Mercury lampe










「マスター、お電話ですよ」

「ん……」



 指を弾いて水滴を払い、タオルで拭う。士郎手製の踏み台に乗って、よたよたと皿拭きを

担当している蒼星石に、小さめの皿をそっと押し付け、



「無理はしないようにな」



 普段は帽子の乗っている頭に手を乗せ、がじがじと撫でる。それだけで子犬のように嬉し

そうな顔をする蒼星石に、ささやかな人生の幸せを感じながら、のそのそと廊下を歩き、電

話に出る。



「はい、衛み――」

『遅いわよ。さっさと出なさい』

「悪い、ちょっと水仕事しててさ……で、久しぶりってほど久しぶりではないよな?」

『一週間くらいかしら……なに? 衛宮君ってば、そんなに私の声を聞きたかったのかしら』

「馬鹿なこと言ってからかうなよ……」



 声を聞きたいとは思わなかったが、鬼のいぬまに何とやらと思ったことは口が裂けても言

わない。



「明日ロンドンを出るんだったよな……土産は紅茶がいいな」

『それなんだけどね、出立は三日ほど延期になったわ』

「何か用事でもできたのか?」



 お嬢様然とした装いに反して、遠坂凛はとてもとても金に汚いのだ。予定を延ばせばその

分だけ費用がかかる。予定を延ばすなど、よほどのことがないとしないと思うのだが……



『用事も用事。数十年ぶりに時計塔にローゼンメイデンが来たって、ちょっとした騒ぎなん

だから。しかも三体、マスターは日本人の少年だって言うんだから驚きよね』

「へぇ……ローゼンメイデン……」



 内心の動揺を悟られないように、ふよふよと周りを漂っているレンピカに『ロンドンにロ

ーゼンメイデン』と殴り書きしたメモを見せ、行ってくれ、と目で合図。レンピカは二、三

度瞬くと、台所の方に飛んでいった。



『反応が薄いわ……もしかして、ローゼンメイデンを知らない?』

「人形師ローゼンの作った七体の人形。『無垢な乙女』の雛形を目指して作られたって聞く

けど……」

『あら、珍しい。士郎にも知ってることがあるのね』

「これでも遠坂凛の教えを受けた者だからなぁ……でも、人形だろ? 遠坂の魔術には関わ

りがないと思うんだけど……」

『あの人形にはね、異世界に出入りする力があるのよ。平行世界ってほど大したものじゃな

いけど、少しでも情報が得られれば、私の研究の足しにはなるし……日本人だから話しやす

いってのもあるしね。とにかく、得られるものは全部得てくるわ』

「まあ、なんだ……その日本人によろしくな」

『よろしく言っとくわね。じゃあ、そういうことだから、電話代が嵩むからそろそろ切るわ

ね。紅茶はとびっきりのものを買ってくから――』

「ああ、ちょっと待ってくれ」

『――なに? 長話になるようだったら、コレクトコールにしてかけなおすけど』

「すぐに済むよ。なあ、もしローゼンメイデンが手に入るんだったら、魔術師ならどれくら

いのことするかな」

『金持ちの魔術師なら、十億くらいぽんって出すんじゃないかしら。私でも、冬木の街を抵当

に入れるくらいはすると思うけど』

「ああ……つまり、みんな喉から手が出るほど欲しがってると……そういうことだな」

『そういうこと。万に一つもないと思うけど、もし士郎がローゼンメイデンを手に入れるなん

てことになったら、私に譲りなさいね。それじゃあ』



 つー、つー、という無機質な音を聞きながら、大きく大きくため息をつく。



「マスター、僕の姉妹がロンドンにいるって……どうしたんですか? マスター」

「いや……蒼星石はみんなの人気者なんだなって、思ってたところさ」



 力なく微笑みながら、蒼星石の頭に手を置き、受話器を戻そうとして――



 ――何か、受話器から声を聞いたような気がして、士郎は再びそれを耳にあてた。



「もしもし、遠坂か?」

『――――――――まきますか? まきませんか?』



 男女とも、老若ともつかない声が、受話器から聞こえた。



 覚えのあり過ぎるないように眩暈を覚えつつ、どうしたものかと蒼星石を見れば、その声

が聞こえなかったのだろう、乗せられたままの士郎の手に、また子犬になっている。



「……まくよ、まけばいいんだろ?」



