『腕の中の白雪』













 誰もいない静かな夜の湖。いつもの鍛錬の場からは僅かに離れたその場所に、恭也は一
人で来た。何か、特別な用事があった訳でもない。鍛錬の帰りに寄り道など、今まででも
数えるほどしかしていないし、弟子である美由希を先に返してまでとなると、記憶にある
範囲ではもはや皆無である。

 剣士としては致命的な膝の損傷。幼さ故の過ちを犯したあの時から、恭也の生き方は慎
重に、悪く言えば臆病になっていた。常識の範疇で考えれば異常の域に達している力を持
ってしても無茶と思えることは、決してしない。戦えば勝つ、ということは、負けると分
かっている戦いはしないということである。そのためには、予測と期待をはき違えないこ
とが重要なのだった。

 甘い期待を排除したその世界で、真に『なんとなく』は存在しえない。恭也とて、常な
らそんな物は思考の外だ。

 それでも、今日この日は、そんな曖昧さに賭けてみたくなったのだ。そう、なんとなく
……曖昧と期待の究極のようなその言葉に、今晩だけは賭けてみたくなったのだ。

 何かが起こること、誰かに出会うことを期待していた訳ではなかった。元より、なんと
なく足が向いただけ。何もなかったら、夜の森を一周して適当に帰るつもりだった。



 だから、そこにいた彼女を見た時には、身の凍るような衝撃を覚えた。



湖のほとり、剥き出しの土の上に当たり前のように腰かけ、その足を湖水に投げ出して
いる。腰まで届く髪の色にあった落ち着いた色合いの和装を着こなし、何とはなしに空を
見上げるその姿は、ともすれば自分よりも年下に見える彼女を神話の仙女のように見せて
いた。

 微かな虫の声や、密やかな月の光。いつもなら、恭也に幻想的な気持ちを抱かせるそれ
らでも、今この時だけは彼女の存在を際立たせる小道具でしかありえなかった。

 神秘の顕現のような彼女に、恭也は我を忘れて見入った。魅了されたかのように一歩、
また一歩。まるで夢遊病者のように、それでも足音を殺しながら歩き続ける。が――


「ぶぎゅっ!!」











 悲鳴とも取れる声と何か柔らかいものを踏みつけた感触が、それまでの雰囲気を全てぶ
ち壊しにした。湖の彼女にも今の音は届いていたようで、驚きと共にこちらを振り向いて
いる。

 何とも言えぬ空気が、その場に流れた。いっそ、このまま逃げ出してしまおうかと半ば
本気で考えるが、こんな訳の分からない空気を生み出したのは自分。それを放り出して逃
げ去るような真似は、恭也にはできなかった。

 落ち着いて深呼吸をしてから、恐る恐る足を退かす。その下にあったのは……いや、い
たのは、恭也の理解の範疇を超えた生物だった。

 一抱えもある白い塊。表面は短い体毛で覆われていて、抱き心地は良さそうだ。摘み上
げてみると、それほど重くはない。つぶらな瞳は踏みつけられたせいか焦点が定まってお
らず、その脇から生えた羽のような部位は、力なく垂れ下がっている。

 眼を凝らしてしばらく眺めてみても、恭也にはそれが一体何と分類される生物なのか、
特定はできなかった。

「あの……」

 その声に、謎の生物から意識を外す。手を伸ばせば届くくらいの距離に近付いていた女
性の紫がかった瞳が、こちらの腕の中の生物を心配そうに見つめている。

「……すいません」

 何がすいませんなのか分からないが、とりあえず謝罪の言葉を口にして、腕の中の生物
を女性に手渡した。女性はその生物を愛しそうに撫で、抱きしめる。それに応えるように、
生物は小さく『きゅ〜』と鳴いて、羽のような部位をぱたぱたとさせた。

 そして、訪れる沈黙。お互いが初めて顔を合わせたのだから、積もる話などあるはずも
ない。それでも脅迫じみた使命感に駆られながら恭也は何かないかと言葉を探すが、元来
から口下手である彼には、こういう時に切り出せる気の利いた話題などなかった。

「名前……」

 どれほどの時間が過ぎたのか、知れない。拷問のような時の中、恭也が汗ばみ始めた手
のひらを意識し始めた頃、女性の方が先に口を開いた。

 それは、名前を尋ねるという至極ありふれた問いだったが、心から余裕というものが綺
麗さっぱり消えていた恭也にとっては、異国の言葉にも感じられた。

 ごめんなさい、と微笑みながら女性は言葉を足す。

「貴方の名前、教えてくれませんか?」

 今度は、理解できた。反応するまでに数秒を要したが、恭也は何とか自分の名前を口に
することができた。そうですか、と女性が微笑う。

「私は、雪といいます。よろしくお願いしますね、恭也さん」



 それが恭也と、雪という名の少女の出会いだった。



















「――よし、今日はこれまで」

 鍛錬の終了を告げ、八景ともう一刀の小太刀を鞘に納める。その鍛錬の相手たる美由希
は荒い息をつきながらも礼を返し、その場に膝をついた。

「やはり、今まで使っていた小太刀の癖が抜けていないな。間合いの取り方が不自然だっ
たぞ?」

 回収できる飛針を回収しながら、今日の反省点を挙げてやる。と言っても、それは反省
と呼べるほどのものでもないのだが……

 鍛錬とは、一つの動作を身体に叩き込み、自らの身体を意のままに動かせるようにする
ための行為である。つまり、一つの動作を身体が覚えているということは、鍛錬に真面目
に取り組んでいたことの証明であり、本来であれば恭也もそんな点を取り出したりはしな
い。

