正しき偽善者 interlude 第一話 
            
                  『夢を語る子供 持ち続ける大人』








「あ〜……死ぬかと思った」



 雑事に関わるのはいつものことだが、死にかけることになるとは予想だにしていなかっ

た。蒼と赤の騎士の戦い――あれが、バゼットの言っていたサーヴァントなのだろう――

に魅せられ、気配を漏らしてしまうなど痛恨の極み。蒼の騎士が『心臓を破壊するだけ』

で帰ってしまったことを、感謝するより他にはない。



 とは言え、殺したはずの人間が生きているとなれば、かの存在はすぐにでも取って返し、

今度は念を入れて殺しに来るだろう。今までは望んでも得られなかった収穫が今夜はあっ

たが、それを自分で生かすためには少々時間が足りない。



 生き残る確率を少しでも上げるためには、これ以上ここに居てはいけない。もたもたし

ていては、蒼の騎士がここまで戻ってくるかもしれない。床には少しばかり無視できない

くらいの血が残っていたが、拭いている暇はなかった。



 手近な窓に飛びつき、身を躍らせる。衛宮の家へと走りながら、一度だけ後ろを振り返

る。自分が一度、殺された場所。そこに立った赤い騎士が憎悪を込めてこちらを見つめて

いる――





 あの男とは、相容れない――





 直感的にそう思いながら、今度こそ衛宮士郎はわき目も振らずに駆け出した。











 家に飛び込んだ士郎は、まず養父の部屋に直行した。


 形見として常にそこにあるコート――魔力抵抗のある防刃繊維で編まれている――を

引っ掴み、今の自分が血塗れであることを思い出し、舌打ちと共に放り投げる。



 ならば、と押入れを開け、自分でも使えそうな武装はないかと探してみるが、それら

……ようするに半人前の自分でも使える程度のものは全て、土蔵でメンテナンスの最中

だったことを今さら思い出した。最悪なことに、一番の頼みの綱である拳銃は、分解掃

除の途中だった。



 間の悪さを呪いながら、それでも自分でもその存在を忘れていた、当時養父が鍛錬の

時に使っていた古い木刀を掴むと、今度は土蔵へと走り出す。



 トレース オン

「同調 開始」



 何千、何万と繰り返したフレーズと共に、木刀に魔力が注入される。悠長に玄関まで戻

って靴を履いている暇はない。居間を突っ切り、裸足のまま庭へと飛び出し――





 降って湧いた感じた覚えのある殺気に、士郎の身体は奇跡的に瞬時に反応した。





 木刀を持ったまま咄嗟に地面を転がり、槍の一撃を避ける。勢いの余ったそれは縁側を

粉砕する。起き上がると同時に木刀を正眼に構えた士郎の前に在ったのは、つい先程自分

を殺してみせた、蒼い槍の騎士。



「殺した手応えはあったんだけどな……よもや魔術師とは。ったく、一晩に同じ相手を二

度も殺すはめになるたぁ、目覚めが悪いったらありゃしねぇ……」



 油断でもしてくれていればまだ生存の可能性はあったかもしれないが、気だるげに見え

ても眼前の槍兵には、遊びの部分が全くと言っていいほど存在しなかった。



「抵抗すんのか? やめとけよ、怪我するだけだ。一秒でいい、大人しくそこに突っ立っ

ててくれれば、今度こそ痛みもなく殺してやるぞ。どうだ?」

「そう言われてはいそうですかって言えるなら、俺はこんなことしてないさ」




 今の士郎には槍兵を倒すためのカードはもちろん、交渉のための材料すらない。生存の

時間を数秒引き延ばす程度の小細工なら、それでも槍兵に通用しそうなものが幾らかある

が、根本的な解決方法――つまりは、槍兵を撃退できるだけの策が何も存在しない以上、

時間だけを引き延ばしても、意味がないと言えた。


 このまま殺されるか――生きている者として、最も危険な考えすら、一瞬頭を過ぎる。



 強化木刀を握りなおす。


 ここで死んでは、何も意味がない。理不尽に何物かに殺されるなど、許せるものか。


「あ〜……戦うのか。そうだよなぁ……そういうやってやるって目、個人的には嫌いじゃ

ね〜んだが、俺にも事情ってもんがある。悪いが……殺すぜ」




 生まれ持った才能と、死と隣り合わせの経験。積み重ねてきた時間の凄まじさを感じさ

せるその突きは、まさに赤い閃光だった。

まさに閃光。



(速い!……けど)



