口の中に広がるのは、血と土の味。汗に塗れたトレーニングウェアには泥がこびり付き、

いつも他人に羨まれる銀色の髪は色々なものが混ざった液体で湿っていた。ついでに言えば

這いつくばっているせいで地面にキスをしているし、頭の上には遠慮も何もなく足の裏が乗

っけられている。



 槙原静月は今まさに、完膚なきまでに叩きのめされたところだった。鍛錬の範囲で全力を

出し戦ったが、相手はさらにその上を行く実力者だったのだ。負けるのも当然のことと言え

るが、だからと言って負けたことそのものが悔しくないという訳ではない。相手が日頃から

目の仇にしている実の父親ともなれば、なおさらだ。



「なぁ、お前もう一年になるよな? 風芽丘に通い始めて」

「そうなるな……」

「俺がさざなみ寮に来た時、薫は今のお前と同じ年齢だったけど、そりゃあ強かったぞ。退

魔師としても、剣士としてもな」



 地面とのキスを継続しているせいで顔は見えないが、耕介の声には懐かしさが滲み出てい

た。自分が生まれる前の話をする時はいつもそうだ。女の話ばかりなのがまた癪に障るが、

話に登場する女性達は皆才媛であるので、静月を交えて昔話をするときは、いつも静月は説

教をされる。



 何でもなく聞く分には面白い話なのだが、こういう状況で聞いて喜べるような話でもない。

答える静月の声に、険しさが滲み出る。



「宗主と比べるなよ。あの人は神咲のサラブレッドだろ?」

「……お前だって俺の息子だろ」

「息子だと少しでも思ってるんだったら、今すぐその汚い足を俺の頭からどけてくれ」

「お前はどこにいても俺の息子だと思ってるが……まぁいいか。今朝の鍛錬はこれで終了だ」



 耕介が足をどけると同時に、静月は全身のばねを使って一瞬で飛び上がる。手の中の得物

を握りなおす間もあればこそ、そのまま耕介の顔面に向かって叩きつける。



「……終了だって聞こえなかったか」



 鉄心入りの木刀でこちらの得物を何なく受け止めた耕介の目には、呆れ。不意打ちもいい

ところだが、こんなもので倒せるのだったら誰も苦労はしない。受け止められると解ってい

たからこその一撃だ。悪びれる風もなく、静月は得物――霊剣御架月を一振りして汚れを払

うと、鞘に納める。



「今、聞こえたような気がする。悪いな、親父」

「いーや、間違いは誰にだってあることだ。お前にも、もちろん俺にもな。だから俺がこれ

から間違いを犯したって、お前には文句を言う筋合いはない。これは解るな?」



 にやり、と悪ガキのような笑みが耕介の顔に浮かぶ。森のくまさん的な容貌をしている彼

がやると嫌味よりも愛嬌の方が先に立つが、同じ遺伝子を持っているはずの静月が同じよう

に微笑むと、気の弱い子供なら泣き出してしまう。間違いなく親子の関係であるはずなのに、

この違いは何なのだろうか……ガキの時分から疑問だ。



「俺たちはこれから徒競走をする。スタートはここ、ゴールはさざなみ寮だ。負けた方は朝

飯半分だ。はい、スタート!」



 言うが早いか、耕介は静月を待たずに全力疾走を開始する。今の今まで鍛錬をしていたの

にその疲れも見せず、四十をとおに超えた熊のような大柄な体はドップラー効果を証明する

ようにぐんぐん遠くなっていく。



 完全に取り残された。あれはやるといったら、それがどんなに子供っぽいことでもやる男

だ。ついでに勝負と名の付くもので手を抜いたりもしない。どちらも相手を選らんでするこ

とでもあるが……これが例えば、静月の母親であるリスティとの間で始まった勝負なら、耕

介はわざと負けるくらいの大人な対応をすることもある。



 だが、静月は自分との勝負で耕介が手を抜いたところを一度も見たことがない。テレビゲ

ームだろうがもっと単純な、明日の天気を予想するような賭けでも、奴はどんなに汚い方法

を使ってでも勝ちにくるのだ。



『……耕介様、もう見えないよ』

「見て分かることを繰り返すのは、嫌味ってもんだぞシルヴィ」



 頭の中に直接響くような少年の声は、静月の手に持つ刀から聞こえる。無二とも言える刀

に宿った親友に毒づきながら、静月はゆっくりとさざなみ寮に向かって歩みを進めた。







 どうせ今朝の勝負はこちらの負けなのだ。それならば、景色を見ながらゆっくりと行こう。

































