「しーちゃん、しーちゃん」


 まどろみの中、声が聞こえる……いや、聞こえ続けている。



 その起床を促す声は、不本意なことではあるが、青年――槙原静月にとって最も聞きなれ

た声だった。



 正直、まだ寝足りない。狸寝入りを続けてもいいのだが、この声の主は百年だって呼びか

けを続けるだろう。彼女の頭のネジは十本以上が纏めて外れているのだ。常識を期待しない

ことが、彼女と円満に付き合う上での第一の条件でもある。



 全く、と心の中で毒づくと、静月は仰向けのまま足を大きく振り上げて、反動で一気に起

き上がった。母親譲りの銀髪が、さらさらと揺れる。



 そして誰に似たのか、やぶ睨みと評される目をぎろりと――本人的にはちらり、と傍らの

少女に向ける。目当ての人間が起きたのを見て、声をかけた少女はにこー、といつも通りの

人懐っこい笑顔を浮かべた。



「起きた? しーちゃん」

「……見ての通りだ」



 声には胡乱さが滲み出ている。これで少しでも不機嫌さが伝わってくれればと思うが、目

の前の少女には、そんなことなど気にしている様子は微塵も感じられない。。それどころか、

気付いているかどうかも怪しかった。決して鈍感ではないはずなのだが、何故なのだろう。

自分が絡むと、この少女のネジはちゃんと止まっているものさえ、揃って緩くなっているよ

うな、そんな気がする。



 今は春先。静月にとって第二の故郷と言ってもいい、鹿児島県鹿児島市――神咲宗家、そ

の裏山である。修行場の一つでもあるそこは現代においても自然を多く残しており、所々に

見られる陽だまりは、長期の休みの度に修行に明け暮れた静月にとって、馴染みの深い憩い

の場でもあった。



 今日は修行も休みであるから、久しぶりに惰眠でも貪ろうかと朝も早くから起き出し、山

道を三十分ほど行った先にある憩いの場その3――要するに、今の今まで寝転がっていた場

所にいた訳なのだが、少女に見つかりこの有様だ。



 せっかくの休日を邪魔されることなどないよう、誰にも見つからぬように抜け出してきた

つもりだったのだが……目の前の少女には、そんな小細工など欠片も効果はなかったらしい。

見た目は鈍くさいくせに、少女は犬のように鼻が利くのだ。

く。



「で、何のようだ? 声をかけたかっただけ、何てつまらない理由で俺を起こしたのなら、

一週間下僕コースだぞ」

「そのコース凄く魅力的だけど、ちゃんと御用はあるよ。薫様が、しーちゃんのこと呼んで

るの」

「宗主が?」

「うん」



 何が楽しいのか静月には理解できないが、少女はまだにこにこと笑顔を浮かべている。主

人を前にした子犬のような笑顔だった。血統書がついているような上等なものではなく、ど

こにでもいるような雑種。しかし、人懐っこさだけは他に類を見ない……少女はそんな犬だ。



 その人懐っこさは決して嫌いではない。だが、鬱陶しく思うことがあるのも事実だ。過去

に起こったことを全て足しても、片手の指でおつりが出るほどの回数ではあるが、実際に我

慢が臨界点に達し、少女に手を上げたこともある。



 だが、本当にそうなっても、少女は静月を見て、何をするでもなくそこにいた。謝れとも

言わない、泣きもしない。ただ、静月の言葉を、行動を待ってそこにいるだけだった。静月

が居た堪れなくなってその場を離れようとすると、少女は付かず離れず、後をついてくる。

そうして次の日には、今までどおりの関係に戻るのだ。



 一時は、少女のことを理不尽だと思った。それを通り越して面妖だと思ったこともある。

だが、本当に拒絶したことはない。どんなに鬱陶しくても理不尽でも非常識でも、少女がそ

こにいるのが、いつの間にか静月の自然になっていた。



 もっとも、少女が二目と見れぬような不細工であれば、静月もあっさりと突き放していた

だろう。だが幸いにも、少女はとても愛らしい顔立ちをしていた。少々華奢なのが難

点だが、母親に似て美少女と言っても差支えがない。



 静月が少女に関して神に感謝することがあるとすればその一点だけで、それ以外は実に迷

惑だ、と公言することにしているのだが、他人には付き合っているようにでも見えるのか、

二人でいると非常に生暖かい目を向けられる。共に帰宅部であることも、バイト先が同じで

あることも拍車をかけている節があるようだった。静月に言わせればそれは『たまたま』な

のだが、色気づいた小学生の頃から何度説明を繰り返しても、他人は中々理解してはくれな

い。





 閑話休題。





