lovers the another world 第三話








「ありがとうございました、またのおこしを」



 リンディの笑顔と共に最後の客が送り出されていく。伸びをして凝った腰をほぐした彼

女は満ち足りた表情で店内を見回した。昼時を少しだけ過ぎた翠屋。これからもう少し待

てば午後のティータイムになる、そんな曖昧な時間だ。



 なのはの母である桃子の経営する店ということで職場に選んだ翠屋だが、こうして働い

てみると結構自分の性に合っている。最初の頃は不安だったが、よくよく考えたら『前の

仕事』が人付き合いをメインとする仕事だったので、それに比べたら普通の接客などお手

の物だ。何しろ、自分の政治生命を賭けてまでこちらを落としいれようとする相手と会話

しなくてもいいのだから。



「リンディさん、ちょっといいですか?」



 ストゥールに座って小休止でもしようとしていた所、調理場の方から一人の女性が顔を

出した。店長代理の松尾という女性――何でも、桃子の昔からの仕事仲間らしく彼女の信

頼も厚い人物である。松尾は店内を見回して客がいないことを確認すると、こちらをすま

なそうに見て、



「…実は急な用事が入ってしまったんです」

「では、その間翠屋は?」

「桃子さんには申し訳ないですけど、臨時休業ということに…」



 店長である桃子はなのはの授業参観に行っているために不在である。そのため、今日は

朝から松尾が調理場を含めた店内を仕切っていたのだが、その彼女までここを空けるとな

ると、そうせざるを得ないのは自明の理だ。



 一応ここ翠屋は喫茶店という肩書きを持っているが、メインはあくまでも桃子の作る料

理である。さすがに紅茶程度だったらリンディでも何とか対応ができるが、料理となると

そうもいかない。そういう時のために大抵の物には作り置きがあるのだが、責任者不在の

状態では不足の事態に対応できない可能性がある。



「分かりました。私達で留守番をしています」

「ごめんなさい。なるべく早く戻って来ますので…」



 松尾はもう一度本当にすまなそうに頭を下げると、調理場のバイトにも声をかけ、勝手

口から出て行った。



 さて、とリンディはストゥールから腰をあげ『CLOSE』の札を下げに行こうとすると、

調理場からバイトの少女が顔を出した。風芽丘に通っている高校生で人当たりが良く、年

の離れたリンディにも気さくに話しかけてくる少女だ。



「あの、ハーヴェイさん。せっかくだからお茶にしませんか?」

「そうですね。じゃあ、私はお茶を出しますからケーキを用意してくれますか?」

「は〜い」



 嬉しそうにケーキ棚に寄る少女を微笑ましげに眺め、リンディは調理場へ。カウンター

の中にもお茶のセットはあるのだが、調理場に用意してある物の方が味がいいのだ。ちな

みにこれは、翠屋の店員の間だけの秘密である。



二人分の紅茶を入れ、それを香り付けの蜂蜜と一緒にお盆に乗せる。これから好みしだ

いで砂糖を入れてもいいが、残念ながらフロアにいる少女の好みをリンディは知らない。

結局、砂糖もお盆に乗せて調理場を出ようとした所で、フロアでカウベルが鳴るのを聞い

たリンディは、はたと動きを止めた。



(忘れてた…)



