守り、導かれて 第四話










「ほ……」


平和とか、安らぎとか、言葉にするならそんな感じのため息が恭也から漏れる。

飲んでいるのは、薫自慢の上等な緑茶。

お茶請けも、海鳴市内では翠屋に並ぶ評判を誇る和菓子屋の羊羹である。

小学生にしては渋いチョイスだが、彼にとってはこれが常だった。

家では、家業が喫茶店なせいかお茶も洋風な物が主なので、緑茶党の恭也にとってこの

もてなしはありがたい。


「恭也様、お茶のお代わりなどいかがですか?」

「すいません。いただきます」


茶飲みに付き合ってくれていた十六夜がそう言って、最近常備されるようになった恭也

専用の湯飲みにお茶を注いでくれる。

霊剣故、食事はとれない彼女だが、機会があればこうして恭也の隣に座ることもあった。

それで別段何をするでもないが、十六夜の持ったのんびりとした雰囲気は恭也も嫌いで

はなかったので、二人は今日も今日とて盆栽や将棋など渋めの話に花を咲かせている。


「そう言えば恭也様、最近とみに知佳様と仲がおよろしいようですね」

「そう……ですね」


仲直りした頃からだろうか、あの姉は妙に自分に引っ付いてくるようになってしまった。

不必要なまでに抱きついたり、誰かのように恭也で遊んだりと、彼自身内心では嬉しく

思っているため無碍にはできない行動を取ってくる。

そんな自分達を恋人……とは、言えない。いい所、仲の良い姉弟が関の山だろう。

それで満足か、と問われると否定せざるを得ない。

知佳に対して抱いている気持ち。それは、日増しに恭也の中で大きくなっている。

自分がまだ子供だということは自覚しているが、それでも知佳の隣に並びたいという気

持ちは恭也にもあった。

そんな彼の心情をすべて察した訳ではないだろうが、十六夜はその整った顔に微かな優

しい笑みを浮かべて言った。


「それでは、今日は恭也様にとってとても良き日となりましょう」

「……どういうことですか?」

「だって、今日は知佳様の誕生日でしょう?」

「……………………本当ですか?」

「ええ。確か、真雪様も同じ誕生日だったと記憶しておりますが……」


言うまでもなく、それは恭也にとって初耳だった。

まあ、誕生日について知佳と話し合ったことはないから、彼が知らないのも当然のこと

ではあるが、この場合恭也にとって問題なのは、知佳の誕生日を知らなかったことでは

なく、その誕生日に何も出来ないことである。

恭也は慌てて腰のクリップ時計を外して時間を確かめた。


『10月4日 PM 04:53』


財政的にお金のかかるプレゼントはまず無理だろう。

翠屋へ行って桃子に頼み込めばバイト代から出してはくれるだろうが、どっちにしても

今からでは選んでいる時間などなかった。


「十六夜さん、俺急用を思い出しました」


恭也はお茶を一気に飲み干すと勢い込んで立ち上がった。


「そうなのですか?では、気をつけてくださいませ」

「はい。失礼します」


いそいそとお茶セットを片付ける十六夜に背を向け、恭也はさざなみ寮を後にした。

ただ、その走っていった方向が山の方だったことには十六夜は気付かなかった。












「ただいま〜」


それからほどなくして、真雪のセダンで出かけていた知佳と耕介がさざなみ寮に帰って

きた。

どこか疲れた顔をしている耕介に対して、デパートの紙袋を抱えた知佳はとにかく上機

嫌である。


「よう、お帰り。耕介には何買ってもらったんだ?」


二階から降りてきた真雪に問われ、知佳はさらに嬉しそうに笑って紙袋を見せた。


「お洋服。前から気になってたの買ってもらっちゃった〜」

「……お前も妹に甘いよな〜。危ない趣味なんじゃねえのか?」

「ひどい言われようですね……」


耕介は苦笑すると、プレゼントと一緒に買ってきた食材の詰まった袋を持って、台所へ

直行した。


「ねえ、お姉ちゃん。今日はお外に行くんでしょう?恭也も連れてっていい?」

「駄目なわけねえだろ。あたしだってそのつもりだったんだ、さっさと電話で誘え」

「は〜い」


そんな元気のいい返事をして知佳が電話に向かうと、お茶セットを抱えた十六夜が通り

かかった。


「あら、知佳様お帰りなさい」

「ただいま、十六夜さん。誰か来てたんですか?」

「ええ。先程まで恭也様がいらっしゃっていました」

「入れ違いか……気が利かんな婿殿は」

「それで恭也は家に帰っちゃったんですか?」

「さあ……急用ができたとおっしゃっていましたが」

「そうですか……」

「別に婿殿も一日出かけてる訳じゃねえだろ。時間がだってからまた電話してみろ」

「うん、わかった」


そう言うと、目に見えてしゅんとなった知佳は、紙袋を抱えてとぼとぼ二階へ上がって

いった。

その背中が見えなくなってから、真雪は思い出したように十六夜に話を振った。


「十六夜さん、婿殿何か言ってました?」

「特には……ああ、そうですね。恭也様は今日が知佳様のお誕生日だということをご存知

なかったようです」

「そうっすか……」

(話しておかなかったのは失敗だったか……)


真雪は天井を見上げて、渋面を作った。

恭也がいなければ今日の知佳はてこでも動かないだろう。

だが、その婿殿は今どこにいるかも定かではない。

何をしているか真雪なりに見当はつくが、それで恭也がここに召還できる訳でもない。


(また、今日は面倒くさい一日になりそうだな……)