「何のようだ? 聞いてるか?」

「えーっとね……分からない」

「忘れた、じゃなくてか? 緊急招集を忘れた、なんてオチだったら下僕二週間」



 過去に大恥をかいた経験を、思い出したくもないのに思い出し、静月の顔に苦い表情が浮

かぶ。



 あの時の原因もこの少女だったが、お咎めを受けたのは何故か静月一人だったのだ。宗主

である神咲薫は寛大な心で許してくれたのだが、面白がった静月の両親に、三日三晩に渡っ

て扱かれ続けたのである。今でもあの時の修行、という名を借りた別のナニカは体調が悪い

時などに夢に見る。ついでに言うならその時の仕返しこそが、彼女に手を上げた数少ない一

つでもあるのだが、それはこの際あまり関係がない。



「ほんとに聞いてないよー。でも、呼ばれたのはしーちゃん一人じゃなくて、私と、他にも

何人か呼ばれてるみたい」

「なるほどな……」



 少女も一緒に呼ばれた、という件で得心が行った。宗主からの呼び出しに、自分と少女を

含めた数名。今現在神咲宗家にいる人間まで鑑みれば、呼ばれたのは『霊剣使い』の見習い

であると推察できた。



 出てきたのは、ため息だ。静月は少女を除いたほかの見習いのことがあまり好きではない

のだ。



 『霊剣使い』というのは、退魔の道に生きるものにとって一種の憧れである。式具として

高性能であることもさることながら、肝心の霊剣が日本に六振りしかないこともそれに拍車

をかけているのだ。三十数年前までは神咲が所有する霊剣は宗主の証である『十六夜』だけ

だったのだが、ある事件によって霊剣『御架月』が回収されたことによって、事情が大きく

変わった。



 今まで宗主しか振ることの叶わなかった霊剣を、それ以外の人間も振るうことができるよ

うになったのである。これに神咲の一派に名を連ねるものが狂喜したのは言うまでもなく、

有力者の家系は揃って見込みのあるものを選出し、修行にあたらせた。



 そんな家の使命を理解し、また自らも望んで修行を行っている彼らは、敵愾心が丸出しな

のだ。神咲に名を連ねる以上、共に戦う仲間であるべきと静月は考えているが、彼らの自分

を見る目は祓うべき霊障を見るそれに等しい。



 現在の『霊剣使い』が自分の父であることも関係しているのだろうが、それにしたって、

彼らの雰囲気は静月にしてみれば異常だった。おかげ様で、宗家で気軽に話せる人間は、こ

の犬のような少女を含めても十人に満たない。同じくらいの年代となればなおさらだ。でき

ることなら彼らとは係わり合いになりたくないのだが、宗主からの呼び出しとなればそうも

言っていられない。



 呼び出す対象でもあるこの少女が呼びに来たということは、他の連中はもう集まっている

のだろう。居並ぶ連中の前に、最後に顔を出さなければならないことに、さらに気分が重く

なる……



「お前の感性が、時々うらやましいよ」

「んー? 私はしーちゃんの方が凄いと思うよ。かっこいいもん」



 にこにこと、微妙に会話がかみ合わない。少女も重圧を感じていないはずはないのだが、

見た目からはそれは感じられない。これでは、胃の痛みを感じている自分だけが馬鹿みた

いだ。



「……走っていくぞ。俺を追い越すなよ」

「わかってるよー。ちゃんと、しーちゃんの後ろを走る」

「上出来だ」



 言って、体内に霊力を巡らせ走る。霊力による身体強化である。神話、民話に聞くほどの

成果は得られないが、それでも何も知らない人間からすれば目を剥くほどのスピードで荒れ

た山道を整備された運動場のように、軽やかに駆けていく。



 剣術はまだまだ未熟だが、霊力を扱うことに関してなら静月は自信があった。物覚えも決

して悪くはないと思う。退魔以外の術も年の割りには幅広く習得しているし、一つ一つの能

力も決して悪いものではないという自負もある。



 たった一つのある要因がなければ、実の親が当代の霊剣使いであるというアドバンテージ

を差し引いたとしても、自分が霊剣使いに相応しいと思うことができたのだろう。



 それを悔しいとは思わない。何故ならその要因である少女は、一言で言うならば天才だっ

たからだ。その少女は今、静月の後ろを走っている。にこー、といつもの笑顔を浮かべて。



 剣術でも、退魔能力でも、それに関する知識でも、術の精度や威力でも、あらゆる点に

おいて静月を凌駕するその少女の名前は、高町美那という。



 それが次代『霊剣使い』、最有力候補の名前だ。

 



