 槍兵の業は、紛れもない超一級。だが、その業は唯一無二ではありえない。剣に比べれ
ば少ないだろうが、槍の名手の逸話など古今東西いくらでも存在する。無論のこと、この

極東の島国にも、だ。


 故に、対応できなくもない。


 衛宮士郎の経験、その全てを動員して、槍の一撃を逸らす。


 自分の戦い方にとって一番恐いのは、初撃で何もできずに殺されること。それさえを凌

ぐことができれば、勝率は僅かながらも上昇する。


 だがそれも、既に死が前提になっているような状況では、些細なことだった。先の回避

は見事と言ってもいいかもしれないが、既に武装として急拵えの強化木刀からは、軋みが

聞こえている。仮に槍兵と永劫に打ち合うだけの技量が今の衛宮士郎にあったとしても、

これでは三分と持ちこたえることはできないだろう。



「防ぐか……ならば、数を増やすぞ? そらっ!!」



 そして、同時に放たれたのかと目を疑うばかりの、三条の赤い閃光。狙いは、全て急所

だ。衛宮士郎をただの人間として扱っているとは思えないほどの破格ぶりだが、ベットさ

れているのが自分の命というのであれば、嬉しくも何ともない。




 一つを逸らし、一つを受け、最後の一つを後退して避ける。

 追撃はない。槍兵は羽虫が生き残ったことを純粋に驚き、楽しんでいる様子すらあった

が、衛宮士郎にはこの辺が限界だった。



 荒い息をつきながら、槍兵を見る。


 彼は明らかに全力ではない。赤い外套の騎士と戦っていた時と比較すれば、その動きに

は雲泥の差があった。衛宮士郎という存在がまだ息をしているのは、一重に彼が手を抜い

ているからに過ぎない。




「戦いの心得があるのか……それに、槍使いと戦ったこともあるみてぇだな。腕も、その

年にしちゃあ、大したもんだ。俺と一緒に鍛錬でも積めば、そうだな……三年もすれば、

少しはいい勝負ができると思うぜ?」

「三年もいらない。今、俺を見逃してくれさえすれば、次の機会にはいい勝負をしてみせ

るさ」

「…………いい眼だ、いい言葉だ。あぁ、どうして俺はこういう巡りあわせが悪いのかね。

今がこんな状況でもなければ、すげぇ楽しいことにうなっただろうに……」




 一瞬だけ、迷うかのように槍の穂先が揺れ、ぴたりと止まる。



 そして、空気が変わった。


 息がつまるほどの殺気が士郎を貫き、槍兵の目に剣呑な光が宿り始める。


「長引かせるのは、もう止めだ。これ以上やったら、本気でお前に情が移っちまう。少し

ばかり本気で行くぜ? 怨みたきゃ怨めよ、小僧!!」




 槍兵の槍が――見えない。


 ギアの上がった攻撃は、防ぐための時間も与えられなかった。一撃目で木刀を砕かれ、

二撃目は奇跡的に後退に成功していた体、先程修復したばかりの心臓を中途半端に抉り、


それで蹈鞴を踏んだことにより、頭部を狙った三撃目は幸運にも空を切った。


 それらが、全て一瞬。


 崩れる体勢を立て直すまでもなく、槍兵の回し蹴りが脇腹に直撃する。肋骨の折れる音

を聞きながら士郎の身体は宙を飛び、土蔵の壁にぶつかることで、やっと止まった。



 意識が残っていたのは、幸か不幸か……顔を上げて見えたのは、赤い槍を引き絞る蒼い

騎士の姿。そして――



「ちっ、新手か!!」



 自らの槍を繰り、飛来する何かを叩き落す驚愕と苛立ちに彩られた、サーヴァントの姿。



「流石は稀代の英雄、素晴らしい体捌きだな。そんな君を言峰に奪われるとは、実に惜し

いことをしたものだ」



 塀の上。黒光りする銃を構える姿がやけに様になった隻腕の魔術師。名を、バゼット=

フラガ=マクレミッツ。



「バゼット……てめぇ、生きてやがったのか!?」

「君の今のマスターの悪趣味のおかげでね。君の方こそ息災そうで何よりだよ。扱いはど

うだ? もっとも、あの言峰のことだから折り合いがついてないだろうことは、想像に難

くないが……」

「胸糞が悪くなるようなことばかりだよ。それより……何故今さら俺の前に現れた、『元』

マスター。生きながらえたのならその命、後生大事に抱えてりゃあいいものを……」

「なに、上の事情という奴だよ。彼らはなるべくならば私に、聖杯戦争に参加してほしい

らしいのさ。私がここにいるのは、その方法を模索した結果だよ。もちろん、全てが上手

い方向に転がってくれれば、私はここに来なくても済んだんだが……」



 バゼットは軽やかに塀を飛び降り、槍兵と士郎の間に割って入る。



