正しき偽善者 interlude 
             第零話 『奪われた者 持ちえる者』






違和感――


 居酒屋『コペンハーゲン』でのバイト、その帰り道。夜の街を歩きながら感じたそれは、

実に不確かだった。街の喧騒かそもそも錯覚か……いずれにしても、それは帰り道を急い

でいるだけの自分が気に留めるものではない。


 と、思わされている自分がいる。自分だけが狙われる理由というのも、ないではなかっ

たが、それが同業の人間というのであれば、とんと覚えがない。ならば、この辺りの人間

全てがそう思っているのだろう。すれ違う人々も、心なしか家路を急いでいるような感が

ある。



 養父以外のこういう人間の業に触れたのは初めてだが、師を持たぬ、魔術師としては欠

陥品の衛宮士郎が初見で気付けたのは、僥倖と言うより他はない。



 さて……欠陥品の衛宮士郎に、この現象の正しい原因など知るべくもない。だが原因が

何であれ、そこにそれは在ることに気付けたのなら、後は簡単だ。日常の空間に入りこん

だ不自然、それを見つけてやるだけでいい。



 養父が死して以来、魔術の独学具合にさらに磨きがかかったことで、純粋な魔術師とし

ての腕前は半人前もいいところだろうが、衛宮士郎には幾らか他人に誇れるだけの才能が

ある。



 その一つが『解析』である。そこに存在することが分かっているもの、その構造を把握

するだけなら、その存在がなんであれ、少々難しい間違い探しをこなす程度の難易度でこ

なすことができる。



 一人前の魔術師であった養父は、全体の構造を把握するこの能力を『なんて無駄な才能

だ……』と論じていたが、何とかと鋏は使いよう。こんな能力でも、意外に重宝するのだ。



(藤ねえのつまらない悪戯には、ひっかからなくなったからなぁ……)