 高町美那は父恭也、母那美の間に生まれた。二人は学生のうちに知り合い、紆余曲折あり

ながらも、愛を育み結ばれたのだと静月は聞いている。『女泣かせな男だったよ』というの

は静月の母、リスティの弁であるが静月の見る限り恭也は随分と一途な男だった



 ともあれ、那美の卒業を待ってから、彼らは結婚をする予定だった。急に結婚の話が決ま

った影には、その時には既に那美のお腹の中には美那がいたという事情があった訳だが、卒

業を前に一つの問題が持ち上がった。



 弟か、妹か、その時点ではまだ判明していなかったが、生まれる前の子供に兄弟がいるこ

とが判明したのだ。もちろん、それは那美の子供ではなく、父である恭也が別の女性との間

に作った子供であるのは言うまでもない。



 その事実にまず那美の義父である一樹が激怒し、ついでその女性の素性を知って、親類一

同が激怒した。



 女性の名前は月村忍。日本における『夜の一族』三家の一角、月村に名を連ねる女性だっ

た。



 今でこそ『夜の一族』の存在は世間に公表されているが、当時はまだ秘密の存在。おまけ

に那美の実家、神咲は代々、魔を祓うことを生業としてきた。この事実を承服できるはずも

なく、恭也と那美は揃って鹿児島に召喚されることと相成った。



 親類一同から浴びせられる罵倒の嵐。そんな中、恭也も那美も、一言も反論をしなかった。

世間的に見て、誰が悪いのかということを最も理解していたのは彼らだったのだ。そうなっ

てしまったことを恭也は後悔していなかったし、那美ももう一人の母である忍も後悔してい

なかった。何があっても後悔はしない、それは三人で話し合った末に決めたことだった。



 しかし、何を言っても言われるだけの二人に、ついに親類の一人が木刀を手に取った。彼

らの間で恭也の腕前はよく知られている。まともに戦えば及びもつかない実力差があるのは

周知のところであったが、今の恭也が反撃などするはずもない。止める声のないことを幸い

に、その親類は木刀を大きく振り上げ――



 吹き飛ばされた。



 一瞬で木刀はへし折られ、ついでに顔面から流せる液体を流せるだけ流しながら、その親

類は床に転がったのである。敵ばかりの中に、味方がいたのだ。



『かわいい妹の門出に水をさしたとあっちゃ、兄失格ってもんだろ?』



 親類一同の疑問の怒号に、彼――神咲和真は木刀を肩に担ぎながら、笑って答えた。その

隣では那美の双子の弟である、北斗もいる。若輩とは言え――それに北斗にいたっては那美

と同じく養子であったが――二人は共に本家の男子だ。いかに親類一同の方が数が多いとは

言え、その発言を軽く扱うことはできない。



 大体にして、彼らの行動は『本家の人間も腹を立てている』ということを前提に行われて

いたものだ。その本家筋の人間に反旗を翻されては、振り上げた拳も止まる。加えて、



『真鳴流は、二人の門出を祝福します。これは一門の総意とお考えください』



 同席していた真鳴流の当代――今では先代だが――神咲葉弓が、一同を見回してそう付け

加えた。元々、『夜の一族』との融和を前面に押し出していた彼らにしてみれば、当事者が

納得しているのならば、異論をさしはさむ余地はない。



 神咲は大きく分けて、三派に分類される。一灯、楓月、真鳴の三派だ。規模は一灯が抜き

ん出ており、他の二つはそれに従っているという認識が内外共通であったが、一門の意見と

なれば無視できるほど軽いものではない。さらに、



『俺も、どっちかといえば支持ですね。ご近所さんでもあるし、本人たちが納得してるなら

いいんじゃないですか?』



 神咲最高の霊力を誇り霊剣使いでもある槙原耕介の言葉が、それに拍車をかけた。一同の

視線が宗主である薫、そして実質的な最高権力者である神咲和音に集まる。薫は和音を見やり、

彼女が重々しく頷いたのを確かめると、大きく大きく息を吐き、それでも当の二人を優しい

眼差しで見やると、



『一族で祝うことはできない。恭也君と那美には、神咲への出入りを極力控えてもらうことに

なる。それでもいいなら、うちと先代は認めよう」



