どちらかというと研究よりの職業のためか、フィリスが書くべきカルテの数は他の医者

に比べると案外少ない。心臓の手術からフィアッセなどのカウンセラーまで何でもこなす

才女であるが、普段の仕事はそれほど忙しくはないのだ。



そんな訳で今日も、カルテといくつかの資料を記入し終えてG棟の自分のデスクで大好

きなココアを飲んでいた。





「さて、どうしましょう…」



呟いて、フィリスは椅子の背もたれに体重を預ける。考えているのは恭也のこと。あれ

から問題なく、三人の同居生活は続いている。当初は恭也が逃走することも想定していた

ので、あの部屋にはその手の道具が色々と用意してあったのだが、どうやらそれは使用せ

ずに済みそうだった。恭也もちゃんとあの部屋に帰ってくるし、家事の手伝いもしてくれ

る。



表向きは何の問題もない。だからこそ、フィリスは不安なのだ。家にいる時はいい。だ

が、学校にいる時は?美由希や忍など、あそこにはまだ恭也を諦めていない少女が何人か

いる。しかも全員が美少女なため、恭也を誘拐してのけたフィリスといえども気が気では

ない。



一番いいのはフィリス自身が生徒として潜入することだが、いくら外見に違和感がない

と言っても(悩みの一つであるが…)一応フィリスは医者である。そこまで悪ふざけをす

ることは立場上できない。だからと言ってこのまま放っておいたら恭也が篭絡されてしま

うかもしれない。



「う〜ん…」



フィリスは頭を抱えて部屋を見回して、ある一点で目を留めた。日の当たる窓際…暖か

そうなその場所でフィリスのもう一人の同居人である狐が寝ている。病院の中に動物がい

るのもおかしな話だが、最近そこの窓際は久遠の特等席だった。最初は動物がいることに

同僚もあまりいい顔はしなかったが、近頃は彼女ちょっとした人気者である。



その久遠、動物であるだけに暇は持て余している。そしていつもと違った変化ができる

こともフィリスは知っていた。しばし何かを考えて…フィリスは微笑みを浮かべた。すぐ

さま内線の電話を取って、呼び出し音を聞くこと数回―



「あ、お父さん?フィリスです。少し頼みたいことがあるんですけど…」















「王手」

無情にそう宣言して、恭也はマグネットの金を玉の前に置いた。



「師匠…待ったは…」

「だめだ。もう三回は待ったからな」

「う〜」

「しっかし弱いなぁお猿」

「うるせえ。だったら、お前も考えろよ」



仲がいいのだか悪いのだか分からない二人が顔を合わせて次の手を考える。



(まあ、無駄なんだがな…)



