※ 今作は拙作『風芽丘School days』の設定を引き継いでおります。
  が、今回はそれほど込み入った設定ではありません。これを読むにあたっては、以下の
  点を踏まえてくだされば大丈夫です。

  1、ノエルは人間です。
  2、イレインはノエルの妹で、これまた人間です。


  以上です。それでは、あとがきで……

























「あー、最悪……」



 海鳴の地に降り立って、最初に彼女の口から出たのはそんな言葉だった。



 念入りに手入れのされた長い金髪に、つり目がちの目。ボディラインを強調するようなダ

ークレッドのスーツに、同じくダークレッドのハイヒール。日本人にはありえないメリハリ

の利いた容貌が周囲の目を集めに集めていたが、本人はそれを当然とでも思っているのか、

気にするような素振りは微塵もない。



「まったく、最悪だわ」



 同じ言葉を繰り返し、彼女は周囲を見渡した。



 ドイツからの長旅の末にようやく辿り着いた目的地だったが、最後の最後でケチがついて

しまった。駅を出てすぐに、ヒールが折れてしまったのである。おまけに、ヒールが折れた

瞬間、迎えに来るはずだった姉からは『迎えにはいけません』とのメールが届いた。その場

で携帯電話を地面に叩き付けなかったのは、直情的と評される彼女にしては珍しく、理性的

な行動だったと言える。



 タクシーを拾ってもいいが、そのためにはタクシー乗り場まで歩かないといけない。僅か

な距離とは言え、裸足で路面を歩くなんて醜態をさらすのは死んでも御免だ。誰かの手を借

りられればいいのだがここ、海鳴は異国の地である上、この地唯一の知り合いと言ってもい

い姉は、ご主人様の言いつけで手が塞がっているらしく、頼ることができない。周囲には使

えなさそうな男達ばかりだ。これらは手を貸せといえば喜んで手を貸すだろうが、返礼とし

てそんな連中の相手をするのも面倒くさい。道具として人間を切り捨てられれば、何の問題

もなく解決できたのだと思うと、中途半端にとがった自分の性格が恨めしい。



 つまり、最悪なことに……手詰まりなのだ。姉の手が空くのを待つか、プライドを捨てて

タクシー乗り場まで歩くか、同じくプライドを捨て、さえない男の手を借りるか。頭に浮か

ぶ選択肢には、ロクなものがない。しかし、姉の手が空くのを待っていては、いつになるか

分からない。彼女達姉妹がが仕えているのはとある有力な一族なのだが、その中でも姉のご

主人様は変わり者ということで有名なのだ。一日中拘束されていたとしても、彼女は何も不

思議に思わない。



 つまり……ここを脱出したければ、歩くか、借りるか、その二択しかない。全くもって、

最悪だ。



 しかし、背に腹を変えることはできない。いつになるか分からない物を待つのは、心に余

裕がある人間ならば詩的で素晴らしいことなのかもしれないが、生憎と彼女の心は仕事が関

わらない限り、猫の額よりも狭いのだ。待ってはいられない、いられないのだが……



 天を仰いで、ため息をつく。



「最悪……」



 最後に運命を決める何者かに悪態をついてから、彼女は覚悟を決め、適当に先のうちのど

れかを実行に移そうとした――その時、である。




「ちょっと、そこのあんた」



 目の前を通った黒い人影に、彼女は反射的に声をかけていた。



「……なにか?」



 駅から出てきたばかりの無愛想な黒い男は、彼女を見て怪訝そうに首をかしげた。記憶に

ない女から声をかけられたことを疑問に思っているようだ。しげしげとこちらを眺める視線


には、周囲の男のような下世話な視線はない。ホモなのか……という考えが彼女の脳裏をよ

ぎったが、それならそれで都合はいい。



「ちょっとヒールが折れて困ってるの。肩を貸してくれない?」

「構いませんよ。どちらまで?」



