100000ヒットキリ番SS













『恐いお姉さん』






















1、

「ふぅ……」

 重量のあるダンボールを床に降ろし、大きくため息をつく。大きくひび割れて使いもの
にならなくなったでかい三角定規『だった』ものや、穴の空いた、というよりも大きく裂
けたバスケットボールの残骸など、周囲にあるモノは須らく役に立ちそうもないものばか
りであった。

 使わないのなら捨てればいいように思うが、難儀なことにここにあるのはどれも、直せ
ば使えるかもしれない、という期待を人間に持たせてやまない。それらをここに放置した
人間は、未来の人間が修理して使うことを望んでいたのだろうが、その未来の人間を代表
して言わせてもらうのなら、『面倒事を押し付けられるなどごめん』だ。

「そっちは終わったかい、恭也君」

 埃の舞う中、共に過去からの面倒を押し付けられた人間が、声をあげる。長い艶やかな
髪に柔和な容貌。女性に関する基準の高い恭也の目から見ても、十二分に魅力的な容貌を
持った人間は、残念なことに彼女ではなく『彼』であった。

「こちらは何とか。真一郎さんの半分程度の割り当てでしたからね。せめてさっさと終わ
らせないと申し訳がたちません」
「時間当たりの仕事量は恭也君の方が多いと思うよ。俺達は昼からやってこれだったもの」

 首にかけたタオルで、汗を拭う真一郎。気を抜くと今でも女性に見える彼なのに、その
姿は中々様になっている。

「それよりも、悪いね。俺達だけでやりゃあよかったのに、卒業生の恭也君まで巻き込ん
じゃってさ」
「鷹城先生や真一郎さんにはお世話になってますからね、これくらいはしないと。それに
俺は家で暇を持て余していただけですから、ただの荷物整理と言えど、いい運動になりま
す」
「そう言ってもらえると、押し付けてしまった俺も助かるよ。あれと二人で始めた時には、
今日中に終わるかどうかすら疑問だったけど、こうして終わっていると壮観だね」

 物が乱雑に押し込められていた部屋も、二人の努力の甲斐あって今ではそれなりに見栄
えがしている。やったことは物を適当なダンボールに押し込めて積んだだけだが、この綺
麗な空間を自分達の力で作ったとなると、それはそれで気分がいい。

 身軽な格好でここ――母校である風芽丘学園まで来てくれと言われた時には何事かと思
ったが、終わりよければ全てよしである。

「懐かしいかい?」
「ここが、ですか? そうでもありませんね。まだ妹らがここに通ってますし、時々来た
りもしてますから」
「剣道部と護身道部の指導だっけ? 恭也君は部員じゃなかったのに、大変だね」
「俺はあくまで付き添いですからね。剣道部の本命は赤星――俺の友人なんですけど、そ
いつですから。護身道部に限っては、俺は本当にいるだけですよ。鷹城先生もいますから、
することなんてめったにありませんし」

 言って、恭也は苦笑する。親しい人間にはいつも言っていることだが、剣道や護身道な
ど、一般に言われる武道と御神流ではそもそも毛色が違う。それでも剣道はどうにかなる
が、護身道の方は問題だ。

 御神の技にも体術は存在するが、それらは実戦的すぎてとてもではないが、教えられる
ものではないし、弟子でもない女性と取っ組み合いをするのも、いかに枯れていると常日
頃言われている恭也でも、いただけない。世話になっている唯子の頼みだから聞いている
が、正直ちゃんと指導できているかどうか不安でしょうがない。

 その旨を真一郎に伝えると、真一郎は一瞬だけきょとんとした後、笑い出した。

「大丈夫だから安心しなって。ちゃんと恭也君が教える時には、女の子は来てくれるんだ
ろ?」
「来てはくれますし、話も聞いてくれます。生徒としては――」
「およそ理想的、だろ?」
「……ええ」
「なら、自分の仕事を疑うのはよしておいた方がいい。恭也君はきっと役にたってるよ。
どうしても疑うってのなら……唯子〜」
「……呼んだ?」

 隣りの部屋で作業をしていた唯子がひょっこり顔を出す。

「恭也君は、護身道部で役に立ってるだろ?」
「もうすっごく助かってるよ。高町君が来てくれるだけで、女の子たくさん来てくれるも
ん」
「……だ、そうだよ」
「そう言っていただけると助かります。しかし鷹城先生、俺のために女性が集まっている
というのは誤解ですよ。おそらく、鷹城先生のおかげで女生徒の防犯意識が高まっている
のだと思いますが」
『……』

