lovers the another world 第七話









 一人…一人だ。ことこと音をたてる鍋を見ながら、耕介は一人で考えている。泣くこと

もなかった。落ち込むこともなかった。ただ、考えるだけだった。



 信用は、されていたと思う。恋人となった女性を疑えるほど耕介は賢しくないし、リン

ディは嘘を付けるような女性ではなかった。それでも、リンディがそれらを耕介に話さな

かったのだから、彼女にとってはそれを隠すことが何よりも重要なことだったのは間違い

はない。



 だが、それでいいと思った耕介は彼女の秘密を深く尋ねたりはしなかった。気が向けば、

いつかきっと話してくれる…気楽にそう思って、リンディには接してきた。通じ合えてい

たはずだ、彼女はそこにいてくれたのだから。



 だからこそ、一人になってしまった耕介は考え続ける。リンディが、ここを去らなくて

はならなくなった、その理由を、原因を…





「真雪さん、ご飯ならもうすぐできますよ」



 後ろを見ずにぽつりと呟くと、背後から舌打ちが聞こえた。苦笑しながら振り返ると、

咥え煙草の真雪がいかにも不機嫌そうな顔つきでそこに立っていた。



「いや、飯の催促に来たんじゃない」

「そうですか? お酒だったら、まだ残ってたと思いますけど…」

「…次に惚けやがったらぶっ殺すからな」



 どすのきいた声にコンロの火を消すと、耕介はエプロンで手を拭きながら真雪に歩み寄

った。真雪は不機嫌な顔をそのままにソファを示し、自分は耕介の反対側に座った。しば

らく流れる沈黙。耕介が目で先を促すと、真雪はやはり不機嫌そうに煙草を灰皿に押し付

け、最後の紫煙を吐いた。



「お前、最近何やってんだ?」

「なにってのは…どういうことですか?」

「仕事はきっちりやるくせに、お前自身はとことん上の空だ。中途半端なんだな、要する

に…せめて、落ち込むか吹っ切るかどっちかにしろ。そういうのは、見てるこっちが困る

んだよ」

「そんなこと言われましてもねぇ…」

「言っとくが、気付いてんのはあたしだけじゃないからな。ぼうずも馬鹿猫も、寮生は全

員気付いてるはずだ。狐ですら、心配してる。耕介、お前はそれに気付いていたか?」



 不機嫌ではあるが、真雪の声には理性の穏やかさがあった。怒るでも責めるでもない、

槙原耕介という人間を理解しているからこそ、できる芸当だろう。心配をしてくれた寮生

には気付けない耕介でも、それくらいは理解できた。



 だからこそ、苦しくて、申し訳なくなる。優しくはあるが、寮生は皆何かと抱え込む性

質がある。こういうことを言ったということは、もう既に悩み抜いて答えが出ているとい

うことだ。そして、その答えが真雪の言葉…間違っても話し合いなどはしていないだろう

が、今の彼女の言葉は本当にさざなみ寮の寮生の総意と言ってもいい。



「いいえ、気付いていませんでした」

「だろうな…」



 真雪は懐から新しい煙草を取り出して火をつけた。考えでも巡らせているのか、ゆっく

りと顔を上げて天井を見る。



「なあ、なんでお前はリンディさんを選んだんだ? こう言っちゃなんだが、別にあの人

でなくてもよかっただろう。この寮にだって、いい女はたくさんいたんだ。知佳だって、

坊主だって、愛だってバ神咲だって、お前の隣立っている可能性はあったのに」

「『運命』…でしょうか」

「あたしは、真面目な話をしてるんだが?」



 背中に殺気を見せて、真雪が耕介を見据えた。熊くらいなら怯えて逃げそうなその視線

を、だが、耕介は真っ向から受け止めて見せた。



「俺だって、真面目に答えてますよ。陳腐な言葉だってのは、分かってます。それでも、

俺は真雪さんもいたあの時に、この人だって思ったんですよ。事実、俺はリンディを愛し

てますし、リンディだって俺を愛してくれています」