 声をかけたのが唐突なら、答えもすぐだった。考えた様子すらない。彼女が周囲の視線を

集めることが当然と思っているように、黒い男も彼女に手を貸すことが、当然と思っている

ようだった。これには、彼女の方が少し面を喰らう。



「どうしました?」



 肩を貸しやすい位置に移動した男の、深い黒の瞳がこちらを覗いている。よくよく見れば整った

顔立ちだ。職業柄、顔の整った男は何人も見てきたが、目の前の男は今まで会

った中で五指に入るかもしれない。最悪の中で、とんだ幸運を見つけたものだ。知れず、彼女の

顔には笑みが浮かぶ。



「何でもないわ」



 喉の奥で笑いながら、男の肩に腕を回す。体が触れ合って、そこで初めて男の体に緊張が走った。

顔と立ち振る舞いから場数は踏んでいるものと思っていたのだが、実は女慣れしていないらしい。

洗練された振る舞いとはギャップのある光景に、彼女の笑みはますます深くなる。この男は面白い、

と確信する。



「あぁ、そうそう、自己紹介でもしましょうか。あたしはイレイン・エーアリヒカイト。一応、ドイツ

人よ」

「高町恭也です。その……あまりくっつかないでいてくれると、嬉しいのですが……」

「それは、出来ない相談ね」



 これ見よがしに、体を男――恭也に密着させる。さすがに驚いて離れるほどではなかったが、端整な

顔は、面白いくらい真っ赤に染まっていた。



























 顔から火が出るような思いをしながら、駅前で出会ってしまったイレインを近くの喫茶店

に運び、彼女のハイヒールを預かって、近くの靴屋に駆け込む。飛び込んできたこちらに、

靴屋の店主は何事かと目をむいたが、事情を話すと映画のようだと笑いながらハイヒールを

修理してくれた。代金をまけてくれたのも、学生の身にはありがたい。



「上手くやれよ」



 と、親指を立てる店主に礼を言い、今更ながらに無駄な苦労を背負い込んだと思いながら、

イレインの待つ喫茶店に走る。



 いらっしゃいませ、と寄ってくる店員を手で制し、イレインの元へ。彼女は紅茶のカップ

を揺らしながら、窓の外を退屈そうに眺めていたが、恭也がやってきたのを見ると、笑顔を

浮かべた。その笑顔に、クラスメートのとある女子にも感じる『厄介ごとを運んでくる』性

質見た恭也は、静かにため息をついた。



「レディを前にため息は、失礼なんじゃない?」

「あまり女性の扱いに慣れていないもので、申し訳ないです」


 適当な受け答えをしながらイレインにハイヒールを手渡し、タイミングを見計らってウェ

イトレスを呼び止め、紅茶を注文する。出鼻をくじかれた形になったイレインが不満そうな

顔を浮かべたことに満足しながら――はかせろ、とても言うつもりだったのだろう――改め

て彼女に向き直る。




「さて……質問してもよろしいですか?」

「あたしを口説く? あんたじゃちょっと経験不足だと思うけど?」


「そんな大それたことはしませんよ」


「それ、あたしに喧嘩売ってる?」


「滅相もない……」



 女ってのは難しい、と思いながら苦笑を浮かべる。



「違っていたら申し訳ありません。エーアリヒカイト、ドイツ人と仰っていましたが、ノエ

ル・エーアリヒカイトさんのお知り合いですか?」

「……ノエル・エーアリヒカイトは、私の姉よ。なに? あんたこそ、姉さんの関係者?」

「関係者、というほど深い関係ではありません。彼女の主の月村が、俺のクラスメートで、

その関係で何度かお会いしたことがあるだけです」

「クラスメート? 月村の家の執事かと思ったわ」

「俺は、間違いなく学生です」

「日本人にしては、面白い冗談ね」



 ならば、何と言えばいいのだろうか。運ばれてきた紅茶を飲みながら、イレインを眺める。

ノエルと姉妹と言うが、どちらも絶世の美女である、ということを除いては共通点が見られ

ない。が、何か……似ていないはずの二人に、共通する雰囲気を感じた。