 それは実質的な、神咲としての許しだった。最悪、イギリス辺りに駆け落ちすることまで

考えていた那美はこれに涙し、深々と頭を下げたのだった。

































「全員、揃ったようじゃな」



 美那に連れられたのは、本家内部の大広間……静月や美那は勝手に会議室と呼んでいるだ

だっ広い部屋だった。神咲にとって重要な決定はここで成される、そう静月は聞いている。

美那の両親が決死の告白をしたのもここだ。



 自分を快く思っていない同門者の嫌な視線を全身に浴びながら、美那と共にその末席に座

した。上座には、現神咲一灯流宗主、神咲薫。齢は既に四十を超えているはずだが、姿形や

立ち振る舞いからはとてもそうには見えない。自分と同年代に見えるとは流石に言えないが、

普通の格好をしていれば妙に落ち着いた大学生、くらいなら十分に通じるだろう。



 高位の退魔能力者は老化が遅い……世間に限らず同業者の中でも囁かれる『噂』であるが、

体現者を前にするとその信憑性も一入だった。



「諸君らに集まってもらったのは他でもない。霊剣『御架月』についてだ」



 その場にいた同門者が、息を飲んだ。彼らは人生をそれに賭けてきたと言っても過言では

ない。幼い頃から修行にあけくれ、ここまできたのだ。もはや全員が退魔師として一線級と

言ってもいいほどの実力者であるが、霊剣の補助を受けた霊剣使いはさらにその上を行く。

霊剣に対する思いは憧れを通り越して崇拝に近い。



「そろそろ候補者を絞る時期に来たと、十六夜、先代との協議の結果判断した。無論、退魔

は死と隣り合わせの生業。候補から外れた者にも引き続き精進は続けてもらうが、選抜され

たものには実際に霊剣を使っての修行を行ってもらうことになる」



 興奮している同門者はそれに気付いていないのだろう。霊剣は日本には六振りしか存在し

ないのだ。うち、神咲が所有しているのは二振り、宗主の証である十六夜と、耕介の持つ御

架月である。どちらも練習がしたいからと言って、おいそれと貸せる代物ではない。



 つまり霊剣を実際に持つということは、それを継承するということだ。霊剣使いになれる

ということだ。退魔の道を歩むものなら、誰もが一度は憧れる霊剣使いに。



 しかし、興奮する同門者とは反対に静月の心は冷めていた。その冷めた目で薫を見やる。

こちらの真意を察したのだろう、薫は僅かに目を細めた。苦労をかける……そんな目だ。

それだけでこれから起こることに確信を持った静月は、僅かに位置を移動して美那を背後

に隠した。



 頭の上にはてなを浮かべる美那をよそに、薫は傍らの刀――本来なら耕介の下にあるはず

の霊剣『御架月』を、こちらに向ける。



「受け取れ、美那。これはお前が持つべきものだ」







「お待ちください、宗主!」



 予想通りの内容の怒号が、予想通りの人間の口から上がった。つまりは、静月と美那、薫

を除いた全員からである。無論全員が同じ言葉を口にした訳ではないが、要約すればそうい

うことだと、静月は投げやりな気持ちで判断した。



「なんじゃ、不服か?」



 薫の目がつい、と細まる。



 現役の退魔師、それも神咲を束ねる霊剣使いの無言の気迫に同門者たちは一瞬怯むが、自

達の一生がかかっていることを瞬時に思い出し、再び口から泡を飛ばした。



「我らはこれまで、霊剣使いとなるために過ごして参りました。あれを選ぶというのなら、

その理由をお聞かせ願いたいっ」



 あごの先で美那をあれ、とぞんざいに示す男に静月は腰を浮かし――



「座れ、静月。私の前だ」



 動きを止めた。



 体が重い。あくまで体感での話ではあるが、これと同じ現象を静月は何度も体験している。

自分の家で、高町の家で、耕介に、恭也に、何度も向けられたもの……指向性のある殺気だ。

静月だけを狙って、薫が発している無言のプレッシャー。動けないというほどでは、もちろん

ない。だが、そこに込められている薫の意思は感じられる。



(手を出すな? そんなこと言ってる場合かよ)