 投げやりに答えると、電話はぶつりと切れ、また無機質な音が流れ始めた。



 さて……今度はいつ、どんな風にやってくるのか――



「まぁ、いいか。さて、洗物の続きでもぉっ!!」



 唐突な、それなりの重量のある一撃が、後頭部を襲った。眩暈――倒れそうになる体をど

うにか支え、ちかちかする目に手をやりながら、何事か――解ってはいたが――振り返る。







 そこにあったのは、当たり前のように衛宮士郎の解析を受け付けない、素材不明のトラン

クが一つ……



「遠坂には秘密にしないとな……」



 それが無理だと確信しながらも呟き、士郎はまた、ため息をついた。

















「さて、図らずも蒼星石の姉妹を呼び出すことに成功してしまった訳だけど……」



 洗物を済ませ、居間……ちゃぶ台の上に何処からか届いたトランクを置き、士郎と蒼星石

は向かい合って座る。漂うレンピカにも目をやりながら、



「この中にいるのが誰なのか、心当たりがあるなら聞かせてほしい」

「ロンドンにいる三人はマスターの話を聞く限り、僕の双子の姉さんの翠星石と真紅、後は

雛苺だと思います。そうすると、残りは金糸雀か、水銀燈か、薔薇水晶ということになりま

すけど……」

「その三人に何か問題が?」

「いえ、多分誰が出てきても問題にはならないと思います。向こうで真紅達三人が結託して

る限り、今回のアリスゲームは流れるのではないかと」

「頼もしいな、蒼星石のお姉さんは」

「僕の自慢の姉さんです。それで、残りの三人なんですけど、金糸雀は空回り、薔薇水晶は

解りません。水銀燈は僕達の中でも一番好戦的ですけど……だいじょうぶです。もし、水銀

燈がマスターに攻撃してきても、僕が何とかしますから」

「じゃあ、その水銀燈でないことを祈ろうか。だからって、騒々しいのとか、訳がわからな

い娘が増えられても困るけど……」



 苦笑を浮かべながら、士郎はトランクを上け――







 胴体につながっていない首に睨まれた。



 驚きで心臓が本気で止まるかと思ったのは、初めての経験だった。



「水銀燈……ですね」

「…………好戦的な彼女か。何も、生首で登場しなくても、と思うけど……慌てないんだな、

蒼星石」



 身内の負傷には大慌てするタイプだと思っていたのだが、その落ち着きっぷりは見事なも

のだった。水銀燈の首を持ってじっと睨めっこなどしている姿には、頼もしさすら覚える。



「これはただ、点検のために分解されているだけみたいですから、組みなおして発条を巻け

ば、元に戻ります。僕だと組むのにはちょっと時間がかかりますけど……マスター、組めま

せんか?」

「難しいことを聞くねぇ……」



 トランクから右腕を取り上げ、唸る。




 水銀燈は首、胴体、腕、脚に分解されていて、脚は膝から、腕は根元から外されているの

だが、解析をしてもその出来の素晴らしさが頭に入ってくるばかりで、どうやっても組めば

いいか、という情報は欠片も得られない。物理的にジョイントしているのではない、という

ことは解るが、それだけだった。



「この娘が剣だって言うなら、どうにかしてみせるけど、魔術ってことになると俺には……

完成品があるなら、話は別だけど――」




 言って、士郎の目が蒼星石にとまる。ぽんっ、と名案だとばかりに手を打ち、



「脱いでくれ、蒼星石」



 とんでもないことをぬかしやがった。



 言われた方の蒼星石も、最初はその言葉を理解できなかったのか、ぽ〜っと、士郎を見返

すばかり。しかし、その言葉を咀嚼して吟味し、体の中にまで吸収すると――火がついたよ

うに真っ赤になった。



「あの、その、脱げって……服を、ですか?」

「ああ。蒼星石の解析ができれば、この娘も組めるようになるだろうしな。蒼星石に任せれ

ば組めるみたいだけど、時間がかかるみたいだし。蒼星石も、いつまでもばらばらにしてお

くのも目覚めが悪いだろ?」

「確かにそうですけど……でも、僕はこんなかっこしてますけど……僕なんて言ってますけ

ど……僕も一応、女の子ですから……」



 そこまで蒼星石に言われて初めて、士郎は自分がどんなことを口走ったのか気づいた。



