フォークで切り分ける。そのまま刺して、切れ端を口に運ぶ。



 ケーキを食べるということはそういうことだ。が、その場合の目的はケーキを食べるこ

とではなく、味わうことにある。



「……」



 だが、彼女の場合はただ口に入れているだけのようだった。だがこの少女、何もケーキ

が嫌いな訳ではない。



 いつもの彼女は、それはもう幸せそうな顔をして甘い物を食べるのだが、今は悲しみや

ら何やらに首までどっぷりと浸かっているせいで、味わうどころの騒ぎではないらしい。



「く〜ちゃん…」



 親友たるなのはの言葉にも、く〜ちゃん――久遠は、たっぷりと時間をかけて反応した。

フォークを置いて顔をあげる…この間約十秒。いつもの久遠の反応と比べれば、とろすぎ

る反応である。



「なあに、なのは」

「元気ないよ。どうしたの?」

「うん…」



 頷いて、沈黙。それだけ…ケーキを食べることもせず、ただじっと俯いている。



 休日ではあるが結構な賑わいをみせている翠屋、その端の席…店内の喧騒が二人には痛

い。



「お兄ちゃんと喧嘩でもしたの?」



 なのはとて、その問いに絶対の自信があった訳ではないが、久遠は「お兄ちゃん」とい

う単語にびくっと反応した。



 どうやら、図星のようである。



 なのはの言う「お兄ちゃん」、高町恭也が眼前の親友と、その他一名に誘拐されてから、

かれこれ一月が経過している。



 最初は、突然消えてしまった兄や、殺気立っている姉達に怯えもしたなのはであるが、

遊びに行けば入れてくれるし(ちなみにこれはなのはだけのようで、美由希やフィアッセ

は体よく追い返されているらしい)、久遠とも今までどおりの関係が続いていた。



 さすがに学校に彼女らが来るとはなのはも思っていなかったが、話に聞く限りでは兄と

久遠達は仲良くやっているそうだから、妹として何も心配はしていなかったのだが…



 その久遠が、恭也と喧嘩をしたという。これは、なのはにとっても一大事であった。



「仲直りしよう? く〜ちゃんはお兄ちゃんのこと好きでしょ?」

「うん…恭也、大好き。でも、恭也は久遠のこと、嫌いになったかもしれない…」



 言って、涙ぐむ久遠。親友のそんな姿に、なのはも泣きそうになるが、それをぐっと堪

えて続ける。



「そんなことないから…お兄ちゃん、く〜ちゃんのこと好きでしょ?」

「でも…久遠、恭也にひどいこと言った…」

「…話してくれる?」

「うん…あのね…」













「…恭也も大変ね…」



 ノエルに手当てをされ、ソファでうなだれている恭也を眺め、忍は言った。



 全身こんがり焼けた彼が転がり込んできた時は、何事かと驚いた彼女であったが、ノエ

ルの見た限りでは怪我自体はそれほどの物ではないらしく、恭也自身が大丈夫だと言って

いるので、今では安心して恭也がここにいるということを楽しんでいる。



「ああ…大変だな…」



 答える恭也の声には、力がない。元々、静かに話す彼であったが、今日の声は特に精彩

を欠いていた。



「その様子じゃ、喧嘩でもしたんでしょ? 先生? 狐? それとも、両方?」

「狐…久遠だけだ…」



 手当てをしていたノエルが立ち上がる。



 力なくではあるが恭也がありがとうと言うと、ノエルは微かに(玄人目にはとてつもな

く嬉しそうに)笑い、そのまま退出しようとする。



「すまない…ノエルにも話を聞いてもらいたいのだが…」



 ノエルは歩みを止め、主である忍を振り返った。忍が軽く頷いて意思を示すと、ノエル

は忍の隣、恭也の向かいに座る。



「で、どうして狐と喧嘩したの?」

「今日、俺は補修を受けた…」



 答えになっていない言葉が、恭也の口から漏れる。無視された気がして少々むっとする

忍だが、黙って恭也の話に耳を傾けた。



 外見からは勘違いされがちだが、恭也の学校での成績というのはあまりよろしくないの

だ。



 授業中は忍と同じくらい寝ているのに、彼女と違ってそれを挽回できるような得意科目

がある訳でもない。しかも、遅寝早起きして運動をするという、非常に疲れる生活をして