 だが、今晩は言ってしかるべきだと判断した。要因も、美由希の疲労度から明らかであ
る。

「正直に言おう。お前は龍鱗を扱うのに向いていない。後半はほとんど龍鱗に振り回され
ていたし、実戦だったらお前はとっくに父さんの下に行っていたぞ」

 美由希の戦闘スタイルは速さと鋭さに重点が置かれているのだが、龍鱗は小太刀の中で
も大振りな方で、彼女の細腕には向いていないのだ。使いこなせるという確信があったの
ではないだろうが、実際には燦々たるものであった。とてもではないが、今のままでは実
戦で使えたものではない。

「師としては、そのままそれを使うのは勧めかねる。御神当代の証だが、お前自身が使わ
ねばならぬと決まっている訳でもない。今までの物を使った方がいいとは思うが……」

 拾い集めた飛針をホルスターに納め美由希を見やると、物言いたげな視線にぶつかった。
美由希とて、一度は閃の領域に辿りついた剣士である。自分にできることと出来ないこと
の区別がつくくらいの実力は持っているはずで、剣士として本来ならどうするべきか、分
かっているのだろうが――

「……明日から、もう少し腕の力をするようにしてみるといい。その小太刀を扱うのは、
それからでも遅くはあるまい」

 不屈の精神を前にしては、もはや何も言うことはない。

 何やら感動しているのか、ぼ〜っとしている美由希をよそに、恭也はスポーツバックに
装備の一式をいれ、それを美由希の方へ放り投げた。

「俺は少し寄るところがある。お前はそれを持って先に帰っていろ。少し遅くなるだろう
が、待っていなくてもいい。先に風呂にでも入って、寝ているように」
「用事ってなに? それに――」

 ただ黙って、美由希を見る。殺気を込めた訳でも威圧をしようと思ったのでもない。恭
也はただ、本当に美由希を見ただけだったが、この不肖の弟子は何を思ったのか、微笑み
ながら途中で言葉を切った。

「ごめん、なんでもないや。気をつけてね、恭ちゃん」
「誰に物を言っている。お前こそ、無生物に遅れを取るような真似はするなよ」

 じゃあな、と文句言いたげな美由希に軽く手を振り、恭也は夜の森の中に身を翻した。



















「こんばんは、恭也さん」

 彼女はいつものように、そこに腰かけていた。隣りに座ると、頭の上に圧しかかってく
る白い物体。そこで存在を主張する氷那に家から持ち出してきたシュークリームを与え、
一息つく。

 がらにもなく、全力疾走などしてしまった。彼女は逃げないのだし、最初はもっとゆっ
くり走っていたのだが、気付いたらこの様だ。幸い、空気を求めて喘ぐなどという無様を
雪の前で晒すには至らなかったが、鍛錬の後の全力疾走は持久力に自信のある身体にも少
しは堪えたようで、今はなまりのような疲労感が恭也を支配していた。

「お疲れですか?」

 さすがに雪にもそれは伝わったらしく、おかしさと心配を半々くらいにブレンドした笑
みを向けてくる。

「恥ずかしながら……自分の力量も弁えず、知らずに無理をしていたようです」

 次を催促してくる氷那に残りのシュークリームを与え、頭から降ろす。自分には目もく
れず、夢中でシュークリームにかぶりつく氷那の頭を撫で、恭也は地面に身を投げ出した。

 冷たい土の感触が、火照った身体には気持ちがいい。見上げれば、星空。さすがに雲一
つないとはいかなかったが、それでも何も考えずに見るそれは、ひどく魅力的だった。

 雪も恭也に倣い、空を見上げた。二人、何をするでもない。食べ疲れて眠ってしまった
氷那の暢気な寝息と、自然の生み出す音。男女の逢瀬として、それは随分と色気のないも
のであったが、二人はかれこれ一月ほど、こんな関係を続けていた。

 週に一度だけの逢瀬。ただそこにいるだけで何も与えず、何も求めない。恭也にとって
この時は、空気のように自然で、それ故に何にも増して安らげる時間だった。

 時折、思い出したかのように恭也から会話を切り出す。自分が体験したこと――例えば、
通りすがりの猫に餌をやったこととか――を話したら、雪は大層喜んでくれた。口下手だ
し、あまり率先して会話をするタイプではない恭也にとってこれは嬉しいことで、だから
もっと――それでも、ぽつりぽつりとだが――雪に話かける。

 そんな風に、二人の逢瀬は終わる。その空気を感じ取ると、恭也は立ち上がり小さく礼
をして帰っていく。雪はその背中を見送り、恭也は彼女に見送られていることを感じなが
ら、再び夜の森の中へと消える。




 雪という名前。それが、彼女に関して恭也の知っているすべてのことだった。


























「武術……ですか?」

 いつものようにシュークリームをパクつく氷那を突付きながら、その日恭也は初めて雪
に問いかけた。

「はい。剣術でも合気でも、何かやっていらっしゃったのでは……と」
「……私、そんなに強そうに見えますか?」
「いえ……すいません、気に障ったのなら謝ります」
「いいですよ。逆に強そうって言われた方がショックだったと思いますし……」

 そうですね、と雪は頬に指を頬に当て、しばし考えを巡らせる。

「肯定もできますし、否定もできます。改めて誰かに師事を受けたことはありませんが、
戦うための技術は持ち合わせていますよ」
「つまり自然に使えるようになっていたと?」
「自然に、というほどなだらかな道ではありませんでしたけどね。恭也さんはどうたった
んですか?」
「俺は、子供の頃からほとんどこれ一つでしたよ。ただ、倒し殺すための技術を常日頃か
ら磨き続けています」
「そんなに自分を貶めてはだけですよ。力を持つこと、それ自体は罪ではないはずです。
決して……」