どうやった所で後二手で詰みだ。朝のホームルーム前の遊びにしては結構楽しい一局だ

った。



「恭ちゃん…」



教室を見回すと、各々が好き勝手に喋ったりして暇を潰している。ホームルームが始ま

るまではまだ少し時間があるので、みんなとにかく暇なのだ。一応受験生の三年というこ

ともあって自前の問題集を広げている人間もいるが、大多数は恭也と同じく遊びに興じて

いる。



「恭也さ〜ん」

「恭也〜」



目の前の二人も学校が違うのにわざわざ暇を潰しにきたのか、マグネットの将棋盤(晶

の私物)まで持って遊びに来た。ホームルームが始まるまでに勝負が着くか、それだけが

不安の種だったのだがそれは杞憂だったようだ。



『……』



晶とレンはまだ仲良く次の手を考えている。赤星は特別することがないのか、何の気な

しに将棋盤を除いては後輩たちの不甲斐なさにさりげなくため息をついていた。



「赤星…お前、腕に覚えありか?」

「まあ、人並み程度にはできると思うが…」

「ん、まあいい。機会があった時に相手をしてくれ」

「それは構わないが…高町、いいかげん気付いてやったらどうだ?」



何とも言えない表情をする赤星に、恭也は深い深いため息をついた。そして、赤星や晶

達と同じく恭也の机を囲んでいる少女達に目を向けると、



「お前たちは他にすることがないのか?」

「あ、ひどい。私達は恭ちゃんに会いに来てるのに…ねえ、那美さん?」

「そうですよ…それなのに、恭也さん無視するんですから、ひどいです」

「俺は、朝のひと時を平穏に過ごしたいだけだ」

「じゃあ、晶達だけ相手にしてるのはなんで?」

「こいつらは平和なんだ。どこかの誰か達のように、教室で不用意に騒いだりはしない」



そう言って、いまだに考え込んでいる二人を示す。身に覚えのある少女達は気まずそう

に恭也から視線を逸らした。恭也がフィリス達に誘拐されてから、しばらく…思いのほか、

私生活の方は平和に過ごせていた。



だが、さすがに学校まではフィリス達の目も届かないのか、これ幸いと美由希達の活動

が活発になったことによって恭也の平穏は崩れてしまった。昼食時には、美由希が弁当を

持ってくる。昼休みに何処かに逃げようとしたら、全員に追い立てられてろくに食事もで

きない。放課後も、ホームルーム終了と同時に逃げようとしては忍に捕まり、それをどう

にかかわして外に出ても、既に美由希と那美が待機している。全員自分の教室を捨ててで

もこちらに回ってきているようで、学校にいる間はとにかく気の休まる時がない。



だから、せめて朝のひと時くらいは彼女達を無視して無害な後輩達と将棋を指した所で

罰は当たらないだろう。そう考えて晶達と遊んでいたのだが、どうも美由希達は無視され

るのが気に召さないらしい。



(まあ、当然だな…)



つくづく、女難の星の下に生まれた自分の運命を嘆く恭也。その胸中をクラスの男子に

伝えたらほとんどは怒り狂うだろうが、本人にとってはこれでも真剣な悩みなのだ。今は

桃子に頼んでフィアッセのデリバリーを封印してもらっているが、それもいつまで続けら

れるか分かった物ではない。



息子の平穏と自分の楽しみを秤にかけたらあの母親は間違いなく後者を取るだろう。そ

うなったら、恭也の平穏はますます壊されることになる。



(いっそ旅にでも出るか…誰も俺を知らないような土地に…)



などと、本気で考えていると教室のドアが開いて担任の教師が入ってきた。



「やばい、もうこんな時間か。行くぞ、亀」

「待ち、晶。んじゃおししょ、さよならです」



将棋盤を大急ぎで片付けると、海中コンビはダッシュで教室を出て行った。美由希と那

美は名残惜しそうではあったが、それでも急いで二人に続く。



「これでしばらくは平穏か…」

「それって、贅沢な悩みだよね」

「……そうか、まだお前がいたんだったな」



椅子に背中を預けて担任の顔を見る。何か朝の連絡を言っているが大したことはないだ

ろう。その話の大半を聞き流しながら今日の時間割を見て、効率のいい寝るスケジュール

を立てる。



今日は水曜日で非常にいいスケジュールだった。文系の科目が集中している上に移動教

室もないので、五時間目の体育まではずっと寝ていられる。



「―連絡は以上だ」



恭也がささやかな幸せをかみ締めていると、教師の話はいつの間にか終わっていた。そ

の言葉を聞いて号令をかけようとする日直を、その担任は遮った。クラスのいぶかしげな

視線がその担任に集まる。



「俺も今日の朝いきなり知らされたんだが、転校生が来ることになった」



瞬間、ざわめき始める教室。まだ姿も見ていない転校生に関して友達同士で様々な憶測

が飛び交う。



「静かにしろ。もう本人は着てるので、自己紹介してもらうから」



静まり返る教室。恭也もそれに倣って黙っていると、隣りの席の忍が話し掛けてきた。



「転校生だって…恭也、気になる?」

「気になるな。話は聞いていないが想像はつく…俺の平穏は本格的になくなったらしい

 な…」



さっきまで抱いていたささやかな幸せは吹き飛んで、暗い気持ちになる。別にいやな訳

じゃない。それはそれで楽しいのだが、枯れていると言われる恭也だからこそ平穏を望む

気持ちは人よりも強い。



だが、考えられないことを全部消去していって最後に残る物が現実なのだ。その例に当

てはめて色々と消去していくと…残った物は一つしかなかった。そろそろ来るだろうとは

思っていたのだ。ただ、忘れていただけで…



(さようなら、俺の平穏)