 『CLOSE』の札を入り口に下げるのを忘れていた。下げていなければ当然客が入っ

てくる訳で、そうなると料理を出さないといけないかもしれない。この場合なら、フロア

の少女が丁寧に客を追い返してくれるのがベストなのだが…



 祈るような気持ちでフロアを覗くと、心底困った顔をした少女がリンディを迎えた。無

言で彼女が示す先には、既に二組の客がテーブルに着いてメニュー眺めていた。しかも、

行ったりきたりしているメニューのページは、比較的手間のかかる料理のページである。

今現在考えうる状況の中では、かなり悪い状況である。



「どうしましょう…」

「どうしましょう、と言われても…」



 既に席に着いてしまった客を追い返すというのも、礼に反することだ。客の雰囲気は普

通の物だし、正直に頭を下げれば理解はしてくれると思うが、それをするのはどうにも抵

抗があった。フロアにいたのがリンディだったらどうにかなったのだろうが、そもそも彼

女がすぐに札を下げればこんな事態にはならなかった訳で、後悔もできない。



「お帰りいただくしかないですね…」



 店の名前に傷が付くのはできれば避けたいが、このまま無用に引き伸ばせばもっと深い

傷が付きかねない。結局、どう転んでも傷を付けるしかないこの状況にリンディは泣きた

くなった。桃子も、客も許してはくれるだろう。だが、責任感の強い彼女にとってその許

容は痛い物でしかなかったのである。



再び鳴ったカウベルの音に、リンディは現実に引き戻された。その音は来客を告げる物

であり常ならばお客様は神様であるのだが、今来店されてはリンディにとっては不幸神で

しかない。



「申し訳ありません…ただいま店長が不在でして――」

「? 桃子さん、いないんですか?」



 ところが彼女が頭を下げた不幸神は、不幸を撒くのではなく彼女に困ったように笑いか

けていた。













 きっかけは、ただの気紛れだった。いつものように仕事をして、いつものように買い物を

している途中に、たまたま翠屋に行こうと思っただけだった。



 以前にあそこに行ったのは、ちょうど一週間くらい前である。耕介の給料も決して高い

ものではないし、普段は時間を優先するために二週間も続けて行くことなどめったにない

のだが…この日に限って行く気になってしまった。



 何故だろう? 別に特別甘い物が好きな訳ではない。翠屋の料理がうまいのは認めるが、

耕介自身料理を趣味とするためにそれほど外食をする訳でもない。土産を買っていけば寮

生達は喜ぶのだろうが、財布に余裕がありでもしない限りはめったにそんなことはしない。



 つらつらと頭の中で理由を列挙してみても、思い当たる節がなかった。その他に普通の

人間が翠屋に行く目的とすれば…邪な目的しかない、要はナンパである。



(俺がナンパ? 想像もできん…)



 生まれてこの方女の子を引っ掛けるということをしたことがないために、どうにもナン

パという物には抵抗があった。するのは論外だし、しているのを見てもあまりいい気分は

しない。真雪辺りに言わせれば『おっさんくさい』ということなのだろうが、これが耕介

の性分である。それで婚期を逃していると言われても、どうしようもなかった。



 だがしかし、この年になっても心に思う女性の一人もいないというのは、男として悲し

い物があると自分でも思う。どこかにいい女性はいないものか、と柄にもないことを考え

つつ翠屋のドアを開けると――



「申し訳ありません、ただいま店長が不在でして…」



 いきなり、女性に頭を下げられた。唐突な状況にぽかんとしながらも、言われたことを

頭の中で反芻して、耕介は言葉を発する.