 人形というステータスに目が行って、彼女の性別を失念していたらしい。無垢な乙女の雛

形というなら人並みに……いや、人並み以上に羞恥心を持っていてもおかしくはない。



 しかも、目の前の少女人形は自分のことをマスター……ご主人様と呼んでくれる。一晩一

緒に過ごした感触では、控えめに言っても大抵の願い事は聞いてくれそうな感じだった。そ

れが、蒼星石の意思に反することでも――例えば、服を脱げと昼間から言われても、恥辱に

耐えながら、そうしてくれることだろう……思わず頭に浮かんだその姿にときめいてしまっ

たのは、多分、とても悪いことだ。



「いや、悪い、俺の失言だった。蒼星石のこと何も考えないで――」

「いえ! マスターは何も悪くありません。僕の仕事は、マスターの願い事をきくことです

……確かに服を脱ぐのは恥ずかしいですけど、マスターの言う通りにできることは、僕にと

っても嬉しいことですから――」



 もじもじとする蒼星石。士郎は顔も知らないローゼンに、何か、思いのたけをぶつけたく

なった。彼の目指した無垢な少女というものが、今の蒼星石を見ていると何だかとてもとろ

くでもないモノのように思えてくる。と言うか、何故無垢な少女などを目指したのか……い

や、この際そんなことはどうでもいいのだ。目下の問題は、下手をしたら何でも言うことを

聞いてくれそうな蒼星石と、ことが進めば蒼星石のような人形少女が増える、という可能性

……



 別に特別な関係では断じてないが、もし今のような状況のまま倫敦の凛にこのことがばれ

たら……多分、捻じ切られる。それも、色々なものを、だ。



「でも……その、やさしくしてくれたら、僕は……」



 とりあえず、それもテンパっている蒼星石を何とかするところから、始めよう。

















 結局、後ろ向きで背中を見せてもらうということで、妥協してもらった。



 照れているのか、真っ赤になって俯きながら、蒼星石は士郎の顔を見ようともしない。そ

の少しだけ残念そうにも見える顔をなるべく視界に入れないようにしながら、士郎は水銀燈

のトランクを探り、目的のものを取り出した。



 今も、士郎の薬指にはまっている指輪、それとほとんど同じものだ。その二つを近づけ―

― 一つにする。どういう理屈なのか、近くで見ていても解らなかったが……ともあれ、一回

り大きくなった指輪に、強化と同じ要領で魔力を通し、



「同調、開始」



 指輪から、魔力で紡がれた糸が吐き出され、水銀燈の腕、脚、首を瞬く間に胴体と繋ぐ。

本当に繋がったのか……引っ張ってみても、外れない。本当にあれだけで繋げることができ

たらしい。



「すごいものを作ったんだな……ローゼンっておっさんは」

「マスターだってすごいですよ。指輪の力を使いこなしたじゃないですか」

「そうでもないだろ。俺は出来が悪いからさ、俺の師匠だったらもっと上手くやるよ」

「いえ、指輪に頼らずに僕達を直すことの出来る人はいると思いますけど、指輪の力を使い

こなすことのできる人は、珍しいんです。だから、マスターは凄いんですよ」



 きらきらとした目で言われると、さすがに士郎でも悪い気はしない。どう答えたものかと

頭をかきながら、助けを求めるように辺りを見回すと、トランクの中の発条が目にとまった。



「忘れてた。発条をまかないといけないんだよな……発条穴は、と……」



 黒いゴスロリのドレスに覆われた、蒼星石に比べて少し年上に見える体に、銀色の綺麗な

髪。背中にはドレスの色よりも遥かに黒い鳥の翼がある。発条穴は翼に隠れて、背中にあっ

た。躊躇わずに差し込んで、巻く……





 水銀燈の目が、開く。



 二人と一匹の見つめるなか、彼女は二、三度瞬きをすると、ふわりと浮き上がり……士郎

の正面。蒼星石には背を向ける形で、その動きを止めた。





「尋ねるけど……」



 一瞬、聖杯戦争のあの時の光景が、フラッシュバックする。あの時は、夜、蔵の中、そし

て目の前に現れたのは、鎧姿の少女だったが――







「貴方が、私のお父様かしらぁ」













 今度の従者(てき)は、一味違った。