「ごめんね? お父さんが『お兄ちゃんのご飯はいらない』って言ってたから……」

「いや、お前のせいじゃないぞ妹よ。悪いのは誰が考えたって、あのクソ親父だ」



 食卓に突っ伏しながら、静月は力なく答えた。ゆっくり歩いて寮につき、シャワーを浴び

てさっぱりしてから食卓につけば、そこにあるべきものはなかった。流しに捨てたとかそん

な生易しいことでもない。朝食当番の妹に話を聞けば、余ったものはどこかの熊男が全て平

らげたとのことだ。



 ちなみにその熊男はどこかに姿をくらましている。母の姿も見えないから、一緒に出かけ

たのだろう。『警察の手伝いのような』仕事という、一般人には説明のしにくい仕事につい

ている母は、よく退魔師である父の手を借りる。一緒に出かけるのはそんなに頻繁ではない

が、特に珍しいことでもない。



 だが静月の記憶では、ペナルティは朝食の半分だけだったはずだ。だからこそ手を抜いて

歩いてきたというのに、奴はそこまで見越していたのというのだろうか。朝から全速力で飯

を食いまくる熊男の姿を想像し……こらえきれない殺気が漏れる。



「こ、これから何か作ろうか?」

「やめときなよ、美月ちゃん。これから作ったら私達みんな遅刻だよ」



 殺気に怯えながらも心配そうに問うてくる妹に、もう一人の寮生が続ける。普段ならこの

時間でも、学生が主のさざなみ寮はもう少しにぎやかなのだが、用事が重なったのか、食卓

に並ぶのは三人だけだ。



 静月を除いて、一人は妹。



 銀髪長身運動神経と、両親の目立つ特徴を全て静月が持っていってしまったため、黒髪低

身長運動オンチと、兄と比べると見た目の長所にかけていたが、それでも――実の兄である

という贔屓目も入っているのだろうが――可愛らしい少女だった。



 名前は、美月という。海中の三年であり、さざなみ寮管理人である父耕介と交代で、寮生

の食事を賄っている。腕前も相当なものだ。聊か丈の合っていない制服の上にエプロンを付

けた姿は、静月の中ではさざなみ寮の名物となっている。無駄に大きい父親が厨房に立つよ

りも、よほどいい。



 もう一人は、美月の入れた紅茶を飲みながら食卓に頬杖をつき、兄妹のやりとりを微笑み

を浮かべながら眺めていた。シャギーのかかったセミロングの黒髪に、フレームなしの眼鏡。

ぱっと見た容貌は理知的に分類されるのだろうが、性格は随分いい加減なことを静月は知っ

ている。



 神咲真弓。静月と同じく神咲の退魔師であるが、彼女の所属は真鳴流だ。それも神咲の姓

が示すように本家筋の人間……しかも当代であるから静月よりも大分『偉い』のだが、本人

の言動はいたって軽く、趣味も旧家の人間のくせに漫画とゲームである。



「でも、ちゃんと朝ごはん食べないと体に悪いよ」

「神咲の退魔師はそんな柔な体はしてないよ。一日二日食べなかったところで、死にはしな

いから」

「そういう問題じゃないよー」

「んー……じゃあ、途中で何か買って、適当に静月の口に押し込めばいいじゃない。美月ち

ゃんのご飯に比べたら味は落ちるけど、今日はそれでいいでしょ?」

「……お父さん、今日はしからないといけないよね」

「それは俺からもよろしく頼む。俺が言うよりは美月が言ったほうが、あのクソ親父も応え

るだろうし」

「さ、話も纏まったところでそろそろ行こうよ。こんな馬鹿げた理由で遅刻なんてしたら、

あーや達に笑われる」

「あいつら、もう学校なのか?」



 今朝は三人と数が少ないが、普段のさざなみ寮の朝の食卓は相当に騒がしい。全員が揃え

ばもう嵐のような食事風景になる。そういった食事に慣れた静月には、静かな食卓の方に違

和感を感じるのだが、紅茶を飲む真弓や美月には落ち着きすら見られる。



 今目の前にいるのは、静かな風景が好きな連中ばかりなのだろう。あーや……あやめがい

れば静月の趣味も同意してくれるのだろうが、彼女は残念なことにここにはいない。



「あーやと冷ちゃんは実家から。家の人もたくさんいるだろうし、今頃はもう学校だと思う

よ。智君は検査入院だっけ?」

「病院から直行するって真雪さんから聞いたよ。あぁ、真雪さんは今日も泊まりだって。パ

ークハイアットの企画缶詰、絶賛続行中だよ」



