守り、導かれて 第五話


















「どこ〜かに〜向かって〜走る君に〜」


調子の外れた、だが本人はいたって幸せそうな歌声を恭也は沈んだ表情で聞いていた。

別に、あまり上手でない歌に気分を害しているのではない。

台所から発生して、今や高町家全体を覆っているこの甘ったるい香り。

嫌いではないが、どうも苦手なこの香りがその原因なのだった。

恭也はうろんな目つきでカレンダーを見た。

二月十四日……そういった世事には疎い恭也でも、今日が何の日かくらいは知っている。

翠屋に非難も考えないでもないが、今日のあの場所は彼にとって最悪といっていい。

それは去年に手伝いをやらされて嫌というほど思い知った。

だが、結局は美由希とその手伝い――作業のほとんどを行っているのは彼女であるが――を

している晶が作っている「それ」も自分が食べるのだ。

義理ならばいらない、と断言してはみたのだが、少女二人と何故か一緒になって責める

桃子の抗議にあって、恭也の意見はめでたく却下された。


「何も物を贈らなければいけないわけではないと思うが……」


いつかの誕生日の自分を棚に上げて、彼はぼやいた。

そりゃあ貰えれば嬉しいが、その根幹にあるのはやはり気持ちである。

それが自分の苦手な物であればなおさらだが、この家では男性の地位は低い。

恭也はため息をついて立ち上がると、何か飲み物を探しに台所へと足を運んだ。


「大きな〜声で〜」

「美由希……」

「はや!」


背後から声をかけると妹は大層驚き、湯銭している「それ」を慌てて隠した。

隣にいた晶も隠し切れていないので意味のない行為に、愛想笑いを浮かべて参加する。


「な……なんですか、師匠?」

「麦茶を取りにきただけなんだが……」

「はい、これ麦茶!」


と、普段からは想像もできないような俊敏さで、美由希は麦茶のボトルとコップを押し

付けてきた。

そして、晶と協力すると恭也を台所の外に追い出す。


「恭ちゃん、今日は台所に入らないでね」

「入ったら俺達怒りますから」

「む、分かった」


ここで粘ってもしょうがないので、恭也は麦茶セットを持って大人しく離れた。

美由希達は恭也が十分に離れたのを確認すると、まだ台所に戻って作業を再開した。

また、歌声が聞こえてくる。甘い匂いも残ったままだ。


「避難するしかないのか……」


誰にともなく呟くと、恭也は麦茶を注いで一気に飲み干した。













(失敗だったかもしれない……)


避難先として選んださざなみ寮で、恭也はいきなり後悔していた。

「あれ」を作りたかった人達は皆昨日のうちに作ってしまったらしく、香りもまだ少し

だけ残っているが、高町家に比べれば遥かにましだった。



恭也は静かに息をはいた。

彼はさざなみ寮の居間にいる。

そこに設えられたソファ、その庭に向かっている方に座らされていた。

その隣には当然のように知佳。

真雪の妹だけあって、どこかこの状況を楽しんでいるようだった。

もう一つソファに向かい合うような形で、真雪が自分用の小さな椅子に腰掛けている。

気だるげなオーラを全身から発することもある彼女だが、今はその瞳にたった一つの感

情――迷惑なまでに純粋な好奇心を浮かべて、向かいの「二人」に次々と質問を浴びせて

いる。

その目は、間違いなく悪乗りしている時の目だった。

常ならば薫が止めるのだろうが、あいにくと彼女は今日部活で遅くなる……と、お茶を出

してくれた耕介が苦笑混じりに言っていた。

要するに、この真雪を止められる人間はいないということだ。

お茶を飲みながら、恭也は質問責めにされている二人を見た。

一人は岡本みなみ。知佳の親友であるし、ここさざなみ寮の住人でもあるので、恭也と

も顔見知りである。

真雪に質問される度に表情をくるくる変えて照れたりする様は、本人は困っているのだろ

うが、見ている人間に言いようのない幸福感を与えてくれる。

基本的に困っている人間は助ける知佳が傍観を決め込んでいるのも、その辺りが原因だ

ろう。

親友がこういう風に困っている様子というのは、案外面白いものなのかもしれない。

そして、もう一人。

みなみよりも淡い色の茶髪を短くしたかなりの美少女、と見紛うばかりの美少年である。

声もあまり低くはないし、事実を聞かされた今でも彼が男性だという実感は沸かない。

真雪の質問にはこの真一郎――そういう名前なのだと、知佳が「伝えて」くれた――が答え

ている。


「……だいたいの事情は解った。岡本君に目をつけるとは美少年もいい趣味してるな」

「ありがとうございます」


答える真一郎には、余裕すら感じられるが、みなみはさっきからう〜とかうめきながら、

真っ赤になって俯いているだけだった。

話を黙って聞いていた限り、この二人は恋人なのだそうだ。

詳しい話は真一郎が適当にはぐらかしたので解ってはいないが、みなみの方が彼に告白

して、真一郎がそれを受けたことからその関係が始まったらしい。

勇気ある行動だと思う。

少なくとも、今の自分では思いを告げるなど考えられもしない。


(俺も……いつか言う日が来るのかな?)