「…桃子さん、いないんですか?」



 そう答えると、その女性――リンディは、驚きと共に顔を上げた。どうやら耕介がここ

にいるのが意外らしいが…それはそれでちょっと傷つく。



「ええ、今日はなのはさんの授業参観だそうで…」

「コーヒーでも飲もうかと思って寄ったんですけど、出直した方がいいんでしょうか?」

「いえ、コーヒーなら問題はないんですけど…」



 リンディにしては歯切れの悪い物言いである。頭に?を浮かべながら耕介が店内を見回

すと、テーブルについてメニューを決めている客が目に入った。しばし考えて…



「もしかして、何か困っています?」

「いえ…決してそのような…」



 と言いつつも、リンディはちらちらと客の方を気にしている。困っていると全身で体現

しているような物だ。そんな仕草がかわいくて、できることならもっと見ていたい衝動に

駆られるが、本気で困っているのならそういう訳にもいかない。見たところ『料理』に関

して困っているようだし、それなら耕介にも助けてあげることができる。



「あの、よかったらここの調理場を貸していただけませんか?」

「…はい?」

「いや、何となくここで料理を作りたくなってしまいまして。メニューなら、一通り寮で

再現したことがあるんですけど…」

「ここの料理を作れるんですか?」

「ええ。さすがに桃子さんと同様にという訳にはいきませんけど、かなり近い味にはでき

ると思いますよ」



 今の翠屋の状況を完全に把握した訳ではないが、耕介にできることはだいたいこん所だ

ろう。真一郎達も苦戦していたデザート系ならまだしも、他の一般的な料理だったら一頻

り料理をかじったことのある人間であれば、そう難しいものでもない。ソースの作り置き

くらいはあるだろうし、耕介が作ったとしてもそう味は変わらないはずだ。



 リンディはしばらく耕介を見つめて思案していたが、時間がないと判断したのだろう。

姿勢を正すと、深々と頭を下げたのだった。













「はい、パスタあがりました」



 茹で上げたパスタに適度に暖められたソースをかけて、カウンターの方へ差し出す。間

もなく、店内を忙しく動き回っていたリンディが現れそれをテーブルの方へ運んでいく。

アルバイトの少女がもう一人いたはずだが、そちらはレジの応対で忙しいらしくこっちに

顔を出しもしなかった。



 手伝い始める時はその時に店内にいた客の分だけを作れば終わりと侮っていたのだが、

今は何故かティータイムも過ぎた夕刻に近い時間帯である。ということは、都合二時間料

理を作り続けている勘定になるのだが、料理を作ることに没頭しすぎていたために全然実

感が沸かなかった。



 原因は、今も店内であたふたと働いているリンディにあるようである。何でも、責任者

不在の状態で料理は作れないと判断したのに『CLOSE』の札を出し忘れていたのが事

の発端らしい…のだが、耕介が料理を引き受けた後もその札を出し忘れていたらしい。



(それにしてもねぇ…)



 二回目の失態に気付いてひたすらに頭を下げるリンディを思い出しながら、耕介は一人

苦笑した。



まず、ここで出す料理は朝の段階で下ごしらえのほとんどが終わっているらしく、一般

常識程度の料理の知識があればとりあえず何とかなるものだった。リンディ達がどれくら

い料理慣れしているか知らないが、愛くらいのレベルでもなければそうそう失敗をするも

のでもない。



 ちなみにリンディと一緒に働いている少女はいつも調理場で働いているらしいのだが、

今回のような事態に混乱していたらしく、耕介が料理を作り始めるまでそのことをしっか

り失念していたそうな。



 あの後定時にバイトに来た少女も含めて今現在店内で働いているのは、耕介も含めて四

人である。はっきり言って忙しい時間帯を回す人数としては少ないのだが、無い物ねだり

した所で客がはけてくれないことを、耕介は実家のサフランで嫌と言うほど思い知ってい

た。



 料理自体嫌いではない、と言うかむしろ好きな部類に入るが、結局の所耕介は本来であ

ればしなくてもいい手伝いをしているのである。今更手伝い始めたことを後悔するはずも

ないが、これを手伝ったせいで――いや、今日たまたま翠屋に来たせいで、出会った時に

抱いた印象と違うリンディの一面を見れたことはプラスなのかマイナスなのか、まだ判断

がつかない。



(まあ、かわいいのは事実だし…それでよしとしますかね)



