを求められている。それは真一郎にも分かるのだが、一

度流してしまったネタを使いまわして驚くなど、笑いの神でない真一郎にはできるはずも

ない。



 機嫌の悪い女の子を目の前に据えたまま、真一郎にとっては拷問のような時間が過ぎた。



「ま、いいんだけどね……」



 プレッシャーを掛け続けた割には随分あっさりと、七瀬は引き下がった。それで幽霊の

一件を流してくれたものだと思った真一郎は、全身の力を抜いてため息をついた。



「何だかよく分からないけど、許してくれるんなら良かった。あ、お茶でも飲む?」

「いいわ。幽霊にはお茶なんていらないの」

「……」



 どうしたらいいんだ……真一郎はおそらく人生で初めて、真剣に悩んだ。



「よく考えたら、いきなりそんなこと言っても分からないわよね。物を浮かせるくらいだ

ったら、最近は幽霊じゃなくてもできるみたいだし」

「他にできる人がいるかどうかは知らないけど、もう少し俺にも分かるように言ってくれ

ないかな? 昼間に倒れたからかもしれないけど、ちょっと血の巡りが悪いみたいなんだ」

「分かった、なら実力行使する」



 言うが早いか――



「…………え?」



 真一郎の目の前で、七瀬の姿は掻き消えた。霧の中に溶け込むように、すっと。試しに

さっきまで七瀬のいた空間を手で探って見るが、見えなくなっただけってことはなく、そ

こには確かに七瀬は存在していなかった。



(これでどう?)



 頭の中に直接響いてくるようなその陽気な声を、一体どうしたらいいのか……



(お〜い、真一郎だいじょうぶ?)

「……ああ、ちょっと声がでないほど驚いただけだから、心配しないで」

(適応能力は高いのね、ちょっと安心したわ)

「世の中には常識の及ばないこともあるんだなって思っただけだよ」

(受け入れてくれたんならそれでいいわ)



 真一郎の頭に――いや、真一郎の『内部』に温かな気持ちが広がる。それが、人間とし

て何よりも純粋な嬉しいという感情だった。それは、七瀬の気持ちであって真一郎のもの

ではない。常識の中に居ては決して味わえない心地よさ……それが、意識の共有であった。



「それで、旧校舎の地縛霊の七瀬がどうしてここにいるの?」

(……真一郎、怒ったりしない?)



 心の中に広がるのは、不安の気持ち。これから口にしようとすることで自分に嫌われた

りしないか、七瀬は本気で心配しているのだった。無論、怒ったりしない。ここまで非常

識に浸かっているのだ。今更何を言われたところで、こんなにも不安に怯える少女を責め

るのはお門違いというものだろう。



「うん、怒らないよ」



 自分に七瀬の気持ちが分かるのだったら、こっちの気持ちも七瀬に伝わっているものだ

ろうが、真一郎は口に出してそう言った。さっきまでの不安を打ち消すようにして、広が

るのは安堵。心地よい残り香と共に、七瀬は再び真一郎の前に姿を現した。



「ありがとう、真一郎」

「いいよ、お礼なんて。女の子が困ってるんだから、助けるのが男ってもんでしょ」

「自分が誰よりも女の子してるって、気付いてる?」

「……それが、目下最大の悩みだったりしてるんだけどね」

「でも、私はかっこいいと思うよ」

「ありがとう、七瀬」

「これから迷惑をかけようって女に、お礼なんて言うもんじゃないの……って、こんな雰

囲気じゃ言いにくいじゃない」

「言いにくいんだったらいいよ、無理に言わなくても。しばらくここに居るんでしょ? だ

ったら、追々聞かせてくれたらいい。七瀬も何だか疲れてるみたいだしさ」

「分かる?」

「何となくだけどね。何か、今だったら七瀬のこと何でも分かりそうな気がするよ」

「うぬぼれるんじゃないの。女は奥が深いんだから」



 七瀬は小さくおやすみ、と言ってまた霧のように姿を消した。薔薇のような甘い香りの

中、一人取り残された真一郎は胸に手を当ててため息をついた。



 七瀬は今、自分の『中』で眠っている。非常識の具現とも言える彼女を、当たり前のよ

うに受け入れてしまった。数分も前のことではないが、今にして思えば随分と思い切った

ことをしてしまったものだ。



「まあ、いいか……なるようになるだろう」



 そう気楽に考えることにして、真一郎は微かに笑みを浮かべると、夕食の準備にとりか

かった。傍から見れば、随分と幸せそうなオーラを出していたのだが、それに気付いてい

たのはまだ少しだけ意識を覚醒させていた七瀬だけであった。