「それじゃあ、入ってきてくれ」



担任の言葉に、教室のドアがからからと開いた。教室のおしゃべりはぴたりと止み、全

員の視線がその転校生に集中する。天然らしい明るい茶髪のポニーテールが歩くたびに左

右に揺れる。おどおどした物腰。人見知りをする彼女には、この空間は少し辛いだろう。

それでも、何か使命感のある瞳で歩き彼女は教壇の中央に立った。担任は彼女のために場

所を空けて教室の隅にいる。



「あ…」



クラスの全員が転校生の次の発言を待っている。本当に困った表情で彼女は宙に視線を

彷徨わせ、やがて意を決するかのように大きく息をはいた。



「矢沢…久遠です…」



消え入りそうなその小さな声で、彼女は大きくお辞儀をした。たっぷりと時間をかけて

顔を上げて、彼女はそこでやっと恭也の顔を見つけた。気付いた恭也は軽く手を上げて応

える。それがよほど嬉しかったのだろう、彼女は満面の笑みを浮かべた。控えめに言って

も天使のような、そんな微笑である。



『――――――!!!』



次の瞬間、割れんばかりの拍手が教室を包んだ。見れば男子のほとんどが立ち上がって

壇上の転校生に惜しみのない拍手を送っている。中には泣いているものまでいる始末だ。

女子の方もかわいらしい彼女の容姿に引かれているのか、好印象のようである。



「静かにしろ…」



そのまま質問タイムに突入しそうだった男子どもを担任が黙らせる。担任は大きく教室

を見回して、



「高町、廊下に机がある。その辺につめておいてくれ」



と、何とも無責任な言葉を残して久遠に何言か言うと、教室を出て行った。邪魔者は消

えた…と、男子の心中の見解は一致して多くの男子が久遠に殺到しようとする。だが、そ

れよりも少しだけ早く久遠は教室を横切って恭也の隣りまで来た。それだけ。何をするで

もなく、恭也の隣りでただ微笑んでいる。



「一応聞いておくが、何でここにいるんだ?」

「フィリスに言われたの…久遠が、恭也を守るの」



胸の前で両の拳を固めてさりげなくガッツポーズを取る。それがまた力が入っていなく

て様にはなっていないのだが、とにかく愛嬌があった。多くの男子は久遠に駆け寄りたい

のだろうが、恭也が邪魔で近付くことすらできない。



突然のかわいらしい転校生。その彼女と親しそうに話す恭也。しかもその男の周りには

この風芽丘でもトップクラスの美少女がほとんど毎日のように集結している。それに加え

て転校生までが恭也と親しいときて、自分達は会話すらできない。



これが面白いはずもなく、男子達はぐおぐおと嫉妬の炎を燃やす。恭也はその炎を感じ

取って肩を落とす。久遠は恭也の隣りでにこにこ微笑んでいる。赤星はその恭也を同情の

目で見つめ、忍は予期せぬ久遠の登場に一人戦慄している。



久遠の転校初日はこんな感じで幕を開けた…













「…ど、どうして…」



昼休みになって教室を訪れた美由希達のそんな疑問はもっともだった。なにしろ、いな

いはずの人間がいるのだから驚きもする。しかも、その人間が今はここにいない女医と結

託して恭也を誘拐した張本人とあれば、疑問をぶつけずにはいられないだろう。



「どうして久遠がここにいるんですか!?」

「転校してきたらしいですね」



那美の問いに落ち着いて答えながら恭也は弁当をつまむ。ちなみにそれは久遠が持参し

てきた物だ。どうも、恭也が朝の鍛錬に出ている時にフィリスと一緒に作ったらしい。晶

やレン、桃子の作品には及ばないが味は悪くない。一口食べて、うまいなと言った時の久

遠の顔は本当に嬉しそうだった。



「転校って…そんな、狐なのに!」

「どうやら戸籍を偽造したみたいね。ノエルに調べてもらったけど、学校に提出された

書類は正規の物だったみたいよ」



アセロラジュースを飲みながら答える忍には、いつにない余裕があった。久遠が何か不