「お仕事は、メイドですか?」



 その問いに、イレインは目を丸くした。心底驚いた子供のような表情に頬を緩めると、彼

女は苦虫を噛み潰したような顔で、そっぽをむく。



「何でそう思うのよ」

「ノエルさんに、通ずるものを感じました。それでおそらく、と思ったのですが、違います

か?」

「違わないわ。私と姉さん、同じ学校に通ったのよ」

「どうりで……」

「ねえ、私と姉さん、似てる? 生まれて初めてよ、そんなこと言われたの」

「雰囲気……ですかね。容姿はそれほどでも――ああ、気を悪くしたらすいません」

「似てないって言われるのはいつものことよ、別に気は悪くしないけど。今の発言でますま

す、あんたの学生身分が冗談に思えてきたわ。あんたは何? チャイニーズ・センニン?」

「仙人が学生をしているほうが、よほど冗談ですよ」

「冗談の塊が何生意気言ってんのよ。あたしが初めてじゃないでしょ? あんたに学生に見

えないって言ったの」

「不本意ながら、よく言われます……」

「もう少し、己を知りなさい。余計なお世話で言っておくけど、そんなんじゃこれから先苦

労するわよ」

「お気遣い、痛み入ります」

「だから、余計なお世話で言ったんだって。感謝なんてされたら、こっちが困るわ」

「……なら、俺は何と答えれば良いのですか?」

「あたしに聞かないで、自分で考えなさい」

「難しいですね」

「そんなもんよ、人生」



 禅問答のような問いに、恭也は二度目のため息をついた。本音を言えばさっさとこの場か

ら立ち去りたいのだが、どうすれば逃げられるのか、その答えが頭に浮かばない。逃げよう

としていることがばれたら、それはそれでロクでもないことになりそうだ。



「ねえ、あたしからも質問があるんだけど」

「答えられることなら、何でも構いませんよ」



 聞かれたことに答えるだけならば、自分で言葉をひねり出すよりも、簡単だろう。そう思

って何も考えず、気軽にそう答えたのだが――



「姉さんのこと、女としてどう思う?」



 イレインは何とも、答えにくい質問をしてきた。



「どう……とは?」

「付き合って……いや、抱いてみたいと思う?」

「どこからどうなって、そんな質問をしようということになったのですか?」

「前から不安に思ってたのよ。姉さん、あんな性格だから行き遅れるんじゃないかってね。

そんな姉さんを見たくないかって聞かれたら、そりゃあ嘘になるけど、これでも一応妹だし」

「姉の立場を思うのは素晴らしいことだと思います。が、それがどうして俺に?」

「おそらく、今の姉さんに一番近い男が、あんただからよ」



 びしっ、と鼻にかするくらいの距離に、イレインの指が突きつけられる。高圧的なその仕

草が妙に絵になっていたが、恭也は姿全体よりも、メイドなのに綺麗なその指先に何となく

見とれていた。パティシエたる母、桃子の手はここまで綺麗ではないのだが、特別な手入れ

の方法でもあるのだろうか……



「…………さすがに、それはないと思いますが」



 全く別のことを考えていたと悟られないように、イレインの手を退けながら、答える。



「姉さん、趣味らしい趣味がないから、主人にでもつかなければ外には出ないし、家にいた

らいたで仕事でしょ? 学生の時は言い寄ってくる男もいたけど、そんなのは全部無視して

たしね。頼みの綱の主は学生だから、出会いがあるとしたら『待つ』しかないのよ。あんた、

自分のほかに男が月村の家にいるの、見たことある?」

「………………ありません」



 辛うじて、同じくクラスメートである赤星が忍と仲がいいと言えなくもないが、剣道部に

所属している彼は、月村家に行くときには都合が悪いことが多く、ノエルと言葉を交わした

ことは、数えるほどしかなかったはずだ。



 答える恭也に、イレインはでしょ? と満面の笑みを浮かべた。



「だから、あんたに聞くのが一番だろうって、そう思ったのよ。で、どうなの? 姉さんの

