lovers the another world 第一話





lovers the another world 第一話







クロノは最近、この場所で空を見つめることが多くなった。あちらにとっては異世界に

あたるここ、ミッドチルダにも変わらない空がある。なのはと同じ時を過ごしたあの世界

と変わらない、青い空。



空は一つに繋がっている、向こうの世界にいた時に読んだ書物の中にそんな行があった。

向こうでは有り触れているのかもしれないが、いい言葉だな、と思う。どんなに離れてい

たとしても、目の前にあるこの空は二人を繋いでいる。その二人がお互いを忘れない限り、

それはいつまでも変わることはない。ならば、住む『世界』が違っていたとしても、空は

二人を繋いでくれるのだろうか?



(そうね、きっと繋いでくれている…)


彼の元に歩きながら、リンディは心の中で呟いた。



思いは力になる。それはこの世界の人間であれば誰もが認識していることだ。何しろ、

それがこの世界を根本から支える魔法の原動力なのだから。強く純粋な願いほど、その力

は強くなる。それが離れていても薄れることのない小さな恋人達の願いならば、なおさら

だ。きっと、どんな願いも叶うはず…



「クロノ、どうしたの?ぼ〜っとして」

「空を見てた…」



唐突なリンディの呼びかけに、彼はそう言いながらゆっくりと振り向いた。



少年の名は、クロノ・ハーヴェイ。僅か九歳にして、ミッドチルダの中央で技術者を務

める天才だ。もっとも、彼の実力を知る者ならば誰しも今のクロノの立場を適所だとは思

わないだろう。ヒドゥンの事件の時にはリンディの代わりに議長すら勤めた彼である。そ

の才能が、一介の技術者で収まりきるはずがない。クロノが望めば、最高執政官であるリ

ンディの次席にまで登りつめることも不可能ではないし、一時はそれを望む声も少なくは

なかった。



だが、その道を進む者ならば誰もが一度は夢見るであろうその地位を好んでいなかった

クロノは、そんな声をことごとく無視してきた。地位はその名誉と同時に、クロノの時間

を拘束する。それではいけないのだ。



彼には約束がある。向こうの世界で少女と交わした大事な約束が……本当ならすぐにで

もあの少女の傍に行きたいはずなのに、責任感が彼を拘束している。なのはに会いたいの

に会えない。そういったジレンマが、クロノをこの場所へと運んでいた。



「なのはさんのことを考えていたんでしょ?」



いきなりその物を当てられたクロノは少し驚いた表情を見せたが、隠していもしょうが

ないと思ったのか、あっさりと頷いた。



「会えないのは…つらい?」



リンディのその問いに、クロノは微かな笑みを浮かべて…



「大丈夫。また会えるんだから、辛くなんてない」

「嘘ね…」



微笑みの下にある物を見通してまたも断言して見せたリンディに、クロノは今度こそ本

当に驚いて彼女を見つめ返した。普段とは違ったそのあまりにも子供っぽい表情に、リン

ディの顔にも思わず笑みがこぼれる。



「別にテレパスなんて使ってないわ。そんなの、貴方の顔を見れば分かることよ」

「敵わないな…かあさんには」

「そうよ。だって、貴方のお母さんだもの…」



春の心地よい風が二人の間を駆け抜ける。顔にかかった髪を手で払い、リンディはもう

一度クロノに同じ質問をした。



「なのはさんに会えないのは、つらい?」

「うん。本当のことを言うと、少し辛い」



照れくさそうに微笑んで、クロノはリンディを見上げる。



「会いたいよ。でも、僕にはまだ後始末が残ってる。だから、このままなのはの所に行

く訳にはいかない……」

「そうね。やりかけのままっていうのは良くないけど……」

「そうでしょう?」

「でも、クロノ。貴方はもう少し自分を見直してみた方がいいみたいね」



不思議そうに首を傾げるクロノに、リンディは微笑んで数枚の書類を渡した。クロノは

それを受け取って目を通して……



「……かあさん?」

「なあに、クロノ?」

「これは?」



不敵に微笑むリンディによく見えるようにクロノは書類を掲げて見せる。



「来期のヒドゥン対策本部。それから、技術者協会のメンバーのリストよ」

「この中に僕の名前が入っていないのは…どうして?」

「皆、貴方のことを知ってるの。向こうの世界で大切な何かを得たことをね。昨日、代

表者が私の所に来たわ。貴方を…解任したいんですって」



リンディはそのままを告げたが、クロノは書類を捲りながら渋面を作る。



「それで、かあさんはどうしたの?」



彼女がどうしたのかそれなりの察しはつくのだろう、クロノの声はどこか諦めたような、