 寝る体勢に入っていた氷那をその胸に抱き寄せ、雪は遠い目を虚空に向けた。出会った
時から見え隠れしていた、彼女の影。殺戮や破壊、人の世の暗い部分のすべてをその身に
内包した、ある種の悟り。力とは何か、殺すという行為は一体何を意味するのか……それ
ら、汲めども尽きぬ問いの答えを、雪は持っている。

「力とは……何なのでしょう?」
「自らの望みを実現するための、ただの道具です」

 自然と口をついて出た問に、堪えはすぐに返ってきた。

「殺すのも守るのも、元は同じ剣のはずです。その違いを生むのは使い手の心……最初か
ら邪悪な力なんて、ないんですよ」
「それは、詭弁なのではないですか?」
「はい、詭弁です。でも、真実でもあります。力を持っているのも、剣を振るうのも恭也
さんなのですから、それに意味を持たせるのもまた、恭也さんなんです。恭也さん、貴方
の剣は、何のためにありますか?」
「大切な人を、守るために……」
「なら、貴方の剣は『守るための剣』です。恭也さんが今の気持ちを、忘れない限り」

 悩んでいたことが馬鹿らしくなるくらい、簡単な返答。彼女の言い分も分からないでも
ないが、雪の言いたいことは要するに開き直りだ。物事全てを主観で纏められるのなら、
そもそも悩みなど生まれるはずもない。つまりは悩んでいる時点で開き直りは失敗してい
ることになる。

「俺は、剣士としての才能がないのでしょうか?」

 雪のような明確な答えを持つことが才能なら、自分には欠片もないのではなかろうか? 
例えば、身近な例では数年前までの美沙斗。悪い例ではあるが、あの時の彼女は復讐とい
う理念に支えられていた。その理念以外を全て捨てた彼女には、余計な迷いなど微塵も存
在していなかった。

 一時は、自分や美由希すら退けた、あのレベルの信念。あそこまでの思いが自分の中に
あるとは、どうしても思えなかったのだ。

「守りたいもの、恭也さんにはあるんじゃないですか?」
「あります。ですが、俺にはまだまだ迷いがあります。そして、負債がある。剣士として
完成の域に達することができるとは思えません」

 うつむき気味の恭也には見えなかったが、その時雪は笑っていた。彼女からすれば、そ
れは随分と子供じみていて、欲張りな発想だった。答えも――恭也が納得するかは別問題
であるが――持ってはいる。それを素直に伝えるべきか、しばし悩んだが、結局はこの悩
める剣士の助力となることを選択した。

「それは――」
「それは、汝の未熟によるものだ」

















 そこにいたのは少女だった。年の頃は、十二、三。限りなく銀に近い白髪は首の辺りで
無造作に束ねられ、小さな身体は古めかしいが、造りのしっかりとした和装で覆われてい
る。

 それだけであれば、ただの愛らしい少女。だが、大人が扱うような太刀を軽々と持ち歩
くような少女を無条件に受け入れられるほど、恭也の感性は現実離れしていなかった。

「そんな悩みはくだらない。だが、そのくだらなさには見所がある。金のため、名誉のた
めと自らを偽る人間よりはよほどいい。雪が惹かれるのも、頷ける」

 そして、少女は何気ない動作で太刀を繰り、氷那を抱えて『何か』をしようとしていた
雪の喉元に突きつけた。

「無粋な真似はするなよ、雪。ここにいる我を封じるのなら、まずその責を放った汝が罰
せられるべきだ。我の興味は一つしかない故、別段咎めはせぬが、邪魔立てするのであれ
ば本気を出すぞ」

 口調は軽いが、雰囲気には嘘が感じられない。雪が何をするつもりか計りかねるが、彼
女がそれを拒めば、少女は何の躊躇いもなく太刀を繰り、雪に傷を付けるだろう。

 雪は苦い表情のまま、氷那を地面に降ろした。彼女の意に沿った行動に、少女は初めて
笑みを浮かべると太刀を引き寄せ、恭也に向き直った。

「まず、名乗っておこうか。我の名はざから。人間からは、魔獣と呼ばれた存在である」
「魔獣?」
「聞いただけで理解できぬのなら、我の名だけを心に留めておけばよい。一から説明する
のは、何とも面倒くさい故な」
「ならば、ざからと呼ばせてもらって構わないか?」
「結構。我も、汝のことは恭也と呼ばせてもらおう」

 少女――ざからは、鷹揚に頷く。見かけに似合わぬ仕草であるが、それ自体はいやに様
になっていた。

「して、ざから。魔獣などと大層な肩書きを持つものが、ただの人間に何の用だ?」
「正確には、恭也に用があったのではないのだ。封印の巫女が我を封じるという役目を放
って男に現を抜かしておるから、当てつけに連れ戻しに来たのであるが……」

 ぎろっ、とざからが睨みやると、雪は悪戯の見つかった子供のように怯え、氷那は一目
散に雪の背中に隠れ、ざからの視線から逃れる。

 ざからはしばらく一人と一匹を睨みつけていたが――

「一応、反省はしているようだな。本来なら、我もここから抜け出し外で大いに羽を伸ば
してくるところであるが、恭也に免じて勘弁してやろう。ただ、今後は我に黙って外に出
て行くような真似はするなよ」
「肝に銘じておきます」
「よろしい。では、説教も済んだことであるし、恭也よ、少し我の話に付き合ってもらお
うか」
「話……とは?」
「汝の技と、その心構えについてだ。後の世の剣士が実につまらん壁にぶち当たっている
ようなのでな、二、三忠告してやろう」
「剣を振るうのに理由はいらん……と?」