 困っている人がいたら助ける、それは耕介に染み付いている行動の理念である。それで

損をしていると思ったことも一度や二度ではないが、自分のそんな性分を耕介は甚く気に

入っていた。



「はい、残りの料理全部上がりました」

「は〜い」



 皿洗いの少女の手も借りて、大小様々な料理を並べると同時に店内を動き回っていたリ

ンディが現れ、それをテーブルやカウンターに運んでいく。ピークに比べてれば聊か客足

も減っただろうか、彼女の動きにも少しばかり余裕が伺えた。店内を見渡すと、人のいな

い席もある。



ようやく一息つけそうな雰囲気を感じて、耕介は大きくため息をついた。首にかけたタ

オルで汗を拭いて、調理場の隅から引っ張り出した椅子に腰かけ大きなため息をつく。そ

して目を閉じて全身の力を抜く…短時間で疲れを抜くことのできる、耕介が独自に編み出

した方法だった。



「あの、だいじょうぶですか?」

「ん? ああ、全然大丈夫だよ。少し息を抜いただけだから」



 いきなり座り込んだ耕介を不思議に思ったのだろう、心配そうに声をかける少女に笑い

かけ、耕介は立ち上がった。大きな体で伸びをしてごきごきと間接を鳴らすとタオルをか

けなおし、再びコンロの前に立つ。



「さて、もうひと踏ん張りしますか…」



 両手でぱんっと顔を挟んで気合を入れると、耕介は再びフライパンを手に取った。そし

て、次に作るメニューを確認するために視線動かすと、ちょうど勝手口から入ってきた女

性と目があった。



 双方、共に呆然とする。お互い顔見知りであるが、女性の方はどうして耕介がここにい

るのか、理解できていないようだった。



「槙原さん…ですよね?」

「そういう貴女は…松尾さんでしたか?」



 目の前の状況が理解できず一瞬固まる二人。下手をするとそのまま見つめ合い続けること

にもなりかねなかったが…



「――松尾さん!」



 下げてきた皿を戻す時に調理場を覗いたリンディがそんな声を上げ、二人の硬直は解け

た。何と説明をしたものか、と耕介が考えている間にリンディはすたすたと調理場に入り、

いきなり松尾に頭を下げた。



「申し訳ありません。私がいたらなかったばかりに槙原さんにお手伝いをしていただくこ

とに…」

「…それはよく見て見れば分かりますけど、それよりもどうして槙原さんが手伝うことに

なったのか説明してもらえますか?」

「はい…」



 と、すべてを包み隠さず語るリンディの説明を松尾は黙って聞いていた。事のあらまし

を聞き終わると、彼女は一度耕介を見てからまだ頭を下げ続けるリンディに、



「私がいきなり翠屋を空けてしまったのが原因なんですから、リンディさんが謝る必要は

いですよ。桃子さんには私から言っておきますから」

「でも、それでは――」

「桃子さんがいない今日は、ここの責任者は私です。もう一度言います、気にしなくても

 大丈夫です」



 微笑を浮かべ諭すように言う松尾に、リンディはもう一度深々と頭を下げた。さすがに

そこまでやられると照れるのか、松尾は慌てて目を逸らして手持ち無沙汰にしていた耕介

を見た。



「お疲れ様でした。これからは私がやりますから、槙原さんは上がってくださって結構で

すよ」

「正規の店員ではないのに、上がるというのも変ですけど…お疲れ様でした」



 耕介は慣習に倣った挨拶を返すとエプロンを外し、それを成り行きを見守っていた皿洗

いの少女に放って渡した。凝った肩をごきごき鳴らしながら荷物を置きっぱなしにしてお

いた勝手口に歩いていこうとすると、すでにエプロン着た松尾に肩を突付かれた。



「リンディさんも今日はもう上がりなんです。すいませんけど、送っていってくださいま

せんか?」



 思ってもみない申し出である。リンディの性格なら、今日の失態を補うためにロハの残

業くらいはやってのけるだろう。松尾の言はそれを見越してのものだが、素直にそれを告

