「逃げてるのか、追ってるのか、分からなくなるまで〜」

「私をみて、もっと深く、溺れ乱れ蜜地獄〜」

「…………」



 人形達が、目の前で歌っている。



 事実だけを見れば怪奇現象もいいところだが、その人形達は人間の少女の見紛うばかりで

あり、かつ見目も麗しいとなれば士郎も男の端くれとして、決して悪い気はしないのだが…





 それでもため息をついてしまうのは、自分だけが悪いのではないと思いたい。



「なぁ、出来れば他の歌にしてくれないか?」

「なによぉ、マスター。私の歌に不満があるのぉ」



 控えめな士郎の抗議に、少女人形の片割れ――水銀燈が、夏の暑い日に蟻を潰すことを至

上の趣味としている少女が、ふいに蟻の行列を見つけた時のようなサド色全開の笑みを向け

てくる。



 冗談のような展開から確かな死の予感を感じとり、士郎の背筋につつ、と冷や汗が伝った。



 もう一人の少女人形――蒼星石の捨てられた子犬のような目が、良心に痛い。ここで間違

った答えを返したら異次元の道場に強制連行だ。間違った選択肢は選べない。



「ない……と言ったら嘘になるな。でも、歌ってくれてることそのものには不満はないぞ?

お前ら、歌は上手いいな。でも出来れば、もっと穏やかな歌にしてほしいと思うんだけど…

…」



 『駄目か?』という、士郎の当たり障りのない答え兼要望に、水銀燈は聊か不満そうでは

あったものの、彼女は一応のマスターである彼の言葉を受け入れたようだった。



 切れ長の目を細め、中空に彷徨わせる。



「もっと、静かな歌がお好みなのかしらぁ」

「そりゃあ寝る前に聞く歌だからな。出来たらいい夢を見れそうな、静かな歌がいいと俺は

思うぞ」



 歌い手には何も問題はないのだし、さっきも歌だけを取り上げれば士郎にも別に不満はな

かったのだが、何故だろう、アレをそのまま聞き続けたら悪夢にうなされそうな、そんな気

がしてならなかった。



 やがて、考えがまとまったらしい水銀燈は、隣の蒼星石と何事かを打ち合わせると、ゆっ

くりと歌詞を紡ぎだした。



「触れた、指先、心、灯して」

「流れ出した旋律、愛を、望む」



 また呪われそうな歌詞が出てくるのか、とも思ったが、少女人形たちが紡ぎ始めたのは実

に穏やかで、静かな曲だった。癒しの力でも宿っているかのような、その歌の中で士郎は静

かにまぶたを閉じる。



 赤い悪魔の来訪を明日に備え、迎える準備も万全。英気を養うために今日は早めに寝よう

と、蒼星石達の就寝時間に合わせて床についたものの、遅寝早起きが習慣になっている士郎

にとって、午後九時の就寝はどうにもキツい。



 そこで彼女らに何か助けになるものはないか、と問うてみたのだ。提案されたのは子守唄。

最初に用意された歌は何と言うのか……控えめに言って、士郎の趣味には合わないものだっ

たが、今耳に届いている曲は彼の知らない曲ではあったが、とても耳に心地よい。



 人形である彼女らが、一体どうしてそういうった歌を知ったのか、聞きたいことは尽きな

いが、それを聞くのは自分達の身の安全が保障され、落ち着いた時間が取れるようになって

からでも遅くはないだろう。



 自分のような出来損ないがいくら知恵をめぐらせたところで、あの『あかいあくま』に勝

てるとはどうしても思えないが、やれるだけのことはやってみようと思う。



 図らずもマスターになってしまった、彼女達のために。ついでに、正義の味方として。危

機を前にして逃げ出すようでは、正義の味方などやっていられない。勝てない戦いでも、抵

抗することには意味があるのだ……戦う前から挫けそうな心を奮い立たせるように、薄目を

開けて彼女らを見やる。



 どうして自分なんぞのところに来てしまったのか、と嘆かずにはいられないくらいに、彼

女達は可憐だった。各々タイプは違うが、たとえ人形に興味など欠片もない人間が相手だっ

たとしても、我を忘れて見入らずにはいられないくらい、彼女達には存在感があった。