 同門者は理由を求めているが、そんなものは一つしかない。それはここにいる誰もが知っ

ている。解っている。高町美那が御架月を継ぐ理由など、たった一つしかない。



「高町美那が、お前達の中で一番優れているからだ。これ以上の理由があるか?」



 あるはずがない。ここにいる薫以外の人間が、美那よりも優れた成果を出したことは一度

もないのだから。優秀さを引き合いに出されては、誰も反論のしようがない。文句をつける

という行為自体が笑い話にしかならないほど、美那との自分たちの実力はかけ離れている。

それは誰もが知っていた。



 だが、それでも連中の反論は続く。ここで美那に御架月を持って行かれては、彼女が現役

を退くまで待つことになるのは明白だ。彼女は何かに負けて死ぬなんてことは、絶対にあり

えないのだから。



「お言葉ですが、高町美那が霊剣使いにふさわしいとは私には思えません。霊剣は神咲の至

宝。それを破門された者の娘に渡すのは、神咲の歴史の泥を塗る行為かと――」

「ほう。宗主の前で神咲を語るか?」



「そのような……」

「それに破門されたのは美那の両親であって、美那ではない。霊剣を至宝とお前は言うが、

離れてみてみれば所詮は優れているだけで、ただの道具だ。優れた道具を優れた者が扱う……

なぁ、うちはそんなにおかしなことを言っおるのか?」

「しかしながら!」



 男はまだ諦めない。二人のやり取りを見ていた他の同門者も、口をそろえて宗主に詰め寄る。



 それを天から垂れた蜘蛛の糸に群がる亡者のようだと思うのは、静月だけなのだろう。美

那ほどではないが、静月も霊剣にはそこまで執着していない。親がたまたま霊剣使

いで、自分にもたまたま高い霊力があったから修行に付き合っている……静月にしてみれば

その程度だ。どうしても霊剣が欲しい訳ではなかったし、それが他人の手に渡るのもどうと

言うことはない。



 きっと、最初から解っていたのだろう。自分はただ、他の連中よりも諦めがよかっただけ

なのだ。ついさっき、薫が言ったことを静月はただ誰よりも早く確信したに過ぎない。



 『次の霊剣使いは、高町美那である』



 それは槙原静月にとって、物が下に落ちることよりも当たり前のことだった。誰よりも近

くで少女を見てきたのは、自分であるという自負が静月にはある。一対一で彼女に勝つなど、

人間では不可能だ。彼女を殺すことのできる人間がいるとすればそれは……



(俺だけ……か?)