げては彼女のことだ、従うはずもない。



 リンディの方はと言えば、本当にこのまま手伝い続けるつもりだったのだろう、松尾の

言葉に呆然としていた。



 彼女にばれないように。松尾が目で合図を送ってくる。その意図を察した耕介は何にも気付いていない風を装って、荷物を纏めながらリンディに声をかけた。



「それはちょうどいい。リンディさんさえよければ、ご一緒してくださいませんか?」



 無論、簡単には突っ返せないように言葉にも注意を払っている。リンディは耕介と松尾

の顔を交互に見ながらどうするべきか考えていたようだったが、松尾が笑顔で頷くのを見

て意を決したようだった。エプロンを外しながら、耕介に向き直る。



「お言葉に甘えまして、今日は上がらせていただきます。お疲れ様でした」

「お疲れさまでした。槙原さん、道中気を付けてくださいね」



 そう言って松尾が調理場に立つと、早速注文が舞い込んできた。結構な早口で告げられ

るメニューを松尾は一度も聞き返さずに、了解した旨をバイトの少女に伝える。そして、

その少女の姿が見えなくなるよりも早く、料理に必要な物すべてを視線を動かさずに引き

寄せ、調理を始めた。料理慣れした耕介でも思わず惚れ惚れするような、明らかな熟練者

の手付きだった。



 そんなプロの姿を呆然と眺めていると、耕介は軽く肩を叩かれた。振り返ると、既に帰

り支度を纏めたリンディがそこに立っている。どうやら、自分でも気付かないうちに結構

な時間ぼ〜っとしていたようだ。



「では、行きましょうか。リンディさん」



 気を取り直して置きっ放しにしていた荷物を持つと、リンディを促し、耕介は翠屋を後

にした。













「本当に今日はご迷惑をおかけしました」



 翠屋を出てしばらく商店街を歩いていると、開口一番にリンディはそう言った。しばら

く考えた末に、先ほどの手伝いのことを言っているのだと理解した耕介はゆっくりと首を

横に振った。



「大したことじゃありませんて。いつも寮でやってることを翠屋でやっただけですから」

「でも、槙原さんがいなかったらきっと私は途方に暮れていました」



 途方に暮れた挙句にお客に頭を下げるリンディの図が、耕介の脳裏に鮮明に浮かぶ。ま

あ、そんな状況にならなかったと思うだけでも手伝ったかいがあったというものだ。何し

ろ、この女性の責任を背負った時の顔と言ったら、思わず助けずにはいられないくらい悲

壮感の漂う物である。あの場面で彼女を見過ごせるようなら、それは男ではないと耕介は

自信を持って断言できた。



「いつもやっていることで人を助けられたのなら、良かったですよ。こんなことでよけれ

ばいつでも手を貸しますから、言ってください」

「それはいくらなんでも申し訳が…」

「そうですね。俺に声がかかる時は、リンディさんが今日みたいなかわいい失敗をする時

 でしょうから、できればそれがないことを祈ってますよ」

「もう…知りません」



 頬を染めて、リンディはそっぽを向いた。またも印象と違う仕草に耕介の顔にも思わず

笑みがこぼれる。



 今の彼女は――多少、頬を染めて子供っぽい仕草をしているが――最初に会った時に抱

いた印象と同じ、『母親』のような雰囲気である。共にいるものを無条件で和ませるような、

そんな天性の資質すら感じさせる。確証はないが、こんな人が何かのリーダーにでもなれ

ばきっとその組織は成功するのだろう。たまに今日のような失敗があったとしても、彼女

と共に歩いている人間なら、きっと笑って許せるはずだ。



「どうしたました?」

「いえ、何でも」



 耕介はこみ上げる笑いを抑えつつ、リンディを見た。控えめに言っても彼女は素敵な女性

だろう。この先、人の出入りの多い翠屋で働いていたら悪い虫だってつくかもしれない。



(ならいっそのこと、俺がもらうか?)