 守るため、力なき人のために剣を振るう。御神の――いや、自分達の理を馬鹿にされた
ようで、正直かなりむっときた。場合によっては容赦はしないと八景に手をかけてみせる
が、ざからはそれすら意に介さず、続ける。

「理由は必要だ。だが、それが一番重要なのではない、と言っている。その時々で戦う理
由など変わるだろう? そんなあやふやなものを崇めておるから、剣に迷いがでるのだ」
「俺の言っているのはもっと根本的なもの――自分の行動理念だ。それは、何時いかなる
時でも変わるものではない」
「それも、我からすれば二の次、三の次だ」
「ならば、お前の考える最も重要な物とはなんなのだ?」
「その前に我から問がある。冗談や嘘は許さん、自らの本心を偽りなく答えよ」

 ここまで引っ張ったのならさっさと答えを聞きたいのだが、そんなことを言ったとして
も眼前の少女は言うことを聞いてくれないだろう。この少女が出てきてからこきおろされ
続けているため少々不満も溜まってきてはいたが、とりあえずああ、とだけ答えておく。

 そんな応答で不満が隠せていたはずもないのだが、ざからは気にするでもなく、続ける。

「お前は、雪に好意をもっておるのか?」
「ざから、いいかげんにしないといくら私だって怒りますよ?」
「怒りたければいくらでも怒るがいい。こそこそ抜け出して遊び呆ける汝の姿を見せ付け
られ続けた我の怒りの方が、断然上なのだからな。売られた喧嘩は買うが、先に言ったよ
うに手加減はせぬぞ」

 具現しかねないほどの殺気を容赦なくぶつけ――氷那にいたっては、湖に転げ落ちてい
たが――恭也唯一の助け舟はあっさりと撃沈されてしまった。

「で、どうなのだ?」
「どちらかと言われれば、好きなのだと思う」
「それは、雪と番(つがい)になっても構わぬ……という返事と受け取って構わないのだ
な?」
「待て、いくらなんでもそれは――」
「何度も言わぬから心して聞け。お前は、雪と、番になっても構わぬのだな?」

 どうやら、この問は反論を許されぬ上に答えまで強制されるらしい。横目で雪を見ると、
彼女は合わせて小さく頷いてくれた。その頬がわずかに染まっているのはを、自らのうぬ
ぼれとみるか……

「ああ、構わん」
「ならば、我が名と我が剣の元に、お前達二人を番とし、その上で話を進めさせてもらう。
早速で悪いが、我はこれから雪を殺す。汝は全力でもってそれを止めてみせよ」

 これには恭也も雪も、耳を疑った。

「本気……なのか?」
「その問いに意味はない。汝が我を止められぬ時は、汝がこの世から消える時と知れ」

 瞬間、吹きつける殺気。止めに入ろうとした雪は、ただその気配に足止めをされ、何が
起きていたのか理解もできなかった氷那は吹き飛ばされ、またも湖に落ちる。

 ざからはその場で無造作に太刀を振るい、斬撃を放った。生み出された剣風は恭也の『背
後』の木々を薙ぎ倒す。

「手加減して、俺を殺せるとでも?」

 浅く切り裂かれた頬を伝う血を親指で拭い、交差差しにした小太刀に手をかける。

「要望とあらば、な。幼きこの身でも、汝を狩るには十分に過ぎる」

 鞘に納められてすらいない、ざからの太刀。年月を経た業物には違いないが、それだけ
でないことは、恭也だって見て取れる。刀剣としての価値だけをみれば、龍鱗や八景より
も格段に上だろう。

 そして、手のつけられないのは武器だけではない。飄々としてはいるが、ざからの無造
作な構えには今まで見たどんな相手よりも隙というものが存在していなかったのだ。

 剣士としての冷静な部分が、こいつには勝てない、と告げる。御神の剣士は戦えば勝つ。
故にそれは、負ける公算の高い戦いはしないということだ。力量もわきまえずに戦いを挑
み、返り討ちにされるのは勇気ではなく蛮勇である。だが――

「ほう、それでも我に向かってくるか。分際の理解できる程度には賢いと思っていたのだ
が」
「言ったはずだ。御神の、俺の剣は守るための剣だと。この手に剣を振るう力が残ってい
る限り、俺の目の前で大事な人を殺させはしない!」
「よく、吠えた!」

 それを合図とし、身を低くしたまま恭也は駆け出す。先ほどのあれを見る限り、ざから
の間合いはこちらの常識を遥かに超えている。その気になれば、こちらを近づけることす
らさせずに細切れにすることも可能なのに、今は何もせず、ただこちらを目で追っている
だけ。

 あくまで常識的な太刀の間合いに入った瞬間、恭也は踏み込み加速して、両の小太刀を
抜刀する。ざからは、まだ動かない。そして、抜刀から繋がった左の小太刀の切り上げ。
それはざからの腕に吸い込まれ――

 そこで、ざからと目があった。地獄の炎を押し込めたかのような真紅の瞳が、迫りくる
小太刀を追っている。そしてそれは、脅威を見る目ではなかった。ざからの口の端が、微
かにあがる。