 草葉の陰で泣いている養父の姿が見えたような気がした。



 解析、開始――



 肝心の違和感は、すぐに見つかった。道行く人々の視線が、ある方向にだけは向いてい

ない。ここには何もありません、見るまでもありません、そこからは人にそう思わせる何

かが滲み出ていたのだ。



 この道はバイトの帰り、いつも利用している。断言してもいいが、昨日までにこんなも

のはなかったはずだ。自然に派生した、とも考えにくい。



 つまりは、そこに近付いてほしくない、と考えた人間が態々これを設えたとするのが最

も自然ということ。危険の臭いがぷんぷんとする。



 踏み入るべきか、それとも見なかったことにするべきか……



 しばらくの逡巡の後、衛宮士郎は前者を選び、そこに歩を進めた。



 自然と不自然の境界――目に見える訳ではないが、感じられるのだ――を通り過ぎると、

微かな臭いが衛宮士郎の鼻をついた。あまり馴染みのある臭いではないが、人間が本能的

に知っている臭い……血臭だった。



 その臭いが意味するところを悟った時、士郎の歩みは自然と駆け足になっていた。血臭

を辿り、段々と強烈になっていく最初の違和感を無視して、路地裏を疾走する。



 開けた場所に出る。建物と建物の隙間、そこに誰かが倒れていた。



 死体みたいだ、と考える自分を冷静に自覚しながら、まだ生きているらしいその人間の

身体に触れる。外見からして、年の頃は二十の半ば……少なくとも、馴染みの虎よりも若

いということはないだろう。


 どこの生まれかまでは分からないが、異国然とした顔立ちは少なくとも、この国の血統

ではないことを感じさせる。服は所々破けているが――それどころか、左腕が切り落とさ

れていた。他にも原因は大小様々あるようだが、一番はこれらしい――上等な仕立て。男

物を着てはいるが、とりあえず女性のようだ。



 真っ当な人間なら、そもそも腕を切り落とされるなどという事態にならない。仮になっ

たとしても、半狂乱になりながら今頃は病院の中……少なくとも、こんな人目につかぬ路

地裏に倒れているなんてことは、よほど運が悪いというのでもない限り、ありえるはずが

ない。



 この辺の一帯の荒事は藤村組の管轄だが、外国系の組織とここまでバイオレンスな状況

になっているとは聞いていない。少なくとも、表の裏を管轄するあの集団は無関係という

ことだろう。



 では、一体全体どういうことなのか……頭の弱い自分に、そんなものが分かるはずもな

いが、少なくともこの女性を、このままここに放置するのは、人間としてどうかと思う程

度の倫理観は、持ち合わせていた。



 傷と地が目立たないように上着をかけ、懐から携帯電話を取り出す。連絡先は真っ当で

はないが、病院だ。主に藤村の若衆さんが、あまり公にできない理由で怪我をした時に利

用することで、その筋には有名である。



 だが、登録したその番号をまさに押そうとしたところで、女性が小さく呻いた。



「……待て。どこに連絡するつもりだ?」

「気が付きましたか。いえ、一応救急車と呼べるかもしれないものを呼ぶつもりだったん

ですけど……」

「必要ない。いや、私の結界の中にいるということは、君はマスターなのか?」

「マスター? いえ、俺はそんな珍妙な役職になった覚えはありませんが……」



 ご主人様と他人に呼ばせる暮らしには憧れないでもないが、少なくとも今のところ、そ

んな相手はいない。修士なんてのは、まだ夢の話だ。



「マスターではないのか? だが、君は魔術師なのだろう?」

「分かりますか?」



 魔術とは隠されるべきもの――


 何も教えてはくれなかった養父だが、この教えだけは士郎も忠実に守り、そのための努

力は惜しまなかった。見てくれる人間がいないので、どの程度まで誤魔化せるのか、その

度合いを知ることはできなかったが、本職に出会ってもばれないという、根拠のない自負

があったのだが……



「気配の遮断は見事だ。ここまで接近されても、君が魔術師だという確証が、私には持て

ない。だが、この結界の中にいることがそもそも、魔術師であることの証明のようなもの

だ。抵抗力の高い一般人という可能性もないではないが、負傷しているとは言え、そこま

で稚拙な仕事をしているつもりは、私にはないからね」



 左腕の肩口を押さえ、女性は立ち上がる。士郎を無視して、一歩、二歩と歩き、だがそ

れで力尽きたのか、こちらにくずおれてきた。



「やれやれ……焼きが回ったかな、私も」

「何の反省をしてるのか知りませんが、そんなことは怪我が治ってからにしてください。

幸いにも、事情のある人を診てくれそうな医者を知ってますから」

「傷には自分で処置を施した。医者はいらない。それよりも休める場所が欲しいのだが、

どこか知らないか?」



 知らないでもないが、連れが魔術師ともなれば話は別だ。唯一安心して提供できる場

所と言えば衛宮の家だが、生憎とここはまだ新都。そこまではまだ数キロもある。


 血塗れの割りにはこの女性、元気なようだが、彼女と連れ立って歩くには夜道とは言

え……いや、物騒な昨今、夜道であるからこそ、少しばかり勇気の必要な距離だった。



「ならば仕方ない。払いは私が持つから、そこまで付き合ってもらえるかな?」

「そこまで……って、休める場所があるんですか?」

「一人では入りにくかったんでね、ならば路地裏の方がましと、候補から削除じてたんだ

が、君がいるおかげで入ることができる。礼は言わせてもらおう」

「……何か、落ちが見えたような気がしますけど、一応聞かせてもらいますね。どこに、

行くつもりなんですか?」

「男と女が一緒にいて、夜に行く場所と行ったら一つしかないだろう?」



 いい感じに血塗られた姿で、艶っぽく女性は微笑む。




 衛宮士郎は健全な青少年だ。こんな状況でもなければ、その笑顔に魅入りもしたのだろ

うが、自分の異常性を認識しているとは言え、あくまで常識世界の人間である衛宮士郎に

とって、先程までの一連の会話は、脳の情報処理容量をオーバーフローさせるには十分だ

った。


(首、突っ込むんじゃなかったかもな……)