 男の条件反射とでも言うべきか、唐突に頭の中に浮かんだその考えに耕介は首を振った。

リンディが魅力的なのは認めるが、どう考えても今の考えには脈絡がなさ過ぎる。



彼女のことを知ったのが、一週間ほど前…その間、実際に会ったのは今日を含めても二

回だ。その考えを一目ぼれという俗っぽい言葉で片付けることも出できるが、もう十年は

前になるあの日の出来事から耕介は女性との付き合いによく言えば慎重、悪く言えば臆病

になっていた。



 出会った時から気になっていました、では話にもならない。自分はリンディ・ハーヴェ

イというこの女性のことを知らなすぎる。



「槙原さんは、どうして今の仕事を?」



 今の今までリンディのことを考えていた耕介にとって、この唐突な言葉は打撃だった。

ただ普通に世間話を振ったつもりだったリンディは、耕介の少々大げさな反応に小首を傾

げる。



「何か、おかしなことを言いましたでしょうか?」

「いえ…何もおかしなことはありません」



 深呼吸をして気持ちを落ち着けると、やっと質問を考える余裕が出てきた。



「仕事ですか…最初は短期のバイトのつもりで始めたんですけどね。それが今じゃ俺の定

職になってます。まったく、世の中分からないものです」

「試しに始めてみたことが自分に向いているということは、ままあることですよ。自分

にとっての居場所を見つけられたのなら、それは幸せなことですね」

「じゃあ、リンディさんにとって翠屋はどんな職場ですか?」

「そうですね…桃子さんも松尾さんもよくしてくださいますから、とてもいい職場ですよ。

私も試しにという気持ちで始めたんですけど、これが定職になりそうです」

「楽しいですか?」

「はい、楽しいです」

「それは何より…あそこを選んだのはやっぱり?」

「ええ…なのはさんのお母さんということで紹介してもらいました」

「? 最初はなのはちゃんと知り合いだったんですか?桃子さんじゃなくて?」



 普通なら逆だし耕介の疑問も尤もなのだが、リンディはその質問には答えずただ曖昧に

微笑むだけだった。そうされると心理として凄く気になるのだが、今聞いてもこの人は答

えてくれないような気がした。根拠はないが、この人は――リンディ・ハーヴェイという

女性はそんな人のような…



「私が最初になのはちゃんに会って、それから息子のクロノも仲良くしてもらってるんで

すよ」



 リンディはわざとこちらを混乱させようとしているのか、それを聞いてますます訳が解

からなくなる。第一、なのはとリンディの接点が耕介にはさっぱりと見えない。どんな風

に知り合ったのか、どんな風に仲良くなったのか…少なくとも、普通の出会いでも普通の

成り行きでもなかったことだろう。これにもまた根拠はないが――人生経験からくる勘な

のか、耕介にはそう感じられた。



「馴れ初めを聞かせてくれると、個人的には嬉しいんですが…」

「秘密ですよ。私となのはさんとクロノの秘密ですから…」

「女性にその言葉を使われると、弱いですねぇ。そんなこと言われると聞けなくなっちゃ

うじゃないですか…」

「そのための『秘密』なんですよ。誰にでも話したくないことはあるでしょう?」

「まあ、俺にだってありますけどね…」



 十数年ほど前にまだ中学生だった当事の恋人を押し倒したなどと、人には――しかも、

女性には口が裂けても言えない過去である。まさかその過去を魔法でも使って読み取った

のでもなかろうが、リンディは言葉では言い表せない表情をしている耕介を見て、くすく

すと笑っていた。



「槙原さん、貴方は『運命』ってあると思いますか?」

「…詩人になりますね、いきなり」

「ないと…お思いですか?」



 ふざけている、訳ではないようだ。リンディは真剣にこんな質問をしている。好きな食

べ物を尋ねるのと同じ感覚で、こんな質問をしている。



「私はあると思いますよ。時空とか、異世界とか、そういった物すら超越するような、そ

 んな『運命』や『愛』があってもいいんじゃないですか?」

「まるで、経験したような物言いですけど?」

「さあ、どうでしょう? それも、『秘密』ですよ」

「またですか…秘密だらけですね、貴女は…」

「思いもかけない人に教えられることもありますよ。耕介さんなら、きっと理解できます」



 不思議な笑みを浮かべてリンディは足を止めた。商店街の出口、さざなみ寮に行くには

ここをまっすぐ行かなければならない。



「では、今日のお礼はまた後日にさせていただきます。今日は本当にありがとうございま

した」



 リンディは頭を下げると耕介に何かを言う暇を与えず背を向けて歩き出した。耕介は言

葉もなく、夕日のさす彼女の背中を見送る。



「まあ、不思議な女性(ひと)だ…」



 そして、その不思議な魅力に惹かれている自分がいる。もしかしたら、恋をしているの

かもしれない。今はリンディを知っている…少なくとも、彼女が魅力的だということは疑