 異様な手ごたえと共に小太刀が砕け散ったのは、その時だった。

「喜ぶがいい、恭也」

 粉雪のように小太刀の残骸の舞い散るなか、ざからは拳を握った。

「この砕けた小太刀は、汝の力の証明である」

 そして、突き出される拳。弾丸にも匹敵するそれは恭也の脇腹を的確に捉え、そのまま
腕を振りぬくことで、身体ごと吹き飛ばした。恭也の詰めた距離は一気にマイナスとなり、
身体は背後の木に激突して、ようやく止まった。

 アバラがきりきりと痛む。当たり方が良かったのか、あれだけで何本かイってしまった
らしい。打ち付けた背中の方はそれほど深刻でもないよう。ぶつかった木がへし折れてい
ないだけ、アバラよりはまだマシな扱いをされた、と考えるべきだろう。

「魔獣たる我が身を傷つけるには、先の小太刀では年月が足りなかったようだな。そして、
いかに技量があろうとも、汝はただの人間の剣士。我を傷つける術は、さすがに持ち合わ
せていなかったようだ」
「……正直、驚いたよ。この世に、刀で切れぬ生物がいるとは、思ってもみなかった」
「汝の思っている以上に、この世は広く、そして深い。もしかすれば、我の常識を無視し
て我に傷をつけられるとも思ったが、高望みが過ぎたようだ」
「期待に沿えず、申し訳ない」
「気にするな、汝が悪いのではない。それで、たった今厳然たる実力差を思い知った汝は
これから一体どうするのだ? このまま己の無力を悔やむか、それともその命、刃として
我に向かってくるか……」
「決まっている……」

 八景を握る手に力を込め、恭也はゆっくりと立ち上がった。

「お前が雪さんを殺すというのなら、俺はこの命を賭してでも、お前に立ち向かう」
「……我の思い描いていた答えの中では、一番陳腐な答えであるな」
「やってみなければ、答えは分からぬだろう?」
「我には、分かる。一体、我が何度命の遣り取りをしたと思っているのだ? 過去には自
分の力も弁えず、我を倒せると挑んで来た者がいた。己の分際を知り、我に勝てぬと知り
ながら、それでも我に挑んできた者もいた。汝は、これらのどちらが賢いと思う? これ
らの人間に優劣があると思うか? そんなものは、ない。存在しないのだ。奴らに残った
のは、我を殺せなかったという事実と、意味のない死、その二つだけだ。力を持たぬもの
は、我に一矢報いることもできないのだよ。今の、汝のようにな」

「ご高説有り難いが……」

 乱れた呼吸は大分落ち着いてくれた。アバラの痛みはどうにか誤魔化せる。相棒たる八
景はこの手に、そして、御神の技はまだ使ってすらいない。自分には、まだ戦う術が残さ
れている。

「闘える以上、死だの何だのを聞き入れる気は毛頭ない。俺は自惚れているつもりもない
し、自分の限界を見た覚えもない。何よりざから、俺はお前に勝つつもりでいる」
「愚かな……今さっき砕かれた小太刀を、もう忘れたのか?」
「次の小太刀は砕けない。こいつは確実に、お前を切ってくれる……」
「それにも汝にも、我を切る術はない」
「なくても……俺は、切る」
「分かった。ならば、それを示して見せよ」

 話はそれまでと、ざからは上段に太刀を構え恭也を睨み据える。殺気が研ぎ澄まされ、
空気が緊張する。そこにある全てのモノがその圧倒的なまでの存在感と本能的な恐怖に晒
される。

 逃げたい、殺される……恭也の思考はそれらの感情で占められるが、それを強引に意思
で捻じ伏せ、逆にざからを睨み返した。

 実力差は圧倒的……そんなものはざからに言われるまでもなく、承知している。総合的
な力量は、恭也の記憶の中の誰よりも彼女は優れている。本来なら、比べるのも馬鹿らし
いくらいの差が彼女との間にはあった。

(そんなことは問題ではない……)

 心の中、呪詛のようにその言葉を唱え続け、八景を鞘に納める。風の音、虫の声、周囲
に満ちる全てを高町恭也の内部に取り込み、反対に押し込められていたものを外に放出す
る。

拮抗していた二つの存在感は、唐突に一箇所に収束し、そして弾けた。振り下ろされる
ざからの太刀、同時に恭也は八景を抜刀し一息に振り抜く。

 そこで行われたのは、ただそれだけの行為。だが、それによって生み出された力は、少
なくとも一般的な常識からは外れていた。

 巻き起こる白い爆発――音の無いその風に吹き飛ばされたところで、恭也の意識は途絶
えた。




















「いつまで寝ている。起きろ」

 無慈悲な声と共に、身の切れるような冷たさ。半分以上もまどろんでいた恭也の意識は、
ぶっかけられた湖水によって、強引に覚醒させられる。額に張り付いた前髪をどけ身を起
こすと、周りには二人の少女と一匹の毛玉。

「その……ごめんなさい、恭也さん」

 少女のうちの可憐な方――雪が、恭也が起きたと見るや、頭を下げる。

「何故、雪さんが謝らなければならないのですか?」
「恭也さんは、私のせいで危険な目にあってしまいました。私がもっとしっかりしていれ
ば――」
「関係ありませんよ、そんなことは。俺がざからに売られた喧嘩を勝手に買って、勝手に
怪我をしただけです。確かにその原因には雪さんが関わっていたかもしれませんが、こう
いうことになることを選んだのは、俺自身なんです。だから、雪さんが気に病むことはあ
りませんよ」
「戦いを語ることができるのは、戦ったものだけであるからな」