 絶体絶命だった士郎からすれば、バゼットの登場は天の助けだった。



 だが、基本的に合理主義の魔術師に危険を冒させてまで助けてもらえるだけの理由が、

士郎には主居るかなかった。



 槍兵に付けられた傷を修復しながら――きっと、間抜け面をしているのだろう――遣り

取りを見ていると、当のバゼットが振り向き、苦笑する。




「この少年には借りがあってな。上の事情もそうだが、私は私個人の思惑もあって、ここ

にいるのさ」

「その小僧を助けに来たか……つまり、お前は俺の敵ってことで間違いねぇんだな?」

「確認するまでもなかろう? 何故、現れた……そう問うたのは君だ、ランサー」



 バゼットの言葉を合図に、一連の騒動で霧散していた槍兵の殺気が、再び収束した。




 思わぬ助っ人の登場はもちろん、士郎にとって喜ばしいことではあったが、絶体絶命の

大成にはおそらく影響はない。何某かの理由があるにしても、態々助けに来てくれたバゼ

ットの力量を疑うだけの資格は士郎にはないのだが、まさか彼女に槍兵を倒せるだけの手

段があるとは思えない。



 しかし、士郎のその杞憂と言うか疑問は、そのバゼットの一言で粉微塵に打ち砕かれた。




「手短に言うぞ。シロウ、サーヴァントを呼べ」



 隻腕の魔術師は、自分に魔術師達の殺し合いに参加せと、と仰せである。



「椅子にはまだ空きがあるのだ。既に権利が抑えられているのなら、ここから君を連れ出

して傍観に徹するつもりだったが、不幸にも君には……冬木に住む魔術師たる君には、マ

スターになるための義務付きの権利があるらしい。手の甲の傷が、その証明だ」



 まだ生々しさの残る、うっすらとした『修復できなかった』傷。まるで聖痕と、信心な

んて欠片も持っていない士郎ですら不気味に思っていたそれが、証明であると――



「手段は任せる。身勝手な見切り発車で選択の余地を奪ってしまったことは済まないと思

っているが、この場を生き残りたければまずサーヴァントを喚ぶことだ」


 そう言って、バゼットはあろうことか、自ら槍兵に打って出た。


 自身の時と比べてまたもギアの上がっているその攻撃を、バゼットは体捌きと魔術の手

の入っているらしい手甲……そして、時たま織り交ぜる銃弾でもって凌いでいた。


 バゼットの技量は、もはや芸術の域にあると言っても過言ではなかった。隻腕であるこ

とを差し引けば、ただの人間が大した奥の手も用意せず、ここまで打ち合っているという

のは奇跡と言ってさえいいかもしれない。


 だが、彼女が如何に芸術的な技量を持っていようとも、それだけでは英霊に勝てるはず

などない。英霊と人間では、全ての規格においてスペックが違うのだ。このまま永劫に打

ち合えるはずもなく、いずれバゼットは力尽き、あの槍に貫かれる時が来るだろう。



 そして、その時はそれほど遠いことではない――



 バゼットも、自分が槍兵に勝てないことは理解している。


 だがそれでも、彼女はここに来た。上の事情、魔術師としての柵と、自分に対するつま

らない借りのために、命を賭けて自らの喚んだ英霊と戦っているのだ。



 士郎はそれに、堪らなく腹が立った

 他人に命を張らせなければならない、自分の弱さに……槍兵を退けることのできなかっ

た、自分の弱さに……


 命を賭けてくれているバゼットを助けるには、今の自分の力では到底足りない。


 手に入れなければならない。何とかするための……力を。


トレース オン
「同調、開始」



 傷の修復を一時中断し、自らの身体を走査する。手の甲の傷――『聖痕』と命名――

にポイントを絞り、そこからありったけの情報を引きずり出す。





 聖杯戦争、マスター、サーヴァント、そして令呪。

 サーヴァント召喚のためには、触媒が不可欠。マスターとサーヴァントの性質の類似性

から、衛宮士郎の情報を元に、現時点で召喚できる英霊のうち、最良のものを検出。



「出て来い――」



 弾き出された結果。触媒は衛宮士郎自身、喚び出すのは剣の騎士のサーヴァント――



「セイバー!!!」










「っ!! おいおい、本気で最後のサーヴァントを喚びやがったのか!?」


 命を賭けた戦いの間に気を抜くなどという無様な真似を、槍兵はしない。

 彼にとって戦いとは至上のもの。常に全力を出し切るとは言わないが、気を抜くという

その行為は自身のプライドにとって、そして相手に対する侮辱であると考えている。