こと抱きたい?」

「俺では、ノエルさんには不釣合いですよ」

「そうは思えないけどねぇ……姉さん、真性のマゾだから、あんたみたいなタイプが迫った

ら喜んでご奉仕するわよ?」

「あー、その……信じられません」



 不覚にも、その『ご奉仕』するノエルをリアルに想像してしまった恭也は、顔が熱くなる

のを感じた。答えそのものは否定的だったが、その反応が気に入ったのだろう。イレインは

笑みを小悪魔のようなものに変えて、再び指を、今度は恭也の鼻先に触れさせる。



「なら、賭けましょうか」



 鼻先にあった指はゆっくりと恭也の胸に移動し、



「あんたが姉さんに迫って、何もなければあんたの勝ち。何かあったら、あたしの勝ち。そ

れでどう?」



 小突かれる。今日知り合った美女のそんな仕草に、恭也は胸の高まりよりも不吉なものを

感じた。何故だろう? この女性には、関わってはいけないような、そんな気がしてやまな

い。



「俺にも貴女にも、メリットがないように思うのですが……」

「あたしが勝てば、姉さんは貴方のもの。あんたが勝ったら……そうね、あたしが一晩、あ

んたに付き合ってあげるわ。失敗したとしても、私がフォローいれてあげる。その時は――」



 空いた方の手で、イレインは懐からテープレコーダーを取り出す。器用に操作し、再生…

…先ほどの二人の会話が、かろうじて聞き取れるほどの音量で流れる。



「これを証拠にすればいいわ。何でそんな賭けになった、なんて詰め寄られたら、あたしに

無理やりやらされた、とでも言えばいいわ」



 手の中で一頻りそれを弄ぶと、イレインはテープレコーダーごと、恭也の手に捻じ込んだ。

突っ返す理由も咄嗟には思いつかず、渡されたそれを持て余したまま、恭也は何となく口を

開くが――



「それは――」

「遠慮する、なんて言ったら半殺しにするわ。あたし、自分に恥をかかせる人間を許せるほ

ど、人間できてないの」



 自分の状況に気付き、ぴたり、と動きを止める。突き付けられたイレインの腕には、いつ

の間にか、ナイフが握られていた。それほど大きなものではないが、拵えと存在感が、それ

が喫茶店には在らざるものだ、と主張している。間違いなく、彼女が持ってきた彼女のもの

だろう。どこに隠していたのかまでは知らないが、気付かれぬようにそれを抜き、気付かれ

ぬように突き付けられた。高町恭也はこう見えて、腕に自信がある。それを出し抜いてまで

この状態を成す技量が、悔しいことに目の前のイレインにはあるらしい。



 さて……このまま断ったからと言って、殺されるということはまずないだろう。彼女の姿

は人目につくし、ここで死体が一つできあがってしまっては、流石に誤魔化しようがない。

それは彼女が正常な思考ができるという前提の考えだが、イレインが常識に生きる人間か、

それとも狂人かと問われれば、恭也は前者を推すつもりでいる。つまり、ここでデッドエン

ドはない。



 そうなると、このナイフには客観的に見た『命が握られているという事実』以外に、価値

がない。つまるところイレインは……このナイフが、関係のない人間に見つかる前に返事を

寄越せ、そう言っているのだろう。



 心臓が高鳴る。それは、どういった意味での、緊張、そして興奮なのか……





「…………分かりました。詳しい話を聞きましょう」





 たとえそれがどういった類のものであったとしても、小悪魔の誘いに乗った恭也には、あ

まり関係のない話だった。









































 イレインが指定してきたのは、それから二日後のことだった。場所は月村の屋敷である。

彼女の職業がメイドということまでは、直感で見抜いた――見抜いてしまった恭也だったが、

その勤め先がノエルに同じ、月村の屋敷ということまでは考えもしなかった。本人は臨時雇