 この日。衛宮士郎は久しぶりにため息をついた。


















「適当にその辺に座ってくれ。もっとも、私の部屋ではないが……」


 先にも述べたが、衛宮士郎は健全な青少年だ。女性と付き合ったこともなければ、もち

ろん肉体的な関係を持ったことも一度もない。健全であることと所謂童貞であるというこ

が必ずしもイコールということはないだろうが、そんな青春街道まっしぐらな子供が、そ

ういったことをするための場所――早い話が、ラブホテル――に妙齢の女性と一緒にあっ

て、寛ぐなんてことができるはずもない。



 それでも、こんな場所でぼ〜っと案山子のように突っ立っていることが格好悪いことは

処理落ちした頭でも理解できたのか、あってないような男としてのブライドを常識と理性

でもって炊きつけて、ドレッサーから椅子を引っ張り出して腰を落ち着けた。



 血塗れの女性は、と言えば、自分が一体どういう格好をしているのか気にもせず、嫌味

なまでに白いシーツの敷かれた丸いベッドに、当たり前のように腰を降ろした。



「元気なんですね。見つけたときは、死んでるんじゃないかと思いましたよ」

「魔術師とは、基本的には死ににくい生き物なんだ。どうしても殺したければ、頭を粉砕

してやるといい。それでも復活するような輩も中にはいるが、それが一番確実だろう」

「俺、別に魔術師を殺す方法なんて知りたくないんですが……」

「何事も知っておいて損はない。生きるか死ぬかという時は、忘れた頃にやってくるもの

だからね」



 関係のない話だが、こういった場所での男女の会話が『魔術師の殺し方』だなんて、経

験のない士郎でも違うと思う。



 やっぱり関わるんじゃなかったかな、と本日二度目のため息。



「とにかく、貴女は大丈夫なんですね? 今すぐに死ぬってことはありませんね?」

「傷はとりあえず塞いだ。血を流しすぎたことと、魔力が空に近いことを除けば、特に問

題はないよ。当然、命にも別状はない。もっとも、当面は、という正し書きが付くことに

なるが……」



 聞き捨てならない単語を聞いてしまった、と士郎は思わず顔を顰める。



「つまり、まだこんな怪我をする可能性があるってことですか?」

「この程度で済んだことは、むしろ幸運と言ってもいいかもしれないな。虎の子のサーヴ

ァントと令呪を奪われ、魔力も尽きた。あげく用意した装備は軒並み置いてきたときてい

る。いや、今荒事になれば、間違いなく死ぬことになるだろうな」



 三度目のため息。そろそろ数えるのを止めようかとも思うが、今日どこまでこんなため

息を吐き続けるのか、無駄に気にしている自分がいる。


「戦いを回避することはできないんですか?」

「簡単だ。この街から出て行けばいい。それで少なくとも、この戦いに巻き込まれて死ぬ

などということはなくなる」

「そうすればいい……できないんですね?」

「事の顛末を報告するのが私の仕事だからな。こうして生きている以上、それは果たさね

ばなるまいよ」

「……聞いてもいいですか?」

「不用意なことを聞くと、引き返させることができなくなるぞ?」



 首を突っ込むな、と彼女は暗にそう言っている。同時に、こっちへ来いとの手招きも。

選択権をこちらに委ねている辺り、まだ良心的と言えるのかもしれないが、実質的に選ぶ

ことのできるものが一つしかないなら、良心も何も問題ではない。ため息は、これで四度

目。



「貴女は、一体どんなことをしてるんですか? この街では一体何が? 貴女の名前は?