 重ねて言おう。彼――ランサーは戦いの間に気を抜いたりは決してしない。


 だが、元マスターの魔術師の物言いから幾らかの予想はついていたとは言え、偶然自分

の戦いを目撃し、既に一度殺したはずの子供がサーヴァントを召喚したという事実は、ポ

リシーに反してそれをしてしまうほどには、十分に驚愕に値した。


 それでも、槍兵が気を抜いたのは、時間にすればほんの数瞬だったのだが、しかし、曲

りなりにも『プロ』であったバゼットからすれば、その数瞬とて十分なチャンスである。

魔力の乗ったその拳は、槍兵の意表をついて、その顔面に直撃した。


「戦いの最中に余所見とは、余裕だなランサー?」

「踏んだり蹴ったりだな。現マスターには使いばしられるし、元マスターには殴られると

は……これであの小僧の喚びだしたサーヴァントがカスだったら、俺はもうヤケになるか

らな」

「彼の言を信じるのなら、最後の空いた席はセイバーだ。最良の騎士の誉れ高いクラスに

納まった存在が、カスということはあるまい」




 喚びかけに応え、何故か土蔵の中から――肝心の士郎は、土蔵の外にいるのだ―― 一人

の騎士が現れ出でた。


 金色の髪に、白銀の鎧。その手に剣はないが、まるで人形のような華奢な外見でありな

がら、迸る魔力は人間とは比べ物にもならない。


 全サーヴァント中『最良』の騎士、セイバー。


 剣の名を冠する騎士は、衛宮士郎の元に召喚された。


「私のマスターは……」


 土蔵の壁に蹲っている士郎に、騎士の少女の視線が向く。呆然としている士郎の前に少

女は膝をつき、騎士の礼を取って畏まった。


「貴方ですね。サーヴァント、セイバー。召喚に従い参上いたしました。見たところ危機

の様子。指示をお願いいたします」

「……あ、ああ。その、何だ……とりあえず、困ってるから助けてくれ」

「その命令は具体性を欠いています。具体的な指示がないというのなら、独断で戦わせて

いただきますが?」

「いや、それで構わない。とにかく何とかしてくれるとありがたい」

「了解しました。マスターは安全な場所に。この場は私が収めてご覧に入れましょう」



 立ち上がりったセイバーは、ランサー……と、バゼットの前に悠然と立ちふさがった。



「……ちょっと待て、私はそこな少年の味方のつもりだ。間違って攻撃してくれるなよ?」

「む……マスター、その魔術師は味方で間違いはないのですか?」

「味方……と言えば、味方だよ。出来るなら攻撃はしないでほしい」

「解かりました。と、いう訳で……当座の敵は貴方だけですね? ランサー」

「そう言って喚ばれたんだから、お前はセイバーだよな? 剣を抜けよ。戦ってやる……

と、言いたいところだが、目撃者がマスターになって、観測者が元マスター……予定が狂

いまくっちまった」

「私とは戦わぬ、とでも言うつもりですか?」

「いや、戦わねぇとは言ってねえよ。ただ、今回は分けにしねぇか? と提案したい」

「何を言うかと思えば……敵が目の前に居るのに見逃す馬鹿が何処にいますか」

「喚んで早々、意見の食い違いがでるってのは申し訳なく思うんだけれどもさ……」



 血に塗れた上着を適当に放り投げ、立ち上がる。反対意見がまさかマスターから出ると

は思っていなかったのか、セイバーの少女は炎を背負った怪訝な顔、という器用な表情で

振り向いた。



「何を言っているのですか? マスター。あちらにどんな事情があるのか知りませんが、

敵が目の前にいる今は間違いなく好機です。見逃すというのは解せません。納得できる理

由を伺いたい」

「正義の味方にあるまじき行為はしたくない。俺の理想で方針さ。見たところあっちにも

込み入った事情があるみたいだし、戦わないで済むならそうしたいんだよ、俺は」

「敵を倒すことが正義に反しますか? 何物も奪うな、というのであれば、貴方は何も成

すことはできぬと知りなさい」

「話し合いの余地があるのなら、そうしたいと言ってる。最後にはそうせざるを得ないと

しても、やっぱりそれは最後にしたいんだ」

「……そのために、正義に反するような行為が行われるとしても、ですか? 貴方は自分

以外の存在がする行動に、責任が持てるとでも?」

「持てないよ。だから、後悔するのかもしれない。でもさ、これでも俺は人を見る眼には

自信があるつもりなんだ。お前からすれば、全然取るに足らない子供かもしれないけど、

できることなら、信じてもらいたい」

「もし、私がそれを信じない、というならどうしますか?」