 顔を見合わせる、真一郎と唯子。恭也を混ぜぬように目で会話をしているようだが、何
となく非難されていることは、気配で解かった。

「何か、俺はまずいことを言ったのでしょうか?」
「……俺の口からは何とも。それが恭也君の味なんだろうから、俺から言うべきことはき
っと何もないよ」
「そうそう。高町君はそのまま大人になった方がいいよ」

 誰が見ても分かりそうな不自然な笑顔の二人。やはり、非難はされているようだが,折
角の配慮だ。つまらないことを気にするのはやめにしよう。

 恭也は大きくため息をつき、タオルで汗を拭った。

「鷹城先生、こちらの作業は終わりましたよ。他に何か手伝えることはありませんか?」
「あれ、もう終わっちゃったの? 唯子は明日までかかると思ってたんだけど……」
「それだけ恭也君が働いてくれたってことだろ? ところで、お礼も兼ねて恭也君を今日
のイベントに招待しようかと思うんだけど、いいかね」
「唯子はいいと思うよ。ね、高町君は来てくれるよね?」
「……すいません。どうにも話が見えんのですが」
「この後ね、俺達の同窓会みたいなのを翠屋でやることになってるんだ。恭也君には態々
休日に手伝ってくれたお礼として、それに参加してもらいたいんだけど」
「そういうことですか……」

 そう言えば、今日は店が貸切とか店長が家で言っていたような気がする。

「同窓会のようなものというのなら、俺が行くというのも場違いなのではありませんか?」
「それはいいんじゃないかな? こう言っちゃなんだけど、今日来る人達はみんなそうい
うことには大雑把だからさ。男は俺しかいないし、歓迎されると思うよ」
「女性ばかり……ですか」

 心優しい女顔の青年の知り合いで『大雑把』な女性達。それが、翠屋を貸切にするくら
いの人数いらっしゃるという。そんな場所に顔を出せばどうなるか……考えるまでもない。
彼女達に遊ばれる自分という人間が、手に見て取れる。

 しかし、頭の中の彼女達にしても目の前の真一郎にしても、そういった行為に悪気はな
いのだろう。それだけに余計に性質が悪いとも言えるのだが、それだけで断るというのは
男としても翠屋の店長としても気が引けた。

「何か、用事があったりする?」
「いえ。俺でよければ喜んで御一緒します」

 悲しげな真一郎の声に恭也は反射的に答える。真一郎は『よかった』と、笑みを零した。

 女性のお願いに弱い、というのは恭也の中ではもはや悟りに近いものであるのだが、目
の前の女顔の青年の願いも、同じように断ることができないらしい。

(女性よりも女性らしいと言ったら、怒るのだろうな……)

 顔には出さずに、心の中だけで苦笑する。

 だが、そういった女性的な要素を持っていたとしても真一郎は『強い』。力とか技術と
かそういったものではなく、心が。

 無論のこと、真一郎に力や技術がない訳ではない。明心館本部、師範代クラスの中では
彼は群を抜いて若いし、才覚もある。

 戦ったところで負けるつもりはない。それでも、恭也の中で真一郎は最も身近な目標な
のだ。そんな真一郎の誘いをどうして断れるだろうか……いや、断れるはずもない。

「じゃあ、さっさと片付けを済ませちゃおう。あの人達を待たせるのは、色々な意味で怖
い……」
「腕の立つ方がいらっしゃるんですか?」
「戦えば恭也君の方が強いと思うけど、俺はもう五回は半殺しにされたよ。あの人達の恐
ろしさは、そういうことをノリでやっちゃうところさ。無駄に自分の血を見たくないなら
悪いことは言わない。あの人達には逆らわない方がいい」
「……心に刻んでおきます」

 まるで幽鬼に出会った生娘のように、真一郎の顔は真っ青だ。そんな話を聞いて後悔の
念が湧かぬはずもないが、今から行かないなどと言ったら真一郎はきっと本気で泣きつい
てくることだろう。

 やはり男は女性に勝てない。自らの悟りを一層深くした恭也は、今度は本当にため息を
ついたのだった。






















2、

 そこには甘い香りが充満していた。設えられたテーブルに並べられた自慢のデザート。
かなりの量があるがそれでもまだ足りないのか、厨房ではスタッフが忙しそうに働いてい
る。