 それもまた、美那に関する自負の一つである。何の自慢にもなりはしないが、これもまた

確信だ。自嘲気味に苦笑を浮かべると、静月は背後の美那に――





「恐れながら申し上げます」



 いなかった。自らを背後に押しやった静月に悟らせぬまま、美那は彼の前に立ち、言い合う

一同を見渡してそう言った。それは静月の見慣れた犬のような彼女ではなく、毅然とした御神

の剣士の姿であった。



「宗主、私を霊剣使いにご指名に?」

「それ以外に聞こえたか?」

「いえ。私にもそのように聞こえました。ですから、辞退いたします。私は霊剣使いに相応

しくありませんので」



 言い合っていた連中が、沈黙した。霊剣は退魔師にとって最高の名誉である。それを断る

ような人間がいるとは思っていなかったのだ。最大のライバルである美那が申し出を断るこ

とは、彼らにしてみれば願ったり叶ったりであるのだが、あまりのことに思考が付いていか

ない。



 その隙間を付いて、美那はさらに言葉を続ける。



「ですが、そちらの方々に受け継がせるのは我慢がなりません。そこで提案があります。聞

いていただけますか?」

「内容による。まぁ、申してみよ」

「……私と戦わせてください。私は一人、彼らは全員、それで構いません。ただし、今ここ

で、です。ついでに言えば私を倒せとは申しません。私に一度でも触れられたら彼らの勝ち

……如何でしょうか、宗主。決して悪い案でもないと思うのですが。私に触れられるくらい

の実力があれば、霊剣使いを名乗るにも申し分はないかと」



 一欠でも知能があれば、見下されていることは理解できる物言いである。これが傲慢から

くるのであれば怒りも沸こうものだが、美那は事実を言っているに過ぎない。だから、連中

に怒りはないどころか、そんな条件でいいのかと喜色が浮かぶほどだ。薫は顔に手を当て、

唸り。



「問うが、お前は霊剣使いになるつもりはないんか?」

「ありません。私には、向いていませんから」

「そうは思わんが、まぁいい。本人が言うのなら、そうなのだろう。よろしい、高町美那の

物言いを認める。この場で、決着を付けるがいい。静月、お前はこちらに」

「ちょっと待ってください!」



 一人除け者になった静月は、遅ればせながら抗議の声を上げる。



 既に戦うつもりになっているらしい同門者たちは、何を今更、とでも言いたげな面で静月

を見やっている。今更も何も、そんなことは認められない静月は、美那を睨む。



 普段であれば、これで事が足りる。彼女が自分の言うことを聞かないなんてことは考えら

れない。やめろと自分が言えば、何でも彼女はやめただろう。



 だが、彼女は御神の剣士の顔をしていた。犬のような笑顔をどこかに忘れてきたような真

剣な顔のまま静月を見返し、ゆっくりと首を横に振ったのである。



 彼女が逆らった、その事実に一瞬で頭に血が上った静月は大声をあげかけ――寸前で止め

た。犬のようではあるが、彼女は本当に犬なのではない。普段そうであるのは、彼女はそう

したいからしているだけであって、自分が強制できるような立場にいるのではないことは、

心の片隅にではあるが、理解はしていた。



 今の彼女は剣士であり、退魔師であり、ついでに言えば使命に燃えている。それを犬とし

て扱うのは、人間として彼女の幼なじみとして、そして何より男として、非常に格好悪い。



「下僕、三週間な」



 それでも捨て台詞のようにそうはき捨て、薫の隣に正座する。



 それを合図にしたように、同門者と美那は会議場の両端に散った。手には何も武器は持っ

ていないが、彼らは皆退魔師である。無手での戦いも修めているし、霊力を駆使した技法に

は武器を必要としないものもある。



 お互いに無手。そこだけを客観的に見れば、条件は対等だ。男十人に女一人という

あまり褒められたものではない構成ではあるが、この場にいる人間は全員理解している。こ

れでもまだ、対等ではないと。



「では、よいか?」



 薫が右手を高々と上げる。腰を落として精神を集中する同門者達。対する美那は何をする

でもなく、ただ彼らを見返すばかりで、とても戦いを前にした人間には見えない。



「はじめっ!」



 男達が動く。美那は僅かに首を傾げ――それで終わった。



 どさどさと、気を失った男達が一斉に崩れ落ちる。それで一切の興味を失った美那は静月

の方に向き直り、いつものように子犬のような笑顔を浮かべた。『褒めて褒めて〜』と、心

の声が聞こえそうな気さえする。頭が痛い……



「出来レースって、面白くないですね」



 彼ら程度の実力ではどれだけ徒党を組もうが、神速の領域に在る御神の剣士に勝てるはず

がないのだ。美那が何をするのか分かっていた――戦う前に首を傾げるのは、首に手刀を打

ち込むという合図だ――静月でさえ目で追えてすらいないのだから、連中はどうして自分達

が倒されたのかすら理解できなかっただろう。



 静月にすれば予定調和だが、彼らにすれば一世一代の大勝負だったはずだ。美那に負けて

ほしかった訳ではもちろんないし、彼らのことは好きではないが、起き上がってからの心情

を思うとどうにもやるせない。



「そう言うな。通過儀礼じゃよ。奴らを黙らせるには、一番手早く確実じゃ」

「分家の方々には話はついてるんですか?」

「無論。その足でここに来た。知らぬのは、こやつらだけじゃったろうな」

「後は、俺って訳ですね……」

「その通り。察しが良くて話が早い。難しい話をするのは、いけ好かん連中の前だけで沢山

じゃからな」



 はっはっは、と悪びれた風もなく薫は笑う。



「で、発案者は誰なんです?」

「耕介おじさんだよ。しーちゃんにシルヴィ君を渡したいから、一芝居打ってくれって」



(あのクソ親父……)