穏な行動を取ったとしても、同じクラスならば牽制ができる。忍にとっては久遠が海中に

放り込まれた方がよっぽど困ったのだ。同じクラスなら一緒にお弁当を食べようとする久

遠に一緒になって恭也の昼食に混ざることもできるし、忍にとってはマイナスよりはプラ

スの方が多い。



「あ、これ美味しそう。久遠、これもらっていい?」

「全部食べちゃわないでね…」

「ねえ久遠」



転校の衝撃から立ち直った那美が久遠に話し掛ける。今まさに恭也に『あ〜ん』をやろ

うとしていた久遠は少しだけ迷惑そうに、彼女を見上げた。



「久遠は今まで学校とか来たことないよね?」

「うん…ない」

「ここでの過ごし方とか分からないでしょ?」

「でも…久遠、恭也守る」

「分からないところで過ごしてたら、恭也さんに迷惑かけちゃうかもしれないよ?」

「う…」



那美の言葉に久遠の気持ちが揺れる。この中で那美だけ久遠との付き合いの長さに差が

ある。久遠がどう言えばなるべく言うことを聞いてくれるか、そういうのを漠然とながら

理解しているのだ。



ただ、今の久遠の反応は以前にこれをやった時ほどよくはない。無論、久遠の中の恭也

の存在が大きいからである。仮に恭也が那美と同じことを言ったら、納得はしないまでも

久遠は従うだろう。現に久遠は恭也に迷惑かもしれないという具体的な話を出したのにま

だ迷っていた。



「ね、久遠も恭也さんに迷惑かけるのは嫌でしょ?」

「いや…」

「じゃあ、お姉さんのいうこと聞いて家で大人しくしててね」



昔のまだやんちゃだったころの気分に戻って、那美はそう言った。だが久遠はその言葉

を聞いて理解できないといったふうに首を傾げた。そのまま那美の体を頭の先から足まで

ゆっくりと眺める。それから風芽丘の制服に身を包んだ自分の姿を見てから那美に視線を

合わせ、微笑む。

「久遠の方が…お姉さん」



ぐらっ…と那美が崩れ落ちた。床に倒れこもうとする彼女の体を美由希が慌てて支える。

悪気のあった攻撃ではないだろうが、今の一言は那美にかなりの打撃を与えた。それは結

構深刻なものだったらしく、彼女は美由希に支えられてそのまま恭也の教室を出て行った。



「神咲さんはいったいどうしたんだ?」



去っていく那美に朴念仁らしい感想をもらして、恭也は首を傾げた。久遠は去っていく

那美を気にもせず恭也に『あ〜ん』を再開する。



「あれは…けっこうきつかったんじゃないかな」



那美達の出て行った扉を眺めながら―それでも久遠の妨害をしながら忍がぽつりと呟く。



「忍は分かるのか?」

「まあね、女の子だし。美由希ちゃんが連れてったのは少し逆効果かも…」

「分からん…」



それ以上考えることを放棄して、恭也は昼食を再開した。晶達も顔を出さず赤星もいな

い。『あ〜ん』を邪魔されてふくれている久遠がいる以外は、誘拐以来初めての静かな昼食

だった。











朝時間割を確認した通り五時間目は体育だった。特別嫌いでもなければ特別好きでもな

い授業である。難癖をつけるとすれば、傷を隠すために気温に関係なく長袖を着なければ

ならないことだが、それにももう随分となれた。同級生も、わざわざ恭也の長袖につっこ

む者もいない。



「さて…」



机の脇にさげていた体操着を持って恭也は教室を出た。風芽丘には更衣室がある。体育

の授業の時などはそこで着替えて出て行くのだが、寄り道をしなければならない分授業に

遅刻するものも多い。加えて恭也達の担当の体育教師は時間には厳しい男だった。赤星を

含めたクラスの同級生達は、もう大半が教室にはいない。意識して恭也は歩調を速め――

ぴたりと足を止めた。それに伴って、恭也の後ろを歩いていた人間の足音も止まる。歩き

出して、止まる。後ろの足音もそれに倣う。その繰り返しだ。