いようのない事実だ。惚れ甲斐は、きっとある。それが例え、家庭を持っている女性だと

してもだ。



「俺もこれから通うのかな…翠屋…」



 実際にそうなった時の出費を考えて、耕介は苦笑した。ただでさえ安月給で薄い財布の

中から札に羽が生えて飛んでいくのが見えるようだった。



 彼女に会いに行くにしても違う方法にしよう、そう心に決めて歩き出すと計ったかのよ

うなタイミングで携帯が鳴った。右手に持っていた買い物袋を左手に持ち替えて、服のポ

ケットから携帯を取り出す。



「はい、こちら耕す――」

『なにやってるのだ〜!!!』



 耳を劈(つんざ)くような大声だった。耳鳴りのする頭を振りながら、耕介は耳から距

離を置きつつも携帯に耳を傾ける。



「もしもし、美緒か? 頼むから電話で怒鳴らないでくれ。今のはかなり効いたぞ」

『だったらさっさと帰ってきてあたし達のご飯を作るのだ!真雪なんかもう切れて凄いこ

とになってるのだ』

「まじっすか…」



 電話の向こうでは、獣の叫び声とそれを必死に宥めようとしている巫女さんの声が聞こ

えているような気がする。慌てて腕時計を確認すると、既に六時を回った所だった。夕飯

の時間にしては早い時間であるが、今日は庭でバーベーキューをするということで一週間

前の寮生会議の時から決まっていたのだ。しかも発起人は、今電話口で猛烈に文句を言い

続けている大食い少女と、その向こうで叫び声を上げている漫画家さんである。



「分かった、今すぐ帰るから真雪さんをどうにかしておいてくれ」

『それは無理な相談なのだ。いくらあたしでもあんな真雪を相手にはできないのだ』

「次の給料日にお前の欲しがってたマフラーを買ってやる…」

『らじゃったのだ。真雪はあたしが全力で何とかしておくから、耕介は早く帰ってくるの

だ』

「ああ、頼んだぞ…」



 ため息をついて電話を切る。給料日を前にして、大きな出費決定であった。本気で羽の

生えた札でも見えそうな気がして泣きたい気分になるが、ここで泣いていたら給料日を待

たずしてさっきの暴走漫画家に殺されてしまう。



 耕介は買い物袋を持ち直すと、通行人の視線も気にせず必死の形相で走り出した。その

スピードは彼の三十年近い人生の中で間違いなく最速だったそうな…









「ただいま〜」

「おかえり、母さん」



 こちらの世界で調達した大小様々な部品に囲まれて作業をしながら、クロノは母親を出

迎えた。リンディはテーブルにバッグを置くと結っていた髪を解き、熱心に作業をしてい

るクロノの隣に座る。



「わざわざ作らなくても、ミッドから持ってきたのを使えば?」

「せっかくこっちに来たんだから、こっちにあるものを使おうと思ってね…」



 幼い容姿には全くそぐわない熟練した手付きで、次々と部品を組み立てていく。なのは

に進められてこの部屋にも『パソコン』を置くことにしたらしいのだが、技術師である彼

の機械に対する懲りようは半端ではない。



 この前の休みに一番近くにあった電気街で購入してきたジャンク品を組み立てているだ

けなのだが、それでも完成の予想されるマシンのスペックは市販されている最高級の物と

比べても遜色のないものであった。



 こちらとミッドでは、技術力にはまだまだ差がある。これくらいの機械の組み立てなら、

ミッドでは幼稚園の子供でもやってのけるレベルでしかない。その幼稚園レベルの技術に

クロノが拘っているのだから、とんでもない物ができるのもある意味必然だった。



「母さん、何かいいことあった?」



 ドライバーを回す手は止めずに、クロノはリンディを振り返った。いきなり話を振られ

たリンディはどうして? と小首を傾げて聞き返す。



「何か、いいことがあったって顔してる」

「そうかしら? そんなに顔に出てる?」

「出てる。どんなことがあったの?」

「ねえ、クロノ。今の私はどんな顔してる?」

「そうだね…きっと、なのはに会ってる時の僕と同じ顔をしていると思うよ」

「そう…だったら、素敵ね」



 二人の間に流れる穏やかな沈黙。リンディはしばらくクロノの作業を眺めていたが、立

ち上がって台所に行って晩御飯の準備を始める。何の気なしにその後姿を見たクロノには、

やはりリンディの姿はどこか嬉しそうに見えた。



「母さん、本当に何があったの?」

「『秘密』よ。でも、とってもいいことよ。とっても、いいこと…」



 リンディはその言葉を持ち出したらテコでも動かないことを知っているクロノは、それ

きり聞くのを諦めて作業を再開した。本人がいいことだと言い張るのなら、無理をして聞

くまでもない。それが結果を結ぶようなことだったら、自分にもそのうちに分かることだ。



 無心に手を動かしていると、背後でリンディが鼻歌を歌っているのが聞こえた。いよい

よ本気で何があったのか気になってきたクロノだったが、またも思い直して作業に没頭し

ていった。