 軽食などもあるにはあるが、ここの基本はあくまでデザートである。甘味の好きな人間
にはたまらない光景なのだろうが――

「恭也君、感想は?」
「吐き気がします」

 甘味が苦手な人間にはまさに地獄であった。さすがに以前のように卒倒したりはしない
が、ストレスがたまってしょうがない。

 それらの思いが顔に出ていたのだろう、真一郎は苦笑して『ごめんね』と軽く頭を下げ
た。

「苦手とは聞いてたけど、そこまでとは思わなかったからさ。吐きたくなったら、俺に言
ってくれよ」
「……そうならないことを祈っていてください」

 そんな飲食店ではまずしないような会話を男共がしている間も、女性達は実に楽しそう
にデザートを食していた。翠屋の身内としては嬉しい限りなのであるが、自分がこうまで
苦しんでいるものを他人が楽しんでいるというのは、母である桃子の腕前を知っているは
ずの恭也でも、どこか違和感を拭い去ることができない。

「それにしても恭也君。顔が広いんだね。さくらと知り合いだったなんて」
「前に忍……さんの件で色々ありましてね。その時、さくらさんにはお世話になりました」
「ひょっとして、月村の遺産絡み?」
「御存知でしたか」
「まあね。忍ちゃんとも知らない仲ではないし、その件に関しては微力だけど協力させて
もらったから」
「真一郎さんはさくらさんと?」
「学生の時にね。あの時ほど、自分の無力さを呪ったことはなかったけど……」

 穏やかな瞳の中に現れる感情の光。それは悔しさであり、悲しみであり、怒りである。
それら、自分の感情が混ざったもの。その光も、一瞬だけ浮かんでは、また真一郎の中に
消えた。

「ま、恭也君は俺みたいな心配はしなくてもいいだろう?」

 顔を上げた時には、真一郎はいつもの顔に戻っていた。恭也はその顔を眩しそうに見つ
め、

「俺はまだまだですよ」
「そういうことにしておこうか。お互いまだまだ若いんだし、これからこれから」

 微笑み、真一郎はグラスを差し出す。ちなみに、その中身はアルコールである。それは
桃子のお気に入りのワインで、特に贔屓にしてもらっているお客様には出す決まりになっ
ているものだ。恭也もそれに倣い自分のグラスを――こちらは、『いつもどおり』宇治茶
であるが――持ち上げ――

「男二人で、何をしているのかしら?」

 ――グラスは空を切った。

「お姉ちゃん、邪魔しなくてもさ」

 グラスを取り上げられた真一郎は、その中身に美味しそうに口をつけている女性を睨み
上げ――効果があるかどうかは知らない。少なくとも、恭也はその仕草を可愛らしいと思
った――抗議をするが、女性はそれを意に介さず目を細めた。

「せっかく綺麗どころが集まったのに目もくれないのは、私達に対する挑戦と受け取って
いいのかしら?」

 その声に、恭也は鳥肌が立つのを感じた。特別強い語調ではなかったはずなのに、相手
に対して何かを強制する……それは、そんな上に立つ者の声だった。

「いえ、滅相もございませんです」

 その効果も人によって差があるらしく、恭也は鳥肌程度で済んだが、真一郎はと言えば
病人のように顔色も悪く、呼吸も荒い。

(よほど苦手なのだろうな、こういう感じが……)
 
 身の覚えのありすぎる感覚に、心の中だけで同情する。

「それで失礼な男性達の片割れたる貴方?」
「……俺のことですね?」
「真一郎が可愛いのは分かるけど、周りに女性がいるんだからもっと女性と話をなさい。
そうでもないと、あらぬ噂をたてられるわよ?」
「俺は口下手なものですから。女性が喜ぶ話題など、俺にはありませんよ」

 女性は、これ見よがしにため息をついた。

「何も、いきなり口説けと言っているんじゃありません。こういった場で、貴方達のよう
なことをするのは、マナー違反だって言ってるんです」
「マナー違反なんですか?」
「マナー違反なんです。だからほら、真一郎は向こうに行きなさい」
「ちょっと待ってよ、何で俺が――」
「貴方が年下の男の子を狙ってるんじゃないかって、御剣さんが実しやかに岡本さんに吹
き込んでたわよ?」
「行ってきます。後はよろしく、お姉ちゃん」

 態度一転。取り上げられたグラスもあっさりと諦めると、真一郎は盛り上がっている女
性の一団へと歩いていき、その中の一人と口論を始めた。

「真一郎さん、あれでいいんですか?」
「いいのよ。真一郎も久しぶりに御剣さんに会うんだから、話くらいしないとね」
「……何やら、その御剣さんとやらと取っ組み合いを始めているようなのですが」