「そのリンディさんが…今、お前の前から姿を消している訳だが」

「そうですね。でも、何か理由があるんだと思いますよ。リンディは、そういう女性です

から」

「馬鹿だよ、お前は。それも、救いようのない大馬鹿だ。消えちまった女を信じ続けるな

んてな」

「自覚してますよ、自分が馬鹿なことくらい。でも、最近はそんな生き方もいいんじゃな

いかなって本気で思えるんですよ。俺は、器用な生き方のできる人間じゃありませんから

ね」

「そうやって…不幸になるかもしれない人間が増えていくんだな…」

「何の話です?」

「いやなに、こっちの話だよ…」



 まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付けて、真雪は立ち上がった。さっきまでの

黒いオーラは消えている…もう、いつもの彼女だった。



「客だよ、お前に。むしゃくしゃしてたからそのまま追い返してもよかったんだが、あっ

ちも引かなくてな。お前の部屋に通してある。会って、答えを出してこい」

「俺に…客? いったい誰です?」

「そこまで面倒見切れるかよ。こっから先は、お前一人で行くんだな。それが…」



 真雪は、言葉を区切る。じっと耕介の目を見つめて――



「こんな難儀な道を選んだ、お前の役目なんだろうさ」

















「こんにちは、耕介さん」



 自分の部屋に入った耕介を出迎えたのは、静かな言葉だった。ある意味当たり前の客は、

言葉の持つ雰囲気と同じように静かに、ベッドに腰かけていた。



「クロノ…か。久しぶり、元気だったか?」

「ええ、僕は変わりありません。でも…」

「でも…なんだ?」

「いえ、なんでもありません。それよりも耕介さん、僕は貴方に質問があってきました」

「リンディは引っ越すって聞いたぞ。クロノはついて行かなくてもいいのか?」

「僕もついていくと言ったんですけどね、ついてくるなと言われてしまいました」



 言って、クロノは肩を竦めるが、その容姿に似合わない仕草がやけに様になっている。

耕介は持ってきた茶をクロノに勧めて、自分は引き寄せた椅子に腰かけた。



「で…俺に何の用?」

「いくつか、質問があってきました。耕介さん…貴方は、魔法があると思いますか?」

「魔法…って言うのは…」

「多分、耕介さんが頭に思い描いているのと大差ないと思います」



 神妙な顔つきで頷くクロノ。そこに、冗談を言っているような様子はない。



 魔法…今の世でそれが本気で存在すると考えているのは、子供かよほどの馬鹿のどちら

かだろう。耕介とて、その存在を信じている訳ではないが…何分ここはさざなみ寮、非現

実の材料には事欠かない空間である。



「あってもいいんじゃないかな? 世間でどう思ってるかよくは分からないけど、少なく

とも、俺はそう思ってるよ」

「本気で、そう思っていますか?」

「ああ…俺は、そういう嘘はつかないよ」



 そうですか、とクロノは俯いて考え込む。何か、テストをされているようで気分が悪い

が、聡明なこの少年のこと、決して無駄なことをしているのではあるまいと思って、耕介

は彼が次の言葉を発するのを黙って待っていた。



「では、もう一つ。貴方は『運命』という言葉を信じますか?」

「信じるよ」



 今度は、即答である。この反応は予想外だったのか、クロノは少しばかり目を見開いて

耕介を見つめている。



「信じるって言ったんだよ。魔法があると思ってる俺だ。運命を信じていたって不思議じ

ゃないだろう?」

「そうですけど…どうしてですか? どうして、貴方はそんなに曖昧な物を信じられるん

ですか?」

「そんなの簡単だよ。遠く離れた所で生まれた俺とリンディは出会って、惹かれあったん

だ。そこにそんな力が働いていてもいいと思わないか?」