 『締め切り守ってんのに何で缶詰なんだよっ!!』と、真雪が電話越しにキレていたのを

思い出す。週間一本月刊一本の連載を抱える売れっ子漫画家であるが、取材だろうが病気だ

ろうが、とにかく休載だけはしないのだ。それが企画とは言え他人に強制されて漫画を描か

されるというのは当然腹に据えかねたのだろうが……今では喜んで缶詰だ。ルームサービス

頼み放題というのが、よほど気に入ってしまったらしい。



「次に寮生が全員揃うのはいつになるんだろうな」

「次の土日には美緒さんも帰ってくるから、久しぶりに全員揃うんじゃないかな……多分」

「じゃあ、それまでに真雪さんが脱稿することを祈るしかないな。アシスタントでもしたら

どうだ? マユ」

「私だって暇じゃないよ。そりゃあ、呼ばれたら行くけどさぁ……雑誌になる前に漫画読め

るし」



 実家からの仕送りの他に退魔の仕事を掛け持ちしているから、懐具合は決して寂しいもの

ではないはずなのだが、真弓はたまに真雪のアシスタントをこなす。



 修羅場限定の臨時雇いらしいが、チーフアシスタントを務める真雪の養子である智の話で

は、『退魔師を廃業しても漫画家のアシスタントとして生計を立てられる』くらいの腕はし

ているとのこと。



 手先が器用だとは本人も言っていることではあるが、ものには限度があると、生来手先が

不器用な静月は心の底から思う。



「読んだら内容教えてくれよ」

「やだよ。私が真雪さんに殴られるもの。知りたかったら静月もアシスタントやったら?」

「朝から喧嘩売ってるのかお前は……」

「ん、言ってみただけ。そういうのは美月ちゃんの方が得意だもんね?」



 台所をぱたぱたとうろついて戻ってきた美月に、真弓は後ろから抱きつく。身長の関係で

すっぽりと腕におさまってしまう美月は、真弓の腕の中でわたわたもがくものの、真弓も伊

達に退魔師をしている訳ではない。巧に腕を体を動かし、美月を逃がさない。



「あー……いい抱き心地だね。冷ちゃんもいいけど、やっぱり美月ちゃんが一番だ」

「うちの妹をそういう道に引きずり込むのはやめてもらえないかな」

「静月がどういう道を想像してるのか知らないけど、私の性癖はノーマルだよ? 別に女の

子が好きな訳じゃない。男の子にだって興味はあるもの」

「じゃあ、何で私や冷ちゃんに抱きつくんですか?」

「それはそれ、美月ちゃんも冷ちゃんも抱きついてくれと言わんばかりの大きさをしてるか

らね。ぬいぐるみ感覚? かわいいじゃない」



 マスコットのような美月の容姿を考えれば、真弓の言っていることも分からないでもない

静月だったが、ここでさざなみ寮の台所の半分を預かっている妹の助けて光線を無視しては、

兄としての沽券に関わるだけでなく、兵糧攻めをされかねない。育ち盛りの男子にとって、

食い気とはとても重要なものなのだ。



「何でもいいから、さっさと美月を離せ」

「わかったわかった。全く、お兄ちゃんはシスコンで困るね」



 真弓の腕から開放されると、美月は一目散に静月の後ろに隠れる。まるで小動物なその反

応に、真弓は苦笑を浮かべて肩をすくめ、顔を寄せて静月に耳打ちする。



「嫌われちゃったかな?」

「それが嫌なら付きあい方を考えろ」

「それは無理。だって美月ちゃんかわいいもの」



 隠れる美月に小さく手を振る様には、悪びれる様子は微塵もない。これが神咲の一翼を担

っているのかと思うと気分の重くなる静月だった。こんな気分の時には目的地も定めず、気

の向くまま足の向くままツーリングでも出来れば最高なのだが、生憎と静月を含めたそこに

いる全員は学生で、今日は平日だ。学校には行かなければならない。



「さあ、早いところ出発しようじゃないの。今日は朝から美月ちゃんに抱きつけたし、いい

ことがありそうだ」



 足取り軽い同僚の姿を胡乱に眺め、静月は妹と顔を見合わせてため息をついた。お調子者

の真弓の機嫌がいいと碌なことにならないということを、兄妹は過去の経験から知っている。

加えて退魔師としての勘が、その予知により現実味を持たせた。



 朝も早くから地面を転がり、朝食は抜き。今の段階でも厄はついて回っているが、ここか

らさらに運気が下降するのだと思うと、流石に静月の気分も滅入ってくる。



(勘弁してほしいんだがね、まったく……)



