守り、導かれて エピローグ












「恭也!――」


名を呼ばれて、目を覚ました。

いつの間にか眠っていたらしい。

目を開けると、清潔な白い天井。もはや見慣れてしまった物だ。

恭也は目を擦って姿勢を正すと。呼びかけた彼女に目を向けた。


「もう、俺の番なのか?フィアッセ」

「そう。でも、不思議だよね。本当は私の診察のはずなのに恭也が一緒だと順番が来る

 のすごく早いんだよ」

「ああ、それは不思議だな」


何か言いたいげに微笑むフィアッセには取り合わずに、恭也は待合の椅子から立ち上が

ると、先に歩き始めた。

行く先は、いつもの診察室。

七年も通い詰めていれば、勝手も把握しているというものだ。


(そう思うと、この病院とも長い付き合いだよな)


恭也の体自体は健康その物なのだが、調整の意味もあって月に一度はここに顔を出して

いる。

内容は、ハードな運動のために若干歪む体の整体。

この七年の間に担当医は矢沢医師から「その娘」に変わってしまったが、診察のスタイ

ルは一向に変化していない。

いや、むしろ厳しくなったくらいである。

奥義を含めた御神流のすべてを習得し、体の管理の方法もある程度は身についてきた今

となってはここに来る必要度も昔ほど高くはないが、通院しないことを彼女は許してく

れない。

曰く、専門家が見ないとだめらしい。

見なかった所で大丈夫なのは確信が持てたが、それでも恭也は最低でも月に一回はこの

病院に足を運んでいる。

関係ない所で事故を起こして体の何処か――例えば、膝などを壊しでもしたら彼女は泣き

かねない。

もっとも、そんな素人のようなことは恭也には「ありえない」だろうが……


「ここだよね」

「ああ、ここだな」


一応、今回の診察のメインはフィアッセなので、恭也は場所を彼女に譲った。

フィアッセは何故か一度深呼吸をしてから、診察室の扉をノックした。


「は〜い、どうぞ〜」


中からは聞きなれた声が返ってくる。


「失礼しま〜す」


嬉々としているフィアッセとは対照的に、恭也はどこか疲れた表情で診察室に入った。

テンションの低いのを悟られると適わないから、精神制御も忘れない。


「フィアッセ、最近の調子はどう?」

「問題ないよ。のどもずいぶん調子良くなったし、すごく元気」

「安心しました。じゃあ、一応検査しますね」


医師は椅子から立ち上がると黒い手袋を外し、手をフィアッセの額に当てた。

目を閉じてそのまま数秒で手を退けると、今度は色々と質問を投げかける。

簡単な診察はそれから五分ほど続いた。


「いつも通りのお薬を出しておきますから、ちゃんと飲んでね」

「わかったよ」

「じゃあ次は……「恭也君」の番ね」


目を向けられると、恭也は気まずげに視線を逸らした。


「恭也、浮気しちゃだめだからね」


そんな恭也を見て、無責任に笑いながらフィアッセは診察室を出て行った。


「なあ……」


無遠慮に話し掛ける口調は、医師に対する物ではない。

だが、医師は恭也の口に指を当てて黙らせると、ドアまで歩いて耳を当てた。

フィアッセが戻ってくる気配はない。それを確認すると医師は――恭也とフィアッセの担

当医である医師は、子供のような笑みを浮かべて振り向いた。


「診察……するのではないのか?」

「最近は自分でやってるみたいだから、私がすることないじゃない。恭也お兄ちゃん、

 フィリスに会うのそんなに嫌なの?」


一瞬浮かべた笑顔も吹っ飛んで、フィリスはずいずいと詰め寄ってくる。

そこにはさっきまでの理知的な面影はどこにもなかった。


「フィアッセがこの姿を見たら大笑いするかもな」

「いいもん。恭也お兄ちゃんの前でしか、やらないから」

「俺の前でももう少し静かになっておくれ……」


むっと唸ってフィリスは恭也を見上げる。

彼女が機嫌を損ねる準備に入ったのを察知して、恭也はぽんぽんフィリスの頭を撫でた。

まだ文句は言いたそうではあったが、結局は誘惑に負けて気持ちよさそうに目を細める。


「フィリス……お前は本当にクロフォードに似てないな」

「私はリスティの妹である前に、恭也お兄ちゃんの妹だもん」


リスティに聞かれたら何をされるか分かったものではない。


「それを知ってるのは数少ないけどな」

「いいの!」

「まあ、俺は今更妹が一人増えた所でどうと言うことはないが……」


確かに、四人が五人になったと所でたいした変化はないだろう。


「あ、そうだ。あのね……」


何かを思い出し恭也から離れると、フィリスは机の上にあったノートを立ち上げた。

しばらく待った後にそれを操作し、ある画面を恭也に見せる。


「読めんぞ。英語なんぞ見せられても……」

「……知佳お姉ちゃん、今日帰ってくるんだって」

「それは知っている。今ごろさざなみ寮は大忙しだろうな」


あの場所のアットホームな所は今も変わってはいない。

退寮した者がやってくるとあっては宴会好きの集まりのような彼女達が黙ってはいない。


「迎えに行くんでしょ?これから」


当たり前と言えば当たり前なのだが、恭也もその集まりには招待されている。

知佳を迎えに行くのも、当然恭也の役目だった。

だがフィリスは言いながら、何故か診察室の片付けを始めていた。


「ついてくるのか?」

「恭也お兄ちゃん一人じゃ不安だし……私がいた方がいいでしょ?」

(苦労が増すだけだ……というのは、言わないほうがいいのだよな?)