 デザートの乗ったテーブルを挟み、矢のような攻防をする二人。その一撃一撃には殺気
が篭り、本気で相手を殺るつもりなのが見て取れるが、奇跡的なことに周囲の人間や店自
体には被害が出ていない。

 フロアに出ているスタッフは止めるべか悩んでいるようだが、二人を取り巻いている女
性陣が慌てず、騒いでもいないので困った顔でおろおろしているだけである。

「あれはじゃれてるだけよ。少しだけレベルは高いけど、あれがあの二人のコミュニケー
ションなのよ」
「そんなものですか……」

 真一郎の正拳を女性が捌き、カウンター気味で繰り出される裏拳を、腕でブロックする。
よほどこういった攻防に慣れているのか、二人の動きは洗練されていて無駄というものが
存在しなかった。

(こういう競い合う相手がいるからこその力なのだろうな……)

 ハッとするようなフェイントに、時たま織り交ぜる投げ。前々から真一郎の動きは空手
だけのものではないと思っていたが、その出所がこういった所にあったのかと思うと、自
然に笑みがこみあげてくる。

「どうしたの?」
「いえ。二人とも、随分と楽しそうに殴り合いをするのだな、と思いまして」
「言ったでしょ? あれがコミュニケーションなのよ。ところで――」

 再び、目の前の女性の目が細められ、形容しがたい感覚が恭也を襲った。

「さっき私の言ったこと、聞いていなかったのかしら?」
「…………よろしければ、貴女の名前を教えていただけないでしょうか? 俺の名前は高
町恭也と申します」
「私は千堂瞳よ。よろしくね、高町君」




















3、

「そう、古流剣術をやってるの。しかも二刀なんて珍しいわね」
「俺もそう思いますけど、実家の方でやっていたものですから。今となってはあまりもの
珍しさはありませんね。千堂さんの方こそ、護身道の腕前はかなりのものとお聞きしてま
すが?」
「私は単に負けず嫌いだっただけよ。そのおかげで学生時代は『秒殺の女王』だなんて不
名誉なあだ名をつけられたりしたのよ?」
「実力が知れ渡った結果なら、それはそれでいいのでは?」
「あのねぇ。秒殺なんて物騒な単語、女の子が喜ぶと思う?」

(格好いいと思うのだが……やはり、駄目なのか?)

 例えば、自分が瞳のように護身道に打ち込んでいたとして、同じようなあだ名をつけら
れれば、自分で名乗ったりはしないだろうが、内心ではきっと喜んでいたと思う。

「自分なら喜んでましたって顔ね」
「俺、そんな顔していました?」

 無口、無表情と言われているせいではないと思うが、恭也は表情を読まれないことには
自信がある。自分では微笑んでいるつもりでも付き合いの長い人間にしかそれは分からな
いらしく、桃子や美由希などにしか理解などできない……はずだったのだが――

「顔……と言うか、貴方の場合は目ね。目は口ほどにものを言うってよく言うけど、貴方
は特にそうよ。嘘、つけない性質でしょ?」

 ……確かにつけない。冗談を言うくらいはたまにするが、それは概ねなのはやレンなど
年下に対してである。年上――しかも、女性には桃子やフィアッセ等々曲者が多いという
こともあるが、そういったことが成功したのは数えるほどしかない。

「いいじゃない。貴方はそのままでも。私はいいと思うわよ、可愛くて」
「……男に可愛いは誉め言葉ではないのではないかと」
「学生時代はずっと真一郎に言ってたわ。そのおかげで今でもああなんだから、それはそ
れで価値があると思わない?」
「俺と真一郎さんでは性質が違いますよ」
「違うけど、同じよ。貴方は……高町君は可愛い。それはこの私が保障するわ」
「とりあえず、誉め言葉と受け取っておくことにします」

 言い合いで勝てるはずなどない。おそらく真っ赤になっているであろう顔を瞳から逸ら
しながらフテていると、覚えのある気配が近寄ってくる。

「千堂先輩、お話の途中申し訳ありません」

 静かに、それでも自然に割って入ったのは、それまでずっとあちらの集団にいた綺堂さ
くらであった。

 さくらは顔の赤い恭也を訝しげに眺めた後、瞳に向き直り、

「先輩がKOされましたので、私達は恒例の二次会に行きます。千堂先輩はどうなさいま
すか?」
「そうねえ……」

 瞳はがちらっと視線をこちらに向けてくるが、無視。それは恭也なりの抵抗のつもりだ
ったのだが、彼女にはそれが『可愛い』行動と映ったらしい。苦笑を漏らすと、瞳は静か
に首を横に振った。