 心中で呟くが、一旦下降してしまった運気はどうしようもない。幸運を呼び込むことはで

きないこともないが、人間の技術の範疇では急激な運気の回復は不可能なのだ。



 靴を突っかけながら、玄関に置きっぱなしになっていた新聞を何気なく捲る。テレビ欄か

ら始まり、記事をいくつも流して読みながら、静月の目はぴたり、と一つのコーナーで止ま

った。



「金運、最低。ラブ運、最低。学業運、まぁまぁ。ラッキーアイテムは……ビニール傘」





 空を見上げると、そこには嫌味なくらいに晴れ渡った空が広がっていた。

























「納得がいきません!」

「あぁ、やっぱりな……」



 学園の正門に差し掛かった辺りで、静月の予感は現実に変わった。通学途中に産気づいた

妊婦さんもトラックに追突されることもトーストを咥えた転校生とぶつかることもなく、せ

めて学校に着くまでは何事もないか、と思った矢先の出来ことだった。



「世の中甘くないね、お兄ちゃん」

「まったくだ」



 正門前には生徒の人だかり。風紀委員の抜き打ち検査だろうか、先の声の主の他にも文句

を言う生徒がちらほら見える。どこの学校でも風紀委員は嫌われ者だが、自由な校風が売り

の風芽丘ではその嫌われ度もまた一入だ。



「えー、また抜き打ち検査? 今月だけでもう二回目じゃない」

「年度が変わったばっかりだから、風紀委員も気合が入ってるんだろ」



 多分に漏れず、静月も彼らを嫌っていた。登校初日に、地毛の銀髪を染め直して来いと因

縁を付けられたのが始まりだ。その時に態度のでかい上級生を投げ飛ばしたことを根に持っ

ているのか、それからは静月が他校の所謂『柄の悪い』生徒とつるんでいる所を見つけては

呼び出し、深夜に街を歩いている所を目撃しては呼び出しと事あるごとに突っかかってくる。



 無論、こういった持ち物検査の時は何とかして粗を探そうとする彼らに、鞄の全て放り出

される。それで遅刻をしても、もちろん彼らは何も便宜を図ってはくれない。



 幸いにも静月の担任は理解のある人で、事情を話せば遅刻を取り消してはくれるのだが、

疚しいことのない静月にしてみればいらぬ手間だ。



 正直、裏のフェンスでも飛び越えていきたいところではあるが、以前それをやって以来、

正門で姿が見えなかったときは、奴らは態々確認しにやってくる。よほど暇なのだろうと

そんな類のことを言ってやったら、真っ赤になってつかみかかってきたので投げ飛ばして

みた。ブラックリストにも載る訳だと自分でも思うが、間違ったことをしているとは欠片

も思わない。



「ねぇ、さっきの声って冷ちゃんじゃない?」

「あー……そういえばそんな気もするな。マユ、見えないか?」

「私の方が静月よりもチビなのに、見える訳ないでしょ? それより、冷ちゃんが一緒な

ら、あーやも一緒じゃない? いいの? 助けなくって」

「俺が助けるまでもないと思うが……」

「静月がいかないと、多分流血沙汰になるよ」



 そうなれば、問題はどうせ静月のところにまで巡ってくる。彼女らとの関係は調べれば

すぐに分かることではあるし、今の段階で問題にならないことなどありえないのだが、こ

のまま任せっぱなしにすれば、血の気の多い彼女のことだ、真弓の言うとおり流血沙汰に

なるのは間違いがない。



「お前が行ってもいいんだぞ?」

「静月が行ったほうが効果があるでしょ?」

「まったくだ……行って来る。鞄は隙を見て、俺の教室に届けてくれ」

「持ち物検査、どうするのさ」

「どうせこれからやっつけになる。奴らの気が散ったら狙い目だぞ」

「悪い子だ〜」



 そう言いつつも、真弓の顔には悪ガキのような笑みが浮かんでいる。漫画雑誌や携帯ゲー

ム機を持ち込むかどで、彼女も静月ほどではないが風紀委員には目を付けられているのだ。

理由はどうあれ抜き打ち検査がなくなるのは渡りに船だろう。後で何かを奢らせても、罰は

当たるまい。



「ちょっとどいてもらえるか?」