「多分、令呪を使ってでも言うことを聞いてもらうことになる。これをもって、俺の覚悟

としてもらいたい」




 嘆願、という形態をとってはいるが、実質的な脅しだ。マスターとサーヴァントという

関係とは言え、仮にも誇り高い英雄があくまでもただの『人間』であるマスターに命令さ

れて、不快に思わぬはずがない。


 誇りを汚すという行為は、それを重要視する存在にとっては何よりも重い。令呪を使う

までもなく、首を刎ねられる――そんな最悪の状況だって、今晩既に死んでいる士郎には

十分にありあえる話だ。



「解かりました……」



 ため息を吐いて構えを解き、セイバーはランサーから距離を取る。ニヤつきながら見や

ってくるランサーを、怒りも隠さずに睨みやり、



「我が主の意向です。今は見逃しますが、次こそは貴方の最後であると心得なさい」

「おうよ。次には可笑しな縛りなんてなく、雌雄を決する戦いができることを願っとくぜ」



 言って、獣のごとき速度で槍兵は飛び去る。獰猛な殺気は彼の気配と共に遠ざかって行

き、いつもの夜の静寂が戻ってくる頃には、節々が傷んでいた士郎の身体も、幾分かはま

しになっていた。



「さて……私からも色々と話たいことがあるのでね。できれば、そういった場を設けても

らえるとありがたいのだが……」

「私からもです。マスターの『正義』とやらについて、詳しく聞かせていただきたい」



 ここに、静寂を嫌うかのように自らの存在を主張する女性が二人。それに逆らえるだけ

の器量などあるはずもなく、上手い言い訳でもないものかと、何とはなしに思考を巡らせ

てみるが、それも徒労に終わる。





「夜食でも用意する。立て込んでたから少しばかり汚くなってるけど、とりあえずあがっ

てくれ」















「ふむ……では、元からマスターを目指していたのではない、と?」

「そうだよ。俺自身が魔術師……いや、魔術使いだけど、聖杯戦争なんてものがあること

自体、つい最近知ったんだ。そこのバゼットさんに教わってね」


 夜中に早々都合のいいものが用意できるはずもなく、買い置きしてあった素麺を適当に

茹でて温素麺を夜食とした。


 その身体に東洋の血の含まれていなさそうな美女、美少女に箸が使えたものかと、きっ

ちり三人分を拵えてから疑問に思った士郎だったが、意外と言うべきか流石と言うべきか、

二人は生粋の日本人である士郎の目から見ても、見事なまでに箸を使いこなしていた。


 ちなみに、自らを魔術使いと言い直したのは、本業の魔術師の方から何とも言えぬ視線

を受けたからであったりする。物分りのいい後輩の様子に満足したのか、豪快に音を立て

て麺を啜りながら、バゼットが言葉を継ぐ。



「私が元々マスターだったのだ。しかし、令呪とサーヴァンを奪われて脱落してな。君が

先程敵対していたランサーこそが、本来私の相棒となって戦ってくれるはずだったのだが

……」

「そういうことは先に言ってもらえないか? 魔術師。貴女から令呪を奪うような存在に

仕えるサーヴァントであると言っていたら、マスターの言と言えども、あえて見逃しはし

なかったというのに」

「あのランサーは無益な非道をしたりはしないだろ?」

「ランサーがそうなのだとしても、そのマスターまでそうだとは限りません。それこそ、

令呪でも使って命令されれば、サーヴァントにはなす術がない」

「それに関しては心配する必要はないかもしれんよ。ランサーはあの性格だ。言峰が私か

ら令呪を奪った段階で、主変えに同意しろとかいった類の命令が成されているはずだ。そ

れに、先程の彼には何某かの呪的拘束の気配が感じられた……こちらの内容は推察するし

かないが、何か令呪を使った命令を受けているのだろうな。つまり、彼に対して有効な令

呪は、おそらく後一つだ。言峰が令呪を使い切れば、ランサーはまず自分の名誉に賭けて

彼を殺しに行くだろうから、彼の誇りに反した命令を受理させるために令呪を使うなど、

言峰からすればありえない」

「それが、絶対と言えるのか?」

「危険分子は排除、というのは『王』らしい考え方だが……彼とて英霊だ。誓約を重んじ

る光の御子、クー=フーリンの誇りと己がマスターを信じてやってはくれまいか?」

んさ」

「……納得できぬことはまだあるが、事情はおおよそ飲み込めた。こちらからも一つ聞き

たいことがあるのだが、構わぬか?」




 麺汁の入った器を置いたセイバーは、きっ、とバゼットを睨み、