それが近いか遠いかは知らないが、その覚悟くらいは固めておいた方がいいのかもしれ

ない。


「ああ、それから突然なんだが、そこの二人は婚約している」


本当に突然、それこそ何の脈絡もなく真雪は二人を指して言ってのけた。


「お姉ちゃん……何をいきなり」

「別に今更照れることもなかろう。美少年はこいつらに関してどう思う?」

「婚約してるの?本当に?」

「ええ……と。はい、してます」

「そう。そういうのって……なんかいいな」

「いいですか?」

「うん。俺は応援することしかできないけど、頑張ってね」

「んじゃ、美少年も岡本君と婚約してみるか?」

「そうですね……俺はみなみちゃんがよければいいですけど」

「真ちゃ……じゃない、相川君、行こう!」


みなみは真っ赤な顔で立ち上がり、彼の腕をぐいぐいと引っ張った。

その怪力に抗しきれる訳もなく、恭也達に手を振ると、真一郎は消えていった。


「どこに行くんでしょう。あの二人」

「さあな。愛があればどこだっていいんだろう。で、婿殿、お前何しにきたんだ?」

「一言で言うなら避難でしょうか。家はどうにも肩身が狭くて」

「まあ、今日が今日だけにな。昨日の耕介も似たようなもんだったよ」

「お兄ちゃん少し拗ねてたもんね」

「そういや、知佳は何か菓子でも作ったのか?婿殿への愛でも込めて」

「作ってないよ。恭也、甘い物苦手でしょう?」

「いや、まあそうだけどさ……」


苦手なのは確かだし、そんな匂いが嫌で家から逃げ出してきた恭也だが、何も貰えない

となると、それはそれで寂しいかもしれない。


「婿殿、人間あきらめが肝心だぞ」

「真雪さん、フォローになってないです」

「それはそれとしてだ。あたしはお前らを婚約させてよかったと思ってるよ」

「いきなり何言うんですか?」

「いいから聞け。婿殿は腕も立つし、何より「人間」だ。ああ、別に気にしなくてもい

 い。誉め言葉だとでも思ってくれ。まあ、まだ子供な所もあるが、将来は間違いなく

 いい男になるぞ。さっきの美少年に並ぶくらいのな」

「結局、真雪さんは何を言いたいんですか?」

「別に思ったことを言っただけだ。要約すればお幸せにってことだが……」


そう言って、真雪は煙草とライターを懐から取り出した所で知佳と恭也に目を向けた。

そして、にやっと笑う。


「子供の前で吸うもんじゃねえな」


煙草を咥え、お幸せにと呟くと真雪はさっさと居間を出ていってしまった。

子供の前でと彼女は言ったが、知佳や恭也の前でそういうことに頓着しないのは、その

子供の彼だって知っている。

気を回されたというのは理解できた。それは、知佳も同じだろう。


「恭也、今日は何の日か知ってる?」

「さあ。何だろうな」


さっきの用意していないという言葉を根に持って、恭也は少しだけ拗ねて見せた。


「みなみちゃんはね。昨日の夜頑張ってチョコ作ったんだよ。お兄ちゃんは入れてもら

えなかったから、私が一緒に手伝ったの」

「それは、楽しかっただろうな」


みなみには悪いが、彼女が料理が得意なように恭也にはどうしても思えなかった。

脳裏に台所であたふたしているみなみの姿が浮かぶ。

それには、今日見てきた美由希の姿にどこか重なるものがあった。


「相川君は受け取ってくれたんだって。それで私は……」


知佳は恭也に向かって手をかざすと、何かを「引き寄せ」た。

その手に現れたそれを彼女は手早く恭也の首に巻きつけ、その出来映えを見て満足そう

に微笑んだ。


「マフラー……初めて編んだんだけどね」

「黒、選んだんだな」

「そうなの。やっぱり似合うと思ったんだ、この色。黒は恭也の色だよね」

「俺は暗いってことか?」

「違うよ。変わらない、あきらめない……少し怖いけど、とても強い色だと思うよ」


まっすぐな瞳でそう言い切られ、恭也はたまらなく恥ずかしくなった。

マフラーを巻いたまま立ち上がって、知佳に背を向けて歩き出す。


「どうしたの?」


驚かずに――むしろその反応を楽しむように――ソファに座ったままで知佳が言った。


「今日は……歩きたい気分だからもう帰ることにする」

「よかった……早速役にたったね」

「そうみたいだな」

「じゃあね、恭也」

「ん」


振り向かずに後ろ手に手を振ると、恭也はさざなみ寮を出た。

とたんに肌寒い空気に襲われ、彼は無意識の内にマフラーを手繰り寄せた。

知佳の思惑にはまった気がして、なんだかばつの悪い笑みが浮かぶ。


(強い色か……)


がむしゃらに強さを求めていた、そんな時期が恭也にもあった。

それがそれほど昔のことでないのは、彼にとって驚くべきことかもしれない。

義姉に会えたのはそのおかげなのだから、今になってそれを後悔したりはしないが、強

さという物には、まだ拘りがある。

強ければ、大切な人――知佳や家族を守ることができる。

だが、ただ強いだけではいけない。

思い出の中の静馬や士郎は、強さの中にも違う何かを持っていた。


(俺にそれが習得できるか?……いや、しないとな)


恭也は微かに強い笑みを浮かべると、体の感覚を確かめるように走り出した。

寒空に雪の降る、そんな日の出来事だった。