 出かけに妙にそわそわしていたのは、そういうことだったらしい。普段は勝手に行けと放

り出すような男が、鹿児島までの旅費を出してくれたその時に、何かが可笑しいと気付くべ

きだったのだ。



「宗主、何故あのクソ親父の案になんて乗ったんです?」

「乗った訳ではないよ。うちは最初からお前に御架月を継がせるつもりでおったからな」



 初めて聞いた。宗主からはもちろん、耕介からだって何も聞いていない。



「……いつからですか」

「耕介さんに連れられて、お前が鹿児島に初めて来たその日に婆ちゃんと話し合って決めた」

「最初からじゃないですかっ!!」

「人間的に問題が出れば候補からも外しておったが、耕介さんの息子じゃし、それもなかろ

うと思っておったよ。実際にお前はまっすぐに育ったし、何より霊剣を扱うことに関してだ

ったら、美那よりも技量は上じゃろう?」



 それを言われては、反論ができない。



 練習をすればいずれ美那が抜くのだろうが、御架月を扱うことに関してだったら、静

月は辛うじて美那に負けない自信がある。海鳴で修行をする際には、必ず御架月を持たされ

るからだ。それも毎晩。物心付いてから寮にいない時以外はほとんど、それを欠かしたこと

はない。



 使えるに越したことはないと思って今まで文句を言わずに続けていたが、今にして思えば

最初から耕介も自分に御架月を継がせるつもりだったのだろう。そうなのかな、とは頭の片

隅には思っていたが、まさか本気だとは思ってもみなかったのだ。



 何より自分に熱意がないことを、静月は理解していた。それに近くには生まれの不利を補って

あまりあるほどの才能を持った美那がいた。どこぞの馬の骨の手に渡るのならばいざ知らず、彼

女ならば友達を任せても安心だろうと、ずっと思っていたのだが。



「なぁ、美那。お前は御架月を継ぐつもりはあったのか?」

「ないよー。最初から、しーちゃんにあげるつもりだったもん」



 実力順なら継承者は自分になる、ということは理解していたらしい。向こうで気絶してい

る連中なら、『あげる』のくだりでキレていたことだろうが、美那に言葉が足りないのはい

つものことだ。



「俺はお前が継ぐもんだと思ってたよ」

「なんで? しーちゃんが使ったほうが、シルヴィ君も喜ぶよ?」

「そりゃあそうだろうけどさ。お前の方が強いだろ?」

「私は強いけど、それだけだもん。シルヴィ君と一番仲がいい訳じゃないし」

「退魔は友達付きあいでやる訳じゃないだろ? 今からでも遅くないから、お前が継げよ」

「や」



 拒絶された。初めてのことだ。基本的に何でも言うことに従う美那が、反論したのだ。



「……あー、嫌なのか?」

「うん。私、シルヴィ君のこと好きだけど、一緒には戦えないよ。私が一緒に戦いたいのは

しーちゃんだけだもん」



 あいもかわらずにこにこ、にこにこ。薫は嫌味ったらしくそっぽを向き、両手で耳を塞い

で何かを抗議している。何処かへ行けとでも言っているのだろうか……意地でも行かない。



「お前、そういうところ自分勝手だよな」

「しーちゃん第一なんだよ」

「恭也さんが聞いたら、泣くんじゃないか?」



 恭也もいい年をした大人であるが、美那に言い寄ろうとしているという『噂のある』柄の

悪い男を、路地裏に連れこんで半殺しにする程度には娘煩悩だ。愛する娘の口からそんな言

葉を聞いた日には、呼吸困難にでもなるのではなかろうか。



「ご飯の時にはいつも言ってるから、もう慣れたんじゃない? それにお父さんにはお母さ

んがいるもん、寂しくないよ」



 美那の答えは予想の斜め上を行っていた。しばらくは、恭也の顔をもまともみ見れそうに

ない。海鳴に帰れば、ほぼ確実にバイト先で顔をあわせることになるのだが……五体満足に

帰ることができるか、今から無駄に心配だ。



「で、だ。お前はどうするんじゃ? 御架月を継ぐのか?」



 他に選択肢などないくせに、薫は意地悪く問いかけてくる。退魔の師匠としてこの人のこ

とは尊敬しているが、普通の会話をする分には昔からどうにも相性が悪い。



「継がないって答えたら?」

「耕介さんい連絡することになっとるよ。あの人とリスティの二人で説得されれば、お前の

意見も変わるだろうさ」

「やっぱり、選択肢はないんですね」

「流派の存続に関わることじゃ。優秀な人間が、優秀な道具を使う……そこに何か問題があ

るか?」

「なら、美那が継げばいいじゃありませんか」

「お前も優秀には違いない。問題はなかろう」



 答えは一つしかないらしい。



「継げばいいんでしょう?」

「あぁ、継げばいい。そして世のため人のために働いてくれるなら、なお良いな。元々仕事

も結構な量をこなしていたし、その辺りは問題なかろう。本格的に霊剣使いとして働くのは

新学期からになるが、バイトのシフトは代えが効くよう桃子さんにも既に話は通してある」

「確信犯?」

 