いだと言っていたが、それにしたって、しばらくは海鳴に逗留することになるのだろう。話

の転がり方によっては、永住することもありえる。



 そう考えると、胃の奥がきりきりと痛んだ。ああいったタイプの女性には、とにかく相性

が悪いのだ。嫌い、ではないのだろうが、体が本能的な危機感を覚える。何か前世からの因

縁か忘れている過去でもあるのか……いずれにしても、厄介なことに違いはない。できるこ

となら、さっさと故郷のドイツにお帰り願いたいところではあるが、



「無理なのだろうな、やはり……」



 誰にともなく呟き、ため息をつく。こういった望みが叶ったことは、一度としてないのだ。



 しかし、ぶつぶつと文句を言ってばかりでは、何物も始まることはない。ここでしらばっ

くれたら、それこそ待っているのは地獄だ。何を期待するのも、とりあえず今日をやり過ご

してからでも、遅くはない。



 身なりを正して、咳払い一つ。目の前にあるのは、月村家の門だ。主である月村忍は、今

はここにはいない。今日は商店街をうろついて、細々とした身の回りの物を買う予定である

らしい。普段であればそこにメイドのノエルが付き従うのだろうが、今回その役目はイレイ

ンが負っている。海鳴の地になれない彼女に、地理を覚えてもらうという意味があるらしい

が、彼女と、ついでに言えば恭也にとっては、まさに絶好の機会となった。今この家には、

目当てのノエル、一人しかいないのだから。



 今までの人生で最大級の決意を込めて、呼び鈴を押す。待つこと、しばし……



『…………高町様、ですか?』

「……はい」



 いきなり名前を呼ばれたことで、少し反応が遅れた。不自然ではなかっただろうか。機械

の向こうでも、主のいない今、何故自分がここにいるのかと不思議に思っているのか、普段

行動に淀みのないノエルにしては、珍しく間が空いている。



『どういったご用件でしょうか。忍お嬢様は今、外出中なのですが……』

「ん、話は聞いていませんか? 俺は月村に呼ばれたのですが……」



 無論、嘘だ。忍には何も告げずに、恭也はここに来た。事前に説明して、万が一にもノエ

ルに情報が漏れるのはまずい、とイレインが判断したからなのだが、こういったこと――忍

に言わせれば、面白そうなこと――を彼女に知らせないことの方が、恭也にはまずいことの

ように思える。後から上手く説明するとイレインは言った。それを信用したのは自分だが…

…今、自分の立っている場所が、人生の底なし沼であるような気がしてならない。



 賭けを持ちかけたのは、イレインだ。自分は脅されたとはいえ、考えた末にそれに乗った。

断ることも、できた……今更ではあるが、そう思う。つまり、自分で選んだ行動、そして結

果なのだ。後悔はしていないが……



「……思えば、バカな選択をしたものだ」

『何か仰いましたか? 高町様』

「いえ、猫が近くを通ったもので、それだけです。それよりも、どうしましょうか……月村

が帰ってくるまで、その辺をうろついていても構いせんが」



 ここで追い返されれば、イレインの計画はご破算だ。そうなることが、一番面倒がなく、

また笑い話で済ませることもできる。しかし、イレインは間違いなく『そう』なると言い、

そして恭也はなんとなくだが、『そう』なると思った。



『主を訪ねていらした大事なお客様を追い返す、そんな教育を、私は受けておりません。間

が空いてしまって、失礼いたしました。門をお開けしますので、お通りください』



 そして事実、『そう』なってしまったのである。かくて、メイドの鑑であるノエル・エー

アリヒカイトは、訪ねてきた嘘つき狼に対して、月村の門を開けてしまった。。



その門を通り、本邸までの道を歩きながら、思う。



(さて、本当に彼女の言う通りになるものだろうか……)