「貴様は、何故我がマスターに協力しているのだ? 手前勝手な都合で協力しているのな

らば、私の実力でもって貴様を排除するが」

「ちょっと待ってくれ、バゼットさんは――」

「確かに、君の疑念はもっともだよ、セイバー」



 言いかけた士郎を片手で――素麺をはさんだ箸を持ったままの右手で制し、バゼットは

セイバーの剣呑な視線を真っ向から受け止めた。




「私は私の都合で、シロウに協力している。私の代わりに聖杯戦争を体験してもらい、そ

して願わくば聖杯を手に入れてもらいたいのだ」

「あわよくば、貴様も聖杯の加護を得ようと考えているのか?」

「いや、考えてはいないよ。基本的に魔術師は強欲にできているが、道理を弁えぬ者は長

生きできぬ、というのは古今東西で通用する概念でね。仮に機会があったとしても遠慮さ

せてもらうつもりでいる。それに――」



 ちら、とバゼットはシロウを見る。その視線にはセイバーを見返した時にはなかった、

優しげな感情があったのだが、向けられていたのが一瞬だったせいか、士郎が言葉にでき

ないむず痒さを覚えて見返した時には、既に彼女は魔術師としての顔に戻っていた。



「彼には世話をしてもらった借りがあるからね。少なくともその分の借りを返すまでは、

彼の手助けをさせてもらうことになるだろう」

「……マスターは貴女を信じるだろう。だが、私は何をもって貴女を信ずればいいのだ?」

「信ぜずともいい。私のことを危険と判断するならば、容赦なく斬って捨てればいいさ」

「……………………分かりました。私は貴女を信じない。マスターにとって私にとって、

貴女を有害と判断した時には、私の権限でもって貴女を斬って捨てましょう。マスターも、

それでいいですか?」

「いいはずがないだろう」


 憮然として、答える。仲間で殺しあうなど、士郎からすれば問題外もいいところだ。


「私も魔術師も、命の遣り取りをすることは了承済みです。マスターに文句を言われる筋

合いは、申し訳ありませんが、ないと思いますが?」

「俺の目の前で、仲間が争ってくれるな」

「今の段階で私にとって、魔術師を仲間と思う要素が存在しないのです。マスターは見ず

知らずの人間を信じることができるというのですか?」

「自分の人を見る目、信じられないのか?」

「馬鹿にしないでいただきたい。私とて英霊と呼ばれる存在だ。少なくともマスターより

は多くの人間を見てきたつもりですし、人を見る目とやらにも少なからず自信がある。こ

の魔術師が簡単に掌を返すような人間でないことも、理解はできます。ですが――」



 セイバーは一度言葉を区切り、大きく息を吸った。



「目的のためには、人は容易く人を裏切る。私はそういった場面を何度も見てきた。まし

てや願いを叶えるという聖杯が対価とあっては……」

「それでも、それでも、だ。俺はバゼットさんを信用するし、セイバーにも、バゼットさ

んを信用してもらいたい」

「安易な信用は危険です。貴方とてその令呪を使い切れば、私に殺されるかもしれない。

そんな強制力のある私ならばまだいいが、魔術師にいたってはその保障がない。それでも

貴方は私達と共に、命を賭けた戦いを演じられるというのですか?」



 場を支配するのは沈黙。美女と美少女の痛いほどの視線を受け、しかし士郎は身じろぎ

一つしない。最初から答えは一つ、とばかりに紡いだ答えは、迷いなく――



「戦う。戦える。セイバーと、バゼットさんとなら、俺は最後まで戦うことができる」

「私達を、信じて?」

「信じるも何も、二人は俺を裏切ったりはしないだろ?」



 沈黙は長く、痛く、そしてセイバーのため息と共に終わりを告げた。


 彼女は無言で士郎の前に出ると、居住まいを正し平伏する。


「私の名はアルトリア。嘗て存在し未来に復活する王、アーサー王と呼ばれた存在です。

我が身は主と共に、我が命は主がために。もはや勝利は約束されたものと心得てください」

「……いや、そこまで畏まられても困るんだけどもさ」

「私はサーヴァント、貴方はマスター。私とは戦いを勝ち抜くための力であり、貴方は頭

脳です。むしろこれくらいには慣れててもらわないと困ります」

「王に跪かれることに慣れている人間など、歴史を紐解いてもそうはいまい。まして、あ

のアーサー王に跪かれるなど、ありえんことだろう。むしろ、シロウくらいの年で落ち着

かれては、不気味で仕方がない」

「私が選定の剣を抜いたのは、マスターと同じくらいの年齢でしたが?」

