誘拐編






ジリリリリリ―



恭也の寝ぼけた頭に金属音が響く。目覚ましの音だ。面倒くさそうに布団から手を伸ば

して、適当に音の発生源を探す。



ジリリリリリ…



音がいきなり止んだ。だが、恭也の手はまだ目覚ましを発見してはいない。勝手に止ま

るには早すぎる。ということは、恭也以外の誰かが目覚まし時計を止めたということだ。



「朝ですよ〜起きる時間ですよ〜」



目覚ましを止めたらしい女性の声が聞こえる。女性というか少女のような声だ。聞き間

違えるはずもない。これは最近世話になりっぱなしの自分の主治医―



「て、待て!」



勢いで自分の考えにつっこみ、恭也は布団から跳ね起きた。強引に覚醒させた頭で辺り

を見回すと、まず目に入ったのは主治医の笑顔だった。間違いなくフィリス本人である。

何故か私服にエプロン姿だったりするが…



「はい。ぱぱっと起きちゃってくださいね」

「あの…フィリス先生、何故ここに?」

「おかしな質問をしますね、恭也君。ここに私がいるのは当たり前ですよ?」



まるで、恭也がおかしいような物言いである。よくよく観察してみれば、恭也が寝てい

たのは布団ではなくベッドだったし、部屋も畳敷きの自分の部屋ではなくフローリングだ

った。時間は…朝なのだと思う。着ているのは自分の寝巻きで……そこまで考えて、恭也

は思考を止めた。



(おかしい…)