いるために、家でもそれほど勉強はしない。



 その結果として、彼は補習授業の常連になっているのだった。



 普段ほとんど寝ているために一部の固い教師の間では評判は悪いが、皆勤賞に近い出席

率に真面目な性格もあいまって、たとえギリギリ留年の点数であっても、補修にさえ出れ

ば恭也の単位は保障されている。



 が、それは裏を返せば、補修に参加しなければ単位を取れないということである。



 恭也の場合はギリギリなのだから、あと少し勉強すればその補修すら受けなくても済む

のであるが…そこは恭也、そんなことに時間を割くくらいなら眠るか盆栽の世話をしてい

る。



「そんなの珍しいことじゃないでしょ?」

「いや…たしかにそうだが。そうはっきり言われると、少々むっとする」



 忍がからかって見せると、本気で恭也はむっとした顔をした。



 本人には悪いが、その表情がまた魅力的なのだ。桃子を始めとした高町家の女性人が恭

也をからかったりするのも、この表情を見たいがためなのだ、と忍は勝手に確信を得てい

たりするのだが…



「まあ、俺の成績の話は置いておいて…だ」



 置いておくのジェスチャーをさりげなくして、恭也が話を始める。



「補修を受けたこと自体は問題ではない。問題は…俺が久遠との約束をすっぽかしたこと

だ…」













「今日、遊びに行く約束してたのに…」



 話終えて、久遠は再び涙を浮かべた。まるで自分のことのように、なのはの心の中にも

悲しみが広がる。



「ごめんね、く〜ちゃん…」

「なのは…悪くない…」



 涙を拭いて、顔を上げる久遠。



「それで、く〜ちゃんは飛び出してきちゃったんだ…」



 呟きながら、兄の身勝手さに憤慨する小さな妹。



 久遠にとって、恭也と遊ぶことは人生の何においても大切なことであることは、彼女を

知るものなら誰にでも分かってしまうことだ。



 それを、たかが学校の用事くらいで反故にするとは…酷い。女の子の気持ちを全然考え

ていない。



「それは、もうちょっとお兄ちゃんを反省させるべきだと思うな」

「でも…恭也と喧嘩するの…やだ」



 例え約束を破られた所で、久遠の恭也に対する気持ちが変化するでもない。それは、今

は怒っているなのはも同じ…恭也はどこまで行ってもお兄ちゃんだ。



 その兄が親友と喧嘩したままというのは、なのはも望む所ではない。



 とりあえず、約束を破ったことに対する怒りとその罰は頭の隅に追いやって、喧嘩の解

決策を考える…考える…



「ねえ、なのは…」

「なあに、く〜ちゃん」

「恭也って…何が好きなのかな?」

「お兄ちゃんの好きな物…どうして?」

「プレゼント…恭也に喜んでもらうの…」



 泣き顔から一転、ほにゃっとした顔になる久遠。



 そんな顔を見れたことが嬉くて、なのはも腕を組んで、恭也の好きな物を真剣に考える。



 とりあえず、最初に思い浮かんだ兄は剣術をしている凛々しい姿だった。その他には…

気持ち良さそうに昼寝をしている恭也。後は、何とも言えない幸せそうな表情で盆栽に手

を加えている所しか、なのはには思い浮かばない。



「刀とか…枕とか…盆栽とか…」



 一応思いついた限りを列挙してみるが、女の子が憧れの男性に送るものにしては少々微

妙であると言わざるを得ない。



 久遠も珍しく真剣に眉根を寄せて悩んでいたのだが、



「なのは、リボンある?」

「どうして? 何を送るか決まったの?」

「久遠…」

「……は?」

「久遠を…恭也にあげるの…」

「その…どうして?」

「前に、真雪の漫画で見たの…おんなのこをプレゼントすると、喜ぶんだって…」



 その笑顔は、本気の笑顔だった。幼心に、何か違うんじゃないかな…と思いながら、ど

うやって説得しようか、と考えるなのはであった。













「…で、俺としては、早々に仲直りしたい」

「少し放っておいたら? たまには喧嘩してみるのも面白いかもしれないよ?」

「そうは言ってもな…久遠と仲直りしないことには、俺は家に帰れない」