「誰も彼もが君のように強い訳ではないのだ。英霊を基準にしてくれるなよ。さて、君が

跪いたのならば、私もそうした方がよいのかな?」

「勘弁してください。俺が欲しいのは仲間であって、部下じゃないんですから……」

「しかし、主従という関係は頭に入れて置いていただきたい。限りなく確信に近い私の予

感なのですが、マスター。貴方は無茶をしそうな気がしてならない……」

「釘を刺されているぞ? シロウ。これは、どうしたらそうできるか、頭を捻るしかない

な」



 何が楽しいのか、声を殺して笑うバゼットに、セイバーの視線が突き刺さる。獅子です

ら猫になりそうな視線も、隻腕の魔術師にしては何処吹く風なのか、改めて温素麺を啜る

姿には、英霊に相対しているなんて緊張は見られない。



「和を乱すくらいなら、いなくてもいいが?」

「アーサー王の補佐ならば、魔術師が必要だろう。かの老人に匹敵すると大ぼらを吹く気

はないが、聖杯戦争においてならばそれなりに役立つと自負している」

「……貴女があの老人と同じであるというならば、役に立つ立たない以前に、この屋敷か

らたたき出します。精々色に惑わぬことを期待しましょう」




 話はそれで終わりなのか、二人は再び箸を取り、食事を再開する。




「わさびを取ってくれないか? セイバー」

「これですか?」

「ああ、それだ。君も使ってみてはどうだ? 市販のわさびというのはイマイチだが、こ

いつはシロウが態々擦ってくれた一品だ。美味いぞ」

「ふむ……」

「ちょっと待ってください。初めての人にわさびって勧められないんですけど――」

「大丈夫ですよ、マスター。食物であるというのならば、私には受け入れられぬはずがな

い。貴方の手が入っているというのなら、なおさらです。作り手の配慮のなされた食事ほ

ど、美味しいものはありませんから」

「それは何よりだけどさ、俺が問題にしてるのはそういうことじゃなくて……」



 わさびを何の問題もなく食す英国人、というのが、純粋日本人である士郎には想像がで

きないのだ。



「研究不足だな、シロウ。日本食は今や世界に広まっている。本場の味には及ぶべくもな

いが、わさびくらい英国にも存在する。アーサー王である彼女が食えない道理はなかろう」

「歴史って良く分かりませんけど、アーサー王の時代にわさびがありますか?」

「知らん。だが、私が食えるのだから、英国民に須らく受けないということはあるまいよ」

「それがアルトリアに受けるってことはないと思いますけど……」

「……大丈夫だと言ったではありませんか」




 結論を出すまでもなく、セイバーは食っていた。例の臭いは完全に無視という訳にもい

かなかったらしいが、それでも士郎が頭の片隅で想像した『涙目で暴れる外国人の図』は

回避できたらしい。




「それで、これからどうしますか? 幸いにも敵マスターの一部の情報が我々にはありま

すが……」

「しばらくは情報収集ってことでいいだろ? ランサーに関してはとりあえず、マスター

と真名が分かっただけでよし。当面は他のマスター、サーヴァントの情報を集めたい」

「それに関しては、私でも役に立つことができる。協会のネットワークでも使って、可能

な限り情報を集めることにしよう。それが決めてになるということはなかろうが、情報は

多いに越したことはあるまい?」

「お願いします。じゃあ、飯を食い終わったらお開きにしよう。部屋割りは……客間が空

いてるんで、適当に使ってもらえますか?」

「適当では困る。マスターを守らねばならぬ以上、マスターと同室で休まねば」

「青少年としては素敵な提案だけどさ、俺の精神の安定のためにできることなら同室は勘

弁してもらいたい」



 精神の安定を欠いてセイバーに襲いかかったとしても、返り討ちにされることは目に見

えているが、それとこれとは話が別。むしろ、手に届かないと分かっているだけに、その

ダメージは計り知れないものにある可能性大。


 だが、仮にもあのアーサー王に青少年の悩みを説いたところで納得してもらえるとも思

えない。案の定、士郎の提案にセイバーは渋面を作り、



「貴方は今の状況を理解しているのですか? 将が守りを傍に置かないなど、非常識にも

程がある。まさか、私の守りなど必要ないとでも言うつもりですか?」


「ん? いや……確かに腕に覚えはあるし、いずれはそうなりたいとも思うけど、今はそ

んな大それたことを言うつもりはない。守ってくれるというのは凄くありがたいんだけど、