 そんな彼女達が、自分をマスターと呼び、慕ってくれている……つい最近、似たようなこ

とがあった気がするが、それでも他人に頼られるというのは、男として悪い気はしない。そ

れがかわいい女の子であるのなら、尚更である。



 彼女達が人間でない、ということは士郎には関係がない。女の子は守るべし、というのが

彼の持論であり、人生の命題の一つでもある。青臭いとは自分でも思うが、それを愚かだと

は思わないし、変えようとも思わない。それが正義の味方というもので、それが衛宮士郎と

いうものなのだ。



 それにきっと、こういう微妙な無理難題を抱えることが、何者かによって定められた正義

の味方の決まりなのだろう。あるいは、衛宮士郎の人生における決まりなのか……いずれに

せよ、多少気をつけたところで回避できそうなものではない。



 ならば、解決すべき問題が向こうから来てくれているのだと解釈すれば、先の聖杯戦争に

端を発した受難体質に対しても、諦めが付くというものだ。そのおかげで蒼星石達に会えた

のだとすれば、その何者かに感謝こそすれ、恨み言を言う筋合いはない。



『夢の終わり ただ、君だけを願う』



 いくら悩んでもなれないのか、頭を使って色々考えたせいで少し疲れた。



 その日、衛宮士郎は日常生活において、実に五年ぶりに日付が変わる前に眠りについたの

だった。

















「ぐるぐる、ぐるぐる……」



 上も下も、右も左も、何もない空間で少女が舞っている。



 髪も服も、身にまとう全てが白く、肌も病的なまでに白い。右目には薔薇を模した眼帯…

…のようなもの――士郎の目には、それが目から直接生えているように見えた――残った左

目は、一度遠坂邸で見た、魔術的価値のある宝石のように何もない空間において輝きを放っ

ていたが、その焦点はどこかずれており、士郎を含めた周囲の全てを気にかけている様子が

ない。





 五分、待って見た。





 向こうから話かけてくる様子はない。白い彼女は『ぐるぐる』と自分で擬音語を呟きなが

ら、士郎の前で回っている。敵意は、不気味なまでに感じられない。それどころか、ここに

衛宮士郎という人間がいるということを認識しているのかすら、怪しい。



 路傍の石以下の扱いだった。打たれ強く気が長い方だと自分でも思っているが、ここが何

処で何故こんなところに自分がいるのかもわからない状況で、唯一の手掛かりの少女に無視

され続けることは、耐えられそうになかった。



 明日に備えるために珍しく早寝なんてしたのだ。こんなところで無駄に時間を使っては、

何のために鍛錬の時間を削ったのか解らない。





「なぁ、お前はなんだ、その……ローゼンメイデン?」



 周りながら、少女はこくり、と小さく頷いた。蒼星石から、彼女の姉妹たちの名前は一度

聞いたことがある。衛宮邸に二人、ロンドンに三人、残っているのは二人で、彼女の容姿か

ら推察するに――



「お前は、薔薇水晶か?」



 ふるふる、と白い少女は首を横に振った。絶対に近い確信を持っていた士郎は、その反応

の面くらいながらも、もう一人の姉妹の名前を口にする。



「じゃあ、金糸雀?」



 また、ふるふる。訳がわからない。



「…………なんでさ」

「彼女は、私達の姉妹ではないもの」



 何もうつさない、白い少女の瞳が初めて士郎に向けられる。その言葉には力なく、そよ風

でも吹いたらかき消されてしまいそうなほどだったが、呪詛でも込められているかのように、

その言葉は士郎の内側に入りこんでくる。



「金糸雀は、私のお姉さま。でも薔薇水晶は、お父様の娘ではない」

「蒼星石には、姉妹とか言われたぞ?」

「それは……大人の事情。蒼星石の勘違い、七番目は私……」



 白い少女の動きが、ぴたり、と止まった。



「私はローゼンメイデン、第七ドール……雪華綺晶(きらきしょう)。物質に寄らず、幻の

中にしか存在しえない、七人姉妹の末の妹」

「幽霊の仲間とでも言うつもりか?」

 