 人ごみの中に強引に割り込む。睨み返してくる生徒もいたが、目を合わせて軽く手を振っ

てやると、彼らはにやりと笑って道を譲ってくれた。反対側からも、静月が現れたことに気

付いた生徒達から、歓声に近いざわめきがあがる。中には『これで抜けられる!』とバカっ

正直に言っている生徒もおり、それは段々と全体に広がっていった。



「よぉ、朝からどうした」



 人ごみを抜ける頃には、周囲は祭さながらの熱気に包まれていた。



 現れた静月に風紀委員は担当の教師も含めて苦い顔を向け、先に大声をあげた生徒は親の

仇でも見るかのように彼らを睨みやっていたが、現れた静月を見やると、



「静月様!」



 と、顔を綻ばせて駆け寄ってきた。



 制服は高等部の一年、身長は――本人に言ったらいい顔はしないが、小学生と見紛うくら

いに小さい。いまどき珍しい夜の闇のような黒色の髪は日本人形のように切りそろえられて

おり、華奢な体型と相まって、彼女に不思議な魅力を与えていた。



 これで着物でも着て黙って立てば、絶滅危惧種の大和撫子の出来上がりなのだが、先ほど

の声に代表されるように、目の前の少女はとてもとても気が強い。



「おはようございます、静月様。ご機嫌はいかがですか?」



 言って、一礼。血の気が多くて気が強くても、叩き込まれた礼儀作法は彼女を裏切らない。

その仕草だけはとても優雅で、これだけを見ればとても先ほどまで言い争いをしていたとは

思わないだろう。



「さっきまでは底辺を這ってたけどな、段々悪くなくなってきた」



 ぽんぽん、と少女の頭を撫で、辺りを見回す。



「で、何事だよ、これは。お前が難癖付けられるようには思えないけどな」

「はい。それはそこの失礼な輩が、あやめに絡みまして」

「うちはやりすごしときー、いうたんやけどなー」



 言葉に力の篭る黒い少女の言葉とは対照的に、彼女に示された少女の声には覇気がまるで

感じられない。そのそよ風にからから回る、風車のようなとぼけた雰囲気が冷の癪に障るの

か、沈静化した冷の熱が、再び戻る。



「当然の権利を侵害されて、黙っているというのですか?」

「こういうのは、黙ってはいはいうなずいとったらどうにかなるもんやって。朝からそない

にカッカすると、背ぇ伸びひんよ」

「わ、私の身長のことは関係ありません!」

「まー、冷の身長のことは追々話すとして――」



 置いておいて、のジャスチャーをして初めて、その少女は静月に目を向けた。



 緩いウェーブのかかった、腰まで届く金髪。卸したての制服に包まれる体は、思春期の青

年なら目のやり場に困るほどに発育している。それに、蒼い瞳。一目で異国の血が混じって

いることが分かる容姿だが、彼女の口から紡ぎだされるのは艶っぽい言葉でも流暢な英語で

もなかった。



「うちの髪な、あっちの兄ちゃんが黒に染めて来い言うんよ。別にうちは黒って嫌いやない

し、たまには染めてみるんもいいかなぁと思っとったから、別にえーねんけど――」

「あー、もういい。大体の事情は分かった」



 要するに自分と同じ問題に直面していたということか。去年とはメンバーもいくらか変わ

っているはずなのに、言っていることはまるで変わらない。頭をかきながら風紀委員に向き

直ると、代表して委員長らしき人物が進み出てくる。不機嫌な様子を隠そうともしない彼に、

静月も苦笑でもって応えた。



「こいつの髪は地毛だぞ?」

「派手な頭髪は公序良俗に反する。地毛であるかどうかというのはこの際関係はない。彼女

の髪の色を真似する生徒が出ないとも考えられないことではない」

「何でこいつが他人の責任まで取らなきゃなんねーんだよ。黒に染めろってのもナンセンス

だぞ。髪を染めるのは校則違反じゃないのかよ」

「砕けた言い方をすれば、派手な色に染めることが校則違反だ。地味な色に染め直すことは

校則に違反しない。それはお前にも一年前に説明したことだと思うが……」



 じ、と委員長の顔を見る……思い出した。入学式の日、自分の髪に因縁を付けてきた男、