それでいて何かに期待をかけるような物に変わっている。



「理由を聞いたらとても感動したから、ちゃんと受理したわ」



その答えも、きっとクロノの予想した通りの物だったのだろう。彼は苦笑と微笑みの中

間の表情で、リンディを見返してため息をついた。

「この国の問題は、貴女に権力が集中していることかもしれませんね…」

「でも、それでクロノが幸せになれるんだったら、私はそれでもいいと思ってる。貴方

 は頑張った。これはそのご褒美だと思って、ね?」



クロノはポケットの中のカードを取り出して、そっと撫でる。すると、ゆったりとした

音楽がそのカードから流れ出した。二人以外には誰もいないその場所で、しばしその音楽

に耳を傾ける。



やがて音楽が止むと、彼は瞬時にカードの形を変化させた。可能な限り改造されたクロ

ノ・ハーヴェイ専用の魔術媒体―S2U。



「迷惑だった?」

「いや、むしろ感謝する」

「クロノは変わったわね。向こうに行く前だったら、こんなやり方絶対に認めなかった

 でしょう?」

「自分が変わったことは自覚してる。そう、僕は変わった。なのはに、向こうの世界で

 優しい人達に出会って、変わることができた」



目を閉じてイメージを浮かべてからS2Uを振り、魔術を発動する。すると、クロノの

着ているミッドチルダでの一般的な服が、向こうの世界の服に一瞬で変化した。



「だから、行っていいというのならためらわない。僕はなのはの傍にいることにするよ」



言葉と態度に躊躇いはなく、その瞳には強い意志が宿っている。リンディはその瞳を見

て、なのはを始めとした向こうの世界の人々に深く感謝した。



「僕はもう行く。だから、残りの仕事はお願いします」



荷物を纏める暇もなく一方的にそう言うと、クロノはS2Uを振り呪文を唱えた。



「レイデン・イリカル―」

「我、使命を受けたもう物なり…」



突然割り込んだ呪文に、クロノは自分の呪文を中断してリンディの方を見た。彼女は小

さくウインクしてそれに答えると、懐から赤い小さな珠を取り出す。



「契約のもと、その力を解き放ちたまえ」



紡ぐのは、向こうの世界でなのはに教えた呪文。リンディの持つレイジングハートすべ

てに設定してある、起動のためのキーワードだ。



「風は空に、星は天に…そして、不屈の魂はこの胸に…」

レイジングハート…正式な名称は他にあったはずだが、リンディも他の使用者も通りの

いいこちらの名前を使う。『願い』を具現させるタイプの魔術師が主に使用する媒体で、起

動後の形には使用者の思考がダイレクトに反映されることで有名である。



「この手に魔法を…レイジングハート、力を!」



瞬間、赤珠は眩い光を放ち、その形を変えていく。クロノのS2Uのような杖の形をして

いるが、細部にはなのはのレイジングハートの面影が残っていた。



「リリカル・マジカル…『魔力の種』よ、私の願いを聞き届けて!」



その変化させたばかりのレイジングハートを軽く一振りして、リンディは新たな呪文を

紡いだ。



なのはとリンディは魔術師として同じ分類をされる。思いを言葉にして、魔力と媒体を

用いてそれに力を与えることで物理に干渉する力を得る、魔術師の中でも割と強力な力を

発揮できる部類だ。そのため、術を使用する際には内容を端的に唱えなければならず、あ

る程度以上の実力を持った魔術師と相対した場合には、瞬時に対策を立てられてしまうと

いう不利な点もある。



だが、そのレベルに達しているはずのクロノであっても、リンディが使おうとしている

魔法の全容を掴むことができなかった。幼いが、彼はこのミッドチルダで使用される術式

のほとんどを記憶している。その知識でもフォローしきれていないのは、ロストテクノロ

ジーと呼ばれる人の目に触れないよう封印されている物の一部だけであった。



淡い光がリンディを包み込む。それは向こうの世界の人間からすれば幻想的な光景であ

ったろうが、ミッドチルダの人間ならば誰もが目を剥くとんでもない状況だった。何しろ、

常識では揺らぐことはないとされている人間の魔力が目の前で揺らいでいるのだから。









リンディを包んでいた光はやがて一点に収束し一つの結晶になった。少しばかり白く濁

っている、ほとんど完璧に近い形の球形。その白い球を人差し指と中指で挟み、クロノに

示すリンディ。



「それは…」

「マジカルシード…対象者の魔力の限界値を下げて、その分を結晶化させるロストテク

 ノロジーよ」

「技術者の僕でも知らない物を、どうしてかあさんが持ってるの?」