 そして、少女の大雑把な方――ざからが、偉そうに頷く。それが気に食わなかったのか、
雪は彼女に向かってむくれて見せるが、ざからはあさっての方向を向くことでそれをやり
過ごす。

 少女達が無言の戦いを繰り広げる中、羽根らしい部位で膝をばしばしと叩くことで喜び
を表しているらしい氷那を頭の上に乗せ、何故こんなことで苦労しなければならないのか
心の中で神に問いかけながら、恭也はため息をつき、

「とにかく、そのことで睨みあうのはやめてください。誰も致命的なことにはなっていな
いのですから、それでいいでしょう?」
「恭也さんがそういうなら……」
「そこまで気になるのなら、雪も強くなってみたらどうだ? 我や、恭也よりもな」
「蒸し返してくれるな、ざから。この話はここまでだ」

 そこまで言われて、ようやく白い少女は押し黙る。

「で、どういう状況なんだ? 俺はざからと殺し合いをしていたんじゃなかったのか?」
「我には元から、雪の番と殺し合いを演じるつもりなどなかった。ただ、骨のある男かど
うか、それだけはこの眼で確かめておきたかったのでな、芝居をうたせてもらったのだ。
もっとも、ただの剣士が我が剣風を相殺するほどの力を秘めていたとは思いもしなかった
がな。まったく、人間という生命には驚かされるばかりだ」
「剣風……俺があれを相殺した?」

 最初に見せられたあれをまだ克明に覚えているだけに、今ひとつざからの言葉を信じる
ことができない。ざからは先ほどのお返しとばかりに大きくため息をつき、顎で恭也の背
後を示した。

 振り返ったその先にあった小規模な『クレーター』を見て、恭也は絶句する。

「無論のこと、先ほどの汝の技は偶然の産物であるが、汝が生み出したことに変わりはな
い。退魔の技も修めておらぬのにあそこまでの力を使えたことは、十分に驚嘆に値するが
……」
「あれが俺の力だとは、無闇には信じられんぞ?」
「信じずともよい。ただ、汝があれを生み出したという事実を心に留めておけ。あれは、
生きる者の執念が生み出した力、我らにとっては誇るべきものだ」

 クレーターを見て、ざからは誇らしげに微笑む。そこには、力に溺れた者に特有の禍々
しさはない。ただそこにあるものを受け入れ、自分自身を含めた全てを認める。悩みや迷
いを越えた、強者の微笑み――

「……そこまで言われたら、信じない訳にはいかんな」
「言っておくが、人間ならば誰でもできることではないぞ? 汝にはある程度の素養があ
り、我らのことを受け入れられるだけの度量があった故の、力だ。ところで、よくもまあ、
我のような存在を受け入れられるものだな。今の世では昔ほど妖の類は多くはないようだ
が……」
「多くないだけで、なくなった訳ではない。そしてその少ないものが、ここ最近の俺の周
りでは事欠かなくてな。いいかげん、非常識なことには慣れた」
「真に、汝は稀有な人間だ」
「ああ。この頃、ようやく自覚してきたところだ」

 氷那を頭の上に乗せて、立ち上がる。傍から見ればこの様は相当に格好悪いのだろうが、
非常識にもちょうど慣れたところだ。気にすることもあるまい。

「ではな、ざから。俺はこれで帰ることにする。雪さんと氷那は連れていくが、お前はこ
こで達者に暮らせよ」
「え……え?」

 唐突に出てきた自分の名前に、蚊帳の外にいると思っていた雪は我を取り戻す。

「あの……番というのは、冗談じゃなかったんですか?」
「流れで言ってしまったようなものですが、俺は嘘も冗談も言った覚えはありませんよ。
会ったばかりで軽い男と思われるかもしれませんが……俺は、本当に貴女と添い遂げたい
と思っています。雪さんが嫌だというのなら……諦めますが」
「いえ! 嫌ではないというか……私も……恭也さんなら、安心できます……けど」
「ツベコベ言うくらいなら、何も考えずに共に行け。恭也の度量は我が保障する」
「でも、私は氷那と一緒に貴方を封印するという役目が……」
「要するに、我が節度ある行動を取ればいいのだろう? いつまでも、我が馬鹿だと思う
な。その昔は誰から構わず襲い掛かったものであるが、これからは相手を選ぶ。氷那など
もう行く気だぞ? 飼い主である汝が行かんでどうするのだ」

 頭の上で、きゅ〜と鳴く氷那。高校を卒業し、常日頃からの黒尽くめが板についてきた
恭也にとって真っ白い毛玉は対照的であるが、氷那はそこが自分の定位置であると信じて
疑っていないのか、帽子よろしくそこにいる。

「だから、いい加減に汝も自分の幸せを見つけて見せよ。あの日の我が友とて、汝がこの
地に縛られることを望んだ訳ではあるまい」
「ざから……」
「辛気臭い顔をするな。門出には笑うもの……我にそれを教えてくれたのは、あの男なの
だぞ」
「うん……ありがとう」
「気にするな。それに、今生の別れという訳ではないぞ。我も汝らと共に行くのだからな」
『……は?』

 恭也、雪、揃って呆然。ざからは当然であろう? とお澄まし顔で言ってのける。

「いくら我でも、一人でこんな何もない所で暮らすのは御免被る。幸い、我が節度ある行
動を取るのなら放免と、ついさっき封印の巫女自身が認めてくれたことであるしな。とい
う訳であるから、恭也よ。雪や氷那共々よろしく頼むぞ」
「よろしく頼むと言われてもだな……」
「節度ある行動は我の義務である故、今晩のような仕合はあまりできぬが、それでもお前
の鍛錬には付き合ってやるぞ。先ほどの『決生』の覚悟を常に持っておれば、そのうち我
とも打ち合える。強くなれるぞ? 今よりも、もっとな」