「真雪様?」

「ん?……ああ、別に何でもないっすよ。じゃあ、あたしは部屋で少しばかし仕事します

んで」


不思議そうに首を傾げる十六夜にぱたぱたと手を振ると、真雪は煙草を吹かしながら階

段を上っていった。














『八時三十三分』


部屋の時計は、無常にも時間が経つのを伝えてくる。

あれから一時間おきくらいに高町家、それから翠屋に電話をしているが、恭也は一向に

捕まる気配を見せなかった。

桃子も美由希も恭也がさざなみ寮に行ってから、彼がどこに行ったか知らないらしい。

本当は今晩、恭也を連れて真雪と外食に行くつもりだったのだが、その予定はめでたく


キャンセルである。


「一緒にいてくれたっていいじゃない。誕生日なんだから……」


電話の子機を投げ出して、知佳はベッドに寝転がった。

いつもは恭也が困るほど一緒にいる。それだけ、彼のことが愛しい。

耕介とは違う知佳の身近な「男性」。弟のようで、それなのにどこか頼りがいがある。


「恭也……」


その彼は、今いない。どこで何をしているのかも分からない。

誕生日、特別な日。さざなみ寮の皆は祝ってくれた。それはすごく嬉しい。



でも、足りない。恭也がいない。

誰よりも、誕生日を祝ってほしい恭也がいない。

買ってもらった服を着て、恭也と真雪と並んで歩きたかった。

プレゼントだって何もいらない、ただ一緒にいて――


「恭也の……馬鹿」


自分の言っていることが、不条理なのは分かっている。

それでも、知佳は涙が流れるのを止めることはできなかった。

明日には会える。でも、いま会いたい。


「馬鹿……」


もう一度、微かに呟くと、知佳は目を閉じた。














かた……


「……ん」


小さな音を聞いて、知佳は目を覚ました。

眠気の残る頭を僅かに振って――勢いよく起き上がった。


『十一時五十三分』


もう少しで日付が変わる。

起き上がって机を見ると、その上に簡素なメモ用紙が置かれていた。


『十時現在、婿殿補足できず。話があるなら諦めて明日にしろ by姉』


真雪にしては珍しい殴り書きである。

はあ……とため息をついて、知佳は机の脇に置いておいた紙袋を取り上げた。

中身は、耕介に昼間プレゼントとして買ってもらった洋服。

今日はこれに袖を通して行くつもりだった。

デパートから帰ってくる途中の、はしゃいでいた自分が蘇る。


「明日になってからじゃ……遅いんだよ?」


思い出したら、また涙が込み上げてきた。

紙袋を抱きしめる。服が皺になるかもしれないがそんなことは気にしていられなかった。


こっ……こっ……


静かに誰かが階段を上がってくる。

今の時間なら、みんな自室にこもっているはずである。

姉の部屋からは寝息が聞こえる。それなら、飲みにやってきた耕介や愛でもないだろう。

薫やみなみ、美緒は――間違いなく自室で寝ている。

じゃあ、とゆうひの部屋を確かめようとして、やめた。

彼女は元々の性格のせいか、どんなに気をつけてもここまで足音は殺せない。

一つの可能性が、知佳の中で首を擡げる。

それは、階段を上がってくる足音と共に次第に大きくなっていった。


『十一時五十六分』


足音は、知佳の部屋の前で止まった。



ドアの向こうで、『彼』が深呼吸するのが分かる。


こんこん……


いつものように控えめにドアがノックされた。