「今回も私はパスするわ」
「なら今回も聞きます。いいんですか?」
「私は真一郎の姉だもの。自分と同じ顔をした弟に手を出す訳にもいかないでしょ? 私
のことは気にしないで、貴女達だけで行ってきたらいいわ」
「……そうさせてもらいます。それでは、これで失礼しますね」

 一礼したさくらが後ろ手に軽く手を上げると、残りの女性陣は妙な手際の良さで真一郎
を簀巻きにし、店の外へと運んでいく。

「あのまま外を歩く気ですか?」

 簀巻きの人間を担ぐなど正気の沙汰ではない。いくら担いでいるのが女性であると言っ
ても、職務質問くらいはされるだろう。それは彼女達の為にならない……と言うか、担が
れている真一郎の男としての沽券に関わる。できることなら、同じ男として助けてあげた
いが――

「外でノエルを待たせてあるから、心配は無用よ」

 さすがに忍の叔母である。こういう所では、抜け目がない。

「参考までにお聞きしたいのですが、真一郎さんを連れて皆さんこれからどちらに?」
「聞きたい?」
「……遠慮しておきます」
「賢明な判断ね。では千堂先輩、ごきげんよう。恭也君は、店長さんによろしく伝えて?」

 それだけ言うと、さくらは先に出て行った女性達の後を追って、音もなく店を出て行っ
た。外の車のドアが閉まり、エンジン音が遠ざかって初めて、恭也は大きくため息をつい
た。

「真一郎さん、無事なんでしょうか?」
「今回が初めてって訳じゃないし、だいじょうぶじゃない? 結局は、真一郎も綺堂さん
達も楽しんでるみたいだから」
「大変なんでしょうね……」
「羨ましい?」
「滅相もない。俺には真一郎さんの立場は荷が重過ぎます」
「あら、これから真一郎がどうなるか、高町君は解かるのかしら?」
「……黙秘権を行使します」
「それは残念」

 言葉とは裏腹に、相変わらずからかうような笑みを――酒の入った人間独特の笑みを浮
かべる瞳に、その気配はない。

 この女性はやばい。真一郎が追求するどころではなかった。瞳からは、恭也にとって天
敵である悪乗りした時の『あの人達』のようなプレッシャーが漂ってきている。

(……逃げるか?)

 フロアでは既にスタッフが片付けを始めているが、それらはまだ邪魔になるレベルでは
ない。瞳自身が猛者というのがマイナス要素であるが、いくらなんでも神速を越えること
はできないはずだ。

 つまりは、神速を使えば逃げられるということだ。このままここに残っていたら――男
としては興味があるが――何をされるか分かったものではない。

 その時、スタッフの一人が手を滑らせてグラスを床に落とした。瞳は一瞬、それに目を
奪われる。しかし、その一瞬は恭也にとって十分に過ぎる時間だった。

 緩んだ感覚を切り替え、全身の筋肉を緊張させる。スタッフの位置を把握し、出入り口
までの最短距離を割り出す。そこまでの思考に、一切の無駄はない。まさに、御神。これ
で逃げられないとしたら、それはおそらく人間以上の存在である。

(勝った――)

 そこまでで、恭也は勝利を確信した。後はそのように体を動かすだけ……そして、まさ
に体を動かそうとしたその時――

「ああ、そうだわ。私ってね、裏切られるのが死ぬほど嫌いなの。もし私の前から逃げた
りしたら…………殺すわよ」

 その言葉は、一瞬で恭也の体を硬直させた。確信が諦めに変わり、まさに蛇に睨まれた
蛙のような心持ちで、恭也は椅子に座りなおした。

「もっとも、私は高町君がそういうことしない男性(ひと)だって分かってるけど、ね」

 涙のちょちょ切れそうな信頼に、恭也は大きく大きくため息を漏らした。瞳は既に出来
上がっている。一番頼りになりそうな真一郎は簀巻きにされた。こういうことの好きそう
な桃子は頼りにならないし、逃走を企てれば実力を超えた何かでもって半殺しにされる。

 この状況で必要なのは、実力よりも悟りだろう。あらゆる抵抗を諦めるのは、生まれて
初めてかもしれない。その相手が女性というのは何とも情けない話であるが、草葉の陰の
士郎や静馬も、それはきっと許してくれるだろう。根拠はないが、何故だか確信が持てた。