 家とは、高町家でもさざなみ寮でもなく、今や忍の宿敵の一人となったフィリスが用意

した『セーフハウス』である。



 忍も美由希達も何度か侵入を試みたのだが、卑怯なまでのセキュリティとそれをガード

する本人達の戦闘能力の高さのために、今までことごとく失敗している。



 だから、忍が恭也に接触できるのはフィリスの監視下の元の学校以外では、まったくと

言ってもいいほど存在していない。



 その恭也が目の前にいるのだから…



「今日からうちに住む?」

「いや…さすがにそこまで迷惑をかける訳にもいくまい」

「別に恭也がうちに『入って』くれれば、何の問題もないよ。お金なんて取らないし」

「雨露を凌ぐ代わりに人生を売ってどうする…」

「そっか、残念…」



 かなり真剣だった言葉を冗談めかして言って、忍は先の問題を考える。



「手早くプレゼントなんてどう? 油揚げとか甘酒とか…狐好きでしょ?」

「餌付けをしようと言っているのではないぞ…できれば、物で釣るのは遠慮したいところ

だが…」

「だったら、素直に謝るしかないでしょ。真剣に謝れば狐だって許してくれるって」

「……それしかないか」



 ため息をついてお茶を飲み干すと、恭也はソファから立ち上がった。気だるげな印象は

まだ残っているが、下がっていたテンションは回復したらしい。



「邪魔をした。今から久遠を探して謝ってくる」

「そ。ちゃんと仲直りしたら知らせてね」

「ああ、行ってくる」



 いってらっしゃ〜い、と妙に気楽な忍の声に見送られて、恭也は月村邸を後にした。













「忍お嬢様、少々お聞きしたいことがあるのですが…」

「なあに、ノエル」



 ティーポットの中にまだ僅かに残っていたお茶をしぶとく飲みながら、忍が応じる。



「恭也様が補習を受けたということは、久遠さんも補習を受けたのですか?」

「ううん、恭也だけだよ。狐は…あれ? 受けてないね」

「恭也様は久遠さんよりも…その、勉強ができないのですか?」



 まるで、割れ物にでも触るような表情だ。ノエルにしてみれば、恭也が勉強ができない

という事実が信じられないのだろう。



 それは忍も思っていることだが、彼女は授業中に爆睡している恭也を直に見ているため、

その意外な事実は割りと受け入れやすいのだ。



「私はそれよりも狐が勉強できることの方が驚きだけどね…」



 まあ、本当に忍達と同じ問題をしているとも限らないし、していたとしても正規に採点

しているとも限らないが…久遠が補習をパスしているというのは事実である。



「とにかく、このまま行ったら恭也と狐は仲直りするでしょ。せっかくのチャンスを棒に

振っちゃったような気もするけど…この際だから、攻めてみる?」



 言って、忍はどこから取り出したのか地図を広げる。手書きだが、随分と詳細に書き込

まれた物だった。



 だが、その地図に書き込まれているのはただ一つの建物。



 見た限りは普通のマンションであるが、その実態は今まで忍達が総力を結集して攻めて

も落ちることのなかった難攻不落の要塞である。



「今度はこっちから攻めてみようと思うんだけど…」

「お嬢様、正面からはどうでしょう? 先日開発なされた武装を試してみるいい機会かと

思いますが…」



 ホワイトボードまで持ち出して、討論を始める女性二人。唯一の被害者である恭也にし

てみれば物騒な話であるが、あれやこれやと話し合う彼女達はどこか楽しそうだった。













「やっぱり、謝ることにする」



 リボンだなんだと話あった結果、少女達の話し合いは無難な所に落ち着いた。



 放っておきすぎてかなり薄まってしまったジュースを飲み干して、よいしょと久遠が椅

子か降りる。



「く〜ちゃん、一人でもだいじょうぶ?」

「だいじょうぶ…」



 久遠は軽く頷いて、厨房の桃子に挨拶をすると翠屋を出ていった。会計は、恭也のお世

話代ということでタダになっているのだ。



「がんばってね…」



 誰にも聞こえないように小さく呟くと、自分達の使った食器を片付け始める。小学生な

のに、随分な働き者の少女である。



―――!!