 ローゼンメイデンは神秘であり、魔術に関わりのない人間からすれば十分に怪奇現象だ。

イメージとしての幽霊とは、あまり違いがあると思えない。質問として、それは凄く滑稽だ

った。



「遠くはない。でも、それは間違い。私はお父様によって、作られた。一つの目的のために。

至高の乙女を生み出すために」



 雪華綺晶は再び回りだす。ぐるぐる、ぐるぐる……



「物質によらない精神としての存在、それが私。それでも、至高の乙女にはなりえなかった。

だから姉妹は戦う。至高の乙女になるために、それがお父様の望みだから」

「お前も、まきますか? まきませんかと、俺に聞くのか……」

「聞かない。貴方は必要ない。私にとって価値はない」







「私が求めるのは、私としての器」

「でも、貴方の器は満たされている」

「それは、狂気。それは、剣」

「戦うための感情。その感情のために、貴方は戦う」

「感情の名前は、正義。でもそれは、貴方の中で歪んでいる」

「歪んだ正義は、貴方の器を満たしている。だから幻としての私は、貴方の中に入れない」

「私は貴方を必要としない。貴方もきっと、私を必要としない」

「だから貴方に価値はない。貴方は私の、螺子をまけない」







「私は幻、貴方の前に現れただけの、ただの幻。起きたら消えてしまう、ただの幻」

「蒼星石達には会っていかないのか?」

「姉妹の気配が私と貴方を引き合わせた。でも、それだけ。貴方では私のマスターにはなれ

ない。貴方の望みは叶っているもの。私が貴方に与えるものは何もない……だから私は、も

ういくの」



 そうして、雪華綺晶は回ることをやめた。



 視線は士郎から外さぬまま、空気に溶けて消えてしまいそうな声は、いつまでも士郎の中

に響く。



「さようなら、歪んだ正義。この出会いには、価値はなかった」



 雪華綺晶の、姿が消える。右も左も、上も下もない空間から、段々と彼女の気配が消えて

いく。



「ちょっと待て!」



 女性が自分の話を聞いてくれないのはいつものことだが、本当に言いたいことだけを言っ

て消えた白い少女は、その中でも格別だった。



 待ってくれるという保障はない。それどころか、答えてくれるかも解らない。



 だが、士郎は問いを――









「……………………」





 かけなかった。いや、かけられなかった。



 何か問いたいことがあったから声をかけたはずなのに、それが何なのか思い出せない。言

葉にできない苦しみを抱えたまま、白い少女の気配はさらに希薄になり、そして消えた。



 それに従い、士郎の意識も闇に沈んでいく。



 待ってくれ、と士郎は叫んだ。聞きたいことがある。言いたいことがある。白い少女をこ

のまま行かせてはいけないと、自分の中の正義が叫んでいるのだ。



 歪んでいると断ぜられた感情が、彼女を行かせてはいけないと言っている。しかし、その

声は届くことはない。衛宮士郎の中で燃え上がったその思いは、彼の中で完結する。



 やがて、意識は完全に闇に沈み、士郎は再び眠りに落ちた。













 来訪者の消えたnのフィールド、名もなき世界の中、白い少女は回り続ける。



「ぐるぐる、ぐるぐる……」



 少女の名前は、雪華綺晶。誇り高きローゼンメイデン第七ドール。幻の中に存在する、最

後の人形。誰に知られることもなく、誰に理解されることもない。



 しかし、彼女は存在している。誰に理解されることがなくても、ただ己に課せられた役目

を果たすそのために。



 歪んだ、歪められた少女は、何も思わない。何も感じない。思うことも、考えることも、

至高の乙女がすればいい。そこに至っていないものは、ただ役目を果たすだけ。それ以外に

価値などなく、意味もない。白い少女に、感情など存在しない。全ては目的を果たすための

手段なのだから。



 だが、回り続ける白い少女に、小さな小さなノイズが走った。



 それは、すぐに消えて失せた。白い少女にとって、それはなかったことと同じようもの。

意味などなく、価値もない。少女はすぐに興味を失った。



 あってはならないことだ。目的を果たすために動く人形が、寂しいと思うことなど。





「ぐるぐる、ぐるぐる……」





 白い少女は、回り続ける。