「惹かれあっていたと、貴方は本気で考えているんですか? 自惚れではなくて?」

「断言できるよ。俺とリンディは、間違いなく愛し合っている。俺の気持ちには嘘はない

し、リンディだって俺のことを思ってくれているんだ。今回のことだって、何か理由があ

るんだろう、俺には言えない理由がね」

「ただ、貴方に飽きたのかもしれませんよ」

「それはないな。リンディはそういう性格じゃない。それは、クロノの方がよく分かって

るだろう?」

「よくそこまで信じられますね。どうしてそこまでか〜さんを信頼できるんですか?」

「決まってるだろう…魔法と運命を信じているからだよ」



 その言葉の真意を探るように、クロノはじっと耕介の目を見つめる。耕介も、その瞳を

真っ向から見返した。先に目を逸らしたのはクロノの方だった。彼はため息をつくと、顔

に微かな苦笑を浮かべた。



「杞憂…だったみたいだね。か〜さんの」

「で、結局クロノは何を話しに来たんだ? こんな謎賭けをするためにわざわざ来たんじ

ゃないだろう?」

「謎賭けが一番の用事だったよ。父さんがどういう人間なのか、一度本気で調べてみたか

ったからね」

「それで、俺はクロノの目がねには適ったのかな?」



 冗談めかした耕介の言葉に、クロノは何も答えを返さなかった。



「ここの近くに、見通しのいい丘がある。墓地に程近い場所…多分、父さんも知ってると

思う。そこに――」

「行けばいいんだろう?」

「はい…時間がないから、急いで」



 言われなくても、と耕介はにっと笑って踵を返した。その背中に、クロノの声が投げか

けられる。



「父さん…運命に導かれた二人は、例え隔てる壁が大きくても、幸せになれると思います

か?」



 ヘルメット、鍵…必要な物を手早く纏め終わった耕介は、ドアを開けながら肩越しに振

り返った。



「愚問だぞ、クロノ。そんな壁をぶっ壊すのが、『魔法』なんだろ」



 呆然とするクロノにささやかな満足を覚えながら、耕介は足早にさざなみ寮を出て行っ

た。













「審判…しに来たのか? 美少年」



 目を閉じて、遠ざかる単車のエンジン音を聞いていると、いかにも気だるげな声がした。

ゆっくりと目を開けて最初に目に入ったのは紫煙と、鋭い眼光だった。侮れない人だと思

う。言葉を操ることには自信があるが、この女性の前ではそんな自信など何の役にもたた

ないだろう。



「はい。その甲斐あって、満足のいく結果が得られました」

「うちのでくのぼう、すっ飛んで行ったぞ。それはもう、ここ最近の行動が夢かと思わせ

るくらいにな」

「夢だったんでしょう。あれが、本当の父さんですよ」



 微笑んで、茶に手を伸ばす。さすがに耕介が入れてくれただけあって美味い。程よく冷

めた茶を飲み干してそのまま部屋を出て行こうとすると、真雪に呼び止められた。何も言

わずに振り向くと、しばらくして真雪はぽつぽつと語りだした。



「もう八年になるか…耕介がここに来てから」



 咥えた煙草はそのままに、真雪は窓を開け放った。外の心地よい空気が流れ込んでくる

が、真雪はそんなものとは無縁なようで、気だるい瞳はそのままに、言葉を続ける。



「最初は神咲の姉とかバカ猫にえらい嫌われようだったんだぞ。それがたったの二週間足

らずで、あいつはあたしらの中に溶け込んだ。曲者揃いのあたし達の中に…だ」



 ここで、真雪は肩を竦めた。自分達を冗談にしてしまうあたり、いかにも彼女らしい。

だが、彼女達を少しでも知っている人間なら、冗談の中からでも耕介の力のほどを知れる

ことだろう。彼女達の中に、男だ。排除されてしかるべきだった存在は、今もなおこの場

所に居座り続けている。その、曲者揃いの彼女達に願われて…だ。



「と〜さんは、すごい人だったんですね」

「どっか世間の感覚とずれてるとこがあるのは、認めてやる。それで…まあ、当然と言え