本人だった。



「出世したんだな。今じゃあんたが委員長か」

「今まで以上に厳しく取り締まるから、そのつもりでいろ」

「取り締まりが遣りたいなら、何だってここに入ったんだよあんた……」

「家から近かったからな」



 彼なりのジョークのつもりだったのか、委員長は一瞬だけ笑みを浮かべると踵を返した。



「お前とはとことんまで議論をしたいところではあるが、HRの開始時刻が迫っているから

な。今回は見逃そう」

「……驚いたな。お前らにも時間を気にしてやる風習ができたのか?」

「委員会活動が原因で遅刻をしたと、難癖を付ける輩が最近多くてな。全員、撤収しろ」



 委員長の号令の元、統率の取れた軍隊のようにテキパキとテーブル等を片付け、ぞろぞろ

と列をなして風紀委員は去っていく。



「最後にそちらの……一年生の二人」



 決して友好的とは言えない委員長の肩越しの視線に、黒髪の少女は憮然と、金髪の少女は

小首を傾げて応える。



「クラスと名前を教えてもらえるか? 今後の仕事の参考にしたい」



 黒髪の少女が静月を見上げる。それを『判断を任せる』という意思表示と取った静月は、

こんな奴に名前を言いたくはない、という彼女の意思も同時に汲み取っていたが、教えてや

れ、と頷いた。



 うっ、と黒髪の少女は恨みがましい目を静月に向けるが、やがて観念したのか、余所行き

の顔で委員長に向き直り、小さく頭を下げる。



「風芽丘学園一年D組、氷村冷です」

「同じく、綺堂あやめや。よろしゅうな、とは言えんみたいやけど」



 二人が名乗った名前、特にその名字に委員長は驚きの表情を見せる。



「一年の中に『夜の一族』の名家の者がいると聞いたが、なるほど、君たちがそうか」

「『夜の一族』だったら、何か不都合なことでも?」

「何も。同じ社会に生きる以上、共通して守るべきルールはあるはずだ。そのルールの前に

は人間も『夜の一族』も関係ない」

「偏見を持ってないようで安心したよ」



 委員長の言葉に、静月は風芽丘に入って初めて彼に向けて笑みを浮かべた。







 『夜の一族』の長老達が中心となって行った、表の世界への働きかけ――彼らの存在が表

の世界で当たり前のように語られるようになってから、十数年の月日が流れている。



 人間との融和を目指した彼らの方策は、しかし念入りな根回しの末の施行であったにも関

わらず関係各位との多大な軋轢を生んだ。望んだ世界とは対照的に、以前にも増して迫害を

始めた国も少なくはない。



 そんな中、公然と『夜の一族』との融和を打ち出した国もある。世界的に見れば小数では

あるが、日本もそんな国の一つだった。長期的な視野に立ち、まずは『夜の一族』が普通に

暮らせる地域を作ろうと、国内にいくつかのモデルケースを作った。



 その一つが、ここ海鳴である。かねてより『夜の一族』の旧家が腰を落ち着けていたこと

もあり、『夜の一族』の人口密度はモデルケースの中でもトップクラスを誇る。



 全体的に大らかな住民性のせいか、モデルケースのスタートから目立った問題は起こって

おらず、順調に住民との混血化も進んでいた。静月達の少し下――今の中等部くらいがその

最初のケースであり、後数年もすれば彼らは成人する。



 非常にゆっくりとではあるが、世界は段々と変わろうとしているのだった











「…………少しだけ、貴方を見直しましたわ」

「ありがとう、と応えておこう。しかし、それで次に私が手を緩めるとは思わないことだ」

「励まし、と受け取っておきますわ」



 嫣然とした冷の微笑みをつまらなそうに眺め、委員長は先に去ったヒラ委員達に続く。





「早速目を付けられたみたいだな、お前ら」

「静月様の心配には及びませんわ。あの程度の男なら、私一人でもあしらってご覧にいれます」

「うちも負けへんから、安心してなぁ」

「頼もしい限りだ……」



 風紀委員を撃退したことを褒め称えるように、通り過ぎざまに肩を遠慮なしにバシバシ叩