「あのな、久遠…」



いつまでも無意味な追いかけっこをする訳にもいかず、恭也は観念して振り返った。熱

心に恭也を守ってくれる少女は小首を傾げてそれに応えた。



「次の授業は体育だ。男子は校庭だが、女子は体育館だ」



つまり行き先が違うのである。いくら久遠がついてきたくても、男子の授業に女性が参

加する訳にもいくまい。それを分からせなければならないのだが、説明しても久遠は中々

了解してくれなかった。どうしたものかと首を捻らせていると、思わぬところから救いの

手を差し伸べられた。



「困ってるみたいね」



見ると、もう体操着に着替えた忍が立っていた。



「忍…すまないが、久遠の面倒を見てくれないか?」



その忍の答えを待たずに、恭也は久遠を彼女に押し付ける。文句のありそうな瞳で恭也

を見返す久遠を気にせず、忍は恭也に問い掛けた。



「私…一応、久遠の恋敵なんだけど」

「そこをおして頼んでいる。事情があるからな」

「今度のお休みに私と一緒に出かけてくれる?もちろん、久遠もフィリス先生も抜きで」

「う…」



そんなことをすれば彼女達の機嫌が悪くなることは必至だが、ここで異論を唱えれば久

遠と一緒に放り出されてしまう。とにかく今は時間がない。ただでさえ、昼寝常習犯の恭

也は頭の固い教師に評判が悪いのだ。悪くなった機嫌はフォローすることもできるが、ま

かり間違って単位を失ってしまうと、非常につまらない事態になってくる。体育の補習な

ど、疲れるだけでなんのためにもならないのだから。



「分かった…」



後で文句を言われることを覚悟して、恭也は頷いた。忍は満足そうに微笑みじゃあね、

と言ってふてている久遠を引きずっていった。











その後、恭也は急いで着替えて校庭に走った。クラスの男子は勢ぞろいしていたが、担

当の教師は来ていなかった。



(急ぐ必要もなかったか…)



安堵のため息をついて恭也は赤星の隣りに立った。



「危なかったな」

「少々久遠に捕まってな。忍に押し付けてきた」

「つらいな、もてる男ってのは…」

「お前に言われるというのは、何か妙な気分だな」



などと実のない会話を続けていると、クラスメイトの一人が教官室の方から駆けてきた。



「今日の体育は自習!好きなことをやってていいってさ」



それを聞いて、一部の男子が喝采を上げる。元来だったら今日は退屈な長距離の予定だ

ったのだ。恭也にとっては大したこともない距離だが、何もしなくてもいいのだったらそ

れにこしたことはない。さて、何をしてサボろうか…などと考えていると、



「なあ、サッカーでもやらないか?」



一人の男子―たしかサッカー部だったような気がする―が提案する。その提案はしばら

く他の男子達の間で審議されて、可決された。体育係が中心になって、授業用のゼッケン

とボールの入った籠を取りに行く。



「サッカーか…」

「高町は何でもスポーツできるから関係ないだろ?」

「それを言うなら赤星、お前もな」



体育でやる種目の中では、サッカーは割と好きな方だった。攻めても活躍できないこと

はないが、恭也のポジションはいつもキーパーなのだ。理由は簡単すぎるほど簡単。とに

かく動かなくてもいいからである。加えて恭也のフットワークをもってすれば、早々ゴー

ルを割ることはできない。恭也にとっては天職だった。そうこうしているうちにボールと

ゼッケンが到着し、男子に配られていく。



「ん?」



恭也も早速袖を通し次の段階に進むのを待っていたのだが…他の男子達は一人一つのボ

ールを持って、校庭に散っていく。首を捻っていると、赤星が神妙な面持ちでサッカーゴ

ールを指差した。赤星を除くクラスメイト達は真剣な、もう少し突っ込んだ言い方をすれ

ば血走った目で恭也の方を見つめている。



(ああ、そういうことか…)