ば当然なんだが…あの男も何かと活躍したから、やつに惹かれるお嬢が出てきた訳だ」

「真雪さんもその一人だったんですか?」



 からかい半分で聞いてみると、真雪にぎろりと睨まれた。クロノが肩をすくめると、真

雪は大きく咳払いをして、先を続けた。



「その人数は少なくない。この寮の中にも外にも、な。あたしの妹もその一人だよ。だか

らいくら朴念仁な耕介でも、いつかはこの寮に住んでる連中の中から相手を選ぶんじゃな

いかって思ってたんだよ」



 短くなった煙草を携帯の灰皿に押し込み、真雪はぼりぼりと頭をかく。



「それが…お前のお袋さんを選んじまった。別に、それを責める謂れはねえけどな、耕介

が寮の人間の中から選べば流さなくてもよかった涙が、流れちまった」

「母さんと父さんの婚約には、貴女も一枚かんでいると聞きましたけど?」

「まあ、あたしにも責任はあるんだけどな…とにかく、どうしてって気持ちもここのお嬢

どもの中にはあるんだよ。そいつを耕介には理解しといてもらいたかったんだが、無駄だ

ろうな、今のあいつには何を言っても」

「それには、僕も同感ですよ」



 夢から覚めたら、目の前にあるのは現実だ。そこで不幸に潰されるか、幸せを掴み取る

か、決めるのは神ではない。耕介は、何かを見つけた。それがどちらなのかクロノには分

からない。分からないが…



「僕はもう、帰ることにします」

「なんだ。もう少しゆっくりしていったって、あたしは取って食ったりしないぞ」

「お誘いは嬉しいんですけど、お断りさせていただきます。母さんが出て行ってしまった

分、家のことは自分でしないといけませんからね」

「余談なんだが…料理とかも自分でする気か?」

「ええ、一応そのつもりです」

「だったら、お前の親父にでも教わってくれ。あの男も、いつまたろくでもない状態に戻

るか分からないからな。美少年に監視でもしてもらえば、浮気もせんだろう」

「……真雪さん、貴女は父さんに浮気をしてほしいのですか?」

「いや、そんなことは言ってねえだろ?」



 そう言いつつも、真雪の目は面白そうに細められていた。クロノでなくとも、今の彼女

の本心は分かる。ため息をついて、クロノは空になったカップを取り上げた。最初はとり

あえず食器でも洗うところから始めてみよう。そして、家事全般が板についてきたら…一

度、女性のことでじっくりと『父親』と話し合ってみるのもいいかもしれない。

















 単車を乗り捨てて、坂道をゆっくりと歩く。急ぐ必要はなかった。その根拠は…ない。

強いて挙げるとすれば、勘だろうか。何の根拠も証拠もなく、確信を持って言える。リン

ディはそこにいて、待っている…と。



「かくて男は虜となりけり…か」



 冗談めいて言ってみるが、悪い気はしない。真雪にでも聞かれたら、それこそ正気を疑

われるだろうが、今ここには自分一人しかいない。リンディのことで思い出し笑いをして

いたとしても、誰に咎められることもない。



 ともすれば際限なく緩みそうになる頬をなんとか抑えて歩く。一歩、一歩…ゆっくりと

進んでいく。暖かな風と、柔らかな光…何でもないただの道に、幻想的なそれらが溢れて

いた。



 夢の国にでも迷い込んだかのような、そんな感覚。だが、ここは夢ではありえない。地

面を確かに踏みしめて進む。ポケットには、小さな箱。リンディとの約束の詰まった、耕

介にとっては大事な箱だ。



 これを手渡す光景を何度も夢に見た。夢が覚めた時、それが現実になるということを疑

いもしなかった自分。その姿のなんと滑稽で、愚かなことか。この世に、人間ほど不確か

で移ろい易いものなど、どこを探したとしてもありはしないというのに――



(不確かで、移ろい易いもの…それを、確かなものにするために)