「千堂さんはお酒に強い方ですか?」
「どうなのかしら……自分では弱くはないと思ってるけど」
「でしたら、飲むのはこれくらいにしておいた方がいいですよ。飲みすぎは体に毒です」
「だいじょうぶよ。もし酔っても、高町君が送ってくれるから」
「それは……御要望とあればそうしますが……」
「そんなに真っ赤にならなくてもいいわよ。自分の限界くらいは弁えてるし、貴方みたい
な人に迷惑をかけるのは、魅力的だと思うけど、あまり好きじゃないの」

 グラスに残ったワインを一息にあけ、立ち上がる瞳。肌は朱に染まっているが、その立
ち振る舞いは洗練されていて、酔いなど微塵も感じさせない。

「それじゃあ、私はこれで失礼するわ。今日は、こんな酔っ払いに付き合ってくれてあり
がとう。縁があったら――」

 言葉を切った、瞳の顔が寄る。息のかかりそうなその距離で、彼女は童女のように微笑
むと、人差し指を立て、それを恭也の唇に乗せた。

「縁があったら、また会いましょう。今でも貴方は十分かっこいいけど、その時にはもっ
と素敵になっていてね。私が、本気で好きになっちゃうくらいに……」

 その言葉は、まるで呪文だった。それは理解できない塊のまま恭也の中に染み渡り、そ
の意味がやっと理解できた頃には、目の前から彼女は消えていた。












「どうしたの、恭也。ぼ〜っとしちゃって」

 いつの間にか片付けも終わっていたらしく、気づけば厨房でずっと腕を振るっていたは
ずの桃子が目の前にいた。

「俺はそんなにぼ〜っとしていたのか?」
「普段は自分に厳しいあなたが、それに気付かないくらいにはね。で、どうしたの? 恭
也がそこまでになるなんて、よほどのことだと思うけど」
「……その前に、か〜さんを見込んで質問があるのだが」
「あら、恭也からそういう風に頼られるなんて久しぶり。何かしら?」
「女性というのは、須らく不可思議なものなのか?」
「…………質問の意味がよく分からないんだけど、何事?」
「分からないのならいい。手間をかけた」

 元々、自分でもよく分かっていない話だし、答えを期待していた訳でもない。それ以上
追求される前にと、恭也は腰をあげ、桃子に背を向ける。

「ちょっと、何があったの?」
「よく考えたら、あまり人に質問することでもなかった。これから時間をかけて自分で考
えてみることにするから、さっきの質問は忘れてくれ」
「きょう――」

 扉を閉め、さっさと歩き出す。夜の冷たい空気の流れる中、しかし、心の内はそれに対
抗するように、熱い。それに戸惑っている自分が確かに存在している。彼女の仕草に、言
葉に、高町恭也という人間は乱されている。

 乱されるということは、自分を見失うということ。剣士としては決して誉められたこと
ではないが、その感覚を心地よく思っている自分を、否定することはできない。

「つまるところ、俺はまだまだ未熟、ということか……」

 自分で考えると桃子には言ってしまったが、ちょっとやそっとで結論が出そうな気配は
ない。これは腰をすえて考える必要がありそうだ――

 その時、自動販売機が恭也の目に止まる。何とはなしに金を投入れ、目的のもの――ワ
ンカップを二つ回収する。

 自分で酒を飲もうと思ったのは、初めてかもしれない。ひょっとしたら、自分には必要
ないのかもしれないが、『あの男』に会うためにはこれくらいは必要だろう。生前から色
々と破天荒だった彼だ。機嫌をとっておかないと、後で何をされるか分かったものではな
い。

 逆に、気の利いたことを一つでもすれば、それなりのことは無視してくれる。愚痴を零
すような相談をする相手としては、これほどの存在は他にいないかもしれない。

 相談したかったことがある。相談したいこともある。自分のこと、剣術のこと、家族の
こと……だが、それらをおいて、彼に切り出す言葉は決まっていた。





「と〜さん。俺はどうやら、恋をしているようです」




















後書き

え〜、お贈りさせていただきましたキリ番SSです。話自体は大分前から決まっていたの
ですが、タイトルを決めるのに、今回は大分苦労しまして……この後書きを書く数秒前に
やっと決まった次第です。

リクエストがあってから一月……他の方々に比べると大分遅いですね、我ながら。早く書
ければとは毎回思っていますが、一からとなると、これが自分にとって一番の速度のよう
です。

カメのようではありますが、皆々様、お付き合いくださいませ。



リクエストをくださった律さん、ありがとうございました。では、これにて。