声には出さずに納得して、恭也はゴールの中央に腕を組んで立った。赤星は他のクラス

メイトとは違ってポストの横に立って状況を静観している。大変だな、と苦笑する彼に軽

く手を上げて応えて、恭也は正面に向き直った。



「で、これはどういう趣向だ?」

「いやなに…いつもお前の周りには美少女ばかりが集まるからな。もてない男共の僻み

 とでも思ってくれ」



これは、最初にサッカーをやろうと言い出した生徒の言葉である。それに他の男子達も

一斉に頷いた。殺気すら滲み出ている。どうやら本気のようだ。



「世間ではこういうのを『いじめ』と言うのではないか?」

「強者に皆で立ち向かうんだ。できれば反逆とか言ってほしいな」

「まあ、言うのは好きだが…」



恭也と赤星以外の男子がじゃんけんをしてボールを蹴る順番を決め、列を作る。



「と言う訳だから、高町には限界に挑戦してもらおうと思う」

「限界?」

「そう。これから俺達ががんがんシュートするから、それを防いでくれ」

「防げばいいのか?」

「おう、防げばいい」

「分かった」



恭也はそれきり会話を打ち切って、腕組をといた。が、それだけで棒立ちのままである。

クラスメートその一はそれを少々訝ったが、思い直して助走をつけると思い切りボールを

蹴飛ばした。そのクラスメートの蹴ったボールは狙いたがわずゴールの左隅にすっ飛んで

いく。絶妙なコースだ。現役のキーパーでもこれは止められないコースである。いや、は

ずだった…



ぱん!



どういう手品を使ったのか。その左隅に飛んでいったボールをいつの間にか移動した恭

也の右手が掴んでいたのだ。ざわめくクラスメート。恭也はどうでもないと言った風にボ

ールを彼らに投げ返した。



「これで終わりか?」



えらく挑戦的な物言いである。これにクラスメート達はスポーツ強豪高のプライドを刺

激されたのか、次々に恭也の守るゴールに向かってボールを蹴り飛ばしていく。



だが、どれ一つとしてゴールを割ることはできなかった。どれだけコースをついて蹴ろ

うとも、次の瞬間には恭也は魔法のように移動してボールを掴んでいた。クラスメートの

中には本気で瞬間移動でもしているのではと考える者もいたが、そんな芸当を使わずとも、

飛針を叩き落とす動体視力を持った恭也にとってこんなことは朝飯前だった。美由希にや

らせてもこれくらいはできるだろう。



ただ、御神流にとっては普通でも一般のクラスメートにしてみれば十分脅威である。男

子達は敗者の群れを形成して、あれこれと恭也のゴールを割る方法を校庭で考え始めた。





なにやら不穏当な言葉も飛び交う話し合いはそれから少しして終わった。



「待たせたな…」



これは言い出しの生徒の言葉である。



「いや、どうせ自習の時間だしな」



単位の心配のない授業ほど喜ばしい物はない。これで昼寝でもできれば文句はないが、

たまにはこういった運動をするのもいいだろう。一人だけ狙われるというのは聊かつまら

ないが、クラスメートも本気で恭也を爪弾きにしているのではない。少々度の過ぎた悪乗

り――そんな程度である。



(その悪乗りに殺気が篭っているというのも考えものではあるが…)