自分の一番新しい記憶は昨晩(だと思うが)、美由希と夜の鍛錬から帰ってシャワーを浴

びてから床に着いた所で途切れている。ここがどこなのか知らないが移動した、という記

憶はない。実は夢遊病持ちだったなどという可能性もなくはないが、そうでないと思いた

いので却下する。



だが、実際に自分はここにいる。そこから導き出される結論は―



「夢だな…これは」



少々思考が短絡的な気もするが、別にいいだろう。夢なんだから。



「く〜ん」



いつの間にか膝の上に乗っていた久遠がつぶらな瞳で恭也を見上げている。



「ほら、久遠も起きてって言ってますよ」



フィリスの言葉を肯定するように、久遠はこくこくと頷く。



「わかりました」

短く簡潔に答えて恭也は久遠をそっと床に降ろすと、ベッドから起き上がった。ベッド

脇には自分の物らしいスリッパがあったので、それをつっかけてフィリスについて部屋を

出る。



すると、食欲をそそるいい香りが恭也の鼻をついた。寝室から続いていた食堂のテーブ

ルには、フィリスの手作りらしい食事が並んでいる。トーストにハム、目玉焼きなど洋食

なのは彼女らしかった。



「朝ご飯作ってみたんですけど…食べられますか?」

「ええ、食べられます」



少しだけ妙な質問だったような気もするが気にしない。夢なんだから。食卓につく。

フィリスはエプロンを外して恭也の向かいに座り、彼の隣りには人型になった久遠が座

る。



「じゃあ、いただきます」

『いただきます』



三人とも行儀良く手を合わせる。恭也はママレードのジャムをトーストに塗って口に運

んだ。桃子の手製には及ばないが、そのジャムは恭也の口にもあった。隣りを見ると、久

遠はトーストにジャムを塗る段階で苦戦している。恭也は苦笑して久遠からトーストを取

り上げると手早くジャムを塗って、彼女に返した。



「ありがとう」



お礼を言ってから、久遠は嬉しそうにトーストを頬張る。



「仲がいいみたいですね。久遠と」

「うちにも同じくらいの妹がいますから、扱いになれているだけでしょう」



そう言えば、なのはのいない朝食というのも久しぶりだった。夢なのだから気にしても

しょうがないが、いつもいる顔がいないというのは寂しい気もする。そんな小さな感情の

動きにも気づいたのか、フィリスは食事の手を止める。



「どうしました?」

「いえ…顔ぶれが変わると違うものだなと」

「楽しく…ありませんか?」



悲しそうな顔をするフィリスに恭也は慌てて首を横に振る。



「いえ、ただ戸惑っているだけです。楽しいですよ」

「よかった」



フィリスは満面の笑みを浮かべて朝食を再開する。少々戸惑いもするが、こんな朝食も

たまにはいいだろう。フィリスと久遠というのも夢ならではの組み合わせだし、楽しいの

だから何も問題はない。





そして、楽しい食事はあっという間に終わって…





「はい、どうぞ」



フィリスは食後のコーヒーを受け取って、恭也はまったりとしていた。時計は…学校で

いったら二時間目が始まったくらいを指している。夢でなかったら大慌てするところだ。



「……?」



隣りでは久遠が正面ではフィリスが楽しそうにコーヒーを飲む恭也を眺めている。しば

らくは気にしないで飲み続けていた恭也だったが、観念してカップをソーサーに置く。



「俺がコーヒーを飲むのを見て楽しいですか?」

「楽しいですよ。今はとても」

「たのしいの…」

「そうですか」



答えてコーヒーの残りを一気に飲み干す。すると、途端にすることがなくなってしまっ

た。微妙に現実感のある夢だ。



「食後のコーヒーも終わった所で恭也君、貴方に質問があります」

「なんでしょう?」

「ここで私達と一緒に暮らしませんか?」

「また…いきなりな質問ですね」

「いいから、答えてください」



フィリスも久遠もいつになく真剣な目だ。どことなく切羽詰った状況に立っているよう

なそんな表情であるような気もする。まあ、それは夢であるから無視するとして…



フィリスと久遠と一緒の家に住む。もちろん、同じ家にだ。二人とも美少女(フィリス

は聞いたら怒るかもしれないが…)だし、さっき食べた朝食もおいしかった。生活面もフ

ィリスは仮にも医者だし、子供二人を養っていくくらい大丈夫だろう。女性に頼るという

のは気が引けるが、学生である手前大きなことも言えない。その辺は、家事を多めに引き

受けるくらいで勘弁してもらおう。



夢だとしても何か大切なことを忘れている気がしてならないが、とにかく恭也は頷いた。



「本当ですね?今から嘘だと言ったら本気で怒りますよ?」

「言いませんよ」

「ほんとに久遠たちとくらす?」

「ああ、本当に久遠達と暮らす」

「よかった…間に合いました…」

「間に合うって一体―」



すると、恭也の言葉を遮るようにして呼び鈴が鳴った。



「お客さんみたいですよ」

「さあ、幻聴じゃないですか?久遠は何か聞こえた?」



久遠はふるふると首を振る。再び呼び鈴が鳴った。幻聴では…ないだろう、おそらく。