マスター? サーヴァント? 教えて欲しいのは『全部』です。できることなら包み隠さ

ず、正直に答えてください」

「全部とはまた強欲だな。好奇心は猫を殺すという格言を知らんのか?」

「危険があると知ったら、放ってなんておけませんよ。今は何もありませんけど、この街

にいる以上、俺だって、俺の友達や大事な人だって巻き込まれることになるかもしれませ

んからね。生きるか死ぬか……貴女がそう言ったんだ」

「……もしかして、私のせいか?」

「ええ、きっぱりと貴女のせいです。こうなったら、意地でも関わりますからね、俺は」













「理解したか?」

「…………すいません、半分も理解できませんでした」

「駆け出しの魔術師にも解かる程度で説明したつもりなんだが、私に教える才能がないの

か、それとも君が駆け出し以下の存在なのか……」

「たぶん、と言うか、間違いなく俺が悪いんでしょう。師匠もいないし、独学ですから」

「ではまず、その誤解を解くところから始めようか。師もいない駆け出しのことを、私達

は魔術師なんて呼んでやったりはしない」

「貴女の説明を聞いて、よく解かりましたよ。俺には知らないことが多すぎる」


 五度目のため息。


 聞いた話は予想を遥かにぶっちぎって、士郎には手に負えそうもないものだった。


 聖杯戦争、マスター、サーヴァント、七組の主従による殺し合い。その悪質な戦いの賞

品は聖杯――『あの』聖杯なのか……女性は偽者と断言した――願いを叶える万能の器。



「この街をハードに、聖杯戦争というゲームにおいて、マスターと呼ばれる魔術師のプレ

イヤーが、自身もキャラクターであるサーヴァントと共に物騒な仕合をする。当事者でな

い君には、この程度でいいだろう」

「殺し合いが一気に身近になったような気がします」



 彼女は時計塔――これは士郎でも知っている。魔術師にとっての最高学府であり、研究

機関――所属の魔術師で、仕事としてこの戦争に参加したが騙し討ちにあい、最強の使い

魔であるサーヴァントと、それを御するための令呪を奪われたらしい。



「ちなみに奪ったのは言峰綺礼。丘の上の教会の神父で、今回の聖杯戦争の監督役だ」

「監督が参加してもいいんですか?」

「いけない、ということはなかろう。監督には幾つか権限が与えられているらしいから、

恐ろしくアンフェアな勝負になるだろうが……」



 それらと一緒に魔力を奪われ適当に痛めつけられたが、それだけで放って置かれたらし

い彼女はそのまま逃げ出し、人払いの結界と応急処置を済ませると、しばし気絶していた

――というのが、士郎が発見するまでの顛末である。



「逃げられたのではなく逃がされたのだろうな、あの男に。私が復讐などせず、ただ傍観

するだけと、解かっていたのだろう」

「しないんですか? 復讐」

「既にサーヴァントも令呪もなく、私からはマスターとしての権限が失われた。元より研

究肌ではない私には、聖杯もそこまで魅力的な品ではないのだから、殺されかけたからと

言って、わざわざあれに復讐する意味などないさ」

「魔術師ってのは……その、『根源』ってやらに到達したいんじゃないんですか?」

「それに属するものの価値観が統一されている、というのも不気味だな。確かに建前上で

は皆そういうことになっているが、組織を運営したり持ちつ持たれつをしていると、魔術

師だって多分に俗っぽくもなるものさ。大多数がそうだとは言わないが、そんなものより

も今日の金、明日の地位、と考える魔術師もいる。私もどちらかと言えば、その口だ」

「大して欲しくもないもののために、よく殺し合いに参加できますね」

「仕事だからな」



 世知辛い世の中だ、と六度目のため息。



「何はともあれ、これで君は準参加者の立場になった。事情を知っている者といない者で

は危険度も違う。おまけに君が魔術師だ。まだ席に空きがあるとすれば、最悪マスターに

される可能性だってあるぞ?」

「そうならないように祈ってみますから、貴女も俺のために祈っておいてください」

「まあ、それくらいならしてやらないでもないが、魔術師のような罰当たり、主は助けて

くださらないと思うが」

「ないよりはマシでしょう。俺だって、そんなものは信じてませんから」



 七度目。これを最後にと祈りながら立ち上がり、出口に向かう。



「帰るか? 女性を袖にして」

「ここが多分、知っている範囲では一番危険ですから」

「それが良かろう。危険になぞ、合わないで済むのならその方がいい。教会には近付くな

よ?」

「分かりました。で、最後に名前を聞かせてもらえませんか?」

「バゼット=フラガ=マクレミッツ」







「衛宮士郎です。さようなら、バゼットさん」