 静月の目つきが、胡乱なものに変わる。バイトをしているのは金以外の重大な目的もある

ので、シフトをかってに減らされるのは非常に困るというか、ムカつくのだ。



「うちは常に、大局的なことを考えているのじゃよ」

 

 おまけに犯人には、悪びれた様子がない。雇い主との付きあいの長さは残念ながら向こう

の方が上だ。桃子も自分に良くはしてくれるが、基本面白いもの好きの彼女なら、薫の意見

を支持するだろう。適当に人が困っているのを見るのが、あの人は結構好きだから。



「……本音は?」

「お前を見ると、リスティを思い出す。そんなお前が困ってるのを見るのは、少しばかり気

分がいいのさ」



 そしてオチは逆恨みときた。耕介を巡って水面下で争った仲と聞いているが、宗主にもそ

んな時期があったのかと思うと、不思議な気持ちになる。おまけに薫はいまだに独身で、子

供もいない。ついでに言えば、そんな女性の知り合いが両親には少しばかり多い……



 実の父だからこそ、思う。ああいう人間にはなりたくはない。





「しーちゃん、しーちゃん」

「何だ、下僕。ちなみに期間は一ヶ月まで延長された。明日からといわずたった今からこき

使ってやるから、覚悟するように」

「下僕は構わないよ、奴隷でもいいし。でも、言い忘れてたことがあるの、聞いてくれる?」

「先に言っておくことが出来た。そういう不穏なことは絶対に人前で言うな、で?」

「うん、あのね、和沙ちゃんと一緒に出かけることになってるの。しーちゃんも一緒だよ?

もう約束の時間も過ぎてるの。和沙ちゃん待ってるはずだから、早く行こう?」

「おい、下僕……」



 他人の予定まで決められるほどに、いつの間に目の前の犬っころは偉くなったのだろうか。

物心ついた時から彼女の立ち位置は犬っころだが、たまにどこか結構、この犬は主人の都合

を考えずに行動し、巻き込む。



 しかも今回は相手も悪い。和沙というのは、神咲和沙。年は静月達よりも二つ下であるが、

彼女の父は神咲一刀流当代、神咲和真であり、一灯当代の薫に子供がいないことから、十六

夜の後継者でもある。つまるところ、静月達の未来の上司なのだ。立場で言うなら彼女の方

が三つも四つも上である。その約束をすっぽかしたとなれば、分家筋の連中に何を言われる

か解ったものではない。



「だから急ご、ね?」

「…………宗主」

「行って来い。御架月はとりあえずうちがあずかっておこう。海鳴へ帰る時には持っていく

ように。それと、耕介さんにはちゃんと受け継ぎの挨拶をするようにな」

「一度くたばりやがれ、このクソ親父……確かにそう伝えます」



 苦笑する薫に背を向け、走り出す。尻尾があったらぶんぶんと振っていそうな笑顔で後ろ

に付く美那には、決して声をかけない。かけたら、絶対に調子に乗るからだ。褒められるこ

とを期待しているようだから、絶対に褒めてはやらない。



「おい、下僕」

「なーに、しーちゃん。あ、ご主人様とか呼んだほうがいい?」

「…………美那」

「ん?」



 足を止めると、美那もそれに倣った。決して静月を追い越したりはしない。彼女の居場所

はいつも、隣か、少し後ろなのだ。



 にこー、と子犬のような笑顔を浮かべて、美那は続く言葉を待っている。何か言わなけれ

ばいけない言葉があるような気がするが……その笑顔を見ていると、急速に何もかもがどう

でもよくなる。



「…………悪い、なんでもない」

「えー、何でもないの?」

「何でもない! 気にするな!」

「わかったよー、気にしないね」



 その笑顔が何故かとてもとても憎たらしくて、静月は彼女の頭をパーで叩いた。きょとん、

と美那は静月を見上げるが、抗議をするでもなく笑顔を浮かべ続けていた。