『あんたに覚えてもらう台詞は、たった一つよ。それ以外は、適当に相槌を打ってなさい。

姉さんもそういうことしか聞いてこないだろうし、あんたから話かけることも、多分ないで

しょ?』





「先ほど、忍お嬢様から連絡がございました」



 月村邸に足を踏み入れてすぐ、いきなりノエルが予定にないことを言ってきた。ドッキリ

の気配を感じた恭也は、ドアを掴んだ手を離さぬまま、回れ右して猛ダッシュできるように、

足に力を込めるが、



「約束を忘れていて、誠に申し訳ない……とのことです。用事が済んだらすぐに帰るとのこ

とでしたので、お茶でも飲んでお待ちください」



 それは、杞憂に終わった。そして伝言の内容から、今はここにいないイレインが忍を抱き

込んだことを察する。どうでもいい予感ばかりが、ずばずばと当たる。事実上、これで逃げ

道は完全に塞がれてしまった。





『姉さんはお茶でも飲みなさい、とか言って応接間に案内しようとするわ。でも、そこまで

行っちゃ駄目だからね? そこに行く前に決めなさい』





 適当に相槌を打ちながら、イレインの『指示』を頭の中で反復する。特に注意点を念入り

に復唱しながら、疑問に思う。これで、成功するのだろうか……





『するのよ。あんたはどうせ、今までまともに女と付き合ったことないだろうから、考えた

って分からないの、考えても無駄なのよ』





 無駄らしい。しかし、不安なものは不安なのだ。フォローをしてくれるとイレインは言っ

たし、嗾けられた証拠も持ってはいるが、それは事後の対処であって、今現在の成功率を上

げるものではない。何を思って何を持っていても、それは今の恭也の不安を和らげてはくれ

ないのだ。





『だから、簡単な方法考えてやってんじゃないの。あんたが口が達者なら、ムードの作りよ

うもあるけど、あんただからね……まぁ、姉さんの性格と、姉さんに対するあんたのキャラ

付けを考えたら、やっぱり簡単な方法で行くのが最良なんでしょうけど』





「高町様?」



 足を止めたこちらを、ノエルが不思議そうに振り返る。肩越しに客人を見るなどというこ

とを、真のメイドはしない。体ごと振り返るノエルに合わせ、自分の歩幅にしておよそ十歩

の距離で足を止めていた恭也は、作戦の決行のためゆっくりと、ノエルに近づいていく。





『近づくのはゆっくり、よ。一歩ずつ近づいて、その時には、姉さんの顔から目を逸らさな

いように。目を逸らしたら負けだと思いなさい』





 じ、とノエルの瞳を見つめる。綺麗な、青い瞳だ。黙って寄ってくる自分に対し、戸惑い

の色があるが、問いただしたり、逃げようという気配はない。





『手が届く距離まで、姉さんは絶対に逃げないから。そこまで近づいたら、勝負よ。姉さん

が何かを言う前に肩を掴んで、手近な壁に押し付けるの。ここでも絶対に目を逸らしたらい

けないし、絶対に『何も言ってはいけない』わ。理解した?』





 この上もなく具体的で簡単な指示を、恭也は忠実に実行する。戸惑ったままのノエルの細

い肩を掴み、壁に押し付ける。



 強くやりすぎたのか、押し付けた瞬間、ノエルが少しだけ苦しそうな表情を浮かべる。が、





『強くやったら、それは御の字よ。姉さんが怯んでる隙に、顔を少し近づけるの。で、台詞。

これが一番重要だからね。タイミングを教えるから、その通りに言いなさい。3、2、1―

―』





「…………ノエル」



 この一連の作戦で、たった一つの恭也の台詞が、これだ。この世で一番ノエルを知ってい

るらしいイレインが、絶対の自信を持って恭也に押し付けた言葉。その言葉は、恭也がつい

ぞ想像したことのない効果を、ノエルにもたらす。



 ノエルの頬が、朱に染まった。それはもう、漫画みたいに一瞬で、面白いくらいに。



 逆に、ここまで勢いで乗り切ってきた恭也は、風高のクラスメートなら狂喜しそうな、自

分を見つめ、頬を染める美人なメイドさんという光景を前に、普段の冷静さを取り戻してい

た。出来すぎている……美由希の部屋にある胸焼けしそうな漫画のようなこの展開は、一体

何なのか。



 しかし、勢いでここまできてしまった以上、撤退するためにはそれ以上の勢いと、さらに

それを上回る機転が必要だ。ボキャブラリーか、運か、協力者か……だがそれらはいずれも、

今の恭也には欠けているものだった。



(勢いに任せるか……)