読まれていたら電撃決定の考えを浮かべ、恭也は小さくため息をついた。






それから、三十分後……






「離れろ」

「いや」


病院を後にした二人は海鳴駅前にいた。

デートよろしくお気に入りの服でめかしこんだフィリスは、そうするのが当然であるか

のように恭也に寄り添い、腕を絡めている。

傍目には仲のいい恋人とでも映っているのだろう。

が、二人は間違っても恋人ではなく兄妹だった。


「目立ってしょうがないのだが……」

「もうすぐお兄ちゃん人の物になっちゃうし、今しかこうできないんだから……」


フィリスは恭也を見上げ、少しだけ寂しそうに小首を傾げる。


「だめ?」

「……好きにしろ」


そんなふうに頼まれては、嫌と言えるはずなどない。

頼まれると逆らえない……恭也の本質も変わってはいなかった。





「ねえ、恭也お兄ちゃんはどうして知佳お姉ちゃんのこと好きになったの?」

「何故そのようなことを聞く?」

「ほら、それを参考にすればフィリスに振り向いてくれるかもしれなし……」

「くだらないことはさておくとしてだな……理由か……」


考えて彷徨った視線は、駅の改札で止まった。

ちょうど、荷物を持った女性が改札から出てくるところだった。


「信念を曲げない『強い』所。誰にでも分け隔てなく『優しい』所……」


女性が恭也達に気づいた。

手を振りながらこちらに歩いてくる女性に、フィリスが手を振り返す。

苦笑して恭也も手を振り返し、続けた。


「それから……」


何よりも、自分を愛してくれた所――


「それから?」

「いや、とにかく好きなんだよ」

「久しぶり二人とも。元気だった?」


女性はすぐ近くに立っていた。

綺麗になったと思う。

長い髪はそのまま、あの時はどうしようもなく残っていた少女っぽさは影をひそめ、大

人の女性になっていた。

その女性――知佳が恭也の方を向く。

気を利かせたのか、フィリスは二人から一歩身を引いた。


「ただいま、恭也」

「お帰り……知佳。研修お疲れさま」

「やっと名前で呼べるようになったのね。偉いよ、恭也」


子供をあやすように、知佳の手が恭也の頭に乗せられる。

成長して大きくなった恭也の頭を知佳が撫でるというのは、どうしようもないくらい人

目を引いた。


「やめてくれ……」


口で否定して照れても、恭也は知佳の手をどけなかった。


「あはは……恭也もかっこよくなったから、これくらいで許してあげる」


微笑む知佳を見て、恭也は目を細めた。

知佳は今、自分の夢に向かっている。

国際救助隊……全世界を舞台に活躍する、救助組織。

内定が決まったのが、大学の在学中。

今は、二日前までの研修期間を終え、今の彼女は入隊式を待つばかりである。

かく言う恭也も既に仕事は決まったようなものだ。

だから、二人はすれ違う。

どちらも暇な職業というわけでもない。

特に、知佳などは海外にいることも多いだろうから、会える時間も今までより極端に少

なくなるだろう。



それでも、送り出してあげたいと思う。

強くて優しい知佳を誰よりも知っているのだから、止める理由など恭也にはなかった。


「あれ?フィリスは?」


気が付くと、二人の妹の姿は消えていた。

気を利かせ過ぎだとも思うが……ありがたい


「先にさざなみ寮にいったんだろう。準備で忙しいのだろうし、人では合ったって困る

 ことはない」

「みんなが頑張ってるのに、手伝わないって何か複雑な気分……」

「真雪さんには、『馬鹿』とか言われそうだな……」

「確かにそうかもね……今、手伝うなんて」

「かもな」










恭也は知佳の荷物を持って、改めて知佳と向きあった。



七年……待った。

その間に恭也も知佳も成長し、二人とも強くなった。

知佳を――最愛の人を守れるくらいには強くなったと思う。

ただがむしゃらに強さを求めていた少年は、大人になれた。




七年……待った。

それは、長くもあり、短くもあった。

左手を差し出す。

自信を持ってこうするのは、今日が初めてだ。

知佳はそれと恭也の顔を見比べて、自分の手を重ねた。

二人、歩き出す。

他愛もない会話をしながら、翠屋を通って、あの通りを過ぎて、さざなみ寮へ。







会えなくなる、それは確かに寂しいことだ。

それでも、二人は別の道を歩く。

お互いを深く理解して、愛しているからこそ、二人は別の道を選んだ。

久しぶりに会って、自分の仕事の自慢話をする。

そんな関係を、二人は選んだ。









話したら、真雪には馬鹿と言われ、妹達には非難された。

でも、誰一人として、笑うものはいなかった。

それで、十分だ。

それが、二人で選んだ道なのだから、拘るのはとても愚かなことだ。