恭也や赤星が思っているほど、こういうことに関する怨みというのは浅くはないのだっ

た。そうこうしているうちに、今度は二人が恭也の正面に立ってボールを置いた。同時…

ということらしい。



「面白い…」

誰にも聞こえないくらいに小さな声で呟いて、恭也は静かに腰を落とした。向かって右

の男子が助走をつけて――いきなり左がシュートした。初歩的なフェイントだが、素人に

は効果がある。それに続いて助走をつけた方の男子もボールを蹴り飛ばす。一つは左に。

そしてもう一つは右隅。



普通のキーパーならすぐに諦めたのだろうが…あいにくと、御神流の師範は普通などと

いう言葉とは縁遠い人間だった。最初のフェイントを見切った恭也はタイミングを合わせ

てステップを踏んで移動し、左のボールを腕の一振りで叩き落す。それに続けて、今度は

左足で踏み込んで今まさにゴールを割ろうとしていたボールを返した左の手のひらで受け

止める。



おおっ、と趣向も忘れてクラスメートからどよめきが漏れた。それにさらに刺激された

腕に、いや足に自信のある生徒達が連続で恭也に挑戦していく。結果は…言わずもがな。

どれだけ不意をつこうとも、どれだけ思い切り蹴ろうとも誰一人として恭也からゴールを

割ることはできなかった。



「終わりか?」



のべ二十組くらいの挑戦者をあしらって恭也はそう言った。もはやクラスメート達の大

半は恭也への挑戦と諦めて、校庭に座り込んで勝負の行方を眺めている。だが、中には諦

めの悪い生徒もいた。彼らは徒党と組んでしつこく恭也に挑戦して、そしてその度に恭也

に返り討ちにされていた。



それでも彼らは挑戦し続ける。何か、こだわりのような物があるらしい。ゆらりと立ち

上がって、のそのそとボールを置く。今度はいっぺんに四人。時間差でこられると少々厳

しい人数だが、膝の調子もいいしまだ問題はない。



ゆっくりと挑戦者は配置についた。余裕のある振りをしながらしっかりと彼らを見据え、

恭也も腰を落とす。緊迫した瞬間。見物のクラスメートも、誰一人として無駄口を叩く者

はいない。四人の中央の二人が助走のために軽く下がって――



「きょうや〜」



気の抜けるような声援が彼らの肩をこけさせた。クラスメートが声の聞こえた方に一足

先に視線を向けて、喝采を上げる。恭也はそちらを向いて、硬直した。その先にいたのは

久遠。もちろん授業中であるので体操着だ。隣りには忍もいて、彼女も久遠と一緒に調子

に乗って声援を送っていたりする。



久遠の方は純粋に応援のためにやっているのだろうが、忍はからかって遊んでいるのが

よく見て取れた。その応援が迷惑かと聞かれると…そうでもない。体操着というのも普段

見ない分新鮮で…



(いやいや、待て…)

そのままだったら、とんでもない方向に走りそうになった思考を恭也は頭を振って追い

払った。久遠にしても忍にしても決して似合わない訳ではない。むしろ、似合ってると思

わないでもないと思うことに、恭也自身やぶさかではないのだが…ため息をつきながらも、

とにかく気になってしょうがない。そんな所はいくら朴念仁の恭也でも、他のクラスメー

トと同じだった。だが…



『もらった〜!!!』



その叫びを聞いて振り向き――恭也は四個のボールの直撃をまともに食らった。ゆっく

りと、昔の映画の悪役のように膝をついて倒れる恭也。手を取り合って喜ぶクラスメート。

体育館の方では、お互いに恭也に駆け寄ろうとした久遠と忍がかなり本気で争っている。

「高町、無事か?」



今までゴールの横で静観していた赤星が歩みよって言う。



「……これが日常と言っても…あいつらは変わってほしいと言うと思うか?」



力を絞ってそう言って、恭也は意識を失った。



「まあ、難しいところだな」



力のない答えを返して、赤星はため息をついた。久遠と忍はいまだに争っているし、ク

ラスメートは輪になって踊っている。流石に授業中には美由希達も現れないだろう。当面

の自分の役割を悟った赤星は恭也を担ぎ上げると、一人保健室に向かった。













ろくでもない日常。ボールをぶつけられて昏倒など、優しい方だ。美少女に囲まれてい

ると羨ましがられている恭也だが、クラスメートには知るべくもない苦労が、彼にはある。

フィリス達にしても美由希達にしても、誰一人として『一般人』はいないし、とりわけ

電撃には縁のある生活。普通の人間だったらとっくに逃げ出して、そして何度も捕まって

さらなる地獄を見ていることだろう。



だが、恭也にとって充実はしている。ろくでもない生活かもしれないが、それなりに楽

しいこともある。何より自分を好いてくれる女性がいるというのは、男にとって喜ばしい

ことだ。欲を言えばもう少し周囲を巻き込まずに暴れてほしいものだが、それを言っても

しょうがない。言って解決するくらいだったら、とっくに解決しているのだから。



(とにかく…)



もはや起きる時の癖になっている体の確認。とりあえず拘束はされていない。薬も盛ら

れていないし、怪我をしている個所もない。少し頭がぼ〜っとしている以外、体は健康だ

った。



(よし、起きよう)



うん、と気合を入れて恭也は体を起こした。体操着のまま彼は保健室のベッドに寝かさ

れていた。校庭で倒れたのだから、当然である。傍らには自分の制服と鞄。気を利かせた

赤星が持ってきたのだろう。



(ということはこのまま帰ってもいい、ということか…)