 半分以上投げやりな気分で、イレインからの指示を思い出す。





『ここからは持久戦よ。目を逸らさずに、じっと姉さんを見つめるの。顔の距離はそのまま。

近づけすぎでも、遠すぎてもいけないわ。最初の距離を保ったまま、じっと姉さんを見つめ

なさい』



 指示の通りに、ノエルを見つめる。赤くなったノエルは、しかし視線を逸らすことなく、

恭也を見つめ続ける。メイドとしての義務感とかプライドとか、そういった物が彼女を支え

ているのだろうが、それはゆっくりと進む時間に合わせて、ゆっくりと崩れ落ちていく……





「…………高町、様?」



 まるで熱病にうかされたような、弱々しい声がノエルの口から紡がれた時には、時計の秒

針が一周するほどの時間が経過していた。





『しばらくしたら、姉さんはあんたの名前を呼ぶわ。そうしたら後はもう、姉さんを抱きし

めて、一気に行きなさい』

『一気に……とは?』

『行けるとこまでよ! 思いつかないなら、姉さんに任せなさい。姉さんをよく観察して、

最初に頭に浮かんだことをするの。何も考えずによ? 考えたら、どうせあんたは失敗する

んだから……いい? そうなったら、何も考えずに、一気に行きなさい!』





 ここまで来ると、指示にはもはや具体性がなくなっていた。落ち着いて思い返せば苦笑で

もしたのだろうが、腕の中にはこちらを見上げ、頬を染めたメイド姿の美女……一度は冷え

た心も、今では嵐の海である。



 そのメイドが、ゆっくりと目を閉じた。枯れているだの、朴念仁だの言われ続けた恭也も、

流石に子供ではない。こういう状況で、目の前でこういう仕草をされることが何を要求され

ているのか、反射的に理解できる程度には常識としてそれを知っていたし、躊躇いなくそれ

実行できる程度には、冷静さを失っていた。



 イレインの言葉を思いかえすまでもなく、恭也はこの時点で思考を放棄していた。





 恭也と、ノエル。その距離が段々とゼロに近づき…………












































『おめでとー!!』



 突然部屋に押し入り、それはもう楽しそうにハイタッチする同級生と金髪メイドを見て、

湧き上がってきたのは虚無感だった。ちら、とつまらなそうに『ベッドの上』から目をやる

と、はぁ〜、と深い深いため息をこれ見よがしにつく。



「作戦には絶対の自信があったけど、まさか、ここまで上手くいくなんて……流石、私の姉

さん」

「流石、私のメイド。でも、嬉しいなぁ。ノエルは絶対、私のせいで行き遅れると思ってた

のに、こんないいお婿さんを見つけてくるなんて!」

「話が飛躍しすぎだ、月村。人の将来を、勝手に決めるな」



 当たり前のことを、当たり前のタイミングで言ったつもりだったが、何を勘違いしたのか

忍は『またまたぁ〜』とパタパタ手を振り、裸の恭也の肩をバシバシ叩く。



「心配しないでよ、高町君。ご家族には私の方からちゃんと連絡しておいたから。翠屋は臨

時休業にして、今、お赤飯を作ってもらってるところよ!」



 咄嗟に放った抜き手を、これまた当たり前のようにイレインが片手で掴む。



「準備が出来次第、車をやることになってるから、その時までには姉さんたたき起こしてお

いてね? 私がやってもいいけど……ご主人様の言葉の方が、効果もあるってもんでしょ?」

「…………一応、聞いておきますが? 貴女はどこまで知っているのですか?」