「着いたね」

「ああ、そうだな」


外から見たさざなみ寮は、しんと静まり返っていた。

いつも溢れている笑い声もなりを潜めている。はっきり言って不気味だった。

恭也が門を開ける。

二人、ドアの前に立って、また立ち止まった。


「開けるぞ」


その言葉に、知佳が頷く。

扉を、開けた。


クラッカーの音。拍手。

寮に入ると同時に、二人は歓声に包まれた。

即席で作ったらしい、紙ふぶきが惜しげもなく二人にかぶせられる。

掃除が大変そうだ、と考えていると二人はぐいぐいと背中を押され、宴会場に設定され

た居間の真中に座らされた。

おめでとう、と誰かが言った。

まだ早いと、それを耕介が笑ってたしなめた。

つられてまた、おめでとう。

それは座らされた二人に向けられた言葉だった。

恭也は照れて目を逸らし、知佳は真っ赤になって俯く。

そんな二人を見て、また皆が笑った。








「ち〜か!」


早速出来上がった真雪が、知佳の後ろから抱きつく。


「お姉ちゃん、飲みすぎだよ。もう若くないんだから自制しないと……」

「いいんだよ。めでたいんだから固いこと言うんじゃねえ」

「真雪さん、俺も飲みすぎない方がいいと思いますが……」

「んだと婿殿……そうか、なら……」


真雪の目が座る。それはとても悪い兆候だった。


「お前ら、キスしろ」

『は!?』

「聞こえなかったか?さあしろ、今すぐしろ!」


いきなりな展開に知佳は戸惑う。

だが、真雪が本気なことは誰が見れも明らかだった。


「ほ〜あたしに逆らう気だな……」


動かない二人に業を煮やした真雪は、ゆら〜りと近寄る。

危険を感じた知佳はさっと恭也の後ろに隠れた。


「婿殿は……あたしに逆らわねえよな?」

「いや……それはその……」

「いい度胸して――」


真雪の声が、突然止まった。


「いいかげんにしなよ、真雪。けしかけるのは、野暮ってもんだよ」


リスティの指が真雪の背に向いている。


「ぼうず……てめえ……」

「恭也、知佳。真雪は抑えておくから。とりあえず、逃げた方がいいよ」

「まさか、クロフォードに助けられるとは思わなかったぞ」


軽口を叩きながら、恭也は立ち上がり知佳を抱えると二階に逃げた。

階段を上っている時、居間から誰かの叫び声が聞こえた。








「お姉ちゃん、相変わらずだね」

「苦労したぞ、知佳がいない時にには。呼ばれるたびに俺に絡んでくるんだから」

「恭也にも義姉ちゃんになるんだから、私がいない時には仲良くしててね」

「まあ、努力はする」


逃げてきたベランダで、しばらくの沈黙。

下ではまだ、なにかやっているのだろうか。

主役の二人がいなくても、宴会だけは滞りなく進むらしい。


「本当に、逃がしてくれたみたいだな」


真雪に近い性質のリスティにしては、珍しい行動だ。

後で凄い要求をされそうだが、とりあえず今だけは感謝しておこう。


「じゃあ、せっかくだから……」



知佳の腕が、恭也の首に回される。

そのまま、二人は唇を重ねた。


「どうしたの?恭也……」

「不安だな。いきなり誰か出てきそうで……」



気配を探っても、間違いなく誰もいない。

だが、ここはさざなみ寮だ。

こういう場面を見るためなら、誰でも気配くらいは消すだろう。


「じゃあ、行こうか?」



ぱあっと知佳の背に、二対四枚の翼が広がると、二人は空に舞い上がった。

さざなみ寮は遥か下。海には夕日が沈む所だった。


「きれいでしょ?」

「そうだな……知佳の特等席だけのことはある」


昔、知佳に助けられた。

さざなみ寮に来て、そして、何故か婿になった。

色々あった、喧嘩もした。


それでも今、二人はここに、こうして一緒に夕日を眺めている。


「俺は知っての通り、朴訥で、気の回らない所はあると思うが……それでも、知佳を誰よ

りも愛してるつもりだ。つらいことがあったら、話そう。寂しく思ったら、帰ってくれ

 ばいい。俺はいつでも……知佳を思ってるから……」


強く、知佳を抱きしめる。

あの時、自分を助けてくれた「天使」はいつの間にか、腕に収まるくらいになっていた。


「離れているのに、無責任かもしれないが……愛してる」

「……いつの間にか立場が変わっちゃったね。最初は、私の方がお姉さんのはずだったの

にこんなに、頼りになっちゃって……」

「嫌か?」

「ううん。嬉しいよ……」

「『ね〜さん』がいてくれたから、今の俺がいる」


「恭也が……支えてくれたから、私は頑張れてるんだよ」

「いい関係……なのかな?」

「うん。すっごく、いい二人……」





二人は微笑って、強く抱きしめあった。

風が通り抜けていく……

天使の翼から離れた羽が、ゆっくりと舞い降りていった。