いていく生徒達を鬱陶しげに眺めながら、静月は辺りを見回す。



「マユと美月はどうした。ちゃんとバックれたか?」

「静月がいいんちょと話してる時に、こそこそ入ってったよ。てぇ合わせとったから、感謝

はされとるみたいやなぁ」

「なら、放課後はマユのおごりで翠屋だな。俺も美那も今日はバイトが休みだから、皆でゆ

っくりするとしようか」

「では、美月と智には私が連絡をしておきましょう。放課後、正門に集合ということでよ

ろしいですか?」

「ん、構わんだろ」



 頷いて歩き始めると、あやめは隣に、冷は数歩だけ後ろに立って続く。



「……あー、ところで冷、ビニール傘とか持ってないか?」

「折りたたみの傘でよろしければ持っていますが……お貸ししましょうか?」

「いや、持ってないならいい。ビニールじゃないと意味がないんだ」

「ご要望とあらば買ってきますが」

「そこまでするほどのもんでもない。悪かった、気にしないでくれ」



 育ちのいい冷がそんなものを持っているはずもなし、静月もそこまで期待していた訳では

ない。ないのだが、いざ手元にないとなると気になって仕方がない。それが例え、その日に

しか効果のない下らないラッキーアイテムだとしても。



「…………買うか」



 冷には聞こえないように小さく小さく呟き、ため息をつく。実に、無駄な出費だ。



























「しーちゃん、おはよー」


 一年のあやめ達と別れ教室に着けば、待っていたのは見慣れた少女の姿。朝から風紀委員

の相手をして無駄に気分がささくれ立っていただけに、邪険に扱うのが普通の子犬少女に対

しても、何だか優しくしてもいいような気さえしてくる。


「おはよう。朝から何も考えてなさそうだな、美那」

「えー? 私はいつもしーちゃんのこと考えてるよ?」

「だからお前はおバカさんなんだな」



 いつもより三割増しくらいの愛情を美那に注ぎ、机に。頼んでおいた鞄がきちんとそこに

あることを確認し、椅子にどっかと腰を下ろす。



 ちなみに美那の席は静月の前だ。授業中も遠慮なく話しかけてくるので、教師の目が日々

痛い。



「ねぇ、今日は何すればいい?」

「お前は俺に聞かないと、今日の予定も立てられないのか」

「だって、私は一ヶ月しーちゃんの下僕だもん。何でもするよ? お買い物から遊び相手ま

で」



 下僕、という単語に、周囲で聞き耳を立てていたクラスメイトの動きが、一瞬だけ止まる。

それからすぐに彼らは再起動したが、先ほどよりもこちらの会話に集中していることが、気

配で分かった。



 無論静月とて、美那を下僕として使うことを考えていなかった訳ではない。かばん持ちな

んてしょうもないことから、バイトのシフト変更などのそれなりに切実なものまで、やらせ

ようと思っていたことは両手の指では足りないくらいにあったが、ここでそんなことを口に

すれば、クラスメートにからかわれるのは目に見えている。



 彼らは何かと自分と美那をワンセットで考える節がある。付け入る隙を与える訳にはいか

ない。



「取り立てて、お前に頼むことはないな」



 とりあえず心にもないことを言ってお茶を濁すと、美那とクラスメートは揃って落胆した。



「何かつまんない」

「まぁそのうちこき使ってやるから、覚悟はしておけ」

「んー……しーちゃんと一緒にバイトしてる時、私だけ働くとか?」

「それじゃ、ただの外道だろうが」



 それにそんな目に見える形でこき使っていては、美那の父親に何をされるか分かったもの

ではない。海鳴にいないことの多い彼だが、娘のピンチには異常に鼻が利く。例え前日に南

米はアマゾンにいたとしても、彼のセンサーに反応があればそれこそ飛んででも帰ってくる

だろう。そんな親バカを通り越した、親・グレート・バカな男なのだ。



「バイトやる時は真面目な俺だから安心しろ」

「そうだよね……しーちゃん昔っから、なのはお姉さんが前にいると私に構ってくれなかっ