今度は知佳が深呼吸する。

煩いくらいになる心臓を手で抑えて、何とか声を出した。


「どう……ぞ」


しばらくの間……そして、ドアがゆっくりと開いた。


「……こんばんは」


恭也がいた。

全身汚れて所々傷もあるけれど、間違いなく恭也だった。


「時間は……間に合った」

部屋の中の時計を見て、恭也は安堵のため息を漏らした。

知佳は呆然と、勝手に安心している恭也を見つめている。


「ね〜さんの誕生日が今日だと、夕方聞いた。それから何か……その、プレゼントでも贈

れないかと思って、考えた」


恭也はいったん部屋の外に出て、外においてあったらしい何かを後ろでに抱えて戻って

きた。よっぽど照れくさいのか、顔は見ていて面白いくらい真っ赤である。


「その……ありきたりな上に、金がかかってなくて申し訳ないが……」


彼が後ろ手に抱えていた物を出すと、視界が一色に染まった。

視界いっぱいの花束。それも色は全て黄色――誰かが知佳の色だと言っていた色で統一されている。

花屋とかで買ってきたのではない。それは、汚れた恭也の格好を見れば解った。



そのまま、二人とも微動だにせずに少しの時間が流れる。



「それで……その、いつまでもこうしてる訳にもいかないので、できれば受け取ってほし

いのだが……」

「……か」


言葉にならない声が知佳の口から漏れる。

訝しげな顔をする恭也。その彼から知佳は「花束」を奪い取った。


「馬鹿で……鈍感で、今日は色々一緒にしたかったのに……」


一度はおさまった涙がまた込み上げてきて、それをごまかすように知佳は「花束」を抱

えたまま恭也に寄りかかった。


「ね……さん?」

「このまま……動いたら、本当に怒るからね」


言いたいことがたくさんあった。でも、それはどうでもよくなった。

恭也がいる。ここにいる。今日は他に何もいらないのだから、これでいい。



「それで……どうして入ってこれたの?」


涙もおさまって「花束」を優しくベッドに置くと、知佳はそう問いかけた。

この時間ならいくらなんでも戸締りがしてある。

恭也とは言え、さざなみ寮の住人でない彼はここに入れないはずだ。


「こんな物があった」


恭也は苦笑して、懐から一枚の紙片を取り出した。


『知佳は部屋。足音は立てずに可及的速やかに向かえ。 By義姉』


これを書いた時には怒りも多少おさまっていたのか、字もここにあった物に比べれば割

と丁寧である。

まあ、それでもどんな鈍感な人間にだって伝わるほどの苛立ちがその紙片からは感じら

れるが……


(ありがとう……まゆお姉ちゃん)


心の中で隣で寝ている姉に感謝すると、知佳は改めて恭也を見た。

すると、随分と汚れた格好の王子様はまたも照れて視線を逸らした。


「なんだ?」

「なにか……おね〜さんに言うことがあるんじゃない?」


恭也ははっきりとその顔に疑問を浮かべた。

「言うこと」に思い当たっていない態度に、知佳はわざとふくれてみせた。


「あ?……え〜と……ああ」


それが恐かった訳ではないだろうが、最初は途惑っていた恭也も何を言うべきなのか察

したらしく、軽く姿勢を正した。

こういうことはとことん苦手なのか、どことなく緊張している彼を知佳は笑いを堪えな

がら眺める。


「知佳ね〜さん」

「な〜に?」

「誕生日……おめでとう」





そして、その言葉を待ちかねていた時計がゆっくりと時を刻んだ。