 皿を纏めてなのはが歩いていると、翠屋の扉が勢いよく開いた。



「お姉ちゃん?」



 駆け込んできたのは、ここまで走ってきたらしく壮絶に息を切らせている美由希と那美

だった。



 二人は、呼吸を整えながら店内を見回して、『誰か』を探している…



「お姉ちゃん、何してるの?」



 その眼差しに危険な物を感じ取ったなのはが恐る恐る問いかけると、美由希が控えめに

言っても凄絶な眼差しでこちらを見た。



「なのは、久遠は…」

「え? さっきお兄ちゃんに謝りに行ったけど…」

「遅かったですね…」



 あわよくば久遠を人質にしてフィリスと交渉しよう、などと言う不穏な計画が破綻した

ことを知った二人は、倒れこむようにカウンターに突っ伏した。



 元気のない久遠が翠屋にいる、という匿名の情報を掴むなりそのまま走ってきたのだが、

僅差で間に合わなかったのだ。



 そのまま放っておくと店の営業に支障が出ると判断した次期店長は、目に見えかねない

黒いオーラを発している姉達に気丈にも歩みより、



「なにか、飲み物でも持ってこようか?」



 さすがに注意することはできなかった。美由希と那美は幽鬼のよう顔を上げると、力な

く頷く。よっぽど、本気で走ってきたのだろう。



「じゃあ、ちょっと待っててね…」



 こういう恋愛だけはしないようにしよう…そう心に誓って、なのはは食器と共に厨房に

消えていった。













 綺麗なゆうひの中を、とぼとぼと歩く影が一つ。



 謝る、と決めてもやはり踏ん切りはつかず、家に帰る足取りも少しずつ遅くなっていく。



 雷を当ててしまったのだから、恭也はもう怒って家に帰ってこないかもしれない。そし

たら、きっと彼はもう遊んでくれない…また、誘拐してきても口を利いてくれないかもし

れない…



(やだ…)



 話しかけても答えてくれない恭也を想像して、涙ぐむ。一度涙が出てしまうともう止ま

らない…道の真ん中で、久遠はついに声を殺して泣き出してしまった。



 突然泣き出した少女を行きかう人々は何事かと見つめるが、声をかけようとする人間は

いなかった。



 世界に一人きりになってしまったような孤独感…それがさらに久遠を悲しくさせた。



「おい…」



 とんとん、優しく肩を叩かれるが…久遠は気付かない。気付かずに、泣き続ける。



「久遠…その、なんだ…何でこんな所で泣いているのか知らないが…とりあえず泣き止ん

でくれると…嬉しい」



 そこでやっと声が聞こえた久遠は、涙に濡れた顔を上げる。



 恭也がいた。ばつが悪そうにして、あまり目を合わせようとしないが、それは間違いな

く久遠の好きな恭也だった。



 色々な言葉が、心の中に浮かんでは消えていった。



 怒りたかったはずなのに、謝りたかったはずなのに…言いたかった言葉は出てこなくて、

出てきたのは、ただ一つの呟き、



「恭也?…」

「ああ、俺だ」



 恭也は優しく微笑んで、久遠を抱き寄せた。



 その瞬間、今までん悩んでいたことなんてどうでもよくなった。恭也が好き、その気持

ちだけあればいいんだ、と改めて思う。



 いつの間にか、涙は止まっていた。恭也の背中に腕を回して、しばらく彼に体を預ける。



 まあその間、恭也はここが道の真ん中あることを思い出して、自分達がかなりの注目を

集めていることを意識していたのだが、自分の世界に入ってしまった久遠は、それにも気

付かない。





 結局、久遠が落ち着いたのはそれからしばらくしてからのことだった。



「あ…」



 顔を上げて何かを言おうとした久遠の頬に手を置いて、少しだけ残っていた涙を拭いて

あげる。



「ごめんな、俺も少々短慮だった。次からは約束は絶対に破らない」

「久遠も…ごめん。痛かった?」

「いや、いい薬だったよ」



 ぽんぽんと、頭を撫でる。久遠は気持ち良さそうに目を細めて、はた、と恭也の手元に

目をやった。



「恭也…油揚げ?」

「……久遠よ、俺は確かに高町恭也であるが、断じて油揚げではないぞ…」

「油揚げ…」



 恭也の手からすり抜け、持っていた袋をごそごそとやる。中から取り出したるは、言葉

通りの油揚げの詰め合わせだった。



「…いや、お前にプレゼントだよ。安物で悪いが…」



 微妙に怖気づいたというのは、恭也だけの秘密である。



「ありがとう…」



 にこ〜と微笑んで、久遠が抱きついてくる。ここまで来ると、もう人の目も気にならな

い。



 恭也は久遠を勢いよく抱き上げると、自分の肩に乗せた。



「帰るぞ、今日はフィリス先生も早く帰ってくるはずだからな。その油揚げは皆で食べよ

う」

「うん…」



 久遠が小さな手で、ぎゅっと掴まる。油揚げはしっかりその手に握られていた。