恭也が目で問いかけると二人はさりげなく目を逸らした。そこはかとなく怪しい。



そうこうしているうちに呼び鈴は何度も鳴った。しかし、フィリスがいつになっても出

ないのが分かるとそれは扉を叩く音に変わった。



「恭ちゃん、生きてる!」

「フィリス!いるのは分かってるからドアを開けて!」



妹と姉の声である。もはや幻聴であるはずはないのだが、フィリスと久遠ははあくまで

も無視してじゃんけんして遊んでいる。



「ああもう、鍵がかかってるわ。ピッキングしてる時間もないし…しかたない。いいわ、

 ノエル。やっちゃって。恭也が手遅れになる前に」

「了解しました、忍お嬢様。皆さん、危ないですから離れてください」



扉の向こうで人の散る気配。フィリスは呆然と座ったままの恭也をそのままにテーブル

を奥の方に移動させると、久遠と一緒に恭也の前に立った。



「カートリッジ、トリプルロード。距離0、風向き参考なし…」



フィリスが正面に手を翳す。久遠は恭也の後ろに隠れて…



「ファイエル!!」



轟音と共に扉が勢い良く内側に吹き飛んだ。凄まじい速度で迫ってくる扉は、しかしフ

ィリスの張ったフィールドに阻まれる。



「お部屋が汚れちゃいましたね」



ひん曲がったドアを前にして、場違いな感想を漏らすフィリス。久遠はぶんぶん首を振

って、頭についたごみを払っていた。立ち込める煙。その向こうから―



「恭ちゃん、だいじょうぶ!?」

「フィリスに何もされてない!?」



制服姿の美由希にフィアッセ。煙の向こうからも続々と恭也の知り合いの女性が部屋に

入ってくる。



「どうしたんだ、みんなして」

「朝、いつになっても師匠が起きてこないから部屋を覗いてみるともぬけの殻で…」

「とりあえず学校に行ってもおししょおられへんし。もしかしたら事故にでもおうたん

 かと思って、病院に聞いたらフィリス先生もおられへんかったんです」

「久遠も、昨日の夜から行方不明だったんですよ」

「それで私達が手分けして恭也を探したらここにいることが分かったの。で、ドアが開

かなかったからノエルに頼んで…」

「申し訳ないとは思いましたが破壊させていただきました」



流れるような彼女らの説明で、恭也はほとんどすべてを悟っていた。彼が額を抑えて考

え込んでいると女性達の間で勝手に話し合いが始まる。



「みなさんどうしたんですか?おそろいで」

「とぼけないでください、フィリス先生。久遠と一緒に恭ちゃんを誘拐したのはもう分

かってます」

「あら。もうばれちゃったんですか?もう少し遅くなると思ってたんですけど…」

「さ、久遠。恭也さんを返してさざなみ寮に帰りましょ?」

「だめ…」



小さいながらも強く言い返すと、久遠は恭也の腕にしがみついた。それを見て美由希達

の怒りのボルテージが上がった。



「恭也も何とか言って!」

「いや、ここで俺に振られてもな…」

「恭也君はここで私達と一緒に暮らすことになりましたので、勝手に連れ出されては困

ります」



また、ボルテージがあがる。それこそ、超必でも使えそうなほどに…



「フィリス先生…それは…」

「男に二言はありませんよね、恭也君?」



天使のような笑顔だが、これは『断れば即座に殺る』笑みだった。



「はい…」



力なく、恭也は頷いた。



「よかった。じゃあお部屋を片付けますから手伝ってもらえますか?」

「ちょっとフィリス、勝手に纏めないで!」

「あ、フィアッセ。お茶でも飲んでく?ちょうどおいしいお茶が手に入ったの」

「フィリス先生…あくまでもやる気ならこっちにも考えってものが…」



忍の目が赤く染まっていく。美由希も持ち出してきたらしい小太刀を抜いていた。那美

とフィアッセもそれなりにやる気である。晶とレンは巻き添えが恐いのか、少し離れて見

守っているだけだが…



「忍お嬢様、それに皆様方。ここは撤退すべきかと…」



晶達に同じく非戦派のノエルが言った。それに晶達はほっと胸を撫で下ろし、反対に美

由希達は激昂する。



「どうしてですか!ここで何とかしないと恭ちゃん持ってかれちゃいます!」

「戦力的な問題なのです、美由希さん。先ほどの私の攻撃でフィリスさんのフィールド

を破れなかった以上、私達には打つ手がございません。加えてあちらには久遠さんが

いらっしゃいます」



持参させられたらしいブレードを片付けながら、ノエルはちらりと久遠を見た。見た目

はこの中で一番幼いが、戦力としては油断がならない。フィアッセは攻撃向きではないの

で、この中でフィリスのフィールドを破れる可能性があるのは久遠だけなのだが、その彼

女がフィリスの味方ではいかんともしがたい。それに、ノエルは電撃を相手にはしたくな

かった。



「そういうことですから、恭也君は私達が責任も持ってあずかりますから心配しないで

 くださいね」



勝利者の笑みを浮かべるフィリスに、美由希達(正確には、その中の四人)はぐおぐお

と嫉妬の炎を燃やす。掃除のために、とフィリスに引きずられながら美由希達を見て、恭

也は人事のように考えていた。





(これから無事には…終わらないのだろうな…)