待っていたらそのうちこの部屋を久遠達に占拠されることだろう。今はベッドに寝かさ

れている訳だし、そのままではいつまで捕まるか分かった物ではない。勝手に逃げたらそ

れはそれで怒るだろうが、この際構うことはない。美由希が手製のお見舞い品を家庭科室

とかで作る方がことだ。



言うが早いか、恭也は手早く体操着を脱いで制服に袖を通した。鞄を確認すると、机の

中に入っていたものは全て詰められていた。課題等の地致命的な忘れ物は…ない。完璧だ。

これで逃げられる。時計を見ると、もうすぐ帰りのホームルームが終わりそうな時間だっ

た。



「どこから逃げるか…」

「私が連れて行くのが一番安心ですよ」

「……まあ、そうでしょうね……」



驚くよりも先に、恭也はため息をついた。御神の剣士の後ろを取れるのだから、これほ

ど逃走に便利な能力もあるまい。



「体育の時間に怪我をしたんですって?心配しましたよ」



フィリスは背伸びをして、恭也の頭に手袋をした手を当て優しく撫でた。一刻も早くこ

の場を離れたい恭也だったが、その手を払う訳にもいかない。とりあえず困った顔をして

いると、フィリスは手を離して『保健医』の専用席に座り、自分で入れたらしいココアを

一口飲んだ。



「あ、向こうの紙にクラスと名前と病状を書いておいてくださいね。決まりらしいです

 から」

「それは書きますが…フィリス先生はどうしてここに?」

「私はお医者さん、ここは保健室。何もおかしいことはないと思いますけど?」

「医者ですけど保健医ではないでしょう…」

「恭也君への愛さえあれば、地域交流を深めるとか適当な理由をでっちあげて高校の保

健医になることなんて簡単です」

「いや、愛とかそういう問題では…」

「これからは毎朝恭也君と久遠と一緒に登校しますから楽しみにしてくださいね。じゃ

あ、今日はもう帰りましょうか」

「保健医になったんじゃないんですか?これから部活が始まりますよ」

「だいじょうぶですよ。保健室の鍵は開けておきますから」

「それは怠慢なのでは…」



などと言い合っていると、小気味のいい音を立てて保健保健室のドアが開いた。突入し

てきた美由希達はフィリスの姿に驚き、フィリスは彼女達の登場に悪役のように舌打ちす

る。



「フィリス先生…久遠を送りこむだけじゃあきたらず自分まで来るなんて…」

「愛しい人のためですから、なんだってしちゃいます」

「だからって学校にこないでください。患者さんはどうするんですか!?」

「私でなければならない患者さんはフィアッセとレンちゃんだけですから、ここで診察

 します。後はお父さんに頼みましたから、私もこれで立派な保険医さんです」



勝ち誇った笑みでそう言い切って恭也の腕を掴むと、フィリスはフィンを展開した。



「それでは、私達は仲良く家に帰ります。皆さんはゆっくり学園生活を満喫してください」

「させません!!」



もはや敵と化したフィリスを殲滅するべく美由希達は各々の武器を抜いて――ぐらっと

その場にくず折れた。



「恭也〜」



自ら電撃で倒した美由希達を乗り越えて、その久遠は恭也に駆け寄って抱きついた。恭

也の背中に手を回して思い切りじゃれる。学校は思いのほか窮屈だったので、その分だけ

思う存分甘える久遠。その頭を撫でながら、恭也はそっちでほどよく焦げている美由希達

を見やった。放っておいていい怪我でもない気がするが、大丈夫だろう。多分…



「恭也君、私ちょっとお買い物したいんですけど、付き合ってもらえますか?」



焦げた美由希達を適当にベッドに放り投げ、フィリスは微笑む。何か人間として言い返

さなければならないことがあるような気もしたが、恭也は黙って頷いた。背中もどこか小

さく見える。さっとカーテンを閉めて、フィリスと久遠は恭也の両腕を取った。そして改

めてフィンを広げると、どこかでうめいている美由希達を完全に無視して転移した。









その後、思いのほか重症だった美由希達は様子を見にきた晶達によって発見された。