 耕介は、約束の箱を持ってこの道を歩いている。少しだけ臆病な恋人に、再び会うため

に。再び会って――









「リンディ…」



 愛しい人の名前を呼んで、耕介は足を止めた。穏やかな風の流れるその丘で、光に包ま

れた彼女は、ゆっくりとこちらを振り向いた。その目に、涙を浮かべて。



「来てしまったんですね…やっぱり」

「理不尽なことは承服できない性質でね。だから、本当に好きな人に一方的に婚約破棄な

んてされちゃあ、居ても立ってもいれない訳さ」

「私は、貴方を――」

「嫌いになったなんて嘘はつかないでほしいな。リンディの考えてることくらい、分かる

よ。手に取るようにね」

「そんなはずはありません。魔法使いでもない耕介さんに、そんなことができるはず…」



 その言葉は、耕介自身の笑い声に遮られた。不思議な顔をしてこちらを見返すリンディ

に、耕介は目に溜まった涙を拭いながら答える。



「魔法なんて必要ない…いや、魔法なのかもね、俺の感覚は。分かっちゃうんだよ、リン

ディのことなら、ほとんどのことはね」

「すべて…では、ないんですね」

「そう、すべてじゃない。俺は、魔法使いじゃないからね」



 耕介は歩みを進める、恋人に向かって。ゆっくりと近付いてくる自分を、リンディは一

体どういう気持ちで見つめているのだろうか。耕介に別れを告げたのだって、彼女なりの

考えがあってのこと…そんなことは百も承知だ。その考えのおかげで、もしかしたら耕介

はもっと幸せになれたかもしれない。だが、それでは駄目だ。



 この世に、リンディ・ハーヴェイという女性がいるということに気付いてしまった。そ

して、愛してしまった。例えこちらを思ってくれた末の結論だとしても、愛した女性を手

放せるほど、耕介は大人でないことを自覚している。



 手を伸ばせば届く位置で、耕介は止まった。



「リンディ…その、行かなくちゃいけないんだよね」

「はい…」

「遠いところなのかな?」

「はい。とても…とても、遠いところです。いつこちらに戻ってこれるかも分かりません。

もしかしたら、もう戻ってこれないかも…だから、私は貴方の隣にいることはできません。

私でない…他の誰かを――」

「ふざけるな」



 結構、強い口調でぴしゃり。驚きの表情で見つめ返すリンディに、耕介は少しやり過ぎ

たかと苦笑する。



「俺はさ、好きだよ? リンディのこと。君のことを理解したいと思うし、好きなことも

させてあげたい。俺から離れて何かを成すということ、リンディが決めたんだ。悩んだん

だろう? なら、俺はリンディを応援するよ」

「耕介さんは…私と離れるのが辛くはないんですか?」

「辛いよ、もちろん。でもねリンディ、俺は自分の都合で君を縛りたくないんだ。我侭を

言ってほしいんだよ。だから、やりたいことを、やらなくちゃいけないことを応援する。

でも、俺の我侭も聞いてほしいんだ」



 ポケットから、ビロードの箱を取り出す。それを見て、リンディの目が僅かに見開かれ

るが、耕介はその箱を開くことなく手でもてあそぶ。



「俺のこと、忘れないでほしい。俺のこと、捨てないでほしい。俺のこと…ずっと愛してほしい」

「我侭ですね…本当に。女性にそんなに注文をつけるなんて、甲斐性がないんですね、耕

介さん」

「今気付いたの? 俺はこういう人間だよ。我侭だし、こう見えても独占欲は強いし――」

「優しいし、強い人です。だから私もクロノも…貴方を愛しました」

「だから、俺に別れを言った…」

「正直なことを言えば、きっと貴方はこうするだろうって思ったから…」

「迷惑…かな?」

「分かっていて、そういう質問をするところ…少し嫌いですよ。でも…それでも、私は貴

方を愛しているから…辛いんです。貴方と離れてしまうことが、貴方の気持ちが変わって

しまうかもしれないことが…」



 辛いのは耕介だって一緒だ。本当は、一時だってリンディと離れたくはない。でもそれ

は…『本当』の我侭だ。本心をありのままに告げれば、リンディは何を置いてもここに残

るだろう。そしてきっと…彼女は心を痛めてしまう。