たもんね。バイトの時は、真面目しーちゃんだもんね……」

「……お前、今日はやけに突っかかるな。どうした、反抗期か?」

「んー、だって下僕らしいことしてないんだもん。何かしたいよ、ご主人様ぁ」

「次に人前でその呼び方してみろ。一週間は口きかねーからな、覚えとけ」

「じゃあ、何かお仕事ちょうだい」

「態度のデカい下僕だな、ったく……」



 無意味にこき使うという選択肢が静月の脳裏に浮かぶが、クラスメートはいまだに聞き耳

を立てていた。それどころか、『奴隷、奴隷』と小さなコールがクラスの隅から聞こえる。

ちらと目を向けると、キラキラと目を輝かせている男子数人と目が合った。ぐっ、と力強く

親指を立てる彼らに、同じ形の右手を下に向けて答える。



「……放課後、翠屋を使いたい。あの時間は混むからな。奥の席を取っておいてくれと、桃

子さんに言っておいてくれないか?」

「そんなのお安い御用だけど、みんなも一緒?」

「俺、美月、あやめ、冷、マユは確定。智が不確定だが、美月が引っ張ってくるだろう。後

はお前も入れて、七人だな」

「私も誘ってくれるんだ、嬉しいなぁ。あ、雫ちゃんも誘っていい?」

「奴はお前が誘えよ。俺はあいつに嫌われてるから」



 一つ下の学年である美那の腹違いの妹は、その父親に負けず劣らずのシスコンだ。美那に

とっては同門の御神の剣士であり、静月にとっても幼なじみである。



 だが、昔から静月と美那のスタンスは変わっていないため、彼女の目には自分が美那を取

ったという風に映っているらしい。美那の前ではいい子ぶっているが、そうでなければ彼女

は殴る蹴るくらいは当たり前のようにしてくる。



 それがもうかれこれ十数年続いているのだ。常識的な神経をしている人間なら、嫌われて

いると思うのも尤もだと思うのだが、



「そうかなー。雫ちゃん、照れてるだけだって」



 みんな仲良く的嗜好を持っている美那は、彼女以外の全員が気付いているようなことでも

中々認識してくれなかった。幼なじみの壊滅的な愚鈍に、静月は苦笑を浮かべる。



「時々、お前の無神経さがうらやましいな」

「えへ、しーちゃんに褒められた」

「褒めてねえよ……」



 苦笑を維持したまますばやく、美那の額にデコピンを打ち込む。右手に確かな手応え、美

那は恨みがましくこちらを見返してくるが、静月は知らん顔を決め込んで窓の外に視線をや

る。相変わらず、雨が降るような気配はない。



(どうすっかな、ビニ傘……)



 今朝はめぐり合わせが悪かったが、放課後の予定も問題なくたった。誰かが用事で欠けて

いることがほとんどなので、平日にここまでの大人数が揃うのは稀だ。顔に出してなどやら

ないし言葉にするなどもっての他だが、仲間と呼べる彼らと集まって何でもない時間を過ご

すことは、静月にとってもとても楽しみなことだ。



 なんとなくではあるが、運の下降も早くも陰りを見せたような気がする。必要のないアイ

テムを買わなくても済むか、と何となく思ったところで教師が入ってきた。美那はじゃーね、

と小さく呟いて、自分の席へとかけていく。





 窓の外を眺めるのをやめ、教師を見る。



 定年も近い初老の教師は、見覚えのない人間を連れていた。中途半端な長さの黒髪に眼鏡

をかけた、風が吹けば飛んでいってしまいそうな程に儚い……というよりも、存在感の薄い

少女だった。肌が弱いのか、両手には薄い白色の布手袋をしている。



 伏し目がちな眼鏡の奥の瞳がゆっくりと持ち上がり、静月の方を向く。一瞬だけの交錯―

―そこに何か力のような何かを感じた静月は本能的に体を強張らせるが、転校生の視線は何

事もなかったかのようにゆっくりと、虚空へと戻る。





「見ての通り転校生が加わることになった。自己紹介をしてもらえるかな」

「はい……」





 担任の言葉に、転校生はたっぷり三秒をかけてクラスを見回すと、やる気の感じられない

動作で頭を下げた。













「……白沢水無(みずな)です。よろしくお願いします」