そのマジカルシードの形に見覚えがあったクロノの表情は、固くなる。ヒドゥン対策と

して、当時議長だった彼が提案し向こうの世界に蒔いた魔術装置。記憶の重要さを知った

今、彼自身の手でまた世界の奥深くに封印された物。



クロノ達技術者は、その端的な効果を取ってそれをイデアシードと呼んでいた。そして、

そのイデアシードの使用を、ひいては封印された技術を使うことに最も反対していたのは、

他ならぬリンディ・ハラオウンその人である。



「仮にも最高執政官だった私だから、貴方が知らない書物でも読む権利を持ってたの」



それでも最高クラスの魔力を持った念願型のリンディでなければ、使用するのは不可能

だったに違いない。魔力はそれなりにあっても普通の魔術士であるクロノは、同じロスト

テクノロジーであるイデアシードを蒔く時にも苦労したものだ。



彼が抱えたそんな苦労も、リンディならばすぐに解決できる。そう考えると、自分は一

生かかってもリンディに勝てないような気がして…そこまで考えて、クロノはふとあるこ

とに思い至った。結晶化したマジカルシードを嬉しそうに眺めているリンディに目を向け、



「何故?」



短すぎる問い。クロノは自分で思っているよりも動揺しているのかもしれない。そして、

その短すぎる問いには二つの意味が込められていることをリンディは明確に汲み取ってい

た。



「最高執政官は人物じゃなくて、役職。どうしても私でなければならないという理由は

 ないわ」

「そうだけど…でも、貴女は必要とされています」

「皆が私に頼りすぎなの。私はリンディ・ハラオウン…クロノ・ハーヴェイの母親よ。

 幼い息子が遠い所に行っていまうのに、一緒に行かない母親がどこにいますか」



大きな魔力を持つリンディは、向こうの世界では本来の姿を長時間維持できない。故に

前回のように存在率を薄める必要があるのだが、小さい上に人と会話のできない保護者な

ど、向こうの世界にはいないだろう。



では、どうしたらいいのか。存在率を薄めなくてもいいように、魔力を削ればいい。そ

れも、普通ならばその存在すら知らないようなロストテクノロジーを持ち出して、までで

ある。リンディでなければできもしない、あまりにも単純で壮大な答えだった。



「でも、それで最高執政官をやめるかな…」



今頃、中央では大騒ぎになっているだろう。何しろ、皆の人望を一身に集めていたリン

ディの代わりを用意しなければならないのだ。分野の違うクロノでも、残された人間の苦

労は簡単に想像できる。



「仕事よりも、貴方が大事よ」



だが、リンディはあっさりとそう言ってのけた。多くの苦労人を生み出す演出をしてき

た人間の言葉にしては、どうにも綺麗すぎる。リンディは世界一多大な責任を放り出して

きた。優れた―いや、普通の常識ある人間だったら、間違いなく彼女の行動を諌めただろ

う。



「ありがとう…」



だが、照れくさそうにそう言って、微笑むだけ。クロノの取った行動はそんなものだっ

た。うっすらと涙の浮かんだ目を擦り、改めてS2Uを構え直す。



「それにしても、最高執政官から一転して犯罪者か…」



リンディの言葉がすべて真実なら、彼女は最高執政官をやめてここにいることになる。

そして、その彼女は今ここで封印された技術を用いたのだ。その資格を持たない人間が禁

忌に触れた術を用いれば、少なくとも十年は魔法を封じられ、壁の向こうで仕事に精を出

さなければならない。禁忌の魔術と呼ばれるだけあって、この場所を探知されるのも時間

の問題だろう。捕まってしまえば、いくら元最高執政官といっても罰は免れない。



「母親は、子供のためには強くなれるものよ」

「犯罪に手を染めた理由を子供に押し付けないでほしいな」

「だいじょうぶ、『犯罪』にはならないように残った皆に頼んできたから」

「さっそく苦労してるんだね。これからはかあさんの抜けた穴を埋めなきゃいけないの

 に…」



やれやれ、と小さく呟いからクロノは呪文を紡いだ。



ゲートが開く。その向こうではあの世界が、彼女達親子を待っているはずだ。



「向こうについたら、なのはさんに会いに行かないとね」

「それから、住む場所も。僕は前回、それで苦労した」

「高町さん家に近い方がいいかしら?その方がクロノもいいでしょ?」



にっこりと微笑んで、リンディはクロノの小さな手を取った。彼はその手を握り返して、

カードに戻したS2Uをしまう。

「行こう。なのはが…待ってる」



逸る気持ちを抑えているクロノを手を引いて、リンディはゲートに飛び込んだ。






そして、二人が飛び込んで間もなくゲートは閉じ、その場所には誰もいなくなった。