俺としては女の子が同じ部屋にいるなんてことは許容できない」

「サーヴァントである私を、女性として扱うつもりか?」

「扱うよ。だって、サーヴァントでも何でも、アルトリアが女の子であることに変わりは

ないだろ?」




 士郎からすれば、それは当たり前。でも、セイバーからすればそれは、非常識もいいと

ころ。英霊とは言え、聖杯戦争においては駒に過ぎないサーヴァントを人間として扱うだ

けでも非常識なのに、それだけでなくこのマスターは自分を女性として扱うと言う。



 侮辱しているのか、という考えすら首を擡げるが、この朴訥そうな顔を見ている限り、

彼の言葉に裏があるとも思えない。きっと彼は、嘘をつくこともできないだろう。


 人間として信頼するには足る……セイバーはそう思う。しかし、マスターとして、戦う

者として相応しいかと問われれば、首を捻らざるを得ない。



「彼はどうにも頑固なようだぞ? 下手を打って状況を悪化させるよりは、適当なところ

で妥協した方が良さそうだ」

「一体、貴女は何の味方なのですか……」

「事柄が停滞せずに進むというのなら、私はそちらを取るよ。だがシロウ、セイバーの言

うことももっともだ。同じ部屋が嫌だというのなら、せめて隣りの部屋ということで手を

打ったらどうだね?」

「……魔術師の意見ももっともです。マスターの仰せには従いましょう。ですが、できる

ことなら、このような無茶はこれきりにしてもらいたい」

「でもセイバー、何よりも先に二つだけ言っておきたいことがある」

「なんでしょう?」



 ぴっと、士郎は人差し指を立てる。



「俺の名前は、衛宮士郎。マスターって呼ぶのも、勘弁してくれ」

「了解しました。では、私もシロウと呼ばせてもらうことにします」

「ありがとう。で、二つ目。俺としては、こっちの方が重要なんだけど……」



 二つ、を現すために人差し指に中指を追加するが、士郎の顔色は何処か冴えない。事情

を看破しているバゼットは一人、食事を続けながら笑いを噛み殺しているが、事態を収拾

するなどという、『野暮』なことをするつもりはないらしい。



「何ですか? マスターであるシロウの言ならば、私も無碍にはしませんが」

「そう言ってもらえると助かるけど、多分無理だろ。俺が言いたいのは、さっきのセイバ

ーの言葉に反することだ。俺は、妥協しない。俺は、無茶をする。俺の仲間になってくれ

るってんなら、それを覚えておいてくれ」

「……………………」

「……怒らないのか?」

「怒りを通り越して呆れているのです。私ですら、この感情を制御するのにかなりの精神

力を要しました。目的の遂行、その邪魔を宣言されて反感を覚えない者がいますか?」

「それでも、セイバーは俺を斬ったりはしないんだろ?」

「容易く誓いを破るような存在に、私が見えますか」




 誓約を重んじる騎士にとって、その破棄はその『立場』を根本から崩しかねない。剣を

預けた主が自らに合わぬからと言ってすぐさま掌を返すようでは、そもそも騎士などとい

う存在そのものが発生しなかったことだろう。




「勘違いしないでいただきたい。私は、主の間違いを正すのも従者の務めと考えているだ

けですので」

「つまり、セイバーも俺に負けず無茶をするってことだな」

「シロウと私のそれを一緒くたにされるのは不本意ではありますが……まあ、そうだ、と

言っておきましょう」

「それを聞いて、とりあえず安心した。これからよろしくな、セイバー」




 にこり、と微笑む士郎に、当然ですとばかりに頷いて、二人は食事を再開する。





 一人離れてその遣り取りを眺めていたバゼットは、これから振り回されるのがどちらな

のか、その未来が見えたような気がした。未来視の能力を持たない彼女には、具体的にど

うなるのか、それまでは知ることはないが、自分が剣の騎士に同じく無茶に振り回される

のだ、ということも同時に理解していた。



 それを、苦であると思うどころか、愉快なものとして認識している自分にも、驚きを感

じない。これではあの神父を狂人と呼ぶこともできないだろう。正しく魔術師としてある

ものは、程度の差こそあれ一部の例外もなく狂人に違いはないのだから――





(ああ……精々楽しませてもらおうか)





 静かに、決意する。






 壇上に登るのはまだ先の話。しかし、これが第五次聖杯戦争、その最後の主従――より

正確には彼を中心とした『戦団』が成った、瞬間だった。