 一緒にいて、二人は満たされる。確かに幸せだろう…でも、それじゃあいけない。知ら

ないところで、泣かなくてもいい誰かが泣いている。リンディは、それを見過ごすことが

できない。幸せだったとしても、きっといつか、彼女は壊れる。



 だから、リンディはこの道を選んだ。自分だけが悪者になって、他の人の幸せを願った。

泣くはずだった女性が、救われる。泣かなくてもいい人間は、泣かなくても済む。絵に描

いたような幸せな風景…そのはずだ。耕介だって、おそらくは幸せになれるはずだ。でも、

そこには…



「俺は、変わらないよ」

「私だって、信じたい…でも、不安なんです。私の知らないところで、貴方と他の女性が

笑いあっていると思うと、胸が締め付けられる。そんな気持ちでずっといるなんて、私に

は耐えられそうにありません…」



 だから、別の道を歩くことを選んだ。そうすれば、痛みが少なくなるから。今は泣いて

いても…後で思い出して泣くことがあっても、いつかはきっと…



「魔法を…見せてあげる」



 親指で手の中の箱を開けて、中の物――二つの指輪を取り出す。それらを握り締めて、

耕介は目を閉じた。そして、思う…今まで過ごしてきた楽しい時間、思い出、リンディを

愛しているというこの気持ち。



 目を開けると、手の中の指輪のうち一つをリンディに放り、耕介は残った方の指輪を自

分の右手の薬指にはめてみせた。



「槙原耕介は、リンディ・ハーヴェイを病める時も健やかなる時も、変わらずに愛するこ

とを誓う。裏切らないよ…俺にとって、リンディは一生ものなんだから」



 リンディは手の中の指輪を見つめている。何を思っているのか、俯いた顔からは窺い知

ることはできない。やがて、リンディが顔を上げた。真っ直ぐに耕介を見つめて、口を―

―開かない。



「今は、聞かない。リンディが何を言おうとしたのか、俺には分からないよ」



 唇に当てた人差し指をどけながら、耕介は不器用に片目を瞑ってみせる。



「だから、その言葉…取っておいてくれないかな? 次に会うときに聞かせてほしい…そ

の言葉、その指輪と一緒にね」

「魔法…なんですか?」

「魔法だろう?俺とリンディがもう一度会えますようにって。まあ、おまじないとも言う

けど…」

「魔法じゃありませんよ…そんなの」

「かもね。『本職』の人に言わせれば、陳腐なのかもしれないけど、でも…」

「…でも?」

「こういう魔法があってもさ、いいと思わない?」

「……はい、そうですね」



 ぎゅっと指輪を握り締めて、リンディも微笑んだ。耕介からゆっくりと離れて、どこか

らか装飾の施された杖――小さな赤い宝石が、その先にはおさめられている――を取り出

す。



「私は魔法にかかりました…耕介さん、貴方の魔法です。貴方は、こんな私を必要として

くれました、愛していると言ってくれました。だから、私は必ず戻ってきます…貴方の隣

に。例え、世界が私達を隔てても…」



 淡い光が、リンディを包む。風が、光が…二人だけの丘に広がり、二人を隔てていく。

離れていく恋人を、耕介は笑顔で見送っていた。リンディも、笑顔。もうどこにも、悲壮

感はない。



「私は、帰ってきます。この世界に、貴方の隣に…私は貴方を…愛していますから…」







 光が弾け、突風が吹きつけた――







 目を開けた時には、もう誰もいなかった。優しい光をたたえた彼女は、もういない。ど

こにいったのかも、知らない。耕介は、リンディの過去をほとんど知らない。



 だが、それでよかったのだ。リンディは、遠いところへ行った。そしてまた、ここへと

帰ってくる。それだけ分かっていれば十分だ。



 手の中には二人で探した指輪。それは、再会という『魔法』の証。その指輪を軽く握り

締めて、空を見上げる。どこまでも広がる青い空に、太陽。白い雲はゆっくりと彼方へ流

れていく。



 指輪を、空へと放る。



小さな『魔法』はくるくると回りながら、再び手の中へ。また、彼女に会えますように

と祈りを込めて…



男は振り返らずに、丘を降りていった。