「聞きたい?」



 こちらの手を握ったままイレインはにやりと笑い、懐から大きく『録画、コピー』と書か

れたテープを取り出す。



「いえ、やめておきます……」

「今の高町君、煙草とか似合いそうだよね。吸ってみる? 必要になるかも、と思って用意

してみたの」



 言って、忍はイレインの手に下がっていたコンビニ袋から、口の空いた煙草の箱を取り出

す。箱にfrontierと書かれたそれを、口の前に出されたからという理由で、口に咥える。絶

妙のタイミングでライターを出すイレインに視線と共に殺気をぶつけてみるが、彼女は堪え

た様子など微塵もみせず、視線で感想を問うてくる。



 一度、大きく息を吸い込み、大きく吐く……



「まずいな……」

「それが苦み走った大人の味ってもんよ」

「ならば俺は、今しばらくは子供のままでもいいです」

「だから、こんな馬鹿な賭けに乗っかるのね。でも、それで姉さんなんていい女をモノにで

きたんだから、あたしには一生感謝しなさい」



 向けるものが感謝かどうかは自信がないが、とりあえず、彼女のことは一生忘れることは

できそうになかった。これから大人になっても、年をとっても……どうせイマワノキワまで

彼女は何故かそこにあり、自分に幸福な不幸を押し付けてくる、そんな予感がひしひしとす

る。



 煙草を咥えたまま、傍らで寝息を立てるノエルを見る。彼女が起きたら、何をするよりも

先に、言い含めておかなければならないことがある。それを望んだのは自分だったのか、ノ

エルだったのか、ついさっきのことなのに、したことそのもの以外は、忘却の彼方だ。



「どうしたの? ご主人様。顔色が悪いわよ?」



 金髪の、メイド服を来た悪魔が、背を反らしてこちらを見下ろしている。メイドよりも女

王のようなイレインを見やると、彼女は洗練された動作で灰皿を差し出した。



 灰を落とし、彼女を見上げる。



「で、あんた。あたしに何か言うことはないの?」

「…………もし、俺が失敗してたら、どうしてました?」

「決まってるでしょ?」



 灰を落とした煙草を手品のように奪い取り、触れそうな距離にまで顔を近づけると、煙を

はぁ、と吐き出す。



「指をさして笑って、それから手篭めにしてたわね」

「一言、言いたいことがあるのですが、いいですか?」

「何でも言ってみなさい。言ってからのことは、保障しないけど」

「今更保障はいりません。だからお願いです、よく聞いてください」



















「貴女は、悪女だ」





 その言葉を聴いたイレインは、腹の底から声を上げて笑った。笑いながら、涙の浮かんだ

顔で恭也を見、不器用に口の端を上げて、応える。





「今更ね。よく言われるわ」




















あとがきです


唐突に書きたくなったので、勢いで書いてしまいました。
エロシーンは脳内展開していたのですが、書けませんでした……
文章を書き始めてから書き上げるよりも、エロシーンを考えていた時間の方が遥かに長い、
そんな気もします。

そんなエロシーン想像できた方は自信を持ってください。それが多分、正解です。


あと、短編ですので続きません。
が、この後恭也は月村家のSPになり、就職すると同時にノエルと結婚。二人の女の子を授
かり、幸せな家庭を築きます。続きませんが、そこまでは考えました。
それだけです、はい……