 強くなれる、してくれる……それは酷く魅力的な言葉だった。ざからが滅茶苦茶なのは、
思い知らされたばかりだ。最近、何かと気苦労の多い生活であるのに、ここにさらに彼女
が加わっては、本気で胃に穴が空きかねない。そんなことは重々承知しているのだが……

「あまり問題を起こしてくれるなよ……」

 ……強さの誘惑には勝てなかった。どうせ家族は説得しなければならないのだし、こん
な非常識な状況なら、一人も二人も対して変わるまい。根本的なところにある自分のいい
加減な甘さを呪いながら、恭也は痛む体をおして立ち上がった。

「そうと決まったのなら、さっさと行きましょう。ここはうちから割りと離れていますか
らね、急がないと朝食までに間に合わないかもしれません」
「それは由々しき事態であるな。久方ぶりに外に出たというのに飯抜きとは、何とも興が
それる」

 踵を返す恭也に、太刀を肩に乗せたざからが続く。失礼ですよ、と彼女を窘めながらそ
の後ろに雪。氷那は既に恭也の帽子と化して、その頭の上で寝息を立てていた。

 東の空は、既に白み始めている。いつものように上ってくる朝日を眺めながら、これほ
ど可笑しな気持ちで迎えた朝もなかったろうな、と恭也は誰にもばれないようにため息を
ついたのだった。
















 




「という訳で、彼女らが今日からうちで厄介になる――」
「雪といいます。こっちは友達の氷那です」
「ざからだ。よろしく頼む」

 高町家全員の揃う朝食の席。晩のうちになし崩し的についてきてしまった二人と一匹を
紹介し、恭也は食卓につく。無論のこと、雪達の席を用意してやることも忘れていない。
都合、男一人に女八人、謎の生物一匹の大所帯が完成するが……

『……で?』

 ごまかせるとは思っていなかったが、やはり説明なしというのは無理らしい。

「細かい経緯は後で話すとして、とにかくこの二人と一匹をこの家に置いてもらえないだ
ろうか? 危険でないことは俺が保障する」
「部屋も余ってるし、私は構わないけど……一体どうしたの? 奥手の恭也がこんな可愛
い娘達連れてくるなんて」
「それには複雑かつ有機的な事情が――」
「我と恭也は昨晩話し合いをした仲だ。そこにいる雪を賭けてな。果し合いに勝ったのは
我であるが、本人達の意向を無視するのも無粋故、雪は譲ってやることにしたのだ。その
見返りという訳ではないが、番になった雪と一緒に我も厄介になろうと思い、こうした参
上したしだいなのであるが……」

 これでどうだ? とざからがこちらを見る。全くもってはっきりとしていて、説明する
のが苦手な恭也としては助かるが……果し合いだの番だの、そういうストレートな表現は
勘弁してもらいたかった。

 案の定、高町家の人間は固まっていた。語彙が広く、思考がお子様な妹一号が何やら耳
まで真っ赤になっていたが、それはさておき……

「一応、そういうことになっている。雪さんに関してはそういうことで家に置いてもらい
たいのだが……」
「……本当に、決めたらすることは早いのね。そういうところは士郎さんに似たのかしら」
「か〜さん、茶化さないでくれ」
「茶化してなんかないわ。ちょっと感動してたとこ。恭也が連れて来た娘に、私が文句な
んてつけるもんですか」
「すまない、恩に着る」
「部屋は相部屋になっちゃうけど、いいかしら?」
「感謝します。今の私にはもったいないくらいです」
「我が雨露が凌げれば問題ない」
「そう。なら、二人とも今日からうちの家族よ。みんなもそれでいい?」

 異議なし、と女性陣からの反応が返る。純粋に家族が増えるのが嬉しい者、話し相手の
到来を喜ぶ者、果し合いという血生臭い単語を聞いて心の中で盛り上がる者や、一緒にい
る謎の生物に心ときめかせる者と様々であるが、一人として雪やざからを拒む者はいなか
った。

 新しい家族を加え、高町家のいつもの朝食が始まる。今朝は、いい朝だった。


















「……ふむ、恭也に師事しておるからなのか、筋はいいようだ」

 高町家の道場。真剣でもって全力の戦闘をしかける美由希を片手で持った太刀であしら
いながら、ざからはその全体像を眺める。

「斬撃は早く鋭い。その年、人間の身でここまでできるのだ、それは誇るべきことである。
が――」

 美由希の小太刀を受けたざからはその瞬間、僅かに身を引いた。受けきられるものと思
い込んでいた美由希の身体はつんのめるようにして泳ぎ、それに合わせてざからは踏み込
む。そして――

 美由希の身体は、壁まで勢い良く吹き飛んでいた。

「汝はどうにも油断するきらいがある。敵はどこから来るか分からん。用心はしておけ」

 その油断にしても達人レベルでしか突くことのできない一瞬以下のものであったのだが、
生憎この白い少女、この場で表現できるような領域にない。真面目に鍛錬をしている美由
希にとっては言いがかりにも近いが、彼女は背中を摩りながらはい、と答えた。

「それから――」
「とぉりゃあああーー!!」

 美由希に身体を向けているざからにとっては死角から、威勢のいい声。主は確認するま
でもなく、ざからにとっては居候先輩に当たる晶だ。

「元気はある。人間にしては、身体も頑丈だ。だが、奇襲は悟られては何の意味も成さん」

 踏み込みの音。跳び蹴りしてくる晶の足を振り向きもせずに掴み、そのまま大根でも引
っこ抜くかのようにして放り投げた。掛け声はそのまま悲鳴に変わり、道場の床をスライ
ディングした晶は、美由希と同じ運命を辿った。

「汝に奇襲は向かん。どうせ同じ結果になるのだから、次からは前からかかってこい」
「わ、わかりました……」

 真っ赤になった鼻を押さえ、何事もなかったかのように、晶は身を起こす。

恭也ほどではないが、ざからの目で見て高町家の住人は見所がある。強さに対して直向
きな目の前の二人は言うに及ばず、体調の悪さを理由にこの場にはこなかった緑の少女も
才能には恵まれていた。

 今は、自分の相手すら務まらないが、数年もしごいてやれば化ける可能性は十分にある。
そして、その血を受け継ぐ彼女らの子も、才まで受け継いでくれるだろう。その子らが物
心つけば、今度は基礎から教えてやるのも悪くはない。

 そうすれば、いずれこの身に匹敵する人間も現れるだろう。長大な寿命を持つざからな
らではの非常にサイクルの長い娯楽である。

「さあ、次は二人同時に来い。まだまだ時間はあるのだ。今日はとことん付き合ってもら
うぞ」

 無敵な少女に立ち向かう羽目になった二人の少女の心中なぞいざ知らず、ざからは今こ
の時に生きられる幸運をいるかどうかもしれない神と、遠き地にて眠る朋友に感謝し、に
やりと笑った。

 その日、道場から叫び声が消えることはなかったという……





















「だ、だいじょうぶなんですか? 美由希さん達……」

 ざからと同居人の少女二人が入っていってから、道場からは今も音が絶えない。時折、
人間が思い切り叩きつけたられたとしか思えない音が聞こえてくるため、もしや大怪我で
もさせているのではと、雪は気が気ではないが、隣りの恭也は気にするでもなく、暢気に
茶をすすっている。

「まあ、あいつらは頑丈にできてますから……」

 それにしても限度があるが、ざからにすればあの二人は久しぶりに手に入ったおもちゃ
のようなもの。ハシャギまくりはするだろうが、行き過ぎて壊してしまうことはあるまい。
美由希達には夕食の時にでも文句を言われそうだが、その時は無視してやれば済むことだ。

「それよりも、馴染みますか? この家は」
「みなさん、いい方ばかりですね。氷那のことも受け入れてくれて……」
「何かと特殊ですからね。この環境も、俺達も」
「本当、私にはもったいないくらいです」
「貴女達をここに連れてきたのは、俺です。だから、そういったことは考えなくてもいい
ですよ」

 一際大きな音が道場から聞こえた。大方、晶がざからに放り投げられでもしたのだろう。
心配そうにこちらを向く雪に、恭也は苦笑を返す。

「……まあ、あれのように振舞ってくれと言っているのではありません。雪さんが、この
家で自然に振舞えるようになってくれれば、俺は嬉しいです」
「それは私が家族だから……ですか?」
「……雪さん、分かってて聞いてますね?」
「さあ、どうでしょう?」

 微笑む雪に、恭也は桃子の影を見たような気がした。おそらく、自分は今真っ赤になっ
ているのだろう。ため息をつき、後ろ頭をかきながら、

「改めてその言葉を言うには、俺はまだまだ半人前です。だから……俺がもっと自分に自
信を持てるまで待ってくれませんか? その言葉はきっとその時に言いますから……」
「本当は今すぐにでも言ってほしいですけど、恭也さんがそういうなら、私は待ちます。
三百年という当てのない時間を、貴方という人が現れるまで待てたんです。その貴方が隣
りにいてくれるのなら、待つだけの時間もきっと楽しいんでしょう」

 雪は、恭也の肩に頭を乗せそっと目を閉じた。温かい日差しの中、体温の低い雪の身体
はひんやりとしていて、気持ちよかった。

 時間的に桃子達は翠屋。美由希達は道場にいるし、なのはとレンは氷那を連れて何処へ
と行ってしまっている。それでも念入りに家の中の気配を探り、周囲に誰もいないのを確
認してから、恭也は雪を抱き寄せた。

 まだ彼女を本当に迎え入れることはできないが、これくらいのことはしてもいいだろう。
腕の中に雪の存在を感じながら、恭也もまた目を閉じる。

 子守唄は、騒々しい道場の喧騒。女性を抱き寄せるなど慣れないことをしたせいで力尽
きたのか、恭也はあっさりと意識を手放し、眠りに落ちた。

 静かに寝息を立てる一組の男女……陽だまりの中の二人は、さながら一枚の絵画のよう
だった。それは、遊びから帰ってきた高町の末っ子の芸術的感性を刺激したようで、彼ら
のその姿はしっかりとデジカメにおさめられた。

 年長組によって付けられたタイトルは『昼下がりの恋人達』。知らない所で盛り上がって
いたことに恭也は憮然としていたが、雪には事の外に好評で、しばらくの間それは彼女の
部屋の文机に飾られることとなった。

















後書き

何よりも、リクエストいただいた水泡さん、遅れまして申し訳ないです。
違うカップリングは書いていて楽しいのですが、その反面やりたいことやれることが湯水のように
出てきて纏まりにくいですね。それも嬉しい苦労だからいいですが……もう少し早く書けたら、と
自分でも思います。


次のリクエストはいつにしよう……

五万……じゃなくて、多分66666番になるかと思いますが、お暇でしたら皆さん、リクエストお願いします。